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ウラジーミル・スヴャトスラヴィチ (リャザン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウラジーミル・スヴャトスラヴィチ
Владимир Святославич
ムーロム公
リャザン大公
在位 ムーロム公1147年 - 1149年
リャザン大公1153年 - 1161年

死去 1161/62年
子女 ユーリー
家名 リューリク家
父親 ムーロム公スヴャトスラフ・ヤロスラヴィチ
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ウラジーミル・スヴャトスラヴィチロシア語: Владимир Святославич、? - 1162年)は、最初のリャザン大公(在位:1153年 - 1161年)である。他にムーロム公(在位:1147年 - 1149年)。父はスヴャトスラフ・ヤロスラヴィチ

生涯

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1146年の秋、ペレヤスラヴリ公イジャスラフと対立していたノヴゴロド・セヴェルスキー公スヴャトスラフの援軍に向かったが、逆にノヴゴロド・セヴェルスキー軍により、ムーロム公国からの逃亡を余儀なくされた[1]1147年4月4日、ウラジーミルはスヴャトスラフ、その子のオレグ、スヴャトスラフ揮下の貴族(ボヤーレ)ピョートル・イリイチらと共に、ユーリー・ドルゴルーキーの待つモスクワへ向かった[2]。同年秋にはムツェンスクへのスヴャトスラフの遠征軍に参加した。

1159年ウラジーミル大公アンドレイ (ru) が、フシチイシュ公スヴャトスラフとそのおじのイジャスラフへ援軍を送り(この時、スヴャトスラフ・イジャスラフは、チェルニゴフ公国キエフ公国の公位をめぐり、スモレンスク公国ヴォルィーニ公国ガーリチ公国の諸公からなる連合軍と争っていた。)、ムーロムの連隊もこれに参加した。

ウラジーミルは1161年[3]または1162年に死亡し[4]、リャザン公位にはいとこのグレプが復位した。息子のユーリーはムーロム公となった。

出典

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  1. ^ Ипатьевская летопись // Полное собрание русских летописей т. II. М., 1962, стр. 329.
  2. ^ Полное собрание русских летописей т. II. М, 1962, стб. 340; т. VII, стр. 38.
  3. ^ В Воскресенской летописи // Полное собрание русских летописей т. VII; стр. 75
  4. ^ Ипатьевская летопись // Полное собрание русских летописей т. II. М., 1962, стб. 519.

参考文献

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先代
ロスチスラフ・ヤロスラヴィチ
ムーロム公
1147年 - 1149年
次代
ロスチスラフ・ヤロスラヴィチ
先代
グレプ・ロスチスラヴィチ
リャザン大公
1153年 - 1161年
次代
グレプ・ロスチスラヴィチ