ヤベオオツノジカ
ヤベオオツノジカ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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国立科学博物館所蔵の全身骨格
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分類 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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学名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Sinomegaceros yabei (Shikama, 1938) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヤベオオツノジカ |
ヤベオオツノジカ(Sinomegaceros yabei)は、30万年前から1万2千年前頃(新生代第四紀中期更新世 - 更新世末)の日本列島に生息していた大型のシカである。
分類
[編集]シカ亜科の中で1グループを成すオオツノジカ族に分類される。
属名は「中国(Sino)」+「巨大な枝角(Megaceros)」を意味する。同属の別種が中国大陸から発見されている。
「ヤベオオツノシカ」とも表記される場合があり、日本語名が同じ「オオツノジカ」を冠するものの、ギガンテウスオオツノジカ(Megaloceros giganteus)とは別属別種とされる。
特徴
[編集]肩高1.8m、体長2.6mに達した大型の鹿である[1]。オオツノジカ族は頭の上に1対の大きな角を発達させており、角の違いが形態的に最も目立つ特徴とされる。
ヤベオオツノジカの角は、頭骨に付着する根本のすぐ近くで前後に分岐する。後ろに分岐した骨(主幹)は、柱状に長く後方外側に伸びてから、掌の形に平らに広がる。前方に分岐する骨(眉枝)は、これと90度の角度で上方に伸びてから、やはり掌の形に広がる。下顎骨の厚みは中程度である[2]。
中国産の同属 S. sangganhoensis と S. flabellatus も似た特徴の角を持つが、後方外側に伸びる主幹柱状部の方向が異なる。すなわち、ヤベオオツノジカの場合には外側への傾きが弱く、対になる左右2本の主幹柱状部が作る角度が70度以下であるのに対し、他の2種は外側に張り出す傾向が強く、左右がなす角度は90度を越える[3]。た下顎骨長と下顎枝の高さ、臼歯の大きさと歯列長が同属の他種より大きいといった特徴も持つ[4]。
分布と年代
[編集]発見された化石の分布から、北海道から九州までの日本列島の広範囲に分布していたと考えられている。ユーラシア大陸では確認されていない日本列島の固有種であり、ナウマンゾウやハナイズミモリウシなどとともに、後期更新世の日本列島の代表的な大型陸棲哺乳類であった[5]。
本州では多数見つかっているのに対し、北海道での発見は由仁町から出た角[6]と忠類村で出土した歯[7]と数少ない。北海道へはブラキストン線を越えて本州から渡っていったと考えられ、その時期は約30万年前[8]または約12万年前[7]とする説がある。同じ時代にサハリンから北海道、東日本から中部日本[9]へと南下したヘラジカと異なり、ヤベオオツノジカは温帯系の動物であった[10]。
もっとも新しい時代の化石は縄文時代草創期であり、広島県庄原市東城町の帝釈峡馬渡遺跡で見つかった約1万2千年前[11]のものや愛媛県西予市(旧東宇和郡)の東宇和郡穴神洞遺跡からの発掘が該当する[12]。
人間との関わり
[編集]後期旧石器時代の人々は、ナウマンゾウやハナイズミモリウシとともにヤベオオツノジカを狩猟の対象にしていた。日本における更新世哺乳類化石の大量出土地としては、長野県にある野尻湖の立が鼻遺跡と岩手県にある花泉遺跡があり、どちらも人間の狩猟・解体によって残されたと考えられている。野尻湖ではナウマンゾウが、花泉ではハナイズミモリウシがそれぞれ最多で、ヤベオオツノジカはどちらの遺跡でも2番目に多い種であった[13]。
発掘と研究
[編集]江戸時代後期に現在の群馬県富岡市上黒岩で掘り出され、地元の蛇宮神社に保管されていた骨が、オオツノジカの角であると判明したのは、20世紀後半に入ってからである。それより前の1938年に、鹿間時夫が現在の栃木県佐野市の石灰採石場から出た角と骨から、シカ属の新種としてヤベオオツノジカを報告した[9]。その後、分類上の位置づけや、他の個体との異同について諸説あったが、近年は日本産のオオツノジカの大多数がシノメガケロス属のヤベオオツノジカと認められている[9]。
脚注
[編集]- ^ 林昭次、2015年、日本にいた絶滅哺乳類・ヤベオオツノジカの成長は速かった、4項(PDF)大阪市立自然史博物館
- ^ 奥村他「岐阜県熊井洞産の後期更新世のヤベオオツノジカとヘラジカの化石(その1)」、19頁、33頁。
- ^ 奥村他「岐阜県熊井洞産の後期更新世のヤベオオツノジカとヘラジカの化石(その1)」、47頁。
- ^ 奥村他「岐阜県熊井洞産の後期更新世のヤベオオツノジカとヘラジカの化石(その1)」、50頁。
- ^ 奥村他「岐阜県熊井洞産の後期更新世のヤベオオツノジカとヘラジカの化石(その1)」、2頁。
- ^ 奥村他「岐阜県熊井洞産の後期更新世のヤベオオツノジカとヘラジカの化石(その1)」、3-4頁。
- ^ a b 北海道博物館 プレスリリース(研究成果情報), 2015.07.31, 道内最古のヤベオオツノジカ化石を確認
- ^ 河村善也「第四紀における日本列島への哺乳類の移動」、254頁。
- ^ a b c 奥村潔, 石田克, 樽野博幸, 河村善也、「岐阜県熊石洞産の後期更新世のヤベオオツノジカとヘラジカの化石(その1)角・頭骨・下顎骨・歯」 『大阪市立自然史博物館研究報告』 2016年 第70巻 p.1-82
- ^ 斎野裕彦『富沢遺跡』、44頁。
- ^ ホットライン教育ひろしま 広島県の文化財 - 帝釈峡馬渡遺跡 広島県教育委員会
- ^ えひめの記憶 愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行) 2 動植物相の変容 愛媛県生涯学習センター
- ^ 佐々木高明『日本史誕生』、37-38頁。
参考文献
[編集]- 斎野裕彦『富沢遺跡』、同成社、2015年。
- 佐々木高明『日本史誕生』(集英社版日本の歴史1)、集英社、1991年。
- 河村善也、「第四紀における日本列島への哺乳類の移動」『第四紀研究』 1998年 37巻 3号 p.251-257, doi:10.4116/jaqua.37.251
- 冨田幸光 文、伊藤丙雄、岡本泰子イラスト 『絶滅哺乳類図鑑』 丸善、2002年、ISBN 4-621-04943-7。
- 野尻湖ナウマンゾウ博物館