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モンケセル

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モンケセルモンゴル語: Möngkeser、? - 1253年)は、13世紀モンゴル帝国に仕えたチャアト・ジャライル部出身の軍人・政治家。

元史』などの漢文史料では忙哥撒児(mánggēsāér)、『集史』などのペルシア語史料ではمنكاسار نویان(Munkāsār Nūyān)と記される。モンケサルとも。

概要

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モンケセル・ノヤンによるオゴデイ諸子の審問・処刑(『集史』「モンケ・カアン紀」パリ写本)

出自

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『元史』巻124によるとモンケセルはチャアト・ジャライル部出身のチラウン・カイチの曾孫で、祖父のチョア、父のノカイらは代々モンゴル帝国に仕えてきた勲臣の家系であった。モンケセルは若い頃からチンギス・カンの末子のトルイに仕え、金朝遠征では鳳翔攻略に功績を挙げた。その剛明さを買われて後にジャルグチ(断事官)とされ、トルイの長男のモンケより重く用いられるようになった[1]

モンケの即位に至るまで

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1236年ジョチ家バトゥを総司令とするヨーロッパ遠征が始まると、モンケセルはモンケ率いる部隊に従軍してルーシアストキプチャク諸国の征服に貢献した。モンケセルは戦闘においては常に先陣に立って数数の武功を挙げる一方、戦利品の宝玉は惜しみなく諸将に分け与えたため、モンケはますますモンケセルを重用するようになった。遠征からの帰国後、モンケはモンケセルに自らのオルドの統治を委ね、モンケセルは紀律でもってこれを厳しく治めた。太后や妃であっても、過失を犯した時にはモンケセルは全てを把握・処理したため、モンケのオルドに仕える者は皆モンケセルを恐れ憚ったという[2]。このようなモンケセルの地位を、『元史』は「位は三公の上にあり、漢語で言う所の大将軍に当たる(其位在三公之上、猶漢之大将軍也)」、『集史』は「[モンケの]御前に控える御家人筆頭(sarwar-i umarāʿ)」、『五族譜』は「断事官の長官で、非常に強力で地位が高く、内務長官であった」とそれぞれ表現している[3]

第2代皇帝オゴデイの死後、モンゴル帝国ではオゴデイの庶長子のグユクを推すオゴデイ家を中心とする勢力と、モンケを推すトルイ家を中心とする勢力との間で政争が起こり、モンケセルもモンケ支持者の一人として活躍した。皇后ドレゲネの政治工作で一度はグユクが即位したが、グユクは即位後数年で亡くなったため、今度はオゴデイの孫のシレムンとモンケとの間で帝位が争われることとなった。シレムンを推す勢力は「生前のオゴデイがシレムンを後継者にしようと述べていた」ことを主張したが、モンケセルは「汝らの言が真実ならば、何故先の帝位選出においてシレムンを推さずにグユクを推戴したのか?」と述べて敵陣営の論理的矛盾をついた。また、モンケが幼少期にオゴデイの下で育てられていた時にオゴデイから「天下は君のものとなるだろう」と語られたことを挙げ、オゴデイがシレムンに天下を与えようと言われたのも仁愛の心から出たその場限りのものであると主張した。モンケセルの熱弁の甲斐あって、最終的にモンケが第4代皇帝に選ばれることになった[4]

モンケ・カアンの筆頭御家人として

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モンケの即位後、これに不満を持つオゴデイ家勢力はシレムンを担ぎ出してクーデターを画策したが、事態を察知したモンケセルは先手を打って敵対勢力を全て捕らえてしまい、そのほとんどを審理の上処刑とした[5][6][7]。この時の粛正によってジェルメ家、イルゲイ家といった建国以来の名家のいくつかは没落してしまい、彼等の業績は後世に残らなくなってしまった。この時の粛正はモンゴル帝国内でも広く知られており、『集史』「モンケ・カアン紀」でも詳述されるほか、『集史』のパリ写本にはモンケセルがクーデターの首謀者を審理する様子がミニアチュールに描かれている。

1253年秋、モンケセルは万人隊長(万戸)に任ぜられたが、それから間もなくして亡くなった[8]。モンケセルの死後、オゴデイ家を始め多数の人々を処刑してきたことによってモンケセルを謗る声が上がったため、モンケ・カアンはモンケセルの子らに「身を立てるに正直であれ、行動を起こすには貞潔たれ。さもなければ、汝らの父を憎む者から敵意を向けられるであろう」という旨の訓戒をしたという[9]

子孫

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モンケセルにはトゴン(脱歓)、ドルジ(脱児赤)、エセン・テムル(也先帖木児)、テムル・ブカ(帖木児不花)という四人の息子がいた。

トゴン

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モンケセルの死後、その後を継いで万人隊長となったが、子供を残さずに亡くなった。

ドルジ

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息子のメンリ・テムル(明礼帖木児)はナヤン・カダアンの乱鎮圧に従軍して功績を挙げ、その孫のエセンは延徽寺卿となった。

エセン・テムル

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ハルガスン(哈剌合孫)という息子がいた。

テムル・ブカ

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息子のパーディシャーは武宗・仁宗・英宗・泰定帝の治世に高官として活躍した。

ヒンドゥクル

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フレグの西アジア遠征に従軍してイラン方面に移住し、ヒンドゥクルの一族はフレグ・ウルスに仕えるようになった[10][11]

チャアト・ジャライル部チラウン・カイチ家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻124列伝11忙哥撒児伝,「忙哥撒児、察哈札剌児氏。曾祖赤老温愷赤、祖搠阿、父那海、並事烈祖……忙哥撒児事睿宗、恭謹過其父。嘗従攻鳳翔、首立奇功。定宗升為断事官、剛明能挙職。憲宗在藩邸、深知其人」
  2. ^ 『元史』巻124列伝11忙哥撒児伝,「従征斡羅思・阿速・欽察諸部、常身先諸将、及以所俘宝玉頒諸将、則退然一無所取。憲宗由是益重之、使治藩邸之分民。間出遊猟、則長其軍士、動如紀律。雖太后及諸嬪御小有過失、知無不言、以故邸中人咸敬憚之。乃以為断事官之長、其位在三公之上、猶漢之大将軍也。既拜命、出帳殿外、欹橐坐熊席、其僚列坐左右者四十人。忙哥撒児問曰『主上以我長此官、諸公其為我言、当以何道守官』。衆皆黙然。又問之、有夏人和斡居下坐、進曰『夫札魯忽赤之道、猶宰之刲羊也、解肩者不使傷其脊、在持平而已』。忙哥撒児聞之、即起入帳内。衆不知所為、皆咎和斡失言。既入、乃為帝言和斡之言善。帝召和斡、命之歩、曰『是可用之才也』。和斡由是知名」
  3. ^ 志茂2013,555頁
  4. ^ 『元史』巻124列伝11忙哥撒児伝,「定宗崩、宗王八都罕大会宗親、議立憲宗。畏兀八剌曰『失烈門、皇孫也、宜立。且先帝嘗言其可以君天下』。諸大臣皆莫敢言。忙哥撒児独曰『汝言誠是、然先皇后立定宗時、汝何不言耶。八都罕固亦遵先帝遺言也。有異議者、吾請斬之』。衆乃不敢異、八都罕乃奉憲宗立之。憲宗之幼也、太宗甚重之。一日行幸、天大風、入帳殿、命憲宗坐膝下、撫其首曰『是可以君天下』。他日、用牸按豹、皇孫失烈門尚幼、曰『以牸按豹、則犢将安所養』。太宗以為有仁心、又曰『是可以君天下』。其後太宗崩、六皇后摂政、竟立定宗。故至是、二人各挙以為言云」
  5. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「元年辛亥夏六月……復大会於闊帖兀阿闌之地、共推帝即皇帝位於斡難河。失烈門及諸弟脳忽等心不能平、有後言、帝遣諸王旭烈与忙可撒児帥兵覘之」
  6. ^ 『元史』巻124列伝11忙哥撒児伝,「憲宗既立、察哈台之子及按赤台等謀作乱、刳車轅、蔵兵其中以入、轅折兵見、克薛傑見之、上変。忙哥撒児即発兵迎之。按赤台不虞事遽覚、倉卒不能戦、遂悉就擒。憲宗親簡其有罪者、付之鞫治。忙哥撒児悉誅之。帝以其奉法不阿、委任益専。有当刑者、輒以法刑之、乃入奏、帝無不報可。帝或臥未起、忙哥撒児入奏事、至帳前、扣箭房、帝問何言、即可其奏、以所御大帳行扇賜之。其見親寵如此」
  7. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「遂改更庶政……以忙哥撒児為断事官」
  8. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「三年癸丑……秋、幸軍脳児。以忙可撒児為万戸、哈丹為札魯花赤。……是歳、断事官忙哥撒児卒」
  9. ^ 『元史』巻124列伝11忙哥撒児伝,「癸丑冬、病酒而卒。帝以忙哥撒児当国時、多所誅戮、及是、咸騰謗言、乃為詔諭其子、略曰『汝高祖赤老温愷赤曁汝祖搠阿、事我成吉思皇帝、皆著労績、惟朕皇祖実褒嘉之。汝父忙哥撒児、自其幼時、事我太宗、朝夕忠勤、罔有過咎。従我皇考、経営四方。迨事皇妣及朕兄弟、亦罔有過咎。曁朕討定斡羅思・阿速・穏児別里欽察之域、済大川、造方舟、伐山通道、攻城野戦、功多於諸将。俘厥宝玉、大賚諸将、則退然無欲得之心。惟朕言是用、修我邦憲、治我蒐田、輯我国家、罔不咸乂。惟厥忠、雖其私親、与朕嬪御、小有過咎、一是無有比私。故朕皇妣、迨朕昆弟、無不嘉頼。朝之老臣・宿衛耆旧、無不厳畏。録其勤労、命為札魯忽赤、治朕皇考受民、布昭大公、以辨獄慎民、爰作朕股肱耳目、衆無嘩言、朕聴以安。自時厥後、察哈台阿哈之孫、太宗之裔定宗・闊出之子、及其民人、越有他志。頼天之霊、時則有克薛傑者、以告於朕。汝父粛将大旅、以遏乱略、按赤台等謀是用潰、悉就拘執。朕取有罪者、使辨治之、汝父体朕之公、其刑其宥、克比於法。又使治也速・不里獄、亦克比於法。惟爾脱歓・脱児赤自朕用汝父、用法不阿、兄弟親姻、咸麗於憲。今衆罔不怨、曰「爾亦有死耶」、若有慊志。人則雖死、朕将寵之如生。肆朕訓汝、爾克明時朕言、如是而有福、不如是而有禍。惟天惟君、能禍福人;惟天惟君、是敬是畏。立身正直、制行貞潔、是汝之福;反是勿思也。能用朕言、則不墜汝父之道、人亦不能間汝矣;不用朕言、則人将仇汝・伺汝・間汝。怨汝父者、必曰「汝亦与我夷矣」、汝則殆哉。汝於朕言、弗慎繹之、汝則有咎;克慎繹之、人将敬汝畏汝、無間伺汝、無慢汝怨汝者矣。又、而母而婦、有讒欺巧佞構乱之言、慎勿聴之、則尽善矣』」
  10. ^ 志茂2013,556-557頁
  11. ^ 『元史』巻124列伝11忙哥撒児伝,「至順四年、追封忙哥撒児為兗国公。子四人長脱歓、次脱児赤、次也先帖木児、次帖木児不花。脱歓為万戸、無子。脱児赤子明礼帖木児、累官翰林学士承旨、従征乃顔有功。明礼帖木児子咬住、咬住子也先、延徽寺卿。也先帖木児子曰哈剌合孫。帖木児不花子曰塔朮納、曰哈里哈孫、曰伯答沙」

参考文献

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  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年