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ミカイラス・オレリカイティス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミハイル・オレリコヴィチ
Михаил Олелькович
ノヴゴロド公
ノヴゴロドの人々から支配者として迎えられるミハイル
在位 1470年 - 1471年

出生 1425年
死去 1481年8月30日
リトアニア大公国ヴィリニュス
配偶者 アンナ
子女 セメーン
家名 オレリカイティス家
父親 アレクサンドラス・オレルカ
母親 アナスタシア・ヴァシリエヴナ
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ミカイラス・オレリカイティス(リトアニア語:Mykolas Olelkaitis, 1425年 - 1481年8月30日 ヴィリニュス)は、リトアニア大公国、オレリカイティス家の貴族。キエフ大公セメーン(en)の弟であり、モスクワ大公イヴァン3世とは従兄弟の関係にあった(母アナスタシアはヴァシーリー1世の娘)。伝えられているところによると、ミカイラスはユダヤ教系の異端信仰ジュダイザーをノヴゴロドに持ち込むことを企て、1471年にはノヴゴロドをリトアニア大公国の配下に組み込むことをも試みた。また、ポーランド王カジミェシュ4世 に対するクーデターも画策したが、これは1481年に露見し、ミカイラスは処刑された。オレリカイティス家は息子のセメーンが継承した。

ノヴゴロドとの関係

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1456年ヤジェルビーツィ条約によってノヴゴロド共和国モスクワ大公国に外交権を委譲し、裁量的に外国と条約を結ぶ権利を失った。ノヴゴロドは復権を賭けてポーランド=リトアニア共和国を治めるカジミェシュ4世との反モスクワ同盟を企図した。1470年代中盤に大主教座の筆写室で記されたところによると、ミカイラスはカジミェシュ4世の名代としてノヴゴロド側の実権を握っていた女市長マルファ・ボレツカヤと結婚するため、ノヴゴロドに赴いたという(あるいは無名のリトアニア貴族を彼女と結婚させるためであったともいう)[1]。これを受けて、モスクワはノヴゴロドが条約に違反したのみならず、東方正教に対する背教行為であるして怒り狂った。というのも、この結婚によってノヴゴロドは東方正教からカトリックへ改宗すると考えられたからである。ただし、ミカイラスは当初よりマルファと同様の正教徒であり、ミカイラスの兄弟はカジミェシュ4世への態度が各々大幅に異なっており、この背教行為の事実は非常に疑わしいとも見られている[2]。ミカイラスは1470年10月8日に従士団とともにノヴゴロドに入り、1471年3月15日まで留まった[3]。ミカイラスの従士団にはジュダイザーを信奉する異端者が多数含まれていたため、ノヴゴロドでこの異端信仰は流行した。そのため、イヴァン3世がノヴゴロド征服後の1479年に数人の主教をモスクワに移したことで、ジュダイザーはモスクワにも拡散してしまった[4]。ミカイラスが退却したのを見届けたイヴァン3世はノヴゴロドに軍を遣わし、7月のシェロン河畔の戦いでこれを撃破した。1478年、ノヴゴロドは最終的にモスクワによって併合された。

1481年のクーデター

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1470年に兄弟のセメーンが死ぬと、公国はキエフ県に編入され、ポーランド王によって任命された知事(ヴォイヴォダ)が統治するようになった。これはミカイラスの祖父ウラジミールの代からキエフ公位の継承権を主張してきたオレリカイティス家にとって大きな打撃であった。ミカイラスがキエフ公国を継承できなかったのはカトリックを擁護するポーランドから見て異端である東方正教を信仰する姿勢に加えて、同君連合関係にあるリトアニアの東の国境を脅かしているモスクワ大公国のイヴァン3世と従兄弟の関係であることが原因とされた[5]。たとえば1479年、ミカイラスはイヴァン3世の息子イヴァン・マラドイとモルドヴァ公シュテファン3世の娘エレナの仲人を務めている。リトアニアの政治に絶望したミカイラスはカジミェシュ4世に反対する勢力を募りはじめた。1481年、ミカイラスは親類のイヴァン・オルシャンスキー(Iwan Olshanski-Dubrovicki)およびフョードル・イヴァノヴィッチ・ベリスキー(Feodor Ivanovich Belsky)とともにクーデターを決意した。しかし、クーデターはたちまち暴露した。キエフ県知事イヴァン・ホトキェヴィチ(en)の密告が原因であるといわれている。ミカイラスとイヴァン・オルシャンスキーは処刑されたが、フョードルはかろうじてモスクワ大公国に亡命した[5]

1476年、ミカイラスと12人のルテニア貴族がローマ教皇シクストゥス4世に宛てた書状に署名している。この書状はキエフ府主教Misail Pstruchによって書き起こされたもので、バーゼル公会議への忠誠を誓い、カトリックと東方正教の統合を支持する内容である。一方でカトリックによる東方正教への差別を批判しており、教皇による監督を願い出ている[6]。ただし、この手紙の真正性については未だ疑いの余地がある。

家系図

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ミカイラス・オレリカイティスの系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. ゲディミナス, リトアニア大公
 
 
 
 
 
 
 
8. アルギルダス, リトアニア大公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. ヤヴナ
 
 
 
 
 
 
 
4. ヴォロディームィル・オーリヘルドヴィチ, キエフ大公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. ヤロスラフ・ヴァシリエヴィチ, ヴィテプスク公
 
 
 
 
 
 
 
9. マリヤ・ヤロスラヴナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. アレクサンドラス・オレルカ(pl), キエフ大公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. ミカイラス・オレリカイティス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. イヴァン2世, モスクワ大公
 
 
 
 
 
 
 
12. ドミートリー・ドンスコイ, モスクワ大公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. アレクサンドラ・ベリヤミノヴァ(en
 
 
 
 
 
 
 
6.ヴァシーリー1世, モスクワ大公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. ドミトリー・コンスタンチノーヴィチ, ニジニ・ノヴゴロド大公
 
 
 
 
 
 
 
13. エヴドキヤ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. ヴァシリーサ
 
 
 
 
 
 
 
3. アナスタシア・ヴァシリエヴナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. ケーストゥティス, トラカイ
 
 
 
 
 
 
 
14. ヴィータウタス, リトアニア大公およびトラカイ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. ビルテ
 
 
 
 
 
 
 
7. ソフィヤ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15. アンナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

参考文献

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  1. ^ Gail Lenhoff and Janet Martin. “Marfa Boretskaia, Posadnitsa of Novgorod: A Reconsideration of Her Legend and Her Life.” Slavic Review 59, no. 2 (2000), 346, 347.
  2. ^ Gail Lenhoff and Janet Martin, "Marfa Boretskaia," 349.
  3. ^ George Vernadsky, “The Heresy of the Judaizers and the Policies of Ivan III of Moscow.” Speculum 8 (1933): 437-38; John I. L. Fennell, Ivan the Great of Moscow (London: Macmillan, 1961), 325.
  4. ^ Fennell, Ivan the Great, 327.
  5. ^ a b Kirkienė, Genutė (2008). “Chodkevičių giminės ištakos” (リトアニア語). LDK politikos elito galingieji: Chodkevičiai XV–XVI amžiuje. Vilniaus universiteto leidykla. pp. 90–91. ISBN 978-9955-33-359-3 
  6. ^ Hryniewicz, Wacław (2007). The challenge of our hope: Christian faith in dialogue. Cultural heritage and contemporary change: Eastern and Central Europe. 32. CRVP. p. 210. ISBN 1-56518-237-5. https://books.google.co.jp/books?id=y7dq4-Xvn0EC&pg=PA210&redir_esc=y&hl=ja 

外部リンク

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