マリア・フォン・ベーメン
マリア・フォン・ベーメン Maria von Böhmen | |
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出生 |
1124年ごろ |
死去 |
1172年以降 |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 バーデン辺境伯領、バックナング修道院 |
配偶者 | オーストリア辺境伯レオポルト4世 |
バーデン辺境伯ヘルマン3世 | |
子女 | ゲルトルート・フォン・バーデン |
家名 | プシェミスル家 |
父親 | ボヘミア公ソビェスラフ1世 |
母親 | アーデルハイト・フォン・ウンガルン |
宗教 | キリスト教カトリック |
マリア・フォン・ベーメン(ドイツ語:Maria von Böhmen, 1124年ごろ - 1172年以降)は、オーストリア辺境伯およびバイエルン公レオポルト4世の妃。また後にバーデン辺境伯ヘルマン3世の妃。
生涯
[編集]マリアはボヘミア公ソビェスラフ1世とハンガリー王ゲーザ1世の孫娘アーデルハイトとの間の唯一の娘である。ボヘミアとドイツの貴族との関係を強めるため、父ソビェスラフ1世は1138年9月28日にマリアをオーストリア辺境伯レオポルト4世と結婚させた[1]。マリアの年齢は10代前半である一方、レオポルト4世は30代前半であった。その2年後にレオポルドの妹ゲルトルートがソビェスラフ1世の甥ヴラジスラフ2世と結婚し、ボヘミアとオーストリアの同盟はさらに強固なものとなった。
マリアの結婚の1年後の1139年に、ホーエンシュタウフェン家のローマ王コンラート3世はヴェルフ家のバイエルン公ハインリヒ傲岸公を廃位し、レオポルト4世にバイエルン公位を与えた。レオポルト4世はコンラート3世の異父弟であった(母は共にアグネス・フォン・ヴァイプリンゲン)。従って、コンラート3世がオーストリアとボヘミアの関係強化に関与した可能性がある。レオポルト4世はバイエルン公領の支配を引き受けたが、ハインリヒ傲岸公の弟ヴェルフ6世の主張に対峙しなければならなかった。
レオポルト4世との結婚は3年続いたが、1141年にレオポルト4世はニーダーアルタイヒ修道院で突然死去した。この結婚で子女は生まれず、オーストリアとバイエルンはレオポルト4世の兄ハインリヒ2世が継承した。
レオポルト4世の死から1年後、マリアはバーデン辺境伯ヘルマン3世と再婚した。マリアはヘルマン3世にとって2番目の妃であった。ヘルマン3世は第2回十字軍に参加し、1151年にコンラート3世よりヴェローナ辺境伯位を与えられた。ヘルマン3世は,コンラート3世の後継者フリードリヒ1世・バルバロッサのイタリア遠征においても、ホーエンシュタウフェン家を忠実に支援した。
マリアはヘルマン3世との間に1女をもうけた。
- ゲルトルート(1225年以前没) - 1180年にダグスブルク伯アルブレヒト2世と結婚
ヘルマン3世は1160年1月16日に死去した。マリアは1172年までは生存が確認できるが、没年は不明である。マリアはバックナング修道院に埋葬された。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Lyon, Jonathan R. (2013). Princely Brothers and Sisters: The Sibling Bond in German Politics, 1100-1250. Cornell University Press
- Vaníček V., Soběslav I. (2007). Přemyslovci v kontekstu evropských dějin v letech 1092-1140. Praha-Litomyšl. pp. 288-290