マムラク・テギン
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マムラク・テギン(馬木剌的斤/Mamuraq tigin、生没年不詳)は、モンゴル帝国領ウイグル王国の王(イディクート)[1]。
『元史』などの漢文史料では馬木剌的斤(mǎmùlà dejīn)と表記されるが、蒙漢合壁碑(ウイグル文字文と漢文の両方が記される碑文)の「高昌王世勲碑」の記述により「マムラク・テギン(Mamuraq tigin)」が正しい名前であると判明している[2]。
生涯
[編集]オグルンチ・テギンの子として生まれる。
オグルンチが死去すると、子のマムラクがイディクート(ウイグル国王)位を継いだ。
1258年、モンケ・カアンの南宋攻略戦に従軍し、タンマチ(探馬赤)軍1万を率いて四川に入り、合州を包囲した。しかし、モンケ・カアンが合州の釣魚山の軍陣内で流行した悪疫にかかって1259年8月11日に死去してしまう。
マムラクは帰還後死去した[3]。
1266年(至元3年)、イディクート位はクビライ・カアンによってマムラクの子のコチカル・テギンに授与された[4]。
天山ウイグル王家
[編集]- ヨスン・テムル(Üsen temür >月仙帖木児/yuèxiān tièmùér)
- バルチュク・アルト・テギン(Barǰuq art tigin >巴而朮阿而忒的斤/bāérzhú āértè dejīn,بارجق/bārjūq)
- キシュマイン(Kišmain >کیشماین/kīshmāīn)
- サランディ・テギン(Salandi tigin >سالندی/sālandī)
- オグルンチ・テギン(Ögrünč tigin >玉古倫赤的斤/yùgǔlúnchì dejīn,اوکنج/ūknchī)
- マムラク・テギン(Mamuraq tigin >馬木剌的斤/mǎmùlà dejīn)
- コチカル・テギン(Qočqar tigin >火赤哈児的斤/huǒchìhāér dejīn)
- ネウリン・テギン(Neülin tigin >紐林的斤/niǔlín dejīn)
- キプチャクタイ(Qipčaqtai >欽察台/qīnchátái)
- イル・イグミシュ・ベキ(Il yïγmïš begi >也立亦黒迷失別吉/yělì yìhēimíshī biéjí)
- ソソク・テギン(Sösök tigin >雪雪的斤/xuěxuě dejīn)
- ドルジ・テギン(Dorǰi tigin >朶児的斤/duǒér dejīn)
- バヤン・ブカ・テギン(Bayan buqa tigin >伯顔不花的斤/bǎiyán bùhuā dejīn)
- ドルジ・テギン(Dorǰi tigin >朶児的斤/duǒér dejīn)
- コチカル・テギン(Qočqar tigin >火赤哈児的斤/huǒchìhāér dejīn)
- マムラク・テギン(Mamuraq tigin >馬木剌的斤/mǎmùlà dejīn)
- バルチュク・アルト・テギン(Barǰuq art tigin >巴而朮阿而忒的斤/bāérzhú āértè dejīn,بارجق/bārjūq)
脚注
[編集]- ^ イディクート(Īdï Qūt、亦都護)とは天山ウイグル王国の王号である。テュルク語でïdïqとは「神から贈られた」「至福の」「神聖な」という意味で、qūtとは「息」「魂」「生命」から転じて「幸福」「吉祥」という意味である。バルトールドによるとこの称号はバシュキル族の首長の名でそれを受け継いだものだという。<村上 1976,p84>
- ^ 劉1984,p.61/81
- ^ 『新元史』巻116列伝13巴而朮阿而忒的斤亦都護伝,「子馬木剌的斤嗣、率探馬赤万人従憲宗入蜀、囲合州、帰還、卒」
- ^ 『元史』巻122列伝9巴而朮阿而忒的斤伝,「至元三年、世祖命其子火赤哈児的斤嗣為亦都護。海都・帖木畳児之乱、畏兀児之民遭乱解散、於是有旨命亦都護収而撫之、其民人在宗王近戚之境者、悉遣還其部、畏兀児之衆復輯」
参考文献
[編集]- 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
- 劉迎勝・Kahar Barat「亦都護高昌王世勲碑回鶻文碑文之校勘与研究」『元史及北方民族史研究集刊』8、1984年
- 『元史』巻122列伝9
- 『新元史』巻116列伝13
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