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マムラク・テギン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マムラク・テギン(馬木剌的斤/Mamuraq tigin、生没年不詳)は、モンゴル帝国ウイグル王国の王(イディクート[1]

元史』などの漢文史料では馬木剌的斤(mǎmùlà dejīn)と表記されるが、蒙漢合壁碑(ウイグル文字文と漢文の両方が記される碑文)の「高昌王世勲碑」の記述により「マムラク・テギン(Mamuraq tigin)」が正しい名前であると判明している[2]

生涯

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オグルンチ・テギンの子として生まれる。

オグルンチが死去すると、子のマムラクがイディクート(ウイグル国王)位を継いだ。

1258年モンケ・カアン南宋攻略戦に従軍し、タンマチ(探馬赤)軍1万を率いて四川に入り、合州を包囲した。しかし、モンケ・カアンが合州の釣魚山の軍陣内で流行した悪疫にかかって1259年8月11日に死去してしまう。

マムラクは帰還後死去した[3]

1266年至元3年)、イディクート位はクビライ・カアンによってマムラクの子のコチカル・テギンに授与された[4]

天山ウイグル王家

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脚注

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  1. ^ イディクート(Īdï Qūt、亦都護)とは天山ウイグル王国の王号である。テュルク語でïdïqとは「神から贈られた」「至福の」「神聖な」という意味で、qūtとは「息」「魂」「生命」から転じて「幸福」「吉祥」という意味である。バルトールドによるとこの称号はバシュキル族の首長の名でそれを受け継いだものだという。<村上 1976,p84>
  2. ^ 劉1984,p.61/81
  3. ^ 『新元史』巻116列伝13巴而朮阿而忒的斤亦都護伝,「子馬木剌的斤嗣、率探馬赤万人従憲宗入蜀、囲合州、帰還、卒」
  4. ^ 『元史』巻122列伝9巴而朮阿而忒的斤伝,「至元三年、世祖命其子火赤哈児的斤嗣為亦都護。海都・帖木畳児之乱、畏兀児之民遭乱解散、於是有旨命亦都護収而撫之、其民人在宗王近戚之境者、悉遣還其部、畏兀児之衆復輯」

参考文献

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  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
  • 劉迎勝・Kahar Barat「亦都護高昌王世勲碑回鶻文碑文之校勘与研究」『元史及北方民族史研究集刊』8、1984年
  • 元史』巻122列伝9
  • 新元史』巻116列伝13
先代
オグルンチ・テギン
天山ウイグル王国の国王
?年 - ?年
次代
コチカル・テギン