ケスメズ
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ケスメズ(Kišmain、生没年不詳)は、モンゴル帝国領ウイグル王国の王(イディクート)[1]。
ジュヴァイニーの『世界征服者史』や『集史』ではکشماین(kishmāīn)と記され、これに基づいて日本語文献ではキシュマインとも表記されるが[2]、『世界征服者史』の英訳を行ったボイル教授はこれをkesmesと読んでいる[3]。『元史』をはじめとする漢文史料には全く記録がなく、20世紀に入って編纂された『新元史』や『蒙兀児史記』はkishmāīnを音訳した怯石邁因と表記する[4]。
生涯
[編集]バルチュク・アルト・テギンの子として生まれる。
バルチュク・アルト・テギンが世を去ると、ケスメズはオゴデイ・カアンの宮廷に赴き、イディクートの称号を与えられた。
ケスメズはドレゲネ皇后の称制時に世を去り、摂政ドレゲネにより、ケスメズの弟のサランディ・テギンがイディクートの継承者とされた[2]。
オゴデイは先代のバルチュクに娘のアラジン・ベキを娶らせようとしていたが、バルチュクが亡くなってしまったため、ケスメズに娶らせようと考えた[5]。しかし、ケスメズもまもなく亡くなったため、オゴデイの死後、ドレゲネ皇后がケスメズの弟のサランディに娶らせた[6]。
天山ウイグル王家
[編集]- ヨスン・テムル(Üsen temür >月仙帖木児/yuèxiān tièmùér)
- バルチュク・アルト・テギン(Barǰuq art tigin >巴而朮阿而忒的斤/bāérzhú āértè dejīn,بارجق/bārjūq)
- キシュマイン(Kišmain >کیشماین/kīshmāīn)
- サランディ・テギン(Salandi tigin >سالندی/sālandī)
- オグルンチ・テギン(Ögrünč tigin >玉古倫赤的斤/yùgǔlúnchì dejīn,اوکنج/ūknchī)
- マムラク・テギン(Mamuraq tigin >馬木剌的斤/mǎmùlà dejīn)
- コチカル・テギン(Qočqar tigin >火赤哈児的斤/huǒchìhāér dejīn)
- ネウリン・テギン(Neülin tigin >紐林的斤/niǔlín dejīn)
- キプチャクタイ(Qipčaqtai >欽察台/qīnchátái)
- イル・イグミシュ・ベキ(Il yïγmïš begi >也立亦黒迷失別吉/yělì yìhēimíshī biéjí)
- ソソク・テギン(Sösök tigin >雪雪的斤/xuěxuě dejīn)
- ドルジ・テギン(Dorǰi tigin >朶児的斤/duǒér dejīn)
- バヤン・ブカ・テギン(Bayan buqa tigin >伯顔不花的斤/bǎiyán bùhuā dejīn)
- ドルジ・テギン(Dorǰi tigin >朶児的斤/duǒér dejīn)
- コチカル・テギン(Qočqar tigin >火赤哈児的斤/huǒchìhāér dejīn)
- マムラク・テギン(Mamuraq tigin >馬木剌的斤/mǎmùlà dejīn)
- バルチュク・アルト・テギン(Barǰuq art tigin >巴而朮阿而忒的斤/bāérzhú āértè dejīn,بارجق/bārjūq)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 佐口透訳注 ドーソン『モンゴル帝国史 2』平凡社、1968年
- 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
- 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
- John Andrew Boyle (tr.), The History of the World-Conqueror, 2 vols., Manchester 1958
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