ボオランガ
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都督フマンの第五子で、清太祖ヌルハチの祖父ギョチャンガの五弟、即ちヌルハチの五番目の大叔父にあたる。
出身氏族 | |
---|---|
覺羅ギョロ氏 | |
名字称諡 | |
清代 | |
出生死歿 | |
出生年 | 嘉靖? |
死歿年 | 万暦? |
親族姻戚 | |
父 | 都督フマン |
兄 | 清興祖ギョチャンガ |
姪孫 | 清太祖ヌルハチ |
略歴
[編集]ボオランガ個人については、『清實錄』に「尼麻喇ニマラン[注 1]地方に住んだ」[2][3]とある外に記述はみられない。同じく『清實錄』に拠れば、五人の兄弟と合わせて「六祖」または「寧古塔貝勒ニングタ・ベイレ」と呼ばれ、当時近隣地域で武を誇っていた他部族を滅ぼしてからは、その勢力も次第に伸長したという。[4]
その後、ニングタ・ベイレ勢力が衰頽する中、姪孫にあたるヌルハチの勢力が勃興すると、ニングタ・ベイレ勢力の内、四人 (デシク・リョチャン・ソオチャンガ・ボオシ) の子孫がヌルハチ勢力とあからさまに反目した一方で、ボオランガの子孫はそれとは一線を画し、ヌルハチ勢に加わった者もあった。[5][注 2]
清代には清朝宗室の傍系 (紅帯子・覺羅) として区別された。[6]
一族姻戚
[編集]*満文表記 (転写) および仮名表記は『manju i yargiyan kooli』に準拠した。丸括弧内の漢字表記は『太祖高皇帝實錄』[7]/『滿洲實錄』[8]の順で記し、両者の表記が同一である場合は統合した。また、その外の文献を典拠とする場合のみ脚註を附した。
- 父・フマン
脚註
[編集]典拠
[編集]- ^ 太祖武皇帝實錄. 1
- ^ a b “癸未歲萬曆11年1583至甲申歲萬曆12年1584段264”. 太祖高皇帝實錄. 1
- ^ a b “滿洲源流/癸未歲萬曆11年1583至甲申歲萬曆12年1584段13”. 滿洲實錄. 1
- ^ “癸未歲萬曆11年1583至甲申歲萬曆12年1584段266”. 太祖高皇帝實錄. 1
- ^ 二.. “〈論説〉清の太祖興起の事情について”. 東洋学報: 133-141.
- ^ “天聰9年1635 1月26日段1745”. 太宗文皇帝實錄. 22
- ^ “癸未歲萬曆11年1583至甲申歲萬曆12年1584段263-266”. 太祖高皇帝實錄. 1
- ^ “滿洲源流/癸未歲萬曆11年1583至甲申歲萬曆12年1584段13”. 滿洲實錄. 1
- ^ a b c d e f g h i j k l “興祖直皇帝位下第五子包郎阿”. 愛新覺羅宗譜
註釈
[編集]文献
[編集]實錄
[編集]*中央研究院歴史語言研究所版 (1937年刊行)
- 覚羅氏勒德洪『太祖高皇帝實錄』崇徳元年1636 (漢)
- 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋版
- 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 昭和13年1938訳, 1992年刊
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋版
史書
[編集]地理書
[編集]論文
[編集]- 『東洋学報』巻33 (号2) 1951, 和田 清「〈論説〉清の太祖興起の事情について」
Web
[編集]- 栗林均「モンゴル諸語と満洲文語の資料検索システム」東北大学
- 「明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)