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ボオランガ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ボオランガは、末の覺羅ギョロ女真族

都督フマンの第五子で、清太祖ヌルハチの祖父ギョチャンガの五弟、即ちヌルハチの五番目の大叔父にあたる。

ᠪᠣᠣᠯᠠᠩᡤᠠ boolangga
出身氏族
覺羅ギョロ
名字称諡
清代
  • :豹郎剛[1]
  • 諱:包朗阿[2]
  • 諱:寶朗阿[3]
  • 尊:五祖
出生死歿
出生年 嘉靖?
死歿年 万暦?
親族姻戚
都督フマン
清興祖ギョチャンガ
姪孫 清太祖ヌルハチ

略歴

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ボオランガ個人については、『清實錄』に「尼麻喇ニマラン[注 1]地方に住んだ」[2][3]とある外に記述はみられない。同じく『清實錄』に拠れば、五人の兄弟と合わせて「六祖」または「寧古塔貝勒ニングタ・ベイレ」と呼ばれ、当時近隣地域で武を誇っていた他部族を滅ぼしてからは、その勢力も次第に伸長したという。[4]

その後、ニングタ・ベイレ勢力が衰頽する中、姪孫にあたるヌルハチの勢力が勃興すると、ニングタ・ベイレ勢力の内、四人 (デシク・リョチャン・ソオチャンガボオシ) の子孫がヌルハチ勢力とあからさまに反目した一方で、ボオランガの子孫はそれとは一線を画し、ヌルハチ勢に加わった者もあった。[5][注 2]

代には清朝宗室の傍系 (紅帯子・覺羅) として区別された。[6]

一族姻戚

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満文表記 (転写) および仮名表記は『manju i yargiyan kooli』に準拠した。丸括弧内の漢字表記は『太祖高皇帝實錄』[7]/『滿洲實錄』[8]の順で記し、両者の表記が同一である場合は統合した。また、その外の文献を典拠とする場合のみ脚註を附した。

脚註

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典拠

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  1. ^ 太祖武皇帝實錄. 1 
  2. ^ a b “癸未歲萬曆11年1583至甲申歲萬曆12年1584段264”. 太祖高皇帝實錄. 1 
  3. ^ a b “滿洲源流/癸未歲萬曆11年1583至甲申歲萬曆12年1584段13”. 滿洲實錄. 1 
  4. ^ “癸未歲萬曆11年1583至甲申歲萬曆12年1584段266”. 太祖高皇帝實錄. 1 
  5. ^ 二.. “〈論説〉清の太祖興起の事情について”. 東洋学報: 133-141. 
  6. ^ “天聰9年1635 1月26日段1745”. 太宗文皇帝實錄. 22 
  7. ^ “癸未歲萬曆11年1583至甲申歲萬曆12年1584段263-266”. 太祖高皇帝實錄. 1 
  8. ^ “滿洲源流/癸未歲萬曆11年1583至甲申歲萬曆12年1584段13”. 滿洲實錄. 1 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l “興祖直皇帝位下第五子包郎阿”. 愛新覺羅宗譜 

註釈

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  1. ^ 『太祖武皇帝實錄』では「尼麻蘭nímálán」、『太祖高皇帝實錄』では「尼麻喇nímála」、『滿洲實錄』では「尼瑪蘭nímǎlán」に作る。
  2. ^ ヌルハチの妹婿エフガハシャンが殺された折、復讎に焦るヌルハチをボオランガ次子 (ヌルハチ族叔父) のレンデンが宥めている (→「太祖大戰瑪爾墩」参照)。またジャイフィヤンでの戦役では、ボオランガ長子ドゥイチンの子が、突如現れた敵の大軍を前にして鎧甲を脱ぎ捨てて逃亡を図った為、ヌルハチに叱責されている (→「太祖四騎敗八百兵」参照)。
  3. ^ 『愛新覺羅宗譜』では「郎騰」に作る。[9]

文献

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實錄

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中央研究院歴史語言研究所版 (1937年刊行)

  • 覚羅氏勒德洪『太祖高皇帝實錄』崇徳元年1636 (漢)
  • 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
    • 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋版
      • 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 昭和13年1938訳, 1992年刊

史書

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地理書

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論文

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Web

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