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タクシ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ᠳᠠᡴᠰᠢtaksi
氏族 アイシン・ギョロ氏 (ギョロ氏)[1]
名称表記
漢音写
廟号 顕祖 (iletulehe mafa)
諡号 宣皇帝 (hafumbuha hūwangdi)
生歿即位
出生年 不詳
死歿年 万暦11年1583
一族姻戚
祖父 フマン
ギョチャンガ
ヌルハチ

タクシは、覺羅ギョロ (愛新覺羅アイシン・ギョロ)[1]女真族

寧古塔貝勒ニングタ・ベイレギョチャンガの子。後金国アイシン・グルン始祖ヌルハチ (清太祖) の父。

タクシが嫡妻ヒタラ氏の死去後に迎えた継妻ハダ・ナラ氏[注 1]は、嫡妻ヒタラ氏との子ヌルハチと折り合いが悪かった為、ヌルハチは早々にタクシの許を離れ独立している。

明万暦11年1583李成梁率いる明の官軍の先導としてグレ城アタイ (ギョチャンガ孫娘婿) を征討したが、父ギョチャンガともども掩殺された。(→明無端起釁邊陲害我祖父)

一族姻戚

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父祖

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  • 祖父・フマン
    • 父・ギョチャンガ
      • 長兄・礼敦リドゥン
      • 次兄・額爾袞エルグウェン
      • 三兄・齋堪ジャイカン
      • タクシ

妻子

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  • 正妻[5]・額穆斉エメチ:喜塔喇ヒタラ氏。阿古アグ都督の娘。宣皇后。
    • 長子・ヌルハチ
    • 次子・舒爾哈齊シュルハチ
    • 三子・雅爾哈齋ヤルハチ
  • 後妻[6]・懇哲ケンジェハダ・ナラ氏ハダ初代国主ワンの養女。
    • 子・巴雅喇バヤラ
  • 側室名不詳
    • 子・穆爾哈齊ムルハチ

脚註

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典拠

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  1. ^ a b アイシン・ギョロ・ハラは、ヌルハチがアイシン・グルン (後金) を樹立した際に考え出された氏族名で、それまではギョロ・ハラか、あるいは別の氏族名 (トゥンギャ・ハラ=佟佳氏?) であった、とも言われるため、ここには二つ記載した。なお、タクシより下の世代をアイシン・ギョロのウクスン (宗室) とし、タクシの父・ギョチャンガの兄弟 (長祖、二祖、三祖、五祖、六祖) はギョロ・ハラとして区別された。
  2. ^ “景泰1年1450閏1月4日段21506”. 英宗睿皇帝實錄 (廢帝郕戾王附錄). 188 (6). "陞建州左衞指揮使塔失……爲都指揮僉事……" 
  3. ^ “萬曆47年16195月16日段72053”. 神宗顯皇帝實錄. 582. "之祖父教塲他失李成梁用爲鄉導併掩殺于阿台城下……" 
  4. ^ “癸未歲至甲申歲萬曆11年1583至12年1584段266”. 太祖高皇帝實錄. 1 
  5. ^ 『滿洲實錄』巻1「嫡福金」
  6. ^ 『滿洲實錄』巻1「側福金」

註釈

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  1. ^ 初代ハダ国主ベイレ王台ワン・ハンの一族の娘で、ワン・ハンが後に養女とした。

文献

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實錄

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中央研究院歴史語言研究所版 (1937年刊行)

明實錄

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  • 陳文, 他『英宗睿皇帝實錄』成化3年1467 (漢)
  • 顧秉謙, 他『神宗顯皇帝實錄』崇禎3年1630 (漢)

清實錄

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  • 覚羅氏勒德洪『太祖高皇帝實錄』崇徳元年1636 (漢)
  • 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
    • 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋版
      • 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 昭和13年1938訳, 1992年刊

史書

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Web

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