ホロコースト (競走馬)
ホロコースト Holocauste[1][2] | |
---|---|
1898年のホロコースト | |
欧字表記 | Holocauste |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 芦毛 |
生誕 | 1896年 |
死没 | 1899年5月31日(3歳没) |
父 | Le Sancy |
母 | Bougie |
生国 | フランス |
馬主 | Jacques de Brémond |
調教師 | Richard Count |
競走成績 | |
勝ち鞍 |
仏グランクリテリム (1898) クリテリウムドメゾンラフィット (1898) ビアンナル賞 (1899) リュパン賞 (1899) |
ホロコースト(Holocauste)はフランスのサラブレッドである。1896年に生まれ、イギリスの三冠馬フライングフォックスやフランスの四冠馬パース (Perth) と同世代である。
ホロコーストは2歳時にはパースを上回る成績をあげ、フランスの2歳チャンピオンとなった。3歳の春にはパースと争ってライバルとなったが、フライングフォックスと対戦するため渡英してダービーステークス(イギリスダービー)に出走し、そこで死んだ。ライバルがいなくなったパースはその年四冠を達成した。
血統
[編集]ホロコーストの母、ブギ (Bougie) は2歳の時に重賞を勝った馬である。産駒でホロコーストの1歳上にあたるガルデフォー (Gardefeu) は1898年にリュパン賞やジョッケクルブ賞(フランスダービー)に勝ち、さらにサブロン賞(現在のガネー賞)やコンセイユミュニシパル賞(凱旋門賞の前身ともいえる当時の古馬の国際大レース。)にも勝った[3]。
父のルサンシー (Le Sancy) は、ダリュー賞、サブロン賞、ドーヴィル大賞典(2回)などに勝った。1895年生まれの産駒ルサマリテン (Le Samaritain) は、ガルデフォーには敵わなかったが、ダリュー賞やギシュ賞に勝った[4]。
ホロコーストの父系概略図
[編集]- Woodpecker 1773 GB
- Castrel 1801 GB
- Pantaloon 1824 GB
- Windhound 1847 GB
- Thormanby 1857 GB - イギリスダービー、アスコットゴールドC。イギリスCS
- Windhound 1847 GB
- Pantaloon 1824 GB
- Castrel 1801 GB
2歳時(1898年)
[編集]ホロコーストがデビューする頃には、半兄のガルデフォーがフランスダービーに勝った後だったので、ホロコーストも相応の期待をされていた。ホロコーストはデストリエ賞に勝ち、10月のグラン・クリテリム(1600m)、11月のクリテリウム・ド・メゾンラフィット(1200m)も楽勝し、文句なしにこの年のフランス2歳チャンピオンとなった[3]。
一方、パースは小柄な安馬だった。3戦目で初勝利をあげ、グラン・クリテリウムで着外に終わったあと、クリテリウム国際(1000m)に勝った[5]。
3歳時(1899年)
[編集]年が明けると、4月に春緒戦のラグランジュ賞(2000m)で、ホロコーストはミー (Mie) という穴馬に不覚を取って2着に敗れてしまった。しかしその後は危なげなく、ビエンナル賞、ラロシェト賞[注 2]を連勝し、リュパン賞では2着のヴェラスケス (Velasquez) に6馬身も差をつけて楽勝した[3][7]。
対するパースは、オカール賞(2500m)、ダリュー賞(2100m)、プール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー、1600m)と連勝し、ともに3連勝で両者はフランスダービーで対決することになった[5]。
前年チャンピオンのホロコーストは1.5倍の大本命で、挑戦者パースは4.5倍の2番人気だった。ホロコーストは、なぜかスタートで少し不自然に立ち遅れた。エドゥアール・ワトキンス (Edouard Watkins) 騎手は、序盤の遅れを挽回しようとして無理に馬群に突っ込んでいった挙句、取り囲まれて行き場を無くしてしまった。その間にパースが抜け出し、ホロコーストがやっと馬群から抜けだした頃には既に大きな差が開いてしまっていた。結局、フランスダービーはパースが勝ち、半馬身差の2着にヴェラスケスが入った。ホロコーストはそこからさらに6馬身離れた3着に終わった。リュパン賞でホロコーストがヴェラスケスに6馬身差で勝ったことを思えば、まともに走りさえすればホロコーストがパースに何馬身も差をつけて勝っていたはずだと考えられ、ホロコーストのワトキンス騎手はたいへんな批難を受けた[8][5][3]。
陣営はホロコーストの名誉を取り戻すため、3日後のイギリスダービーへの出走を決めた。エプソム競馬場のダービーで必勝を期すため、当時の世界的な名騎手トッド・スローンに騎乗を依頼した[3][9]。
イギリスダービーでライバルになりそうなのが、ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーのフライングフォックスだった。フライングフォックスは3歳になって本格化し、2000ギニーを勝ってきた。地元のフライングフォックスは3.5倍の本命だったが、フランスからやって来たホロコーストも単勝6倍の対抗馬に支持された[10][11]。
ダービーの前夜、ホロコーストの脚に腫れがあることがわかったが、治療を行なって出走した。レースはスタートの失敗で何度も[注 3]やり直しになり、レースが成立するのは1時間ほども遅れた。このスタートの時点で既にホロコーストが明らかに跛行していたと伝える報道もある[12][3][13][14]。
レース序盤から、この年三冠馬となるフライングフォックスと競り合って2頭の一騎討ちになった。勝負どころで、ホロコーストのスローン騎手は、ホロコーストはまだ本気で走っておらず、フライングフォックスに勝てると確信していた。しかし、ホロコーストは突然転倒し、フライングフォックスはそのままキャンターでゴールへ向かい優勝した。ホロコーストは前脚の繋を骨折しており、予後不良となった。解剖によって、ホロコーストはフランスダービーのスタートで出遅れた時に既に骨に亀裂が入っていたのだろうと結論づけられた。しかし、ダービー直前の調教では、そのような様子もみせずに6ハロンの調教をこなしていた、とする報道もある[3][10][13][14][11]。また、トッド・スローン騎手の「モンキー乗り」と呼ばれる騎乗スタイルが、ホロコーストの前脚に余計な負担をかけて骨折に至ったのだとして、スローン騎手の騎乗スタイルを批判する者もあった[12][9]。
ダービー当日の朝、ホロコーストの馬主のブルモンは、ホロコーストを1万ギニー(約11,000ポンド)で売って欲しいという話を断っていた。ダービーの賞金はその約半額の6000ソブリン(=6000ポンド)である。ダービーのあと、ホロコーストの遺骸は解体され、肉(犬や猫の餌として)、骨、皮が売却され、ブルモンはその合計額2ポンド17シリングを受け取った[12]。
ホロコーストの死後
[編集]その後、フライングフォックスはイギリスにとどまって秋にセントレジャーステークスを勝ち、イギリス史上8頭目の三冠を達成した。フランス国内に敵がいなくなったパースは、パリ大賞、ロワイヤルオーク賞を勝ち、フランス四冠を成し遂げた。この四冠は2014年までのあいだ、パースしか達成していない。
パースは引退後、種牡馬になってフランスのチャンピオンサイヤーになった。フライングフォックスもフランスへ輸入され、グーヴェルナン (Gouvernant) やアジャックス (Ajax) を出して大成功した。一方、ホロコーストの父ルサンシーは、最良の産駒を失ったので、競走成績ではホロコーストに遠く及ばなかったルサマリテンがルサンシーの後継種牡馬になった。ルサマリテンの産駒にはロアエロド (Roi Herode) が登場し、さらにその子ザテトラークが登場すると、ルサマリテンの系統は素晴らしいスピード血統として栄えることになった。
血統表
[編集]Holocausteの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父 Le Sancy 芦毛 1884 |
父の父 Atlantic栗毛 1871 |
Thormanby | Windhound | |
Alice Hawthorn | ||||
Hurricane | Wild Dayrell | |||
Midia | ||||
父の母 Gem of Gems芦毛 1873 |
Strathconan | Newminster | ||
Souvenir | ||||
Poinsettia | Young Melbourne | |||
Lady Hawthorn | ||||
母 Bougie 鹿毛 1887 |
Bruce 鹿毛 1879 |
See Saw | Buccaneer | |
Margery Daw | ||||
Carine | Stockwell | |||
Mayonaise | ||||
母の母 La Lumiere栗毛 1871 |
The Heir of Linne | Galaor | ||
Mrs. Walker | ||||
Grande Mademoiselle | The Nabob | |||
Error | ||||
母系(F-No.) | 6号族(FN:6-b) | [§ 2] | ||
5代内の近親交配 | Wildhound 4*5、Alice Hawthorn 4*5、Wild Dayrell 4×5、Muley Moloch 5×5 | [§ 3] | ||
出典 |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Lee, Henry (1914). Historique des courses de chevaux de l'antiquité à ce jour. Paris: E. Fasquelle
- サラブレッド血統センター 編『Family Tables of Racinghorses』 4巻、日本中央競馬会・日本軽種馬協会、2003年。
- サラブレッド血統センター 編『サラブレッド血統大系』 5巻、サラブレッド血統センター、2005年。
- 山野浩一『最新名馬の血統 種牡馬系統のすべて』明文社、1982年(原著1970年)。
- アラステア・バーネット、ティム・ネリガン 著、千葉隆章 訳『ダービーの歴史』(財)競馬国際交流協会刊、1998年。
注釈
[編集]- ^ 『最新名馬の血統 種牡馬系統のすべて』および『Family Tables of Racinghorses Vol.IV』、『日本の種牡馬録1』などより作成
- ^ このラロシェト賞は、現在のジャンプラ賞に相当する競走である。当時、競走馬を生産した生産者がそのまま馬主となっているものだけが出走できる「トリエナル賞 (Prix Triennal)」という競走があり、これは2歳戦、3歳戦、4歳戦などがあった。ホロコーストが勝ったのはこのうち3歳戦で、ホロコーストが勝った年はこれらの競走に「ラ・ロシェト賞」という名が付けられていた。このラ・ロシェト賞は2歳用、3歳用、4歳用に分かれており、後にはさらに牡馬用と牝馬用に分割された[6]。なお、現在の「ラロシェト賞」と呼ばれている競走は2歳戦である。
- ^ 当時はスタート地点に馬が集まり、合図で一斉にスタートするという方式だった。現在のゲート式に比較すると、スタートで各馬には多少の前後は生じるが、スタートでのちょっとした遅れは長いレースにとっては無視できる誤差と考えられていた。しかし、それを上回るほど、各馬の発馬が揃わなかった場合にはやり直しになる。このときは「半ダースほどの失敗の後」やっと発走にこぎつけた、と伝えられている。
出典
[編集]- ^ “Prix Lupin” Historique des courses de chevaux de l'antiquité à ce jour, p.788
- ^ “Holocauste” (ドイツ語). Galopp-Sieger. 2014年7月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g サラブレッド・ヘリテイジ ホロコースト2013年2月27日閲覧。
- ^ “ルサンシー” (英語). サラブレッド・ヘリテイジ. 2013年2月27日閲覧。
- ^ a b c “パース” (英語). サラブレッド・ヘリテイジ. 2013年2月27日閲覧。
- ^ フランス・ギャロ ラロシェト賞の歴史2013年2月28日閲覧[リンク切れ]。
- ^ “リュパン賞の記録” (フランス語). galop.courses-france.com. 2014年7月28日閲覧。
- ^ “フランスダービーでホロコースト敗れる” (英語). The Inquirer and Commercial News紙. (1899年6月2日) 2014年7月28日閲覧。
- ^ a b 「木の枝に乗った猿たち」『ダービーの歴史』 pp.71-76
- ^ a b “フライングフォックス” (英語). サラブレッド・ヘリテイジ. 2014年7月28日閲覧。
- ^ a b “エプソムダービー” (英語). シドニーメイル紙. (1899年6月15日) 2014年7月28日閲覧。
- ^ a b c “スローン騎手とホロコースト” (英語). ザ・マーキュリー紙. (1899年8月4日) 2013年2月27日閲覧。外科医のマーカス・スティーヴンソン医師がホロコーストの死について述べている。トッド・スローン騎手はアメリカからイギリスに「モンキー乗り」という騎乗方法を伝えた騎手だが、マーカス医師はこの騎乗方法(従来の騎乗スタイルよりもずっと前傾姿勢で馬のクビに近い部位に重心を置く)がホロコーストの前脚に余計な負担を与え、骨折の原因になったと批判している。モンキー乗りは20世紀にはごくありふれた騎乗スタイルとなった。
- ^ a b “競馬のブルーリボンにフライングフォックスが輝く” (英語). The Deseret News. (1899年5月31日) 2014年7月28日閲覧。
- ^ a b ミルウォーキージャーナル紙 1899年5月31日付 ダービーはフライングフォックスが優勝・トッドスローン騎乗のホロコーストは競走中止2014年7月28日閲覧[リンク切れ]。
- ^ “Holocauste” (英語). SporthorseData. 2024年2月17日閲覧。
- ^ a b c “Holocauste(FR) 5代血統表”. JBISサーチ. 2015年4月25日閲覧。
関連項目
[編集]- グラディアトゥール - 1865年にフランスからイギリスへわたって三冠を達成した馬。
外部リンク
[編集]- 競走馬成績と情報 JBISサーチ