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バルトーク・ベーラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベラ・バルトークから転送)
バルトーク・ベーラ
Bartók Béla
1927年のバルトーク(当時46歳)
基本情報
生誕 1881年3月25日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国
ナジセントミクローシュ英語版
死没 (1945-09-26) 1945年9月26日(64歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州
ブルックリン区
ジャンル クラシック音楽
民俗音楽
職業 作曲家
ピアニスト
民俗音楽研究家
担当楽器 ピアノ
民謡を録音するバルトーク(1908年)
バルトーク・ベーラ記念博物館(ブダペスト)
ブダペストの記念館内に設置されたバルトーク像

バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János [ˈbɒrtoːkˌbe̝ːlɒˈviktorˌjɑ̈ːnoʃ], 1881年3月25日 - 1945年9月26日)は、ハンガリー王国バーンシャーグ地方のナジセントミクローシュに生まれ、ニューヨークで没したクラシック音楽作曲家ピアニスト民俗音楽研究家。

作曲以外にも、学問分野としての民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカアルジェリアまで足を伸ばすなどの精力的な活動を行った。またフランツ・リストの弟子トマーン・イシュトバーン英語版1862年11月4日 - 1940年9月22日)から教えを受けた、ドイツオーストリア音楽の伝統を受け継ぐピアニストでもあり、コンサートピアニストやピアノ教師として活動した。ドメニコ・スカルラッティJ・S・バッハらの作品の校訂なども行っている。

生涯

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幼少期

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1881年、ナジセントミクローシュ(現在のルーマニアティミシュ県スンニコラウ・マレ英語版)に農学校校長で同名の父バルトーク・ベーラ(1855年-1888年)とピアノ教師でドイツ系の母パウラ・ヴォイト(1857年 - 1939年。スロヴァキアマルチン出身)の間に生まれる。父は町に音楽協会を設立するほどの熱心な音楽愛好家でもあり、自身でもピアノやチェロをたしなむ人物であった。母のパウラによれば、バルトークは病弱だったが、きちんと言葉をしゃべる前から母のピアノ演奏のダンスのリズムを区別し、3歳くらいから母のピアノ演奏に合わせて太鼓を叩き、4歳では自己流で40曲のピアノ曲を弾くなど音楽的素養を見せていた。そこで彼女は娘を出産した後の5歳頃から息子に正式なピアノ教育を始める。

7歳の時に父が病気(アジソン病だったと言われている)のため32歳で急死、ピアノ教師として一家を支えることとなった母の仕事の都合でナージセレーシュ(現在のウクライナヴィノフラージウ英語版)に転居、その後各地を転々とする。9歳前後から習作的なピアノ曲も書き始め、10歳の時にはピアニストとしての初舞台を踏むが、彼女は息子を天才少年ピアニストとして売り出す気はなく、まずは普通に教育を受けることになる。1893年に音楽活動の活発だったポジョニ(現在のスロヴァキアの首都、ブラチスラヴァ)に母と赴いた際、作曲家エルケル・ラスローに指導してもらう機会を得る。翌年、母がポジョニに仕事を得たため同地へ引っ越し、当地のギムナジウムに入学。エルンスト・フォン・ドホナーニと知り合い友人となる。

音楽家への道と民謡との出会い

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学内でもピアニストやオルガニストとして活動し、ヨハネス・ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可される。しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだというドホナーニの薦めに従い、翌年ブダペスト王立音楽院(後のリスト音楽院)に入学。作曲をハンス・ケスラー、ピアノをトマーン・イシュトヴァーンに指導を受ける。ここではワグネリアンの学長からリヒャルト・ワーグナーの洗礼を受けるが、既にブラームスの影響を脱して先に進もうとしていた彼に、ワーグナーは答えをくれなかったと回想している。

1902年、21歳の時にリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはこう語った』に強烈な衝撃を受け、交響詩『コシュート』を作曲。1848年ハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュへの賛歌であった為、当時ハプスブルク帝政の支配下にあったブダペストの世論を騒がせた。1904年にはゲルリーツェプスタ(現在スロヴァキア領)で初めてトランシルヴァニア出身者の歌うマジャル民謡に触れる。

1905年パリルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。作曲部門では入賞せず奨励賞の第2席、ピアノ部門では2位であった(優勝者はヴィルヘルム・バックハウス)。自分の人生をピアニストとして描いていたため、優勝を果たせずかなり落胆したようであるが、それ以上に作曲部門での結果の方がショックだったようである。また民謡について科学的アプローチを始めていたコダーイ・ゾルターンと出会い多大な影響を受ける[注釈 1]

1906年からコダーイやその他の研究者達と共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始める。1913年にアルジェリアへ赴いた他は、専ら当時のハンガリー国内で民族音楽を採集していた。

1907年、26歳でブダペスト音楽院ピアノ科教授となる[2]。ピアニストとして各地を旅するのではなく、ハンガリーに留まったことで、更なる民謡の採集が進み、民謡の編曲なども行う。この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやリヒャルト・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものであるが、ピアノ小品や親しかった女性ヴァイオリン奏者シュテフィ・ゲイエルに贈った『 ヴァイオリン協奏曲第1番』(ゲイエルの死後発表)の2楽章などでははっきりと民謡採集の影響が表れている。1908年の『弦楽四重奏曲第1番』にも民謡風要素が含まれている。またトマーンの紹介で知己を得ていたレオポルド・ゴドフスキー、バルトークの作品を評価したフェルッチョ・ブゾーニの推挙も得て、ピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第に浸透し始める。

スタイル確立と第一次世界大戦

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1909年、ツィーグレル・マールタ(Ziegler Márta)と結婚。翌1910年には長男ベーラ(バルトーク・ジュニア)が生まれる。この年、フレデリック・ディーリアスと知り合い、彼の作品の影響も受ける。

1911年、ただ1つのオペラとなった『青ひげ公の城』を書き、ハンガリー芸術委員会賞のために提出したが、演奏不可能という事で拒絶された。結局この曲は1918年まで演奏されなかった。当時バルトークは、政治的見解から台本の作家バラージュ・ベーラの名を伏せるように政府より圧力をかけられていたが、これを拒否し、同時に自身の作品がなかなか顧みられない現状に疲れてしまい、ピアノ科教授以外の公的な立場から身を引いた。その後の人生でバルトークは民謡への愛着は別として、ハンガリー政府や組織とは深く関わらないようにしている。芸術委員会賞に失望した後2、3年の間、作曲をせず、民謡の収集と整理に集中していた。

1914年、第一次世界大戦の勃発により、民謡の収集活動が難しくなったため作曲活動に戻り、1914年から16年にかけてバレエ音楽『かかし王子』、1915年から17年には『弦楽四重奏曲第2番』を書いている(採集活動自体は1918年まで行っている)。1918年には『かかし王子』初演が成功し、ある程度国際的な名声を得た。引き続き『青ひげ公の城』が初演される。同年、レンジェル・メニヘールトの台本によるパントマイム『中国の不思議な役人』の作曲を開始する。1919年に成立したハンガリー評議会共和国では、教育人民委員から任命を受けた4人から構成される音楽生活指導部に参加した[3]。しかし第1次世界大戦で敗戦国となったハンガリーはトリアノン条約による国土の大幅な縮小、更にハンガリー評議会共和国に関わったことでその後の政治の混乱に巻き込まれ、ピアニストや民俗音楽の研究家としての名声が高まるのとは裏腹に、本人としては不本意な時期が続く。

1921年から22年にかけてヴァイオリンのためのソナタを2つ書き、イェリー・ダラーニのヴァイオリンと自らのピアノで初演。更に彼女に同行してイギリスやフランスで演奏旅行を行う(この際、モーリス・ラヴェルやストラヴィンスキーと会っている)。これはそれまでに作曲した中で和声上、構成上最も複雑な作品である。また民謡的要素を自分の作品の中で生かすということに自信を深めたのか、それまで編曲作品と自作を区別するために付けていた作品番号を、ソナタ第1番の出版譜からは付けなくなった。

様々な活躍と、第二次世界大戦

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1923年、42歳でツィーグレル・マールタと離婚し、ピアノの生徒であったパーストリ・ディッタ(Pásztory Ditta、当時19歳)と結婚。翌1924年には次男ペーテル(バルトーク・ペーテル、Bartók Péter)が誕生している(ペーテルは後年アメリカで録音技師として活躍し、父親の作品を中心に優秀な録音を世に出した。また楽譜の校訂にも大きな功績がある。)。

同じ1923年には、政府からの委嘱により、ブダペスト市政50年祭のために『舞踏組曲』を提出。この後、1926年にピアノ・ソナタや『ピアノ協奏曲第1番』などを発表するまで3年ほど作品を発表せず、民俗音楽の研究や演奏会活動にやや力を入れるが、1927年から翌年にかけて、彼の弦楽四重奏曲としてもっとも高い評価を受けている[要出典]弦楽四重奏曲第3番』と『弦楽四重奏曲第4番』を作曲した。またピアノ協奏曲第1番をヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮と自らのピアノで初演する。その後も演奏家として1929年から30年にはアメリカソヴィエトへの演奏旅行を行い、ヨゼフ・シゲティパブロ・カザルスらと共演している。

1934年には音楽院ピアノ科教授の任から離れ、科学アカデミーの民俗音楽研究員となった。彼は長年作曲とピアニストとしての活動以外の時間を、自分や後進の研究者達が収集したコレクションの整理に取り組める環境を求めていたが[注釈 2]、遂にそれを得て研究活動に没頭するようになった。作曲家としても1936年には、バーゼル室内管弦楽団を率いていたパウル・ザッハーの委嘱で彼の代表作として知られる『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』を作曲。翌年ザッハーの手で初演が行われた。

1939年には『弦楽四重奏曲第6番』を作曲したが、第二次世界大戦が勃発し、民俗音楽の研究を出来る環境を求めており、またその文化政策などからナチス嫌いでもあったバルトークは、同年の母の死を機にヨーロッパを去ることを考え始めていたことをうかがわせる作品となった。この頃、反ユダヤ主義者との対話の中で、自らの祖父ヤーノシュがユダヤ人だったことを示唆しているが、ヤーノシュはマジャル人の父とクロアチア人の母の間に生まれ、ユダヤ人ではなかった(ただし、ディッタ夫人はユダヤ系の血をひいている)。

アメリカ移住と死

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母親の死以前から、バルトークは政治的に硬化していくハンガリーを去り、自身のライフワークである民俗音楽の研究に打ち込める環境を求めて他国へ移住することも検討し始めていた。はじめはトルコのアンカラへの移住を検討するが環境が整わないことから断念した。最終的には1940年春にアメリカ合衆国への演奏旅行の際、友人達にアメリカへ移住の可能性を打診、彼らの協力でコロンビア大学の客員研究員として南スラブの民俗音楽の研究に取り組む手はずを整えると一旦帰国。10月8日にブダペストのリスト音楽院の大ホールで告別コンサートを開き、ハンガリー国鉄の技術者になっていた長男、そしてコダーイに後を託し、ザッハーやかつての恋人・ゲイエルなど友人達の助力を受け、妻と膨大な研究資料や自作資料と共にアメリカ合衆国へ移住した。なお、次男ペーテルは全寮制の学校に在学中のためハンガリーに残ったが1年後単身アメリカに渡り、その後アメリカ海軍の招集に応じた。

少々自己中心的でなかなか他人と打ち解けないタイプであったバルトークにとって、アメリカは決して居心地は良くなかったし、研究や講演以外はピアニストとして生計を立てるつもりだったとはいえ、作曲する気にもならなかったようで、演奏会活動を行う以外は、先のコロンビア大学での研究の他、ヨーロッパから持ち込んだ民俗音楽の研究に没頭していた。しかし1940年ごろから右肩周辺に痛みを感じるなどの不調があった健康状態は次第に悪化、1942年になると断続的に発熱を繰り返すようになった。1943年初頭にはついに入院してそれまでの活動を全て中断する。

フリッツ・ライナーなどアメリカ在住のバルトークの友人たちは、戦争で印税収入が滞るなど収入源の無くなってしまった彼を支援するため「作曲者・著作者・出版者の為のアメリカ協会 (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) 」に医療費を負担させるよう働きかけ[5]、更に当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーに、彼の財団と夫人の思い出のための作品をバルトークに依頼させる。すると驚異的なスピードで『管弦楽のための協奏曲』を完成。この依頼があって作曲への意欲が引き起こされたようで、ヴァイオリン・ソナタを演奏会で取り上げる際にアドヴァイスを求めに来て親しくなったユーディ・メニューインの依頼で『無伴奏ヴァイオリンソナタ』にも着手し、1944年には両曲の初演にそれぞれ立ち会う。『子供のために』や『ミクロコスモス』の改訂版を出す出版社との新しい契約で収入面の不安もやや改善され、健康状態も小康を取り戻して民俗音楽の研究も再開した。しかし、その病は白血病だった。

1945年、『管弦楽のための協奏曲』の改訂を完成させた後、妻の誕生日プレゼントにしようと軽やかで新古典派的な『ピアノ協奏曲第3番』、ウィリアム・プリムローズから依頼された『ヴィオラ協奏曲』に着手するが、白血病の急性化のために9月26日にニューヨークのブルックリン病院で死去した(満64歳没)。死の4日前まで作曲を続けた前者は残り17小節のオーケストレーションが指示と共に遺され、草稿段階にとどまった後者とともに、友人でハンガリー系の作曲家シェルイ・ティボール(Sérly Tibór)によって補筆完成された。

遺体は「ナチスドイツや共産主義ソ連の名前が残っている内は祖国に埋葬しない」との遺言に基づき、ニューヨーク州ハーツデイル英語版ファーンクリフ墓地に埋葬されたが[6]ハンガリー社会主義労働者党が一党独裁放棄を決めるなど民主化が進んだことから、ハンガリー在住の長男ベーラとアメリカ合衆国在住の次男のぺーテル、そして指揮者ゲオルク・ショルティらの尽力で亡骸が1988年7月7日ハンガリーに移送され、国葬によりブダペストのファルカシュレーティ墓地英語版に埋葬された[7]。現在ファーンクリフには記念碑が残されている。

作風

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本人が「若い頃の私にとって、美の理想はベートーヴェンだった」と回想しているようにドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発したが、ハンガリー民族やハンガリー王国内の少数民族の民謡をはじめとした民俗音楽の収集とそれらについての科学的分析から、その語法を自分のものにしていった(同様の活動を行った先人にチェコのレオシュ・ヤナーチェクがいる)側面と、同時期の音楽の影響を受けた側面のバランスの中で作品を生み出す、という独自の道を歩んだ。ただし、彼の楽曲は民俗音楽の旋律やリズムだけではなく構造面も分析したうえで、なおかつソナタ形式など西洋の音楽技法の発展系を同時に取り入れて成立していることや、過去の音楽に目を向けて新しい音楽を生み出そうとした点など、音楽史的には新古典主義の流れの1人と位置付けても間違いではないだろう。

作品の変遷は大まかに以下のように区分できる。

- 1905年
ヨハネス・ブラームスリヒャルト・シュトラウスの影響が強い、後期ロマン主義的な作風。ハンガリー民族としての意識を曲で表現しようとする作品もあったが、まだ先人達同様にジプシー音楽的な要素を取り入れる形であった。
1906年 - 1923年頃
盟友のコダーイ・ゾルターンと共に、当時のハンガリー王国の各地から民謡収集を行い、一方では民謡を編曲したピアノ曲などを作り、他方では民謡の語法を科学的に分析した形で自身の作品に活かし出した時期。また自身の作品には、民謡以外にもクロード・ドビュッシーイーゴリ・ストラヴィンスキー新ウィーン楽派など当時の最先端の音楽の影響も強く反映されている。
この末期には民謡の語法を消化し、独自のスタイルをほぼ確立する。
1926年 - 1930年頃
特に室内楽作品において尖鋭的な和声と荒々しいまでの強烈な推進力を持ちながら、緻密な構造を持つ数々の作品を生み出した。「無調的」ともいわれるが、本人は無調音楽は存在しないとの立場をとっており、この時期の作品でも調的中心は存在している。またバロック音楽や古典派の影響を如実に感じさせるなど、新古典主義の流れに乗っている面も見られる。
1930年 - 1940年
その前の時代と同様に緻密な楽曲構造を持ちながら、もう少し和声的にも明快で、より新古典的なスタイルを打ち出した時期。数々の傑作を発表している。
1943年 - 1945年
アメリカ時代。傾向としてはその前の時代の末期の延長線上にあり、細かい動機よりも旋律的な要素を重視する傾向がある。より明快、明朗に大衆に受ける方向へ変化したとも言われるが、曲によってはそれ以前の厳しい顔をのぞかせる。

なお、アメリカ移住前に手紙で吐露しているように「作曲は教えるものではないし、私には不可能です」という考えの持ち主で、その生涯で作曲を指導したのは盟友コダーイの妻シャーンドル・エンマくらいとされている(先述のシェルイを「弟子」とする記述も多いが、それは正しくない)。作曲の理論的な面についても自身ではほとんど明らかにしておらず、手紙で自身の音楽語法がハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアの民俗音楽に強く影響をされていると書いている程度である。

そのため、彼の理論については様々な音楽学者たちが研究を行っており、ハンガリーの音楽学者レンドヴァイ・エルネー英語版は、バルトークは機能和声の代理和音を拡張することで12半音階を等質に扱う「中心軸システム[注釈 3]や、作品の構成(楽式)から和音の構成に至るまで黄金分割を基礎に置き、そのためにフィボナッチ数列を活用したとの論文を発表している。ただし、前者はともかく後者については当てはまらない作品がかなりあり、この説の妥当性を支持するスケッチの書き込みや計算メモ等が見当たらない[注釈 4]ため、現在ではハンガリー国内・国外いずれにおいても、専門の研究者でこの説を支持する人はあまり多くない。

ピアニストとして

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身長165センチ程度と体格的には決して大柄ではなかったが、手はかなり大きかった。そしてヴィルトゥオーゾとして自身の未来を思い描くほどの実力を持つリスト直系の弟子であり、晩年までピアニストとしての活動も行った。手紙などでは伴奏家としての腕前も自負していたようで、多くのソリストとの共演歴もある。自作自演やリストのピアノ曲のスタジオ録音、1940年にはシゲティと共演した演奏会でベートーヴェンの『「クロイツェル・ソナタ 』、『ドビュッシーのヴァイオリンソナタ』などのライヴ録音などを残しており、彼の演奏はCDなどで聴くことが出来る。

ドイツ・オーストリア音楽をレパートリーとしていたが、スカルラッティの編纂を行って自ら演奏したり、自らに多大な影響を与えたドビュッシーの作品も多く取り上げていた。自作のピアノ曲も自身が演奏会に取り上げるために書かれたものが少なくない。

また作曲は教えなかったが、ピアノ教育には熱心だった。自作でも教育のための作品は重要な位置を占めており、リスト音楽院ではピアノの教授として多くの弟子を育てた。シャーンドル・ジェルジリリー・クラウスゲザ・アンダなどのピアニストを直接指導したほか、指揮者のアンタル・ドラティや、作曲家でバルトークの民俗音楽研究の助手も務めたヴェレッシュ・シャーンドルなどがピアノの弟子である。また、指揮者ゲオルク・ショルティは直接の弟子ではなかったが、指導教授の代役として一時バルトークのピアノのレッスンを受けたことがあったことを回想している。

年譜

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作品

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バルトークは「作品番号」を習作の時点からつけており、「Op.1」と付記されている作品は3つある。その3つめである1904年の『ピアノのためのラプソディ』以降はオリジナルの作品には作品番号を付け、民謡からの編曲作品には付けないというルール付けを行った。しかし前述のように『ヴァイオリン・ソナタ第1番』の出版の際からこれを止める。このような事情から後年学者達が習作なども含めて分類した番号が付けられることも多く、少なくとも3種類の体系がある。ここではハンガリーの作曲家セールレーシ・アンドラーシュが作成した「バルトークの音楽作品と音楽学論文の目録」での付番「Sz.」を付記する。

交響曲

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  • 交響曲変ホ長調 1902年-1903年 Sz.16 ※未完で楽譜自体紛失。スケルツォ楽章のみ現存(Sz.17)

管弦楽曲

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協奏曲

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協奏曲に類するものも含む。

舞台作品

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室内楽曲

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ピアノ曲

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ピアニストで教育者でもあったバルトークは、ここに挙げた以外にも多数の作品(教則本含む)がある。

  • ピアノのためのラプソディー (1904年) Op.1 Sz.26
  • 14のバガテル (1908年) Op.6 Sz.38
  • 10のやさしい小品 (1908年) Sz.39
  • 2つのエレジー (1908年) Sz.41
  • 子供のために (1908年-1910年) Sz.42
    • ハンガリーとスロヴァキアの民謡をもとにした子供の教育用教本。生前から教育用作品・演奏会向け作品として高く評価され、バルトーク自身も1943年に改訂する以前から何度も手直しをしている。
  • 2つのルーマニア舞曲 (1910年) Op.8a Sz.43
  • 4つの挽歌 (1910年) Op.9a Sz.45
  • 3つのブルレスク (1911年) Op.8c Sz.47
  • アレグロ・バルバロ (1911年) Sz.49
    • 題名はフランスの新聞にバルトークとコダーイの作品の演奏会時に「ハンガリーの若き2人の野蛮人」と書かれたことに対する皮肉。
  • ピアノの初歩 (1913年) Sz.53
  • ソナチネ (1915年) Sz.55
  • ルーマニア民俗舞曲 (1914年) Sz.56
  • ルーマニアのクリスマス・キャロル (1915年) Sz.57
  • ピアノのための組曲 (1916年) Op.14 Sz.62
  • 15のハンガリーの農民の歌 (1918年) Sz.71
  • ハンガリー民謡による8つの即興曲 (1920年) Op.20 Sz.74
  • ピアノ・ソナタ (1926年) Sz.80
  • 組曲『戸外にて』 (1926年) Sz.81
  • 9つのピアノ小品 (1926年) Sz.82
    • 8曲目に「タンバリン」という曲があるが、バルトークがスペインを訪れた際の印象を元にしたものとも言われている。
  • ミクロコスモス (1926年-1939年) Sz.107
    • ピアノ教本であると同時に小曲集。初心者から上級者に向けての段階的な構成と、バルトークの確立した独自の音楽語法が特徴。

声楽曲

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ここに挙げた以外にも多数。

  • 民謡様式による3つの歌 (1904年) Sz.24
  • ハンガリー民謡 (1906年-1907年) Sz.33
  • 5つの歌曲 (1915年) Sz.61
  • エンドレ・アディの詞による5つの歌曲 (1915年) Sz.62
  • 8つのハンガリー民謡 (1908年-1916年) Sz.64
  • 村の情景 (1924年) Sz.78
  • 室内管弦楽と女声合唱のための『3つの村の情景』 (1926年) Sz.79
    • 『村の情景』より3曲を抜粋し、伴奏を管弦楽化したもの
  • 4つのハンガリー民謡 (1930年) Sz.93
  • カンタータ・プロファーナ 1930年 Sz.94
  • 声とオーケストラのための5つのハンガリー民謡 (1933年) Sz.101

参考文献・資料

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著作・手紙ほか

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  • 『バルトーク音楽論集』(岩城肇 訳、御茶の水書房、1992年8月) ISBN 4275014774。旧版は同[あごら叢書]、1988年
    • 元版『バルトークの世界 自伝・民俗音楽・現代音楽論』(講談社、1976年)
  • 『ある芸術家の人間像 バルトークの手紙と記録』(羽仁協子 編訳、冨山房、1970年)
  • 『資料と写真で見る バルトークの生涯』(フェレンツ・ボーニシュ編・著、国際文化出版社、1981年)
  • 『バルトーク・ベーラ ハンガリー民謡』(間宮芳生・伊東信宏 歌詞対訳、全音楽譜出版社、1995年) ISBN 4116050822
  • 『バルトーク音楽論選』(伊東信宏・太田峰夫 訳、ちくま学芸文庫、2018年) ISBN 4480098399

伝記・研究

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  • セルジュ・モルー『バルトーク 生涯・作品』(柴田南雄 訳、ダヴィッド社、1957年10月)
  • アガサ・ファセット『バルトーク晩年の悲劇』(野水瑞穂 訳、みすず書房、新装版2021年ほか) ISBN 4622090635。初版はシリーズ「亡命の現代史6」、1973年
  • ポール・グリフィス『バルトーク 生涯と作品』(和田旦 訳、泰流社[叢書ムジカ・ゼピュロス]、1986年、改訂新版1996年) ISBN 4812101638
  • 伊東信宏『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』(中公新書、1997年7月) ISBN 4121013700吉田秀和賞受賞
  • セーケイ・ユーリア『バルトーク物語』(羽仁協子・大熊進子 訳、音楽之友社[音楽選書]、1992年4月) ISBN 4276370620。著者は弟子
  • ペーテル・バルトーク 著、村上泰裕 訳『父・バルトーク : 息子による大作曲家の思い出』スタイルノート、2013年。ISBN 978-4-7998-0119-2 
  • ひのまどか『バルトーク―歌のなる木と亡命の日々』(リブリオ出版、1989年8月) ISBN 4897840694、児童書

音楽論

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  • ヤーノシュ・カールパーティ『バルトークの室内楽曲』(江原望・伊東信宏 訳、法政大学出版局、1998年) ISBN 4588420062 - 大著
  • レンドヴァイ・エルネー『バルトークの作曲技法』(谷本一之 訳、全音楽譜出版社、1998年12月、初版1990年) ISBN 4118000806 - 音楽教本
  • レンドヴァイ・エルネー『音のシンメトリー』(森本覚 訳、全音楽譜出版社、2002年2月) ISBN 4118000814
  • 横井雅子『ハンガリー音楽の魅力-リスト・バルトーク・コダーイ』(東洋書店[ユーラシア選書]、2006年2月)ISBN 4885956196

その他

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小惑星(4132) Bartokはバルトークの名前にちなんで命名された[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 1907年頃、バルトークはコダーイを通じて、当時ハンガリーでは知られていなかったクロード・ドビュッシーの音楽を知ることとなる[1]
  2. ^ 息子ペーテルはまだ年端もいかない頃の自身が、父親がピアノ教授としての仕事にうんざりしていることを人前でうっかり明かしてしまい、父親を困らせたエピソードを回想録で語っている。
  3. ^ ジャズの「コルトレーン・チェンジズ」と背景の理論はほとんど同じである
  4. ^ バルトークは周囲が語るように規則正しく几帳面な人物で、自作曲のスケッチなども破棄せず残していた。

出典

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  1. ^ バルトーク・ベーラ・著、岩城馨・訳『バルトーク音楽論集』あごら叢書、1988年5月25日、ISBN978-4275007988、p.19
  2. ^ 著者吉澤ヴィルヘルム、発行者矢野恵二『ピアニストガイド』株式会社青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、251ページ、ISBN 4-7872-7208-X
  3. ^ 鹿島正裕「1919年のハンガリー社会主義 : 評議会国家とその国内政策」『アジア経済』第18巻第8号、アジア経済研究所、1977年8月、30-46頁、ISSN 0002-2942NAID 120000807064 
  4. ^ P.バルトーク 1992, pp. 136–138.
  5. ^ バルトークの次男ペーテルの回想では、1943年の時点では印税収入や演奏会での収入が途絶えていたこと、治療費が高額であることから、一家の収入はハンガリー時代の数分の一になっていた[4]
  6. ^ [1]
  7. ^ [2]
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外部リンク

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