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フレデリック・モーリス・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (オーヴェルニュ伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フレデリック・モーリス(2世)・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ
Frédéric-Maurice (II) de La Tour d'Auvergne
オリエルグ伯
ランケ侯

称号 オーヴェルニュ伯
出生 (1642-01-15) 1642年1月15日
死去 (1707-11-23) 1707年11月23日(65歳没)
配偶者 ベルヘン・オプ・ゾーム辺境女伯フランツィスカ・フォン・ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン
  エリーザベト・ファン・ワッセナール=ステレンブルフ
子女 本文参照
家名 ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家
父親 ブイヨン公フレデリック・モーリス
母親 エレオノール・ファン・デン・ベルフフランス語版
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フレデリック・モーリス(2世)・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュFrédéric-Maurice (II) de La Tour d'Auvergne, 1642年1月15日 - 1707年11月23日)は、ブルボン朝時代フランスの貴族・軍人。オリエルグ英語版伯及びランケ英語版侯爵だが、宮廷儀礼上はオーヴェルニュ伯を名乗った。最終階級は陸軍中将。

ブイヨン公フレデリック・モーリスとその妻エレオノール・ファン・デン・ベルフフランス語版の間の次男[1][2]。1662年5月1日、母の従妹のベルヘン・オプ・ゾーム辺境女伯マリア・エリーザベト・ファン・デン・ベルフと、その夫のホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯アイテル・フリードリヒ2世の間の一人娘フランツィスカと結婚、1698年に死別するまでに、間に13人の子をもうけた[1][2]

  • 息子(1663年 - 1664年)
  • フレデリック・ゴドフロワ(1664年 - 1672年頃)
  • エリザベート・エレオノール(1665年 - 1746年) - トリニー=シュル=ヴィル女子修道院長
  • ルイーズ・エミリー(1667年 - 1737年) - モンマルトル女子修道院長
  • マリー・アンヌ(1669年 - 1763年) - 修道女
  • エマニュエル・モーリス(1670年 - 1702年) - 聖ヨハネ騎士団員(聖職)
  • アンリ・オズワールフランス語版(1671年 - 1747年) - トゥール大司教、ヴィエンヌ大司教、枢機卿
  • フランソワ(1672年 - ?) - 夭折、ヴィムーユ公
  • アンリエット(1673年 - ?) - 夭折
  • ルイ・フレデリック(1674年 - ?) - 夭折
  • フランソワ・エゴン(1675年 - 1710年) - オーヴェルニュ公及びベルヘン・オプ・ゾーム辺境伯(侯爵)、1707年アーレンベルク公女マリー・アンヌと結婚
  • フレデリック・コンスタンタン(1682年 - 1732年) - オリエルグ伯
  • テレーズ・アンリエット(1683年 - ?) - 夭折

1699年4月2日エリーザベト・ファン・ワッセナール=ステレンブルフと再婚したが、1704年に死別している[1]

引用・脚注

[編集]
  1. ^ a b c Paul Theroff. “La Tour d’Auvergne”. Paul Theroff's Royal Genealogy Site. 2020年1月4日閲覧。
  2. ^ a b Frederic Maurice, Cte d'Auvergne, Cte d'Oliergues, Marquis de Lanquais, etc,Genealogy.euweb.de La Tour3.