フランチェスコ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
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フランチェスコ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ Francesco di Borbone-Due Sicilie | |
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称号 | トラーパニ伯 |
出生 |
1827年8月13日 両シチリア王国、ナポリ |
死去 |
1892年9月24日(65歳没) フランス共和国、パリ |
配偶者 | マリーア・イザベッラ・ダズブルゴ=トスカーナ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ブルボン=シチリア家 |
父親 | 両シチリア王フランチェスコ1世 |
母親 | マリーア・イザベッラ・ディ・スパーニャ |
フランチェスコ・ディ・パオラ・ルイジ・エマヌエーレ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ(Francesco di Paola Luigi Emanuele di Borbone-Due Sicilie, 1827年8月13日 - 1892年9月24日)は、両シチリア王国の王族。両シチリア王フランチェスコ1世とその2番目の妃でスペイン王カルロス4世の娘であるマリア・イサベルの間の末息子。トラーパニ伯(Conte di Trapani)の儀礼称号で呼ばれた。
生涯
[編集]1850年4月10日、フランチェスコは姉のマリーア・アントーニアとその夫のトスカーナ大公レオポルド2世の間の長女マリーア・イザベッラと結婚した。1861年に両シチリア王国が千人隊に征服されると、フランチェスコは一族の人々とともにローマに逃亡し、教皇ピウス9世の保護を受けた。しかし教皇領も1870年にはサヴォイア家のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によって占領されたため、ブルボン=シチリア家はさらにフランスに亡命することを余儀なくされた。フランチェスコは1892年、パリで死んだ。
子女
[編集]妻マリーア・イザベッラとの間に6人の子女をもうけた。
- マリーア・アントニエッタ(1851年 - 1938年) - 1868年、従兄の両シチリア王子・カゼルタ伯アルフォンソと結婚
- レオポルド(1853年 - 1870年)
- マリーア・テレーザ(1855年 - 1856年)
- マリーア・カロリーナ(1856年 - 1941年) - 1885年、アンジェイ・ザモイスキ伯爵と結婚
- フェルディナンド(1857年 - 1859年)
- マリーア・アンヌンツィアータ(1858年 - 1873年)