フランソワ・ド・ラ・トレモイユ
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フランソワ2世・ド・ラ・トレモイユ François II de La Trémoille | |
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第36代トゥアール子爵 | |
在位 | 1525年 - 1541年 |
出生 |
1505年 |
死去 |
1541年 |
配偶者 | アンヌ・ド・ラヴァル |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ラ・トレモイユ家 |
父親 | シャルル・ド・ラ・トレモイユ |
母親 | ルイーズ・ド・コエティヴィ |
フランソワ(2世)・ド・ラ・トレモイユ(François (II) de La Trémoille, vicomte de Thouars, 1505年 - 1541年)は、ヴァロワ朝時代フランスの貴族。第36代トゥアール子爵。
生涯
[編集]トゥアール子爵ルイ2世・ド・ラ・トレモイユの子息シャルル・ド・ラ・トレモイユ(1485年 - 1515年)と、妻ルイーズ・ド・コエティヴィの間の息子[1]。1515年マリニャーノの戦いで父を、1525年パヴィアの戦いで祖父を亡くし、20歳でラ・トレモイユ家の家督を継いだ。トゥアール子爵の他、タルモン公、タイユブール伯、ギーヌ伯、ブノン伯、クラン、ロワイヤン、シュリー、リル=ブシャール、ブランドワ、モレオン、マルイユ、マラン、ロシュフォール、サンテルミーヌ及びドゥエの男爵であった。
1536年3月10日付のパリ高等法院の布告により、領地の1つロシュフォールを王領地に編入され、翌1537年10月31日にロシュフォール城の城代(シャトラン)職を失った。国王の官吏たちはこの王領地編入を正当化する根拠として、1453年のカスティヨンの戦いに際してラ・トレモイユ家が王室から1万8000エキュの借入金を与えられたことを持ち出し、この件の負債の帳消しだと主張した。
子女
[編集]1521年1月23日、アンヌ・ド・ラヴァルと結婚[1]、間に8人の子をもうけた。
- ルイ3世(1521年 - 1577年) - トゥアール子爵[1](のち公爵)
- フランソワ(1555年没) - ブノン伯、モンタギュー男爵、 アンドレ・ド・フォワの寡婦フランソワーズ・デュ・ブーシェと結婚
- シャルル(1551年没) - モレオン男爵及びマラン男爵、サン=ラン・ド・トゥアール修道院長及びノートルダム・ド・シャンボン修道院長
- ジョルジュ(1584年没) - ロワイヤン及びオロンヌ男爵、パンティエーヴル公爵の妹マドレーヌ・ド・リュクサンブールと結婚
- クロード(1556年没) - ノワールムティエ男爵、アントワネット・ド・マイエと結婚
- ルイーズ(1569年没) - ロシュフォール女男爵、フィリップ・ド・レヴィ=ミルポワと結婚
- ジャクリーヌ(1599年没) - マラン、サント=エルミーヌ、ブランドワ及びブレム=シュル=メール女男爵、サンセール伯爵ルイ4世・ド・ビュエイユと結婚
- シャルロット - 修道女
脚注
[編集]- ^ a b c Bardet et al. 2000, p. 48.
参考文献
[編集]- Bardet, Jean-Pierre; Dinet, Dominique; Poussou, Jean-Pierre et al., eds (2000) (French). Etat et société en France aux XVIIe et XVIIIe siècles. Presses de l'Universitie de Paris-Sorbonne