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タイユブール (シャラント=マリティーム県)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Taillebourg


地図
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏
(département) シャラント=マリティーム県
(arrondissement) サン=ジャン=ダンジェリ郡
小郡 (canton) サン=ジャン=ダンジェリ小郡
INSEEコード 17436
郵便番号 17350
市長任期 ピエール・テクシエ
2014年-2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes du Pays Savinois
人口動態
人口 737人
2016年
人口密度 52人/km2
住民の呼称 Taillebourgeois[1]
地理
座標 北緯45度50分15秒 西経0度38分32秒 / 北緯45.8375度 西経0.642222222222度 / 45.8375; -0.642222222222座標: 北緯45度50分15秒 西経0度38分32秒 / 北緯45.8375度 西経0.642222222222度 / 45.8375; -0.642222222222
標高 平均:? m
最低:2 m
最高:63m
面積 14.25km2
Taillebourgの位置(フランス内)
Taillebourg
Taillebourg
公式サイト www.taillebourg17.fr
テンプレートを表示

タイユブールTaillebourg)は、フランスヌーヴェル=アキテーヌ地域圏シャラント=マリティーム県コミューン

ドラクロワの絵画で有名になったタイユブールは、シャラント川右岸にあってクルーズ船観光で活気づく河岸をもつ、石造りの住宅が並んだ大きな村である。

地理

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城と村の航空写真

タイユブールのコミューンは、かつての州であるサントンジュに属し、県の中東部にある。ミディ・ド・ラ・フランス地方(フランス南部)、より正確にはミディ・アトランティック地方(大西洋南部)であり、ヨーロッパ委員会がいうところの『大西洋の弧』(アルク・アトランティック)の中心にあり、フランス南西部に不可欠な部分である。より曖昧にはグラン・ウエスト地方に含まれることもある。

タイユブールは2つの異なる村落で構成されている。高地地区は、シャラント川を見下ろす岩の頂上で城が建てられている。低地地区は、ナント-ボルドー間鉄道路線と、サントとサン・サヴィニアンを結ぶ県道に沿って川の端につくられた。ここは中世以降川港が発展した場所である。

川の右岸に全体が建てられたタイユブールの繁栄は、シャラント川に負う部分が大きい。村は中世以降活気ある川港になった。しかし、19世紀になり、特に第二帝政時代のコニャックの『黄金時代』には、港の交通量がピークに達し、平底船はトネ=シャラントに向けてコニャックを運んだ。ここは当時ブランデーの最初の原産港だった。

20世紀初頭から、鉄道が急激に発展すると、同時に港は急速に衰退していった。この河岸は現在、レジャーボートと河川クルーズに専念している。

由来

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タイユブールは1267年にTerra Talleburgiというつづりであったことが証明されている[2]

それは中世の特徴的な形であり、taille-で構成される地名では、Taillebois、Taillecourt、Taillecavat、Taillefontaineを見つけることができる[3]。第二要素のbourgは大陸ゲルマン語に由来する言葉である。したがってTaillebourgは『土地の一掃からできた町』となる。

歴史

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9世紀後半、ヴァイキングはタイユブールに基地をつくり、周辺地方を荒らしまわった[4]。しかし、この仮説は当時質問を呈することなく2005年に反論された[5]

1242年7月21日に発生したタイユブールの戦いのおかげで、歴史上最も知られるようになった。それはサントの戦い(7月23日)に先行して起きた。弟アルフォンス・ド・ポワティエに支援されたルイ9世は、イングランドヘンリー3世の支援を受ける、ユーグ10世・ド・リュジニャン率いるポワトゥー封建領主連合を打ち負かした。

1346年9月、イングランドのダービー伯爵がタイユブールを占領した可能性があるが、歴史家はそれを確信していない[4]

人口統計

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2016年時点のコミューンの人口は737人で、2011年当時の人口より1.34%減少した[6]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2005年 2016年
636 681 637 626 561 600 704 737

参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[7]、2006年以降INSEE[8][9]

ギャラリー

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姉妹都市

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脚注

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  1. ^ "Les gentilés de Charente-Maritime". habitants.fr. {{cite web}}: Cite webテンプレートでは|access-date=引数が必須です。 (説明)
  2. ^ fr:Albert Dauzat et fr:Charles Rostaing, Dictionnaire étymologique des noms de lieux en France, Librairie Guénégaud 1979. p. 667.
  3. ^ A. Dauzat et Ch. Rostaing, op. cit.
  4. ^ a b Robert Favreau, in Jean Combes (dir.), Histoire du Poitou et des Pays charentais : Deux-Sèvres, Vienne, Charente, Charente-Maritime, Clermont-Ferrand, éditions Gérard Tisserand, 2001, 334 p. (ISBN 2-84494-084-6, lire en ligne [archive]), p. 197
  5. ^ Château, ville et pouvoir au Moyen Âge, sous la direction d'Anne-Marie Flambart Héricher et fr:Jacques Le Maho, publication de CRAHM, p. 147 [1]
  6. ^ Population municipale légale en vigueur au 1er janvier 2019, millésimée 2016, définie dans les limites territoriales en vigueur au 1er janvier 2018, date de référence statistique : 1er janvier 2016.
  7. ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=36985
  8. ^ https://www.insee.fr/fr/statistiques/3293086?geo=COM-17436
  9. ^ http://www.insee.fr