タイユブール (シャラント=マリティーム県)
Taillebourg | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏 |
県 (département) | シャラント=マリティーム県 |
郡 (arrondissement) | サン=ジャン=ダンジェリ郡 |
小郡 (canton) | サン=ジャン=ダンジェリ小郡 |
INSEEコード | 17436 |
郵便番号 | 17350 |
市長(任期) |
ピエール・テクシエ (2014年-2020年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes du Pays Savinois |
人口動態 | |
人口 |
737人 (2016年) |
人口密度 | 52人/km2 |
住民の呼称 | Taillebourgeois[1] |
地理 | |
座標 | 北緯45度50分15秒 西経0度38分32秒 / 北緯45.8375度 西経0.642222222222度座標: 北緯45度50分15秒 西経0度38分32秒 / 北緯45.8375度 西経0.642222222222度 |
標高 |
平均:? m 最低:2 m 最高:63m |
面積 | 14.25km2 |
公式サイト | www.taillebourg17.fr |
タイユブール (Taillebourg)は、フランス、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏、シャラント=マリティーム県のコミューン。
ドラクロワの絵画で有名になったタイユブールは、シャラント川右岸にあってクルーズ船観光で活気づく河岸をもつ、石造りの住宅が並んだ大きな村である。
地理
[編集]タイユブールのコミューンは、かつての州であるサントンジュに属し、県の中東部にある。ミディ・ド・ラ・フランス地方(フランス南部)、より正確にはミディ・アトランティック地方(大西洋南部)であり、ヨーロッパ委員会がいうところの『大西洋の弧』(アルク・アトランティック)の中心にあり、フランス南西部に不可欠な部分である。より曖昧にはグラン・ウエスト地方に含まれることもある。
タイユブールは2つの異なる村落で構成されている。高地地区は、シャラント川を見下ろす岩の頂上で城が建てられている。低地地区は、ナント-ボルドー間鉄道路線と、サントとサン・サヴィニアンを結ぶ県道に沿って川の端につくられた。ここは中世以降川港が発展した場所である。
川の右岸に全体が建てられたタイユブールの繁栄は、シャラント川に負う部分が大きい。村は中世以降活気ある川港になった。しかし、19世紀になり、特に第二帝政時代のコニャックの『黄金時代』には、港の交通量がピークに達し、平底船はトネ=シャラントに向けてコニャックを運んだ。ここは当時ブランデーの最初の原産港だった。
20世紀初頭から、鉄道が急激に発展すると、同時に港は急速に衰退していった。この河岸は現在、レジャーボートと河川クルーズに専念している。
由来
[編集]タイユブールは1267年にTerra Talleburgiというつづりであったことが証明されている[2]。
それは中世の特徴的な形であり、taille-で構成される地名では、Taillebois、Taillecourt、Taillecavat、Taillefontaineを見つけることができる[3]。第二要素のbourgは大陸ゲルマン語に由来する言葉である。したがってTaillebourgは『土地の一掃からできた町』となる。
歴史
[編集]9世紀後半、ヴァイキングはタイユブールに基地をつくり、周辺地方を荒らしまわった[4]。しかし、この仮説は当時質問を呈することなく2005年に反論された[5]。
1242年7月21日に発生したタイユブールの戦いのおかげで、歴史上最も知られるようになった。それはサントの戦い(7月23日)に先行して起きた。弟アルフォンス・ド・ポワティエに支援されたルイ9世は、イングランド王ヘンリー3世の支援を受ける、ユーグ10世・ド・リュジニャン率いるポワトゥー封建領主連合を打ち負かした。
1346年9月、イングランドのダービー伯爵がタイユブールを占領した可能性があるが、歴史家はそれを確信していない[4]。
人口統計
[編集]2016年時点のコミューンの人口は737人で、2011年当時の人口より1.34%減少した[6]
1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2005年 | 2016年 |
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636 | 681 | 637 | 626 | 561 | 600 | 704 | 737 |
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[7]、2006年以降INSEE[8][9]
ギャラリー
[編集]-
シャトーから見た村
-
教会
-
シャトー
-
Ancien logis du château.
-
泉
-
シャラント川
姉妹都市
[編集]- ストックブリッジ、イギリス
脚注
[編集]- ^ "Les gentilés de Charente-Maritime". habitants.fr.
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: Cite webテンプレートでは|access-date=
引数が必須です。 (説明) - ^ fr:Albert Dauzat et fr:Charles Rostaing, Dictionnaire étymologique des noms de lieux en France, Librairie Guénégaud 1979. p. 667.
- ^ A. Dauzat et Ch. Rostaing, op. cit.
- ^ a b Robert Favreau, in Jean Combes (dir.), Histoire du Poitou et des Pays charentais : Deux-Sèvres, Vienne, Charente, Charente-Maritime, Clermont-Ferrand, éditions Gérard Tisserand, 2001, 334 p. (ISBN 2-84494-084-6, lire en ligne [archive]), p. 197
- ^ Château, ville et pouvoir au Moyen Âge, sous la direction d'Anne-Marie Flambart Héricher et fr:Jacques Le Maho, publication de CRAHM, p. 147 [1]
- ^ Population municipale légale en vigueur au 1er janvier 2019, millésimée 2016, définie dans les limites territoriales en vigueur au 1er janvier 2018, date de référence statistique : 1er janvier 2016.
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=36985
- ^ https://www.insee.fr/fr/statistiques/3293086?geo=COM-17436
- ^ http://www.insee.fr