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フェニキア人のアフリカ大陸周航

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フェニキア人のアフリカ大陸周航(フェニキアじんのアフリカたいりくしゅうこう)は、古代エジプトファラオであるネコ2世(在位:紀元前610年 - 紀元前595年)がフェニキア人に命じて行わせた航海である。ヘロドトスが『歴史』に記して後世に伝えたこのできごとが事実であるか否かについては議論があるが、事実であれば15世紀バルトロメウ・ディアスヴァスコ・ダ・ガマの航海に2000年以上先行する人類史上初めてのアフリカ大陸周航ということになる。

ヘロドトスによる記述

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さて私には、リビア、アジア、ヨーロッパを区切って分離した人々のやり方が不思議に思われてならない。この三者の相違は決して小さくないからである。長さ(東西)からいえば、ヨーロッパは他の二者を合せた長さにわたって延びており、幅(南北)については比較にもならぬほど(の大きさ)であると私には考えられるのである。リビアがアジアに接する地点を除いては、四方海に囲まれていることは、リビアの地形から自から明らかなことで、われわれの知る限りでは、このことを証明してみせたのは、エジプト王ネコスがその最初の人であった。彼はナイル河からアラビア湾に通ずる運河の開鑿を中止した後、フェニキア人を搭乗させた船団を派遣したのであったが、帰路には「ヘラクレスの柱」を抜けて北の海に出、エジプトに帰着するよう命じておいたのである。さて、フェニキア人たちは紅海から出発して南の海を航海していった。そして秋になれば、ちょうどその時航海していたリビアの地点に接岸して穀物の種子を蒔き、刈入れの時まで待機したのである。そして穀物を採り入れると船を出すというふうにして二年を経、三年目に「ヘラクレスの柱」を迂回してエジプトに帰着したのであった。そして彼らは――余人は知らず私には信じ難いことであるが――リビアを周航中、いつも太陽は右手にあった、と報告したのであった。 — ヘロドトス、『歴史』第4巻第42節(松平千秋訳)[1]

ヘロドトスは世界の地理を説明する中で、ネコス(ネコ2世)の命令によるフェニキア人のリビア(アフリカ)周航を紹介した[1]。ネコ2世は紀元前610年から紀元前595年まで在位したエジプトのファラオである[2]。彼が計画したナイル川からアラビア湾(紅海)に通ずる運河の開鑿については『歴史』第2巻第158節に記述があるが、その工事が敵国に対してエジプトへの通路を開くことになるという神託を受けて中止された[3][4]。フェニキア人の航海が行われたのはそれに続いてのことである。彼らの船団は紅海からインド洋へと進み、3年をかけて「ヘラクレスの柱」(ジブラルタル海峡)を抜けエジプトに帰還した。航海中の食糧の問題は接岸して穀物を播種し収穫することによって解決された。そしてアフリカを周航している間、太陽が右手の側に見えていたというのである[1]

続いてアケメネス朝クセルクセス1世に命じられてアフリカ周航を試み失敗したサタスペス、ダレイオス1世に命じられてペルシア沿岸周航を行ったスキュラクスのことが記述される[5]ストラボンは『地理誌』の中でヘロドトスを引用してダレイオス1世の命令によるアフリカ周航を伝えているが、現在知られている『歴史』のテキストにはそのような記述はなくおそらくストラボンの誤りである[6][7]

古代の見方

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ヘロドトス自身は、太陽が右手に見えたというフェニキア人の主張は信じないとしても、アフリカの周航自体は可能であったと見なしていたようである[8]。しかし、古代においては、ヘロドトスの記すフェニキア人のアフリカ周航には否定的な見解が主流であった[7]。ストラボンはポセイドニオスに従ってヘロドトスの記述を退け、アフリカは海に囲まれた大陸だが、紅海側からにしろジブラルタル海峡側からにしろ、さまざまな障害によりその周航は不可能であるとしていた[7]。また、アフリカ西海岸を探検したことのあるポリュビオスは、アフリカが南方に無限に続く大陸か、あるいは海に囲まれた大陸かについて不明としている[7]クラウディオス・プトレマイオスは、アフリカが南方でアジアとつながっており、インド洋と大西洋が連続していないとしている[7]

近代以降の見方

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近代以降、ヘロドトスの伝えるフェニキア人のアフリカ周航が実際に行われたとする見解が多くなったが、その論拠の薄弱さを理由に否定的な見解も依然としてある[4]。肯定的な見解において、この出来事の真実性を示すとされているのが、ヘロドトスの信じなかった太陽の位置の変化である[4]

脚注

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  1. ^ a b c 松平訳 1972, pp. 31–32.
  2. ^ Lendering 2019.
  3. ^ 松平訳 1971, pp. 264–265.
  4. ^ a b c 織田 1952, p. 154.
  5. ^ 松平訳 1972, pp. 32–34.
  6. ^ Lloyd 1977, p. 148.
  7. ^ a b c d e 織田 1952, p. 153.
  8. ^ 織田 1952, p. 152.

参考資料

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