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ピエトロ・メタスタージオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピエトロ・メタスタージオ
Pietro Metastasio
ペンネーム ピエトロ・メタスタージオ
誕生 ピエトロ・アントニオ・ドメニコ・トラパッシ
1698年1月3日
教皇領ローマ
死没 (1782-04-12) 1782年4月12日(84歳没)
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ国民の神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国
ウィーン
職業 オペラ台本作家詩人
ウィキポータル 文学
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ピエトロ・メタスタージオ: Pietro Metastasio, 本名:ピエトロ・アントニオ・ドメニコ・トラパッシ, Pietro Antonio Domenico Trapassi, 1698年1月3日1782年4月12日)は、イタリア詩人オペラ台本作家。アルカディア派最大の詩人[1]。イタリアで成功し、後にオーストリアの宮廷詩人となる。オペラ・セリアの様式を確立した。

生涯

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初期の人生

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メタスタージオはローマの生まれ。アッシジ出身の父親フェリーチェ・トラパッシは教皇軍コルシカ連隊にいた時、ボローニャ人女性フランチェスカ・ガラスティと知り合って結婚。その後、「帽子屋通り」で食料雑貨商を始めた。息子が2人、娘が2人いて、メタスタージオは2番目の子供だった。

子供の頃、メタスタージオはお題として与えられたテーマに応えて、即興の詩を朗唱し、聴衆を魅了させたと言われている。1709年、メタスタージオがそうやっているところに2人の紳士が通りかかった。その1人が、法律と文学に対する深い学識で知られ、アルカディア・アカデミー英語版の理事職にあったジョヴァンニ・ヴィンツェンツォ・グラヴィーナ英語版だった。グラヴィーナは少年の詩の才能とかわいらしさに惚れ込み、2、3週間後、メタスタージオを自分のprotégé(被保護者)にした。父親は自分の息子に良い教育と社交界に入れるチャンスが与えられたことを喜んだ。

本名のトラパッシをギリシャ風に「メタスタージオ」に変えたのはこのグラヴィーナだった。自分と同じ弁護士にしようと考えてのことで、ラテン語を教えた。同時に、天賦の詩の才能にも磨きをかけ、自宅で、ローマの仲間たちの前で、少年の神童ぶりを見せつけた。メタスタージオはたちまち有名になり、イタリアの名誉ある即興詩大会に出場し、優勝を競い合った。しかし、日中は勉強、夜は大会と忙しすぎるため、健康を害してしまった。

グラヴィーナは仕事でカラブリアに出張した時、メタスタージオも連れて行き、ナポリ文壇に紹介した。それから、スカレーアの親類グレゴリオ・カロプレーゼにメタスタージオを預けた。田舎の空気と南海岸の静けさの中、メタスタージオは健康を回復した。グラヴィーナもメタスタージオの才能を詩の即興で二度と消費させず、将来学業を終えた時、偉大な詩人たちと争う時のためにとっておくことに決めた。

メタスタージオはその期待に応えた。12歳にして『イーリアス』をオッターヴァ・リーマに翻訳し、その2年後には、グラヴィーナが好きだった、ジャン・ジョルジョ・トリッシーノ英語版の『Italia liberata』のテーマからセネカ風の悲劇を作りあげた。それが『ジュスティーノ』で、24年後の1713年に出版された。もっともメタスタージオは出版者にこの若い頃の作品の出版を取りやめたいと話していた。

1714年にカロプレーゼが亡くなって、財産はグラヴィーナが相続した。そのグラヴィーナも1718年に亡くなって、2人の財産15,000スクードをメタスタージオが相続した。アルカディア・アカデミーの集りでメタスタージオはグラヴィーナを追悼するエレジーを朗唱した。

ローマでの名声

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20歳になるまでの4年間、メタスタージオは神父の服を着て過ごした。夢のような立身出世、美貌、魅力的なふるまい、類い稀な才能はメタスタージオを時の人にした。2年間、金を浪費して過ごした後、プロとして仕事をすることに決め、ナポリのカスタニョーラという著名な法律家の事務所に入った。カスタニョーラはメタスタージオを酷使した。

法律の仕事であくせくする一方、1721年、メタスタージオはパトロンであったドンナ・アンナ・フランチェスカ・ラヴァスキエーリ・ピネッリ・ディ・サングロ(後の第6代ベルモンテ王妃)とドン・アントーニオ・ピニャテッリ侯(後のベルモンテ皇太子)の結婚に際して、祝婚歌と、おそらく最初の音楽作品になるセレナータ『エンディミオン』を作った。1722年、ドンナ・アンナの誕生日を祝うため、太守はメタスタージオにオペラ(セレナータ)の台本を依頼した。メタスタージオはそれを了承したが、作者が誰かは伏せてもらうことにした。そして書いたのが『ヘスペリデスの園』だった。作曲はニコラ・ポルポラで、歌はポルポラの弟子のカストラート歌手ファリネッリが歌った。台本作家として素晴らしいデビューで、熱狂的な喝采を浴びた。

このオペラにヴィーナス役で出ていたローマのプリマドンナ、マリアンナ・ブルガレッリ英語版は匿名の作者の正体がメタスタージオであると知ると、音楽劇での成功を約束し、法律家をやめて作家になるよう説得した。メタスタージオもそれに同意した。ブルガレッリの家で、メタスタージオは当時の名作曲家たちと知り合った。ヨハン・アドルフ・ハッセジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージアレッサンドロ・スカルラッティレオナルド・ヴィンチレオナルド・レーオフランチェスコ・ドゥランテベネデット・マルチェッロらで、その全員が後にメタスタージオの詞に曲をつけた。さらにその家で、メタスタージオは歌唱法、ならびにファリネッリなどの男性歌手のスタイルについて勉強した。メタスタージオの筆は早く、作品は曲と当時の大歌手の歌唱でなお素晴らしいものになった。メタスタージオの台本は、筋としては因習的に見えたが、その状況は不条理だった。メタスタージオは歴史的事実を歪曲し、愛の問題に焦点を絞った。批判もあったが、音楽がそれを補った。

メタスタージオはローマで、ブルガレッリ夫妻と一緒に住んでいた。ブルガレッリは半ば愛情から、そしてその才能への賞賛から、グラヴィーナに劣らずメタスタージオを可愛がった。メタスタージオの家族全員(父母、兄弟、姉妹)を自分の家に引き取ったほどである。メタスタージオの才能を育て、気まぐれも許した。ブルガレッリの庇護下で、メタスタージオは『捨てられたディドーネ』、『ウティカのカトーネ』、『エツィオ』、『インドのアレッサンドロ』、『許されたセミラーミデ』、『シローエ』、『アルタセルセ』と、次々に台本を書いた。それらには当時の大作曲家が曲をつけ、イタリアの主要な都市で上演された。

しかし、ブルガレッリは高齢で大衆の前で歌うことをやめ、メタスタージオも頼ってばかりではいけないと感じだした。オペラ1本につき300スクードの報酬を得ていたが、不安定で、固定収入を望んだ。1729年9月、メタスタージオは皇帝カール6世からアポストロ・ゼーノの後任としてウィーン宮廷劇場の宮廷詩人のオファーを受けた。俸給は3,000フロリンだった。メタスタージオはただちにそれを承諾した。ブルガレッリもそれを喜び、ローマの家族の世話を引き受けてくれることになった。そしてメタスタージオはオーストリアに旅立った。

ウィーン

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1730年初夏、メタスタージオはウィーンの宮廷詩人に就き、俗に「ミヒャエルハウス」と呼ばれるアパートメントに腰を落ち着けた。この年から1740年までの間に、メタスタージオは『アドリアーノ』、『デメートリオ』、『イッシーピレ』、『デモフォーンテ』、『オリンピーアデ』、『皇帝ティートの慈悲』、『シーロのアキレス』、『テミストークレ』、『アッティーリオ・レーゴロ』を書き、殆どがアントニオ・カルダーラの作曲によって宮廷劇場で上演された。その幾つかは特別な機会のために作曲され、多くが短期間で書きあげられた。例えば、『シーロのアキレス』は8日、『イッシーピレ』は9日である。台本作家(詩人)、作曲家、楽譜の筆写者、歌手は慌ただしい中で仕事をした。その中で、メタスタージオは最低限のディテールで書く独特の技術を身につけていた。その経験はナポリとローマで得たもので、ウィーンでは新しい仕事への興奮からより速められていた。しかもそれは見事成功した。

それにも拘らず、メタスタージオがウィーンで社交的な成功を得られなかったのは、貴族のサークルがメタスタージオの下賎な生まれを拒んだからである。しかしメタスタージオは、昔からのパトロンであったアルトハン伯爵夫人との親交で満足だった。伯爵夫人は夫と死別していて、皇帝カール6世のお世気入りだった。メタスタージオと伯爵夫人の関係は、秘密の結婚を疑われるほど密接なものだった。

ブルガレッリはメタスタージオと会いたくなり、ウィーン宮廷劇場の席の予約を頼んだ。しかし、その頃のメタスタージオはブルガレッリとの交際を恥ずかしく思い、何とか訪問を諦めさせようと手紙を書いて送った。その手紙の調子を不愉快かつ不審に思ったブルガレッリはローマからウィーンに発ったが、その途中に突然死したようである。確実にわかっているのは、ブルガレッリの遺産は夫の生涯権が切れた後はメタスタージオに譲られることになったが、メタスタージオは悲しみと後悔から、すみやかにそれを放棄した、ということである。しかし、この潔白な行為はローマのブルガレッリとメタスタージオの家族を混乱に追い込んだ。ブルガレッリの夫はすぐに再婚し、メタスタージオの家族は財産を取り上げられた。

1736年にカルダーラが死ぬとタスタージオの作創作意欲は衰え、作品の中でも最も人気のあるカンタータやカンツォネッタ『いまや恐ろしい時が来た』(友人のファルネッリに送った曲)を除くと、1742年まで殆ど作品を書いていない。

メタスタージオが創作意欲を取り戻すのはヨハン・アドルフ・ハッセがウィーンを訪問して後のことである、メタスタージオとハッセは親友となり『かっては一体だったものが分離した半身同士』(チャールズ・バーニー)と例えられる程の信頼で結ばれる。メタスタージオはハッセのために1743年から1771年までに6作のオペラを書いた。

1755年、アルタン伯爵夫人が亡くなった。そののち、メタスタージオはウィーンのコールマルクトドイツ語版にある建物の3階に住むマルティネス一家(この中には女流作曲家・演奏家となるマリアンナ・マルティネス英語版も含まれる)の家に移り、中産階級市民の中で暮らした。屋根裏の階には青年ハイドンとその恩師のニコラ・ポルポラも住んでいた。1772年以降は創作活動はせず、自身の生涯を回顧するのに費やした。死後130,000フロリンあった全財産はマルティネスの6人の子供たちに遺贈した。イタリアの家族はもう誰も生きていなかった。

評価

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ウィーンでの40年間、メタスタージオの名声はゆるぎないものとなった。メタスタージオの蔵書の中には、自身の作品の40もの版があった。フランス語英語ドイツ語スペイン語ギリシャ語に翻訳され、1つの台本にいろいろな作曲家が別の曲をつけていた。あらゆる首都で最高のヴィルトゥオーソたちが歌い、メタスタージオを会員に迎えることを光栄と思わない文学アカデミーはなかった。ウィーンにやってきた人は、わざわざコールマルクト小路にある仮宿を訪ね、この老詩人に敬意を表した。

メタスタージオの詞は特定の音楽スタイルを意図して書かれていた。それは全能の歌手たち、とくに熟練したソプラノとカストラートのための音楽である。しかし、ヴィルトゥオーソ的な歌唱より心理的な面により重きを置いたオペラが流行した時、メタスタージオとは違う新しい台本が求められるようになった。カストラートの終焉は、メタスタージオのオペラがレパートリーから消えることを意味した。

メタスタージオは、感情的・叙情的・ロマンチックな詩人として知られている。主たる劇のシチュエーションは、筋の展開によって生まれた、登場人物たちの対立する複数の感情を具象化した、2人もしくは3人の歌詞で表現される。その結果は純粋に文学的ではないが、音楽には適していた。メタスタージオの言い回しは不純なものがなく明晰である。おそらく、即興詩人の経験ゆえなのだろう。メタスタージオはトルクァート・タッソジャンバッティスタ・マリーノ、それにオウィディウスに心酔していたと言われる。

代表作

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Opere, 1737

脚注

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  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『メタスタージオ』 - コトバンク
  2. ^ Strohm, Reinhard, "Handel, Metastasio, Racine: The Case of Ezio" (November 1977). The Musical Times, 118 (1617): pp. 901-903.

参考文献

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  • 『オックスフォード オペラ大事典』ジョン・ウォラック、ユアン・ウエスト:著/大崎慈生、西原 稔:監訳(平凡社、1996年) ISBN 4-582-12521-2
  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Metastasio". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 18 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 255-257.
  • There are numerous editions of Metastasio's works. That by Calzabigi (Paris, 1755, 5 vols.) published under his own superintendence, was the poet's favourite. The posthumous works were printed at Vienna, 1795.
  • Metastasio's life was written by Aluigi (Assisi, 1783) by Charles Burney (London, 1796), and by others.
  • Probably the most famous biography of Metastasio was written by Stendhal in his «Vie de Haydn, Mozart et Mètastase» (1817).
  • Metastasio, l'«Olimpiade» e l'opera del Settecento by Costantino Maeder, Bologna: Il Mulino, 1993.

外部リンク

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