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ハインリヒ1世 (ロートリンゲン宮中伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハインリヒ1世
Heinrich I.
ロタリンギア宮中伯
在位 1045年 - 1060年

死去 1061年7月29日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
エヒタナハ修道院
配偶者 マティルデ・フォン・ロートリンゲン
子女 ヘルマン2世
家名 エッツォ家
父親 ツュルピッヒガウ伯ヘツェリン1世
母親 ケルンテン公コンラート1世の娘
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ハインリヒ1世(Heinrich I., ? - 1061年7月29日)は、ロートリンゲン宮中伯(在位:1045年 - 1060年)。エッツォ家のツュルピッヒガウ伯ヘツェリン1世の息子[1]。妻を殺害したため狂気伯Furiosus)のあだ名がつけられ、また、精神病を治療するため修道院に監禁されたことから修道士伯Monachus)ともよばれる。

生涯

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ハインリヒ1世はツュルピッヒガウ伯ヘツェリン1世の息子である。母はおそらくケルンテン公コンラート1世の娘である[1]

1048年ごろ、ハインリヒはロートリンゲン公ゴツェロ1世の娘でローマ教皇ステファヌス9世の妹マティルデ(1025年頃 - 1060年7月27日)と結婚した。

従姉妹にあたるポーランド王妃リヘザよりコッヘムのモーゼラン城を与えられた[2]。また、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が病の際にドイツ王位継承者に選ばれている。

1058年以後まもなく、ハインリヒは狂気の兆候を示し始め、ゴルズ修道院に監禁された[3][4]。しかしハインリヒは逃げ出し、妻のマティルデが不貞を働いていると考え殺害した(1060年7月27日)[5][6]。その後、ハインリヒはエヒタナハ修道院に幽閉され、そこで1061年に死去した[7]。ハインリヒの領地はケルン大司教アンノ2世により没収され、アンノ2世がハインリヒの1人息子ヘルマン2世(1064年 - 1085年)の後見人をつとめた[8]

脚注

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  1. ^ a b Jackman 2012, p. 19.
  2. ^ Niederrheins Urkundenbuch, vol. I, 186, p. 117.
  3. ^ Annales Weissemburgenses, a.1058, pp. 70f.
  4. ^ Lamberti Annales, a.1057, p. 159
  5. ^ Annales Weissemburgenses, a.1058, p. 71
  6. ^ Boehmer 1868, p. 312.
  7. ^ Georg Irmer (1880). "Heinrich I". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 11. Leipzig: Duncker & Humblot. p. 558.
  8. ^ Vita Annonis Archiep. Coloniensis, ch. 32, p. 480.

参考文献

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  • Jackman, Donald C. (2012). The Kleeberg Fragment of the Gleiberg County. Editions Enplage 
  • Boehmer, J. F. (1868). Fontes Rerum Germanicarum. vol. IV. Stuttgart 
  • Georg Irmer (1880). "Heinrich I". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 11. Leipzig: Duncker & Humblot. p. 558.
先代
オットー1世
ロートリンゲン宮中伯
1045年 - 1060年
次代
ヘルマン2世