オットー2世 (シュヴァーベン大公)
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オットー2世 Otto II. | |
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ロートリンゲン宮中伯 シュヴァーベン公 | |
在位 |
ロートリンゲン宮中伯(1世):1034年 - 1045年 シュヴァーベン公(2世):1045年4月7日 - 1047年9月7日 |
死去 |
1047年9月7日 トンブルク城 |
埋葬 | ブラウヴァイラー修道院 |
配偶者 | エギスハイム伯フーゴ6世の娘 |
子女 | リヒェンツァ |
家名 | エッツォ家 |
父親 | ロートリンゲン宮中伯エッツォ |
母親 | マティルデ・フォン・ザクセン |
シュヴァーベン公オットー2世(Otto II., ? - 1047年)は、エッツォ家のロートリンゲン宮中伯(1世、在位:1034年 - 1045年)、シュヴァーベン公(2世、在位:1045年 - 1047年)。オットーはロートリンゲン宮中伯エッツォとマティルデ(皇帝オットー2世の娘)の間の息子である。弟ケルン大司教ヘルマン2世(在位:1036年 - 1056年)は、皇帝ハインリヒ3世とロートリンゲン公ゴットフリート3世との争いにおいて、ハインリヒ3世を支持した[1]。
生涯
[編集]1034年、父エッツォが死去した。オットーの兄ルドルフ(リウドルフ)は1031年にすでに死去しており、オットーが父の跡を継いでロートリンゲン宮中伯となった。1045年4月7日、ローマ王ハインリヒ3世は自身が持っていたシュヴァーベン公位をオットーに与えた。その代わりに、オットーはロートリンゲン宮中伯位を従兄弟ハインリヒ1世に譲り、また、オットーの領地であったライン川中流の要衝カイザースヴェルトおよびデュイスブルクはハインリヒ3世に譲渡された[2]。
1047年、オットーは自身の城であるトンブルク城で突然死去した。オットーはフランドル伯ボードゥアン5世による侵攻に対する皇帝の遠征の準備の最中であった。オットーはブラウヴァイラー修道院に埋葬された。1048年、皇帝はオットー2世の後継としてオットー・フォン・シュヴァインフルトをシュヴァーベン公に任じた。
子女
[編集]オットーはエギスハイム伯フーゴ6世の娘と結婚し、以下の子女を儲けた。
- リヒェンツァ(1025年頃 - 1083年) - 最初にヴェルル伯ヘルマン3世と結婚、次にバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムと再婚。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Paul Friedrich von Stälin: Otto II., Herzog von Schwaben. In: Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Band 24, Duncker & Humblot, Leipzig 1887, S. 726.
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年、p. 268 - 269
関連項目
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