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ノート:黄長燁

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記事名についてWikipedia:記事名の付け方を参照のこと。理由に疑問がある場合はノート並びにノートからポイントされている各議論も参照のこと Kozawa 07:14 2004年4月5日 (UTC)

燁(ヨプ)はJIS X 0208にない文字なので記事名は「黄長ヨプ」となっています。Wikipedia:記事名の付け方3.1人名を参照してください。
ブリキの太鼓叩き 08:39 2004年4月5日 (UTC)

主体思想は google で 20万件近く、日本語の表記として熟していると思います。一方チュチュ思想は2万件と少なくはありませんが、20万には比べるべくもありません。漢字をカタカナにすることで情報も減り、また政治思想史の書物などで使われている表記を使うのは日本語の表現として自然に思います。いかがでしょうか。--[[利用者:Aphaia|Aphaea* 2004年11月23日 (火) 17:38 (UTC)[返信]
この記事の保護は『主体思想』か『チュチェ思想』かの記述で揉めているそうですね。ノート:主体思想の結論を待ちましょう。経済準学士 2005年7月10日 (日) 09:13 (UTC)[返信]

「亡命」欄にある「信念が欠如した、思想家の資格がない人物である。」との表現は、中立的な視点という観点を満たしていないようですが。 --猿丸太夫会話2013年12月17日 (火) 04:47 (UTC)[返信]

改名提案

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WP:NCの使用できる文字の基準が緩和され、「燁」の字が使用できるようになったことから李承燁への改名を提案します。--玄海093会話2020年6月9日 (火) 10:33 (UTC)[返信]

改名提案2

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上の節での議論がストップしたそうなので、再度改名を提案します。なお、燁(ヨウ)の場所は、JIS X 0213漢字 1面87区62です。

  1. 黄長ヨプ黄長燁(削除依頼)

--スプリト会話2020年8月28日 (金) 23:13 (UTC)[返信]

  • 報告 そこでの審議の結果、黄長燁が削除され、移動できました。

--スプリト会話2020年9月12日 (土) 15:11 (UTC)[返信]

黄長燁本人にとって重要性の低い記述の除去提案

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具体的には「和田春樹との交流」節ですが、萩原遼による和田春樹批判を紹介しているだけで、黄長燁本人の理解にほとんど寄与していませんので、除去することを提案します。--Rasalghul会話2021年2月21日 (日) 18:15 (UTC)[返信]

チェック 除去します。--Rasalghul会話2021年3月9日 (火) 08:58 (UTC)[返信]

議論なく復帰されましたが、反対のない場合、一定期間後に再度除去します。--taisai429会話2021年8月6日 (金) 20:11 (UTC)[返信]

チェック 除去しました。--taisai429会話2021年8月20日 (金) 13:17 (UTC)[返信]

「黄長燁本人の理解にほとんど寄与していません」とのことですが、「ほとんど」ということは、少しでも理解に寄与しているなら項目を充実させるうえでも記述するべきです。

削除した文章をどう読んでも黄長燁本人の理解に関係している。 「黄長燁は、和田春樹が『思想』(1990年9月号)に朝鮮戦争に関する論文を発表後の1991年1月に和田春樹を平壌に招待しており、和田春樹は著書『金日成と満州抗日戦争』(平凡社、1992年)の前書きに「私の論文を読んで平壌に招いて下さった黄長燁先生と討論して下さったヒョン・ドゥヒョク、チェ・ジンヒョク先生たち……に深く感謝したい」と記している[15]。萩原遼は、「黄長燁らはこれ(『思想』)にも当然目をとおしている。そのうえで乏しい外貨事情のなかから和田氏を平壌に招き、ごちそうし、歓待した。その意図は明白である。和田氏になにかを期待しているのである。彼らがタダ飯を食わせることはけっしてない」「和田氏の一連の著作が平壌政権にとって好ましいからである。朝鮮戦争についての和田氏の『研究』なるものが他愛もないもので、北朝鮮にとって痛くもかゆくもないどころか、むしろ彼らにとって好ましいものであることはすでにのべた。この線で大いにやってほしいということであろう」として、黄長燁が和田春樹を平壌に招待した1991年1月は、ベルリンの壁崩壊とニコラエ・チャウシェスクが処刑された1年後に当たり、「北の最大の後楯であるソ連の崩壊のはじまりという北朝鮮にとって存亡の危機の時期」であり、「その時期に乏しい外貨を割いて北朝鮮が和田氏を招いたのは、彼らの生き残りをかけた必死の工作の一環」であると指摘している」

あと、削除したいなら「黄長燁本人の理解にほとんど寄与していません」などという個人的な主観に基づくあなたが勝手に決めた削除理由ではなく、著作権違反とか、独自研究とかウィキのガイドラインで定められている削除理由を挙げていただけませんか?

まず、内容の除去は項目自体の削除とは異なりますので、必ずしもガイドラインで定められている削除理由を必要としません。除去するか否かは単に編集者間の合意によりますので、極端なことを言えば「ただなんとなく」除去することも、それについて合意を取り付けられるなら可能です(もちろん、そのような合意が常に成立するとは限りませんが)。一連の記述が黄本人の理解に寄与しておらず、項目全体の記述の中でバランスを失している(要は浮いている)、というのは、言うまでもなく私個人の主観的な見解です。それについてあなたとの間で直ちに合意が成立するとは考えていませんが、他の編集者も含めたコミュニティの合意によって除去するか否かを左右する、という点については同意いただけますでしょうか?--taisai429会話2021年10月4日 (月) 22:13 (UTC)[返信]

貴殿は「内容の除去は項目自体の削除とは異なりますので、必ずしもガイドラインで定められている削除理由を必要としません。」と仰いましたが、これは何が根拠でしょうか?

貴殿は、極端なことを言えば「ただなんとなく」除去することも、合意を取り付けられるなら可能と仰いましたが、これは何が根拠でしょうか?出典が付いている記事を、ただなんとなく除去した場合、100パーセント荒らし行為と認定されるでしょう。Wikipedia:井戸端で、「ただなんとなく」が削除理由になるか、聞いてみましょうか?

Wikipedia:編集方針には「ウィキペディアの方針とガイドラインに反しないものであるならば、不完全な記事を投稿することも歓迎されるべきです。」と書かれています。貴殿が削除された記事が不完全か否かはともかく、投稿された記事を削除する以上、ウィキペディアの方針とガイドラインの何に反しているのか、示していただけないと、削除の合意も同意もしようがありません。

貴殿が削除された「黄長燁は、和田春樹が『思想』(1990年9月号)に朝鮮戦争に関する論文を発表後の1991年1月に和田春樹を平壌に招待しており、和田春樹は著書『金日成と満州抗日戦争』(平凡社、1992年)の前書きに「私の論文を読んで平壌に招いて下さった黄長燁先生と討論して下さったヒョン・ドゥヒョク、チェ・ジンヒョク先生たち……に深く感謝したい」と記している。萩原遼は、「黄長燁らはこれ(『思想』)にも当然目をとおしている。そのうえで乏しい外貨事情のなかから和田氏を平壌に招き、ごちそうし、歓待した。その意図は明白である。和田氏になにかを期待しているのである。彼らがタダ飯を食わせることはけっしてない」「和田氏の一連の著作が平壌政権にとって好ましいからである。朝鮮戦争についての和田氏の『研究』なるものが他愛もないもので、北朝鮮にとって痛くもかゆくもないどころか、むしろ彼らにとって好ましいものであることはすでにのべた。この線で大いにやってほしいということであろう」として、黄長燁が和田春樹を平壌に招待した1991年1月は、ベルリンの壁崩壊とニコラエ・チャウシェスクが処刑された1年後に当たり、「北の最大の後楯であるソ連の崩壊のはじまりという北朝鮮にとって存亡の危機の時期」であり、「その時期に乏しい外貨を割いて北朝鮮が和田氏を招いたのは、彼らの生き残りをかけた必死の工作の一環」であると指摘している。」という記事により、黄長燁は和田春樹を平壌に招待し歓待した、その意図はソ連崩壊による北朝鮮体制の危機的状況を打開するための工作の意図があるんだ、という黄長燁の人物理解に役立つ大変有意義な記事です。したがって削除に反対します。また貴殿も「黄長燁本人の理解にほとんど寄与していません」と述べており、多少は理解に寄与していることを認めている以上重ねて削除に反対します。貴殿は、合意を取り付けられるなら(出典が付いている)記事を削除することが可能と仰いました。しかし、これで合意を取り付けることはできなかったので削除することはできません。残念。--2001:268:C1C6:757D:2C79:CF59:92C2:4BB5 2022年7月1日 (金) 18:04 (UTC)[返信]