ノート:霊性
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「霊感」と「インスピレーション」の関係と同様に、東洋の「霊性」と西洋の「スピリチュアリティ」の間には民族的・文化的な差異はある。直線的には結びつかないと思う。鈴木大拙の『日本的霊性』を参考に、日本人における「霊性」をここにまとめると良いと思う。--有馬大介(会話) 2012年8月19日 (日) 14:58 (UTC)
内容がキリスト教中心です
[編集]英語版も「カトリックの霊性」にリンクされていますし、「キリスト教の霊性」に改名してはどうでしょうか。しかし現状では中心は、霊性(信仰のあり方)ではなく、キリスト教における霊や霊魂の解釈になっており、英語版とも著しく異なる内容です。--やまさきなつこ(会話) 2016年2月16日 (火) 14:48 (UTC)
- 改名については反対。内容がキリスト教中心なのに不満ならば、加筆されてはいかがでしょうか。仏教で「霊性」は重要な言葉なのですか?その言葉を使っているのは鈴木大拙くらいではないでしょうか。
- 霊性について霊の説明をすることが問題あるのでしょうか。内田和彦「新約聖書における霊性」『福音主義神学』037-3,2006.福音主義神学会は最低でも読んでください。--121.107.209.16 2016年2月16日 (火) 16:15 (UTC)
- 改名は反対ということですので、記事名に合う用の構成を変えました。「霊性について霊の説明をすることが問題ある」ではなく、それが中心になっていて「信仰心のあり方」についての記事なのに、この記事を読んでもキリスト教の信仰心のあり方やその変遷はわからないということです。私の目には、霊の説明が霊性の理解の助けではなく中心になっているように、記事名と記事の内容が一致していないように見えています。「最低でも読んでください。」とおっしゃっていますが、そのようなけんか腰の言い方は、あまりよくないのではないでしょうか。たくさんの人がかかわる場所ですので、もう少し物事が円滑に進むよう、言葉を選んでいただくことはできませんか?--やまさきなつこ(会話) 2016年2月17日 (水) 12:08 (UTC)
やまさきなつこさんは、内田和彦論文を出典とした私の記述を削除したうえで、他の出典を並列されていますが、そうした編集こそけんか腰であり、あまりよくないのではないでしょうか。キリスト教への憎悪を表出されるよりも、ウィキペディアではウィキペディアのルールを守ってください。内田和彦論文に関する記載の削除はルール違反ですので、差し戻します。--121.107.209.16 2016年2月17日 (水) 16:28 (UTC)
また、スピリチュアリティでも指摘されたように、冒頭部で定義をならべるというWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)に違反する強引なルール違反編集をされています。 Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)には
- 「理解しやすい概要を提供する:導入節は記事全体の前置きであると同時に、それ自体で完結したひとつの記事であるべきです。その記事が取り扱う最も重要な点を簡潔に述べる必要があります。主題が注目に値する理由を明確にしたり、少なくとも導入部にてそのことが紹介されている必要があります。(しかし「評価された」とか「受賞歴のある」のような大言壮語とならないように)記事の他の部分よりも、理解しやすい文章であることがいっそう重要です。続く詳細項目への興味を持てるように心がけます。ただし驚くべき事実について、それを説明することなくほのめかすのはいけません。非常に長い段落や、過剰に細かな説明は避けるようにします。より詳しい説明は、記事本文で行います。」
- 「多くの場合、役立つ略語は紹介しますが、専門用語や記号といった理解の難しいものは避けます。」「一般的でない用語が必須であれば、文脈中に登場させて結びつけ、手短に定義します。主題は一般の読者にも親しみやすい文脈の中に置かれているべきです。例えば町の位置を説明するには、緯度経度を使うよりは地域名や、さらに広域の地名を持ち出す方がよいということです。読者を最初の単語からいきなり主題の中心へと放り込むのではなく、そっとその中へと進ませる必要があります。」
冒頭は簡潔で、手短に定義することがルールです。
霊性はキリスト教だけでなく、ギリシア哲学、ユダヤ教にも言及されているのでカトリックの霊性として独立させるのは反対します。霊性とスピリチュアリティの統合は、スピリチュアリティを霊性に改名するなら検討してもいいです。--121.107.209.16 2016年2月18日 (木) 08:25 (UTC)
- 島薗進の説明によると、霊性に相当する西洋語はもともと17世紀のフランスで使われだした用語で、それから近代カトリックにおいて確立した用法となったとのことです(『スピリチュアリティの興隆』69-70頁)。むろん霊性という日本語というか漢語はキリスト教とは無関係に古くからあります。若松英輔は道元や平田篤胤の用例に触れています(『霊性の哲学』16頁)。しかしたとえば、道元が用いた意味での霊性の語が今日的な意味の霊性と直接何らかの関係があるのかと問われても、わたしは答えられません。西洋語の翻訳としての霊性がキリスト教に由来しているという経緯からすれば、今に至る霊性の概念を通史的に叙述しようとすると、キリスト教を主軸とせざるをえないと思います。
- よって、キリスト教中心となることは問題ないと考えます。しかし現状は、古代思想とキリスト教における霊の概念の説明が多くを占めていて主客転倒したような状態になっていますので、改善が必要だと思います。
- 本記事とスピリチュアリティの記事の関係について。霊性とスピリチュアリティは別個のものでないどころか、いずれも同じ言葉の訳語です。島薗進も著書『スピリチュアリティの興隆』で両語を互換的に扱っています。霊性の語とスピリチュアリティの語は使われ方の傾向が異なり、後者は宗教性と区別する意図を込めて使われる場合が多いことは承知していますが、あくまで傾向であって厳密に区別できるわけではないでしょう。霊性のほうが伝統ある語であることから、「霊性」を
一般概念としての霊性/スピリチュアリティを包括的に扱う主たる記事とし、「スピリチュアリティ」は近年の派生的な用法に特化した記事として、「霊性」と「スピリチュアリティ」が親記事と子記事の関係になるように整理するとよいと思います。具体的に言うと、霊性のなかで近年の用法としてのスピリチュアリティについても手短に述べ、そこに{{main|スピリチュアリティ}}を貼って、詳細はスピリチュアリティに譲るという形になります。--Doomreaper(会話) 2016年2月20日 (土) 15:13 (UTC) 若干訂正。--Doomreaper(会話) 2016年2月22日 (月) 17:59 (UTC)
- 賢明なご提案、大変ありがとうございます。それが最もいいでしょうね。その場合、スピリチュアリティの現代用例以外をこちらに移動するという作業が必要になってまいりますね。今後のために編集方針を確認したくおもいます。
- 1.「霊性」が古代から歴史や一般概念としての親記事で、「スピリチュアリティ」は現代用語としての子記事とする。
- これに従い、スピリチュアリティの現代用例以外をこの霊性記事に移動する。
- 2.記事の冒頭はWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)にしたがって簡潔で、手短に定義されること。定義の諸説については節を設置し、詳細を述べる。冒頭では最低限の、論争の対象にならないような穏健な一般定義にとどめる。
- これらについて賛否のある方は見解を表明なさるようお願いします。--121.107.209.16 2016年2月21日 (日) 09:40 (UTC)
- 2は賛成です。1についてはわからないことがあるので、質問させてください。
- 「愛」がLOVEの訳に当てられてから、日本でも今の意味で使われるようになったけど、愛は日本でふつうの言葉になったので、愛を説明するときにはキリスト教だけに限らないですよね。私はキリスト教以外の本でも「霊性」という言葉はふつうに見ていて、キリスト教だけじゃなく、「宗教心のあり方」をさす言葉になったんじゃないかと思っていました。だから「東西霊性交流」ってイベントもあるんだと思っていました。東に「霊性」がないなら、交流にはならないですよね。西の人が東に霊性があるって認めてるから、交流なわけですよね。英語のSpiritualityの記事も、ヒンドゥー教とかシーク教とかイスラム教とかありました。この記事は「宗教心のあり方」の記事じゃないんでしょうか。それとも、Spiritualityというキリスト教発の「ことば」の指すものの移り変わりの記事なんでしょうか?そこをはっきりさせてもらえませんか?それがはっきりしないと、賛否も決められません。「宗教心のあり方」の記事だったら、キリスト教中心にはならないし、「宗教心のあり方」で扱うのはほとんどキリスト教なら、キリスト教しか宗教じゃないってことになるようにみえるんです。Spiritualityというキリスト教発の「ことば」の指すものの移り変わりの記事だったら、キリスト教中心になるんだと思います。でも、そしたら現代の「スピリチュアリティ」も、その中身は全部キリスト教発なんでしょうか?スピリチュアル系とかも入ると思うんですが、子記事なら親記事の概念に含まれると思うんですけど、スピ系もキリスト教発の概念の中に入りますか?
- あと、今の冒頭の「霊性(れいせい)とは、特にカトリック教会などでの宗教心のあり方、敬虔や信仰などの内実を指す」は、出典の「宗教心のあり方。特にカトリック教会などで,敬虔や信仰などの内実,またその伝統をいう。」をゆがめて書いているように見えます。「特に」って言うのは、それをさすことは多いけど、それだけをさすわけじゃないってことだし、出典のことばの順番を入れ替えて、キリスト教だけを指すみたいな、自分が言いたいことに近くなるようにニュアンスに作り変えてて、よくないと思います。出典を見たとき、「あれ?」って思いました。
- あとこれは個人的に思ったことですが、121.107.209.16さんの「キリスト教への憎悪を表出されるよりも、ウィキペディアではウィキペディアのルールを守ってください。」というのは、客観的に見ていいすぎだと思うので、謝ったほうがいいと思います。--ジャム・パンナ(会話) 2016年2月21日 (日) 13:31 (UTC)
- 私は百科事典の記事として、そして「霊性」と「スピリチュアリティ」という用語の難しさを考えての編集を行っています。やまさきなつこさんと衝突したのはスピリチュアリティ記事に私がほかの記事政教分離の歴史から移動先として間違えたことに端を発してのことです。その経緯についてはご理解くださるようお願いします。憎悪というのはやまさきなつこさんの編集態度を見ての発言で、ルールを守っていただければそれでよいです。私に謝罪を求められておられますが、私も謝罪を求めたいですよ。しかし私は謝罪よりも合意したいと思っています。やまさきなつこさんにも、他の編集者への配慮をしてくださるようお願いしたく思います。しかし、まだ本人より私からのいくつかの質問へのお答えを頂いておりません。
- 1の方針で記事を作成する場合は、当然キリスト教に限定しない導入部になります。定義は難しいでしょう。「宗教心のあり方」という定義も一般的にすぎますし、その定義だけだなら宗教心または信仰の記事になるからです。霊性記事は、あくまで「霊性」という言葉の説明であるべきですから、スピリチュアリティとの親子記事になるならば、「スピリチュアリティの訳語」ということはまず説明すべきでしょう。言葉の歴史として、キリスト教、仏教その他の用例があればその詳細を本体で説明する、導入部はどの宗教にも限定されない一般用語としての共通項が説明されるべきでしょう。
- 2について合意なさるのであれば、やまさきななつこさんの各学者の定義を並べるやり方は、よくないやり方です。それらの諸説の共通項をごく簡潔にまとめるべきです。そして現在のスピリチュアリティ記事の冒頭も、ある学者のかなり特殊な定義で、一般的にはわかりにくいですし、導入部としては不適切です。私がいっているのはそのことです。--121.107.209.16 2016年2月21日 (日) 14:54 (UTC)
- 2は賛成です。1は、用語として、スピリチュアリティと霊性の意味をそれぞれ最も大きくとった場合、スピリチュアリティは霊性を含むことはできますが、逆はできないため、反対です。また歴史的経緯も、キリスト教でSpiritualityが神学的に重視される概念になったのは20世紀で、以前は重視さえていなかったとあります。仏教の霊性と同じく、昔はそういう言葉はあっても、注目される言葉ではなかったわけです。宗教と距離を置いた意味でのSpiritualityという言葉が重視されるようになったのも20世紀で、キリスト教内とキリスト教から距離を置いた場所で、ほぼ同時に行われていたと思います(たしか島薗氏の著作にそのような話がありました)。ですので、キリスト教のSpiritualityも現代の概念といってよく、霊性が親記事で、スピリチュアリティが子記事でいいとも思えません。霊性という言葉は、すでに宗教学の世界では、キリスト教に限られないフレームワークになっていると思います。Spiritualityという記事を作って、あいまいさ回避で霊性とスピリチュアリティに誘導するというのが、私には妥当に思えます。明確な使い分けのないものを明確に分けようとすること自体にかなり無理があるので、「ふたつの言葉はどう違うか」ではなく、どの点で分けることが最も百科事典の記事として建設的で、妥当に見えるか」がポイントになるかもしれません。しかしのそのポイントは、私にはわかりません。記事を分けなければ、このような議論自体不要ですが。個人的には、霊性とスピリチュアリティに記事をわけるのは、パンケーキとホットケーキの記事を分けるくらい微妙で難しいところだと感じています。それをするに足る利点があれば、そうしなければならない確固とした理由があればいいですが、私にはそれはよくわかりません。ですので、両記事を分けることを前提にした建設的な提案をすることはむずかしいです。
- ジャム・パンナさんと同じように、私も冒頭の出典から判断しても、宗教学全般での用法からも、「信仰心のあり方」の記事だと思っていたのですが、Spiritualityというキリスト教神学用語の指すところの変遷の記事だったのでしょうか。そことはっきりさせれば、今後の見通しも良くなるのではないかと思います。それが明確でないと、何を話し合ってもまとまらないでしょう。「霊性記事は、あくまで「霊性」という言葉の説明であるべき」とおっしゃっていますが、それは事典ではなく辞典ではないでしょうか。121.107.209.16さんは、自分の中に確固とした霊性の像があるようですが、それをきちんと説明されずに、「内容がキリスト教中心なのに不満ならば、加筆されてはいかがでしょうか」とおっしゃったにもかかわらず、加筆したら消してしまわれるといった感じで、正直なぜ先に説明して合意を取ってくれないのだろうかと思いました。自分の霊性理解を小出しにするのではなく、条件を絞って、明確に示していただけるとありがたいです。また、ウィキペディアは個人のものではないので、自分の理解を記事に100%反映させることが困難だということも理解していただきたいです。
- 121.107.209.16さんにお願いですが、私への質問を一度リストアップしていただけないでしょうか。121.107.209.16さんの文章は私には捉えにくく、分量も多いため、今までどういった質問があったか、要するに何を聞いているのかすべて把握できていません。お手数ですが、よろしくお願いします。
- ジャム・パンナさんが言うように、霊性の記事で構成に手を入れても消したものはないと思っているのですが、消した個所を具体的に教えていただけないでしょうか。私のミスで間違えて消していたのなら、謝罪します。また、私に謝ってほしいこととは何でしょうか。こちらも匂わせるのではなく、具体的に教えていただきたいです。私の編集態度のどこに、キリスト教への憎悪があるかも、重ねて教えていいだければ幸いです。プロテスタントの学校に行っていたこともあり、このようなことを言われたことがないので、自分でどのあたりにキリスト教への憎しみを感じさせるようなものがあるか、よくわかりません。特にどうとも思っていませんが、思っていなくてもそう思わせることは良くないことです。今までたくさんの大きな問題を抱えたスピリチュアル系の記事や新宗教の記事に手を入れましたが、個人的な思想は入れないよう、たとえ批判・賞賛のどちらかに世間が偏っていても、一方的な論調にならないよう、自分なりに気を付けていたつもりです。今後のためにもぜひ知りたいので、よろしくお願いします。
- 「そして現在のスピリチュアリティ記事の冒頭も、ある学者のかなり特殊な定義で、一般的にはわかりにくいですし、導入部としては不適切です。」とありますが、どの学者の定義が特殊で、どの学者の定義が特殊でないか、どうやって判断するのですか?スピリチュアリティの明確な、大勢の人の合意を得ている論争のない定義というのがないから、仕方なく、最も大きくざっくりした定義になっているのですが、論争のない一般的な定義もあったんですね。おっしゃる一般的な定義を出典と共に示していただければ、議論にプラスになると思います。--やまさきなつこ(会話) 2016年2月22日 (月) 12:53 (UTC)
(インデント戻します)「霊性」と「スピリチュアリティ」が親記事と子記事の関係になるようにするのがよいと書きましたが、これは主に形式上のことです。現行のスピリチュアリティの記事内容のほとんどは現代用例に関連するものと見受けられますので、霊性の記事に転記する必要は感じません。それよりも「霊性」の記事を総合的・包括的な霊性/スピリチュアリティの記事に拡充することが必要だと思います。総合的と言っても、霊性/スピリチュアリティの言葉や概念の説明、それにまつわる思想や文化の話題に限ります。英語版の en:Spirituality は世界の諸宗教の霊性の説明を個別に記載していますが、あれは記事の主旨から逸脱しているように思いますね。それから、俗に言う「スピリチュアル系」は「スピリチュアリティ」とは分けたほうが無難かもしれません。分割後の記事名は思案のしどころですが(「現代日本のスピリチュアリティ文化」あたりが学問的には正確かと思うが、説明的すぎるし一般的でない。やや限定的であるが「スピリチュアルブーム」とすべきか)。
2.については、「穏健な一般定義」を示すことができるのか、そこが疑問です。--Doomreaper(会話) 2016年2月22日 (月) 17:59 (UTC)
- 英語版の en:Spiritualityでの「Traditional spirituality」を霊性に、Contemporary spiritualityをスピリチュアリティ記事にするということであれば、すっきりします。英語でも現代用法のスピリチュアリティは定義も定まっていないと英語版の冒頭文でも書いてありますが、簡潔ではありますが、それだけ読んで意味を理解できるひとはいないでしょうし、よくない文章です。現代の用法が意味を勝手に膨らませているから混乱するのです。論文をいくつか読みましたが、日本でも分野ごとに勝手に定義しています。
- 一般定義の参考としてDictionary.comでは
1.the quality or fact of being spiritual. 2.incorporeal or immaterial nature. 3.predominantly spiritual character as shown in thought, life, etc.; spiritual tendency or tone. 4.Often, spiritualities. property or revenue of the church or of an ecclesiastic in his or her official capacity.
- the quality or state of being concerned with religion or religious matters : the quality or state of being spiritual
Full Definition of spirituality 1 something that in ecclesiastical law belongs to the church or to a cleric as such 2 clergy 3 sensitivity or attachment to religious values 4 the quality or state of being spiritual とあります。
また語源辞典etymonlineでは
- spirituality (n.) early 15c., "the clergy," also "ecclesiastical property; things pertaining to the Church," from Middle French spiritualite, from Late Latin spiritualitatem (nominative spiritualitas), from Latin spiritualis (see spiritual). Meaning "quality of being spiritual" is from c. 1500; seldom-used sense of "fact or condition of being a spirit" is from 1680s. An earlier form was spiritualty (late 14c.). English is blessed with multiple variant forms of many words. But it has made scant use of them; for every pair historic/historical; realty/reality, or luxuriant/luxurious there is a spiritualty/spirituality or a specialty/speciality, with two distinct forms, two senses requiring differentiation, hundreds of years gone by, and but little progress made in in sorting them out.
- spiritualty (n.)late 14c., "spirituality, quality of being spiritual;" from c. 1400 as "the clergy," from Old French espiritualte, espirituaute, variants of spiritualite, from Late Latin spiritualitatem (see spirituality).
こうしたものを参考にして、霊性記事では伝統宗教での用例用法、スピリチュアリティでは現代用法とした方がいいでしょう。定義について詳細を書きたいのであれば続く詳細項目で書くべきであり、冒頭部で書くべきではないでしょう。現状のスピリチュアリティ記事では重複も多く、簡潔にすべきです。現在のスピリチュアリティ記事で混乱を招くのは鈴木大拙に関する部分です。日本的霊性に独立させるのが一番いいです。なお、宗教史研究以外の宗教学は、定義を勝手にもてあそぶものが多く、これはすべて「現代用法」に入ります。--121.107.209.16 2016年2月24日 (水) 14:14 (UTC)
- Doomreaperさんの提案ですが、「「霊性」の記事を総合的・包括的な霊性/スピリチュアリティの記事に拡充する」場合、今の記事のほとんどが、西洋の霊に関するトリビアなので、ほとんどゼロから記事を作ることになりますが、とってもおおごとで、時間もかかるし、だれがやるかという問題があります。こういういいかたはあれですけど、121.107.209.16さんが記事をつくったら、今の記事と同じような、現代以前のキリスト教の霊の話になると思います。包括的な話で、しかも記事を二つの訳語にわける(決まった分け方はないのに)だと、プロでもたくさんの人でやるプロジェクトでないと無理なような難しさだと思います。
- Doomreaperさんの言うように、「穏健な一般定義」を示すことができると思えません。それがあるなら、こんなにえんえんと話し合わなくてよかったのではないですか?えんえんと話し合っていることが、それが無理な証拠みたいなものです。
- スピリチュアリティも霊性も同じ英語の訳として使われてるのに、英語の資料を使って、だからこういう風に使い分けるのが正しい、と言われても、同じ英語の訳語なんですけど・・・としか言えません。訳語の使い分けについてなら、使える文献は日本語だけじゃないですか?「現在のスピリチュアリティ記事で混乱を招くのは鈴木大拙に関する部分です。日本的霊性に独立させるのが一番いいです。」は、根拠がないので、単に意見ですよね。121.107.209.16さんの頭の中では、スピリチュアリティと霊性のはっきりした使い分けがあるでしょうけど、今のところこの二つの記事は、どうするか決まっていません。なので、決まっていないのに、自分が考える理想の記事に合う合わないで意見を書かれても、二つの記事をどうするか決めてからのはなしじゃないですか?「宗教史研究以外の宗教学は、定義を勝手にもてあそぶものが多く、これはすべて「現代用法」に入ります」も、たんに意見です。宗教史研究だけが正しくて、他は間違っているのはなんでですか?出典がない見解は、121.107.209.16さんの大嫌いな、独自研究じゃないですか?あと、「現代の用法が意味を勝手に膨らませているから混乱するのです。」ということですが、やまさきなつこさんが加筆した時の出典を見ましたけど、spiritualityは、キリスト教でも、それ以外でも、重要な概念になったのは現代からですよね。121.107.209.16さんは、今の記事もそうなってますが、spiritualityは現代より前の、マイナーな神学用語だった時の話を書くべきと考えているということですか?これは、「キリスト教神学歴史辞典」ではないので、それは狭すぎます。
- あと、121.107.209.16さんのいっていたやまさきなつこさんが削除した文は、具体的に示してくれていませんが、やっぱり勘違いだった、ということですか?--ジャム・パンナ(会話) 2016年2月26日 (金) 12:19 (UTC)
- Doomreaperさんのご提案のように、「「霊性」の記事を総合的・包括的な霊性/スピリチュアリティの記事に拡充する」場合、霊性とスピリチュアリティは同じ言葉だと仮定されるわけですよね。それなら、霊性とスピリチュアリティの使い分けにコンセンサスがあるかのように記事が分割されているより、スピリチュアリティの記事を霊性に統合し、スピリチュアリティはあいまいさ回避にし、日本のスピリチュアル系の記事を別に立項する方がまだマシでしょう。実際、人によって使い方の違う用語を分断するのは難しいですし、良いことではないと感じます。人智学とアントロポゾフィーが、特定の立場の意見から同じ意味の言葉なのに記事が分けられていましたが、結局両方とも内容が微妙なうえ、両者の関係があいまいなため読者がウィキペディアで迷子になり、記事に到達しない人も出るという状態でしたが、それと同じようなことになりかねません。また、霊性記事の拡充については、わたしの能力を超えており、時間もないので、対応は難しいです。スピリチュアリティを霊性に統合する場合、Doomreaperさんがご対応いただけるなら、これまでの執筆やご対応から非常に信頼し尊敬しておりますので、全面的にお任せいたします。一つだけお願いしたいのは、霊性を「信仰心のあり方」とするとき、キリスト教だけに絞ることはやめてほしいということです。霊性が信仰心のあり方で、それがキリスト教だけであるなら、キリスト教以外に信仰心はなく、キリスト教以外に霊性はないというメタメッセージが生じます。私は今の霊性の記事を見たときそう感じ、とても悲しい気持ちになりました。
- 121.107.209.16さんは、英語資料から「こうしたものを参考にして、霊性記事では伝統宗教での用例用法、スピリチュアリティでは現代用法とした方がいいでしょう。」とおっしゃっていますが、霊性もスピリチュアリティも日本語ですので、その使い分けを英語文献から確定することは困難でしょう。--やまさきなつこ(会話) 2016年2月26日 (金) 14:06 (UTC)
- 補足です。スピリチュアリティの記事と連動するものとして、スピリチュアリティのカテゴリとPortal:スピリチュアリティがありますので、スピリチュアリティを霊性に統合するとすれば、そちらの対応も必要になるでしょう。具体的には、記事の刷新に伴い、ポータルとカテゴリーを改名し、内容を全面的に刷新する。カテゴリ名の変更に伴い、全記事のカテゴリを張り替える。今のCategory:スピリチュアリティの記事はオカルト的なものも多いため、霊性の記事の刷新した内容にオカルト的な側面が含まれないなら、それに合わせて、カテゴリーに含まれる全記事について検討を行い、必要なら修正、新しいカテゴリーを立項する、といった細かい作業が発生します。すぐには無理な作業と思いますが、最終的には必要ですので、よろしくお願いします。--やまさきなつこ(会話) 2016年2月27日 (土) 16:27 (UTC)
- 返信 やまさきなつこさんのお言葉にたいへん恐縮しておりますが、時間的余裕がなくなったので、まとまった量の執筆に携わることは難しいと思います。あしからずご了承ください。--Doomreaper(会話) 2016年3月1日 (火) 15:24 (UTC)
- 補足です。スピリチュアリティの記事と連動するものとして、スピリチュアリティのカテゴリとPortal:スピリチュアリティがありますので、スピリチュアリティを霊性に統合するとすれば、そちらの対応も必要になるでしょう。具体的には、記事の刷新に伴い、ポータルとカテゴリーを改名し、内容を全面的に刷新する。カテゴリ名の変更に伴い、全記事のカテゴリを張り替える。今のCategory:スピリチュアリティの記事はオカルト的なものも多いため、霊性の記事の刷新した内容にオカルト的な側面が含まれないなら、それに合わせて、カテゴリーに含まれる全記事について検討を行い、必要なら修正、新しいカテゴリーを立項する、といった細かい作業が発生します。すぐには無理な作業と思いますが、最終的には必要ですので、よろしくお願いします。--やまさきなつこ(会話) 2016年2月27日 (土) 16:27 (UTC)
- 統合提案はWP:MERGEPROPに即して行ってください。手続き上の不備があり、また議決以前ですので、反対します。統合しても導入部をどうするかの話は変わりません。参考情報としてCiNii学術論文検索では、霊性が696件、スピリチュアリティが916件で、論文数ではスピリチュアリティが優勢です。
- なお、私は 2016年2月18日 (木) 08:25 (UTC)の発言でスピリチュアリティから霊性への改名を示唆しています。親記事として「霊性」があれば、霊性 (キリスト教)として現在の「霊性」記事が子記事となることに合意できます。ユダヤ教、ギリシア哲学についての私の過去の発言はその場合は妥協します。
- 私の意見。記事名として霊性が理想的であり、スピリチュアリティと霊性の記事統合に無条件で反対ではないが、現在の日本での傾向からは、スピリチュアリティの用例が多数である。しかし、定義は分野ごとに異なり、単独記事で説明するのは困難である。スピリチュアリティ記事の現状は、その困難さをそのまま表示したもので、難解であるし、良くない記事である。出典があるのはいいが、特に冒頭部や概要は導入部としてブラッシュアップが必要である。学説ごとにまとめるやり方もある。ノート:スピリチュアリティでも2016年2月16日 (火) 01:48 (UTC)以来私は意見を表明してきた。ナイスタイミングでジャム・パンナさんがWikipedia:井戸端で質問以前問題があって書かれている文でも、出典がなければ削除しなければいけないでしょうか?をされ、その回答で、柒月例祭さんが私の考えと非常に似たことを発言されています。引用します。
冒頭文の中で「宗教学、社会学、文化人類学、心理学、人の幸せや生活の質(QQL)、医療、ターミナルケア(終末医療)などにおける重要な概念」とありますので、テクニック的には、「宗教学におけるスピリチュアリティ」「社会学におけるスピリチュアリティ」などのように細分化して記事化したほうが、出典に基づく記述は容易になり、記事としてまとめやすくなるはずです。そのうえで、スピリチュアリティの中では「○○については「○○のスピリチュアリティ」を参照」というふうにしてしまうのです。
— User:柒月例祭さん
- これは私もノート:スピリチュアリティで似たことを発言していますし、分野ごとに整理しなくては混乱すると思いスピリチュアリティを編集しましたが、やまさきなつこさんに差し戻しをされ、現在に至っています。やはり、分野ごとに節とするか、もしくはそれぞれ単独記事として分割し、スピリチュアリティ記事にはそれぞれの要約をまとめるのがいいです。
「出典の取り扱いにも入念に気をつけるべきで、たとえば「スピリチュアリティの考察(長山正義 大阪市立大学看護学雑誌 第4巻)」という出典をスピリチュアリティを総合的に解説する文脈に使うというのは、本来は避けるべきでしょう。どこまで行ってもこの出典は「医療の観点からの」文献として取り扱うべきです。それが「中立的」というものです。福祉系の人物が「スピリチュアリティを網羅したよ」と言って書いていても、それはやっぱり「福祉系の人が見た『スピリチュアリティの全て』」だろうと。ざっと拝見すると、いま使われている文献は福祉系・医療系に偏っており、たしかに中立性が保証されているとは言い難いように見えます。(たとえばPortal:スピリチュアリティでは「スピリチュアリティに関する主要項目」としていろいろ列挙していますが、そのなかには自然哲学とか合気道とか平和主義なんかもあって、人によっては「ふざけんな」という方もいるでしょう。)
— User:柒月例祭さん
- ここにあるように冒頭は非常に偏った定義ですし、やまさきなつこさんは私の編集では「読者が迷子になる」と心配されていますが、やまさきなつこさんの版では、読者が迷子になる内容です。せめて簡潔にすべきであるし、どの文章が誰の見解なのか、論文での著者の主張なのか、論文で引用された辞典なのか分からない書き方になっている。また、不必要の繰り返しが多く、例えば概要で「学者・教育学者の西平直は、スピリチュアリティには4つの位相を区別することができると述べている。宗教的生活としてのスピリチュアリティ(→宗教的生活としてのスピリチュアリティ)、価値観としてのスピリチュアリティ(→価値観としてのスピリチュアリティ)、実存性としてのスピリチュアリティ(→実存性としてのスピリチュアリティ)、「大いなる受動性」としてのスピリチュアリティ(→「大いなる受動性」としてのスピリチュアリティ)である。」と書いて、さらにその分類に基づく「定義・理解」で繰り返しています。これは西平直という一人の学者の説ですし、「実存性」だの「大いなる受動性」だのいうのは多くの人に分からないものです。やまさきなつこさんがそれを気に入り、それを記事全面に利用されているのですが、これは「西平直説」としてまとめた方が読みやすいです。同様に、他の学者の見解も長山説、島薗説、安藤説、などと学説の主張者ごとにまとめた方がいい。他にも問題はありますが、ともかく改善の必要があります。
- また、「スピリチュアリティはあいまいさ回避にするいう提案について。曖昧さ回避ページであれば、スピリチュアル、心霊主義、精神、霊、霊魂、魂 (キリスト教)など、ネシャマー(ルーアハ)→プネウマ→スピリトゥス→スピリット、またネフェシェ→プシュケー→アニマ→ソウルなど、精神、心、魂など日本語の訳語の混乱を統合したものでないと、読者の迷子ということは不可避でしょう。曖昧さ回避ページを別に作らないでOtherusesを使うほうが容易でしょう。またWikipedia:曖昧さ回避には曖昧さ回避の必要がないものとして読者が迷う恐れがない場合が明記され、「曖昧さ回避がどれだけ必要かどうかは、読者がその言葉でその項目を探す可能性が大きいかどうか、また読者が探しているページへの誘導が簡単かどうかを総合的に判断してください。」とあります。スピリチュアリティについて検索する人は学術論文や書籍で検索する方が多い可能性があり、一般的には「スピリチュアル」の方がテレビの影響で認知されているはずです(そう書いてある論文も探せばあるはずです)。そして、日本のスピリチュアル系の記事を別に立項するという提案についてですが、それならなぜスピリチュアルブームの分割に反対されたのかと言いたいですが、スピリチュアルは現在の曖昧さ回避ページではなく、単独記事とした方が読みやすく、また加筆もしやすくなります。スピリチュアルについて加筆したくても、曖昧さ回避ページだと書くのはためらわれますし、スピリチュアルについて正確な記事を書くことの方が、オカルトとの分離や読者の迷子という心配を払拭できるはずです。スピリチュアルへの学術的な批判も書きたければ書けるようになります。しかし、曖昧さ回避ページだと書けません。--121.107.209.16 2016年2月28日 (日) 10:42 (UTC)
いくつか出典も見つかりましたので、ノートで述べるよりも加筆していきます。ヴィヴェーカーナンダが「霊性」(spirituality)を述べており、岡倉天心がヴィヴェーカーナンダに影響を受けている。そしてインド滞在中に書いたTHE IDEALS OF THE EAST,London: John Murray, 1903でspiritualityを使っています。日本語版『東洋の理想』では「精神性」等と訳されています。そしてほぼ同時期の1904年に内村鑑三がキリスト教的な意味での霊性について書いています。鈴木大拙の「日本的霊性」は1944年なので、日本語としての霊性、spiritualityの訳語としての霊性は、インド経由で日本に入ったといえるでしょう。出典をつけて書きます。そして、霊性は日本語か訳語かという点は、まず「霊性」はspiritualityの訳語です。岡倉内村以前の日本固有の用例は未確認ですが、「霊性がspiritualityの訳語であること」を否定するものではなく、特殊な用法または日本語での語源のような扱いをすれば処理できます。そしてspiritualityの語源やヨーロッパでの用例についても書きます。ヨーロッパでは1400年頃より用例があります。導入部は、霊性はspiritualityの訳語、spiritualityの歴史用法での意味、そして近代のインドや日本でも使われ、現在の日本では「スピリチュアリティ」というカタカナ表記がされている。という書き方になります。スピリチュアリティと霊性記事を統合するか分離かについては、私の加筆による提示を待っていただけないでしょうか?Doomreaperさんが発言された通り、やはりキリスト教が主軸になることは間違いないようです。spirituality>訳語:霊性>現在の訳語:スピリチュアリティという派生方となることは間違いありません。しかし、インドや日本での派生用例を書けば、「キリスト教中心に偏っている」というやまさきなつこさんの心配は払拭できるのではないでしょうか。なお、Doomreaperさんは2016年2月20日 (土) 15:13 (UTC)に
西洋語の翻訳としての霊性がキリスト教に由来しているという経緯からすれば、今に至る霊性の概念を通史的に叙述しようとすると、キリスト教を主軸とせざるをえないと思います。よって、キリスト教中心となることは問題ないと考えます。
— User:Doomreaperさん
とコメントされています。--121.107.209.16 2016年2月28日 (日) 12:57 (UTC)
- 話し合いの途中で加筆すると話が混乱するので、加筆は話がまとまるまで待ったほうが良いです。加筆された記事の内容に合わせて、話し合いの内容を変えていくのでは、長引きます。加筆が必要なら、そのことを提案して、合意して、加筆して、またそこから議論を進めるというのが必要です。
- やまさきなつこさんの話は、統合提案というより、ほかのひとの意見を聞いてみている段階で、ルール違反だと怒るようなことはないと思います。意見を聞いてみて、よさそうなら提案で、順番的にいいと思いますけど。「霊性」にまとめるとすると、スピリチュアリティの記事では、医療などで「霊性」の訳を当てると、宗教色がつよくなりすぎて適当じゃないという話もあったと思いますが、その辺はどうなりますか?ほんとうにぜんぶ霊性でまとめて問題ないですか?あと、121.107.209.16さん提案のスピリチュアルブームという記事名だと、ブームについてだけの記事になるので、意味が狭いので、反対されたのは、まあそうだろうなと感じます。スピリチュアルビジネスでも、ビジネス面しか扱えないから、意味が狭くなります。記事名に差別的な感じがあって、よくない印象です。あと、いまのスピリチュアリティの記事を、見た感じや著者の職業のジャンルで強引に分けるのも無理で、(出典で、著者がどんなつもりで話していたか、というのがあるので)、ジャンルで分けるなら、そのジャンルでどういう定義が多いのか、かなり深めのリサーチをして、出典を探して、こっちも土台からやり直すくらいの労力がいると思います。あと、分野ごとに影響を与え合っているから、結局解釈が切り離せないという話があるので、本当にそんなにきっぱり切っていいのか、切ることはできることなのか、切ることが独自研究にならないか、という疑問もあります。「日本語としての霊性、spiritualityの訳語としての霊性は、インド経由で日本に入ったといえるでしょう。」だと、これも独自研究になるので、複数の資料から判断するとこうです、ではなくて、そう書いてある資料が出典に必要になります。「西洋語の翻訳としての霊性がキリスト教に由来しているという経緯からすれば、今に至る霊性の概念を通史的に叙述しようとすると、キリスト教を主軸とせざるをえないと思います。よって、キリスト教中心となることは問題ないと考えます。」とうことですが、始まりがキリスト教だから、キリスト教中心になるべき、というのは、理屈としては弱いと思います。キリスト教の外での広さを、ちゃんと考えないとだめと思います。
- 121.107.209.16さんの提案が、具体的にちょっとよくわからなかったんですけど、霊性はキリスト教の話にして、ジャンルごとの子記事にわける、ということですか?それとも、霊性という全般の記事があって、キリスト教をふくめて全分野と、日本のスピリチュアル分野をそれぞれ子記事にわける、ということですか?(読者の意見としては、あまり細分化されると、いちいち移動して読むのがめんどいし、全体を理解しにくいので、ほどほどにしてほしいです)
- スピリチュアリティは、現代のキリスト教に反発する場所での広がりと、それに対抗するようなキリスト教の中での広がり、というのが、最初の一番大きいもので、キリスト教は軸にはなっても、今みたいに大部分がキリスト教の細かい話、というのでは、読者は結局なんだかよくわからない、となります。実際、今の記事はなんだか良くわかりません。なんか霊と関係あるっぽい、たぶんキリスト教の神学用語、という感じです。(正直、霊の話が細かすぎて多すぎるので、読んでわかるくらいの量、テーマから外れないくらいの量に、霊トリビアを削って欲しいです。こんなに書かなくても、その記事に誘導すればいいと思うのですけど。)--ジャム・パンナ(会話) 2016年2月28日 (日) 14:12 (UTC)
- 井戸端で拝見しましたけれど、当面は霊性はキリスト教神学中心に121.107.209.16さんが、スピリチュアリティは包括的にやまさきなつこさんが(なるべくお互い干渉しないで)書いていくのが良いだろうと思いますよ。私から見ると、皆さんの霊性に対する意見はそれぞれに正しいが、協力してソースをもとに文章にまとめて、文案を検討して、それから記事に反映を……、というプロセスを踏める段階ではないように見えます。今霊性の記事が定義ばかりになっていますが、この後きっと20世紀神学において「霊性」が重要視された理由やその時の定義やその後の展開が続くんでしょう(その辺りの展開を追ってほしいという私の願望でもあります)。その時に古代や中世、聖書中における語義が意味を持ってくるんじゃないでしょうか。121.107.209.16さんがどのような記事を書くつもりなのか分からなくて、やまさきなつこさんもジャム・パンナさんも心配されているようですが、記事が成長するまで「しばらく待ってみる」という手もあるかと思います。逆に、121.107.209.16さんから見てスピリチュアリティの構成に疑問があっても、とにかく一旦霊性を仕上げてから、記事ごとの分担を話し合うとスムーズだと思います。それぞれがそれぞれのヴィジョンを持って書いている途中のようですから、ある程度記事が成長してから、中立的な観点なり、統合や改名なりを話し合えば良いと思います。今この時点での統合や改名は、誰にとっても荷が重すぎるように見えます。Otherusesで繋げば、読者も必要に応じて両方の記事を参照することができますし、現在の記事の状態がベストでないにせよ、今すぐ対処しなければならないほどの状態ではないでしょう。--Focaccia(会話) 2016年2月28日 (日) 21:17 (UTC)
(インデント戻します)ジャム・パンナさんは「ルール違反だと怒るようなことはない」といいますが、ルールは守りましょう。それと、統合提案に対して手続き上の不備があると指摘することがなぜ怒っているなどと解釈されるのか全く理解できません。反対意見はすべて怒りと解釈するのですか。以下、項目ごとに述べます。
- スピリチュアルブーム、スピリチュアル・ビジネスについて
スピリチュアルブームについて検索したところ、
- 中村晋介「スピリチュアルブームをどうらえるか」福岡県立大学人間社会学部紀要2011, Vol. 19, No. 2,
- ガイタニディス ヤニス(Ioannis Gaitanidis)「日本におけるスピリチュアルブームと現代西洋エソテリシズム」, 16 June 2012, 「宗教と社会」学会第20回学術大会 , Nagasaki International University、
- 島薗進、渡邊直樹、宮崎哲弥「マスメディアとスピリチュアル・ブーム」現代宗教 / 国際宗教研究所 編、2008、p/1~34
- 上田弓子 現代日本におけるスピリチュアリティについての一考察 教養デザイン研究論集 第6号、2014.02
- 有元裕美子 著 『スピリチュアル市場の研究: データで読む急拡大マーケットの真実』 東洋経済新報社 2011年、
- 鈴木晋怜「現代のスピリチュアル志向にわれわれはどう応えるか」現代密教 21号、 2010-03-31、pp85-102
- 石田裕久「face-to-faceなき社会と癒し、スピリチュアリティ・ブーム」人間関係研究 (11), 2012、 南山大学
- 櫻井 義秀「スピリチュアリティ・ブームと下流化」学士会会報 2007(4), 129-134, 2007-07
- 櫻井 義秀「スピリチュアリティ・ブームの光と陰」日本脱カルト協会会報, 7-21, 2007
- 橋迫瑞穂「聖なるものへの橋」ソシオロゴスNO.31/2007、東京大学、
- 堀江宗正「メディアのなかの「スピリチュアル」―江原啓之ブームとは何か」『世界』No. 759、岩波書店、2006 年12月号、242-50 頁。
- 香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』幻冬舎新書
- 小薮智子、白岩千恵子、竹田恵子、太湯好子「スピリチュアリティの認知の有無と言葉のイメージ 緩和ケア病棟の看護師、一般病棟の看護師、一般の人、大学生の特徴 」
- 平野直子「「近代」というカテゴリにおける「普遍」と「個別」 -手当て療法「レイキ」の80年史を事例として-」早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第1分冊56、pp.47 - 61 , 2010.
- 永岡崇「ソウルメイトは二重橋の向こうに : 辛酸なめ子における皇室とスピリチュアリティ」京都大學人文科學研究所、人文學報107、p103-129.2015.
- 弓山達也「スピリチュアルブームを超えて、精神性の高みへ (宗教の時代へ)」(第三文明社、2010年10月)
- 松浦 由美子「スピリチュアリティと「ほんとうの自己」─インターネット時代の宗教と主体─」メディアと社会. v.1, 2009, p.83-95、名古屋大学大学院国際言語文化研究科
が存在。
スピリチュアル・ビジネスについて検索したところ、
- Ioannis Gaitanidis「スピリチュアル・ビジネスの定量分析」, 11 June 2011, 「宗教と社会」学会第19回学術大会 , Hokkaido University.
- ガイタニディス ヤニス「スピリチュアル・ビジネスの社会経済を考える : スピリチュアル・セラピストの調査から」宗教と社会 (16), 143-160, 2010-06-05
- 櫻井 義秀「スピリチュアル・ビジネス : 神世界ヒーリングサロンの事例」<特集>第六十七回学術大会紀要、宗教研究 82(4),1303-1304, 2009-03-30」
- 櫻井 義秀 「霊と金―スピリチュアル・ビジネスの構造」 (新潮新書)
- 有元裕美子「スピリチュアル市場の研究 ―データで読む急拡大マーケットの真実 」2011東洋経済新報社
などがありました。こうした文献があるので、これらの論文を精読したうえでスピリチュアル・ブーム、スピリチュアル・ビジネスが作成できる。また、意味が狭いから記事作成に反対などというのは柒月例祭さんの井戸端での回答や私の意見を全く無視していますし、 。WP:NOTSOAPBOX、WP:NOTFORUMを読まれないあるいは理解されないまま発言を続けることもウィキペディアの方針違反となりますので、ご理解ください。
そして私はスピリチュアルは現在の曖昧さ回避ページではなく、単独記事とした方が読みやすい、つまりスピリチュアル (現代日本)、スピリチュアル (日本)などの記事名で単独記事にした方が加筆もしやすいといっています。それに関連して現在のスピリチュアリティ記事での「日本におけるスピリチュアルの訳語の変遷」「日本における「スピリチュアル」」節はスピリチュアリティではなく日本における「スピリチュアル」についての説明なので移動した方がいいでしょう。これらについてここでこれ以上まとめて議論するよりもそれぞれのページで議論した方がよいので、各記事で提案します。
- 霊性とスピリチュアリティが区分できるか - 超自然(スーパーナチュラル)との関係も視野にいれて
霊性とスピリチュアリティが区分できるかということについては、宗教学事典(丸善、平成22)の「スピリチュアリティ」項目(弓山達也執筆)では、WHO1998以来の議論でスピリチュアリティと宗教とは分離された次元で議論されたこと、一方で樫尾直樹『スピリチュアリティ革命』2010ではスピリチュアリティを「超自然的な力や存在」のこと(小池靖)、「当事者が何らかの手の届かない不可知、不可視の存在」または「神秘的なつながり」(伊藤雅之)、「何らかの超越的存在」(葛西賢太)という「霊的なもの、超自然的なものや働きを重視する宗教学者の定義が紹介されています。この他、医療、看護、福祉での定義も紹介されている。現在のスピリチュアリティ記事はこのうち医療、看護、福祉での定義が中心にかかれており、中立性違反です。中立性違反を克服するにはスピリチュアリティ (医療)を作成するのも可能です。むしろそのように狭く記事を性格づけた方がかえって記事が成長することになります。
また、ノート:スピリチュアリティで私が指摘した「自然界の法則を超えた神秘的・超常的なものごとである「超自然」(スーパーナチュラル)もスピリチュアルと形容されることがあるが、スピリチュアリティは個人の内面あるいは個人を通して見出されるものであり、スピリチュアリティと超自然は異なる概念である。」という出典を歪曲して書かれた記載内容についても、宗教学者の研究とは矛盾することが証明されました。ジャム・パンナさんは井戸端で「たぶん、専門家にとっては当たり前すぎるので、スピリチュアリティはこれとは違う概念です、というような資料は、見つけられないような気がします。」といっていますが、見つけられないのは「専門家にとっては当たり前すぎる」からではなく、ジャム・パンナさんの意見を裏付ける研究が見つからないからです。
また同事典p.598-599「新霊性運動=文化」(島薗進)では、従来の伝統的なキリスト教における「霊性」と、現在興隆しているスピリチュアリティは「かなり形を変えている」。「特に目立つのは新しいスピリチュアリティの興隆」で、これを「欧米でニューエイジ、エソテリスム、日本で精神世界などと呼ばれることが多かった現象」として「新霊性運動」と呼称できるといっている。また、「精神世界からスピリチュアリティへ」というタイトルの段落では、日本でスピリチュアリティという語が盛んに用いられるようになったのは1990年代以降、アメリカでは1980年代以降といい、それ以前も霊性追求はあったが、内からの自己解放という潮流の急速は普及が目に見える運動となって若者を中心に深い影響を及ぼすようになったのはこの頃であるとしている。また、この潮流は、ニューサイエンス、癒やし、ホスピス、緩和ケア、またビジネスとしても、ヨーガ、気功、気づきのセミナー、意識変容セラピー、エコロジー、アルコール中毒患者のアルコホリクス・アノニマスのようなセルフヘルプ運動などが含まれるとしている。この島薗進による説明を用いれば、霊性を伝統的な神学上の意味、スピリチュアリティを現代的な現象または用法と区分することが可能です。
また同「宗教学事典」(丸善、平成22)p20-21(伊藤雅之)では伝統宗教、マクガイアのいう公認宗教とは異なる、非公認宗教、非組織的な宗教現象に対して1990年代以降、「スピリチュアル」「スピリチュアリティ」の語を用いて把捉しようとする研究が増加したとある。J.A.ベックフォードはこの「スピリチュアリティ」現象のうち、制度宗教だけでなく、医療、教育などに浸透し発展するホリスティックな世界観を持つ文化現象を「新しいスピリチュアリティ」とした、とある。
同事典p152-3(岩井洋)では新宗教(黒住教、金光教、天理教など)が組織的であるのに対して「超越的、神秘的な体験を重視する個人的な宗教性」として「霊性(スピリチュアリティ)」を定義。
同事典p300(鶴岡賀雄)でスピリチュアリティとは「従来の神秘主義が有していたエリート主義、達人主義的含意を去って、一種の民主化ないし大衆化された神秘主義」として定義。
また、「宗教の事典」朝倉書店p472-3(島薗進)では「新しいスピリチュアリティ ニューエイジと精神世界」というタイトルで、「もともと宗教と不可分のものとして考えられてきた霊性だが、昨今は組織的な宗教から離れて個々人が霊性に目覚めるという方向」でスピリチュアリティという語が用いられ、日本では「霊性」と「スピリチュアリティ」双方が用いられているが、1990年代以降、「スピリチュアリティ」の語が優勢、とある。
- オカルトとの分離について。
ジャム・パンナさんはスピリチュアルからオカルトを分離したのにまた書かれたらどうするんですか?などといっていたが、スピリチュアリズムについて書かれたものをスピリチュアリズムへ移動したのであればそれで解決しているのです。と同時に、オカルトとスピリチュアリティが関係ないかといえば、以下の出典にもとづき、関係は多大にあります。ランカスター大学の宗教学教授のC.パートリッジ(Christopher Partridge )が編纂した「現代世界宗教事典―新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ」悠書館では、こうある。 p497-498:西洋で新な代替的なスピリチュアリティが伸張し、これらの多くはオカルト、ニューエイジ、UFO、イルカ、東洋の伝統への指向、を示すとある。この出典からして、スピリチュアリティには当然オカルト、ニューエイジについて概説が書かれるべきです。
この他、同事典では p512:ポストモダンのスピリチュアリティはニューエイジ、クラブカルチャー、音楽、映画にも等しく見出すことが可能とする。
p514-518では幻覚剤の使用を中心としたサイケデリック・スピリチュアリティについて概説。
p499-502ではCelebrity - centric Spirituality、セレブ崇拝のスピリチュアリティ:ダイアナ妃へのスピリチュアルな崇拝、セレブへのスピリチュアルな崇拝は19世紀のヴィクトリア女王夫のアルバート公、20世紀ではマリリンモンロー、ケネディ大統領、ジョン・レノン、チェ・ゲバラ、エルヴィス・プレスリーなどが例としてある。こうしたC.パートリッジ編事典による現代文化に関する説明は得心のいくものであり、「スピリチュアリティ」の理解としては必要です。
さらに「宗教の事典」朝倉書店2012でも p540-541(川村邦光)で1960年代終わり頃からの、瞑想、密教、ヨガ、神秘主義、アメリカ経由の東洋宗教、超能力の開発、星座や血液型による占い、心霊写真、超常現象などのオカルティズム、精神世界、スピリチュアリズムの潮流から、霊性、スピリチュアリティへの覚醒が若者を中心に大きな潮流となった、と説明。マンガ、アニメの北斗の拳、AKIRA、風の谷のナウシカについても書かれる。そして1910年代からの霊学、霊術ブームやスピリチュアリズムの流行を踏まえて、「霊性、心霊世界、異次元の世界を志向する、超近代スピリチュアリズム」について説明。そのなかで鈴木大拙の日本的霊性を引用、またオウム真理教についても書かれています。
「宗教の事典」朝倉書店p694-5(池上良正)でも、これまでの伝統的な宗教とは異なる現代社会の現象として、人々の意識や行動の様式、集団の性格などに、強い神秘性や超越的な権威が認められる現象がある。人気歌手のコンサート、ワールドカップなどのスポーツ応援においても、「宗教」とはよばれないが、何らかの超越的ない見や力との交流があり、こうした擬似宗教的現象を指すキーワードとしてスピリチュアリティという言葉が愛用され、ニューエイジ、霊術系と称される新宗教、癒やしやセラピー、さらにアニメ、映画、ゲーム、教育や医療でも使われていると書かれています。
- 霊性記事で霊について説明することについて
霊性記事で霊について説明することについて、「新カトリック大事典」4巻、2009、研究社、p1375-1378「霊性」(奥村一郎、高柳俊一)では霊と霊性が近似している語であるため区別を確かめる必要があるとし、霊について説明している。欧米で神の霊と悪霊との対決が鋭く示されるのに対して、日本の宗教伝承ではアニミズムの色彩が強く、浄霊、禊などが書かれ、また亡霊、幽霊、霊媒などは「およそ霊性というには縁遠いものもある」と書かれる。さらに霊(プネウマ)、魂(プシュケ)、体(ソーマ)の三元論、イエスやパウロ、ヨハネ的霊性、中世に霊性の中心に位置づけられた修道院生活、またグノーシス、新プラトン主義からのキリスト教的霊性への影響、また教父神学は霊性と一体であること、トマス・アクィナス、ボナヴェントゥラ、ベネディクト会、クリュニー系修道院、シトー会、ドミニコ会、フランチェスコ会、デヴォティオ・モデルナ、トマス・ア・ケンピス、イエズス会、アビラのテレサ、ファン・デ・ラ・クルス、カテリーナ、17世紀フランスの霊的著作家、フランソア・ド・サル、フェヌロンの静寂主義、ジャンセニスム、パスカル、マルグリット・マリー・アラコックら民衆の霊性から啓蒙思想、フランス革命を経てマリア信心の高揚、19世紀にはジャン・バティスト・マリー・ヴィアンネ、カテキズム運動、青少年運動、信心会の活動、宣教会、リジューのテレーズ、19世紀に霊性神学が成立した、そして現代では第二バチカン公会議、イグナティウス、黙想についての東洋的霊性から学ぶ動き、ティヤール・ド・シャルダン、K・ラーナー、エキュメニカル、またドイツでのde:Frömmigkeit、ルター、敬虔主義、カルヴァン、イングランド国教会、ニューマン、オックスフォード運動、K・バルト、ボンヘッファー、モルトマンなどを説明している。参考文献として
- マクグラス「現代キリスト教神学思想事典」新教出版社、2001
- ブイエ他「教父と東方の霊性」「中世の霊性」「近代の霊性」上智大学中世思想研究所編訳、キリスト神秘思想史1-3、平凡社1996-1998が紹介。
また「新カトリック大事典」の「霊性学派」項目ではさらに古代からの他の思想が、また同事典の「霊性神学」項目では聖霊神学、霊生と霊性、鈴木大拙、東洋的霊性、仏教的霊性、道元、自然と超自然(スーパーナチュラル)、解放の神学、根本主義(キリスト教根本主義、原理主義)、そして「日本的霊性」の参考文献としては
- 柳宗悦「宗教とその心理」1919
- ベンダサン「日本人とユダヤ人」1970
- 門脇佳吉「公案と聖書の身読」1977
- ヘリゲル「弓と禅」
- 門脇佳吉「道の形而上学」
- 増田早苗「日本昔話の霊性」1995
が紹介されている。
- インド、岡倉天心について
インド、岡倉天心については出典があります。
- 今後の加筆
現在の記事について「今の記事はなんだか良くわかりません。なんか霊と関係あるっぽい、たぶんキリスト教の神学用語、という感じです。」といっているが、出典を補足し、加筆すればそういう印象もなくなる。しかし加筆終了まで一ヶ月以上かかるでしょう。これらの出典にもとづく加筆を拒絶する場合は、自分の印象ではなく、ウィキペディアのどのルールに基づくのかを明記すること。そして、これらの加筆の拒絶は通常は不可能なので、これらの出典がなぜ掲載に値しないのか、出典にもとづき、発言してください。掲載を拒否するには、これらの出典がすべて信頼できる情報源ではないということ、あるいはこれらの出典が学術的に採用できないということを証明すべきです。ジャム・パンナさんはインターネットをしているのに、なぜ検索せずに印象だけで発言するのでしょうか。出典は多数閲覧できます。やまさきなつこさんの出典と編集に依存せずに、自らの力で調査に協力してください。それができないのであれば、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを理解できていないのです。
- ジャム・パンナさんの奇妙な発言
ところで、ジャム・パンナさんの投稿記録をみると、2016年2月1日 (月) 06:24に初投稿の方ですね。 それなのに、やまさきなつこさんと異常に親しいような発言をしているのは奇妙です。万が一の可能性として、Wikipedia:多重アカウントの可能性もあるのでコメント依頼を検討します。--121.107.209.16 2016年3月1日 (火) 12:43 (UTC)
- スピリチュアリティと霊性の使い分けについて
- 121.107.209.16さんは「この島薗進による説明を用いれば、霊性を伝統的な神学上の意味、スピリチュアリティを現代的な現象または用法と区分することが可能です」とおっしゃいますが、その島薗進が著書『スピリチュアリティの興隆』の数箇所で「スピリチュアリティ(霊性)」と括弧書きで「スピリチュアリティ」と「霊性」を併記しているんですよ。つまり島薗氏の場合は、スピリチュアリティと霊性を区別しないで互換的に扱いつつも「スピリチュアリティ」のほうを主たる表記に採用するという形になっているので。霊性の語を「伝統的な神学上の意味」に限定して用いるのは、鈴木大拙の「日本的霊性」も視野に入れると中立的でないでしょう。
- また、やまさきなつこさんは「霊性とスピリチュアリティの使い分けにコンセンサスがあるかのように記事が分割されているより、スピリチュアリティの記事を霊性に統合し、スピリチュアリティはあいまいさ回避にし、日本のスピリチュアル系の記事を別に立項する方がまだマシでしょう」と発言されました。わたしも霊性とスピリチュアリティの線引きについて明確なコンセンサスはないと考えています。しかしおっしゃる通りに統合すると、存続する記事名は「霊性」になります。これではWikipedia:記事名の付け方の「信頼できる情報源において最も一般的に使われており、その記事の内容を表すのに最も著名であると考えられるもの」という基準に反してしまうように思います(現在では医療・看護方面だけでなく宗教学の文献でも「スピリチュアリティ」のほうが広く用いられているのは明らかです)。
- 「キリスト教の霊性」の単独記事化
- 「西洋語の翻訳としての霊性がキリスト教に由来しているという経緯からすれば、今に至る霊性の概念を通史的に叙述しようとすると、キリスト教を主軸とせざるをえない」と書きました。しかし歴史叙述においてキリスト教からの展開を扱うだけでなく、分量的にもキリスト教神学を中心とした内容に発展させるのであれば、その記事名は「霊性 (キリスト教)」か「キリスト教の霊性」、「キリスト教的霊性」とするのが中立性に適っているでしょう。その方向性でいくなら、キリスト教の霊性を新たに立項してそこに加筆したほうがよいと思います。「キリスト教の」とか「○○の」といった前提のないただの「霊性」ならば、キリスト教との影響関係が不明な山崎辨榮や鈴木大拙の霊性論なども含まれるはずです(なお、鈴木大拙はエマヌエル・スヴェーデンボリの影響を受け、その邦訳のなかで spirituality を霊性と翻訳しているので、キリスト教神秘主義と無縁ではなさそうですが、これについて正面切って論じている文献は寡聞にして知りません)。
- 「キリスト教の霊性」の記事を作れば、「霊性」の記事は、キリスト教の霊性から近代日本の霊性論、近年のスピリチュアリティ論までを網羅的に概観し、スピリチュアリティ、霊性 (キリスト教)、日本的霊性といった各記事へ読者を誘導する、関連記事群のノード的なものとしての役割が期待できます。--Doomreaper(会話) 2016年3月1日 (火) 15:24 (UTC)
- Doomreaperさんの意見に賛成です。あと、わたしはやまさきなつこさんのいろんな記事での活動のボランティア精神と、その時に変にからまれたりしてて気の毒だったので、応援できたらと思ってアカウントを取りました。それまではアカウントが必要と思わなかったので。--ジャム・パンナ(会話) 2016年3月2日 (水) 04:49 (UTC)
(資料の関係上インデント戻します)私の加筆予定にジャム・パンナさんが反対しないのであれば、総合記事として霊性、その子記事としての霊性 (キリスト教)は造りましょう。ただし、総合記事としての霊性記事でもspiritualityの語源や用例の解説は必要です。またキリスト教以外を説明するとしても、キリスト教神学における霊性研究と研究論文が多いことから、キリスト教的霊性、欧米的霊性についての説明量が多くなることは理解していただきたく思います。日本的霊性は鈴木大拙著作の記事として作成できると思いますが、大拙以外のものとして作成するなら霊性 (日本)の方が現在の研究での鎌田東二や若松英輔などの言及についても解説できるでしょう。
Doomreaperさんの霊性を関連記事群のノード的な記事とする提案は統合提案ではないので、現在のスピリチュアリティ記事は霊性ー霊性(キリスト教)記事が作成されるまで保留ということでしょうか。
霊性とスピリチュアリティの区分についてはまだ得心が行きません。島薗進が併記しているといっても、彼は伝統的な組織的な宗教とは異なる新しい現象として説明しています(前掲)。現在の研究でスピリチュアリティ表記が優勢なのは、両語は互換的な側面はあるが違うと認識されていることが学界では一般的になりつつあるからではないですか。ビジネスと商取引、商行為が、互換的であるからといって統合すべきでしょうか。それから、spiritualityはスピリチュアリティのことですが、spirituality=霊性=スピリチュアリティとならないのは、霊性に漢語日本語としての歴史と用例があるからでしょう。
- 日本国語大辞典 第二版(小学館2002)の「霊性」項目では、
①の北原白秋「桐の花」(1913)(白秋全集6、岩波書店)で「夜が更け、空が霽れ、蒼褪めはてた経験の貴さと冷たい霊性のなやみを染々と身に嗅ぎわけて、哀傷のけものは今深い闇のそこひからびやうびやうと声を秘そめて鳴き続ける。」「何たる神秘、落ちついた真青な輝き……暗い深夜の秘密に密醸された新鮮な酸素の噎びが雨後の点滴と相連れて、冷たい霊性の火花も今真青に慄わなゝき出した。」「譬へ天真の稚気と信実とが絶えず心の底に昼の蝋燭の様にちろろめいてゐたにもせよ、馴れ過ぎた天の恩寵と世の浅はかな賞讃とが何時しか汝の貴重な霊性を盲目にした。」とあります。 ①の意味は、現代中国語の辞典でも書かれています。 中国語では霊性は繁体字:靈性、簡体字:灵性で、
- 中華民國教育部重編國語辭典修訂本「靈性」項目では、聰慧的天性と定義。用例:韓愈芍薬歌、紅樓夢81回。
- 漢典:词语解释では灵性(靈性)(1) [intelligence] 聪明。娇痴婢子无灵性,竟挽春衫来比并。——韩愈《芍药歌》(2) 动物在驯化后具有的智能。用例:这只狗很有灵性,它能帮助盲人带路
- 國學大師の「靈性 líng xìng(灵性)」では《漢語大詞典(汉语大词典)》p.16114と《重編國語辭典》を参照して、1.精神;精氣。用例: 南朝·宋·顏延之《庭誥》之二:「未能體神,而不疑神無者,以為靈性密微,可以積理,知洪變欻怳,可以大順。」 南朝·梁·沈約《釋迦文佛像銘》:「眇求靈性,曠追玄軫,道雖有門,跡無可朕。」2.人所具有的聰明才智,對事物的感受和理解的能力。 用例▶唐·韓愈《芍藥歌》▶紅樓夢84回「﹝林丫頭﹞要賭靈性兒,也和寶丫頭不差什麼。」 ▶魯迅《墳•燈下漫筆》「占了高位,養尊處優,因此受了蠱惑,昧卻靈性而贊嘆者,也還可恕的。」 ▶郁達夫《理智与情感》(Sense And Sensibility): 「人的情感,人的理智,这两重灵性的发达与天赋,不一定是平均的。」3.特指對宗教的悟性▶明·陳汝元《金蓮記•郊遇》:「自家叫做佛印,生來有些靈性,只為了悟一心,因此削光兩鬢。」 4. 靈魂▶ 元·無名氏《硃砂擔》第四摺「我只道你靈性歸天上,卻元來幽魂沉井底。」 ▶ 清·吳騫《扶風傳信錄》「妾得寵于君,性尤妒,宮中之人,多被讒害,因此落劫,然靈性不泯,隨即修行,今已閱七世矣!」
- xpcha「灵性」 línɡ xìnɡでは、(1) [intelligence] 聪明。用例:韩愈《芍药歌》(2) 动物在驯化后具有的智能。用例:这只狗很有灵性,它能帮助盲人带路
- 白水社「中国語辞典」「灵性」では1.才知,能力.用例)他具有当指挥的灵性。=彼は指揮者になる能力をそなえている.2動物が人間によって教えられた知恵.用例) 那匹马很有灵性,知道主人受了伤,就驮着他往回跑。=あの馬はとてもよくしつけられていて,主人がけがをしたことがわかると,すぐに彼を背中に乗せて戻って来た.
導入部は「霊性」の解説として日本国語大辞典の二つの語義や三省堂の定義「宗教心のあり方。特にカトリック教会などで,敬虔や信仰などの内実,またその伝統をいう。」を紹介すれば、「霊性」という語が単にspiritualityの訳語だけでなく漢語または日本語の用語でもあることが書かれれば、キリスト教中心ではなくなります。
また、統合するとして現在のスピリチュアリティ記事をそのまま転記することには反対します。すでに謂ましたように定義の提唱者または分野ごとにまとめる必要があります。その作業は誰がするのでしょうか。Doomreaperさんは執筆に携わることは難しいと発言されています。--121.107.209.16 2016年3月2日 (水) 13:58 (UTC)
- わたしは議論が終わるまで加筆を控えてほしいといいましたけど、加筆に反対はしていません。逆に、加筆しないでこのままになってしまうのは良くないと思っています。霊について説明することも反対ではなくて、専門書じゃないので、量をほどほどにしてほしいです。「霊」の話はメインじゃないと思うのですけど、メイン以外がこの量だと、メインの霊性の話は5倍とか10倍くらいになるのかなと思います(勝手な想像です)。わたしは、すごく詳しい記事は逆にわかりにくいと感じることがあるし、最後まで読むのはきついと思って最初しか読まないこともあります。あと、「霊性」を「関連記事群のノード的な記事」に、キリスト教の霊性は「キリスト教の霊性」にまとめる、という作業が終わってから、他のことを決めてもいいと思います。完成した記事を見ないと、その時にならないとわからないこともある気がします。「定義の提唱者または分野ごとにまとめる」というのは、ひとりひとりちょっとずつ定義が違っているので、まとまらないのじゃないかなと思います。分析してまとめると、オリジナルな研究になっちゃいそうです。--ジャム・パンナ(会話) 2016年3月5日 (土) 13:02 (UTC)
- 霊性とスピリチュアリティの使わけですが、世界基督教統一神霊協会の記事の改善で使用した 伊藤雅之・梶尾直樹・弓山達也(編)『スピリチュアリティの社会学 現代世界の宗教性の探求』、世界思想社、2004年 という複数の著者による文献では、スピリチュアリティを霊性と同じものとしたうえで、あえてスピリチュアリティで統一するやり方がとられており、使い分ける人もいればそうでない人もいる、使い分ける場合もあればそうでない場合もある、というのが現状と思います。使い分ける場合に、どういった使い分けがなされているかを記事で説明することは有益であるとは思います。また、どう使い分けるべきかという議論も有益なものかもしれませんが、オリジナルな知見になると思いますので、ウィキペディアには適しません。「定義の提唱者または分野ごとにまとめる必要があります。」とは121.107.209.16さんのご意見ですが、基本的にウィキペディアでは、必要と感じる人が作業を行い、議論のある者の場合、ノートで合意を取りながら改変を進めるということになるかと思います。世界基督教統一神霊協会では、ノートで提案と合意を繰り返しながら私が作業を行いました。負担が大きい作業になり、実際かなり疲れましたが、ウィキペディアのオープンな性質上、議論がある場合は致し方ないのではないかと思います。私には、スピリチュアリティについて分野ごとで明確に切ることが可能とは思われませんので(その分野で、どのような視点で注目されているか程度なら、述べることは可能かとも思いますが)、作業を行うことはできません。またオカルトなどについてですが、関係があってもイコールではありませんし、スピリチュアリティに関連事項の内容をすべてをスピリチュアリティの記事で説明するとなると長大になりすぎますので、記事が独立してあるものは短い記述にとどめ、各記事に誘導したほうが読みやすいのではないでしょうか。--やまさきなつこ(会話) 2016年3月6日 (日) 04:28 (UTC)
- 霊性 (キリスト教)の作成と加筆には反対はないですね。現代文化現象としてのスピリチュアリティについて書かれたものはスピリチュアリティに、漢語としての用例などは霊性に加筆します。区分けについては加筆を終えてからの方がいいでしょう。「オカルトと無関係」という記述は独自研究であり、それを書かれたやまさきなつこさんの個人的な先入観にすぎなかったことが証明されていますので、オカルトや超自然は必要があれば加筆します。--121.107.209.16 2016年3月7日 (月) 13:08 (UTC)
- 霊性 (キリスト教)の作成は、もともと121.107.209.16さん以外賛成だったので、進めていいと思いますが、霊性の記事の内容を直すのは、事前にノートでどんな内容にするかの確認がいると思います。「「オカルトと無関係」という記述は独自研究であり、それを書かれたやまさきなつこさんの個人的な先入観にすぎなかったことが証明されていますので」は、121.107.209.16さんの意見で、他の人は別に賛同してないですよ。関係があると考える人がいても同じものではないです。関係があると考える人がいると書くのはいいと思いますけど、くわしいことはオカルトはオカルトの記事に、超自然は超自然の記事に加筆してください。誰がどれくらい独自研究を書いたかなんて話を始めたら、121.107.209.16さんの霊性とスピリチュアリティの使い分けだってそうですが、ノートでそんな話をしても意味ないというか、記事をよくする建設的な話をするのが筋なんじゃないかと思います。(Wikipedia:善意にとるもよんでください)--ジャム・パンナ(会話) 2016年3月12日 (土) 01:24 (UTC)
- わたしは既にお話ししているように、「霊性」の記事で、霊性がキリスト教にしかないかのようになることを懸念しておりましたので、「霊性 (キリスト教)」の記事の作成には賛成です。--やまさきなつこ(会話) 2016年3月13日 (日) 02:30 (UTC)
- ジャム・パンナさんはいい加減に詭弁をやめよ。オカルトとの関係は、私の「意見」ではありません。ランカスター大学宗教学教授パートリッジと川村邦光の「意見」である。C.パートリッジは、西洋で新な代替的なスピリチュアリティが伸張し、これらの多くはオカルト、ニューエイジ、UFO、イルカ、東洋の伝統への指向を示すと説明し(「現代世界宗教事典―新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ」悠書館p497-498)、また川村邦光は1960年代終わり頃からの、瞑想、密教、ヨガ、神秘主義、アメリカ経由の東洋宗教、超能力の開発、星座や血液型による占い、心霊写真、超常現象などのオカルティズム、精神世界、スピリチュアリズムの潮流から、霊性、スピリチュアリティへの覚醒が若者を中心に大きな潮流となった、と説明し、さらに1910年代からの霊学、霊術ブームやスピリチュアリズムの流行を踏まえて、「霊性、心霊世界、異次元の世界を志向する、超近代スピリチュアリズム」について説明している(宗教の事典」朝倉書店2012、p540-541)。(これらについてはスピリチュアリティ記事で加筆する予定である。オカルト記事で説明せよなどというが、これらはスピリチュアリティについて書かれた論文。オカルト研究の論文ではない。なぜこれらをスピリチュアリティ記事での加筆を拒否するのか?)
- これに対して、やまさきなつこさんとジャム・パンナさんは「オカルトとは無関係」と主張するが、そう書かれた出典はどこにある?出してください。出せないのならば、主張しないでください。ウィキペディアは独自の考えを発表する場でも、演説台でもありません。現在記事を作っていますが、訳語としての「霊性」については区分けが難しいので、霊性に全体を加筆し、そこから分割または移動提案することも考えています。やまさきなつこさんは霊性記事がキリスト教中心であることを批判していましたし、その後の議論で、漢語としての用例も発見しました。加筆すればその問題はクリアできるのだが、ジャム・パンナさんは「議論が終わるまで加筆を控えてほしい」というが、加筆に反対するのか?合意というが、反対か賛成も表明しないで「合意が必要」を唱えるだけでは加筆もできないのだが?漢語としての用例を加筆することに反対する理由、および私が上記紹介した出典群の加筆を拒否する理由はなぜか、そしてそれはウィキペディアのどの方針にもとづくのか、ジャム・パンナさん、答えよ。—121.107.209.16 2016年3月13日 (日) 03:14 (UTC)
- スピリチュアリティと霊性とを統合する前に上記出典を必要に応じて加筆していきます。霊性 (キリスト教)については、霊性との区分けが難しいので一度霊性に加筆し、それから分割、移動提案します。スピリチュアリティと霊性とを統合するにしても、現在のスピリチュアリティ記事には不備が多々あるので、それを修正します。こうしたことについてはノート:スピリチュアリティで一つ一つ確認するしかないようです。霊性とスピリチュアリティの区分けについては、加筆の全てが終わってから議論しましょう。--121.107.209.16 2016年3月13日 (日) 05:27 (UTC)
現代の宗教学などでの論説はまだ加筆していませんが、漢語、訳語などの伝統的な用法については加筆を一旦これで止めます。加筆によって、そして分割作業が終われば「キリスト教中心」という問題はなくなったのではないでしょうか。--121.107.209.16 2016年3月13日 (日) 10:14 (UTC)
冒頭部分およびキリスト教以外
[編集]内田論文の記載を削除するのはルール違反です。正当な出典のある記述を除去して記事全体の性格を変えるのは間違っています。やまさきなつこさんが加筆されたスピリチュアリティ関連の記述は、スピリチュアリティ記事があるのだから、向こうで行うべきです。そして、冒頭で概説もなく、いきなりいくつもの学説を並べても、混乱するだけです。もう少し冷静になってください。--121.107.209.16 2016年2月17日 (水) 16:43 (UTC)
西井美穂「ルドルフ・シュタイナーの自己認識と霊性」、『日本宗教学会』別冊 87、宗教研究、2014年、 323-324,。は形式として論文ではなくわずか2ページほどのコラムにすぎません。ルドルフ・シュタイナーの霊性についての記載をするならしかるべき論文が他にもあるでしょう。--121.107.209.16 2016年2月17日 (水) 16:48 (UTC)
花岡永子「仏教とキリスト教との出会い : 根源的いのちの経験から」、『日本宗教学会』77(2)、宗教研究、2003年、 439-463頁。での定義は、非常に特殊な定義であり、冒頭で詳述するよりも、論旨を明確に説明する必要があります。--121.107.209.16 2016年2月17日 (水) 16:54 (UTC)
川中仁「〈講演〉カトリックのスピリチュアリティ: ローマ・カトリック教会の「霊性(spiritualitas)」の特徴」『上智大学グリーフケア研究所』第3では、「スピリチュアリティ、霊性というのは宗教の一分野です。キリスト教の中でも スピリチュアリティは宗教の中の一分野ですが、他方で、このスピリチュアリティという 概念は、20世紀の後半には宗教の対抗概念として登場してきた概念でもあるということで す。そうすると、このスピリチュアリティ概念というのは特別な性格を持っていて、伝統宗教における霊性ということと、このスピリチュアリティということは、必ずしも重なっ てこないという独特の難しさがあります。そして、このスピリチュアリティというカタカ ナの言葉は、ラテン語の spiritualitus とか英語の spirituality という言葉の日本語ですが、 日本語の霊性という言葉とスピリチュアリティという言葉は、今お話したような理由で必 ずしも重なってこないのです。 このスピリチュアリティという言葉は、伝統宗教の霊性にそぐわないというか、ズレが あるということで、あえてスピリチュアリティという言葉よりも霊性という日本語と、ラ テン語の spiritualitus という概念を使うことにしました。さらに、キリスト教の霊性とカ トリックの霊性ですが、正統的なという言葉をあえて使いますが、キリスト教にはありと あらゆる信仰のあり方があって、その中で正統的なキリスト教の霊性の根本的な特徴とい うのは、「キリスト中心」ということと「教会性」の2つだと思います。」「スピリチュアル・ムーブメントというのが20世紀後半にありましたが、これは明らかに 伝統宗教に対抗するものとして登場してきました。対抗文化、カウンターカルチャーとし てのスピリチュアリティと書きましたが、スピリチュアリティというカタカナの言葉で表 される日本語になっている言葉が注目されるようになってきたのは、20世紀後半のスピリ チュアル・ムーブメント、対抗文化としてのスピリチュアル・ムーブメントということと 深く関わっています。 スピリチュアル・ムーブメントということですが、特徴は、島薗先生のご著書から少し まとめてみたのですけれど、宗教、伝統的な宗教の対抗概念としてのスピリチュアリティ ということで、2つにまとめることができるのではないかと思います。ひとつは伝統宗教の否定です。伝統宗教、キリスト教にせよ、仏教にせよ、伝統宗教の持っている権威とか 組織とかそういったものを否定するところから出てくるもの、それがひとつの大きな特徴 ではないかと思います。もうひとつの特徴は、他者性の欠如。このあたりのことは、島薗 先生の本から勉強させてもらったことなのですが、2つの特徴があり、ひとつは超越的他 者の不在、もうひとつは、他者への関心の欠如です。超越的他者ということで、超越性と いうことがないわけではないけれども、それは弱い超越性で、伝統的宗教、特にユダヤ、 キリスト教的な一神教的な強い超越性というものを持っていないという特徴と、もうひと つは、他者への関心の欠如。自分のことに関心が集中して、それを島薗先生は、「自己霊 性」という言葉を使われていますが、他者への関心が欠いているという特徴があるかと思 います。 これに対して、真正なスピリチュアリティ、あるいは、健全なスピリチュアリティとい うものがあると思っていまして、それには、明確な特徴があると思っています。今の2つ の特徴の裏返しになると思うのですが、「超越的なもの」への視野があります。「超越的な もの」というのは、一般的にですが、目の前の現象的なものだけを見て、ものを考えたり 行動したりしないという特徴があるということと、もうひとつは、「他者への苦しみ」へ の関心があるということではないかと思います。これを「他者への開放性」という言葉で まとめてみましたけれども、他者へ開かれているということが、真正なスピリチュアリテ ィ、あるいは健全なスピリチュアリティということの特徴ではないかと思います。 これは、いわゆるスピリチュアル・ムーブメントも伝統的宗教も同じで、伝統的宗教に もキリスト教も、カトリックも含めて、「超越的なもの」への視野が失われているという ことがよくあります。伝統的宗教の担い手たちが、常に、現象的なものを超える、「超越 的なもの」へのまなざしを常に保ち続けているか、保ち続けていれば健全だと思うのです が、そうではないことが、実は結構あります。そういう宗教は、確かに力を失っていきま す。「他者への苦しみ」もそうです。「他者への苦しみ」を持たない伝統的宗教のあり方は、 たくさんあると思います。キリスト教もカトリックも例外ではないと思います。ですから、 真性なスピリチュアリティの特徴ということは、伝統的宗教の対抗概念としてのスピリチ ュアル・ムーブメントにせよ、伝統的宗教にせよ、基本的にどうしても必要な側面ではな いかと思います。」といわれていますが、これらは現代用語としてのスピリチュアリティの説明となっています。スピリチュアリティ記事があるのになぜ向こうでしないのですか。「伝統宗教の霊性にそぐわない」ので、「あえてスピリチュアリティという言葉よりも霊性という日本語と、ラ テン語の spiritualitus という概念を使うことにしました」と川中仁は明言しています。--121.107.209.16 2016年2月17日 (水) 17:06 (UTC)
霊性 (キリスト教)へ分割提案
[編集]語源、訳語の変遷などはスピリチュアリティと統合する場合でも必要ですので、移動せず。キリスト教特殊な部分は「霊性史」の「新約聖書の霊」「教父哲学から現代まで」と「カトリック神学用語としての霊性」の定義部分なので、ここをを霊性 (キリスト教)へ分割提案します。--121.107.209.16 2016年3月13日 (日) 10:00 (UTC)
「霊的な体」について
[編集]「霊性#英語 spirituality の用例史」のところに「霊的な体、聖職者を意味する Spirituality」とありますが、これはOEDに基づく記述でしょうか。こちらはOEDを参照できる環境にないのですが、わたしの手持ちの英和辞典には霊的な体やそれに類する記載はみられません。もしODEOEDの spirituality の説明に"spiritual body"という語句が使われているのであれば、その場合の body は必ずしもふつうの意味での「身体」を指すとは限らず、「人の集団、団体、組織体」といった意味で、"spiritual body"は「教会に関係する人々の集合=聖職者」や「キリスト教会の総体的な組織や機構」といったものを指していて、集合的な意味での聖職者の同義語を示したものである可能性もあるのではと素人なりに愚考します。--Doomreaper(会話) 2016年3月25日 (金) 21:05 (UTC) タイプミス修正。--Doomreaper(会話) 2016年3月29日 (火) 19:30 (UTC)
- OEDではThe body of spiritual or ecclesiastical persons.とありますね。ご指摘の通り「組織体」の意味もあるとは思いますが、用例からは体の意味もあるようですので併記しましょうか。中世近世英語のことなのでbodyをOEDで調べてもいいですね。過度に詳細になることを避けて簡略化して書いていましたが、OEDでは他の用例と語義もあるので、英語の語源節ということもあり英語学・語源学の領域のことなので原文も書きます。--121.107.209.16 2016年3月28日 (月) 13:11 (UTC)
- OEDから引用ありがとうございます。"The body of spiritual or ecclesiastical persons"は spiritual と ecclesiastical を or で結んでいますね。この場合の or は「または」と訳してもいいですが、spiritual を ecclesiastical と言い換えていると解して「すなわち」とも訳せます。spiritual には「宗教上の、教会の」という意味があり、ecclesiastical も「教会の、聖職者の」という意味です(『ジーニアス大英和辞典』参照)。body はこの場合、複数のものをひとまとめにして扱っていることを示すための語句でしょう(OEDの説明文は現代英語でしょうから、body の初期近代英語の用例まで調べる必要はないかと)。したがって"The body of spiritual or ecclesiastical persons"を和訳すれば「(集合体としての)宗教人すなわち教会人」となり、端的に言って、フレーズ全体として「聖職者」を指していると解釈できると思います。とはいえ、わたしは英語の専門教育を受けた者ではなく、この英文解釈を裏付けられるような日本語文献を示すこともできないのですが。--Doomreaper(会話) 2016年3月29日 (火) 19:30 (UTC)
- こんにちは、ノートでDoomreaperさんからお声をかけていただきましてこちらに来ました。私もspiritualなことがらには詳しくないのですが、該当箇所をOEDで確認したところ、初出用例は"Intendinge to oppresse the church, the spirituallitie, the Kinge and the realme."「教会、spirituality,王と王国を圧迫せんと」というもので、次の用例は"I come before the spiritualite; Two cardynals, and byshoppis fyve [etc.]."「spiritualityの前に来たが、それは枢機卿2人、司教5人などからなっていて…」というもので、全て組織体を示しており、聖職者等の具体的な身体に言及している用例は無いので、後者の意味は考慮する必要がないだろうと思います。
- なお、全く別の文脈で"spiritual body"というのが「コリント人への手紙」の英語版で使用されているようで、こちらは日本語では「御霊のからだ」等と訳されているようですが、手元に新共同訳が無いためちょっと確認ができません。さえぼー(会話) 2016年3月29日 (火) 21:50 (UTC)
- 返信 OEDを確認していただきありがとうございます。さえぼーさんの挙げて下さった spirituality の初出用例は、共同体としての教会あるいは社会階層としての聖職者の意味で、2番目の用例は一群の聖職者、といったところでしょうか。--Doomreaper(会話) 2016年3月30日 (水) 14:07 (UTC)
- あまりこの議論に興味がありませんが一応。”44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。”(新共同訳 新約聖書(Kindle版) コリント信徒への手紙一(15章44節~)より引用)とあり、spiritual body(ies)の箇所は、新共同訳では霊の体とされています。--StrangeMist (StrangeSnow / Talk) 2016年3月30日 (水) 11:36 (UTC)
- 返信 Strangesnowさん、コメントありがとうございます。ここでは spirituality の語義を問題にしていて、spiritual body(ies) の解釈は直接は関係ないのですが、この箇所(1コリント15:44)は口語訳新約聖書でも「霊のからだ」となっていますね。ちなみに、同じ1コリントには以下のように、聖霊によって結びついたキリスト者の共同体を「キリストのからだ」になぞらえているくだりもあります。
- 「わたしたちは皆[……]一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け」(12:13)、「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」(12:27)(『口語 新約聖書』の該当節より引用)。--Doomreaper(会話) 2016年3月30日 (水) 14:07 (UTC)
- たしかにOEDの1の語義の他の用例1583年の PHILLIP STUBBES'S ANATOMY OF THE ABUSES IN ENGLAND IN SHAKSPERE'S YOUTH:The corruptions and abuses of the spirituality,or (as some call it) of the ecclesiastical hierarchy.(スピリチュアリティ、すなわち(何人かがそう呼ぶように)聖職団による堕落と裏切り)、1709,Strypes Ann.Ref.I.xxvi.255.:He blamed both spirituality and laity.(彼は聖職者と信者たちを非難した。)(他の用例You of the spirituality(1825)、the Parlament,and not the spirituality(1900))でも組織体、団体、集合名詞としての用法ですね。また1bの語義もA spiritual societyなので、組織体としての用法とみるべきのようです。
- Spiritual bodyについては、The body of spiritual or ecclesiastical persons.を「霊的な体」と訳せるかを考えるためにも確認しておいていいと思いますが、spiritualityの語義1の用例と同時期の1526年のティンダル訳聖書(コリントの信徒への手紙一15:42-44)では a spretuall body、1611年欽定訳聖書では a spiritual bodyで、これはAmerican Standard Version (1901)の改訂World English Bible(1997-2000)でも引き継がれ、すなわち1611年以来訳語に変更がないようです(英語版en:Spiritual Body記事でもコリントの信徒への手紙一15:42-44 が主に紹介)。伝統的な神学用語としてSpiritual bodyは英語使用文化圏では意味が限定されており、いわゆるSpiritual Body(霊的な体、霊のからだ、一例:Anderson Institute))の用法とSpirituality -The body of spiritual or ecclesiastical persons.の用法とは明確な使い分けがあるようで、このことからも「霊的な体」としたのは間違いのようです。
- Spiritualの訳については、OEDのSpiritualでは
A.
- I.1.Of or pertaining to,affecting or concerning,the sprit or higher moral qualities,esp.as regarded in a religious aspect.(Freq.in express or implied distinction to bodily,corporal,or temporal)初出1377.
- 1b.Applied to material things,substances,etc.,in a figurative or symbolical sense.初出1387-8.
- 1c.Of songs,etc.:Devotional,sacred.初出1382.
- 1d.Of transcendent beauty or charm. 初出1480.
- 2.Of,belonging or relating to,concerned with,sacred or ecclesiastical things or matters,as distinguished from secular affairs;pertaining to the church or the clergy;ecclesiastical.初出1338.
- 2b.Of law:canon,canonical.初出1474.
- 2c.Of a day:Devoted to or set apart for special religious or sacred observances.初出1490.
- 2d.Spiritual court, a court having jurisdiction in matters of of religion or ecclesiastical affairs.初出1498.
- 3.Of persons:a.Standing to another,or to others,in a spiritual relationship.初出1380.
- 3b.Ecclesiastical,religious.初出1399.
- 3c.Devout,holy,pious;morally good;having spiritual tendencies of instincts.初出1382.
- 4.Of or pertaining to,consisting of ,Spirit,regarded in either a religious or intellectual aspect;of the nature of a spirit or incorporeal supernatural essence;immaterial.初出1303.1382年ウィクリフ:It is sowun a beestly body,it schal ryse a spiritual body.
(以下略。A部では10の語義.、さらにB部では6の語義がある)
- など、spiritualは「教会的」に限定はされておらず、また、1933年刊(1978年版使用)より新しい2001年のミシガン大学のMiddle English Dictionary(中世英語電子事典)(Middle English Dictionary Entry,the Regents of the University of Michigan.)のspiritū̆ālitẹ̄項目では語義は(a) Immateriality, purely intellectual nature;(非物質性、非実体性、純粋に知性的な性質)(b) piety;(敬虔,信心) (c) the institution of the church; an ecclesiastical right or prerogative; (教会制度、聖職者の権利や特権)(d) an ecclesiastical court;(聖職者法廷、教会法廷、教会裁判所、宗教裁判所) (e) pl. consecrated ground.(奉献された土地)となっており、aの用例は1398年頃のコーンウォール人作家John Trevisa,によるBartholomaeus's De Proprietatibus Rerum(フランスパリのフランシスコ会士による著作)の中世英語訳のAn aungel is substancia I-seid spiritualis, for by resoun of þe spiritualite of his substaunce & of þe singuler spiritualte, he perceyueþ in hymself al fourmes intelligibil.が引かれています。ここは天使の本質を「純粋な知性的存在」として説明しているので、初出spiritualiteでは「精神性、霊性」と訳していいでしょう。つまり、1の語義の和訳は「霊的な人々、すなわち聖職者団」や「霊的な人々、すなわち聖職者団、教会組織。」としてはいかがでしょう。ただ、ecclesiastical courtも教会-、宗教-としたり、日本の医療系論文でもスピチュアルを「宗教的」とかつては訳してはいたそうなので「宗教組織」や「宗教人」も間違いではないでしょうけれど、現代の日本の論文ではカタカナ表記を除けば「霊的」の方が多いのではないでしょうか。ひとまず「霊的な体」については併記をやめ、修正します。--121.107.209.16 2016年3月31日 (木) 11:36 (UTC)