ノート:菟道稚郎子/過去ログ1
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平成26年1月12日までの議論
『播磨風土記』の「宇治天皇」の記述を根拠として、菟道稚郎子は「宇治天皇」として即位したが殺されたとする[要検証 – ノート]についてのメモ
- 1.”皇位を譲るべく自殺したという美談”が通説である。
- 2.しかし、『姓氏家系大辞典』太田亮の「宇治部」の「1山城の宇治部」の項では、”播磨風土記に宇治天皇の語あり、一時皇位につき給いしか”と記す。
- 3.播磨風土記の記述が間違いとするか、正とするか。普通に考えて、天皇の即位を間違えるのは不自然。
- 4.宇治天皇として一時皇位についたとして、本来であれば古事記あるいは日本書紀にそう記載されるべき。
- 5.”皇位を譲るべく自殺したという美談”がなぜ、日本書紀だけで古事記にないのか? 海人の鮮魚の譲り合いというエピソードは同じように記述されているのに。[1]
- 6.”皇位を譲るべく自殺したという美談”を日本書紀が、創作したと推察せざるを得ない。なぜか? (単に皇位を譲るだけなら、自殺以外の手段も考えられる。)
- 7.以上のような、播磨風土記と古事記と日本書紀との記述の矛盾を説明する説として、”菟道稚郎子は「宇治天皇」として即位したが殺されたとする”が提出されたものと考えられる。
- 脚注
--Kobeyamate(会話) 2013年10月5日 (土) 08:45 (UTC)
- (要検証タグの本文に変更を加えました。また、上記の脚注の節立てを解除させていただきました)
- コメント 内容に関するコメントではなく、編集方針に関するコメントとして。「要検証」のタグを貼られましたが、Wikipedia:検証可能性にある通り、「Wikipediaの検証」とは「記載が真実かどうか」ではなく「出典が信頼できる情報源かどうか」の検証です。その意味で、Kobeyamateさんご自身が貼られた古田武彦氏の講演録のリンク貼り付けで、大方検証の必要性は満たされております。そして、真実かどうかのKobeyamateさんの勉強はWikipedia外で行われるべきであり、ノートページ等を私物化されるのはご遠慮頂きたく、お願い申し上げます。--Saigen Jiro(会話) 2013年10月6日 (日) 05:28 (UTC)(修正)--Saigen Jiro(会話) 2013年10月6日 (日) 06:15 (UTC)
- Saigen Jiroさま、コメントありがとうございます。また、編集整理へのご尽力深謝致します。--Kobeyamate(会話) 2013年10月6日 (日) 13:36 (UTC)
- Saigen Jiroさま、凄いです。ずいぶん充実して読みやすくなりました。感動ものです。深謝!--Kobeyamate(会話) 2013年10月8日 (火) 13:31 (UTC)
- Saigen Jiroさまへ、ほとんど満点に近いのですが、私としても自分の書いた部分には責任を持ちたいので。
- 1.宇治部”上記2氏の一族の人名は史上には見えないが”は、どこからの引用ですか? そもそも意味不明。”上記2氏の一族の具体的人名は記紀史上には見えない”くらいの意味だろうか?
- 2.『世界大百科事典』 平凡社、2003年について、wikipedia世界大百科事典を見ると、1988年版、2006年 第2版、2007年版があって、2003年はなし。私は近くの図書館で、2007年版を見てきましたがwikipediaと同じく2003年版は存在しないように奥付に記されています。また、当該項目は記(吉井巌)のようになっていました。wikipedia吉井巌”(よしい いわお、1922年 -1995年 )”より、”継体天皇の父系の祖であるホムタワケが通常応神天皇とされるところを、垂仁天皇の子・誉津別命と解釈したことはよく知られる(『天皇の系譜と神話 二』(1976.6))。また王朝交代説において応神天皇が始祖的な大王とされたのに対し、いち早く応神天皇の始祖性を否定する見解を示した(『天皇の系譜と神話 一』(1967.11))”とあります。吉井巌氏は1995年に亡くなられているので、この世界大百科事典の記事はいったい何時書かれたのだろうか? そもそも、前記”継体天皇の父系の祖であるホムタワケが通常応神天皇とされるところを・・・いち早く応神天皇の始祖性を否定する見解を示した(『天皇の系譜と神話 一』(1967.11))”と。独自見解ですよね。いま、図書館で古事記関連の書物を見てきましたが、吉井巌説を採用している本を見つけることができなかった。吉井巌説は、菟道稚郎子を架空とするから、その説明はろくに書いていない。『世界大百科事典』(歴史の専門書ではない)にあったからと、21世紀2013年のいまの歴史家から相手にされていない説を、未処理で放り出すのは如何なものか。異説ないし少数説くらいの注記が必要と思います。
- (仮に架空の人物だとすると、名代 宇治部が全国に存在した事実や、前鳥神社 (神奈川県平塚市)の( 菟道稚郎子を祭神に祀る)が説明つきませんよ。『万葉集』の挽歌は、あなたが引用したんですよ。)
- 3."古田武彦氏の講演録のリンク貼り付けで、大方検証の必要性は満たされております"も異議あり。"古田武彦氏の講演録"程度では、根拠の出典として十分とは言えない。これは自力で、http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008432655 『古事記』における宇遅能和紀郎子について(昭和女子大学大学院日本文学紀要 18, 13-23, 2007-03-05)を見つけたので、貼り付けておきました。そもそも、wikipedia古田武彦より、”学問的には妥協を許さぬ強い意志を持つ。読者の会の分裂騒動などでは、『東日流外三郡誌』真書説を支持することを踏み絵とするなど、排他的な弊害を生み、熱狂的読者は「古田信者」と揶揄されることもある。”と書かれていますよ。
- 4."その他の記録・考証"の項は最後でしょ。途中に置くのはおかしい。その他なんだから、それ以外を全部書いた後でしょ。
- 5.『万葉集』挽歌は、順番として後ですね。冒頭はおかしい。(A,B,Cと3つの項目があって、A,B,Cの順が良いのかB,A,Cの順が良いのか。重要度の順や時系列、説明の流れを考えて配置すべき。)
- 6.Wikipedia:検証可能性について、誤解されているようですが、”ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。”とありますよ。つまり、”ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準”なんですよ。「書いてはだめ」以外の最低限の基準です。そういう意味では、いま調べると、Template:信頼性要検証が分かりやすかったかも。それから、Template:要検証も再度確認をお願いします。”内容が疑わしい、あるいは誤りがあると思われる場合に”とありますよ。
- 7."ノートページ等を私物化されるのはご遠慮頂きたく"は、全くの誤解です。上で述べたとおりです。Template:要検証Template:信頼性要検証なるテンプレートが作られているように、絶えず内容の信頼性を向上させるための検証努力が求められていると思いますよ。”真実かどうかのKobeyamateさんの勉強はWikipedia外で行われるべきであり”という態度でいると、『万葉集』挽歌を自身で引用しておきながら、その一方で世界大百科事典の菟道稚郎子架空説をなんの矛盾も感じず、未処理で放り出すことに・・。”「Wikipediaの検証」とは「記載が真実かどうか」ではなく「出典が信頼できる情報源かどうか」”を大上段にして、世界大百科事典に落ちていたからと、かび臭い情報を、なんの脈絡もなく引用して書くのはまずいですよ。自分の書いたものが、論理矛盾がないか最低限読み直して貰わないと。(余談ですが、冒頭の”「宇治天皇」として即位したが殺されたとする”について、図書館で調べた本では、現在では菟道稚郎は一時天皇として即位したが、謀殺されたが多数説のようです。)
- 8.編集を開かないと見えませんが、"宇治部氏と宇治氏の混同を避け、宇治氏は独自立項すべき。"と書かれている件、確たる根拠がなければ反対です。と言いますのは、太田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店、1963年)では、宇治部氏と宇治氏を全くの別物とはせず、両者は関連項目として、また両者とも菟道稚郎子の名代を主として記載されているからです。そして、氏姓制度、氏(ウヂ)、姓(カバネ)の項を見られたら分かりますが、時代によりこれがどんどん変化している。つまり、菟道稚郎子の名代宇治部を出発点として、時代や地方によりいろいろに変化あるいは分化して行った可能性があるからです。ですから、ここらの経緯と関連がはっきりしないと、両者をどう書き分けるかの方針が立てられないと考えます。
- 追伸:上記以外のSaigen Jiroさまの編集への尽力と貢献には、大変感謝しています。--Kobeyamate(会話) 2013年10月12日 (土) 06:51 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。先日偉そうな発言をした手前、猛省しておりますし、ご指摘に感謝いたします。詳細のお返事は後日(おそらく来週)いたしますが、本日はとりあえずご連絡まで。--Saigen Jiro(会話) 2013年10月12日 (土) 13:03 (UTC)
- Saigen Jiroさまへ、[要検証 – ノート]、陵墓 散骨について
(重箱の隅と思われるかも知れませんが、人は自分の知っている部分と照合して、「しっかり書かれている」あるいは「いいかげん」と判断する。そういう意味では、明らかにおかしいという点については修正しておかないと、信用されなくなりますので。それ以上の他意はありません。)
- 1.原典続日本後紀ですね。
- 2.http://www.j-texts.com/chuko/shokukouki.html (引用)
《卷九承和七年(八四〇)五月辛巳【六】》○辛巳。後太上天皇顧命皇太子曰。予素不尚華餝。况擾耗人物乎。歛葬之具。一切從薄。朝例凶具。固辭奉還。葬畢釋〓。莫煩國人。葬者藏也。欲人不觀。送葬之辰。宜用夜漏。追福之事。同須儉約。又國忌者。雖義在追遠。而絆苦有司。又歳竟分綵帛。號曰荷前。論之幽明。有煩無益。並須停状。必達朝家。夫人子之道。遵教爲先。奉以行之。不得違失。』重命曰。予聞。人歿精魂皈天。而空存冢墓。鬼物憑焉。終乃爲祟。長貽後累。今宜碎骨爲粉。散之山中。』於是。中納言藤原朝臣吉野奏言。昔宇治稚彦皇子者。我朝之賢明也。此皇子遺教。自使散骨。後世效之。然是親王之事。而非帝王之迹。我國自上古。不起山陵。所未聞也。山陵猶宗廟也。縱無宗廟者。臣子何處仰。於是更報命曰。予氣力綿〓。不能論决。卿等奏聞嵯峨聖皇。以蒙裁耳。
- 3.これ、Wikipedia淳和天皇の項、”天長10年2月28日(833年3月22日)、仁明天皇に譲位し退位。承和7年5月8日(840年6月11日)、崩御。死にあたり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨された。”に関連する記述ですね。淳和天皇が、「薄葬で良い。散骨しろ」と。で、”中納言藤原朝臣吉野奏言、昔宇治稚彦皇子者。我朝之賢明也。此皇子遺教。自使散骨。後世效之。然是親王之事。而非帝王之迹。・・不能論决(決められなかった)。”
- 4.まあ、私見ですが意訳すると、”昔、宇治稚彦皇子が散骨した例があるが、これはあくまで皇子で、天皇ではない”と昔話を出して反対意見を言った。つまり、反対意見をいうときに、宇治稚彦皇子を引き合いに出した。
- 5.では、中納言藤原朝臣吉野が史実としてしっかり調べて言ったのか? とっさにあいまいな記憶で言ったのか。あるいは、当時”宇治稚彦皇子が散骨した例”が周知だったのか? ここは、要検証だと思います。
- 6.で、これそもそも孫引きでしょ? それを、むりやり原典直リンクで、出典があるからとやるのは乱暴だと思います。と言いますのは、金澤 和美 博士論文の要旨の『万葉集』挽歌の論考にあるように”古人”という一語についても膨大な論証がされるのが普通です。上に引いた続日本後紀にしても、写本とかいっぱいあって、どの写本使ったの? みたいな話から始まって。他の書物とのクロスチェックはもちろん、遺跡発掘との照合・・などなど。そもそも、上に引いた漢文なんか急に見せられてもとても読めません。
- 7.なので、原典直リンクで、出典示したから良いでしょと言われても、一般読者からしたら「こんな原典示されても・・、読めないよー」となるように思いますが。
- 8.私はワンクッションおいて、謙虚に孫引きして、孫引きの出典と、まあ付録に原典リンクが良いと思うのですが。
- 追伸 Saigen Jiroさまへの要求が、かなり負荷が大きいことは承知しています。いろいろ編集頂いただくのも大変な労力と承知しています。ここは大変感謝しています。ただ、散骨を正とする記述は、菟道稚郎子関連では見ないので、気になります。書くにしても、”その後の史書では”→”続日本後紀では”と限定をかけて、例えば”淳和天皇の薄葬・散骨の審議中に出された例で真偽不明”という注釈はつけてやらないと、知らない人は誤解します。いま、Wikipediaの影響大きいです。菟道稚郎子の美談をそのまま、信じてブログに引用している人沢山いました。そういう意味でも正確を期したいと思います。--Kobeyamate(会話) 2013年10月13日 (日) 01:31 (UTC)
- 追伸の追加、Saigen Jiroさまへ、注文ばかりですみません。
- 陵墓の項が分かり難くなっていると思うんです。
- 結論から言えば、1)現在こうなっている(写真もあるので写真との関連も説明)、2)以前はこうだった、3)細かい経緯はこう・・という感じで、時間の逆順で書く方が分かりやすいと思うのですが。
- 一つご検討よろしく。
- もう一つ追加です。宇治部で、「饒速日命六世孫・伊香我色乎命の後。」、「神饒速日命六世孫・伊香我色雄命の後。」と書き分けているのはどういう意図ですか? 同一?それとも別人?誤記?確認よろしく。--Kobeyamate(会話) 2013年10月13日 (日) 11:13 (UTC)
- 宇治稚彦皇子の散骨について追加。Saigen Jiroさまへ、ご参考まで。
- http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49806_40532.html 「火葬と大蔵 焼屍・洗骨・散骨の風俗」 喜田貞吉 青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/ )底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「民族と歴史 第三巻第七号」 1919(大正8)年6月 に関連記載あり。
- (引用)”藤原吉野の奏言に、
昔宇治稚彦皇子は我が朝の賢明なり。此の皇子遺教して、自ら骨を散ぜしむ。後世之に傚ふ。然れども是れ親王の事にして、帝王の迹(あと)にあらず。我が国上古より山陵を起さざるは、未だ聞かざる所なり。
とある。宇治稚彦皇子とは稚郎子皇子の事であろう。皇子薨じて宇治山上に葬るとは日本紀にあるが、散骨の事は記紀その他の古書にかつて見当らぬ。しかしながら藤原吉野の当時には、皇子は散骨の式によって葬られたとの説の信ぜられておった事は疑いなく、そしてそれが流例となって、「後世之に傚ふ」とあってみれば、古来遺骨を散ずるの風のかなり行われていたことは、立派に承認せねばならぬ次第となる。”(引用おわり)
- ところで、よく考えてみると、散骨の前提として火葬が無ければならない。では、火葬はいつから日本で行われるようになったのだろうか? wikipedia火葬では、”『続日本紀』によると、日本で最初に火葬された人は、文武天皇4年(700年)に火葬された僧道昭である。・・ただし、近年ではそれに先行して火葬が行なわれていた可能性も強く指摘されている[1]。・・研究が進めば日本における火葬史は100年以上遡ると考えられる。”と。
- 結論として、菟道稚郎子の時代には火葬は一般的であっとは考えがたく、ましてそれ(火葬-散骨)を遺言するとはおかしなこと。ただ、後世 藤原吉野の時代に火葬が一般化し、伝説として「菟道稚郎子・・散骨・・云々」となっていたのかも知れない。これが、喜田貞吉の言いたいことだろうか。--Kobeyamate(会話) 2013年10月14日 (月) 06:18 (UTC)
- Wikipedia:中立的な観点やね。Saigen Jiroさまへ、ご参考まで。
- "対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。そのトピックについて異なる観点を記載する際には、その相対的な勢力差が適切なレベルで反映されるよう記述してください。同等であるとの誤った印象を与えたり、特定の視点を不適切に重点的に記述することを避けてください。例えば「地球の形状について、フェルディナンド・マゼランの調査では球体だとされ、ジョン・ハンプテンはわん曲した平面体だとしている」といった記述は、ある領域についての大多数の観点と極少数の観点を同等に伝えてしまっています。"
- 世界大百科事典の吉井巌説(菟道稚郎子は架空)を、同等に扱って良いのか。宇治稚彦皇子散骨説しかり。
- 歴史の研究は、沢山ある。A,B,C,D・・・。人は全てを知って書く訳にはいかない。だから、まずは自分の知る範囲(例えば、A,B,Cの3つ)で書く。しかし、他にも説はないのか? A,B,Cは古くなっていないか?その検証は、Wikipedia:中立的な観点やね。それを”独自研究”だと排除したり、”お勉強は外で”と排除するのは如何かと。--Kobeyamate(会話) 2013年10月14日 (月) 12:36 (UTC)
ご質問への返答。
- 2013年10月12日 (土) 06:51 (UTC)への返答
- 1. 文末に『日本古代氏族人名辞典』を引用しています。「宇治部○○」という人物が『古事記』や『日本書紀』以下六国史含めた歴史書に載せられていないということです。
- 2.
- 2003年について:
当然2003年は出版年です(巻末を参照し、2003年版と書いておりました)。初版は1988年です。1988年版の小改訂という位置づけでよろしいかと思います。 - 吉井巌氏の説について:平凡社クラスの大手出版社の出す百科事典では、記述の信頼性は最重要項目です。突飛な説を掲載するなんてことは決してありえません。また吉川弘文館の『日本古代氏族人名辞典』菟道稚郎子項でも、本文に記載されてこそされていませんが、参考文献に吉井巌『天皇の系譜と神話 1』を挙げております。Kobeyamateさんが提示されている金澤和美氏の「『古事記』における宇遅能和紀郎子について」でも引用があるではありませんか。これらの書籍において未だに記載があるということに対して、「古い時期に出された説がいまだ否定されるに至ってはいない」という
事実がどうして理解出来ないのでしょうかことと理解いたしました。未だに「菟道稚郎子について論じるにあたっては、考慮に入れるべき」説なのですではないでしょうか。決して突飛な説ではなく、『天皇の系譜と神話 1』に目を通しましたが、きっちりと論証しておられます。
- 吉井巌氏自身について:
何の知識的裏付けもない一市民が「独自見解ですよね」と一言で片付けることは、極めて不道徳です不適切かと思います。通説に採用された人物が偉いとでもお思いなのでしょうか。通説に対して様々な疑問と反証を繰り返すことが科学の営みですので、様々な立場の方がおられます。氏の切り口によって、河内王朝説の議論は大いに深まったものと感じます。私自身に対する批判は真摯に受け止めますが、こうした日本史学に多大な貢献をされた人物を素人が批判することに対しては、心から怒りを覚えます。ましてや、誰でも書けるWikipediaの記述を鵜呑みにして発言するなど、ありえないことです。かび臭いなどよく言えたものです。 - 架空説の記述に対して:Wikipediaの中立的な観点から、両論は併記すべきと考えます。私の記述は双方を考慮したもので、実在説のみに拠るつもりはありません。宇治部の存在や『万葉集』の記載等は学会も百も承知でしょうし、それをもってしても未だ完全否定されるにあたっていない事実を考慮すべきと思います。
- 2003年について:
- 3. 「大方検証の必要性は満たされております」は、Kobeyamateさんが「検証」を「真実の検証」だと誤解していると思ったことによる発言ですので、私の誤解だったことは認めますし不適切な発言であったとお詫び申し上げます。
- 4. 文脈からして、「その他の記録・考証」節までは菟道稚郎子の人物そのものについて、「宇治部」節は菟道稚郎子の関連事項です。節名が気に入らないなら「人物についてその他の記録・考証」でも構いませんので、戻して下さい。
- 5. 移動しても特に異論はありません。
- 6. 3同様、私の誤解によるものです。
- 7. Kobeyamateさんの2013年10月5日 (土) 08:45 (UTC)の記述は、自分の思考整理で書いたのではないですか。ですので私物化と言いました。まさかその記述を見た人に参考になると思って記したのでしょうか。その記述の1,2は本文に書いてあること、3から7はKobeyamateさんご自身の頭で生み出された独自研究でしょう。独自研究を記載することは私物化です。また本文の考証節は、様々な説を載せる場と考えています。
一説だけの論理を展開するなど論外。 - 8. 『姓氏家系大辞典』を読みました。「宇治」項で「宇治氏中には此等の地名を負ふものと、宇治部より来たるものとあり」とあり、宇治部氏 = 宇治氏とはしてないですね。宇治部氏との関連性を指摘するのは良いと思いますが、「宇治氏 ⊂ 宇治部」でない以上、あくまでも関連項目に留めるべき内容と考えます。
- 追伸. どうもです。
- 2013年10月13日 (日) 01:31 (UTC)への返答
- 1-3. そうですね。
- 4. 全く違います。読めなければ訳本を参照するのが当たり前でしょう。図書館にある信頼性の高い書籍よりも、信頼性の低いネット上のサイトに頼る理由が理解できません。
- 5. 歴史書の記述の検証は学者の役割です。まあこの条は「…という伝承がある」程度の内容ですが。
- 6. 孫引きではありません。出典の遡りです。多かれ少なかれ解釈の入る二次史料より原典の一次史料を採用したことで、記事の信頼性が向上したと思います。
- 7. そのために巷には訳本があるのではないでしょうか。
- 8. その人物を知るにあたっては、歴史書のどの条に記載があるかが非常に大事な事柄です。不賛成。
- 追伸. この条に記されたのは「伝承」ですので、その旨を記せば良かったですね。
- 追伸の追加.
- 陵墓について:結論を頭に持ってくるのは構いません。時系列を乱すのは反対です。
- 宇治部氏について:「『新撰姓氏録』には以下の記載がある。」と書いたように、原文が異なっています。『新撰姓氏録』はよく氏族の考証で使われますが、表記や○世孫の記述さえ結構バラバラなので、原文に忠実に記載するよう心がけています。
- 2013年10月14日 (月) 06:18 (UTC)への返答
- 『続日本紀』を理解されたら理解が進むかと。
- 2013年10月14日 (月) 12:36 (UTC)への返答
- これまで書いたことと重複するので省略。「外で」は失礼でしたので、謝罪いたします。
以上、よろしくお願いいたします。--Saigen Jiro(会話) 2013年10月14日 (月) 15:05 (UTC)(発言撤回)--Saigen Jiro(会話) 2013年10月15日 (火) 03:45 (UTC)(全面的に記載修正)--Saigen Jiro(会話) 2013年10月15日 (火) 10:01 (UTC)
- 報告 不適切な表現、また私の誤解ばかりでしたので、先の発言に全面的に修正を加えました(差分)。風邪引いた頭で書くものじゃないですね…。
- 上の私の発言は、あくまで参考程度と捉えて頂いて結構です。Kobeyamateさんが納得出来ないようでしたら、随時手を加えて頂いて構いません。これまでの私の不適切な発言に関しては私自身非常に嫌悪感を覚えておりますし、反省の意を込めて積極的な編集は控えておきます。--Saigen Jiro(会話) 2013年10月15日 (火) 10:10 (UTC)
- Saigen Jiroさまへ
- 1.Saigen Jiroさまは、誠実で真面目な人なんですね。よく分かりました。
- 2.ただ、編集合戦になっても仕方が無いので、私の所感や考えを書いておきます。
- 3.Saigen Jiroさまが、整理されて注釈~出典など、きれいにすっきりしたと思います。
- 4.ただ、独自研究の観点で排除されようとしているなかに、中立的な観点のための「良質な研究」 https://ja-two.iwiki.icu/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9 が入っているのではないかと。
- 5.「人間は考える葦である」(パンセ)。「独自研究はだめなんだ」と、「考えること」を排除すると、中立的な観点のための「良質な研究」が希薄になる。
- 6.私見ですが、古代史の記事は、パーツが欠けているジグソーパズルのようなもの。パーツが完全なら絵は一つ。しかし、パーツが欠けているから、A,B,C・・と複数の絵が可能に。
- 7.その中で、Aについて書くならまずAをしっかり書いて、それが終わってB、Cに。Aの途中にBをいれてまたAに戻ると、読んでいる人は混乱する。
- 8.郎子架空説しかり。墓の散骨の話しかり。途中に入れたらまずいでしょう。
- 9.で、郎子架空説について、それを完全に否定するつもりもないけれど。宇治部という菟道稚郎子の名代というパーツをどう扱うのか。宇治部が居て、1)大井神社 (水戸市)"祭神は、仲国造の祖。奈良時代以前からの古社で有力な郡領宇治部氏の奉斎とされている。"http://www.ibaraki-jinjacho.jp/ibaraki/kenou/jinja/01042.html と。2)熊野神社 (神戸市中央区)"宇治物部氏族の創建"。3)宇部市#地名の由来"応神天皇が設置した宇治部の部民が住んだ地域が宇治部里(うじべり)と呼ばれ、これが転訛し「宇部里」になったという説"。全国に痕跡が残っているから、宇治部というパーツを架空とするわけにはいかない。また、『播磨国風土記』の記載(「宇治天皇」の記載)のパーツをどう扱うのか。郎子架空説で、これをどうはめるのか。難しいでしょう。だから、まず実在説でしっかり書いて、名代宇治部、『播磨国風土記』の記載がそれに関係してくると。その後、吉井巌の架空説を。しかし、金澤 和美 博士論文の要旨 昭和女子大 20090930を見ると明らかに実在説で論文を書いていて、それで博士論文が認められた。だから、実在説が有力と判断しています。
- 10.散骨について:散骨は完全に仏教(含む火葬)でしょう。では、郎子の時代に仏教は伝来していたのか?仏教公伝では、”6世紀半ばの欽明天皇期、百済から倭(古代日本)への仏教公伝のことを指すのが一般的”と。つまり、郎子の時代に仏教は相当疑問でしょ。だから、調べた範囲では、郎子散骨は史実としては扱われていない。あくまで、淳和天皇の散骨に付随した話。それから、散骨が、陵墓の途中に出てくるのは、上の”Aの途中にBをいれてまたAに戻る”になっていると(散骨を正としたら陵墓と矛盾する)。賀陽豊年も突然出てくるけど、「だれそれ」と。多少説明しないと。というか、脚注にでも書けば? さらに、元の原稿にあった(ここは私が書いたのではないが)、”明治の治定以前、この地には古墳状の円丘があり、菟道稚郎子を攻めて、逆に伏兵にあって宇治川で命を落とした大山守命の墓であるとか、菟道稚郎子の母である宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)の墓といった伝承があったようである。宮内省がどのような経過でこの円丘を菟道稚郎子墓としたのかは不明であるが、治定後円丘周辺を広範囲に買収し、前方後円墳に整形し、現在の形にしたのである。” http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-9iratukohaka.htm (荒川 史(宇治市教育委員会))というニュアンス(明治の宮内省ねつ造説)がすっかり消えてしまった。うーん。
- 11.なお、上で”原典続日本後紀ですね”と。続日本紀は、延暦16年(797年)に完成とありますから。それから、繰り返しになりますがそもそも、原典への直リンクは、個人的には乱暴だと思う。(上述の通り)
- 12.宇治部について:Q.”上記2氏の一族の人名は史上には見えないが”は、どこからの引用ですか? A.文末に『日本古代氏族人名辞典』を引用しています。「宇治部○○」という人物が『古事記』や『日本書紀』以下六国史含めた歴史書に載せられていないということです。(引用おわり) とするならば、『日本古代氏族人名辞典』に載せられていないということ? それなら本文もそう記されるべき・・・、いま、『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館、1990版)を見ると、宇治部氏(うじべうじ)で、”『新撰姓氏録』河内国神別・和泉国神別に乗せるほかはこの一族の人名は史上に全く見えない”となっています。ここからの引用ですね。で、『新撰姓氏録』河内国神別・和泉国神別に乗せるほかはの限定を外したら、意味が違う。
- 13.ところで、”「宇治」を冠する氏族として、宇治部氏と同じ物部氏系を称する宇治氏(姓は連のち宿禰)があるが、宇治部の管掌氏族とする説がある[4]”も意味がよくわからない。宇治部=名代=部民制。部民制で、”部民 【べみん】〈べのたみ〉〈ぶみん〉とも。大和朝廷時代の部の隷属民。居住地・職業・私有者などの名を冠して何々部と呼ばれ,部に必要な物資や徭役(ようえき)を提供した。” http://kotobank.jp/word/%E9%83%A8%E6%B0%91 ( 百科事典マイペディアの解説より)。つまり、支配層としての宇治ないし宇治部と、支配される民としての”部民 【べみん】〈べのたみ〉”がある。「宇治部の管掌氏族・・」の”宇治部”がいったい、”部民 【べみん】〈べのたみ〉”を意味しているのか、あるいは支配層としての宇治部なのか?・・ と思って、 『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館、1990版)を見ると、正確には「・・菟道稚郎子の名代といわれる宇治部の・・」と限定がついている。これなら分かる。が、限定を省略すると意味が取れなくなる。それから、『日本古代氏族人名辞典』では、宇治氏(うじうじ)とふりがなをしている。(うじうじ)も省略してしまうと意味が取れなくなる。
- 14.そもそも、宇治部と言ったとき、支配される民としての”部民 【べみん】〈べのたみ〉”の意味と、支配する連や宿禰たちの意味と、全体としての意味と、3つの解釈が出てくる。それを書く方が意識して書かないと、読む方が意味がとれなくなる。さらに、『日本古代氏族人名辞典』の宇治氏(うじうじ)の「菟道稚郎子の名代といわれる宇治部の管掌氏族」という書き方は、御名代宇治部全体を管掌するという意味なんでしょう。限定を外すとそのニュアンスが伝わらないと思います。
- 追伸
- 繰り返しになりますが、Saigen Jiroさまには大変感謝しています。この原稿を起こしたのは私ではありませんが、 2006年8月12日 (土) 12:24 124.25.224.18 (2,573バイト) (+2,573)だった。それが、 2013年10月15日 (火) 10:26 Saigen Jiro (会話 | 投稿記録) (13,235バイト) (+1,230) に育ってきた。Saigen Jiroさまの貢献大です。が、情報が多くなって、ちょっと整理がおいついていないのと、Saigen Jiroさまほど歴史に詳しくない人が多いのではないかと思います。原典くらいよめよと。しかし、多くの人はWikipwdiaで取りあえずの情報が得られればOKでしょう。忙しい人は忙しいなりに。時間のある人はそれなりに。読んで、Wikipwdia来てよかったねと。それが理想と思うのですが。
- 大井神社 (水戸市)"祭神は、仲国造の祖。奈良時代以前からの古社で有力な郡領宇治部氏の奉斎とされている。"http://www.ibaraki-jinjacho.jp/ibaraki/kenou/jinja/01042.html は、復活させようと思います。神社の歴史とのつながり、地元とのつながりは大事だと思いますので。そもそも、”宇治部”でwikipedia検索をかけて、大井神社 (水戸市)ヒットして「こんな神社がある・・」と知りました。それ切ったらまずいでしょう。神社庁のページにある裏付けのある情報ですから。
- 本文記事の編集は、適当に時間のあるときに。--Kobeyamate(会話) 2013年10月27日 (日) 00:56 (UTC)
- 内容承知しました。リンクのある項目をわざわざ本文で紹介することはないかと思いますが、百科事典の枠組みを外さない範囲でわかりやすい内容になるのであれば反対は申しません。Kobeyamateさんにお任せいたします。--Saigen Jiro(会話) 2013年10月27日 (日) 01:15 (UTC)(追記)--Saigen Jiro(会話) 2013年10月28日 (月) 12:22 (UTC)
- (追記) 2点ほど。1点目、名代や遺称地の存在からその人物の実在を証拠とする論法はついぞ見かけたことが無いのですが、どういった方のご主張なのでしょうか。5世紀の部民制に関する研究の現状でそれが言えると思っておりませんでしたので、教えて頂けたら幸いです。2点目、吉井氏の説のキモは、菟道稚郎子の説話に和珥氏伝承の潤色が多分に見られるということと把握しております。架空説はあくまでもその極論かと(改変にはこだわっておりません)。--Saigen Jiro(会話) 2013年10月28日 (月) 12:01 (UTC)
- (回答)A1.回答の前提として、私は歴史の学者でも専門家でもなく歴史を趣味にしている者でもありません。実は、宇治郷 (神戸市)を書こうとして、いろいろ調べる過程で菟道稚郎子に辿り着きました。菟道稚郎子がそのルーツだと。神戸市には現在宇治郷 (神戸市)#宇治川が流れていて、かつて八部郡宇治郷があって、和名類聚抄出ている。そして、地元熊野神社の伝承で、宇治物部氏族の創建とある(兵庫県神社庁 熊野神社 http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6301056.html )。では宇治物部氏族とは何か? かつて御名代の宇治部というのがあり、これと関連している。御名代の宇治部とは何か?菟道稚郎子という人物が居て、その人のために置かれた(応神天皇かあるいは宇治天皇かにより)。これが定説で、これ以外の説を知りません。菟道稚郎子架空説は、この定説を否定することになる。では、御名代の宇治部に関する定説を否定してどうするのか? 言いたいことはこれで全てです。逆に質問します。吉井氏の説を支持している人ないし文献を教えて下さい。私が菟道稚郎子に関する資料を調べた範囲では、吉井氏の架空説を支持している資料はありませんでした。ならば、吉井氏個人の説では? それを大筆することは、Wikipedia:中立的な観点違反です。隅に小さく書くべきです。A2.”吉井氏の説のキモは、菟道稚郎子の説話に和珥氏伝承の潤色が多分に見られるということと把握しております”に同意します。しかし、吉井氏は、「太子は仁徳天皇を顕彰するために置かれた人物であろう」と主張する(『世界大百科事典』)。まあ学者ですから、何か他者と違う主張をしないとね。で、結論として”吉井氏は、菟道稚郎子の説話に和珥氏伝承の潤色が多分に見られるとし、太子は仁徳天皇を顕彰するために置かれた人物であろうと主張する(『世界大百科事典』)。”くらいでどうでしょうか。
追伸
- 1.「2003年について:当然2003年は出版年です(巻末を参照し、2003年版と書いておりました)」:近所の図書館にある2007年版奥付で、「2007年9月1日改訂新版発行、2005年2月1日2006年改訂版発行、1988年3月15日初版発行」とあります。2003年版はまずいでしょう。wikipedia世界大百科事典を見ても2003年版はない。”2003年は出版年”なら奥付に”第1版第6刷”などと書かれているはず。”初版 1988年 第1版第6刷 2003年”のようにするのが本当でしょう。
- 2.「宇治墓」について:国史大事典(吉川弘文館)の”宇治墓(うじのはか)”を見てきました。ここからのぱくりですね。殆ど同じ記述があった。たとえここからでないとしても、なにか参考にした図書があれば、それ書かないとまずい。ほんと著作権違反(出典隠し)です。Wikipediaのベテランの人でよくやる。出典書くと著作権違反だとやられるから、出典隠し。しかも、適当に記述を変えるから、意味が変わってしまう。おかしいと思って出典をしらべようとしても、出典隠しだから苦労する。”『続日本紀』承和7年(840年)の記事では皇子が遺命して散骨させたという伝承が当時にあることが見られ”は、(国史大事典より)”『続日本"後"紀』承和7年(840年)5月の中納言藤原吉野の奉言には、皇子は遺命して散骨させたとある”ですね。”遺命して散骨させたという伝承が当時にあることが見られ”は明らかに意味が変わってしまっている。これはまずい。中納言藤原吉野の奉言は『続日本"後"紀』にあるが、”伝承が当時にある”とは言えない。なお、国史大事典(吉川弘文館)はプロ(歴史研究者)向け。当然、知識レベルは高いことを想定しており、その記載は紙面の制約から極度に圧縮されている。研究者として知っているべきことは省かれている。散骨は仏教の儀式と考えられ、火葬が前提。菟道稚郎子の時代には仏教伝来は疑問で火葬の習慣があったかどうかも疑問。とすれば、中納言藤原吉野の奉言をそのまま史実とするわけにはいかない。そんなことはプロ(歴史研究者)には当然で省略している。そのプロ向けの記載をそのままとは不親切でしょう。Saigen Jiroさん、知識がプロレベルに達しているんじゃないですか?(「賀陽豊年の埋葬」についても同じ。私らにしてみたら、誰?と。多少の説明かwikipedia賀陽豊年への誘導がないと、素人にはわけわからん。)--Kobeyamate(会話) 2013年11月3日 (日) 00:09 (UTC)
- 前にも書きましたが吉井氏の説は『日本古代氏族人名辞典』の参考文献、金澤和美氏の論文のイントロで紹介されているので、特筆性のある内容と思います。意識されているが反証に至っていない説と見向きされない説は違いますが、何度も申していますがわかりやすい内容になるのであれば別に良いので、最後ので構いません。
- また5世紀以前の部民の扱いの例として、「建部」を『日本書紀』にある日本武尊の御名代とする説のほか日本武尊を奉斎する職業部に名を付したとする説があるようですし(『世界大百科事典』建部項より)、この時代の部の扱いには慎重になるべきと思います。宇治部の研究は進んでいないようですし、研究のない内容を想像で補ってしまうのはいかがかと。
- 『世界大百科事典』は後で確認します。
- 宇治墓は確かに『国史大事典』から引用で、事実の羅列なので省略しましたが、付した方がなお良かったですね。『続日本後紀』のミスは今気づきました。賀陽豊年はリンクを付け忘れてなかったと思うのですが…。それで不十分とお考えなら、ここで非難せずに本文を変えて頂ければ良いのですが。--Saigen Jiro(会話) 2013年11月3日 (日) 01:02 (UTC)(追記)--Saigen Jiro(会話) 2013年11月3日 (日) 01:19 (UTC)
- Saigen Jiroさん、まじめな方ですね。返信ありがとうございます。
- 1)「金澤和美氏の論文のイントロで紹介されている」について、吉井氏の説の金澤和美氏のような引用(和珥氏伝承による潤色)ならいいですが、金澤和美氏は架空説には賛成していませんよね。問題視しているのは架空説ですが、金澤和美氏は架空説不賛成に同意頂けますか?(つまりは、架空説に賛同する研究者は見つけられない)
- 2)「宇治部の研究は進んでいない」について、私はプロの研究者ではないので、「姓氏家系大辞典 全3巻 太田亮 著 「宇治」の項で”宇治なる地名・諸国に多し”と始め、菟道稚郎子の御名代の宇治部について解説した後、”次に和名抄攝津国八部郡に宇治郷あり、宇治部より来たるか”と記している。」を根拠とさせて頂きました。どこか発掘で新しい木簡でも出てこない限り、決定打も反証もないかも。でも、私はそれで良い、というか現時点での最善を書けば良いと。これ以上の説があれば、教えて頂ければ併記します。
- 3)「『国史大事典』から引用で、事実の羅列なので省略しました」について、Wikipedia:著作権問題"より(事実は著作権保護の対象にならないが、事実の選択、配列、表現などに創作性がある表現を利用すると、著作権侵害の可能性がある)"、ノート:日本百名山一覧より"著作権法12条1項は「素材が単なる事実、データ等であっても、その収集、分類、選択、配列が編集者の一定の方針あるいは目的のもとに行なわれ、そこに独創性を見いだすことができれば、全体を著作物として扱う」趣旨である(名古屋地裁昭和62年3月18日)。"、つまり『国史大事典』の宇治墓の記事の創作性を否定できるのかが問題になります。
- 4)「賀陽豊年はリンクを付け忘れてなかった」について、もう少し読者に親切であって良いのではないか。「詳しくは賀陽豊年の項を見よ」とか。確かにリンクはあるけれど、記事の基本は”読んでいて、記事に流れがあって、すっと理解できる”を目指すべきでは。素人の私としては、「賀陽豊年が突然出てきて、だれそれ?」とつかえてしまう。記事の流れが悪いという印象です。これは、賀陽豊年だけでなく、全体としてです。散骨の話が出てきたり。プロ向けの『国史大事典』としては、研究者の助けになる記述満載でいいかもしれないが、wikipediaの一般読者を想定したときには、書くべき順番が違うのではないかと。
- 5)最後に、wikipediaの記事は一般読者向けに、できるだけ現代日本(21世紀の)との関連を書くべきと思うんですよ。つまり、菟道稚郎子は「宇治」という地名とゆかりのある人なんだと。そして御名代宇治部が、各地に行っていろいろな伝承が残っている。プロには常識かも知れないが、一般読者にはここを書いてやるべき。また、旧版”この時、ウサギが道案内をしたと伝えられ、「莵道」(とどう)の地名の由来となったと伝えられる。ただし『宇治市史』では、「うじ」は「うち(内)」からの転で、「莵」は仮名表記成立前の「う」に対する当て字が由来とする(宇治郡#地名の由来参照)。)。”を切ったでしょ。これも私見ですが、現代日本との関連で言えば、こういう説(俗説にしろ)が流布されているとすれば、プロ(歴史研究家)は無視して良いかも知れないが、wikipediaでは取り上げるべきだと。そういう視点で『世界大百科事典』吉井氏を見ると、これ完全に吉井ワールドですよね。”「宇治」という地名とゆかりのある人なんだ”ということは、全く分からない。一般向け百科事典が「こんなんで委員会」と思いますけど。
- 言いたいことは以上です。Saigen Jiroさんの『国史大事典』からの写し、『世界大百科事典』吉井ワールド。素人の私から見れば分かり難いのではないかと。一般読者もそう思うのでは。もう少しかみ砕いて、一般読者向けの流れを作ってやる方が良いのでは。そう思います。--Kobeyamate(会話) 2013年11月3日 (日) 23:04 (UTC)
- 1. それで良いかと。
- 2. 私がお尋ねしたのは「名代や遺称地の存在からその人物の実在を証拠とする」論法の出自の有無でしたので、論点がずれましたが他は構いません。ただ『国史大辞典』名代・子代の「御名代部名一覧(ほぼ確かなものに限る)」に宇治部の記載はありませんので、現在も議論の余地が残されていることに注意して断定を避ければ良いのではないでしょうか。
- 3. どうもです。
- 4. 重ね重ねどうもです。以後注意して編集に携わります。
- 5. wikipediaは万民のためにあると思うのですが。出典がある俗説の記載は大いに賛成です。
- ここは私の編集の批評会なのでしょうか。別に私も編集が上手な方と思っておりませんので、一般読者向けをよく理解されている方にそのような文章を書いて頂けて記事が向上されるのであれば大いに嬉しく思っております。--Saigen Jiro(会話) 2013年11月4日 (月) 01:22 (UTC)
- Saigen Jiroさん、どうもです。返信ありがとうございます。では異論のあるところだけ。
- 2-1. ”「名代や遺称地の存在からその人物の実在を証拠とする」論法の出自の有無”について、論法の出自の有無もなにもないです。ただの一般人ですから。但し繰り返しになりますが、「人間は考える葦である」(パンセ)。考えることを止めてはいけないだろうと。A説とB説と二つある。決め手があれば良い。新しい木簡でも出れば。無ければ、今まで世の中に分かっていることと比較する。A説とB説と。分かっていることとの整合性を。吉井氏の架空説は、和珥氏伝承による潤色が唯一の根拠なんですかね? 潤色といっても、大山守の反乱の場面など大人が見ればおかしな事だらけ。大山守が護衛も付けず一人で変な船に乗る? 菟道稚郎子にしても、一人で変装して行って見破られて捕まえられる可能性は考えないのか? 船頭に化けて川で溺れさせるだけなら、船頭を買収するか部下にやらせれば良い。これを史実と受ける大人は居ない。しかし、潤色はあるが何か根拠がある話が潤色されたとするか、あるいは根も葉もない完全なる作り話とするかで説が分かれる。そうして、吉井氏以外の多くの研究者が前者の立場を取る。私はそう理解しています。
- 2-2.”国史大辞典』名代・子代の「御名代部名一覧(ほぼ確かなものに限る)」に宇治部の記載はありません”について、ではあなたが書かれた『日本古代氏族人名辞典』の「宇治氏」と「宇治部氏」はなんですか? 『国史大辞典』名代・子代の「御名代部名一覧」に無いから否定される? もし、議論があればその議論を書けば良い。「御名代部名一覧」に無いということを主張したければ、”但し、国史大辞典』名代・子代の「御名代部名一覧(ほぼ確かなものに限る)」に宇治部の記載は無い”と書かれれば良いと思いますよ。中途半端な記載は読む人を困惑させるだけ。
- (補足)宇治部を、これ一体として分離不可能と考えるか、宇治+部と考えるか。後者の考えもありますよね、そうすると、語幹というか識別力のある部分は”宇治”の部分でしょう。(例えば、現代でも人事部とか営業部とか言います。人事、営業で意味が通じるのと同じ。”部”はあくまで共通部分だと。) そんなことは常識だから、おそらくプロは声高には言わないんでしょう。私は、宇治部と宇治をそういう視点で見ています。明確に別ものという根拠がないかぎり、なにか関連あると思うのが普通でしょう。
- 5. うさぎ道案内の俗説について、これはどうですか? http://keihansanpo.blog.fc2.com/blog-entry-129.html 宇治神社と菟道稚郎子(京都府宇治市) - 京阪てくてく町めぐり2012-05-06 ”手舎水は龍ではなく、兎がいます 「菟道稚郎子が河内の国からこの土地に向かう途中、道に迷った時1匹のうさぎがあらわれ振り返りながらあとを追う 菟道稚郎子を正しい道へと案内しお助けしたそうです この御由来のうさぎを、当神社ではみかえり兎とよび人々の人生を道徳の正しい道へと導く神様の御使いとして伝わっている」と書かれていました”(引用おわり)。写真もありますね。Saigen Jiroさんが削除されたうさぎ道案内の俗説とその否定的説明の記述を復活させたいと思いますが、如何でしょうか?
- 「ここは私の編集の批評会なのでしょうか。」について、「ここは良い記事を書くための編集方針を議論する場です。つまらない編集合戦をさけるためにも」と考えています。あくまで私見ですが。脚注を、注釈、原典、出典に分けてすっきり分類して、大変見やすくなった。けど、レベル上がりすぎ。プロ向けの『国史大事典』を写してきて、事実の羅列だからと出典隠し。wikipedia読者の日本史の知識レベルをどう想定しているのか? 高校の日本史 (科目)は選択制。とすれば、平均としては中学より少し上くらいを想定しておかないと。『国史大事典』レベルだと、高すぎると思いますよ。もし、そう感じないなら、Saigen Jiroさんの知識レベルが一般より上がっていると思いますよ。自分が標準というつもりはないけれど。--Kobeyamate(会話) 2013年11月4日 (月) 08:03 (UTC)
- Saigen Jiroさん、どうもです。返信ありがとうございます。では異論のあるところだけ。
- 内容承知いたしました。特に異論はございません。--Saigen Jiro(会話) 2013年11月4日 (月) 12:14 (UTC)
- (追記) 当方が参照しました『世界大百科辞典 第3巻』ですが、奥付から過不足なく引用すると「1988年3月15日 初版発行 (改行) 2003年版」とあります(刷情報はなし)。後はご随意に。--Saigen Jiro(会話) 2013年11月6日 (水) 03:47 (UTC)
- 世界大百科 「1988年3月15日 初版発行 (改行) 2003年版」:これ、いま話題の”食品の虚偽表示”類似ですね(売りたいねと。2007年版奥付で自ら否定していますが)。2007年版では「1988年3月15日 初版発行 (改行) 2005年2月1日 2006年改訂版発行 (改行) 2007年9月1日改訂新版発行」とあります。そして、Wikipedia世界大百科事典には、2003年版はありませんから、多くの人にとって2003年版は「??」となり、また手持ちでない人には容易に確認できないことに。そこで、莵道稚郎子の記載内容は変わっていないので、「2007年9月1日改訂新版」として良いですね。--Kobeyamate(会話) 2013年11月10日 (日) 03:24 (UTC)
- (”莵道稚郎子”案(以下”莵道稚郎子”案を、順次書いて行きます。一遍には無理なので少しずつ。))
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年[注 1])は、京都宇治ゆかりの人物。記紀に伝えられる古墳時代(「3世紀半ば過ぎから7世紀末頃」)の皇族(王族)。
第15代応神天皇の皇子。後の第16代仁徳天皇)大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)は異母兄。八田若郎女(後の八田皇女(仁徳天皇の皇后))は、実妹。日本書紀には、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、兄大鷦鷯尊に皇位を譲るべく自殺したという美談が書かれていて、現在でもこの説が流布されている。一方、古事記には、簡単に「然宇遲能和紀郎子者早崩。故、大雀命、治天下也。」と記されていて、自殺の話はない。[1] 菟道稚郎子は、一時仁徳天皇の前に即位していたのではないかとする説もある(下記その他の記録・考証参照)。
莵道稚郎子は、時代及び書物によって記載が異なる。古い順に宇遅能和紀郎子(『古事記』)・菟道稚郎子皇子(『日本書紀』)・宇治若郎子(『山城国風土記』逸文)・宇治天皇(『播磨国風土記』)・宇治若郎子(『万葉集』)・宇治稚彦皇子(『続日本後紀』)となっている。名前の「莵道」は「宇治」の古代表記の1つである[注 2]。「郎子」(いらつこ)は、郎女(いらつめ)に対する語で、「郎子」についての解説は、金澤 和美「『古事記』における宇遅能和紀郎子について」に詳しい[2]。
脚注
- 注釈
- 原典
- 出典
- ^ 古事記(原文)の全文検索サイト 古事記 中巻-6/応神天皇 より
- ^ 『古事記』における宇遅能和紀郎子について(金澤 和美 昭和女子大学大学院日本文学紀要 18, 13-23, 2007-03-05)
参考文献
- 『日本古代史大辞典』<大和書房、2006年>宇治項 http://www.daiwashobo.co.jp/book/b89196.html
- 『国史大辞典』(吉川弘文館、1979年-1997年)菟道稚郎子皇子項 http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n657.html
- 『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館、2010年普及版)菟道稚郎子項、宇治部氏項 http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b73746.html
- 『ウヂノワキイラツコ物語の研究 (新典社研究叢書237)』(新典社 (2013/2/22) 金澤 和美 (著) )(金澤和美氏の博士論文の内容を一般向けに出版したもの)http://www.amazon.co.jp/dp/4787942379
- 『世界大百科事典』(平凡社、2007年9月1日改訂新版)菟道稚郎子項(吉井巌)。 http://www.heibonsha.co.jp/wb_encyclopedia.html
関連項目
- 宇治郡 (京都府宇治市) - 莵道稚郎子ゆかりの地。
- 宇治神社 (京都府宇治市) - 菟道宮伝承地で、祭神に祀る。
- 宇治上神社 (京都府宇治市) - 同上。
- 前鳥神社 (神奈川県平塚市) - 祭神に祀る。
- 大井神社 (水戸市)(茨城県水戸市) - 奈良時代には、那賀郡(那珂郡)の郡領・宇治部氏が奉斎したという。
- 応神天皇
- 仁徳天皇
- 大山守皇子
- 八田皇女
- 名代
- 物部
- 古墳時代
- 日本史#古墳時代
- 前賢故実
--Kobeyamate(会話) 2013年11月10日 (日) 03:24 (UTC)--Kobeyamate(会話) 2013年11月11日 (月) 20:11 (UTC)
- (上記にカテゴリが書かれたことにより、各カテゴリにこのノートページが反映されてしまっていたので、コメントアウトしました)
- 「ご随意に」とは言いましたが、安易に「誤表記」と判断したことには賛同いたしかねますので、コメントさせて頂きます。『世界大百科事典』(1988年)・『世界大百科事典 第2版』(2006年)・『改定新版 世界大百科事典』(2007年)は別書籍です。それぞれに版があるのも自然なことと思います。また『改定新版 世界大百科事典』で『世界大百科事典』時代の版全てを挙げないのも自然なことでしょう。Wikipediaの「世界大百科事典」項であくまで便宜上まとめて「1988年版」「2006年 第2版」「2007年版」と記載したことに、どうも躍らされすぎてらっしゃいます。平凡社では「1988年版」という表現はしておりません。それを「閲覧者が誤解する」といいますが、その「閲覧者さん」の基礎的素養は低すぎではないでしょうか。ただここまで言って何ですが、「出典の更新」という意味で、2007年改定新版への変更は賛同いたします(同じ記載を私も確認しましたので)。
- また、草案を書き始めたということは、現在の本文を全面的に見直す考えだということでしょうか。詳しい方が行われるのは別に良いのですが、自身の独自研究を「考える葦」と正当化しようとする方がそれを行おうというのは、どうも穏当ではないですね。せっかくなのでコメントさせて頂きますと、名称表記の「古い順に」の根拠は何でしょうか。私は『山城国風土記』逸文の成立時期や『万葉集』の該当歌の年代を存じませんので、教えて頂けましたら幸いです。「Wikipediaの影響大きいです」とおっしゃる方の編集ですので疑ってはいないのですが、『播磨国風土記』の成立時期も『日本書紀』と前後していると思うのですが。
- それと、どうも古墳時代の年代まで記していることからして、ご自身で想定されている「閲覧者さん」は基礎的素養・読解力が相当低いと感じます。また「関連項目」のリンク先では当該項目を扱っていないのが多々あり、ほとんど関連項目のスタイルを満たしていないかと思います。過多の情報は記事を読みづらくするだけで、このままですと私が整理する前の本文の状態になるのではと危惧しております。--Saigen Jiro(会話) 2013年11月13日 (水) 10:50 (UTC)
- (追記) 金澤氏の論文、博士論文要旨の2つの出典が
- 『播磨国風土記』には「宇治天皇」の記載が見え、これを菟道稚郎子とする場合、皇位に就いていたとする見方もある。
- またこれ(= 『播磨国風土記』の記述)を基に、菟道稚郎子が即位したものの殺されたとする説もある。
- の2つに付されていました。しかし金澤氏の前者には「播」の字さえ見えず、後者にはおよそ最後の付け足しで『播磨国風土記』に対する言及がある程度で、およそ上記の内容は述べておりません。『播磨国風土記』に対する考証の文章であるのに、虚偽出典と感じました。今後ご注意頂ければ幸いです。--Saigen Jiro(会話) 2013年11月13日 (水) 17:53 (UTC)
- (追記) 金澤氏の論文、博士論文要旨の2つの出典が
- (追追記) 他人の批判をするのは嫌いなのですが、あまりにも愕然としたので。いまだに信じられないのですが、ご自身で提示なさった金澤和美氏の論文、喜田貞吉氏の書籍を読んでらっしゃいませんね。提示なさった文献を自分で読んでみてびっくりしました。
- いちいち指摘するのもめんどうなので1点ずつに限ると、前者ではイントロ、すなわち菟道稚郎子研究の経緯を把握していらっしゃらないので、冒頭から読んでないことがわかります。末尾の「別の古代」のくだりは非常に面白かったので、読んだら勉強になると思いますよ。
- 後者では、喜田貞吉氏は「散骨は大蔵か」として、「火葬」でも「洗骨」でもないものとしています。菟道稚郎子と火葬とはつなげていないようです。
- 知識が足りなければ、真摯に対応しなくてもよろしいのでしょうか。本は字面を検索するだけで内容は把握しなくて良いのでしょうか。根拠もない考えを基に相手を批判しても良いのでしょうか。どれも違うと思います。
- それと、この会話の冒頭の「ほとんど満点」という表現や、相手の編集を批評する姿勢から、どうも目上から発言されているように感じますので、対等にお話しをお願いいたします。以上、そんな感じです。--Saigen Jiro(会話) 2013年11月15日 (金) 15:20 (UTC)
- Saigen Jiroさま、Kobeyamateです。
- 1)まず、感謝です。記事が大変見やすくなりました。私も、こういうイメージを持っていました。素人に分かりやすく。私も素人ですから。
- 2)それから、大変なご尽力への賞賛です。大変な時間と労力とお察しいたします。深謝!
- 3)正直、自分で全面書き直しを考えていました。もう少し素人に分かりやすく(自分が予備知識がないとして分かるよう)。が、繰り返しになりますが、イメージ以上の仕上がりです。
- 4)散骨については、もう少し補足があっても良いのではないかと。”「火葬」でも「洗骨」でもないものとしています”ですが、骨は焼かないと硬くて散骨できません。焼いて脆くして細かく砕ける状態にしないと。つまりは、焼くという行為があって初めて成り立つのが散骨です。理系の常識です。つまりは、死体を焼くという行為が散骨の前提であって、それ無くして散骨はありえないのです。もっと言えば、常識的に考えて、死体を焼くという行為が常態化していなければ、「散骨」という発想はあり得ないのです(というか会話にならない。例えば天皇「散骨にしてほしい」、臣下「散骨?なんですかそれは?」になると思います)。もう少しお考えになられてはと思います。(要は、実際に菟道稚郎子が散骨に言及したり、それが実際に行われる可能性は、あの時代には殆どないということ。それを補足しないと、「皇子が遺命して散骨させたという伝承が当時にある」だけで放り出すと、「散骨が実行されたのか」と誤解されかねないですよと言いたいわけです。)
- 5)攻撃性について(私もよく人を無意識に非難攻撃するので自戒を込めて)
(経緯(編集履歴より))
初版:(最新 | 前) 2006年8月12日 (土) 12:24 124.25.224.18 (会話) . . (2,573バイト) (+2,573)
(途中省略)
20版:(最新 | 前) 2012年11月4日 (日) 05:18 Saigen Jiro (会話 | 投稿記録) . . (3,613バイト) (+107) . . (節立て。) (取り消し | 感謝)
21版:(最新 | 前) 2013年9月15日 (日) 06:42 Kobeyamate (会話 | 投稿記録) . . (6,232バイト) (+2,619) . . (宇治郡地名の由来、御名代宇治部について追記。) (取り消し)
(以下省略)
- で、この後私が調べた情報を追加しました。全面書き直しをする気は無かった。順次追加しただけ。その後、Saigen Jiroさまが、整理をして頂いて、引用文献などは見やすくなった。が、素人の私から見れば「???」。記述のレベルが高すぎて、ついて行けない。『国史大辞典』による記載が多いが、あれは素人にはレベルが高すぎ(私は、岩波数学辞典をよく見ますが、岩波数学辞典の記載をWikipediaに持ってきたらレベルが合わないのと同じ)。だから、もう少し素人分かりする必要性を感じていました。
- 言いたいことは、初版2006年8月12日(私ではない)(2,573バイト)、20版2012年11月4日 Saigen Jiro さん (3,613バイト)、21版2013年9月15日 (私)Kobeyamate (6,232バイト) ・・そしてこの後 2013年10月5日に私が (10,266バイト) にしたところで、Saigen Jiro さんが再度来られて、整理をして頂いて今の記事になった。この経緯(私は第一次Saigen Jiro さんの後に情報を追加した)からすると、私がSaigen Jiro さんから攻撃されるいわれはないと思うのですが、如何ですか?
- なお、私は、しばらくここには手を出さないようにします。Saigen Jiro さまの記事は、ほぼ完ぺきですので。
--Kobeyamate(会話) 2013年11月18日 (月) 21:25 (UTC)
- Saigen Jiroさま、Kobeyamateです。「遺命して散骨させたという伝承」について補足
- 1)後世の治定・考証で、”菟道稚郎子が散骨されたかの真偽は明らかとなっていない”と記されているんですね。見落としていました。
- 2)が、それなら「遺命して散骨させたという伝承」については、後世の治定・考証に一か所にまとめた方がいいと思います。
- 3)そもそも、陵墓ー記録で、「遺命して散骨させたという伝承」は陵墓に直接言及した記録ではなく、陵墓の存在を否定する間接的な話と思います。ですので、それなら後世の治定・考証の一か所にまとめた方が分かりやすいと思います。
--Kobeyamate(会話) 2013年11月18日 (月) 22:32 (UTC)
- どうもです。散骨については、喜田貞吉氏の書籍をいまだ読まれていないようですので、正直議論以前のマナーの問題ですから返答しかねますね…。
- それと、考え方に対する指摘をしたつもりで、攻撃性といった言及をした覚えはないのですし、攻撃した覚えもないのですが、そう受け取られてしまったなら不適切な発言だったのでしょう。謝罪いたします。--Saigen Jiro(会話) 2013年11月19日 (火) 00:32 (UTC)
- Saigen Jiroさま、どうも。お元気そうでなによりです。
- 1)まず最初に、素晴らしい菟道稚郎子記事をありがとうございます。これだけの大作は私にはとても書けません。深謝。
- 2)ですが、読んでいてひっかかるところがある。それは、書いておきたい。記事をよりよくするためと、他にもそう思う人がいるのではと思うからです。特に、他意はありません。
- 3)散骨について、単純に「なんでこんなところに唐突に散骨の話が出てくるの」と。これが、陵墓の記録? 散骨って陵墓の存在を否定する話ですよね。それ意識して書いているか?それから、繰り返しますが、常識的に考えて散骨は火葬無しに成り立たないし、仏教から来た葬祭の一形態。それが、菟道稚郎子の時代になされたように書かれている。そして、喜田貞吉氏の書籍を読めと。喜田貞吉がどれだけの人か知りませんが、Wikipedeiaの記事が一般の人に分かりやすく書くにはどうすべきかであって、そんな書籍を読まないと分からない話なら、書くべきではないのでは。読まなくても分かるように書くべきでしょ?
- 4)本文の後世の治定・考証の「記事中で「後世之に倣う」と見なされていたように」は、正確ではない。私が上記 2013年10月13日 に引用したように、原典続日本後紀「中納言藤原朝臣吉野奏言・・自使散骨。後世效之。・・」つまり、中納言藤原朝臣吉野が言っただけで、本当に”後世效之”が史実として確立されているのか、はなはだ疑問。もっと言えば、郎子の後の皇子は皆散骨されたんですか? それ史実ですか? もし史実でないとすれば、史実でないことを喜田貞吉が言っているからとWikipediaにかくことになりますよ。
- 5)同「承和7年(840年)当時、郎子は散骨されたという伝承が一般に信じられていたことが示唆される」? 一般ってだれですか? 宮廷貴族?それとも庶民?伝承があることと信じられていたとは違うのでは? 竹取物語の伝承があるからと、月から人が来たと昔の人は信じていた? 喜田貞吉がそう書いているか知りませんが、一人の説を誇張して取り上げるのは如何か。
- 6)本文の宇治部で、「『国史大辞典』が「確かな御名代部名」には挙げていないように[26]、御名代の部としての確証には至っていない。」と。こんなに言い切って良いんですか? 「『国史大辞典』では「確かな御名代部名」には挙げていない」で止めておけばきれいなんですがね。
- と、ひっかかるところ気になるところを書かせていただきました。本文を編集するほど勉強していないので、暫く本文には手を出しません。『国史大辞典』の「確かな御名代部名」ってやつも休みに図書館で見てみます。では。
--Kobeyamate(会話) 2013年11月19日 (火) 14:23 (UTC)
- 繰り返しになりますが、ご自身で提示された書籍をご自身が読んでいないのはマナーの問題で、議論以前の問題と考えております。こうまで私が言いますのも、仏教的に基づかない火葬は700年以前に行なわれたであろうこと、散骨は火葬ではなく洗骨を経由して行なわれた可能性が充分にあり得るという主張がなされているからです。その公に出された文書よりも一素人様の独自研究を優先される意味が全く理解できません。
- これまでも多くの独自研究に基づく主張をなされ、「素人だから」を言い訳としてきましたね。そもそも何の言い訳にもなっておらず、「素人だからこそ責任を必要以上に感じて慎重に根拠に基づく主張」をなさるべきで、「素人だから責任はなく憶測で主張していい」わけではないです。私もペーペーの素人ですから、これまで根拠に基づいて編集に携わる姿勢を大事にしてきたつもりです。独自研究に基づく歴史の勝手な構築は、個人ブログでやるべきでWikipediaでやるべきではありません。ましてや古代史は研究のないものばかりですから、Wikipediaが勝手に歴史を作ってしまうことは断じて許されないのです。
- 繰り返しますが、Kobeyamateさんご自身が提示なさった金澤和美氏の論文、喜田貞吉氏の書籍をご自身で読まれない限り議論には応じられません。お互いにとって時間の浪費かと思いますので、この辺りで最後にしたいです。あの程度の文量など一瞬ですから、どうぞお読みになって頂きたいと思います。
- 私の主張が到底おかしいとお感じでしたら、コメント依頼等を出されても構いません。--Saigen Jiro(会話) 2013年11月19日 (火) 15:10 (UTC)
(インデント戻す) 散骨の議論は書籍を読まれてからするとして、お考え方について。つらつらと拝見しますに、架空説に対する拒否反応が過剰すぎます。おそらく菟道稚郎子を架空とした場合、宇治郷 (神戸市)で行なわれた調査が無に帰してしまうとお感じなのでしょう。そもそもこの項目名、「宇治郷 = 過去」で「神戸市 = 現在」でちぐはぐなので、「宇治郷 (八部郡)」と改めるべきと思いますが。それはさておき、断じて無に帰するものではないと思いますが、そもそも実在性の根拠は確かなのでしょうか。
- 実在性のご主張について
- 御名代部の存在
- 確か宇治部の存在から実在を主張されていましたね。しかしながら、そのような論証は日本史学でなされておりませんし、ご自身でも根拠はないと認めていらっしゃいました。そして、そもそも「宇治部」が菟道稚郎子の御名代の部かすら明らかとなっていないこともわかりました。太田亮氏の『姓氏家系大辞典』や『日本古代氏族人名辞典』は『国史大辞典』以上にマニアックな書籍かと思いますので、そんな「些細なレベルの説」を定説まで持ち上げるのは不適当でしょうね。
- 例えば、「建部」は史書ではヤマトタケルの御名代の部とされていたが、実は単にヤマトタケルとの関係が付会された職業部であるとされています。また「曽我部/宗我部」は蘇我氏の私有の部とされています。このように「宇治部」に対しては、後世に菟道稚郎子という伝承上の人物を祀る氏族の職業部という可能性や、宇治氏の私有の部の可能性が、未だ残されているのではないでしょうか。
- 陵墓の存在
- 『日本書紀』では「菟道山上」に葬られたといいますが、山上に古墳はありません。山上で散骨したのかもという冗談はさておき。
- 『延喜式』では「12町四方」の墓があるといいますが、ご存知のように今の宇治墓ではないようです。しかしながら、それに代わる古墳がなく正しい陵墓は治定できなかったのです。また「12町 = 1.3キロメートル」もの規模の墓が現在消失しているのは甚だ不自然です。さらに、議論最中の『続日本後紀』の記事は840年で、『延喜式』が成立した905年と小さなタイムラグしか無いのに、藤原吉野という中納言クラスの人物さえ「散骨した」と信じています。『延喜式』の記述は相当疑問視すべきで、「陵墓の架上」も含めて考えるのが合理的でしょう。
- 神社の祭神
- 神社の祭神からの論証なぞおよそ学問的ではないですし、ご主張の前鳥神社で祭神を菟道稚郎子とする文書が見られるのは江戸時代にようやくのようです。また、架空の人物を祀る神社などごまんとあります。
- 以上のようにいずれの根拠も強く主張できるものではないと思います。次に、架空説の色眼鏡をかけた場合。
- 記紀の信頼性
- 記紀は700年代初めに書かれた書物ですので、仁徳天皇(16代)ぐらいだと約200年前のことを一生懸命書いていることになります。実在が確かな最古の天皇は雄略天皇(21代)に至ってですから、それ以前の人物で実在を当然とする考え方自体が極めて不適確です。また、菟道稚郎子に関する記述には儒教的な潤色が甚だしく、後世の手が相当入っているのはご存知でしょう。不自然なまでの潤色は、作り上げられた人物という感が否めません。
- 陵墓の信頼性
- 上記のように、『日本書紀』『延喜式』とも、記述の評価上極めて信頼性に欠けます。そもそも現今の陵墓は明治に『延喜式』に基づいて定められたものばかりでして、応神・仁徳は考古学的に合っていると見られているようですが、その前後の天皇と古墳の考古学的年代順序は食い違っていることが明らかになっています。そのため『延喜式』が天皇の陵墓さえちゃんと記せているとは見られていません。
- ウヂノワキイラツコの名前
- そのまま読めば「宇治の若い男の人」ととれ、とても抽象的な名前です。また、「郎子」という呼称は記紀にほとんどなく、後世の造作がひしひしと感じられます。
- 現今の研究
- 最後に、現今の菟道稚郎子に関する研究では、仁徳天皇をヨイショするためにぶつけられた人物だというのがメジャーな見方になっています。金澤和美氏の論文のイントロで、現在の研究の流れについて記されておりますし、金澤和美氏自身、その議論がなされている前提で論を進めています(読まれたらわかります)。
実在・架空の議論がよくなされる古墳時代の主要人物の中でも、こんなに架空性の強い人物はなかなかいないと思いますし、このノートに首を突っ込んで面白い人物を学べたと感謝しております。なお、記事本文を見れば明らかでしょうが、私は実在にも架空にも拠っていないつもりです。
Kobeyamateさんは「菟道稚郎子→御名代部の宇治部→宇治郷」と考えていて、その図式を壊されたくないのでしょうけれど、それを定説とするにはまだまだ研究が至っていませんので、Wikipediaで声高らかに記述するわけには参りません。個人的には、そんな図式に決めてしまうよりも、和珥氏・物部氏を絡めてもっと広大な謎が広がっていたらとワクワクしますが。なお、菟道稚郎子が架空であったとしても、Wikipediaに記されたその図式は決して色あせるものではありません。むしろ、議論を喚起してくれる役割を果たしてくれるものでしょう。そしていつの日か謎が明らかになって定められるのでしょうが、それはもう歴史家の仕事ですね。
さて、上記のように実在・架空両論がありますので(架空が強い印象を受けていますが)、「中立的な観点」は両論に目を向けた編集・主張と判断されます。偏った歴史観からは離れて頂くようお願い申し上げます。--Saigen Jiro(会話) 2013年11月20日 (水) 12:34 (UTC)(補足)--Saigen Jiro(会話) 2013年11月20日 (水) 12:42 (UTC)
Saigen Jiroさま、すばらしい”菟道稚郎子”記事ありがとうございます。仕事が忙しくなりご無沙汰していました。100点満点で198点ですね。私にはとても書けない労作です。2点減点は、出典で引用文献の出典年の入っていないのがあって、あれ専門誌に論文を書いてきた経験からして、気持ちが悪いんです。引用文献の著者、初出年月日、出典(雑誌名など)は論文としては必須です。それを抜かすと盗作ですので。なので、引用文献の出典年は編集で入れておきました。あと、南方熊楠説「兎に関する民俗と伝説」『十二支考』よく見つけましたね。『十二支考』は、平凡社の1984年版を持っているのでするが、読んでいなかった。南方熊楠説は根拠薄弱の怪しい説だと思っていました。かれ(南方熊楠)は歴史学者ではないし、兎道(うじ)という地名を研究するような人ではないですから。著作権は切れているようなので、青空文庫の該当箇所を引用しておきました。余談ですが、記紀の記述は、応神天皇あたりから実在性が高くなり、仁徳天皇は実在したというのが定説のようです。”菟道稚郎子”は、その境目辺りの人でしょうか。そういう目で見ると”菟道稚郎子”という人物は、記紀という書物の性格を知る上でなかなか面白い対象と思うようになりました。ご尽力、どうもありがとうございました。
--Kobeyamate(会話) 2014年1月1日 (水) 09:11 (UTC)
- わざわざどうもです。--Saigen Jiro(会話) 2014年1月4日 (土) 14:16 (UTC)
(メモ:以下は、些末なことなので、特に記事への修正は行いません。)
図書館に頼んでいた「金澤和美『新典社研究叢書237 ウヂノワキイラツコ物語の研究』(新典社、2013年) ISBN 978-4787942371」が来たので読みました。 (ついでに、1,2書いておきます。)
- 1)吉井説について金澤和美氏は、第一章第一節の冒頭に引用しています。が、続いて「しかし・・」と続ける。これは論文でよく使う表現手法で、自説を述べる前に従来の研究を要約し、その不足を明確にするやり方です。つまり、金澤和美氏は、吉井説に賛成しているのではなく、それを批判していると読むべきです。ですので、”26^ 吉井巌による説(金澤和美「『古事記』における宇遅能和紀郎子について」(昭和女子大学大学院日本文学紀要第18集、2007年、pp. 13-23 より)”とするのは、あまり適切な引用ではなく、孫引きでも”「応神天皇の周辺」『天皇の系譜と神話』1 昭和42.11 塙書房”とした方が良いでしょう。なお、金澤和美氏のスタンスは、ウヂノワキイラツコという記紀の人物が、潤色はされているけれども、全く根も葉もない話ではなく、応神の息子にして仁徳の異母弟という人物が居たという方にウエートがあると読みました。
- 2)”『続日本後紀』承和7年(840年)の記事からは、郎子が遺命して散骨させたという伝承が当時に存在することが見られる[原 6]。”は、ちょっと独自研究風です。”郎子が散骨されたという伝承に関しては、前記した『続日本後紀』で中納言クラスの藤原吉野が把握していることが見える”も同様です。
正確には、『続日本後紀』に”中納言クラスの藤原吉野が奏言した”と書いてあるということ。上でも引用し書きましたが、”中納言藤原朝臣吉野奏言。昔宇治稚彦皇子者。我朝之賢明也。此皇子遺教。自使散骨。後世效之。”です。
疑問1 テープ起こしの議事録が残っているはずもなく、正確にこの通りの言葉で吉野の発言がなされたのかどうか?
疑問2 当時本当に「昔宇治稚彦皇子者。我朝之賢明也。此皇子遺教。自使散骨。後世效之。」という伝承があったのか?(もしあったとすれば、その伝承は別の方法で確認されてしかるべき。つまり、吉野が淳和天皇を諫めるための作り話の可能性が残っていますと。) --Kobeyamate(会話) 2014年1月11日 (土) 13:43 (UTC)
(メモ2:経緯整理(今後のために))
- 1.この記事の最初は、履歴より” 2006年8月12日 (土) 12:24 124.25.224.18 (2,573バイト) (+2,573)”で、次に私の最初が” 2013年9月15日 (日) (6,232バイト) (+2,619) (宇治郡地名の由来、御名代宇治部について追記。)”~”2013年10月5日 (土) (10,266バイト) (+456) ”まで(第一次)、三番目にSaigen Jiroさまの最初” 2013年10月6日 (日) (10,084バイト) (-175)”~”2014年1月4日 (土) (38,619バイト) (+62) (→墓: 墓の記載を各天皇の陵節と統一。)”(最新)まで。
- 2.私が宇治郡地名の由来を求めて「菟道稚郎子」に来て、約5,000バイトくらい増やして1万バイトにした後、Saigen Jiroさま約38,000バイトまで育ててくれました。
- 3.最新内容は非常に緻密で、広く文典に当たっていますし、南方熊楠説は自分では疑問に思っていたのですが、見当が付かないので困っていたところ、ずばりですっきりです。深謝。
- 4.途中不満に思ったこと、何点か
- 1)wikipediaは、『国史大辞典』(歴史の専門家用)とは読者層も違えば、前提とする知識レベルが違う。だから、『国史大辞典』を引用しても、かえって誤解を与える場合がある。
- 2)『国史大辞典』とは、視点が違う。『国史大辞典』は歴史研究者のための辞典なのに対し、wikipediaはむしろ現実社会(21世紀の)とのつながりを求めてくる人のためという意味が大きいだろう。例えば、自分の例で恐縮だが、現在の地名宇治から宇治郡あるいは宇治郷を経由して、「菟道稚郎子」を調べにくる。あるいは別の例で、宇治神社にお参りした人がもっと詳しく知りたいと。あるいは、宇治市在住の人が、なにかのときに「菟道稚郎子」を知って調べるとか。
- 3)だから、『国史大辞典』よりも現在(21世紀)の社会との関連を厚く記載しなければならないだろうと。
- 4)そういう視点で、私は「菟道稚郎子」の記事を考えたし、読みました。
(なお、因みに上記2013年11月20日 (水) 付け”そもそもこの項目名、「宇治郷 = 過去」で「神戸市 = 現在」でちぐはぐなので、「宇治郷 (八部郡)」と改めるべき”は、ちょっと意見が違いまして、「宇治郷 = 過去」を書くつもりではなく、「神戸市 = 現在」と関連する(そういう視点で見た)「宇治郷 」の記事を書いたつもりです。)
- 5)また、原典リンク(たとえば『日本書記』)したから良いでしょと放り出すのは、一般読者には荷が重すぎ。(記事の中の 万葉集の挽歌 宇治若郎子宮所歌にしても、万葉集仮名のままでは普通の人は読めない。なにかこれについて解説している参考図書を紹介してやらないとまずいでしょうと。)
- 6)『国史大辞典』や平凡社の百科事典を参考にするのはいいけれど、wikipediaの記事としての配列を考えないと、乱雑な引用になるとまずいだろうと。そういう意味では、書く人がきちんとした「菟道稚郎子」に対する全体観を持たないと、乱雑な印象を与えることになる。(全体観を持つことを独自研究と誤解する人もあるが、ちょっと違う。全体観を持つことは、記事全体を大きく変えるときは必須と考えます。)
- 7)散骨についても、上記の観点から、吉野某が言ったという記述から、直ちにそれが正とは言えないだろうと。吉井巌氏の「菟道稚郎子」の架空説についても、自身の全体観の中でどう位置づけるのか。吉井の「菟道稚郎子」の架空説に全面賛成しているなら良いけれども、そうでないならそれなりの記載方法があるはずだろうと。それなくして、だらだら羅列されても読まされる方は訳がわからなくなると思うと。
(現状最新の(38,619バイト)(2014年1月4日 (土))は、とても自分では書けない高いレベルですが、今後のために一言。)
--Kobeyamate(会話) 2014年1月12日 (日) 04:25 (UTC)
- メモということで、私の返信は求めていないようですから、内容には答えないでおきます。
- 私との会話はお望みでないようですが、私の方もこれまでの整理をしたいので、新たなボールを投げる(論を始める)前に、これまでに私が投げたボールを返球して頂けますでしょうか。『新撰姓氏録』の「伊香我色乎命」「伊香我色雄命」の件に見えるように、私にボールを投げるだけ投げておいて、私が投げたボールはスルーする例が多いように思えます。
- 「仮に架空の人物だとすると、名代 宇治部が全国に存在した事実や、前鳥神社 (神奈川県平塚市)の( 菟道稚郎子を祭神に祀る)が説明つきませんよ。『万葉集』の挽歌は、あなたが引用したんですよ。」という文言について。私はこの言葉が長いこと引っかかっており多くの指摘をしたのですが、現在はご主張は取り消しでよろしいのでしょうか。
- 「”「名代や遺称地の存在からその人物の実在を証拠とする」論法の出自の有無”について、論法の出自の有無もなにもないです。」という文言について。根拠が無いことまでは分かったのですが、現在はご主張は取り消しでよろしいのでしょうか。
- Kobeyamateさん草案の「名称表記の「古い順に」の根拠」について。私からは「『山城国風土記』逸文の成立時期や『万葉集』の該当歌の年代を存じませんので、教えて頂けましたら幸いです。「Wikipediaの影響大きいです」とおっしゃる方の編集ですので疑ってはいないのですが、『播磨国風土記』の成立時期も『日本書紀』と前後していると思うのですが。」とお聞きしましたが、返答がございませんでしたので、お答え頂けますでしょうか。
- 『播磨国風土記』の出典について。私は「金澤氏の前者には「播」の字さえ見えず、後者にはおよそ最後の付け足しで『播磨国風土記』に対する言及がある程度で、およそ上記の内容は述べておりません。『播磨国風土記』に対する考証の文章であるのに、虚偽出典と感じました。」とお聞きしましたが、その後の見解が見えませんでしたが、了解して頂けたのでしょうか。
- 喜田氏の書籍、金澤氏の論文を読まずに提示なさったことについて。私はマナーの問題と言いましたが、無視して話を続ける、とはつまり私と会話する気はないという意思表示なのでしょうか。「提示しなかった」ことにするのならば、それでも良いですが。その辺りをはっきりして頂けますでしょうか。
- それと、「ほとんど満点」という表現は目上から言われているように感じるので止めて下さい、と以前お伝えしたはずですが、またそう仰るということは私との会話は望まないということなのでしょう。私がそれを嫌がるのは、「点数をつける」行為は「目上の人間」が「目下の人間」に行うことだからです。重ねてお止め下さるよう、お願い申し上げます。
- 最後に、「編集をどちらが先にしたか」「どちらの編集量が多かったか」ということにこだわってらっしゃいますが、「編集が早い(多い)方が偉い」という不可思議な認識はどういった論理に基づくのか、教えて頂けますでしょうか。
- 基本的に事なかれ主義であるせいで、ここまで質問が溜まっておりました。相手を質問攻めにするのは不適切な行為であるとは思っております。申し訳なく思っておりますが、次のボールを投げる前に上記よろしくお願いいたします。--Saigen Jiro(会話) 2014年1月12日 (日) 12:42 (UTC)
- 報告 議論終了につき折りたたみ化処理。--Saigen Jiro(会話) 2014年10月2日 (木) 14:50 (UTC)