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ノート:美/過去ログ1

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白紙化しちゃったほうが楽じゃないかと思うのですがどうでしょうか。これを生かして編集しろというのは、少なくとも、私には、無理です。--Aphaea* 2005年3月26日 (土) 23:20 (UTC)

「美」について執筆する勇気をお持ちの方は、「再構成します」と銘打って白紙化されても良いと思います。「編集は大胆に」。miya 2005年3月26日 (土) 23:47 (UTC)
Aphaiaさんが早速白紙化されたようですが、提案から8時間での実行は少々焦りすぎな気がします。せめて2日くらい待つことはできなかったのでしょうか(私は白紙化に反対しませんが、積極的な賛成もいたしません。)Texnician 2005年3月27日 (日) 07:43 (UTC)
再出発の前に何をどうしたいのかが全然伝わってこないため、賛成も反対もないと思います。Aphaiaさんは何を主張したいのか?そしてAphaiaさんが書いたらこの記事はどうなってしまうのかが全く分からないためなんとも言えないと思います。比較できる最低限のことくらいは書くべきだと思います。何を焦って消したがっているのか知りませんけどね、少なくとも、誰もAphaiaさんの編集を望んでいたわけでは無いと思いますよ。編集は大胆になさればいいと思いますけど、Aphaiaさんが人に物を伝えるのが下手なだけなのかなぁ。議論にも何にもなりはしません。記事をざっと書いてこれとすり替えたいというなら分からなくもないですが。そのできが悪かったり偏っていれば却下されるだけでしょうけどね。コミュニティにどんな意見を求めているのだかさっぱりわかりません。ウィキペディアに何年いてもこういう人はずっとこうなのかな。--Nyaho 2005年3月27日 (日) 08:09 (UTC)

最低限をいれるほどは時間がないので、ごく書き出しだけいれてみました。いかがですか。なぜ前のがだめなのかということですが簡単にいえば

  • 隣接概念・下位概念がおさえられていない
  • 概念史的展開がまったくない
  • 代表的な説が提示されていない(なのでPOV)
  • そしてなにより、哲学的美学をやった人間ならかならず最初にならう「美は共有される定義がない」ということが一言も述べられていない

ということですね。そういうとても基本的なことが抑えられないような項目はないほうがむしろましだと思います。私の目から見れば、白紙化前のものは、ないほうがよほどましです。

そして説明が足りないとのことですが、こうしたことは哲学なり芸術学なり美学なりかじった人ならみればわかるでしょう。ですから特に書く必要はないと思いました。その判断はまちがっていないと自分では思います。もっとも私のかいたものがNPOVだとはいいませんがね(努力はしていますけれども)。ご説明になれば幸いです。--Aphaea* 2005年3月27日 (日) 08:36 (UTC)
んー全然だめですね。そこからどういう記事が産まれるかは分かりません。ダメだから消した。でそこからどうしたいのか?ということが大事です。そしてAphaiaさんがどういう記事に置き換えたいのかが全くわかりません。判断も何も無くですけど。時間が無くて書いてられないのならば、無理して記事を書くことは無いと思いますよ。わざわざAphaiaさんが書く必要はありません。哲学なり芸術学なり美学なりかじった人が通りかかれば、書き直して頂けることかと思います。わざわざAphaiaさんが白紙にしておく必要もありません。その人が、白紙にするか、記事を元にするかを決めることでしょう。分かる人が見ればわかるというのであればね。
こんな所で白紙の方がいいとかどうとか呟いているよりも、取りあえず記事を書いてそれを保存するなり、こちらに貼るなりしていただけると一番分かりやすいのではないかと思います。記事を書く時間が無いのであれば、わざわざAphaiaさんが関わる必要はありません。いまのままですと、単に記事に愚痴を言って、白紙にしてしまっただけの人です。共同作業の中ではあまり良い印象は持たれないかと思います。
Aphaiaさんは、いろいろなところの管理者等に立候補されたりなさっているようですが、利用者の方々と会話が通じておられないようですし、全くコミュニケーションがとれていないと思われますけれど、そういったところが、管理者に信任されない一因かとも思われます。これは共同作業なのですが、利用者と言葉の通じない人が共同作業の管理者をするのは無理でしょう?--Nyaho 2005年3月27日 (日) 09:34 (UTC)
『白紙化前のものは、ないほうがよほどまし』とのことですが、このような理屈での白紙化が議論なしで通るのであれば、そもそも共同作業としてのWikipediaは成立しないのではないですか? 井戸端で議論の告知をして、ある程度の方向性を出してから白紙化→編集でも別に構わなかったように感じますが、何故にこのような拙速な行為をなされるのか理解に苦しみます。
また『哲学なり(中略)かじった人ならみればわかるでしょう』とのことですが、これは百科事典の記事を書く際の姿勢として正しいものなのでしょうか? 疑問に思ったことを並べてみました。--Gabriele 2005年3月27日 (日) 09:35 (UTC)

特に誰を指して言うわけでもないが、コメント。

愚か者は、記事自体の評価ではなく人の評価をしてしまう。それも主観的・感情的に。

記事の執筆者が誰だろうと、そんなことにかまいはしないのがwikiの精神。

皆さん、争いはおやめなさい。

さるとる

さるとるさん、ありがとうございました。編集競合してしまいましたが、さっき書きかけていたことをそのまま投稿します:「編集は大胆に」と言ってしまった責任を感じてコメント(miya

Nyahoさん、初めまして(ウィキペディアにようこそ!) 項目のノートではその項目(ここでは「美」)についての議論をお願いできますか? それ以外のことはウィキペディアでは利用者の会話ページでお願いしています。出来れば上のコメントでも、「美」に関すること以外は削っていただければ幸いです。
私が上で白紙化に賛成したのは、この項目がスタブのままこの3ヶ月間手詰まり状態だったからです。提案からは数時間ですが、前の編集からは十分な時間がたっていました。スタブ状態で手詰まりだったものを百科事典としてちゃんとした記事に直すには大鉈を振るうしかない場合が往々にしてあります。今回もそういうケースだと判断いたしました。おそらく今までの執筆者の方も現在の版をご覧になって異議は唱えられないことと思います。(私もこの項目を何とかしようとして美学関連の本に目を通し、あまりの手ごわさに諦めてしまったことを白状しておきます)miya 2005年3月27日 (日) 14:01 (UTC)
白紙化するなとは思いません。「編集は大胆に」やればいいのです。3ヶ月手詰まりだろうが、1日しか経ってなかろうがそんなことはどうでもいいのです。このノートには「美」についての議論そのものがありません。しかし「中立的な観点」が貼られ、「何か」が議論されていることになっていました。私は観点が無いのに何を議論しているつもりなのだろうか?と不思議に思い主張を聞きました。議論はありませんでした。主張もありませんでした。あったのは、「ていうかだめぽ」とかいう記事に対する悪口くらいが唯一の主張と言えなくもない程度でした。
主張というより、単に悪口しかありませんでした。「美」に関するものは何一つ語られていませんでした。単にAphaeaさんという方が、愚痴をこぼし続けているだけでした。議論も何もなされていない記事を書き換えるだけで、何故この人はここまで愚痴をこぼし続ける必要があったのでしょう?書き換えたければ書き換えればいいのです。何か主張したければ主張すればいいのです。しかし、何故この人は何も主張せずに愚痴をこぼし続けているだけだったのでありましょうか?誰も議論すらしていない記事のノートで。主張を聞き出すのだけで一苦労でした。私はただ主張を聞き出そうとしただけです。miyaさんは、そういった「美」についての議論とは関係のない、内容のない口汚いだけの、愚痴や悪口には目をつむり、私がなんとか聞き出そうとしていることは消せと言われる。miyaさんのそういった姿勢は、あまり平等ではないような気が致します。私はいろんなことを言って主張を聞き出そうとしただけです。
miyaさんが、そうやって甘やかしているうちはいつまでたっても、Aphaeaさんが、日本のウィキペディアには受け居られないままです。私は、単に溝が埋められる日がくればいいなぁと思っています。Aphaeaさんと日本のウィキペディアのね。けれども、こんなことを続けている間は無理です。--Nyaho 2005年3月27日 (日) 16:11 (UTC)

現在の項目の執筆について

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ここから下は項目の内容に関することのみをお願いします。

美の性質

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フランス現代哲学における美論、とくにスーリオやデュフレンヌをどこにいれようかちょっと決めかねています。感覚性ということを踏まえてかつ形而上学的な美論をいれる位置がどうもこれだとすっきりしない気がします。どなかた大胆に改変していただければとも思いますが、暫定的に、存在論的美学と認識論的美学のあとに項を設けるのではいかがでしょうか。

あとランガーを落としていたことにあとで気付きました。これは認識論的美学の延長においてかまわないでしょうか。ご意見をお願いします。

全体に、芸術学や美学との関係、あるいは個別著作での議論はそれぞれの項に譲って、概説のみにとどめたいと考えていますが、それでももうちょっと引用はあったほうがいいのではないかとも考えています。例えばKUからの引用とか。

Aestheticaはいま手元にないので、どなたかテキストを参照できる方、第1部からpurchratudeの定義をいれてくださるとありがたいです(いまあるのは aesthetica est scientia ... からのパラフレーズなのであんまりいい叙述じゃないなと思ってます)。

この後に美的範疇論をもってくるつもりですが、最初にだしておくのと、ある程度歴史的に追うのとどちらがよいのか決めかねています。冒頭はもっと共時的に書いて、概念史的なことはあとに譲るほうがいいのか、それとももっと通史的に追うべきなのか(これは隣接概念との関係を丹念に追わないと記述が錯綜しそうに思いますが)。ご意見をいただければ幸いです。Aph.

形而下の美

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さるとるさん、枠組みの提示をありがとうございます(ハンドル名はJ-P Sartreからでしょうか。もしそうでしたら実存主義美学についてのご執筆も願えると嬉しいです)。若干気になったことを書き留めておきます。

  • 節のタイトル「形而下の美」は変えたほうがよいのじゃないでしょうか。少なくともこの枠組みで「観念としての美」をいれるのは論理的不整合があると考えます(観念としての美は優れて形而上学の対象でしょう)。むしろ「美の諸相」とか「美の諸現象」という感じではどうでしょうか。

節の冒頭ですが、さらにパラフレーズして「本稿では、美しいとされる個別の事象に即して、そこにおいて認められる美の現象について詳述する」というのはいかがでしょうか。

あと最初に考えたときには「美の性質」に解消しようかと思ったのですが、「美はいかにして人間的理性の対象となるのか」(もっとすっきりした表現がよいのですが)ということをやはり書かなければまずいなと思うようになりました。項目内の配列として、こうした「美の対象化」の問題および「美的範疇」の問題がこの美の諸現象の問題と近いだろうと思うのですが、有機的に配列するにはどのようにすればよいのか、お知恵をいただければと思います。

また私が加筆した部分へもご意見をいただければと思います。--Aphaea* 2005年3月27日 (日) 22:38 (UTC)

執筆計画

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Aphaiaさん、さるとるさん、Texnicianさん、Nyahoさん、miyaさんこんにちは。浅学の身ではありますが、芸術学をちょっとかじった者として、提案未満の感想および意見を述べさせていただきます。
ありがとうございます。非常に有意義なご提案を戴いて嬉しく思います。
私は近世美学をほんの少し触ったくらいですので、そうした意味でもこうした御提言は歓迎します。
以下便宜的に区切りをいれていますが、適時話題の進展にあわせて改変していただければといおもいます。

内容

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「美」と「哲学的『美』」について-- 私は今回初めてこの項目があると知ったのですが、「美」というテーマはあまりにも大きいので、執筆が進まなかったのも仕方ないかなと思います。今回Aphaiaさんとさるとるさんに章立てしていただいて、よい器ができる気配が感じられます。しかしながら、Aphaiaさんとさるとるさんに確認したいのですが、この項目は「哲学的『美』」以外の項目も入れることは念頭に置かれていると考えてもよろしいのでしょうか。オカチ
私はそうであるべきだと思いますし、またそうなることを望んでもいます。さるとるさんが幾つか現象の分析に向かう方向を示唆されていますが、美の社会的効能や応用という事に資料を提供することも百科事典として有用でしょう。また概念史に限っても哲学的な議論だけがあるわけではないので、文芸批評やあるいは宗教史とのからみも重要だろうと思います。さるとるさんはいかがお考えでしょうか。
また後でオカチさんが触れられている東洋的な美的範疇の問題なども外せないところだろうと思います。書きやすさの点で、西洋美学よりで通史的な扱いから始めていますが、あるいは通史は別項目で立てて、この項目は親項目としてもっと共時的な立場で書いたほうがよいのかもしれないと思います。
「哲学的『美』」およびその概念の系統立ては、「美」において極めて重要ではあります。ただ、Wikipediaで「美」を調べた時にそれしか記載されていないと、美学美学史の項目を開いたのと大差ありません。美はさまざまな隣接概念と結びついているものですし、上位・下位の概念もあって本当に複雑ですが、それ以上にその他の学問や分野でも重要な概念であると考えます。
同感です。ただ、美学の項目も正直あまりよい設計ではない(というのは関連項目との関係が有機的ではない)ので、そのあたりと連動しつつ組替えていくことがよいのではないかと思います。Aph.
「哲学的『美』」以外の「美」について --私が上記で「よい器」と申し上げたのは、「哲学的『美』」が現在の美、特に西欧文化圏での美の概念の基礎(basis)になっている一方、たとえば服飾建築数学写真インダストリアルデザイン等いろんな分野でそれぞれ「美」やその反対概念である「醜」があり、それらも「美」の項目を立てるにはある程度の記述は必要だと考えるからです。また、日本語版である以上、いわゆる「もののあはれ」「わびさび」「無常感」(ちょっと適当)あたりも入ってくるべきでしょう。全部をことごとく記述すると大変なことになると思いますが、見出し3くらいで概説し、節内で関連項目へのリンクを貼るくらいは必要ではないでしょうか(その辺りは、美学での関連領域の扱い方と同じでは不足であると思います)。オカチ
美的範疇について、ご指摘の点は重要だと思います。もののあはれわびさび、(あとは関連概念として綺麗枯れさむみ)、あるいは無常といった美的範疇(無常は宗教とも大きくかかわりますが)にも触れることが必要でしょう。ただ日本の近代以降および現代をのぞけば、西洋的な美的範疇論と日本のそれとは思想的交流がないため、範疇論のなかでそれぞれを取り扱うということになるでしょうか。あと隣接分野としては工芸も外せないところかと思います。これはむしろ挙げられたインダストリアル・デザインなどとの連関で考えるべきかもしれませんが。
美的範疇については、各項目で詳細を書いて、ここにはそうした美の捉え方のネットワークがあるということを概説的に書くにとどめるのが構成としては綺麗かなとも思います。一般的な読者の便宜を図ると、あるいは範疇論を先に出して、そうした下位概念をも含む美論一般を取り扱うというのも手かもしれません(いまは教科書的構成を前面に出していますが)。Aph.
幸い、Wikipedia日本語版には様々な領域での専門家がいらっしゃいますので、バランスをとりながら総論としての器の「美」の中にそれぞれ各論として節を作り、関連領域についての記述を共同で執筆していけば、それこそ秀逸な記事になるのではないかと考えます(長期的な作業になるのは確実ですが)。他言語もわかる言語に関しては一通り目を通してみましたが、そこまで包括的な執筆をしているところはないようです。私が読者であれば、そういった記事を読みたいなと思いますが、いかがでしょうか >皆様。
以上、長々と意見(戯言)を述べさせていただき失礼しました。意見になっているのかなっていないのかよくわかりませんが、要望・および感想の体だけでもなしていれば幸いです。__オカチ2005年3月28日 (月) 00:50 (UTC)
長期的にはそうした方向に向かうのがよいと思います。ここで各論として節をつくりということをいわれておりますが、あるいは国記事のように、ここでは各節をもっと短い概説として、詳細はたとえば「美の概念史」や「美的範疇」といった下位項目に譲っていくといことも必要かもしれません。いまでもたいがい長い項目になりつつあるようですし。とはいえいまでも最低限触れるべきことに触れているとはいいがたいので、過渡的な形とはいえ最低限のことを加えつつ、上でオカチさんが御指摘になったような包括的な項目にしていくことが必要かと思います。--Aphaea* 2005年3月28日 (月) 03:49 (UTC)

善と美

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以前に、「カロカガティア」の部分を見ていると、「美と善」の合成でカロカガティアとあって、kalokagatia とあるので、驚きをいさかか感じた。タイプミスであると思えたが、しかし、「善」とは古典ギリシア哲学、その後のローマ哲学、中世哲学でも基本中の基本の重要な言葉であり概念である。そもそもタイプミスするだろうか? という疑問があった。今回、「美」の説明が、いきなり「哲学において」と、あまりに限定的な説明で始まるのを、何か、もう少し一般的な導入はないだろうかと考えていて、ふと並んでいる、古典語と西欧語による「美」の対応語を見て、そのラテン語の項目をみて「?」の思いがした。

  • (び。ギリシア語 kalon ラテン語 purchratude 

こうなっていたのであるが、kalon はそれまで見ていたが、その続きは丁寧に見ていなかった。しかし自分で文章を考える段になると、これらの項目にも目を通した訳で、そこで「?」である。ラテン語の「 purchratude 」て何だろうか? 「美しい」に当たるラテン語形容詞は、pulchra である。puella pulchra が「美しい少女」であって、purchr- という形は、どう考えてもおかしいと思える。辞書で確認すると、pulchritudo の間違いの可能性が高いので、修正した。しかし、修正した後で、元の単語をよく見ると、語尾が、eで終わっている。名詞の主格がeで終わるラテン語の単語はあるのか。これは、タイプミスではないと思える。だとすると、善(アガトン)もタイプミスではない可能性が高い。

また、漢字の「美」というのは、どこからこういう形が来たのか、という話がある。どこかで読んだ記憶がある。「美」とは、上の部分が「羊」で下の部分が「大」という字で、「大きな羊」を意味するという説明である。「羊」とは、古代中国で神または神霊への献げものとして使われたので、そこから転じて「犠牲」を意味し、「大きな羊」は「大きな犠牲」とりわけ、「大きな自己犠牲」を意味し、自己の命を擲って国家や大義のためにつくす自己犠牲を表し、そのような「自己犠牲的行為」こそが、まさに「美しい行い」であるという意味から、「美」の漢字と、美の本来的な意味があったという説明である。このような意味の「美」の説明は、この事典の現在の「美」の項目のどこにもない。

タイプミスではないとすると、どうなるのか。わたしは学術的世界は知らず、学術的文章などとも無縁の無知な者である。しかし無知であればこそ、辞書を引いて確認するという手間を取らざるを得ない。哲学の項目に「ソーカル事件」というものが載っているが、「美と善」をめぐってわたしも考えさせられる内容である。

(なお、これを投稿しようとして、プレビューで気づいたのですが、本文の「basic decription」は、わたしが記したものです。サーヴァーエラーがあいだにあった為か、何時の間にかログオフしていました。IPになっています。このノートの場合は、署名を最後に書くので、プレビューで気づきましたが、本文のときは、気づかなかったのです)。Maris stella 2005年6月16日 (木) 22:05 (UTC)


百科事典は何のためにあるのか

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以下の文章ですが、わたしは知識がなく、頭も悪いためか、理解できません。

ただし美はまったく認識と離れて存在するものではない。すでにプラトンにおいて、美は愛すなわち認識の欲求的能力の志向的対象として把握されている(『饗宴』)。また美の性格を均整あるいは斉一に求める論も、認識への適合性に多くその論拠をおいている。トマスは美を究極には神に帰せられる属性とするが、「視覚に快いととらえられるものは美しいと呼ばれる」(『神学大全』)とし、その人間的認識能力とのかかわりを否定していない。

百科事典の記事は、一般の人が読むことを目的にしているはずです。「哲学事典」の場合だと、平凡社のものはかなり難しく分かりにくいですが、必要なことは書かれているようなので、ノートなどに整理してみると、大体分かることが多いです。wikipedia はしかし百科事典であって、学術的専門知識を持つ人が、学術的世界の同僚などに読んで貰って、自己の存在証明をする文章ではないとも思います。幾ら学術的であっても、一般の人が読んで理解できないのでは、話にならないとも思います。分かりやすいように書き直しを考えているのですが、色々と疑問が出てくるので、文章の趣意が汲み取れません。もしかして、執筆している方自身、自分で何を書いているのか理解されていないのでは、と疑問を感じたりします。『神学大全』にしても、どこからの引用なのか、普通は書くと思います。トマスの著作は、十の命題があって、それぞれに正しいことの証明が付いているのですが、本当に正しいのは、そのなかの一つなのであり、トマスがある命題を書いているからと言って、それをトマスが正しいとしているとは限らないのです。Maris stella 2005年6月19日 (日) 04:48 (UTC)

美の項目収拾の提案

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「美の項目移動」の問題に対し、収拾の合意形成のための提案を、現在「」の項目となっている、新規作成ページの「ノート:美に、以下の通り、記させて戴きました。このノートを原状復帰すると共に、「提案」文を以下のようにコピーによって、参考のため、掲載致します。御意見のあられる方は、現時点での「ノート:美」にて、記してくださいますようお願い致します。なお、二つの案を出していますが、別案の提案も可です。Maris stella 2005年6月24日 (金) 19:26 (UTC)

提案原文

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はじめまして、以前の「美」の項目で、哲学に偏っているので、もっと一般的な記事にするため、編集加筆等を行っていました、Maris stella です(現在は、「美 (哲学)」という項目に変えられてしまった為、一旦、暫定的に、過去の状態に revert させて戴いております)。

さて、現在、「」と「美 (哲学)」という二つの項目があるのですが、この両者について、収拾の提案を行わせて戴きたく思います。目下、「美」は、削除依頼(削除依頼)に出させて戴いておりますが(提起したのは、わたしです)、「存続」「削除」と明確な意見が出ておりません。これは、最初 GFDL 違反であると思い、削除依頼に出したものですが、どうも違うようにも、思えてきました。しかし、「存続」「削除」と明確な意見が出ていませんでので、わたしも判断に迷っております(「存続」意見が多数の場合は、直ちに「取り消し」を出させて戴くに吝かではありません)。
そこで、具体的な提案ですが、とりあえず以下の二つを考えます。
  • 1) 現在の「美」の項目は、自主的に削除依頼を出して、削除とする。その場合、現在の最新版の内容は、削除の前に、出典を要約に記して、現在の「美 (哲学)」の項目にコピーする。この作業のあと、あいた「美」の位置に、現在の「美 (哲学)」の項目を移動させて、以降は、編集上で、色々な人の意見に基づき、編集を進めて行く。
  • 2) 上の1)の方法では、すでに複数の編集も行われている、現在の「美」の項目の履歴が保存されません。そこで、「美」と現在の「美 (哲学)」のページを、統合する。そして「美」の新しいページに復活的に造る。その後は、上と同様に、編集を行って行く。
  • 追記) なお、「ノート」についても、コピーするか、または統合するか等、判断する。そして、「美 (哲学)」という項目もあった方がよいということであれば、元の「美」つまり、現在の「美 (哲学)」の過去の版で、Aphaia 氏の編集になると思われる最終版を、あいた場所の「美 (哲学)」に項目を造り、ここにコピーして、このような項目を新規作成する(Aphaia 氏の記述は、明らかに「哲学における美」です)。

以上の提案をさせて戴きます。宜しく御検討をお願い致します。Maris stella 2005年6月24日 (金) 13:56 (UTC)


整理依頼 2005年10月26日

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「美 (哲学)」と分割・統合を繰り返したためか、冗長で煩雑な文章になってるように思われます。また、本来の文章も、読む分には興味深い内容ですが、いかんせんエッセイ的で文献による裏付けも乏しく、百科事典の記述としては少々問題があるように思われます。美に関する論考的な記述になる場合は、著名な芸術家なり思想家の論考に言及しつつ書くか、それが無理なら客観的な事実の記述に留めるのが賢明でしょう。Hermeneus (talk) 2005年10月26日 (水) 02:20 (UTC)

犠牲と崇高

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犠牲をささげるという行為は、犠牲をささげられた側を高め、犠牲をささげた側を低める働きを有する。この点、犠牲は崇高であるといえる。具体的には神に対する人間の関係ないし感情など。なおカントによれば、崇高とは制約されないものに対する感情である。--Yuu6676 2006年11月11日 (土) 17:37 (UTC)