ノート:細川藤孝/過去ログ1
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細川幽斎というのはあくまでも出家後の名乗りであるから、本来であれば、細川藤孝で項目を立てて幽斎はリダイレクトにすべきではないのか?--210.196.189.19 2005年10月17日 (月) 03:49 (UTC)
- 幽斎のほうがなじみがあるんですが、基本的には中世人名は姓名で立てるものと理解しています。織部くらいになると姓名より通称名のほうがいいと思いますが、これについては移動に反対はしません。--Aphaia 2005年10月17日 (月) 03:51 (UTC)
- 文化人である一方、一国の大名であり、政治家・武将としても活躍していた事を考えれば、基本的には実名の方が相応しいのではと考えたわけです。取り合えず改名のテンプレを貼らせて戴いて皆様の意見を聞きたいと思います。--水野白楓 2005年11月3日 (木) 03:58 (UTC)
- 広辞苑・大辞林などの国語辞典では細川幽斎、百科事典・日本史百科事典の類では細川藤孝の項目で載っていることが多いようです。参考までに。--Kamitani 2005年11月26日 (土) 06:48 (UTC)
- この問題を敷衍すると、武田信玄や上杉謙信まで記事名不当ということになるのですが。この件については、どちらかといえば戦国ファン以外の多くの人に通りのいい(茶や礼法・古典など)幽斎を使えばよいと私は考えています。私もできれば諱を採用すべきだと考えていますが、より有名な号などがある場合はそこまでこだわらなくていいと思いますよ。誤りではなければ最も人口に膾炙しているものを採用すればいいのではないでしょうか。(記事名としての古田織部や高山右近を私が多少どうだろうと考えているのは、「織部」や「右近」はあくまで官職名(の略称)であり、「幽斎」のように特定の個人のものではないことです。まあでも古田重然やら高山長房では、誰やらわからないので問題提起はしませんが)。Aboshi 2005年11月26日 (土) 07:02 (UTC)
- 他の項目を見渡すと黒田官兵衛ではなく黒田孝高、竹中半兵衛ではなく竹中重治、織田有楽斎ではなく織田長益になっていますね。参考までに。--219.113.214.70 2006年6月14日 (水) 16:57 (UTC)
- 信長の野望シリーズによれば細川藤孝で出ているので改名した方が正しいと思います。あくまでも信長の野望ファンの声ですが・・・--V-SSK 2006年1月3日 (火) 15:44 (UTC)
- 地元の観光ガイドなどで使われるのは細川幽斎がほとんどですので、このままで置いてほしいです。--ぱむ 2006年1月17日 (火) 16:03 (UTC)
- どちらでないとまずいと言うわけではないと思いますが、どうしても決着がつかないのなら並置するのはいかがでしょうか?細川藤田藤孝(幽斎)というふうに--伯龍 2006年2月13日 (月) 22:32 (UTC)
細川藤孝についてですが、もし正確を期するならば細川幽斎ではなく細川幽斎玄旨ですので・・・幽斎とよばれていますが実際は幽斎玄旨でひとつの号ですので。
ただ、実際に書き物でも多くは細川幽斎となっていますね。やはり彼の場合武将としてよりも、古今伝授や茶などでの活躍が大きいようです。武田信玄とかのように、号のほうが有名になった人に当たるかと思います(ほかにも北条幻庵など、苗字+号は結構いますね)。そのため私は幽斎で良いと思います。--koon1600 2006年5月11日 (木) 18:17 (UTC)
どちらでもよろしいのでは?
[編集]私の主観では、全ての人物をイミナ(←変換できない)に統一した方が分かりやすくていいと存じます。しかし、イミナで呼ぶと、結構、号や字って言うのかな?それなら知っているけど、イミナじゃ知らないと言う場合があります。相手がその人物を元々知っているなら、字など世間で通っている名で読んだ方が親切なのかな、などど考えることはあります。武田晴信や竹中重治など・・・ 細川藤孝(幽斎)においては、どちらの名でも世間に通っていると感じるので客観的にはどちらでもいいと存じます。 イミナ派の私の主観を若干加えた私の意見としては、藤孝の方が少しよろしいと存じます。
- 細川藤孝(幽斎)は、一般的には古今伝授などで知られる人物で、幽斎のほうが通りが良いと思いますが、ネット上ではどうなのかと思い Google検索を行ったところ、細川幽斎では約25700件、細川藤孝では約23600件ヒットしました。
- ほとんどのサイトでは藤孝と幽斎と両方書かれており、確かにどちらの名も知名度に大きな差はなさそうです。
- ウィキペディアはネット上の百科事典ですし、幽斎で引けなくなるわけでもないので、項目名を移動するのは問題ないと思います。--Jinnsg 2006年7月27日 (木) 02:36 (UTC)
細川藤孝からは離れますが上杉謙信をもし諱にすれば上杉景虎となり、自身の養子と重複してしまいます。 諱か号かはその人のどちらの名の方が知られているかによると思います。しかしこの項目はどっちも知名度があるのでそうはいかないと思います。こうして議論している間にも細川幽齋のまま時間が過ぎていっています。やりたこ 2007年2月22日 (木) 11:25 (UTC)
- どっちでもいいと思います。茶道など芸道史のほうなのではもっぱら道号で呼びますが、日本史で武将として言及するのには不都合でしょうし、逆もまた然り。差異はリダイレクトで吸収すればいいので、このままでもいいですし、移動しても問題ないと思います。--Aphaia 2007年3月6日 (火) 11:10 (UTC)
ぜったい改名
[編集]藤孝は、足利義輝の初名義藤の名を貰っています。足利氏の一族でもあり、室町時代の名門の守護大名家の当主で、しかも、四職家の一色氏を滅亡させた勇猛な戦国武将でもあったのだから、将軍家からいただいた藤の字が入った名前のほうが、家柄を表現でき、勇猛さも伝わる気がします。細川幽斉では、文人としての面ばかりが強調され、彼にたいして、誤解をまねいています。本業は戦国武将であり、歌人として有名になってしまっていますがは、それは、ほんの一面にすぎません。細川氏が一色氏の領内に攻め入り、どのような手段で、もともとの領主を滅ぼしていったかを、今の人は、もっと知るべきです。また、どうしても法名を使いたいとゆうのであれば、藤孝自身、出家剃髪後は幽斉ではなく玄旨と、すべての文書、短冊類にサインしているのだから、細川幽斉と表記するくらいだったら、まだ細川玄旨と表記するほうが、故人の意にも沿い、当時の呼ばれ方であった 玄旨さま に近いと思われます。一般的ではないとゆう意見がとうぜん中にはあるかもしれないけれども、みんなで協力して使うようにすれば、そのうち違和感は消えるはずです。
- とりあえず、署名はしましょう。まず、ウィキペディアは遺言ではないので故人の意は関係ないかと(それならば伊達の隻眼も削除しないといけないため)。また、実態としては一般的には「古今伝授を受けた歌人」や「明智の誘いを断った武将」というほうが強いため、藤の字が実態を体現するとは言いがたいかと。もっとも、北条玄庵のように名(忌み名のほう)がまるっきり有名ではない人ではないため、改題には反対しません(どっちも有名なため。ただ、Jinnsgさんの検索では、幽斎のほうがわずかに多いので、こっちのがいいのかなあとは思います)。細川玄旨は一般的でないのでお勧めできませんし、署名を基準にしてしまうと、すべての武将において苗字+通り名となるため、ほとんどの記事が不適になってしまいます。--koon1600 2006年10月7日 (土) 08:38 (UTC)
難しいところですが、改名に一票
[編集]難しいところだとは思いますが、取り敢えず、一般的に知られている(と思われる)呼称からリダイレクトで辿り着ければ最低限問題はないかと思います。 現代人とは違い、戦国時代の武将は、生涯の間に何度も名前が変わる人物もいます(例えば、上杉謙信)し、出家してからの名前の方が有名な人物(例えば、斎藤道三、武田信玄、上杉謙信)もいますし、出家前の名前もそれなりに通用していると思われる人物(例えば、黒田官兵衛・如水)もいます。また、当時本人がそう名乗らなかったといわれる人物(例えば、北条早雲として知られる、伊勢新九郎・早雲庵宗瑞)もいるので、一概に「これ」という基準で決めるのは難しいと思われます。 私の感覚からすると、細川藤孝については、「藤孝」でも「幽斎」でもどちらでも良いような気がします。 が、名前は誰にでもあるけど道号はそうはいかないので、やはり「細川藤孝」に「細川幽斎」からリダイレクトという方式に一票投じたいと思います。Kz 2006年12月6日 (水) 17:53 (UTC)
わたしも個人的には強い「藤孝」派です。ただし、現在の教育現場・報道・時代劇などの利用頻度も考えてからでも遅くはないと思います。--水野白楓 2007年2月18日 (日) 15:01 (UTC)
「藤孝」は戦国武将として、「幽斎」は文化人として語られることが多いように思います。しかし本文中の記載内容を見ると、戦国武将としての活躍ばかりで文化人としての活躍がほとんど記載されていません。本文がこのままであるならば「藤孝」がふさわしいように感じます。--Mimboo 2007年4月29日 (日) 15:00 (UTC)
文化人じゃないんですね
[編集]藤孝のほうが良いと思います。現代風にいえば、職業は軍人で、趣味が歌道やその他文芸なんですね。歌道も公家の三条西家の本来の継承者が幼少のため、仮に中継ぎとして古今伝授を受けたみたいですし。やはり、本職のほうを優先したほうがいいと思いますよ。—以上の署名の無いコメントは、211.122.53.125(会話/whois)さんが[2007年5月21日 (月) 12:23]に投稿したものです(ああによる付記)。
藤孝にしなくてはならないと思います
[編集]幽斉では、江戸時代みたいに戦争のない時代の文化人や茶人と誤解してしまいそうです。歴史を通しても一番人殺しが激しかった戦国時代の著名な武将の一人です、江戸時代の趣味人大名なら、それでも良いと思いますが、幽斉では、藤孝さんに一族郎党の殆んどすべてが殺された丹後の元領主一色家や、その他の人々が可哀想です。この時代、他国の領土に、いきなり攻め込むことを、一概に悪というのは酷ですが、攻め込んで殺戮を繰り返した本人を、文化人というのは、どうでしょうか。小中学校や高校の教科書に幽斉と載っていたら、茶人か何かだと子供たちは思ってしまうのではないでしょうか。藤孝の学問は、あくまで公家から教えてもらったものであり、実力が本元の公家を超えていたとはいいがたいのでは。戦国大名であるがゆえに経済的優位な立場にあり、困窮していた公家から多くのものを収集できたのだと思います。--以上の署名のないコメントは、61.119.187.30(会話/Whois)さんが 2007年6月5日 (火) 14:16 (UTC) に投稿したものです。
実用例調査
[編集]検証可能な情報とともに追記下さい。また、情報の同一発信元は纏めて下さい。--Babi Hijau 2007年6月9日 (土) 18:02 (UTC)
「藤考」「藤考(幽斎)」
[編集]「幽斎」「幽斎(藤考)」
[編集]- 舞鶴市[5]、まいづる田辺城まつり実行委員会「まいづる細川幽斎 田辺城まつり」[6]
- 細川護貞『細川幽斎』ISBN 4122020832
- 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構国文学研究資料館[7][8]
- 全国名前辞典[9]
- 上智大学土田将雄著作[10]
- 桑田忠親『細川幽斎』[11]
- 『週刊日本の100人(41)細川幽斎』[12]
- 童門冬二『細川幽斎の経営学』ISBN 4569663508[13]
- 熊本県「ふるさと寺子屋塾」[14][15]
- 佐藤雅美『幽斎玄旨』ISBN 4000023470 岩波書店の作品解説も「幽斎」
- 佐方宗佐 原編、日下幸男 編『細川幽斎[述]』ISBN 4870883937
- 富山県水墨美術館「茶の美展」[16]
- 早稲田大学『伊勢物語闕疑抄.巻第4/細川幽斎 撰』[17]
- 筑波大学「細川幽斎・同夫人像」[18]
どっちとも取れない
[編集]- 司馬遼太郎『この国のかたち』No.29「肥後の場合」ISBN 4167105616 「初代藤考(幽斎)は~……・幽斎は~……」と両記並立
- 八代市「大名細川家 文と武の軌跡」[19]作者欄は「藤考」、作品欄は「幽斎」
コメント
[編集]- (意見留保)数で言えば「幽斎」優勢。また、細川忠興と並べて「藤考・忠興」「幽斎・三斎」そして「幽斎・忠興」は散見されるが「藤考・三斎」は見当たらない点も考慮の一点になる。なお、現状では小生は意見保留。--Babi Hijau 2007年6月9日 (土) 18:02 (UTC)
- 文献に「藤孝」でなくて「藤考」と記載されているんですか?そんなはずはないと思いますが。Babi Hijau様、せっかく調べていただいたんですが、名前についての議論であるにもかかわらず、その名前を正確に書けない方の調査は信憑性が薄いです。--Jinnsg 2007年6月11日 (月) 05:06 (UTC)
別件ですが「要出典」
[編集]下記の2点について、あまり聞いたことがありませんので信頼性のある出典をお教え願います。 1.和泉細川家の家督は次男の細川興元が継承した。 2.天正17年(1589年)には忠興の11万石とは別に秀吉から4万石を与えられている。--以上の署名のないコメントは、寂華(会話・投稿記録)さんが 2007年6月14日 (木) 22:34 (UTC) に投稿したものです。
1.2.のいずれにも出典を教え頂けないようですね。--寂華 2007年7月13日 (金) 12:20 (UTC)
- 1.寛政譜の藤孝、忠興、興元の項にはそのような記述はありませんでした。忠興は輝経の系統、興元の家は興元から始まっています。ところで幽斎の隠居の家督は四男孝之に相続させたそうです(幽斎の歌集『衆妙衆』、慶長四年正月の部分。平湯晃『細川幽斎伝』からの孫引。)。
- 2.藤孝は文禄四年七月に大隅国の太閤蔵入地(四万石)から三千石を与えられていましたが「去年、島津氏朝鮮において戦功ある故に、御蔵納四万石余を御加禄あり、これに依つて玄旨君の御領地三千石を改めて、越前国に加へられ候」(『細川家記』四(慶長四年の部分)平湯晃『細川幽斎伝』からの孫引)とのことです。この経緯を勘違いしたのではないでしょうか。—以上の署名の無いコメントは、MizunoH(会話・履歴)さんが[2007年7月14日 (土) 05:56 (UTC)]に投稿したものです。
MizunoHさま: 出典と解釈間違えを指摘していただき有り難うございました。該当部分は本文から削除させていただきました。--寂華 2007年7月21日 (土) 01:44 (UTC)
藤孝で良いのではないでしょうか
[編集]藤孝は、織田信長傘下の武将として、とても優秀ですね。敵国に攻め込み、侵略に成功しました。藤孝のほうが武将らしい名だと思いますよ。歌道のほうは、大名家の財力を背景に相伝できたものであり、江戸時代の鍋島光茂のような存在でしょうから特筆すべきではないでしょう。--以上の署名のないコメントは、61.119.187.119(会話/Whois)さんが 2007年6月22日 (金) 02:11 (UTC) に投稿したものです。
「細川藤孝」へのリンクを「細川幽斎」に全て張り替えます
[編集]そろそろいいんじゃないかと思うので、反対がなければやっておきます。それでは。--Kangoshiyouichi 2007年9月20日 (木) 12:53 (UTC)
- えっと、議論を見る限り、まだ幽斎とも藤孝ともいえない感じではありますが(このところ、いずれも署名を欠いているIPの方が、改名を2回主張しているのですが、61.119.187.の範囲で一致していますし、どうもそのIP範囲の編集を見ると傾向が同じなので、同一人物ではなかろうかと思います・・)・・・といっても、多くの感じとしては「どっちでもよい」という議論に変わりは無いので、行うことについては反対しません。ただ、1582年以前について記述しているものも幽斎に張り替えてしまうなど、機械的な変更はちょっと問題があるので、その点だけはご注意いただければと思います。--koon1600 2007年9月20日 (木) 14:25 (UTC)
- (追記)ああ、えっと・・1582年以前の内容については、[[細川幽斎|細川藤孝]]といった形ならば、問題ないという話です。--koon1600 2007年9月20日 (木) 14:32 (UTC)
- なるほど、有益なご指摘ありがとうございます。--Kangoshiyouichi 2007年9月21日 (金) 14:31 (UTC)
一応念を押しておきますが、リンクの張替え作業をしてからやはり藤孝にすべきなどといわれても少々困惑しますので、異論があるのならお早めにお願いします。異論があってもいい加減な理由ならまともに取り上げるつもりはないですがね。--Kangoshiyouichi 2007年11月26日 (月) 17:57 (UTC)
現在保護中の関ヶ原の戦いを除く、すべての記事からの「細川藤孝」へのリンクをすべて細川幽斎へ張替えました。--Kangoshiyouichi 2007年12月9日 (日) 03:37 (UTC)
改名議論終了の提案
[編集]個人的には藤孝派だったので心残りですが、新規の意見もほとんどないことですし、一度改名議論を終了することを提案します。もちろんある程度時間が経過してから改めて提案することは止めません。積極的かつ意味のある反対がなければノートは過去ログ化させます。--Kangoshiyouichi 2007年12月9日 (日) 03:37 (UTC)
- リンク修正が行われた以上、私としては終了に異議はありません。--水野白楓 2007年12月9日 (日) 03:39 (UTC)
提案から約一月ほど経過し、反対意見もないため議論を終了させたいと思います。--Kangoshiyouichi 2008年1月7日 (月) 15:27 (UTC)
改名提案なしに移動されましたので移動を差し戻しました。
[編集]利用者:フートベル(会話 / 投稿記録 / 記録)氏により、改名提案なしに移動が強行されたため、氏の会話ページでも警告しましたが、開き直る態度のようですので、差し戻しました。
改名提案は難しくありません。
正式な改名提案をせずに移動が繰り返される場合には、利用者の行為についてのコメント依頼(Wikipedia:コメント依頼)に進むしかないのかと思いますので、ルールを守ってウィキペディアをご利用ください。Quark Logo(会話) 2022年11月3日 (木) 23:19 (UTC)
- ガミガミ言いたくないですが、他人の署名付き記述は無断で削除することはできません。--Quark Logo(会話) 2022年11月5日 (土) 02:29 (UTC)
- 他の利用者のコメント
記事のノートページでは、他の利用者のコメントを書き換えたりなどの改竄行為や、編集除去したりをしないでください。利用者の署名を書き換えることも含みます。他の利用者の誤字や文法の間違いを修正する必要はありません。いきなり修正すると、一般的に相手に不快感を与えます。つきまといやいたずらなど、悪質な行為は投稿ブロックの対象ともなりますので、注意してください。
- そんなルールないとかまた言われそうなので、念の為、根拠を示しておきます。--Quark Logo(会話) 2022年11月5日 (土) 02:49 (UTC)
- 例外にあたる個人攻撃や非礼な文言の除去にあたると思い(明らかに私に対する発言をノートページで行っていたので)、除去しましたが、該当しないのでしたら謝罪します
- >そんなルールないとか
- 「禁止」というルールはありませんよ、いい加減恥を知ったらどうでしょうか
- 後これ以上続けるのであれば私かあなたの会話ページで行うのが適切であるとだけ申し上げておきます--フートベル(会話) 2022年11月8日 (火) 08:38 (UTC)
長岡幽斎への改名提案
[編集]長岡に改姓した後幽斎を名乗りその後細川に再改姓していないため細川幽斎ではなく長岡幽斎が妥当だと思いますがいかがでしょうか。 --フートベル(会話) 2022年11月4日 (金) 09:55 (UTC)
- 反対 - 記事名の付け方の目安①と②により長岡幽斎に反対し、「細川藤孝」への改名に1票いれます。--Quark Logo(会話) 2022年11月4日 (金) 12:32 (UTC)
- コメント - 反対理由として「細川幽斎」の方が有名だからというのが考えられますが、不正確であることは間違いないかと思います。妥協案というわけではないですが、「細川藤孝」という名前も著名だと思いますので(『織田信長家臣人名辞典 第2版』でもこちらの項目名で立項されていますし)こちらへの改名でしたら支持したいと思います。--YasuminB(会話) 2022年11月5日 (土) 05:52 (UTC)
- 反対 北条早雲は、「自身は北条早雲と名乗ったことはなく、生前の文の署名も伊勢新九郎や伊勢宗瑞などであったが、後世では一般に、「北条早雲」の名で知られる。」として、北条早雲として記事になっています。これと同じで不正確であっても「細川幽斎」の方が有名です。なお細川藤孝でコンセンサスが成立するならブロックはしません、--Customsprofesser(会話) 2022年11月9日 (水) 02:52 (UTC)
これで合意形成されたものとして移動依頼に出してきますね--フートベル(会話) 2022年11月11日 (金) 14:48 (UTC)
- メモ - 利用者:フートベル(会話 / 投稿記録 / 記録)氏の合意形成の仕方は拙速で、将来に不安を抱かせるものです。合意形成は相手の返事を待たずにできるはずがありません。長岡幽斎を撤回して、細川藤孝への改名で全員一致したというのでも、提案の内容が変わったわけですから、そこから7日間程度の告示期間をもつべきものです。というのも、現在書き込んだ人々が”全員ではない”からです。形式的でもすべての人々に対して変更を告示する必要があります。意見が誰もなかった場合は別として、改名提案して7日たったからすぐに変えていいということは”奨励”されていません。フートベル氏については、ガイドラインの熟読を強く推奨します。(Wikipedia:合意形成)(Wikipedia:ページの改名)--Quark Logo(会話) 2022年11月11日 (金) 20:12 (UTC)
参考文献かどうかわからない書籍の追加について
[編集]今谷明氏の『戦国三好一族』が追加されてますが、前後の編集にこの書籍を利用した形跡がありません。追加記述にはすべて別の出典がついているので、参考文献として使用していないとしか理解できないので、この節に追加するのは不適切です。Quark Logo(会話) 2022年11月4日 (金) 13:16 (UTC)