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ノート:福澤諭吉/過去ログ1

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正式名は「福沢諭吉」でなく「福澤諭吉」なので、ページの移動をしました。

「沢」を旧字体にするのなら、「諭」と「吉」も旧字体にすべきでは?

明治の六大教育家とは?

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今晩は、「明治の六大教育家に数えられる」と書いてあるのですが、この六人は誰でしょうか。新島襄大隈重信の他は?--テオフィロ 2005年6月28日 (火) 08:55 (UTC)[返信]

後知恵で恐縮ですが、明治六大教育家に詳しいようです。--N.h.n 2007年3月17日 (土) 22:04 (UTC)[返信]

福澤諭吉の思想についての疑問点3つ

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疑問点1: “戦後、紙幣に顔が印刷される人物は「民主主義に貢献した日本人」とされてきた。”とありますが、そのような事実を確認できませんでした。(参考:日本銀行券の肖像になった人物

聖徳太子夏目漱石紫式部樋口一葉野口英世二宮尊徳武内宿禰岩倉具視は民主主義とは関係ないと思われます。

逆に、民主主義と関係ありそうなのは、板垣退助高橋是清伊藤博文福沢諭吉新渡戸稲造くらいです。

疑問点2: “福澤は自由民権運動に反対していた。”とありますが、該当するソースを発見できませんでした。 ソースをご存知の方はお知らせして頂けると幸いです。

疑問点3: “日清戦争には賛成しており「北京を陥落させて清朝を滅ぼすべきだ」とも主張していた、”とありますが、これも該当するソースを発見できませんでした。 日清戦争中の『時事新報』社説に当該記事があるのでしょうか? ソースをご存知の方はお知らせして頂けると幸いです。

--Ttwo 2006年11月22日 (水) 06:41 (UTC)[返信]

福沢記事に加筆した者ではないですが、「福沢諭吉は一般に日本の先駆的民主主義者だったと見られています。その肖像が、最高額紙幣一万円札を飾っていることが何よりの証拠です」担当編集者よりの部分と書いている人がいるようですね。該当部分の加筆者はこれを見たのかもしれませんね。--210.132.214.147 2006年11月22日 (水) 07:36 (UTC)[返信]
情報ありがとうございます。
担当編集者の梅田正己氏の紹介文の冒頭に、お知らせして頂いた文章がありました。ただ、一万円札の人物が先駆的民主主義者とすると、聖徳太子はどうなの?とツッコミを入れたくなりますね。
ご紹介して頂いた『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の目次を見てみると、自由民権運動日清戦争についての考察もあるようなので、疑問点2と3に関連するソースもこの本の中にあるかもしれませんね。--Ttwo 2006年11月22日 (水) 15:50 (UTC)[返信]

疑問点(追加):  思想性と言うよりも、著作権に関した疑問ですが、「福澤と勝海舟」の部分の文章が、 http://seizaikai.exblog.jp/m2006-05-01/ にある部分の文章と酷似しています。 大丈夫でしょうか?--Mike 2008年8月17日(日)17:29 (UTC)--125.201.22.205 2008年8月17日 (日) 08:32 (UTC)[返信]

慶應義塾での呼称について

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慶應義塾では福澤が先生と呼ばれ、教員が君で呼ばれるという習慣は、現在ではそうではない場合のほうが多いので訂正すべきです。一般の教員でも先生と呼ばれることが普通です。133.46.41.240 2006年12月21日 (木) 02:54 (UTC)[返信]
本文で言及されている『慶應義塾では福澤が先生と呼ばれ、教員が君で呼ばれるという習慣』は、学生や職員などが教員を(あるいは教員同士で)君づけで呼ぶという意味ではなく、組織としての慶應義塾が教員を指称する場合に「君」を用いている、という意味ではないかと思います。前者の意味での慣習は(教員がいないところでのかる愚痴・冗談は別として)廃れていると思いますが、後者の意味での慣習は現在も廃れてはいないのではないでしょうか。例えば、休講情報を『休講 月曜2限 ○○君』といった具合で掲示板に貼り出しているはずです。より意味の伝わり易い文章に改める必要はあるのかも知れません。Emonue 2007年3月18日 (日) 12:11 (UTC)[返信]

東京学士会院

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東京学士会院の長は院長ではなく会長のようですから、訂正しておきますm(_ _)m。--N.h.n 2007年3月17日 (土) 20:43 (UTC)[返信]

中立性

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2007年11月17日 (土) から、福澤諭吉に肯定的な文章が削除されて、逆に批判的な文章が追加されたため、内容が中立性に欠けるようになったと思います。とりあえず「観点」テンプレートを貼っておきます。--Ttwo 2007年11月22日 (木) 12:44 (UTC)[返信]

改名提案 by Gamy

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項目「研究史」を建てました

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210.198.139.247 さんが2か所に分散して書き込んだ内容を集積しました。重複があるようです。また、「安川・平山論争」が別途ありますので、詳しい内容は、そちらへ書くべきでしょう。--rshiba 2009年7月20日 (月) 11:57 (UTC)[返信]

記述の必要性について

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>>晩年の自伝である『福翁自伝』において、市中の人々が身なりの汚い適塾の塾生を避ける様子について「何か○△でも出て来て夫れを穢(きた)ながるやうだ、如何も仕方がない往来の人から見て○△のやうに思ふ筈だ」と記している。[6] >>
この部分を福澤先生の人物・思想において記述する必要性が認められませんがいかがでしょうか。請意見--塾生 2009年8月1日 (土) 23:40 (UTC)

適塾生としての生活の様を描いたエピソードは、一つは必要でしょう。『自伝』1頁前の部分を用いるとか。上記の箇所を消去するのではなくて、書き換えて置き換えたら如何でしょうか。--rshiba 2009年8月2日 (日) 03:36 (UTC)[返信]

書き換えておきました。尤も私の異議の含意は、○△の用語を福澤先生が用いたことを根拠に、先生が差別主義者であるかの印象を示そうとした遡及主義的な悪意が読み取れたということにあります。--塾生 2009年8月2日 (日) 07:15 (UTC)

情報化論の先駆者として

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『民情一新』第3章の記述「インフォルメーション」云々を根拠として、福沢諭吉を情報化論の先駆者として扱うことが、1995年頃より、メディア論や社会情報学の人たちの著作(の序文など)に見られるようになっています。以前、書店や図書館でその方面の本を十数冊通覧して複数の本でそのような扱いがなされていることを確認したことがあります。いずれ出典確認が出来たら書くつもりですが、ほかの方にやっていただいてもかまいません。--rshiba 2009年8月2日 (日) 11:52 (UTC)[返信]

韓国における評価について

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韓国における評価[1]については、リンク先は福澤先生を「右翼の元祖」呼ばわりしており、これが良識ある韓国民の一般的見解とは到底思えませんので一旦コメントアウトします。--塾生66 2009年8月12日 (水) 12:30 (UTC)[返信]

良識ある韓国民の三大紙の一つ中央日報の記事です。以前にもニューヨークタイムズで取り上げられたとして福沢諭吉先生が提唱した「脱亜入欧」思想が嫌韓流に働いていると報じております[2]。韓国語版Wikipediaでも福沢諭吉先生は親日派には評価されているなどと書かれています。たしかに親日派の人からは高い評価を得ているようですし、熟成66さんがこだわられるならば、中央日報・ニューヨークタイムズによるとと頭につけて記載しましょう。--Chichiii 2009年8月12日 (水) 12:51 (UTC)[返信]
韓国における評価は朝鮮語(韓国語)版で記せば事足りるでしょう。これを認めると無限に~~での評価と諸外国の評価を記さなければならなくなります。国同士の対立をあおる記述は無用でしょう。--塾生 2009年8月12日 (水) 13:10 (UTC)[返信]
日清戦争を強く支持して世論を喚起していたこと、朝鮮近代化論者を支援したことなどから韓国での評価は重要だと思います。福沢諭吉のような世界史的にも影響をもった人物を日本POVにしてはいけないと思います。--Chichiii 2009年8月12日 (水) 13:15 (UTC)[返信]
上記においてChichiiiさんは韓国において福澤先生に対する評価は親日派とそれ以外の人々の間で議論が分かれている旨のご意見をお書きになりましたね。ということは福澤先生の評価について韓国内でのコンセンサスは成立していないということですね。ゆえに記述の主張は韓国内の一部の人々のPOVに過ぎないという論理的な帰結が成り立つことになります。従ってこの記述は不適切であるという立場を表明されていただきます。--塾生 2009年8月12日 (水) 13:49 (UTC)[返信]
塾生さんが福沢先生に対する批判はどうしても載せたくないとおっしゃられるようなので、批判と両論を載せておきます。それから、韓国では親日派は一部の人々であって塾生さんの分析は間違っております。私の杞憂ならばいいのですが、利用者名が塾生となっていますが、慶應大学や福沢先生に対して一方的な編集をされていないことを願います。--Chichiii 2009年8月13日 (木) 09:05 (UTC)[返信]
韓国では親日派は一部の人々であって塾生さんの分析は間違っております>>私の何が間違っているかご説明ください。
一方的な編集>>とは何を意味するものか不明解です。また示されたリンク 先「「日本の『嫌韓流』は警戒心理・劣等意識の発露」NYT紙 中央日報 2005.11.20 」も福澤先生に関係するものではありませんね。悪戯に日韓の文化摩擦を煽るような記述は不必要であると考えます。--塾生 2009年8月13日 (木) 11:43 (UTC)[返信]
ゆえに記述の主張は韓国内の一部の人々のPOVに過ぎないという論理的な帰結が成り立つことになります。という塾生さんの見解。塾生さんは福沢諭吉にたいする批判的な評論を記載させないとゴネているように思われます。世界的にも名の知られた人物には当然に批判的な評論もあるでしょう。塾生さんが望まない評論は福沢諭吉には記述させないとしているのでしたら残念です。それから、脱亜入欧という本は福沢諭吉の著作です。当然、福沢諭吉についての話でしょう。日韓の文化摩擦?どこに文化摩擦の記述があるのでしょうか?いい加減にしてください。--Chichiii 2009年8月13日 (木) 12:06 (UTC)[返信]

「いいかげんにしてください」とは何事ですか?大変失礼な発言ですね。
あなたの記述には首尾一貫した論理的な整合性が見られないことにご自分で気がつきませんか。
まずあなたが上記で「親日派とそれ以外の人々」が存在することを述べておられ、福澤先生に対する見解は分かれている旨を書かれたのですよ。 記事にかかれている「右翼」とはいったいなんですか、まず定義から始めてください。この用語からして冷静さを書いた情動的な記事であることは明らかです。 引用した記事は毎年8月に韓国のマスコミに登場するお決まりの反日記事にすぎないのでは。そのこと自体を批判するわけはありませんが、斯様な記事の性格は認識する必要があります。 柴崎先生も指摘されたように記事内容は全く新奇性も学究的な意味もないものであり、執筆した記者の名さえも記されていませんね。 それ以前にここに連綿と韓国の反日記事を紹介する必要性を認めません。ウィキは他の記事においてもこういった政治的な趣のある内容については慎重な対応をしています。 ウィキは反日感情をぶつける場ではないことをご理解ください。--塾生 2009年8月13日 (木) 12:43 (UTC)[返信]

右翼の定義?と聞かれても困ります。話がそれています。中央日報が右翼のもとであると報じていることについて、第三者に定義を聞くことはづれていると思います。それから、署名がなされないで執筆された記事は中央日報が新聞社の見解として報じたものであると責任は明らかです。韓国で福沢諭吉について批判的な報道がなされたことについて、お決まりの半日記事と決めつけてはなりません。韓国における評価が批判的ならば批判的な評価であると記載することに何ら問題はないでしょう。福沢諭吉のページは称賛した内容のみの手前みそなページにするべきではないと考えます。あくまでWikipedia日本語版であって日本人慶應大学生版ではありません。--Chichiii 2009年8月13日 (木) 14:29 (UTC)[返信]
「右翼の定義?と聞かれても困ります。」聞かれて困る内容を記すべきではないでしょう。すなわち私がこの質問をしたのは「右翼」という用語が使われている時点で本記事がお定まりの韓国の独立記念日前に登場する反日記事と判断せざるを得ないということを示したかったということです。
あなたが資料として必要とお考えならばそれなりの信念と定見を示すべきです。
あなたが書かれようとした内容は脱亜論の項に既に記してあり、重複して本ページに記す必要は認めません。--塾生 2009年8月13日 (木) 15:17 (UTC)[返信]
塾生さんは韓国の福澤諭吉に対しての記事は反日記事であると勝手に結びつけて、反日だから記述させないとは意味不明です。民族国家間の話にすり替えるのは良くないです。それに、反日記事は記載させないとはwikipediaでは検閲でも行っているのですか?それから、脱亜論に記載されていることは、私が出典としたものではございません。それに、多言語版では脱亜論にも福沢諭吉にも両方、評論が載せてあります。--Chichiii 2009年8月14日 (金) 09:25 (UTC)[返信]
中央日報の内容を読んでみましたが、ニューヨークタイムズではXXXと紹介されていたというものでニューヨークタイムズを読んでみないことには評価は不可能であることを言っておきます。--hyolee2/H.L.LEE 2009年8月18日 (火) 06:24 (UTC)[返信]
こちらへどうぞ。New York Times Article Archive 1851-Present--rshiba 2009年8月18日 (火) 06:37 (UTC)[返信]

rshibaさんによる提案

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韓国での評価については、つぎの二つを切り分けてそれぞれに記述する必要がある。

  • (1)韓国人歴史研究者の福沢についての論考や著書
  • (2)韓国の一般メディアレベルでの福沢への論及の定型パタン

当面、(1)については「参考文献」の項目をさらに「著書」「論文」に分けて、日本語で書かれたもののリストを充実してゆく作業があります。 (2)については、韓国という国を成り立たせるために必要な枠組みとしてそういう認識になるのであって、それも含めて歴史的な人物の評価ということになるのかと思う。言及するソースはできるだけ代表的な典型性のあるものがいい。--rshiba 2009年8月13日 (木) 12:10 (UTC)[返信]

韓国三大紙の一つ中央日報からの出典を示しているので記載することには問題ないでしょう。さらなる文献をもって順次加筆充実していけばよいと思われます。ちなみに英語版でも帝国主義者であると記述がなされています。多角的な視点からの記述を排除するのはおかしいと思います。塾生さんの利用者ページ拝見しましたところ、塾生さんは慶應大学に通われていて慶應に関するものを編集するためのSPA利用者さんなんですね。批判的な記述は慶應の学生だから反対しているように見受けられてしまいますが。。--Chichiii 2009年8月13日 (木) 12:24 (UTC)[返信]
今年開催している福沢諭吉展でも、各国語に翻訳された福沢の著書が展示されていました。当然福沢を研究している人たちは各国にいるわけです。数年前まで、dead-fukuzawa@....という海外の日本研究者達がフランクに会話するMLもありました(余談)。いずれ、「各国における福沢諭吉研究評価」とでもいう独立項目にする方向で育てて行けばいいでしょう。--rshiba 2009年8月13日 (木) 12:30 (UTC)[返信]
素晴らしい提案だと思います。福沢諭吉は国や歴史解釈によって評価がさまざまだと思いますので、隔たりなく比較表示されることが良いと思います。--Chichiii 2009年8月13日 (木) 12:34 (UTC)[返信]
そうしてください。ただし今までのような資料としてご都合主義的な新聞記事を恣意的に貼り付けたりすることのないように、あくまでも学術的な水準を保つように心がけてください。柴崎先生の査読を仰いでください。--塾生 2009年8月13日 (木) 13:12 (UTC)[返信]
大新聞社が責任をもって報じていることを、塾生さんがご都合主義と決めつけることはよろしくないと考えます。--Chichiii 2009年8月13日 (木) 14:34 (UTC)[返信]
リンク先[3]の内容はまあ言ってみれば、中学の教科書レベルの日本の近代史についての新聞記事の解説で、ここには何の学問的オリジナリティも、資料的価値もないもので、これをわざわざ紹介する必要はないと判断せざるをえません。柴崎先生が記されたことの含意をきちんと汲み取ってください。とにかく外国のメディアを使って反日的記事を書き連ねようとする貴兄の態度はこれ以上続けられるならばコミュニティに提訴するしかありません
それに、つい今しがた柴崎先生が提案された独立化に同意されたばかりではないですか?コロコロ気持ちを変えずに、定見を以てご自分の意思を貫徹してください。--塾生 2009年8月13日 (木) 14:55 (UTC)[返信]
塾生さん、いい加減にしてください。福沢諭吉についての評論を反日的記事などと話をすり変えないでいただきたい。あなたは慶應義塾大学関係の編集をするだけのSPAだとご自身で認められていますが、ご自身にとって好ましい記述以外は削除するなどの隔たった編集を止めていただきたい。英語版、韓国語版ともに福沢諭吉について批判的な記述もあります。日本語版はあなた(自称慶應大学生)による都合のよい内容に偏向していてみんなで作成するというWikipediaの精神に反すると思われます。それから、柴崎力栄さんはいずれ、「各国における福沢諭吉研究評価」とでもいう独立項目にする方向で育てて行けばいいでしょう。と述べているではないですか。何度も何度も他者の意見などを読み漏らしていますが、改めていただきたい。何度も申し上げているように反日だとか話をすり替えて、礼讃記事にするのはやめていただきたい。そのようなことは慶應大学のHPで十分です。--Chichiii 2009年8月13日 (木) 15:12 (UTC)[返信]
私の投稿記録を見ていただければ分かりますが、不当な内容部分〔福澤先生を「右翼の元祖」呼ばわりする低俗な非学術的記事〕を外しただけで一度も礼賛記事を書いたことはありません。--塾生 2009年8月13日 (木) 15:46 (UTC)[返信]
〔記録)上記の塾生に向けられた暴言に関して利用者‐会話:ChichiiiにおいてChichiii氏に対して謝罪要求済み。--塾生 2009年8月13日 (木) 15:35 (UTC)[返信]
報道されている事実は載せることはできますし、その中身が真実か否かを私たちが判断する必要がないというのが方針だったはずです(Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」)。また非学術的記述と仰っていますが、韓国の一般紙の載ったことはWikipedia:信頼できる情報源に該当します。そのような評価もあるという事実を隠蔽することはPOVとなってしまいます。また新聞報道とともに韓国の学者が福澤の侵略性を唱えている例は多いです[4]。残念ですが除去できる理由は見当たりません。--清涼里588 2009年8月14日 (金) 07:44 (UTC)[返信]
暴言とは失礼ですね。塾生さんの利用者ページに記載している東京都港区に存在する母校である某私立大学に関する記述のみを行うために作成したUNです。という言を分かりやすく自称慶應大生と記載したことが悪いのですか?謝罪要求とはすごいですね。--Chichiii 2009年8月14日 (金) 09:25 (UTC)[返信]
「東京都港区に存在する母校」>>港区内に複数の大学が存在することをご存知ではないのですか?勝手に特定の大学の学生であると決め付けることが非礼だと申しているのですよ。--塾生 2009年8月14日 (金) 10:59 (UTC)[返信]

お二人ともコメント依頼を出したようですが、冷静になっていただきたい。塾生氏の気持ちも理解できます。私も福澤諭吉は好きでとても尊敬しています。しかし世の中に福澤を批判する評価が出てしまっており、それを除去するわけにもいかないと思います。そこはご理解をいただきたいコメント依頼などでなく、この場で冷静に話し合っていただきたい。--清涼里588 2009年8月14日 (金) 12:15 (UTC)[返信]

貴重な御意見ありがとうございます。ただしコメント依頼は先方が先に出されたもので、こちらとしては反証の機会を担保するうえで対抗手段を講ぜざるを得なかった事情をご賢察いただければ幸いです。
確かに福澤への批判がアジア諸国にあることは十分承知しておりますが、ただし出典の資料があまりにもお粗末であると考えます。--塾生 2009年8月14日 (金) 12:28 (UTC)[返信]
もちろん学術的な内容ある批判があれば最も良いと思われます。しかし韓国の三大紙で書かれたことも「事実」ですので、これはこれでしっかりとした出典となるので、その批判された「事実」は記載できることになり、その「事実」を除去することはなかなか難しく、また今回のように批判の「事実」を個人的感情で除去することはPOVにもなり得るものだと思います。どうぞグッとガマンしていただき、ご理解いただきたい。相手がコメント依頼をしたからといってコメント依頼をすると報復的なコメント依頼と思われてしまいますし、個人に対してではなく、この記事に対してのコメント依頼をお二方ともすべきことだったと思います。--清涼里588 2009年8月14日 (金) 12:47 (UTC)[返信]
確かにそのとおりですね。相手方に煽られこちらとしても冷静さを欠いたと思います。当方としてはコメント依頼を引き下げることには吝かではありません。ご指摘の記事に対するコメント依頼検討してみます。
資料についてはChichiii氏が柴崎先生のご助言を仰いで、百科事典に掲載するに恥ずかしくない水準の出典を示していただけることを希求いたします。--塾生 2009年8月14日 (金) 13:26 (UTC)[返信]

出展として示される資料の質について

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福澤諭吉において、資料として不適切と思われる韓国内の反日的なマスコミ記事が用いられていることに改善を望みます。確かに福澤への批判がアジア諸国にあることは事実ですが、ただし示されている出典の資料があまりにもお粗末であると考えます。示されている資料は韓国マスコミの毎年8月の独立記念日近くになると出されるお決まりの反日記事をそのままリンクしています。 ここには福澤を「右翼の元祖」[5]と形容するような情動的な言葉が使われこのような記事を出展とすることに一読者として恥ずかしさを覚えます。ウィキが百科事典であるならば学術的にも信頼性が担保出来、価値中立的な立場の資料を示すべきと考えています。--塾生 2009年8月14日 (金) 14:20 (UTC)[返信]

賛成です。資料からの引用を無くすと、「福澤諭吉#韓国における評価」の記述の内容が殆んど無くなってしまうので、「福澤諭吉#韓国における評価」自体の削除を提案します。--敷島健一 2009年8月14日 (金) 15:56 (UTC)[返信]
上記ノート:福澤諭吉#韓国における評価についてにおける議論を、新たな節を設けて、また最初から始めることはおかしいと思います。敷島健一さんも上記の議論を読んでからご意見をお願いします。それから、中央日報以外にも九州大学教授稲葉継雄の論文の出典も添付されていることを忘れないでください[6]Wikipedia:コメント依頼/塾生にも記載しました通り、多言語版では福澤諭吉についての批判的な批評も載せてあります。--Chichiii 2009年8月15日 (土) 07:02 (UTC)[返信]
新しい節で、上記ノート:福澤諭吉#韓国における評価についてにおける議論のまとめを行っているように読み取れたので、新しい節に返答いたしました。ですから、新たな節を設けることも意味があることだと思います。それから、上記の議論は一通り目を通してから返答しております。また、「九州大学教授稲葉継雄の論文の出典も添付されている」と仰っていますが、日本人が日本語で書いたと見做される論文を、「福澤諭吉#韓国における評価」の参照に挙げるのは、不適当だと思います。この場合は、韓国人の学者が書いた論文を参照に挙げるのが相応しいと思います。--敷島健一 2009年8月15日 (土) 11:32 (UTC)[返信]
反対。資料的にお粗末とする根拠がないため。韓国の三大紙は方針上、出典として十分なものと言え、除去できる理由はない。学術的なものだけを載せることができるというルールはなく、これは個人の感情が入り込んだPOVによる意見と思われる。九州大学教授稲葉継雄が論文で論じられていることは学術的であり、そのように論じられている「事実」として記載もできる。韓国でどのように評価されているのかを論じたもので、しっかりとした出典ならば、どこの国の学者が述べていても問題はない。--清涼里588 2009年8月15日 (土) 11:39 (UTC)[返信]

韓国の三大紙だから信用できるといった教条的な理解には疑問を呈さざるを得ません。数年前中国の主要誌が「日本が飛鳥時代に遣隋使として女性の小野妹子を派遣したことは特筆すべきこと…云々」とする論説を載せて失笑を買った事があります。権威ある新聞だから信用できるといった判断ではなく、記事の内容を見て判断すべきでしょう。最初にChichiii 氏によって示されたリンク先には福澤を「嫌韓の父」「右翼の元祖」呼ばわりする情動的なものであり、内容についてもオリジナリティは認められず、百科事典に書かれている程度の事柄を要約したものに過ぎませんでした。
稲葉継雄先生の論文については後から掲載されたものであり、これに言及することは私の提起した問題を拡散させるのでこの場ではひとまず言及を差し控えます。--塾生 2009年8月15日 (土) 12:40 (UTC)[返信]

出典の中身を私たちが真実か否か判断する必要はないはずです。韓国の三大紙で記載されたことは、記載されたこととして書くことに問題はありません。--清涼里588 2009年8月15日 (土) 13:06 (UTC)[返信]
清涼里588さんと同じく反対です。敷島健一さんの考えではWikipediaの日本以外の項目はすべて当該国の学者による論文の出典しか認めないということになります。--Chichiii 2009年8月15日 (土) 12:12 (UTC)[返信]
文献を見つけました! 韓国における福沢諭吉 : 一九九〇年代における福沢諭吉の研究状況を中心に 林, 宗元(Lim, Jong-won)韓国関東大学校教授 慶応義塾大学学術情報リポジトリ です。この中に、「福沢諭吉の侵略性」に関する言及もあります。ただ、肯定的な評価もありますので、学者レベルでは、韓国でもかならずしも否定的な評価ばかりではないことも、付け加えるべきかと存じます。新聞記事は、学者レベルとちがって一般では、批判的流れの方が強いことの例とするべきなのではないでしょうか。ソースによって、扱い方のちがい、記述のちがいはあった方がいいと思います。--Iratume 2009年8月15日 (土) 14:47 (UTC)[返信]
お疲れ様です。それも併記していただきたい。ただ長文で、どうまとめるか大変そうですね。--清涼里588 2009年8月15日 (土) 15:03 (UTC)[返信]
え! 私が書くんですか? そのー、私はどちらかといえば長文書きでして、おまけに整合性がつかないとイライラしてくる質でして、私が書きますと、併記というより全面書き直しになってしまいますので、こういうもめている場面では、尻込みせざるをえないんですが。さがしてきましたので、Chichiiiさん、書かれてはいかがでしょうか。--Iratume 2009年8月15日 (土) 15:52 (UTC)[返信]

それと、新聞記事をソースとすることについて、ですが、扱い方によろうかと存じます。塾生さんがおっしゃるところの中国主要紙の「小野妹子」の件ですが、「小野妹子」の項目に、その記事をソースとして「小野妹子は女性であった」と書いたとすれば、それは削除の対象となってしかるべきと思いますが、「現代の中国紙は小野妹子を女性だと勘違いしている」と載せるならば、一応、問題はないわけです。無駄な記述だという意見もあろうとは思いますが。確か朝鮮日報の日本語版だったと思いますが、以前に難波津 (和歌)を指して、「王仁の漢詩が発見された」と、目眩のするような報道をしていたことがありまして、絶句しましたが、もし、難波津 (和歌)の項目に、その記事をソースとして「漢詩である」としていたならば削除すべきですが、「韓国紙はそういう報道をしていた。万葉仮名を知らないゆえの錯誤だろう」という記述でしたら、エピソードとしてありえるのではないか、と思います。これも、無駄な記述といえば、そうでしょうけれども。ましてこの場合、「福沢諭吉に対する韓国での評価」の話です。韓国では、学問レベルでも「侵略性」が強調される傾向にあるようですし、新聞の論調は、ある程度、韓国の一般的傾向をあらわしていると見ていいのではないでしょうか。なにしろ、親日罪のある国です。新聞ソースが事実関係をまちがえていた場合(文化、歴史系の記事では日本の新聞でもよくあることです)とは、ちょっと話がちがうのではないか、と思います。--Iratume 2009年8月15日 (土) 17:12 (UTC)[返信]

Iratumeさんが探してくださった資料を拝見させていただきました。大変よくまとまったものですね。先に、柴崎力栄さん(rshibaさん)がいずれ、「各国における福沢諭吉研究評価」とでもいう独立項目にする方向で育てて行けばいいでしょう。ともおっしゃっていますので、長文で書かれれることについては全然問題はないと思われます。--Chichiii 2009年8月15日 (土) 22:57 (UTC)[返信]
文献の調査ありがとうございます。韓国人の書いた論文が見つかったので、その内容を紹介するのが適当だと思います。当該論文は1990年代の研究に限定されているものの、韓国人の研究をサーベイしたもので、紹介する価値があると思います。ですので、当該論文を参照するならば「福澤諭吉#韓国における評価」自体を削除する必要はなくなったと思います。--敷島健一 2009年8月16日 (日) 02:23 (UTC)[返信]
中央日報だけでなく、朝鮮日報も、メールアドレスを登録すれば過去記事が読めるようですので、情報源として検証可能なものです。2大紙ともに福沢についての理解は同じ方向のようです。韓国における歴史表象ないし記号としての福沢諭吉、という問題のデータとして使うことは問題ない。現代の韓国でそのように一般人に受け取られているということは、福沢諭吉の項目に書いておくべきことです。--rshiba 2009年8月16日 (日) 03:56 (UTC)[返信]
最初に私が示した問題提起と趣が異なってきてしまったようですが、確かに柴崎先生がおっしゃられるように中央日報、朝鮮日報を情報源としての検証性においては否定するものではありません。しかしながら本項目は韓国メディアにおける福澤研究の現状や推移そのものを相対化して扱うべきものであります。それならばその問題意識において、そのこと自体を主題とした統計資料や既存研究を資料として提示するのが筋で、たまたまインターネットを検索して福澤を批判する記事を一つ発見し、場当たり的に資料としてリンクを張るのはあまりにも稚拙であるとの印象を受けますがいかがでしょうか。--塾生 2009年8月16日 (日) 06:31 (UTC)[返信]
塾生さん。これは、アメリカ人が日本人の広島長崎への原爆使用についての評価をウイキペディア英語版に書くときの困難さに似ています。(1)日本人歴史研究者の研究レベルでの原爆の実戦使用への論及、(2)原爆使用について日本世論をメディア研究として検討した成果、(3)日本の新聞・雑誌に見られる原爆使用についての記事・社説・投書欄の傾向、たぶんこの三つ位に分かれる。今回は、韓国での福沢諭吉についての理解を(3)のレベルで扱うとすれば、可否、あるいは、その方法、について意見が分かれている。中央日報も、朝鮮日報も、日本語に翻訳した記事がデータベースで検索できるのは、2005年からで、それぞれ5本以内しか記事がヒットしない。だから、脚注で記事のタイトルと日付をリスト化し添付する。その範囲を通読した場合、中立的な観点から書ける範囲のことを記述する。ということでどうでしょうか。
それとは別に、韓国の学会、あるいは日本にいる韓国籍の研究者の福沢についての研究の状況の検討が書かれるべきである。また、上記(2)レベルの研究、すなわち、韓国一般世論レベルでの福沢観についての韓国メディア研究の論文や著書が書かれているのならば、紹介する。それぞれについて、情報源とそこから書ける範囲を、一つひとつ確認しつつ進める。--rshiba 2009年8月16日 (日) 07:40 (UTC)[返信]
GeNii NII学術コンテンツ・ポータルを「福沢諭吉」で検索すると、韓国の研究者が日本語で論文や博士論文や本を書く人が多くなっている気配があります。一つひとつチェックして行く課題がありそうです。--rshiba 2009年8月16日 (日) 07:55 (UTC)[返信]

柴崎先生
私にお答え頂いた事に気づかず、ご返事遅れまして失礼いたしました。
本項目の主意は「脱亜論」において包含されており、私といたしましては改めて「福澤諭吉」の記事に記すことの意義を感じませんでした。もともと当時の国際関係における列強諸国間で共有されていた社会ダーウィニズム的な価値観を、遡及主義と申しますか、現在の常識に照らし合わせ批判することの不毛性をも感じております。 ただ、記事に示すならば学術的な形式に則った形の資料の挙示がなされるべきで、上記のようなインターネットで検索した記事を場当たり的に示す幼稚さには感覚的についていけないところがございました。 本記載については先生、敷島健一さん、Iratumeさん、清涼里588 さんらの私よりも学識豊かな方々にひとまず加筆の機会をお譲りしようと思います。--塾生 2009年8月17日 (月) 10:44 (UTC)[返信]


情報のご提供、ありがとうございます。お教えに従い、ciniiをざざっと見てみたのですが、確かに韓国人と思われる方の日本語論文が増えているみたいですね。会員ではないため、読めるものが少ないのですが、2、3読めたものの範囲でいえば、福沢の韓国観にこだわるものではなくなっています。新聞記事の方は、朝鮮日報に登録するのが面倒でまだ見ていないのですが、ハングルサイトをざざっと見てみましたところでは、最近、福沢の自叙伝が翻訳出版された様子で、その紹介のページが多く、またそれに関係するのかどうかわからないのですが、「福沢諭吉 7つの教え」のページが多いんです。7つの教えとやらを知らなかったものですから、日本語サイトで見てみたんですが、これに関しては、日本語ページよりハングルページの方が多くヒットします。従来の「侵略性」重視の立場から、「7つの教え」紹介ページの増殖を嘆いているハングル語ページもありましたので、流行りのようです。柴崎先生がおっしゃられるように、脱亜論に関連して福沢に侵略性を見る新聞記事の立場は、韓国の一般的傾向といいますより、韓国の国是たる歴史の表象なのかな、という印象です。どうも、福沢に関しては幕末のピンスポットでしか詳しく存じません私には、手に余ることのように思えてきました。しかし、現状はあんまりなので、とりあえず、書き直しを検討してみます。もっと知識を有した方による、さらなる改稿を期待しつつ、ですが。--Iratume 2009年8月17日 (月) 00:05 (UTC)[返信]
文献の調査ありがとうございます。ご提供いただいた情報を参照して、ヨリ良い記事を作成していただけたら幸いです。議論の主題からは外れますが、「福沢諭吉 7つの教え」はおそらく「福澤心訓」のことだと推測します。「福澤心訓」は福澤の名を騙った作者不明の偽作ですので、福澤諭吉に関する記事には含めるべきでないと思います。また、福澤の自叙伝『福翁自伝』の韓国語訳については、『福翁自伝#翻訳』によると、2006年3月17日に出版されています。 あと、「脱亜論」に関して「福沢に侵略性を見る新聞記事の立場」についてですが、日本側にも同様の立場があります。即ち、遠山茂樹服部之総の流れをくむ歴史研究で、1960年代後半から1970年代にかけて一般的になったものです。韓国の新聞記事はこの日本側の歴史研究をレフレインしたものではないでしょうか?詳細は「脱亜論#歴史と影響」を参照していただければ幸いです。--敷島健一 2009年8月17日 (月) 06:38 (UTC)[返信]
まっ! 福澤心訓なんぞという偽書があるとは、まったく存じませんでした。どうりで、福翁自伝をいくらひっくりかえしてみても載っていないはずです。いろいろと情報をありがとうございます。脱亜論#歴史と影響は読ませていただいたんですが、私が読んでいるのは坂本多加雄の論評くらいだったものですから、知識不足を感じた次第です。私は、侵略性を強調して教えられた世代で、遠山茂樹は読んだような気もしまして、韓国のものも「日本側の歴史研究をレフレインしたもの」ではないか、とは、私も思ったのですが、安川・平山論争なんぞはさっぱり存じませんでしたし、稲葉継雄とか、日本側の侵略性強調にも新しい動きがあり、それにも呼応しているのでは、という感じも受けます。記憶ちがいかもしれないんですが、姜在彦の著作だったか、在日の方のもので、金玉均に触れて、結局、日本が見捨てて裏切った、みたいな論調のものを読んだ覚えがあり、結局そこへ行くのか、というところでは、確かに、稲葉継雄の福沢論評などもレフレインといえばレフレインです。それと、朝鮮日報は登録すれば費用がかかるみたいで、検索できませんし、はずします。とりあえず、もう少し勉強しまして、付け焼き刃ですが挑戦してみますので、みなさまに改稿願えれば幸いです。なにしろ、思想系のものは苦手です。--Iratume 2009年8月17日 (月) 16:02 (UTC)[返信]

皆さんのご熱心な調査に敬服いたします。韓国における福澤批判は確定的との方向のようですし、本文の記述はあとは皆さんにお任せするというスタンスに私はさせていただきます。--清涼里588 2009年8月17日 (月) 09:25 (UTC)[返信]

途中経過のご報告です。とりあえず日本語で検索できる中央日報のみの話なので、傾向というには資料不足なのですが、2004年以前には、海外特派員や国際部次長などの著名コラムで、福沢にに対する肯定的な言及が見られる、ということです。ちょっとまだ資料不足なのですが、2005年以降の記事に、極端な「侵略戦争を正当化した日本右翼の元祖」といったような記事が現れるのは、国内のニューライトに対する警戒があるのではないか、という感じを受けます。しかし、2006年の福沢諭吉自伝に対しては、各紙おおむね好意的で、ハンギョレが「ハンギョレが選んだ今年の本」の一冊として取りあげているのにはちょっとおどろきましたが、面白いものは日韓共通でしょうけれども、あるいはニューライトの主張する植民地時代の近代化評価を受け入れる素地も広がっていて、それに対する反発もまた強く出ているのかな、といった印象です。「日本側の歴史研究をレフレイン」という点における検証としては、在日学者の福沢観を見てみる必要がありますので、金玉均にからんであるいは論評しているのでは、と思われる、琴秉洞、姜在彦の著書を取り寄せ中です。以上について、なにか適切な参考書がありましたら、みなさまにご教授願えれば幸いです。--Iratume 2009年8月19日 (水) 05:20 (UTC)[返信]
平山洋『福沢諭吉の真実』文藝春秋〈文春新書〉、2004年8月。ISBN 4-16-660394-9 からの孫引きですが、韓桂玉『「征韓論」の系譜――日本と朝鮮半島の一〇〇年』三一書房、1996年10月。ISBN 4-380-96291-1 の67-68頁に脱亜論に対する評価が記載されているようです。また、福澤諭吉と朝鮮との関係に関しては、杵淵信雄『福沢諭吉と朝鮮――時事新報社説を中心に』彩流社、1997年9月。ISBN 4-88202-560-4 が詳しいようです。以上、何かのご参考になれば幸いです。--敷島健一 2009年8月19日 (水) 07:45 (UTC)[返信]
ありがとうございます! ご紹介の本にも、目を通してみようと手配しました。--Iratume 2009年8月20日 (木) 11:41 (UTC)[返信]

福澤諭吉#アメリカ合衆国における評価」の記述で、

アメリカ合衆国では、福澤は脱亜論を記すことによって日本によるアジア諸国への侵略と植民地の知的支援を行ったと多くの学者に信じられている[27]。

とあります。そして、[27]の参照先に、 Ugly Images of Asian Rivals Become Best Sellers in Japan New York Times November 19, 2005 が挙げられています。この参照先は記事の2頁目なので、1頁目を見てみると、 Ugly Images of Asian Rivals Become Best Sellers in Japan By NORIMITSU ONISHI, TOKYO, Nov. 14 とあります。即ち、この記事は、東京発2005年11月14日付けのNORIMITSU ONISHI氏による『マンガ 嫌韓流』についての記事である事が分ります。そして、この記事の"many scholars"とは「アメリカ合衆国では…多くの学者に…」ではなく「日本では…多くの学者に…」と解釈すべきだと分ります。 「福澤諭吉#アメリカ合衆国における評価」の記述からこの引用を無くすと、内容が無くなってしまうので、「福澤諭吉#アメリカ合衆国における評価」自体の削除を提案します。--敷島健一 2009年8月14日 (金) 15:56 (UTC)[返信]

ニューヨークタイムズの記事では、嫌韓流の作者(日本人)、嫌韓流に関わった学者(日本人)、嫌韓流を批判する学者(日本人)、件寒流を批判する漫画家(朝鮮人)の4名しか名前をあげていません。そのあとに、日本によるアジア諸国への侵略と植民地の知的支援を行ったと多くの学者に信じられているとの記述しかありませんので、学者については国籍を記載していないから断定できないですね。それでは、冒頭のアメリカ合衆国では…をアメリカのニューヨークタイムズによると…に変更しましょう。どうも誤解しているようなので言っておきますが、各国における肯定的な評論もあれば当然、記載されてゆくべきだと思っていますので、どうぞ加筆してください。現状では肯定的な評論のみで違和感を感じます。--Chichiii 2009年8月15日 (土) 07:02 (UTC)[返信]
横から失礼いたします。君が代において韓国の新聞記事を挿入なさった後でしたので、なんとなく今回の騒動を見ていたのですが、このニューヨークタイムズの記事に関していえば、「日本では…多くの学者に…」という解釈が妥当だと思います。国籍を記載してないからといって、これをアメリカの学者とするのは曲解です。だいたい、福沢諭吉に専門的関心を持つアメリカの学者が、どれくらいいるでしょうか? アメリカ合衆国における評価は、削除することに賛成です。誤解なきよう申し上げておきますが、韓国における福沢諭吉批判記事を載せること自体には、私は反対ではありません。慶応大学において、韓国の学会と交流が持たれ、学術的な意見交換に勉めていることは存じていますが、一方、韓国における一般的な反応として、新聞記事のような論調が主流であることもまた、事実なのだろうからです。ただ、確かに問題は、新聞記事だけでは「一般的評価」としか言えず、学術的なものではないことを明記した表現が求められるかと存じます。そして、できうれば、韓国の学者による福沢批判を併記するべきではないか、と思うのですが、私に心当たりはありません。慶応義塾大学出版会発行の「 日韓共同研究叢書 近代交流史と相互認識」シリーズの中に、なにかないんでしょうか? 一部分しか読んでいないので、知らないのですが。--Iratume 2009年8月15日 (土) 08:14 (UTC)[返信]
アメリカの学者などと曲解はしておりません。ご心配なく。それでは、アメリカ合衆国の欄に記載したものは、「脱亜論」再発見からの節に移しませんか?それと、ニューヨークタイムズの記事は日本人学者とは断定できない(世界的な学者を意味したのかもしれません)ので、親節名を「日本における福沢研究をめぐる論争」から「福沢研究をめぐる論争」に変えましょう。君が代の件はIratumeさんが上手くまとめてくださいましたね。感謝しております。一度差し戻したときは完全に削除されたものだと勘違いしていたからなので悪気はありませんでした。私の間違いを差し戻していただいたLoss688さんにお礼を申し上げております。慶應大学における資料については、塾生さんなら容易にアクセスできそうですのでお願いしたいですね。--Chichiii 2009年8月15日 (土) 09:25 (UTC)[返信]
削除の提案にご同意いただきありがとうございます。ニューヨークタイムズの当該記事は、あくまでも東京発の記事なので東京や日本に関する記事と解釈すべきです。ですから、「アメリカ合衆国では…」という部分は不適当だと思います。また、当該記事を「福澤諭吉#アメリカ合衆国における評価」の記述で参照として挙げること自体も不適当だと思います。さらに、「アメリカのニューヨークタイムズによると…」と変えるのもアメリカ発の記事と誤解を与える可能性があるので不適当だと思います。--敷島健一 2009年8月15日 (土) 11:34 (UTC)[返信]

欧米の福沢研究ということだと、H-Net:Humanities and Social Sciences Onlineを「Fukuzawa」で検索することから始めたら、大きく網が張れる。ここは、10年ほど前から始まった人文社会系のアカデミックリスト(ML)の集合体です。H-Japanが日本研究リストです。それ以外にも福沢関係の言及はあるようです。左上の検索窓で logs を検索する。all listsを指定すると、171ヒットする。一番最後のものが、英国人の福沢研究で著名なCarmen BlackerさんのロンドンTimesに掲載された死亡記事 の紹介になっています。いまやっている余裕がないのですが、どなたか通覧してみてください。--rshiba 2009年8月16日 (日) 07:23 (UTC)[返信]

資料検索方法のご教示ありがとうございます。現在のところ適当な資料が見つかっていないようなのが残念です。現在示されている内容と参照されている東京発のニューヨークタイムズ紙の資料は、「アメリカ合衆国における評価」として掲載するには不適当と思うので、「福澤諭吉#アメリカ合衆国における評価」を一旦削除することを提案いたします。適当な資料が見つかったら、その時点で新規に節を作成すれば宜しいと思います。削除のご検討よろしくお願いいたします。--敷島健一 2009年8月18日 (火) 04:34 (UTC)[返信]
賛成。但し、本文を消して、節スタブを置いて、項目は残置で如何でしょうか。--rshiba 2009年8月18日 (火) 04:58 (UTC)[返信]
賛成ありがとうございます。とりあえず様子を見て反対意見がないようでしたら、ご提案のように変更しようと思います。--敷島健一 2009年8月18日 (火) 05:14 (UTC)[返信]
当該節から削除することについては、柴崎力栄さんのご意見の形で賛成します。ただし、ニューヨークタイムズによると、という記載の仕方自体は問題ないと考えます。誤解をご心配されるならば、ニューヨークタイムズでは名前は伏せているものの多くの学者たちによるとうんぬんとしている、という記載ならばありだと思います。ニューヨークタイムズが日本を糾弾する記事では、学者の名前を挙げることなく、historiansもしくはscholarsが信じているなどという記述をすることがよくあります。おそらく、ニューヨークタイムズの見解なのでしょう。--Chichiii 2009年8月18日 (火) 09:22 (UTC)[返信]
Chichiiiさん。もとの英文をじっくりと読んでみました。書き換えの試み→。"ノリミツ・オオニシ記者の脳内妄想では、「福澤は脱亜論を記すことによって日本によるアジア諸国への侵略植民地化の知的支援を行ったと多くの学者に信じられている」ことになっている。"と書き直してみたくなった。"many scholars believe"という挿入語句を入れることで、「"Leaving Asia," the essay that provided the intellectual underpinning of ...」という脱亜論に対する先入観を、権威づけようとしたのでしょう。many scholarsの国籍は、日本・米国・その他色々という位のニュアンスでしょう。NYTの記事は、そのままIHTに転載されるので、その読者の所属国の学者たちを思い浮かべればいいのでしょう。この件については、ノリミツ・オオニシの項目にこの記事についての記述がありますから、そこに1行ほど書き込んで、脱亜論の研究の現状とは異なる福沢への言及をしていると書くことはできます。--rshiba 2009年8月18日 (火) 09:59 (UTC)[返信]
ノリミツ・オオニシ記者。このような人物がニューヨークタイムズの日本関連の記事を書いてるのですね。本社も認めているのでしょうからニューヨークタイムズという新聞社がどういう会社かわかりました。100年前はこんなに素敵な記事を書いていたのですけどね。ノリミツ・オオニシの記事はノリミツ・オオニシのページと脱亜論のところにでも記載しましょうか?一般的な見解か不明なので福澤諭吉のページでの記載は不要だと思うようになりました。--Chichiii 2009年8月18日 (火) 10:29 (UTC)[返信]
ノリミツ・オオニシ記者の情報ありがとうございます。この解説と英語版の解説を読んでみました。ノリミツ・オオニシ記者の記事は日本への偏見に満ちたもので、客観的なソースとして参照するには不適当だと思います。ですから、当該の『マンガ 嫌韓流』についての記事Ugly Images of Asian Rivals Become Best Sellers in Japanに関する記載は、ノリミツ・オオニシのページに追記するのが適当であって、脱亜論のページには記載しない方がいいと思います。--敷島健一 2009年8月19日 (水) 05:30 (UTC)[返信]
(補足)ノリミツ・オオニシはニューヨークタイムズの慰安婦報道Denial Reopens Wounds of Japan's Ex-Sex Slaves でもImperial Armed Forces' coercion of young women into sexual slaveryとかThey(Japanese historians)estimate that up to 200,000 women served in comfort stations that were often an intrinsic part of military operations. とか書いてます。これも学者の名前伏せたままです。ノリミツ・オオニシが日本軍が朝鮮人を拉致して性奴隷にしたと世界に流布した張本人ですね。脱亜論にはニューヨークタイムズノリミツ・オオニシ記者によるとって形で記載するのはどうでしょう?虚偽であろうかなかろうが影響力の大きいところで流布されている事実は記載するべきだと思います。海外でどのように報道されているのかは日本語版に記載するべきことだと思います。例えば、ナチスドイツがユダヤ人について虚偽の宣伝を行っていたという事実は、削除対象とはなりませんよね。人種偏見的な報道がなされているのならば、どこの新聞社のどの記者が報道していると記載するのがよいと思います。昔から日本人は欧米での日本に対する宣伝に無知だったために苦労していると思います。--Chichiii 2009年8月19日 (水) 11:54 (UTC)[返信]
ノリミツ・オオニシ記者の『マンガ 嫌韓流』についての記事を脱亜論に追加することには賛成できません。当該記事はあくまでも『マンガ 嫌韓流』についての記事であって、脱亜論に関する記述は記事の2頁目に補足的に記載されているだけにすぎません。さらにその記述も many scholars がアメリカの学者を指すのか?日本の学者を指すのか?それ以外なのか?曖昧なものです。ですから、当該記事の記述はノリミツ・オオニシのページに追記するのが適当であって、脱亜論のページには記載しない方がいいと思います。--敷島健一 2009年8月20日 (木) 01:57 (UTC)[返信]
現に、中央日報がノリミツ・オオニシの記事を日本人の意識の中に内在された「脱亜入欧」の欲求を反映している、というのが同紙の診断。などと引用しているわけですから、ノリミツ・オオニシがどんな人間であろうと世界的に影響力を持ってしまっているわけです。それから、嫌韓流の記事といっても、嫌韓の原点は福澤諭吉の脱亜論であるとしているわけですから、記載したほうがいいと思います。--Chichiii 2009年8月20日 (木) 10:32 (UTC)[返信]
記事の趣旨から言えば、マンガ嫌韓流の方に載せるのが筋じゃないですか? マンガ嫌韓流の項目に、「またオオニシか」氏は「嫌韓の原点は福澤諭吉の脱亜論であるとしている」とあれば違和感がありませんが、脱亜論のページに突然一行つっこんだのでは整合性がとれず、なんのことやら状況がわからず、違和感がありすぎます。--Iratume 2009年8月20日 (木) 12:07 (UTC)[返信]
付け加えます。脱亜論の項目にその記事をつっこむのは、の項目に、「韓国毎日新聞(韓国語)によれば、大韓民国の慶一大学総長の李南教は、「顎」の語源は一発当たって痛くて「アゴ」(表記はアゴだが、記事表題からアイゴーと思われる))としていると、突然入れるようなものではないでしょうか。--Iratume 2009年8月20日 (木) 12:23 (UTC)[返信]
脱亜論のページには同じような韓国の主張(これまた中央日報)が記載されていますから、一行だけ突っ込んだような形にはならないから大丈夫です。とにかく猛烈に福澤を批判する意見が韓国や韓国系の方面にあることは事実のようですね。対立意見として、韓国や欧米での肯定的な意見がもっと記載されるとバランスがとれていいと思います。--Chichiii 2009年8月20日 (木) 13:34 (UTC)[返信]
「中国・韓国での評価」という節なのですから、中央日報の「「日本の『嫌韓流』は警戒心理・劣等意識の発露」NYT紙」という記事を列挙する、というならば、わからないでもないですが、「また大西か」さまの記事を直接入れるのは不自然です。かといって、アメリカでの評価ではないですし。私が言う整合性とは、肯定意見と否定意見のバランスの問題ではなく、記事全体から見た整合性です。意味のわからない一行になります。顎の語源といっしょで。--Iratume 2009年8月20日 (木) 14:00 (UTC)[返信]
国という分類にはならないですね。しかし、ニューヨークタイムズで報じられていることは、海外での学術的研究以上の浸透力があると思われます。そのようなことは記載しとくべきだと思うのです。例えば、慰安婦は日本や韓国の研究者は20万人とかもはや言っていないとようですが、海外の報道では20万人以上の未成年(ほとんど朝鮮人)を拉致したってことが一般的になっていると思います。南京もニューヨークタイムズで検索すると、南京事件ではなくレイプ・オブ・ナンキンという固有名詞で多くの記事が書かれています。学術的なものは重要ですが、読者が圧倒的に多い報道はやっぱり記載するべきでしょう。日本人は海外での日本に対する報道の実態を知らなさ過ぎているように思います。残念なことに日本語でのそれらの報道がなされないから分からないってことだと思います。Wikipediaは海外の版を翻訳したり、他言語のものも出典とできるところですから、できるだけ国際的な評価(間違ってても)も記載しておくべきだと思います。記載方法は考えましょう。--Chichiii 2009年8月20日 (木) 14:21 (UTC)[返信]
「ニューヨークタイムズで報じられている」のは、「マンガ嫌韓流」について、であって、脱亜論について報じたわけではないですよね。「マンガ嫌韓流」に載せるべきです。脱亜論のページより、他の言語のページも多く、より意義深いですし、載せるにぴったりです。--Iratume 2009年8月20日 (木) 14:33 (UTC)[返信]
あとニューヨークタイムズのノリミツ・オオニシ氏の記事に限っていうならば、アメリカ人より日本人の方がよく読んでいるのではないか、と思います。「また大西か」は、長年言い古されてきた言葉です。--Iratume 2009年8月20日 (木) 14:42 (UTC)[返信]
中央日報でNYtimesを取り上げているので、福澤諭吉のページでは中央日報と同じところに脚注として付けさせていただきます。本文には手をつけません。どうでしょう?小さいことですけど、上の発言は私もそう願いたいですが、POVです。外国人がさらっと読んで偏見が刷り込まれていくことが問題なのです。NYtimesで権威づけして朝鮮で報道するなどよくない例も起きてますね。--Chichiii 2009年8月24日 (月) 14:50 (UTC)[返信]
実はですね、書いていて、中央日報がニューヨークタイムズの記事を取りあげていることは載せるべきなのではないか、というような流れになりました。もしかしますと、ニューヨークタイムズの記事そのものにも触れるかもしれませんし、もう少し、待っていただけますか? ちょっと今晩中には書けそうもなくなりました。考えながら書く質でして、遅筆です。--Iratume 2009年8月24日 (月) 17:06 (UTC)[返信]

反対意見が無いようですので、rshibaさんのご提案のように変更しようと思います。--敷島健一 2009年8月20日 (木) 01:57 (UTC)[返信]

賛成します。
また「韓国における評価」において、「なお韓国の親日派からは近代化の父とみなされている」の部分ですが、そもそも「親日派」というのは蔑称で、この記述自体不可思議で無意味なものに思えますがいかがでしょうか?--塾生 2009年8月21日 (金) 14:23 (UTC)[返信]

すみませんが、もう少しお待ちいただけるでしょうか。とりあえず、目を通すことができる文献には全部目を通して、なおかつ自分の頭の中を整理した上で、改稿したいと思います。金玉均の項目には「親日派認定を受けた」と書いてありますよね。ko:김옥균を見ると、「これまで韓国では否定的に見られてきた金玉均を、2007年以降、韓国の近代化に大きく貢献したとニューライトが評価している」というようなことが書いてあります。現在の書き方は、短くまとめすぎて正確ではないかもしれませんが、福沢が援助した金玉均を親日派認定する動きもあるわけでして、しかも、それは決して少数派ではありません。一方、金玉均を評価しているニューライトは、親日派ともされる人々です。日本の植民地政策は全否定することが国是というお国ぶりですから、ごく客観的に併合時代の朝鮮近代資本の蓄積を研究したカーター・J・エッカートの「日本帝国の申し子」でさえ、韓国語訳が出版できないといわれます。そんな中で、まともな研究をなさってこられた安秉直教授が自ら右翼を名乗られるのですから、私は「福沢諭吉が右翼の元祖」というのは、日本人から見れば極端ですが、韓国ではそんなものなのだろう、とも思っています。--Iratume 2009年8月21日 (金) 15:36 (UTC)[返信]
賛成ありがとうございます。「福澤諭吉#アメリカ合衆国における評価」の記述を変更しました。項目は残ったままなので、アメリカでの評価を示す資料が発見されたら加筆をお願いいたします。「福澤諭吉#韓国における評価」の記述については、合意が得られていないので変更していません。--敷島健一 2009年8月21日 (金) 15:40 (UTC)[返信]
現在、改稿途中です。今晩中にはなんとかなりそうですので、どうか、もう少し待ってやってください。--Iratume 2009年8月24日 (月) 07:20 (UTC)[返信]
遅くなりましたが、ようやく、粗方の書き込みが終わりました。みなさまの加筆、訂正をお待ちします。--Iratume 2009年8月29日 (土) 17:44 (UTC)[返信]

福澤と西郷隆盛

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内容の正確性に疑問があるので、除去に賛成です。--miya 2010年1月21日 (木) 04:44 (UTC)[返信]

賛成ありがとうございます。内容の正確性に疑問があるので、該当部分を除去しました。なお、202.209.48.212および202.211.115.126は1か月ブロックされました。--敷島健一 2010年1月21日 (木) 14:36 (UTC)[返信]

「ハングルの発明」?

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2010-01-21 03:44:08の版「福澤と西郷隆盛」のセクションには「福沢は朝鮮政府の樹立とハングルの発明を行い、朝鮮の民主化を助けた。」とあります。これだと「朝鮮政府の樹立」と「ハングルの発明」を福澤さん自身が行ったように読めてしまうのですが、そうなんですか?--miya 2010年1月21日 (木) 04:00 (UTC)[返信]

実際は井上角五郎という門下生が行ったようですね。朝鮮政府の成立に関しては提言を行っています。--202.209.48.212 2010年1月21日 (木) 07:10 (UTC)[返信]
202.209.48.212さんは一体どういった参考文献をもとにそうおっしゃるのでしょうか。ハングルの記事には、ハングル創製はもっと昔のことである旨書かれています。--miya 2010年1月21日 (木) 11:26 (UTC)[返信]
最初のハングルを用いた新聞を発行したということでしょう。漢城周報参照。--rshiba 2010年1月22日 (金) 12:35 (UTC)[返信]

参考文献について

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文芸社の書籍『九州・菊池一族の集大成西郷隆盛』が脚注に挙げられていますが、これは自費出版ないしそれに近いものではないでしょうか。Amazonの「なか見検索」を見るに、著者は菊池一族の方のようです。--miya 2010年1月21日 (木) 04:44 (UTC)[返信]

福澤は第1回目の建立計画の発起総代人。第1回目の建立計画は、1883年(明治16年)8月に鹿児島県人およびその他の有志者が発起人となりなされたもので、福澤がその発起人から頼まれて発起総代人となり、『時事新報』の1883年(明治16年)8月25日号に南洲西郷隆盛翁銅像石碑建設主意を掲載したのですが、「このときの銅像は遂に建立の運びに到らず、後年になつて上野公園内に西郷銅像が立てられた」のです。(『福澤諭吉全集』第19巻796-797頁参照)第2回目の建立計画は1889年(明治22年)2月11日大日本帝国憲法が発布され、西郷が正三位を贈られたのを記念して芝公園弥生社において祭典を執行して、その祭典で吉井友実が発起人となって西郷銅像の建立を提案してなされた。

第一回目が福沢諭吉で第二回目が吉井友実です。--202.209.48.212 2010年1月21日 (木) 07:13 (UTC)[返信]

横からすみません。現在、「福沢と西郷隆盛」に書かれているような内容でしたら、確か市井三郎氏の論文で読んだことがあります。さがしてみないと本が出てこないんですが。あるいは、『九州・菊池一族の集大成西郷隆盛』の記載は、市井氏の論文を典拠にしたものではないでしょうか? 福沢の又従兄弟の増田宋太郎に関する論文です。私も書き加えようかと思ったのですが、その本がすぐに出てこなかったものですし、めんどうになってやめていました。--Iratume 2010年1月24日 (日) 05:41 (UTC)[返信]
失礼しました。よく読んでみましたら、ちょっとちがっていたような気がします。市来政明と野村忍助が慶応に入学していた、などと、人名を挙げてはなかったような気がします。新しい研究なんでしょうか? とりあえず、持っていたはずなので、本をさがします。--Iratume 2010年1月24日 (日) 06:31 (UTC)[返信]
本の題名だけ、わかりました。「明治の群像3 明治の内乱」谷川健一編 三一書房 1968年出版「市井三郎著 反体制へかけた情念ー増田宋太郎」です。本が出てまいりましたら、また書きます。出てこなかったら、図書館で借ります。--Iratume 2010年1月24日 (日) 13:53 (UTC)[返信]
なお「江戸城無血開城以来の知人であるが」という部分もちょっと市井氏の論文とはちがっていたような気がしますし、「それは征韓論にも表れているが、もし西郷が李王朝を破りかの地で維新を実現していたならば、「脱亜論」は不要であったともいわれている」というような意見は、見たことがありません。明治6年の征韓論は、田村貞雄氏のように「西郷は併合する計画を立てていた」というような極端な論者もおられますが、一般的には、国交回復のために武力をつかうつもりだったかどうか、という話ではないんでしょうか。「李王朝を破りかの地で維新を実現」というのは、あんまりにも当時の現実とかけはなれすぎです。銅像の話を残して、市井氏の論文を典拠に、増田宋太郎の話から、西郷とのかかわりにもっていった方がいいように思うのですが、いかがでしょうか? 増田の方に加筆しようと思っているのですが、「西南記伝」によれば増田は慶応に入塾しています。--Iratume 2010年1月25日 (月) 02:16 (UTC)[返信]
上の件に関しましては、丁丑公論に以下のようにあり、福沢は西郷をいわゆる「征韓論」者とはみていません。「世上の説に、西郷は数年以前、鹿児島へ退身の後も意を内国の事に留めず、もっぱら外征の論を主張して少年を籠絡し、その我将さに、我将さにといえるは、将さに朝鮮を伐ち、支那を蹂躙し、露西亜を征し、土耳古を取らんとするがごとき、漠然たる思想にして、為に、ますます少年好武の血気を煽動して却てその動揺を制御する能わざるのみならず、己れもまた血気中の一部分にしてかつて定りたる目的もなく、ついに今回の軽挙暴動に及びたりと。この説果して然らば、西郷もまたただ私学校党の一狂夫のみなれども、余輩はにわかにこれを信ずること能わず、西郷は少年の時より幾多の艱難を嘗めたる者なり。学識に乏しといえども老練の術あり、武人なりといえども風彩あり、訥朴なりといえども粗野ならず、平生の言行温和なるのみならず、いかなる大事変に際するもその挙動綽々然として余裕あるは、人の普く知るところならずや。然るに今回の一挙に限りて切歯扼腕の少年と雁行して得々たる者と見做すは、西郷の平生を知らずして憶測のもっとも当らざるものというべし。故に余輩は、あえて彼に左袒してその不学の罪をも許さんとするには非ざれども、またこの世説を軽信して直にこれを狂夫視するの理由は未だこれを見出すこと能わざるなり」 原典を尊重すべきです。--Iratume 2010年1月25日 (月) 03:54 (UTC)[返信]
さらに、これは丁丑公論の方に書くべきことかもしれませんが、福澤と西郷の関係について、こんな研究も出てますね。近代国家形成と福澤諭吉 小野修三 慶応義塾大学学術情報リポジトリ--Iratume 2010年1月25日 (月) 04:43 (UTC)[返信]

外国奉行

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福澤諭吉が、外国奉行に就任した事実は無いと思われます。--61.12.204.179 2010年3月10日 (水) 20:05 (UTC)[返信]

また、百五十俵以上で御目見となるため、同じ外国奉行「支配調役」の合原猪三郎や淵辺徳蔵とまったく同じで、61.12.204.179氏の外国奉行支配調役と外国奉行は別物で、調役は外国奉行の手下は、まったくの虚言で、更に因みに外国奉行は三千石高ですという独自研究もまったくの嘘である。また、この千葉県の可変IP:ap.zero-isp.NETは他の日本史全般の人物編集に携わっているようで、注意が必要と考える。--AKEK 2010年3月10日 (水) 20:22 (UTC) そんなに自信があるなら慶応義塾に問合せてみたら。だがら外国奉行と調役は別物だよ。 まったくのうそをついているのはあなたの方だよ。 それとも釣り行為で言っているかもしれないけど、そうでなければ、もうちょっと勉強してよ。 福澤諭吉が外国奉行なんて人に言ったら、笑われますよ。繰り返すようですが、外国奉行支配調役は外国奉行の手下です。 後、家禄と役料について調べたほうがいいですよ。 ところで福澤は何年に外国奉行になったの。 判らないから教えてよ。 私のことを嘘つき呼ばわりしたんだから、自分で吐いた唾は飲んでもらいたいものです。--61.12.204.179 2010年3月10日 (水) 21:14 (UTC)[返信]

    • > 勉強してよ。 > 笑われますよ。 > 調べたほうがいいですよ。 等、IPを変えてそのようなスタンスで日本史の人物をむやみやたらに編集しないで下さい。

福沢の外国奉行就任は元治元年(1864年)です。上記の公式HPで出ています。--AKEK 2010年3月10日 (水) 21:23 (UTC)[返信]

  • 勉強になったよ。でもそれは、それまで出役といって中津藩から、幕府外国方への出向臨時職員のだったのが、正式に幕臣に登用されて外国方の職員になった年だよ。福澤は外国奉行所(便宜上こう書く)の職員であっても、外国奉行というポストにはついてないよ。1867年に小野使節団のメンバーとして渡米しているけれど、その時の肩書きが、外国方、調役次席 、翻訳御用です。おわかりでしょうか。外国奉行は現場の役人じやなくて、現在でいったら、次官級のポストですよ。

[7]このHPには元治元年に福澤の名前は無かったよ。そっちもHPは信用ならないというのは無しですよ。後このHPのデータは日本史辞典からとられたものだから。--61.12.204.179 2010年3月10日 (水) 21:58 (UTC)[返信]

    • 幕府の外国方と外国奉行は違います。中津藩から外国方になった年は万延元年(1860年)です。外国奉行になって禄を受け始めた年が元治元年(1864年)です。61.12.204.179氏の虚偽解釈で幕府の役職を編集しないで下さい。

> [8]

さすがに慶應大の公式HPや勝部真長、北康利の伝記と、個人が運営しているinfoseekのHPをソースとして比べるのは止めて下さい。--AKEK 2010年3月10日 (水) 22:20 (UTC)[返信]

コメント61.12.204.179(千葉県可変IP:ap.zero-isp.NET)氏が主張している、角川の日本史辞典に外国奉行の一覧表が載っているの「角川の日本史辞典」とはいったいどの書籍のことを指しているのか?--AKEK 2010年3月10日 (水) 22:31 (UTC)[返信]

小生儀も昨年十月公儀に召し出され外国奉行支配調役次席翻訳御用仰せ付けられ、高百俵下され勤の内五捨俵御足し高、御手当金捨五両下し置かれ候旨仰せ渡され、有り難き仕合せに存じ奉り候。私儀も実に存じ寄らざる御旗本には相成り有り難く存じ奉り候・・・・・

「御旗本」となって公事に当たり、薩英戦争事には外国奉行として外交文書を翻訳している。この後に及んでもまだ福沢が外交奉行では無いと主張する61.12.204.179氏は何かの荒らしでしょうか?--AKEK 2010年3月10日 (水) 22:48 (UTC)[返信]

  • あのね、旗本と言うのは幕臣の身分、外国奉行というのは、幕府の役職です。身分と役職は違います。

旗本が翻訳しているからといって、外国奉行自ら翻訳しているわけでは有りません。 あなたのソースに「外国奉行支配調役次席翻訳御用」とあるように福澤は外国奉行の支配下にある存在なんですよ。 それに御用というのは、この場合、専従と言う意味です。翻訳専門職員のことです。 外国奉行と言うのは組織のボスで 職務権限の大きいポストです。通すべき書類が山積していて翻訳作業などやる暇などありません。他の部署との折衝も多いです。 しかも荒らしだなんて(苦笑) おわかり頂けましたか。--61.12.204.179 2010年3月10日 (水) 23:06 (UTC)[返信]

    • 旗本の意味が身分で外国奉行が役職だということの違いは前提です。「支配調役」は「外国奉行の支配下」ということでは無く外国奉行の役職です。合原猪三郎や淵辺徳蔵と禄も同じであるということは上記でも既に述べました。外国奉行として翻訳活動に当たっていたのですよ。--AKEK 2010年3月10日 (水) 23:21 (UTC)[返信]

コメント> 御用というのは、この場合、専従と言う意味です。翻訳専門職員のことです。 > 外国奉行と言うのは組織のボスで 職務権限の大きいポストです。通すべき書類が山積していて翻訳作業などやる暇などありません。他の部署との折衝も多いです。

自己解釈と独自研究を重ねないで下さい。特に幕末に登用された栗本鋤雲にしてもそうだが、1年に一人といった大臣のようなポストではありません。無茶苦茶を言わないで下さい。--AKEK 2010年3月10日 (水)

23:26 (UTC)
  • あのさ私が言っているソースこれですよ。[9]

だから、支配調役から、昇進して外国奉行になったんですよ。 幕府の人事というのは 外国奉行支配定役⇒外国奉行支配調役⇒外国奉行支配組頭⇒外国奉行となるんですよ。 あなたの言われた人たちは外国奉行支配調役から昇進して外国奉行になったんですよ。 外国奉行と別物です。 お分かり頂けましたか。--61.12.204.179 2010年3月10日 (水) 23:50 (UTC)[返信]

    • 外国奉行に昇格という制度は無い。それぞれ役割が分かれていて「支配~」で配属されているため上下の判断は禄だけで頂点が「外国奉行」という役職の構造では無い。『日本史辞典 ISBN 404032000X』に書かれても無い事を適当に検索して言うのは止めて下さい。1886年の一年弱だけ選ばれた合原義直がどうやってその間で「支配調役」から2段階で出世したと説明するのか?支離滅裂ですよ。--AKEK 2010年3月11日 (木) 00:13 (UTC)[返信]
同書1290~1291ページに外国奉行の一覧が乗っています。福沢の名前は見当たりません。--rshiba 2010年3月11日 (木) 00:17 (UTC)[返信]
しかし現実には百五十俵の御目見以上の扱いを受けて外国奉行になっていますがね。--AKEK 2010年3月11日 (木) 00:30 (UTC)[返信]
  • あなた日本史辞典見たの。

福沢諭吉の名前は外国奉行の欄に載ってなかったんだよ。 それは認めなさいよ。 そんなの上の人間に認られれば、政治的なアクシデントで、役を更迭された人物が多いのも一因で、幕末期は異常に出世するんですよ。 幕末期の幕府の組織は。大鳥圭介なんて、部門は違うけど、その位の出世はしています。 合原義直は直接、外国奉行になったのではなく歩兵頭席目付に栄転してから、外国奉行になっています。 歩兵頭は、連隊長クラスのポストで高級武官です。  後、合原義直は在任期間は正確には3ヶ月弱です。 では何で役料がちがうのよ。 職責が大きいからでしょう。 支離滅裂で御免なさい。貴方ほどではないけれど。 貴方の意地っ張りぶりには敬意を表するよ。--61.12.204.179 2010年3月11日 (木) 01:06 (UTC)[返信]

報告 論点を整理しますね。

以上でよろしいでしょうか。--AKEK 2010年3月11日 (木) 02:17 (UTC)[返信]

  • あのね日本史辞典 ISBN 404032000Xの項には、高2000石と書いてあるんですよ、足高の制はご存知ですか?

五十俵の加増では到底足りません。 後、外国奉行の御手当金(役金)は200両です。[10]、慶応のHPとかナンチャラよりよほど明白です。一次資料そのものです。外国奉行の役についたら、15両ではなく、200両じゃないと辻褄あわないんですよ。 作家の誰が書いたより事実そのものだろうから。 これも偽書なの? 私のことを独自研究と言っているけど、到底、貴方にはかないませんよ。--61.12.204.179 2010年3月11日 (木) 02:46 (UTC)[返信]

  • 『国史大辞典 第三巻』(吉川弘文館、1982年)「外国奉行」の項目には、「高二千石、芙蓉間詰、席次を遠国奉行の上においた。外国奉行の支配向(属吏)に、支配組頭・支配調役・同心があった。外国奉行とその支配する役職をもって、「外国方」という部局が形成される。「外国方」のなかでもっとも重要なのは、「御書翰掛」で、調役・通弁方・翻訳方・書物方など、「外国方」のうちのすぐれた人物で組織される。対外往復の書翰や談判書類はみなこの掛で調査し、外国からの書翰を翻訳するほか交渉の趣旨や外国へ送る書翰案をも作成して上司へ提出するので、外交の機軸はこの掛に握られていたという。」とあります。明治時代の比喩で言えば、外務省の特命全権公使(日露戦争まで)や大使(日露戦争後)クラスと、外務省翻訳局所属の職員とを混同しています。--rshiba 2010年3月11日 (木) 02:59 (UTC)[返信]
  • rshibaさん有難う御座います。感謝--61.12.204.179 2010年3月11日 (木) 03:05 (UTC)[返信]
私からも少し。福沢諭吉本人の自叙伝である『福翁自伝』(こちらで全文読めます)を一通り見ましたが、幕府の外務省で翻訳の仕事をしていたということは書かれていますが、本人が外国奉行そのものに就任したなどという記述は一切見受けられません。自伝なのですからわざわざ事実に反して自分を卑下する必要は無く、逆に慶応3年のアメリカからの帰国後の記述には、外国奉行からの命令で謹慎させられたという記述もあります。つまりそれは、外国奉行の部下という立場であったということです。
引き合いにしている合原猪三郎についても、下田奉行支配調役並(50俵)→外国奉行支配調役(≠外国奉行、100俵)→神奈川奉行支配調役(150俵)→神奈川奉行支配組頭(150俵)→神奈川奉行並(1000石高、役料500俵)→長崎奉行並(1000石)→歩兵頭(2000石)→外国奉行(2000石)という昇進を経て奉行職に就いています。そして、「外国奉行支配調役次席翻訳御用」というのは、「外国奉行の下の調役付けの翻訳の職」であり、奉行そのものではありません(階級の順は外国奉行→外国奉行並→支配組頭→調役→調役並→翻訳方→定役元締→定役です)。福沢諭吉が「外国奉行支配調役次席翻訳御用」であったのは事実なので、慶応大学が間違っているわけではなく(「役」の字を間違えたり、元治元年の西暦表記を間違えてはいますけども)、AKEKさんが解釈を勘違いされているだけです。AKEKさんの勘違いを現在に置き換えると、「外務次官付けの通訳」の人を「外務大臣」と勘違いしているようなものです。
AKEKさんには、前にも別件で申し上げましたが、一般的な参考文献の類もご覧になってから編集してください。『国史大辞典 (昭和時代)』でも、福沢諭吉の伝記でもいいですから。個人サイトだから信用ならないとか言うのであれば、ご自分で図書館等に行き、本を調べて下さい。--松茸 2010年3月11日 (木) 04:40 (UTC) --松茸 2010年3月11日 (木) 04:44 (UTC)修正[返信]
  • 松茸さん 詳細な情報有難うございました。 嘘つき呼ばわりされていたので。 慶応の情報も基本的には間違いでは無いのですが、AKEK氏は解釈を勘違いされているだけと思っていたんです。私も勉強になりました。感謝致します。--61.12.204.179 2010年3月11日 (木) 05:28 (UTC)[返信]
  • ひとりよがりであれだけ私を非難したんだから、AKEKさんの見解(弁解)を聞きたいですね。--61.12.204.179 2010年3月11日 (木) 05:39 (UTC)[返信]
  • AKEKさん、福沢の外国奉行就任は元治元年(1864年)です。と断言したんだから、この場で又主張したら?

続徳川実記を読んだけれど、元治元年に福沢が外国奉行に補任された記録は無かったよ。まさか、続徳川実記を知らないなんて無しですよ。もしかしたら、貴方の言い分が正しいかもしれない。もし正しいと思うなら、この場で開陳してみたらどうですか。みんなはどう思うか判らないけれど。もしそうでないなら、私に言わなければならない事が有るよ。都合が悪くなったら、沈黙してないで、独自研究を開陳してよ。--61.12.204.179 2010年3月11日 (木) 08:08 (UTC)[返信]

  • AKEKさんの空中楼閣を見てみたいよ。私の言うことがまったくの虚言だってね。私もAKEKさんの大虚言に期待しているよ。自分で吐いた唾は飲んでもらいたいですね。--61.12.204.179 2010年3月11日 (木) 08:15 (UTC)[返信]

コメント 何やらまた一名が訳の分からない論を飛ばしているようですね。私の質問「2010年3月11日 (木) 02:17 (UTC)」にまったく答えていただいていないためもう一つ付け加えさせて戴きます。 『「北康利 『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』 講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0 P125』

元治元年1864年、10月、諭吉は外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕することとなった。今度は臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として、桂川甫周と同じように「殿様」と呼ばれる身分となった。

千葉さんは、福沢や勝海舟の伝記を読んだほうがいいですよ。そんな日本史辞典などには詳しくは載って無いですよ。勉強しなおして来てください。 渡航するための肩書き「外国方」と150禄の「外国奉行」就任をどうもゴチャゴチャにしておられるようなので。--AKEK 2010年3月16日 (火) 18:18 (UTC)[返信]

とりあえず、AKEKさんは『角川新版日本史辞典』(1996年、角川書店、ISBN 4-04-032000-X C0521)の1290頁から1292頁をご覧になるようお願いします。外国奉行の一覧(氏名、就任期間、就任前後の職等)がありますので。また、原典の『柳営補任』(大日本近世史料収録)、『続徳川実紀』(国史大系収録)も併せてご覧になってください。私としては、AKEKさんの方が勘違いして「外国奉行」と「外国奉行翻訳方」を同一視しているようにしか見えません。50票加増の「150俵」では奉行になれません(奉行になったのだとしたら、足高の制により2000石以上は足されるはずです)。「翻訳方」は、「外国奉行本人が翻訳の仕事も担当した」わけではありませんよ。内閣総理大臣秘書官が、「内閣総理大臣が秘書の仕事も担当する」ということではないのと同じです。「外国奉行翻訳方」は外国奉行の部下の翻訳の仕事のことです。--松茸 2010年3月16日 (火) 22:20 (UTC)[返信]
    • 同じ外国奉行「支配調役」の合原猪三郎や淵辺徳蔵は150俵で外国奉行ですよ。石高なら無役の旗本・勝海舟が幕臣となった時にはわずか40石、足高の制は幕末の幕府の人材登用制度には関係無い(岩瀬忠震に聘せられて軍艦奉行となった木村嘉毅も同じ)。とりあえず主張が{『角川新版日本史辞典』(1996年、角川書店、ISBN 4-04-032000-X C0521)}だけでは厳しいと思いますよ、外国奉行に勝手な想像で階級を付けてみた所で結局は独自研究の域を脱しないですからね。慶応大の公式HPにすら記載があるということでこれは動かないソースです。私もそれを、明日にでも読んでみようと思いますが、河野健二さんなどが書かれている「伝記」をよく読んでみてはいかがですかな。特に福沢ともなると伝記の方がより正確です。あと、「外国方翻訳局」と「外国奉行支配調役翻訳局」の2つが幕府の就任ですよ。中津藩に籍を置きながら外国方に出仕したのが1860年、外国奉行の就任が1864年です。「帰朝後幕府の翻訳方に雇われる。」「10月 幕府に召し抱えられて外国奉行翻訳方に出仕することになる。」[11]--AKEK 2010年3月16日 (火) 23:01 (UTC)[返信]
えーと…まあ、とりあえず石高だの職業の役名だのの問題は、ひとまず置いておきます(でも一応補足しておきますと、勝海舟の「40石」というのは、勝家代々の旗本としての家禄であり、勝家は小身ではありますが御目見が許されている家格でした。その後の昇進において、軍艦奉行の時点で2000石、陸軍奉行並で5000石に加増されています。また合原猪三郎にしても、外国奉行時は2000石です(いつからいつまで外国奉行だったかは、『柳営補任』を見て下さい。「外国奉行支配調役」となっていた時期と合致しないことが分かります。))
「伝記」を閲覧するのであれば、『柳営補任』『続徳川実紀』等の当時の記録類も同時に閲覧してください。何年のいつに誰がどの役職についたかが書いてありますが、「外国奉行」就任者に福沢諭吉の名はありません(ついでに、淵辺徳蔵も同様です)。もし、それが『柳営補任』や『続徳川実紀』の手落ちであるというのなら、「『柳営補任』や『続徳川実紀』に福沢諭吉が記されていないのは間違いであって、福沢は外国奉行だった」との分析を論じている、専門研究者による先行研究の提示をお願いします。『柳営補任』や『続徳川実紀』の記述を勝手に否定することは独自研究になりますから。
なお、付け加えておきますと、福沢諭吉当人は『福翁自伝』中で自分が外国奉行であったとは書いておらず、また「丁度その時に鎌本の妹の良人に江連加賀守という人があって、この人はもと幕府の外国奉行を勤めていて、私は外国方の翻訳方であったからよく知っている。」([12])と、「外国奉行」と「翻訳方」を区別して記述しています。それと参考までに、日本歴史学会編の『明治維新人名事典』(吉川弘文館、1999年第四版)に掲載されている他の外国奉行就任者全員にはしっかりと「外国奉行に就任した」との文章がありますが、福沢諭吉の項には「外国方翻訳局に出仕した」としか書かれていないことも挙げておきます。--松茸 2010年3月17日 (水) 13:12 (UTC)[返信]
      • 石高は土岐家の嫁を迎えたり中津藩江戸居留守役の岡見彦三に聘せられた時などで変動している。勝が「御目見が許されている家格」かどうかは関係無く、ただの無役の旗本です。それが幕末の幕府の人材登用制度。
      • 柳営補任』『続徳川実紀』等は見てみます。たぶん閲覧は月末くらいになると思います。
      • 「外国奉行」と「翻訳方」の区別は上記で書いている。『「北康利 『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』 講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0』からの引用(2010年3月16日 (火) 18:18 (UTC))。専門研究者の河野健二と北康利の意見はもちろん、『時事新報社主福澤諭吉』や『幕臣福沢諭吉』を参考にしたものであってこれらはすべて郷里の中津市の歴史資料書も調べた上で編集されてる。+慶応大の公式HPに両就任がきっちり載っていること。「帰朝後幕府の翻訳方に雇われる。」「10月 幕府に召し抱えられて外国奉行翻訳方に出仕することになる。」これは動かない。
      • それと、同じ禄高の合原猪三郎や淵辺徳蔵等をどう説明するかですな。特に合原などは支配調役の就任が3ヶ月でしかない。--AKEK 2010年3月17日 (水) 17:39 (UTC)[返信]

AKEK さんのカテゴリについての編集を元に戻しておきました。「大阪工業大学の荒らしの独自研究からrb。大学当局に連絡中。」と、[13]の編集で書いていますが、一体なにやっているのですか。わたくし自身の実名のブログで、ウィキペディアの編集をしていると述べている[14]ことから、実名をハンドルとしてここに来ていることは調べればわかるはずです。わたくしは、大阪工業大学の歴史学担当の教員ですが、それがどうかしたのですか?--rshiba 2010年3月17日 (水) 15:51 (UTC)[返信]

あなたがインターネット上のフリー百科事典で恫喝しているから直接大学に対処をお願いするまでのことです。ブログだか歴史担当教員だかは尋ねていません。--AKEK 2010年3月17日 (水) 17:39 (UTC)[返信]
「恫喝」とは具体的にどの発言のどの部分なのか、ご説明ください。--rshiba 2010年3月17日 (水) 17:48 (UTC)[返信]
また、坂本龍馬でやっているカテゴリの編集[15]と、福澤諭吉でやっている編集[16]が、Wikipedia:カテゴリの方針#上位カテゴリとの関係について逆になっていますが、どうしてですか?
例えばこれなどです。アジア歴史資料センターで検索すると、渡辺千秋が「渡邉」と署名している公文書が出てくるのですが、なぜ「渡邊」で項目を立てたのでしょうか。ともかく重箱の隅をつついたようないやらしい恫喝は今後謹んで下さいね。最後通告です。これ以後、私に何か質問したいことがあれば私のノートでやって下さいね。--AKEK 2010年3月17日 (水) 18:06 (UTC)[返信]
「いやらしい」かどうかはAKEKさんの主観です。検証可能な事実の指摘をしただけです。--rshiba 2010年3月17日 (水) 18:13 (UTC)[返信]
言葉返しをしないで下さい。そんなものはこれ以後まだ私に対してフリー百科事典上で恫喝が続けられ、事態が進行すればすぐに分かる事です。--AKEK 2010年3月17日 (水) 18:25 (UTC)[返信]
検証する過程で何を言ったのかは覚えていますが、誰に対してその言葉を言ったのかは記憶していません。渡邊千冬を立項したのがAKEKさんであるのは、今回の対話で初めて気づきました。また、この数日の福沢諭吉での経緯と同じ方だとは気づいていませんでした。相手がだれであろうと、内容的に違う場合は、穏やかにしかしきっぱりと「違う」と言うだけです。ここはそういうルールの世界ですから。--rshiba 2010年3月17日 (水) 18:38 (UTC)[返信]
        • あなたのルール解釈も編集スタンスもよく分かりました。私(わたくし)企業のフリー百科事典で主張ばっかりしても仕方が無いでしょう。無駄だと思ったからあなたの所属先に直接対応を申し込むまでのことです。--AKEK 2010年3月17日 (水) 18:49 (UTC)[返信]
「カテゴリの編集で坂本龍馬[17]と、福澤諭吉[18]が、Wikipedia:カテゴリの方針#上位カテゴリとの関係について逆になっていますが、どうしてですか?」について、お答えいただけていません。ご返答をお待ちします。--rshiba 2010年3月18日 (木) 00:39 (UTC)[返信]

ざっと議論を拝見しました。議論の一部に煽りめいたコメントがあり、AKEKさんはご立腹されたのかもしれません。しかしAKEKさんは一旦時間を置いてから今までの議論を改めて見直されたほうがよいのではないでしょうか。あと、議論相手の方の勤務先に通報、とおっしゃっていますが、そういうことの必要性を判断して行うのはwikipedia管理者の役割でしょう。繰り返しますが一旦期間を置いてお気持ちを静められることをおすすめします。--ポコポコ 2010年3月18日 (木) 11:32 (UTC)[返信]

AKEKさんはブロックユーザーの多重アカウントとしてブロックされました。[19]--ポコポコ 2010年3月18日 (木) 23:27 (UTC)[返信]
  • 皆様誠に申し訳御座いません。福澤諭吉の件で、慶応義塾から私宛に返信があったのですが、後ほど許可が有り次第公開したいと思います。平にご容赦下さい。 皆様宜しくお願いいたします。--二階ぞめき 2010年3月19日 (金) 14:06 (UTC)[返信]
この議論の発端であるAKEK氏がブロックされたこと、また「福澤諭吉が外国奉行の一覧に記されていない」ことを覆すような論拠が提示されておらず、AKEK氏が伝記・HPの記述を誤読(独自解釈)したと思われることから、そろそろこの議論は終結ということでいいのではないでしょうか。結局、福澤諭吉は「外国奉行翻訳方」であっても、「外国奉行」ではないということです(そもそも、『柳営補任』に載っていないことと、『国史大辞典』の外国奉行の項目の記述により、AKEK氏の主張は成り立っていないのですが)。--松茸 2010年3月19日 (金) 14:46 (UTC)[返信]

報告 利用者:AKEK会話 / 投稿記録 / 記録さんは、利用者:Ajax009会話 / 投稿記録 / 記録さんの偽装を企図したソックパペットと推測されたため、無期限ブロックされています。--Nnkrkrhhdi 2010年3月21日 (日) 23:05 (UTC)[返信]

  • 福澤諭吉の件で、慶応義塾から私宛に返信があり、この度、掲載の許可が降りましたので、慶応義塾広報室に対しての私からの問合せの回答を私宛の宛名を除き、原文のまま掲載したいと思います。

お世話になっております。慶應義塾広報室です。 お尋ねの件につき回答いたします。

「外国奉行翻訳方」は現代風にいえば「外務省翻訳官」といったところで、 あくまでも外国奉行の配下にあって翻訳業務に従事する一官吏です。 従って、慶應義塾HPにおける「外国奉行翻訳方に出仕」との記述は 「外国奉行」への就任を意味しません。

今回のご連絡を受け、記述を再度検討させて頂きましたが、 現在の表記が誤解を受けやすい表現とは言い難く、 注釈を加えることは見合わせたいと考えております。 よろしくご理解ください。

以上、簡単ではございますが回答とさせて頂きます。

慶應義塾 広報室 

慶應義塾 広報室 担当者様には、厚く御礼申し上げます。--二階ぞめき 2010年4月1日 (木) 11:25 (UTC)[返信]

脱亜論について

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2010-03-11 15:29:13の版「朝鮮独立運動支援」のセクションには

「3月16日、福沢は『時事新報』に『脱亜論』を発表する。内容は、<人民の生命も財産も独立国民の誇りも守ってやれないような国は、むしろ滅びてしまった方が人民のためだ。>という過激なものだった。」

とあります。しかし、社説『脱亜論』にはそのような記載はありません。一方、社説『朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す』には似たような記載があります。ですので、社説『脱亜論』と社説『朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す』とを混同して記載されているように思います。ちなみに、社説『s:脱亜論』と社説『s:朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す』は全文がウィキソースに収録されていますので、内容を確認できます。--敷島健一 2010年3月12日 (金) 14:43 (UTC)[返信]

報告 利用者:AKEK会話 / 投稿記録 / 記録さんは、利用者:Ajax009会話 / 投稿記録 / 記録さんの偽装を企図したソックパペットと推測されたため、無期限ブロックされています。--Nnkrkrhhdi 2010年3月21日 (日) 23:05 (UTC)[返信]

カテゴリ「経済」を外す提案

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Category:経済は、経済に関する事項のカテゴリです。その下位にあるCategory:経済に関する人物ならばまだしも、Category:経済は人物項目福澤諭吉に貼付するのはふさわしくありません。この提案に対して賛否を問います。--rshiba 2010年3月18日 (木) 03:55 (UTC)[返信]

仏教訳語の「経世済民」の考案者なので大鳥圭介にCategory:印刷があるのと同じです。--AKEK 2010年3月18日 (木) 10:47 (UTC)[返信]
Category:印刷Category:印刷史には、Category:印刷に関する人物Category:印刷史に関する人物がありません。一方、Category:経済にはCategory:経済に関する人物があります。カテゴリ体系を観察すると、事物に関するカテゴリに人名が入っている場合と、事物と事物に関する人名カテゴリが分離している場合とがあります。AKEKさんはこの区別を見分けることが出来ていない。そういうことでしょう。--rshiba 2010年3月18日 (木) 11:28 (UTC)[返信]

(余談)ブロックされたAKEKさんが、Category:経世論の人物を貼っていたらもう少し議論がややこしく微妙になっていたでしょう。福澤は経世論の延長上にいる人物でしょうけど、そのものではないからCategory:経世論の人物を貼るのも違うと思う。--rshiba 2010年3月21日 (日) 11:41 (UTC)[返信]

コメント福沢の談話(?)には経世論とも取れるようなものがあるけど、代表的な著作は無いですよね?確かにそのものではないと思いました。--125.200.193.162 2010年5月18日 (火) 16:44 (UTC)[返信]

報告 利用者:AKEK会話 / 投稿記録 / 記録さんは、利用者:Ajax009会話 / 投稿記録 / 記録さんの偽装を企図したソックパペットと推測されたため、無期限ブロックされています。--Nnkrkrhhdi 2010年3月21日 (日) 23:05 (UTC)[返信]

カテゴリ「明治時代の人物」を外す提案

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Category:明治時代の人物の直下のカテゴリ、Category:東京学士会院の人物Category:東京地学協会の人物Category:明六社の人物が貼ってありますので、Wikipedia:カテゴリの方針#上位カテゴリとの関係により、Category:明治時代の人物を外すことを提案します。この提案に対して賛否を問います。--rshiba 2010年3月18日 (木) 06:07 (UTC)[返信]

報告 利用者:AKEK会話 / 投稿記録 / 記録さんは、利用者:Ajax009会話 / 投稿記録 / 記録さんの偽装を企図したソックパペットと推測されたため、無期限ブロックされています。--Nnkrkrhhdi 2010年3月21日 (日) 23:05 (UTC)[返信]

カテゴリ「幕末の人物」を外す提案

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Category:幕末の人物の直下のカテゴリ、Category:適塾の人物が貼ってありますので、Wikipedia:カテゴリの方針#上位カテゴリとの関係により、Category:幕末の人物を外すことを提案します。この提案に対して賛否を問います。なおCatScanを用いて検索する場合には、階層の深さを「2」以上にすれば「幕末の人物」として検索可能ですので、実用上問題はありません。--rshiba 2010年3月18日 (木) 06:12 (UTC)[返信]

報告 利用者:AKEK会話 / 投稿記録 / 記録さんは、利用者:Ajax009会話 / 投稿記録 / 記録さんの偽装を企図したソックパペットと推測されたため、無期限ブロックされています。--Nnkrkrhhdi 2010年3月21日 (日) 23:05 (UTC)[返信]

カテゴリ「漢学者」を外す提案

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福澤に漢学の素養があったことは事実であっても、漢学を以て世に立とうとはしていません。居合の達人であっても剣を以て世に立とうとしていないために、Category:剣客が貼ってないのと同様です。Category:漢学者を外すことについて賛否を問います。--rshiba 2010年3月18日 (木) 06:17 (UTC)[返信]

報告 利用者:AKEK会話 / 投稿記録 / 記録さんは、利用者:Ajax009会話 / 投稿記録 / 記録さんの偽装を企図したソックパペットと推測されたため、無期限ブロックされています。--Nnkrkrhhdi 2010年3月21日 (日) 23:05 (UTC)[返信]

カテゴリ「儒学者」を外す提案

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[20]で、カテゴリ「日本の儒学者」が貼付されたようです。福澤が儒学者であるとの論拠不明です。Category:日本の儒学者を外すことについて賛否を問います。--rshiba 2010年3月18日 (木) 10:50 (UTC)[返信]

報告 利用者:AKEK会話 / 投稿記録 / 記録さんは、利用者:Ajax009会話 / 投稿記録 / 記録さんの偽装を企図したソックパペットと推測されたため、無期限ブロックされています。--Nnkrkrhhdi 2010年3月21日 (日) 23:05 (UTC)[返信]

カテゴリ「航海者」ついて

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カテゴリ「日本の科学者」について

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もう一つ上位カテゴリのCategory:日本の学者ならばありえますけど、「日本の科学者」は違うと思う。--rshiba 2010年3月19日 (金) 10:11 (UTC)[返信]
慶応大阪リバーサイドキャンパスによると、「現在で言えば」著作の中に人文科学、社会科学、自然科学に類するものがあったそうですが、だからといって「科学者」に入れていいかどうかはやや疑問です。--松茸 2010年3月19日 (金) 14:46 (UTC) 署名補填--松茸 2010年3月21日 (日) 08:17 (UTC)[返信]
自然科学に関する著作では『訓蒙窮理図解』がありますが、これは通俗科学解説書なので、これをもって「日本の科学者」にカテゴライズできないと思います。--敷島健一 2010年3月21日 (日) 06:51 (UTC)[返信]

『西洋事情』の大政奉還への影響について

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福澤諭吉#渡欧(幕臣時代)

『西洋事情』は、幕府の軍艦副艦長・[[古川節蔵]]の手から[[木村芥舟|木村摂津守]]に渡り、最終的にこの書を読んだ[[徳川慶喜]]は[[大政奉還]]を決断したといわれる<ref>[http://www.kgc.keio.ac.jp/yukichi.html 西洋事情]</ref>。

と記載があります。このリンク先を見てみると「事実、徳川15代将軍慶喜は、この書を読んで大政奉還を決断したといわれている。」と書いてあるだけで出典が明示されていません。これでは検証可能性が満たされているとは言えないと思います。この記載の削除を提案いたします。--敷島健一 2010年3月21日 (日) 06:51 (UTC)[返信]


提案に賛成です--二階ぞめき 2010年3月24日 (水) 11:42 (UTC)[返信]

ご賛同ありがとうございます。該当箇所を削除しました。--敷島健一 2010年4月1日 (木) 15:27 (UTC)[返信]

半保護いたしました。

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LTA:AJAXのブロック破りによる編集が続くため、やむを得ずノートを半保護いたしました。--海獺 2010年3月22日 (月) 13:45 (UTC)[返信]

カテゴリ「日本の軍学者」を外す提案

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賛成 --rshiba 2010年4月27日 (火) 13:07 (UTC)[返信]

賛成 --ご賛同有難うございます。提案者の賛成票です。--二階ぞめき 2010年4月27日 (火) 13:24 (UTC)[返信]

反対 --「洋兵明鑑」は当時かなり売れており、さらに「兵論」をはじめとした軍事関連著書が多いため。--61.89.162.88 2010年4月30日 (金) 19:28 (UTC)[返信]

LTA:AJAXさん。『洋兵明鑑』は翻訳書なのでCategory:日本の啓蒙思想家に該当。『兵論』の如き軍備政策論の著者に「日本の軍学者」を貼るとすれば、当時のほとんどの言論人が「日本の軍学者」ということになる。博文館の隔週刊『富国』1号(明治23年1月1日)に「帝国海軍振起論」を書いた大蔵官僚添田寿一まで軍学者だとなってしまう。--rshiba 2010年4月30日 (金) 22:42 (UTC)[返信]
1880年代から1890年代初頭に軍備のあり方についての論争があり、加わった論者の背景は様々です。1888年中に雑誌『国民之友』に「日本の国防を論ず」を連載し、翌年1月に『日本国防論』として民友社より上梓した徳富蘇峰をも「軍学者」と呼ぶ人はいないでしょう。福沢の立ち位置は蘇峰と同様です。--rshiba 2010年5月8日 (土) 21:50 (UTC)[返信]
『国防論』の如き軍備拡張論と実際の戦闘の方法を記した、『兵士懐中便覧』や『雷銃操法』とでは次元が違うのでは?ましてや思想家として徳富と同位置とする評価も間違っている。--210.227.121.34 2010年5月8日 (土) 21:56 (UTC)[返信]
国会開設準備期の論点が『兵論』の冒頭にきれいに出ています。「海陸軍備」「費用」「租税」すなわち、防衛費・財源・国民負担の相互関係についてです。これらの関係をめぐって多くの論者が登場したのであって、『兵論』も元来は時事新報の社説です。軍事の世界の外部者として、国民経済や国家経営全体の点から軍事を論じたという点では、福沢と蘇峰の立ち位置は同様でしょう。蘇峰は福沢を意識したため、かなり無理な論陣を張ったとは思いますが。なお、民友社刊『日本国防論』は軍備拡張論ではなく、その逆で、陸軍中心の軍備で軍備支出を最小限に抑えるとの論旨です。--rshiba 2010年5月8日 (土) 22:27 (UTC)[返信]
福沢が時事新報で記した『兵論』やその他などは柴崎氏の解釈で間違いないよ。それ以前の『兵士懐中便覧』や『雷銃操法』等の著作や上総国姉ヶ崎中津藩の西洋式大砲二門についてのこと。蘇峰は福沢を意識したか知らんが福沢が蘇峰を意識したとされる事は無いよ。--210.227.121.34 2010年5月8日 (土) 22:36 (UTC)[返信]
『雷銃操法』『兵士懐中便覧』はともに幕末期の翻訳で、慶應義塾編纂『福澤諭吉全集 第二巻』(岩波書店、1959年)に収録されており、巻末の富田正文さんの解説によると、前者は公刊したもの、後者は仙台藩の依頼により翻訳し仙台藩が藩内限りの私家版として刊行したものと推定されています。これらが福沢の著作ならば、福沢は「軍学者」でしょうが、翻訳ですので「英学者」としての仕事と理解すべきでしょう。「上総国姉ヶ崎中津藩の西洋式大砲二門」は、福沢が江戸に出てくる前の話で時代が異なります。--rshiba 2010年5月9日 (日) 04:09 (UTC)[返信]
確かに徳富はかなり福沢からの影響を受けていたようですね。『雷銃操法』や『兵士懐中便覧』も翻訳書ということは福沢は軍学者ではなく軍事学者ということになるのだろうか?--125.200.193.162 2010年5月18日 (火) 16:42 (UTC)[返信]
『全集』『選集』巻末の解説、『全集』の別刷月報、論文、研究書などで福沢について「軍学者」「軍事学者」「軍事評論家」としている文献があれば、それに対応するカテゴリを貼ることができます。評価についてここで議論して決めるのではなくて、検証可能な評価を記した文献を探すのがなすべきことでしょう。--rshiba 2010年5月20日 (木) 06:14 (UTC)[返信]

カテゴリ「中津市」を外す提案

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賛成 -- 賛成です。 ところで反対者は、Category:香取市伊能忠敬が入っていることを根拠にするんですかね?(このカテコライズも違うと思いますが。)--二階ぞめき 2010年4月27日 (火) 13:30 (UTC)[返信]

カテゴリ「日本の教育者」を外す提案

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Category:慶應義塾の教員 Category:慶應義塾大学の教員の上位にCategory:日本の教育者が位置するので、Wikipedia:カテゴリの方針#上位カテゴリとの関係により、Category:日本の教育者は不要ではないかと考えます。--rshiba 2010年4月27日 (火) 13:14 (UTC)[返信]

賛成 --提案に賛成です。「女の婦人に笑われた」の様なカテゴライズなので。--二階ぞめき 2010年4月27日 (火) 13:33 (UTC)[返信]


杉亨二・松木弘安の出講時期

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経歴/江戸に出るの項の二段落目冒頭につぎのような文章があります。文章の前後関係から、1858年(安政5年)に福沢が江戸に出たあと、福沢が教えていた時期の中津藩蘭学塾慶應義塾の起源、前身)のことに読めます。

  • 最初、適塾の先輩杉亨二に月二両の手当てで出講してもらっていたが、杉が辞めた後は薩摩藩出身の蘭学者・松木弘安(後の寺島宗則)に来て貰っていたが蕃書調所設置と同時に教授手伝となり手が空かなくなった。

ところが、北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』(講談社、2007年)62~63頁に、福沢が江戸に出てくる以前の中津藩蘭学塾のこととして、つぎのような文章があることに気づきました。

最初、適塾における諭吉の先輩にあたる杉亨二(統計学の先覚者)に月二両の手当で出講してもらっていたが、ちょっとしたトラブルで杉が辞めた後は、薩摩藩出身の蘭学者・松木弘安(後の寺島宗則外務卿)に来てもらっていた。ところがその松木も蕃書調所設置と同時に教授手伝(今でいう助教授)に抜擢され手が空かなくなってしまう。

後任を誰にするか困っていた時、福沢という中津藩士が適塾で塾頭をしているらしい、という噂が耳に入ってきた。

  1. 事実関係の前後の間違いをどのように訂正するのか。
  2. 著作権の点から文章が似て居すぎるのをどうするのか。

皆さんのご意見を伺いたいです。--rshiba 2010年5月8日 (土) 12:29 (UTC)[返信]

これはAKEKさんによる編集[22]でした。--rshiba 2010年5月8日 (土) 15:39 (UTC)[返信]

どなたもご意見を表明しないようなので、わたくしの考えを書きます。蕃書調所が開校したのは、安政4年(1857年)1月18日。同年4月1日、寺島は島津斉彬に従い鹿児島に下った(犬塚孝明『寺島宗則』(吉川弘文館、1990年、38~41頁)。福沢が江戸に到着したのは、安政5年(1858年)10月中旬(平山洋『諭吉の流儀』PHP研究所、2009年、74頁)。この間、蘭学教師がいないまま、1年半が経過している(平山71頁)。現在の本文の記述が時間的な前後関係を間違えているのは明白で、また、
  • 最初、適塾の先輩杉亨二に月二両の手当てで出講してもらっていたが、杉が辞めた後は薩摩藩出身の蘭学者・松木弘安(後の寺島宗則)に来て貰っていたが蕃書調所設置と同時に教授手伝となり手が空かなくなった。
という文章を取り除いても、前後の文脈はつながるので、この部分を外すことを提案します。--rshiba 2010年5月11日 (火) 05:23 (UTC)[返信]

賛成 --文章が似過ぎているので、提案に賛成です。編集[23]AKEKさんは大量に文章を追加していますが、他の追加部分についても著作権侵害の可能性があるので、当該追加部分を全部チェックする必要があると思います。もしそのような時間がない場合は、当該追加部分を一旦元に戻しても良いのではないかと思います。--敷島健一 2010年5月12日 (水) 15:53 (UTC)[返信]

そろそろ1週間が経過しますので、この編集を実行します。--rshiba 2010年5月18日 (火) 05:17 (UTC)[返信]