ノート:物理的領域の因果的閉包性
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項目名について
[編集]現在、項目名は「物理的閉鎖性」となっています。私はこの場合の"closure"の訳語としては、「閉包性」というのをよく見、「閉鎖性」というのは見たことがないように思うのですが、いかがでしょうか? もっとも、「閉包性」というのは数学用語にひっぱられた訳しかたで、意味合いとしては「閉鎖性」のほうが相応しいのかもしれません。また、ジェグォン・キムの邦訳(実家におきっぱなし…)で「閉鎖性」となっているのならば、それを尊重することに異議ありません。--Mizusumashi 2008年2月11日 (月) 04:47 (UTC)
- ご指摘ありがとうございます。適当に聞こえるかもしれませんが、私はどちらでもいいと思います。随分前の記述で少し記憶が曖昧ですが、とりあえず私が記述の際に参考した範囲では閉鎖性も閉包性も両方あったという記憶があります。そしてどちらが主流とも言えない様な状況だったと思ったので、「それならば英語を付けといた上で、閉鎖だけ書いとけば分りやすいか」と考え、閉鎖だけにしたように思います。まずい事にちょっと今部屋を整理してて、「シリーズ 心の哲学Ⅲ」が見つからないのですが(汗)、とりあえず手に入る範囲でまとめて見ます。
- 物理的領域の因果的閉包の原理 - 「シリーズ 心の哲学Ⅰ 人間編」 第一章 心的因果と物理主義 美濃正著 p.43
- 現代のジャーゴンでは「物理的世界は因果的に閉じている」と言われる - ジョン・サール「MiND 心の哲学」山本貴光・吉川浩満訳 p.50
- すいません、続きはまた後日。--Was a bee 2008年2月16日 (土) 11:16 (UTC)
- ご回答ありがとうございます。Was a beeさんが書籍を調べられ、検討された上で「閉鎖性」に決定されたのでしたら、問題ないと思います。--Mizusumashi 2008年2月17日 (日) 11:55 (UTC)
- だいぶ間が開きましてすいません。今あちこちひっくり返してやっと「シリーズ 心の哲学Ⅲ」を発見しました。事項索引は次のようになっていました。
- 物理的因果の閉包性(閉鎖性) 2, 28, 40, 43-4 (信原幸弘 編「シリーズ 心の哲学Ⅲ」 )
- つまり閉包性を優先させる形で両表現併記になっています。キムの翻訳を担当した金杉武司氏は一貫して「閉包」、たとえば「閉包的性格(closed character)」p.28 といった表現を使っています。これに対し編者の信原幸弘氏が当書籍の2ページ目(序論)で、「因果的閉鎖性」という表現を用いています(私が記事を立てたときは、信原氏のこの表現に倣ったものでした。編者が冒頭でカギ括弧付きで用いてたので、どうやらこれが正式名称か、と勝手に判断したものです^^;)--Was a bee 2008年3月1日 (土) 10:54 (UTC)
- だいぶ間が開きましてすいません。今あちこちひっくり返してやっと「シリーズ 心の哲学Ⅲ」を発見しました。事項索引は次のようになっていました。
- 急かしてしまったようで、申し訳ありません。お手数をおかけいただいて、ありがとうございます。少なくとも『シリーズ 心の哲学Ⅲ』だけでは決定的にはどちらとも言いがたい、という感じでしょうか。
- 私は、結局はWas a beeさんの判断にお任せするつもりで、どちらになっても支持いたします。また、Was a beeさんがもう少し考えてみたいということでしたら、お待ちいたします。
- ただ、下の節で申し上げたことですが、もし何ヶ月も以上も保留ということになるならば(そうなったとしても、それ自体は問題ないと思いますが)、リダイレクトをひとますは作成しておくべきかなと思います。
- 本当に急がせるつもりはないのですが、いちおう見込みとして、近いうちに結論をお出しになれそうか、やはりしばらくは保留にされたいのか(その場合リダイレクトは作成するのかどうか)、ひとまず決断されるか、お考えをお聞かせ願えれば幸いです。--Mizusumashi 2008年3月1日 (土) 11:46 (UTC)
- (追記)よく考えると、もし金杉武司氏が「因果的閉包性」という表現をされているわけではないのでしたら、「因果的閉包性」という候補は考慮の余地があるということになりますね(あやふやな記憶では「物理領域の因果的閉包性」という表現をされていたように思いますが・・・)。
- いずれにせよ、調査の労をとってくださったWas a beeさんのご判断にお任せしたいとは考えています。--Mizusumashi 2008年3月1日 (土) 16:38 (UTC)
(インデント戻し)リダイレクト作成賛成です。申し送れましたがHelp:ページの移動#5.3 リダイレクトへの移動にあるように、履歴がひとつだけのリダイレクトなら、削除依頼せずとも後で記事をそちらに移動できます(本記事とリダイレクトの入れ替えっこが、できます)。ですので名前に揺れのあるものはとりあえずダーッとリダイレクトを作って、落ち着いてから移動先を選定すればいいでしょう。--Was a bee 2008年3月2日 (日) 10:49 (UTC)
- ご返答ありがとうございます。リダイレクトとして、因果的閉包性を作成いたしました。--Mizusumashi 2008年3月2日 (日) 13:16 (UTC)
- リダイレクト作成ありがとうございます。Mizusumashiさんはお忙しくウィキブレーク中のようですが、これはこれで私がのんびりやっていきますので、気にせずゆっくるご休養ください^^。さて用例追加です。
- 物理的領域の因果的閉包性(物理的閉包性) - 柴田正良著 「物理主義と心的因果の問題を理解するために」『思想』 No.982(2003年2月号)pp.4-15 岩波書店
- 青山拓夫 だが因果の物理的閉鎖性を厳密に支持するなら…(「客観的現在と心身相関の同時性」 『科学基礎論研究』No. 104、Vol. 33、no. 1、2005年)
- リダイレクト作成ありがとうございます。Mizusumashiさんはお忙しくウィキブレーク中のようですが、これはこれで私がのんびりやっていきますので、気にせずゆっくるご休養ください^^。さて用例追加です。
やはりといいますか、何といいますか、何ともバラバラな感じです。とりあえずここまでをまとめますと次の通りです。
- 美濃正 (「シリーズ 心の哲学Ⅰ 人間編」 第一章 心的因果と物理主義 美濃正著 p.43)
- 物理的領域の因果的閉包の原理
- 柴田正良 (「物理主義と心的因果の問題を理解するために」『思想』 No.982(2003年2月号)pp.4-15 岩波書店、他)
- 物理的領域の因果的閉包性(物理的閉包性)
- 金杉武司(信原幸弘 編「シリーズ 心の哲学Ⅲ」p.28)
- 閉包的性格(closed character)
- 信原幸弘 (信原幸弘 編「シリーズ 心の哲学Ⅲ」p.2)
- 因果的閉鎖性
- 青山拓夫 (「客観的現在と心身相関の同時性」 『科学基礎論研究』No. 104、Vol. 33、no. 1、2005年)
- だが因果の物理的閉鎖性を厳密に支持するなら…
- 現代のジャーゴンでは「物理的世界は因果的に閉じている」と言われる
とはいえこれほどバラバラながらも、主要な論者(美濃、柴田、金杉)の間ではご指摘のとおり「閉包」という単語部分は広く共通して使われていることが分りました。ちょっと収穫です。--Was a bee 2008年3月10日 (月) 07:27 (UTC)
だいぶ間が開きましたが、キムの邦訳をやっと手に入れました。Mizusumashiさんの言われるように、「閉包性」が使われています。
- ジェグォン・キム 著 太田雅子 訳 『物理世界の中の心‐心身問題と心的因果』p.110
- 物理的領域の因果的閉包性
以上、非常に長くなりましたが、これで調べがついてスッキリしました。自信を持って「閉包性」へ変更できます。Mizusumashiさんのアドバイスに助けられました。感謝です。--Was a bee 2008年5月29日 (木) 04:54 (UTC)
経験則?
[編集]現在、「物理領域の因果的閉鎖性(…)とは、…経験則。」となっていますが、やや疑問に思います。経験則といえば、それはそうなのかなとも思いますが、もう少しニュートラルに「理論」とか「仮説」とかのほうがしっくりこないでしょうか? ちなみに、英語版は"Causal closure is a metaphysical theory about..."となっています。--Mizusumashi 2008年2月11日 (月) 04:47 (UTC)
- 手厳しいところを。分りやすさと適切さの間で、私もこの表現は随分悩んだのですが、経験的な原理、というのが一番いいでしょうか。物理学の理論全てに共通する一般的な特徴というのが実際の意味でしょうが、それは仮説や理論というほどの何かではないですし、また対立候補があるような立場や主張といったものともまた違います。「形而上学的な理論」というのも何か、間違った・無内容な、といった感じがします(私だけかもしれない)。--Was a bee 2008年2月16日 (土) 11:16 (UTC)
- ええと、私はたんなる哲学ミーハーなんで、あまり深刻に受け取らないでください(^^;
- 個人的には(ほんと哲学ミーハーの個人的な感想としては)、私は「経験則」よりは「経験的な原理」のほうがいくらか良いように感じます。--Mizusumashi 2008年2月17日 (日) 11:55 (UTC)
Mizusumashiさんの指摘が適切。 「経験則」などとしているのは、Was a beeの独自の研究。結局、Was a beeがこの、根拠の無い怪しげな仮説を真にうけて、すっかり信じ込んでしまっているから(狂信状態だから)、ついそう書きたくなってしまうということ。Wikipediaの中立性の原則からも、そういう狂信的な記述は排除したほうがいい。もっと中立的に、『○○は「経験則なのだ!」と主張している』と書くのならよいが。--Fedore 2010年2月16日 (火) 16:12 (UTC)
因果的閉包性からのリダイレクト
[編集]本項目の項目名が「因果的閉鎖性」のままであるなら「因果的閉包性」からのリダイレクトを作る、「因果的閉包性」に変更するなら「因果的閉鎖性」からリダイレクトをする(項目の移動をすると自動的に作られます)ということを行ったほうが良いかと思います。
上の節でも申し上げたとおり私個人は「因果的閉包性」のほうがなじみがあるのですが、強いこだわりがあるわけでもなく、「因果的閉鎖性」の用例も確かにあり、Was a beeさんがご検討されたうえで「因果的閉鎖性」に決定されたわけですから、「因果的閉鎖性」で問題ないと考えています。
したがって、本項目の項目名が「因果的閉鎖性」のままであることを前提に「因果的閉包性」からのリダイレクトを作成しようと考えたのですが、もしそれを実行すると、のちにやはり項目名を「因果的閉包性」とし「因果的閉鎖性」はリダイレクトにしようということになると少しだけ余計な作業が発生します(具体的には、「因果的閉包性」をいったん即時削除してもらい、本項目をそこに移動するということになるでしょう)。
そこで、いちおう「因果的閉包性」から本項目へのリダイレクトを作成すべきかどうか、ご意見をいただきたいと思います。皆様、どのようにお考えになるでしょうか。--Mizusumashi 2008年2月29日 (金) 21:41 (UTC)
- #項目名についてで話が進展するまで、しばらくペンディング。--Mizusumashi 2008年3月1日 (土) 16:38 (UTC)
- #項目名についてで進展したので。リダイレクトとして、因果的閉包性を作成いたしました。--Mizusumashi 2008年3月2日 (日) 13:16 (UTC)
図の出典を示せないなら、図は削除せざるを得ない
[編集]学問上、どのような図式(スキーマ)で世界を把握するかということ自体が、しばしば非常に大きな課題・問題・テーマとなっていて、学者によって図式自体が異なります。異なった図式は、まったく異なった理論展開や結論を生み出すものです。ですので、どのような図式を用いるか、ということ自体が大問題なのです。誰が、どのタイプの図式を採用して説明し、どのタイプの図式は決して採用しなかったか、ということは大問題なのです。
Wikipediaではルールとして、表や図にも当然、出典が必要です。
例えば、宇宙の様子をどのようにとらえるか、という時に、誰かが右の図を掲載したとします。
この図を掲載すれば、本文に言葉で記述していなくても、あたかも宇宙がこうであるかのような固定観念を提示している、ということになります。 図が提示されれば、知らず知らずに人間の思考はその影響を受け、暗示にかかり、ある筋書きで論理展開してゆく。
ですので、そのあたりも踏まえて、中立性を重視するWikipediaでは、表や図も、出典を示さなければならないようにルール設定してあるわけです。
例えば、右の図を掲載するとしたら、何世紀の誰の何という本に掲載されていたのか、ということをはっきり明示しなければなりません。 右の図ですと、「ペトルス・アピアヌス( en:Peter Apian)によって描かれた「Cosmographia」 。古代から中世にかけてのコスモロジー。(アントワープ、1539年)」と、出典を示すことになります。
このように出典を示せば、「ははあ、1539年のペトルス・アピアヌスなどのヨーロッパ人は、宇宙というのはこういうものだと考えていたのか。不思議な思考形態だなぁ」と、Wikipediaの中立性の原則によって、読み手は、中立的に、つまり他人の思考様式に距離を置いて、理解できるようになるわけです。
さて因果性の問題に戻りますと、因果性をどのようにとらえるか、ということは古来から問題となっていて、決して単純な問題ではありません。 そもそも、因果性を簡単な図で表現できるのか?
「○○科学者協会が認定した因果関係を示すための標準図式法」などというものが存在するわけではありません。そして、一般に、科学者はここに掲載されているような、玉と矢印、という形では表現していません。
この記事に貼り付けてある図は、そもそも出所が非常に怪しげなものだと判断されます。
いいですか?この「宇宙で起きている出来事の因果関係は、単純な円形 ○ と 矢印 ↑の組み合わせで表現できるのだ」などと、どこの科学者が判断したのですか?(笑) ニュートンがそんなことを言いましたか? アインシュタインがそんなこと言いましたか? 湯川秀樹がそんなことを言いましたか?(笑)
(どうせ 主として 心の哲学者の連中しか、あの手の図は振り回していないと思いますが)もし、どこかの二流の科学者があの手の図を著書に掲載しているとしたら、そのバカ科学者は、「図の円形は、具体的には宇宙の何を指している」と説明しているのでしょうか? もしあの図を掲載するなら、そのあたりの説明も、きちんと、図に補助説明として(出典つきで)掲載しておくべきです。
ちょっとでも物理学をかじったことのある人なら、あの図を前に、5分、10分でもじっと考えてみれば分かりますが、あの図は物理学的にはペテンです。例えば、簡単なコイルや電磁石が存在している実験室、連続的に変化してゆく電場と磁場とコイルが、ある一定の空間的広がりをもって存在する、(宇宙の複雑さに比べたらはるかに単純な)空間を想像しても、そんな単純な空間の因果関係ですら、あの○と→で表現された図で表現することは、すでに不可能です。
もしも、これでもあの図式で大丈夫だなどと思うなら、さらに考えてみて下さい。
- 物質と反物質は出会うと消滅しますが、その現象は、あのチャチな○↑図式では どう表現されますかね?(笑)
- ビッグバンの最初の瞬間は、あのチャチな○↑図式では どう表現されますかね?(笑)
いったい、どこの物理学者が、あんなチャチな図を用いて、宇宙で起きる物理現象の因果関係を説明をしていますか?
あの手の図を、作成したり持ち出して振り回しているのは、やはり心の哲学にたむろしている連中ばかりではありませんか?
どうも、心の哲学をやっている"研究者"たちは、論理的なチェック能力が欠けた人がやたらと多いようで(心の哲学という領域が、そういうタイプの人を引き付けてしまうようで)、根拠のないあやふやな思い込みやドグマを、あたかも確立した理論であるかのように論文や書籍に書いていて、それを読んだ心の哲学愛好者が、また根拠もなくそれを真に受けて、自分の論文や書籍に書くということが繰り返されているようです。一種の都市伝説とも、ドグマとも、ミームとも言えるかも知れません。 心の哲学において、あやしげな理屈づけが、誰からもチェックされることもなく、人の口から人の口へ、本から本へと際限なくコピー・増殖されていってしまう様子は、ほとんど中世以前の哲学の状況と同じ、と言っていいかも知れません。
あの○と↑の図も、仮に心の哲学の"研究者"がどこかに掲載しているとしても、真理であるかのように提示するのは問題です。掲載するとしても、どの哲学者が、どの本に掲載していた図なのか、出典を示し、中立性を示すことが絶対に必要です。
逆に言えば、出典を示せば、どんなに奇妙な図でも、どんなに間の抜けた図でも、資料としてWikipediaに掲載する意味や価値が出てきます。ちょうど右上のペトルス・アピアヌスのCosmographiaの図のように。「へええ、このバカな、心の哲学の研究者は、間抜けにも、こんな図式で宇宙を理解できると思いこんでいたんだ」と理解できるようになるわけです。
ともかく出所の怪しい図を掲載しておくわけにはいきません。独自研究にあたります。Wikipediaの公式ルールどおりに、出典を示せ、ということです。--Fedore 2010年2月16日 (火) 17:34 (UTC)
- 削除して記事をわかりにくくしました。記事を良質のものにするため、どうぞ出典をお探しください。ここからは学部一年生でも出来る初歩的レベルの問題です。--Was a bee 2010年2月17日 (水) 03:11 (UTC)
- ともかく各文章ごとに出典を示して、かつ 表現を中立的、間接的にして記事を組み立ててゆくように。ビリーバーさん。--Fedore 2010年2月17日 (水) 07:05 (UTC)
心の哲学で「因果的閉包性」を根拠に持ち出していることのバカバカしさについて
[編集]心の哲学で「物理的領域の因果的閉包性」などという概念が提示されているときに起きていることを、分かりやすく説明してみると、次のようになる。
端的に言えば、随伴現象説や相互作用説にも無理があり、確かにトンデモ説であるが、かといって そのトンデモ説を「物理的領域の因果的閉包性」などという、根拠の無いインチキ原理を持ち出して論破しようとするのにも無理がある、ということ。
喩えて言うならば、ヴィクトリアの滝はどこにあるの? というテーマで人々が話をしている時に、どこかの馬鹿が「ヴィクトリアの滝はスペインにある」との説を主張しているのを聞いた奴が腹を立てて、「いや、そんなはずはない。私はヴィクトリアの滝は北米にあると確かに知っている。ヴィクトリアの滝は北米にあるというのは絶対の原理だ! 生まれて今日まで出会った知人も全員、北米にあると言っている。 ゆえに、スペインにあるという説は論理的に誤りだ!、どうだ参ったか!」と主張しているようなもの。
(この事例では、滝は本当はアフリカにある)
つまり、論破されるほうも、論破するほうも、トンチンカンなことを言っている状況。
(上では正解が分かる簡単な事例を挙げたが、実際には、誰もが場所を勘違いしていたということが、会話の参加者が死亡してから数百年も経ってから判明する、ということだってありうる。あるいは会話に参加している者が、未来永劫、誰も正解を知ることができない場合も想定できる。)
ドツボにはまっている人々のために ひとつヒントを示す。論理学を深く勉強すれば理解できるが、この世には、証明も反証もできないような命題、宙ぶらりんな命題というのは多数(無数に)存在する。人間は多数おり、各人が思いつきで さしたる根拠もなくメチャクチャな言説を日々どんどん生成している。ところが、どこかの誰かが根拠のないバカな説を主張しているからといって、そういう説に腹が立ったからといって、そういう説がいつも反証可能だというわけではない。
実は、そういうやっかいな言説に出会ったら、そのまま置いておく、放置しておくよりしかたない。論破するために、無理して不確かな理屈を持ち出せば、持ち出した側が別のトンデモ説や疑似科学を主張する者になってしまう。
論理学を究めたヴィトゲンシュタインは、「語り得ないことは語らないでいるよりしかたない」、つまり無言でいるよりしかたない、と述べた。誰かが間違った説を主張しているからといって、それを論破するのに、別の間違った知識や不確かな原理を持ち出してきて論破しようとするのは愚かしいことだ。
現代の心の哲学では、 論理実証主義の人々が蓄積したノウハウが全然活かされておらず、中世以前の哲学のように、空しい議論が行われているということ。
結局、このWikipediaの記事では、心の哲学の愛好者(信者)たちの書いていることを真に受けてあたかも真理であるかのように記述するわけにはいかない。公式ルールどおりに、出典を示しつつ、「......は......と言っている」「......は......と主張している」という、中立的で、間接的な記述に徹するよりしかたない。
それにしても、ビリーバーの存在というのは困ったもんだ。疲れます。このノートを見ている皆さんも、Was a beeを指導してやって下さい。 --Fedore 2010年2月17日 (水) 07:05 (UTC)
- 報告長期間にわたり関連領域を荒らし続けていた人物が無期限ブロックされましたので、編集傾向等の情報をここでリンクしておきます。(東京OCN User:IonianWind)--Was a bee(会話) 2012年8月15日 (水) 09:03 (UTC)
問題あり
[編集]心の哲学の研究者です。過去の履歴を見ると利用者:Was a bee(会話 / 投稿記録)さんが大量削除をしたようですが、その際どうも出典つきの有用な情報までも個人的な嗜好にもとづいて削除しているようです。ケンカや個人的な感情は持ち込んで情報隠蔽などは行っていただきたくないものです。百科事典なのですから。--KimuraTo(会話) 2012年10月15日 (月) 11:08 (UTC)
- 自作自演を繰り返す長期荒らしIonianWindによる研究者を騙るコメントと思われます。彼の編集以前の版に戻しました。--Was a bee(会話) 2013年7月6日 (土) 22:31 (UTC)
唯物論的対比が殆どないのは?
[編集]俄の門外漢なので唯物論的な対比を見つけられません。 本稿を含めクオリア関連でそれらの主張や対立、また別の捉え方を見つけられないのは中立性が保たれた状態と言う事でしょうか? 見当違いな事でしたら、申し訳ありません。
書き方が悪いかな?どう書けば良いやら…。 まず私が知った「心は脳の作用」と言う話からすると、これらを書くのに「心の哲学」を持ち出されてしまうと、入れ子な矛盾?鶏と卵的と申しましょうか、そう感じました。 まず、心は反射の結果と言うスタンスで書いてある項が見つけられず、全て「こころはあるんだ!絶対だ!」の立場にあって書かれた物しか見受けられずちょっと手間取ってます。 中立に公平公正だとすれば、この一方の側面だけでそうなのですか? 私が頓珍漢な事を言っているだけなのかも知れないですが。
追記します。 現在AIを勉強してまして、その中で脳の作り出す意識からAIによる意識の模倣を探しています。 ウィキペディアは中立と言う事で、各方面の各説話があると思ったのですが、前出の問題にぶつかりました。 「心の哲学」分野の話だけでは各方面とは言えないのではないでしょうか? 歴史上の理解の進歩は解るのですが、現代のある方面はまるでサポート外と言うか、間違っていると言われている様な印象すら受けます。 (間違っているとすると私が今行っている事はなんなのだろう…と徒労感すら覚えます。心って厄介ですね) 筆者が1人に限定されているからなのか?本ノートでも読み返せば意味の通る提案(少々表現に難あり)がありますが、一考の余地はあると思います。 是非、読み手や現実の多様性を勘案した内容であって欲しいと思いました。残念です。--121.103.124.84 2021年8月6日 (金) 11:05 (UTC)
訂正 『「心の哲学」分野の話だけでは各方面とは言えないのではないでしょうか?』→『「心の哲学」分野のある方面だけでは、各方面とは言えないのではないでしょうか?』 更に追記します。 例えば記事中のクオリアなどを追いかけても、ダニエル・デネット氏の話等は含まれておらず、偏った印象を受けたのです。 単純に記事が書かれた時期が今より古い(当然)からと言う話なら、記事のブラッシュアップはないのかな?と思うだけなのですが、ノートのやり取りを見る限り、更新する事を阻んでいる様に感じました。 誰が?何で?阻んでいると思うのかについて、私からは言及しません。ですが、自浄作用をウィキペディアは持っていると期待する読者として、その時の「心の作用」を書いておこうと思いました。 これらの事が不適切なら削除を希望します。それはそれでウィキペディアなのだと理解するところです。 あれこれと失礼しました。--121.103.124.84 2021年8月7日 (土) 06:14 (UTC)