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ノート:牧歌舎

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参考:「Wikipedia:削除の復帰依頼 牧歌舎」

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「Wikipedia:削除の復帰依頼 牧歌舎」

以下の議論の前に「削除の復帰依頼」がありました。参考のために上記のリンクを挿入します。--Yamanosora会話2015年2月5日 (木) 12:42 (UTC)[返信]

宣伝とみなされそうな部分を大幅に削除しました。

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事実であっても宣伝活動と判断されそうな部分を大幅に削除しました。これ以上削除すると「Wikipediaは電話帳ではありません」の原則に反することになるかもしれませんので、この出版社の大きな特徴だけはわかる事実は残しております。これらについて「出典」を付けることは可能ですが、同社のホームページの中のページがそれになるためさらに「宣伝活動」とみなされるおそれがありますので控えました。またこの出版社の出版物が三大紙などの新聞で書評に取り上げられたりニュースになっている事例は「脚注」に出ているもの以外にも多数あることがわかりましたが、同様の理由で現状にとどめます。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 03:02 (UTC)[返信]

積極的な執筆お疲れ様です。が、先ほど遺憾ながら「出典の明記」を貼付させていただきました。先ほど眺めたところ、組織(会社)としての特筆性はいかがか、というテンプレートも追加されているようです。
そもそも、「出典」というものは、
  • 記事対象(今回は牧歌舎という企業)がどのような特筆性を持っているのか
を読者が知り、確認するためのものであり、これだけの出版物があるから特筆性がある、とは直結しないのではないでしょうか。三大紙に書評が取り上げられたのであれば、その取り上げられた書物に特筆性がある(のかもしれない)ことは確認できますが。
この出版社が同業他社とどう異なり、良くも悪くも特色があるのか。それを読者が知るのが「出典」です。記事内に、そういった記述が一切見つからない現状では、「宣伝活動」あるいは「会社の紹介告知」と判断されても致し方ないのでは、と感じます。--maryaa会話2015年1月17日 (土) 04:41 (UTC)[返信]
Maryaa様ご意見ありがとうございます。Wikipediaの編纂方針についてこの機会にいろいろ勉強させていただいております。そして「出典」が必要な最大の理由は「検証可能」な記事が書かれなければならないためであると理解しました。「百科事典」としてはもっともなことです。「出典」は、つまりは記事の内容が虚偽や誤りでないことを示すものとして求められているのだと思います。「特筆性」を示すためにも必要とは思いますが、まずは「検証可能性」を示す必要があるということでしょう。ですので、Maryaaさんから「出典の明記」ということで注意を受けましたので、この出版社の特徴として書いた部分が検証可能であることを示すために同社のホームページの一部を出典として出させていただきました。Maryaaさんは出典明示の目的が「そもそも特筆性」という立場に立っておられるようですが、私は「そもそも検証可能性」と考えます。「特筆性」については大事なことと考えますが、Wikipediaの「日本の出版社一覧」に800社以上が掲出されていてそのほとんどがWikipediaのページになっていますが、このたび勉強のため調べましたが、その出版社について取り上げた「出典」が示されているものはほとんどありません。出典を要求する貼り付けもないようです。言論機関を重視する姿勢がWikipediaにあるからかとも思われますが、そういうことは置いておいても、「牧歌舎」も他の出版社ページ同様に特筆性に問題はないと思います。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 06:45 (UTC)[返信]
ひとまず、
をご一読いただき、内容を把握してください。それから、他記事の有り様を参考にしないでください。他の記事は、必ずしもウィキペディアの方針に沿っているとは限りません。ここでは、この記事のことだけが議題です。他が疎かだからここもそれに準ずる、は通りません。
上記リンク先に書いてあることですが、記事対象の「特筆性」を裏付ける「出典」は必須です。それがあることで「検証可能性」を満たすからです。その出典には「信頼できる情報源」であることが求められます。これは、原則としてどの記事にも共通です。足りない記事があれば、それはその記事の不備です。誰もが知るような超大手ならばともかく、あまり知名度のない組織であればなおさらです。これでもかというくらいの出典があれば、ああなるほど、こんなにあちこちで紹介されている組織なのだ、と推定することができます。出典は、そういう意味で必要なのです。
数多くの参考文献(出典)を手元に揃え、それを参考に記事を起こすのが筋であり、指摘があってから出典を探すのは、実は本末転倒なのです。信頼できる情報源による出典があるから検証可能性を満たせ、その内容によって特筆性を主張できる。これらの要素は密接に関連しています。繰り返しますが、現在の記事は、記事対象に対する「特筆性に問題はないと思」わせる出典が何ひとつないため、記事対象をよく知らない読者は特筆性があるのか判断できない、というのが現状です。復帰依頼でコメントされていた利用者各位も、「この組織の特筆性を物語る出典はどこにあるの?」と問われているようですが、いかがでしょうか。--maryaa会話2015年1月17日 (土) 07:35 (UTC)[返信]
まことに申し訳ないことを申すようですが、Maryaa様には日本の出版社一覧をちゃんとご覧になっていただいたのでしょうか。一つや二つでなく何百もの、ほとんど100パーセントに近いと思われる数の出版社の記事に、出版社そのものについての「出典」はありませんし求められてもいません。つまり「他記事の有り様を参考にしないでください。他の記事は、必ずしもウィキペディアの方針に沿っているとは限りません。ここでは、この記事のことだけが議題です。他が疎かだからここもそれに準ずる、は通りません」と言われることのほうが問題であって、「他が疎か」ではなくこれが健常、即ち「これで特筆性が満たされている」と判断されている事例と考えなければならないレベルの圧倒的なページ数だということです。また、出版物は出版社の活動結果ですから「大新聞の書評で紹介されてもそれは出版物の特筆性であって出版社の特筆性とは関係ない」というようなことが100パーセント言えるものではありません。出版物に問題があれば、著者はもちろんですが出版社もその内容について責任を負うのです。その分だけ、出版物が評価されれば出版社も出版社として評価されたと考えて然るべきです。Wikipediaの特筆性ルールは意味のあることと考えますが、その適用はこと出版社については日本の出版社一覧のように特筆性基準が置かれ運用されていると考えるべきでしょう。「参考にすべきではない、必ずしもWikipediaの方針に添っているとはかぎらない」他の例というには、日本の出版社一覧のほぼ全部なのですからあまりにも無理があります。これらをすべて「参考にすべきでない例外」として「この記事だけが問題」とされるのは方向性の時点で何か大きな錯覚を生じられているような気がしてなりません。ついつい失礼な言い方になってしまっておりましたらお許しください。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 08:56 (UTC)[返信]
ええと、私が書いた文の全体を読んでいただきたいのですが、「この記事だけが問題」等という表現、受け取れる表現はどこにもしたつもりはありませんが、どこをどう読んだらそうなるのでしょう。今は、この記事について話しているのであり、他の記事の不備をどうこう言ったところで始まらない、ということに過ぎません。ウィキペディアでは、スピード違反の論理と呼ばれる状況です。ご自身の言葉である、
  • 「牧歌舎」も他の出版社ページ同様に特筆性に問題はないと思います。
とは、
  • 「他の記事だってろくに出典ないんだから、この記事だっていいだろ」
ということでよろしいでしょうか。
繰り返しますが、Wikipedia:検証可能性を把握理解した上、復帰依頼で集まったコメントに対する返答も上記で代える、ということでよろしいでしょうか。--maryaa会話2015年1月17日 (土) 10:20 (UTC)[返信]
「この記事だけが問題」は「この記事のことだけが議題」でした。老眼で少し見誤りました。すみません。ですが、私の言っていることの文脈内では同じことになります。「他の記事だってろくに出典ないんだから、この記事だっていいだろ」というのでは全然ありません。「他の記事に出版社そのものの出典がなくて掲載OKになっているのは、それらが出版物などによって特筆性があるとみなされたからなのだから、この記事だって同様に特筆性があるとみなされてよいのでは」ということです。まさか特筆性がないとみなされた出版社の記事が800(出版社の記事のほとんど)もあるわけないでしょう。これらは全部、出版社そのものについて「出典」がなくてもその他の基準で特筆性があるとみなされているんでしょうということです。いかがでしょうか。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 10:53 (UTC)[返信]
  • その他の基準で特筆性があるとみなされているんでしょうということです。
再三ご案内しておりますWikipedia:検証可能性をご理解なさった上でこのように判断されたのならば、これ以上申し上げることはございません。--maryaa会話2015年1月17日 (土) 11:05 (UTC)[返信]
議論に貴重な時間を割いてご参加くださり、ありがとうございました。感謝申し上げます。Wikipedia:検証可能性については熟読させていただきました。「(Wikipediaの800もの出版社の記事(日本の出版社一覧に出ている出版社の記事のほとんど)についてその出版社そのものについての「出典」がなく、しかも出典明記の要求がされていないのは)<i>出版社そのものについて「出典」がなくてもその他の基準で特筆性があるとみなされているんでしょうということです。」という私の判断に変化はございません。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 11:40 (UTC)[返信]
ウィキペディアの記事は膨大な数があり、一つ一つチェックしていくのは膨大な作業となります。出版社の記事とてそれは例外ではありません。確かにCategory:日本の出版社にカテゴライズされている記事を見ると、その大半が企業プロフィール程度の記述か、出典に裏付けられていない記述しかないように見えますが、それはその状態で良しとされているものではありません。ただ単にほかの編集者によるチェックが追い付いていないだけです。別の分野では、さまざまな理由によって特筆性など関係なしに粗製乱造されたある特定の分野の記事が、一挙に削除依頼にかけられたり、定期的に数個ずつ削除依頼にかけられるなどして削除されているということも起きております。いくらTed&Mさんが否定されたとしても、実際に他の方法で特筆性を示す努力がなされていない以上、「他の記事だってろくに出典ないんだから、この記事だっていいだろ」とおっしゃっておられるのと同等であると受け止められても仕方ありません。
別の観点から言いますと、社史などの政策にかかわる機会が多いということで、どこかの媒体に取り上げられたりした実績があれば、それをもとに特筆性を満たすことを証明する出典があると判断できるかもしれません。そうしたものがなければ、出版社自身がそのような主張をしているだけ、というとらえ方をされ、この記事の存続にとって良い方向にはならないでしょう。--VZP10224会話2015年1月18日 (日) 03:28 (UTC)[返信]
VZP10224様、私の最も疑問に思っていた2つのことについて管理者の資格を持つ方にお答えいただきありがとうございます。1つは出版社を記事対象としたほとんど全てのページが「企業プロフィール程度の記述か、出典に裏付けられていない記述」でOKになっているのになぜこのページだけが、という素朴な疑問でした。私は読者としてWikipediaの各ページは大半が管理者様やその他の方の査読を通った信頼に足るものと思ってWikipediaを利用していましたので、いろいろ考えた結果「出版社そのものについて「出典」がなくてもその他の基準で特筆性があるとみなされているんでしょう」と結論したわけです。まさかCategory:日本の出版社の記事のほとんど全てがVZP10224様のおっしゃるように「編集者によるチェックが追い付いていない」状態とは考えられなかったのです。今でも信じられない思いです。VZP10224様のおっしゃるとおりであればWikipediaの記事というのは非常に信頼性が低いものということになってしまいますが、VZP10224様のおっしゃることは事実と考えてよいのでしょうか。それともそれはVZP10224様の「見解」であって、私の「出版社そのものについて「出典」がなくてもその他の基準で特筆性があるとみなされているんでしょう」ということもあり得ると考えてよいのでしょうか。この疑問が新たに湧きました。
「私の最も疑問に思っていた2つのこと」の2つ目についてですが、その前に「出版社自身がそのような主張をしているだけ、というとらえ方をされ」というお言葉がありますが、私を「出版社自身」と思われては困りますので一応お断りしておきます。さて2つめの疑問ですが、それは「記事内容の検証可能性のために出典が求められるのは当然だが、記事対象の特筆性のために出典が必要とはどういうことだろう」ということでした。もちろん一見してわかるような些末で一般性がない記事が排除されることは一応理解できますが(それでも記述内容が検証可能なら載せておいても、誰にもほとんど見られないというだけで何も害はないし却って面白いのではと思いますがこれは別の話)、出版社の出版物に特筆性の出典があっても出版社それ自体がメディア等に取り上げられているという「出典」がなければ特筆性がない、というのは変ではないかという疑問でした。出版社がメディアに出るのは出版物の発行者として出るのが普通で、出版物を離れて出版社自体が話題になった「出典」がなければダメということになればCategory:日本の出版社の出版社の記事はほとんど全部消滅してしまい、何か悪いことをして新聞ダネになったような出版社だけが「出典」を得て残ることになります。そのような「出典」が必ずしもなくても特筆性はWikipediaでは認められているはずです。特筆性を有する出版物を一定程度発行していればWikipediaでの特筆性は担保されるはずと考えます。そう思っていたところでVZP10224様の、「牧歌舎」の記事については、「社史などの制作に関わる機会が多い」ということについての「出典」があれば特筆性になると示唆を頂き、なるほどこれなら特筆性と呼ぶにふさわしいなと思いました(全ての出版社にそういうものが必要と考えるわけではありませんが)。ただし、「社史をたくさん制作している」という特筆性はメディアでの露出を待つまでもなく「検証可能」と思われるので、それも含めて今後探していくことにいたします。なお、これまで次々にいろいろなコメントやテンプレート貼りを頂いたので、それに対応するべく、現在までに多くの改善を行っております。宣伝的ととられそうな記述は大幅に削除しましたし、出版物の特筆性の出典を相当数「脚注」として加えました。また出版物だけでなく出版社そのもののメディアへの露出も必要と言われたので一応「出典」として加えました。これですでに再作成としてはOKではないかと考えていますのでVZP10224様の個人的なご見解ででもチェックいただければ幸いです。--Ted&M会話2015年1月18日 (日) 05:52 (UTC)[返信]
現状として編集者のチェックが追い付いていない以上、出典がついていない記事に関して「非常に信頼性が低い」という指摘を受ければ、「それはその通りである」と認めざるを得ません。その信頼性を担保するために、素人である編集者が頼りにできるのが記述の裏付けとなる出典になるのです。まあごく一部の編集者については出典を捏造したり、出典として提示した文献に書いてないことを無理やりな解釈で読み取って出典とする人がいますが、それはまた別の問題ということで。で、さらに誠に残念なことに、「ご近所の八百屋さん」レベルで存在する小規模な企業の記事に対して特筆性がないという指摘をされ、その記事の執筆者が「この記事には特筆性がある!!」と、出典の提示をされることなどもなく強弁されることも、これまでには多々あったのです。そうした経緯もあり、特筆性がないとの主張に対する反論に対しては微に入り細を穿つようにその主張が問いただされてしまうことが多いように思います。で、さらに言うと、ウィキペディアの記事として掲載された以上はその記事は査読中でも審議中でもなく、公開されたものとして同一の扱いを受けます。現状でのこの記事は多くの人にその存在を疑問視されながらも存続し続けている、という状況でしょうか。
2つ目のお話ですが、出版社である以上、出版物を発行することそれ自体は当たり前の話であり、八百屋で野菜を販売したり、魚屋で魚を販売したりすることと同じくらい当たり前の話です。その中で、たまたま市場で仕入れただけの「全国的に名の知れた農場で作られた野菜」「テレビで取り上げられた漁師が釣った魚」を扱っただけでは、その八百屋なり魚屋なりに特筆性が生まれるとはいいがたく、「こういったコンセプトで野菜を販売している」「とれたての魚を店舗に素早く届ける工夫をしている」などといったことが評判となり、ご近所レベルでとどまらない評判になれば、テレビ番組や新聞・雑誌などで取り上げられる、そう言った積み重ねが特筆性を生む要素になるのではないかと思います。いままでのTed&Mさんの主張では、失礼な物言いを承知で申しあげますが「○○農場のトマトを売ってるうちってすごいでしょ」とあちこちで宣伝しながら野菜を販売している八百屋さんとやってる内容に大差はないのではないかと考えます。もちろん「八百屋なのにいきなり野菜を売るのをやめて今日から魚を売り出した」という話になればそれも特筆性の要素の一つとなるかもしれませんし、販売した製品でトラブルが発生すればそれでも特筆性を満たすこともあるでしょう。要は、「その出版社がほかの出版社と違う何かがあるか否か」がないとその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態にはならないだろう、と思われるのです。現在の基準(Wikipedia:独立記事作成の目安)に明記されてはいませんが、そういうものがないと百科事典の一記事として多くの人が認める状態にはならないのかな、と思います。--VZP10224会話2015年1月18日 (日) 08:33 (UTC)[返信]
Wikipediaの出版社のページのほとんど全てが査読を受けておらず「非常に信頼性が低い」のは「それはその通りである」と事実であるとして管理者の方から示されたことに驚いております。それはそれとして、「○○農場のトマトを売ってるうちってすごいでしょ」とあちこちで宣伝しながら野菜を販売している八百屋さんとやってる内容に大差はない」と言われているのは記事のどこのことを言っておられるのでしょうか。少なくとも私は牧歌舎を「うち」とする立場にはありませんし、宣伝の意図も全くありません。なにも「すごいでしょ」とかなんとかでなく、求められる条件に合うものを書こうとしているだけです。「出典らしきものがない」とのことでしたのでまずは発行書籍が大新聞の書評で紹介されている事例を書き、「出版物でなく出版社自身が紹介された出典を」と求められたのでそんな無茶なと思いながら一応探してきて「出典」として付けました。そんなことをすればするほど記事が宣伝くさくなるのにと思いながら、それがないとダメだとのことなのでやむなく書いたのです。VZP10224様は、さらに「他の出版社と違う何かがあって、そのことがメディア等で紹介されていなければダメ」と言っておられるようですが、そもそもその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態は求められていますがそこに「他の同業者と違う何かがあるか否か」についてというような前提はなくVZP10224様が付け加えられたものかと思います。「違い」と「出典」の関係はVZP10224様のお考え方とはむしろ逆で、「こんな本が新聞の書評で紹介されているからこんな本に力を入れている出版社なんだな」とか「こんな本に取り上げられているからそれなりのものがある会社なんだな」として「違い」が誰かの意図的な説明を超えて認識される、しかも固定的なものでなく時々刻々その認識も変わっていき得るというのがあるべき姿でしょう。そういうことを思いながらその時点で求められていた「出典」を付けておきました。--Ted&M会話2015年1月18日 (日) 10:26 (UTC)[返信]
「少なくとも私は牧歌舎を「うち」とする立場にはありませんし、宣伝の意図も全くありません。」と言われましても、現実問題として、Ted&Mさんの投稿履歴を見る限り、牧歌舎の記事とそのノート、また牧歌舎の記事に関する復帰依頼しか確認できない以上、Ted&Mさんは牧歌舎の関係者にしか見えないのです。また、たとえ話を用いて説明したのでわかりにくかったようで再度お話しさせていただきますが、出版社が出版物を発行するのはその事業の目的からして明らかであることから、出版物を発行することそのものは特筆性の根拠とはなりません。また、発行した出版物の一つ一つがどのように評されているかはその書籍自体や著者がどのような評価を受けたかを判断する材料とはなっても、その評の中で出版社に対して直接の言及がない限り、その本の出版社がどのような出版社であるかの裏付けにはならないと考えます。逆の立場から言えば、書籍の書評であったとしても、評者が出版社の事業や活動に対して言及していれば、出版社の記事の出典とできると考えています。もう一度Wikipedia:独立記事作成の目安#一般的な目安をよく読んでいただければと思います。なおWikipedia:独立記事作成の目安はガイドライン化されて間もない文書であり、まだまだ改善の余地があると思われますが、この文書に限らずウィキペディアの方針文書は必要に応じて随時改訂されているもので、永続的なものではないことに留意ください。
また『「こんな本が新聞の書評で紹介されているからこんな本に力を入れている出版社なんだな」とか「こんな本に取り上げられているからそれなりのものがある会社なんだな」として「違い」が誰かの意図的な説明を超えて認識される』という表現は、個々の出版物の書評をかき集めれば出版社の性格が透けて見える、とおっしゃりたいのかな、と受け取ったのですが、そうした、個々の事象から演繹的帰納的に傾向を推測させるよりも、出版社の方針に対して直接言及した記事を下敷きにして文章にしたほうがわかりやすいのではないでしょうか。また、個々の事例を並べ立てて何かの方向性を推測させる記述は、編集者の個人的な主張に対して都合の悪いものをあらかじめ排除して特定の方向性を誘導したいときに使われる記述方法として記述されていたのを目にしており、個人的には好ましいとは思えません。とりあえずこの辺で。--VZP10224会話) 2015年1月19日 (月) 16:30 (UTC)意味が逆になってしまっていたので下線部修正--VZP10224会話2015年1月25日 (日) 05:15 (UTC)[返信]
(追記)結局のところ、私の中では、書籍の書評、ひいては出版物そのものを列挙することが、出版社の方向性なり方針を説明することとどうしてもイコールで結びつかないのです。出版業界に詳しい方であれば各社の方向性は説明されずともわかるような業界内の常識なのかもしれませんが、業界に精通していなければ、そうした特徴が直接記述された文献がないか提示を求めるのは、ある意味で自然だと思うのです。そうした説明なり、文献の提示がなされることをTed&Mさんには期待します。--VZP10224会話2015年1月19日 (月) 16:50 (UTC)[返信]
貴重なお時間を割いてコメントしていただいてありがとうございます。いろいろとVZP10224さんの個人的な推測や印象や感想や考え方が書かれていて、私から言えばそれは誤解や誤謬であるとして異論や反論したいところもあるのですが、もう深夜で私も明日早いので、とりあえず今日は(追記)で「結局のところ」と書かれてありますので、そこのところに絞って異論を申します。VZP10224さんは「出版社の方向性なり方針」とか「特徴が直接記述された文献」とか言われるのですが、出版社の「方向性」「方針」「特徴」はWikipediaで言う「特筆性」とは少し違うと思うのです。ご承知のようにnotabilityが日本のWikipediaで最初「著名性」と訳され、しかしこれでは「有名であること」と混同されるから「特筆性」と訳し直されたものですが(その議論のページをさっき読みました)、その訳し直しは一応妥当なものだと思いますが、「特」という字があるためか、多くの人が「特徴」とか「特長」とか「特色」とイコールのように錯覚してしまっているのです。VZP10224さんが「方向性」とか「方針」だとかを挙げられるのもそうしたとらえ方から来ているものと思えるのですが、特筆性(notability)はそういうものも含めた包括的な概念で「書きとめておける(notable)」(「これはちょっと書いておいていいぞ」というニュアンス)という意味です。もっとわかりやすくWikipediaに即して言えば「ここに書いても決して場違いではないぞ」ということです。そして場違いか場違いでないかは本来主観的な判断なのですが、客観的基準をつくるために「新聞などに取り上げられているものならとりあえず場違いではない」とされたのです。しかし新聞に取り上げられていなくても「場違い」とするのが「不合理」な場合はありますから、合理的基準と判断されるものがほかにあればそれは場違いではないとみなされています。だからほとんどの記事は「主題の出典」がなくてもWikipediaに載っているのです。notabilityの語義からはそうなるのであって、またそうしかなりません。ほとんど全ての出版社の記事が「主題の出典」なく載っているのは、VZP10224さんが言われたように「編集者のチェックが追いついていない」のではなく、VZP10224さん以外の多くの管理者や編集者が見て「この記事で場違いではない(notable=特筆性がある)」と判断されたからです。ほとんど全ての出版社の記事を管理者や編集者が誰も見ていないということは考えられないし、またそのように考えるのは誤りなのです。ということでもう朝が来てしまうので今日はこの辺でやめておきます。いつも丁寧にご対応くださってありがとうございます。--Ted&M会話2015年1月19日 (月) 19:00 (UTC)[返信]
notabilityについての議論はもっと続けたいのですが、多くの方々から問題点をご指摘いただき、それを解決するため、指摘された条件を満たしそうな「出典」を拾い集めて記事中に追加しております。まずこれで復帰がOKがどうかをチェックいただき、もしこれで問題解決になりましたらその後はどこか適当な所でnotabilityの議論を続行させたいと思いますのでよろしくお願いいたします。--Ted&M会話2015年1月20日 (火) 03:12 (UTC)[返信]
Ted&MさんがWikipedia:検証可能性の、とくに冒頭の「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。」の文章の意味を全く理解いただいていないということがよくわかりました。もう少しこの記事とTed&Mさんへの対応を考えたいと思いますので、しばらく時間をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。--VZP10224会話2015年1月21日 (水) 09:33 (UTC)[返信]
私はこの議論を行うにあたり、また議論の途中でも、皆様が参照せよと言われるWikipedia:検証可能性およびWikipedia:独立記事作成の目安#一般的な目安をくり返し読んで理解に努め、そこで求められている「出典」を探しては記事に追加してまいりました。「真実であるかどうか」より「検証可能かどうか」が問題とされる理由はよく理解できましたので、この記事には検証可能なことのみを記しているつもりです。ですので、VZP10224さんが『「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。」の文章の意味を全く理解いただいていないということがよくわかりました』と言われる理由がよくわかりません。どのような論理のプロセスを経てそのような結論になったのかご説明いただければ幸いです。そのすぐ前に私はキーワードである「特筆性(notability)」について、Wikipediaが求めている特筆性は皆さんが言われる「特徴」や「特色」に限定されるものではないことを論証しましたが、出典が不要などとは言っておりません。Wikipedia:検証可能性のための根拠が「真実であるかどうか」以前に求められることは理解し念頭に置いて、そのうえで「特筆性」とは「特徴」とか「特色」に限定されずにWikipediaでは使われている、ということを説明したのです。そのことが、私が「特筆性を軽視している」とか、「Wikipedia:検証可能性を理解していない」という判断に結びついたのだとしたら、「何を言っているのかよくわからないが、われわれが考えている特筆性の基準には従わないということのようだからWikipedia:検証可能性についてもわかっていないのだろう」という短絡的な判断が行われて「理解いただいていないということがよくわかりました」という言葉になったということであり、非常に残念に思います。それは全くの、正反対の誤解なのです。何が正反対かと言いますと、わかりやすく言いますと、特筆性とは、「特徴」とか「特色」ぐらいの意味に限定されない、実はもっと厳しくもっと微妙な感覚が決定すべきものだということなのです。そうなってきますと、今回の出版社の例で言いますと、その出版社の特筆性を考えるにはその出版物の特筆性が優先的に考えられなければならないことがお分かりいただけると思います。出版物には特筆性がないのに別の「特徴」(社長が美人女性だというような)でメディアに登場したりする出版社と、そんな「特徴」はないが出版物がよく書評に取り上げられる出版社とを考えれば、出版社の「特筆性」を出版物以外のところに求めるのが不適当であることが理解いただけるのではないでしょうか。「出版物の特筆性は出版社の特筆性に結びつかないという」のはあまりにも特筆性というものの厳しさと微妙さを理解していない乱暴な考え方ではないか、というのが私の言いたかったことなのです。私はWikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安#一般的な目安のために「出典」は必要だという、VZP10224さんと同じ立場に立っていることをよくご理解ください。ただ、Wikipediaで求められている「出版社」の「特筆性」は、その出版社の出版物に、少なくとも一定程度は認められているはずだ、というごく当たり前のことを言っているのです。特筆性のある書籍を出版している出版社には特筆性があり、出版物はその「出典」とできることをWikipediaは一定程度認めていると思います。これをはっきり否定するルールは見当たらず(Wikipedia:特筆性 (書籍)を閲覧しましたが「書籍の特筆性は出版社の特筆性ではない」というようなルールらしいものは見当たりません)、逆に、非営利団体ではありますが、団体の「業績」がその団体の特筆性の根拠になり得ると書かれていますから(Wikipedia:特筆性 (組織)の「非営利組織」のところ)、その感覚はこの問題にも適用されてよいと思います。また、この出版社について言えば、一過性でなく、毎年朝日、毎日、読売の書評等に載る作品を出版し続けており、その実際の数はここで脚注を出しているものの何倍にも上ります。難病患者や不治の病の人、在日の人など社会的弱者とされる人の本が比較的多いようなので(これは私の感想ですが)、それも新聞によく紹介される一因となっているのかもしれません。このように、「特徴」や「特色」はその活動の結果からのみうかがい判断すべきものではないかと考えます。ただし、こういうことが理解されず、出版物でなくあくまでも出版社自体についての形式的基準での「出典」が要求されていることにも対応するため、皆さんが言われるような「出典」も付けております。よろしくお願いします。--Ted&M会話2015年1月21日 (水) 16:46 (UTC)  [返信]

(インデント戻し)いろいろと説明いただきましたが、この説明を読んでなお、「出版物の特筆性とその出版社の特筆性はそれぞれ独立しており、相互には結びつかない」という私の考えを変更するには至りませんでした。また、「出版社の「特筆性」を出版物以外のところに求めるのが不適当」ということは全くなく、出版事業にまつわる活動以外でその出版社が特筆性を持つことは十分にあり得ますので、そこはご認識を改めていただかないと、今後ウィキペディアで執筆活動をしていただくのは難しいのかなと思われます。裏返しで言いますと、出版社に限らず、本業でさっぱり注目されていなかった会社であったとしても、ほかの要素(「美人社長」でもそうですし「サイドビジネスに絡んだ不祥事」でもそうかもしれません)で特筆性を持つことはあり得るのです。先ほど私もまるか食品 (広島県)に外部出典を補いましたが、この会社でも削除依頼に提出されれば、今の私には強硬に存続を主張するだけの出典を見つけられていません。Ted&Mさんは、「特筆性とは、「特徴」とか「特色」ぐらいの意味に限定されない、実はもっと厳しくもっと微妙な感覚が決定すべきものだということ」というお考えとのことですが、ウィキペディアにおいて、そうした読む人によって解釈の異なる可能性がある文章を排除する一つの手段が「検証可能性」なのです。私も上のほうで「書籍の書評であったとしても、評者が出版社の事業や活動に対して言及していれば、出版社の記事の出典とできると考えています」と述べておりますが、Ted&Mさんからそうした方向からの出典の明記がなされないまま、書籍の書評をもって出版社の特筆性を証明できる出典となるといくら説明されても、少なくとも私は納得はできません。また、Wikipedia:検証可能性を読んでいただいたのであれば、こちらと一体不可分な関係であるWikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないも同時にご確認いただいているとは思いますが、私がかかわってきた中で、「類似する特徴を持つ事象を外部の出典を伴って掲載する」行為は、ウィキペディアが定義する独自研究を、執筆者がもっともらしく偽装するために手っ取り早く行う行為として見られました。それは執筆者が自分の意図に沿わない事象を切り捨て、自分の意図に沿った事象のみをえり好みすることが多かったため(チェリー・ピッキングあたりも参照ください)で、そうした行為で特筆性なり、ウィキペディアにある記述を残そうとする行為に対しては、どうしてもチェックが厳しくなるのです。また、先の削除依頼や復帰依頼で宣伝であるとの指摘が起きるのも、結局のところ出版社自体の特筆性を直接述べた出典を持ってくることなく、出版物の書評をもって出版社の特筆性を説明しようとしているからなのではないかと思います。
「ほとんど全ての出版社の記事が「主題の出典」なく載っているのは、VZP10224さんが言われたように「編集者のチェックが追いついていない」のではなく、VZP10224さん以外の多くの管理者や編集者が見て「この記事で場違いではない(notable=特筆性がある)」と判断されたからです。」とも言われていますが、岩波書店をはじめとした多くの記事に{{Publishing-stub}}が貼り付けられ(Category:出版に関するスタブ参照)、「この項目は、出版に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。」と呼びかけられている現状では何の意味もありません。現状について「チェックが追い付いていない」という言葉が不適切なら「わざわざ加筆・訂正するような時間もないし興味もないから放置している」といえばいいでしょうか。過去には、とにかく目についた記事に対して腹いせ的にテンプレートを張り付けたり削除依頼にかけたりした荒らし利用者もおり、そうした「問題編集者」ととられかねない行為を自粛している、という部分もあるのかもしれません。--VZP10224会話2015年1月25日 (日) 05:15 (UTC)[返信]

話を簡単にするために、VZP10224さんの「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」というお考えに絞って説明します。私はそのお考えには全く同感であり大賛成なのです。社長が美人だという出版社の記事があればちょっと読んでみたくなります。それが特筆性(notability)というものです。しかしそれが「出版社としての」特筆性といえるでしょうか。美人社長というだけで出版社の特筆性があるのなら、出版物に特筆性がある出版社はなおさら出版社として特筆性があることになるのではありませんか。私が出版社の特筆性というのは美人社長という「特徴」(新聞や雑誌に「出典」がある)よりも厳しいものである、少なくともWikipediaはそういう考え方に立っているはずだと言っているのです。「出版社の特筆性」を厳しく論じようとすれば「出版社としての」特筆性を論じなければならず、「出版社としての特筆性」を論ずるならば「出版物の特筆性」を論じないわけにはいきません。--Ted&M会話2015年1月26日 (月) 15:57 (UTC)[返信]
自論に都合の良い(ように見える)部分だけを取り上げて主張を開陳しても説得力はないですよ。『美人社長のいる出版社』として話題になったのなら、特筆性になる場合もあると言うだけの話でしょう?それで必ず特筆性が担保されるわけでもなし、「書籍の書評であったとしても、評者が出版社の事業や活動に対して言及していれば、出版社の記事の出典とできる。」と言っているのと同じで、VZP10224氏は一貫して「出版社について記述するにはその出版社について言及した出典が必要」という大原則を述べているだけ。瑣末事より本業についての出典のほうが望ましいだろうけど、とにかく記事主体についての言及がなければ何を書きようもありません。『沈まぬ太陽』や『ソロモンの偽証』がいくら話題になったとしても、それはその作品自体に由来するもので、どこから出版されようと同じことです。出版社の特筆根拠にはなりません。--240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7 2015年1月28日 (水) 02:03 (UTC)[返信]
Ted&Mさんの、一見もっともらしいことを述べておいて都合の悪そうなところはバッサリスルー、という返答に、正直ガッカリです。Ted&Mさんはおそらく「真面目に本業に取り組んでいる会社がウィキペディアに取り上げられず、面白おかしく世間に取り上げられた会社が真っ先にウィキペディアに取り上げられるのはおかしい」とお考えなのかと思われます。その感覚は一般庶民として失ってはいけないものだとは思いますが、しかしながらウィキペディアにおいては、すべての記述に論拠となる出典が必要で、この世の中で誰も言っていないことを記述したり、出典があったとしても複数の事案を並べて行間から特定の結論に誘導する記述方法は「独自研究」として排除されてしまうのです。また「美人社長というだけで出版社の特筆性があるのなら」と前置きして、「出版物に特筆性がある出版社は」と「出版社として特筆性がある」を「なおさら」でつなぐ理論も誤りです。そりゃ、どの会社も本業で何らかの形で注目され、ウィキペディアに書く内容があるのが理想でしょう。しかしながら現実社会で活動する中では、本業以外の部分で世間に注目され、ウィキペディアに書くことができる場合だってあるのです。ウィキペディアはあくまでも百科事典であって商品カタログではないので、会社そのものの記事には、単に商品のリストを並べるだけではなく会社の経営方針をはじめとして会社そのものの説明が必要になるのです。Ted&Mさんはすでに加筆する内容はないとのお考えのようなので、再度削除依頼の場で特筆性が説明されているか確認する必要があるのかもしれません。--VZP10224会話2015年1月29日 (木) 15:07 (UTC)[返信]
「バッサリスルー」とは何を指すのかわかりません。上の240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7|240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7さんのご投稿にすぐに反応しなかったことを指しておられるのだとしたら誤解です。240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7|240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7さん(長いお名前ですね)にはどのように説明したら本質的なことがご理解いただけるのかと思案していたのです。それと英語の「組織の特筆性」のページ「Wikipedia:Notability_(oganirzations_and_companies)」を読んで「特筆性」の原意を確かめていたのです。また、私は仕事にもひどく追われている人間であまり時間もないし、それに今はイスラム国の後藤さん解放が実現するかどうかが心配でこちらに集中できなかったのです。「バッサリスルー」(無視、黙殺というような意味でしょうか)と取られたとしたら大変失礼しました。とりあえず240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7|240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7さんに私の真意が誤解されているポイントをご説明しておきますと、「出版社について記述するにはその出版社について言及した出典が必要」との240Fさん(すみません、略させていただきます)の言われる大原則はその通りでいいのです。私は「その出版社について言及した出典」にはその出版社の出版物の特筆性を示す「出典」も入れていいはずだ、少なくとも「美人社長の記事」よりは「出版物を作る出版社としての特筆性」を表しているのだから、と言っているのです。「美人社長であることを話題にした新聞記事」が特筆性の出典になるのなら、「出版物の書評記事」も特筆性の出典になる、240Fさんの言われる「大原則」もそれを当然認めているはずだというのが私の主張なのです。本当に「出版物の特筆性は出版社の特筆性とは関係ない」というようなことが「Wikipedia:Notability_(oganirzations_and_companies)」に書かれているのかと目を皿のようにして探しましたが、どこにもそういう記述はありません。逆に団体(非営利団体ですが)の特筆性の考慮要素として諸業績(achievements)が挙げられています。団体そのものの特筆性を検討する場合、団体の個々の活動結果の特筆性を考慮すべきである、と言っているわけです。「何かを作った者」と「作られた結果」の二つの「特筆性」は「無縁」ではなく「有縁」だと認めているのです。それはつまり「大原則」に含まれ得るという方向性であって、含まれ得ないという方向性ではないのです。だから私は「出版物」の特筆性は「出版社」の特筆性に含める方向で考えるべきであり、それが「大原則」に含まれる考え方だと主張しているわけです。あと、出版物について、作品が良ければどこから出版されようと同じことだと240Fさんが言われることには、二つの意味合いから反論がありますが、時間がないので次の機会にさせてください。また、いくらか本質的な論点を理解いただけたかと思っていたVZP10224さんがまたもや見当違いな方向から論理を外れたことを言ってこられたことは非常に残念に思います。--Ted&M会話2015年1月29日 (木) 17:19 (UTC)[返信]
あるいは、VZP10224さんの言われる「バッサリスルー」とは、私が240Fさんにすぐ応えなかったことではなくて、VZP10224さんの投稿中の「類似する特徴を持つ事象を外部の出典を伴って掲載する行為」とか「チェリーピッキング」とかの言葉に私が反応しなかったことを指しているのでしょうか。私はそれらがあまりに異次元の見当外れのものだったからふれなかっただけです。私は「ゴンリ」のたとえや「ガガガガー」の話も複数回読んで理解しております。私は「出典を出せ」という要求に応えて、また特筆性を示す根拠は多いほどいいとするWikipediaの方針に添って「脚注」や「出典」を出しているだけです。「類似するもの」を集めているわけではありません。「都合のいいもの」をつまんでいるわけでもありません。検証可能性のための論拠を示しているだけです。「類似」とは、何と何が「類似」しているのですか。「都合のいいもの」とは、「特筆性の根拠」もそのように表現されるのですか。だったら「都合のいいもの」は良いものということになってしまうのではありませんか。先には「出典がないから削除する」とし、出典を出せば「チェリーピッキングだから削除する」という話に無理に持って行かれているような気がします。Wikipediaの大原則とされる「出典」の意味を、自分たちにわかりやすい単純な字づらの解釈だけに限定して押し通すより、それが普遍的原則であるためにはどういう理解の深め方をしなければならないかをいつも考えていていただきたいものです。--Ted&M会話2015年1月29日 (木) 19:30 (UTC)[返信]
またまたたとえ話で恐縮なのですが、Ted&Mさんがしようとされていることは、「小保方晴子さんが過去にやってしまった、研究論文博士論文に関する不正に関して報道した記事をもとにして刺激惹起性多能性獲得細胞に加筆しようとしている」ことに等しいのです。業績云々も言われていますが、私個人的には、書籍を出版する際の貢献度として、出版社より書籍の著者自身のほうがはるかに比重が大きいのではないでしょうと考えてます。社会的な評価が高い書籍であったとしても契約が破棄されればその出版社は出版できませんし、また著作権の保護期間が満了すればどこの出版社が出版しようが自由なのですから。ほかにも書くことはあるかもしれませんがとりあえずこの辺で。--VZP10224会話) 2015年1月31日 (土) 14:35 (UTC)修正--VZP10224会話2015年1月31日 (土) 15:31 (UTC)[返信]
いくつか補足しておくと、240Fから始まるのはIPv6アドレスで、そういうハンドル名ではありませんのでお気を付けください。あと、私が「バッサリスルー」と表現したのは、Ted&Mさんが私の発言を「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」と、あたかも発言引用に見せかけて要約してしまい、それが私の重要と考えていた部分も見事に外してしまっていたことに対してこの表現を使わせてもらいました。スタブテンプレートを外すことができないまだまだ書きかけで改善の余地がまだまだある記事を、あたかもウィキペディアにおける出版社の記事の完成形と思い込み、他の記事と横並び程度に出版リストを載せておけば特筆性の証拠となると考えてしまったことにTed&Mさんが陥ってしまった落とし穴があると、私としては考えております。
あと、本日時間があったので、近くの図書館にたまたまあった朝日新聞縮刷版で、『赤ん坊たちの〈記憶〉 一九四三年~一九四五年に生まれて』の出典として挙げられていた、2012年7月6日付夕刊掲載の「(窓・論説委員室から)赤ん坊の沖縄戦」の記事を読みましたが、書籍の内容から沖縄戦を振り返る中でこの書籍の内容が引用されていただけで、この書籍を出版するにあたり牧歌舎がいかなる役割を果たしたかについては言及がありませんでした。おそらくほかの出典としている新聞記事についても同様と思われますが、もう少し調査をしたいと思います。--VZP10224会話2015年1月31日 (土) 15:26 (UTC)[返信]
あえてここにコメントを入れます。そういうお考えでこの本の脚注に「出典無効」のテンプレートを付けたのですね。これまたVZP10224さんの「見当外れ」になりました。この書評は何か別のもののための引用などではなく、全文がこの本の内容と書かれた背景や過程を紹介したもので、最後を<「最年少の戦争体験世代」による貴重な手記だろう>と結んでいます。書評としても本の脚注としても完全に成立しています。管理者さんのされたこととは信じられません。テンプレートはもうちょっと付けたままにしておきますので、ご自分で取り消してください。--Ted&M会話2015年2月2日 (月) 21:31 (UTC)[返信]
私はあなたの主張に納得していませんし、私以外にも、書籍の書評では出版社の特筆性を証明できないとしている意見が出ておりますので、見当外れでもないと認識しておりますので、出典無効のテンプレートを外す必要はないと認識しております。--VZP10224会話2015年2月5日 (木) 14:02 (UTC)[返信]
かなり混乱しておられますね。書評が出版社の特筆性を証明するかしないかのテーマは別として、これは本の脚注ですよ。「出典無効」のテンプレートが付いたので私は新聞名か日付でも間違ったのかと慌てて確認しましたが、何も間違いはありませんでした。このようなテンプレート貼付は誠に不当な編集行為です。あなたが管理者さんであることに配慮してこちらから取り消しはいたしません。しかしこのまま放置されるようでしたらあなたが管理者さんとして不適格であるという申し立てをしなければなりません。冷静に考えてご自身の錯誤を認められ、自発的に取り消されるよう切に望みます。--Ted&M会話2015年2月8日 (日) 02:10 (UTC)[返信]
VZP10224さんのご説明には「たとえ話」が多く、しかもどうしてその「たとえ話」が「たとえ話」として成り立つのか筋道の立った説明もなく疑問なものばかりです。それこそVZP10224さんの言われる「類似する特徴を持つ事象を外部の出典を伴って掲載する行為」「個々の事例を並べ立てて何かの方向性を推測させる記述」「個人的な主張に対して都合の悪いものをあらかじめ排除して特定の方向性を誘導したいときに使われる記述方法」なのではありませんか。言い放しでなく、どうして私の論証が「「小保方晴子さんが過去にやってしまった、研究論文に関する不正に関して報道した記事をもとにして刺激惹起性多能性獲得細胞に加筆しようとしている」ことに等しい」のか明確な文言で比較対照させ筋道を立ててきちんとご説明ください。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 16:26 (UTC)[返信]
「私個人的には、書籍を出版する際の貢献度として、出版社より書籍の著者自身のほうがはるかに比重が大きいのではないでしょうか」「社会的な評価が高い書籍であったとしても契約が破棄されればその出版社は出版できませんし」「また著作権の保護期間が満了すればどこの出版社が出版しようが自由なのですから」などはWikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)などに記されていない「私個人的」なご意見ばかりで、ご自身で言われた「都合の悪いものをあらかじめ排除して特定の方向性を誘導したいときに使われる記述方法」になっているのではありませんか。もっとこれらのルールの文言に則したことを言っていただかないと、あなたは「独自研究」で立論していることになってしまうと思います。私は少なくとも皆さんに指摘されたルール類に目を通し、「ここにこう書かれているからこうなのではないか」「こんなことは書かれていないからこうなのではないか」とWikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)の記述に基づいて語っているつもりです。また、あなたは「出版の貢献度としては出版社より著者のほうが大きい」という意味のことを言っておられます。「貢献度」を「特筆性」(今問題になっているのは「特筆性」です)の意味で言っておられるのでしたら、すでにあなたは出版社に一定の「特筆性」があることを認められたことになります。それでよろしいのですね。そうでなければ、あなたは「貢献度」という「特筆性」と「類似する」概念をもって「特定の方向性を誘導」されたことになりますし、「独自研究」を発表されたことになります。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 16:26 (UTC)[返信]
小保方さんのたとえ話で言いますと、小保方さんの博士論文はタイトルが「三胚葉由来組織に共通した万能性体性幹細胞の探索」であり、また内容を読む限り刺激惹起性多能性獲得細胞(以下STAP細胞)に関する言及はありません。STAP細胞に関する言及がないのに、STAP細胞に関する説明資料として取り上げるのはおかしい、というのは研究に携わったことがある方なら皆さんご納得いただけるのではないかと思います。これと同じように、出版物の内容の説明に終始した書評を使って出版社の説明資料に使うのはおかしい、ということを言い続けているだけなのです。「社会的な評価が高い書籍であったとしても契約が破棄されればその出版社は出版できませんし」も独自研究だといわれるので、あらためて日本書籍出版協会が提示する出版契約書のひな型を確認したところ、第3条に

甲は、本契約の有効期間中、本著作物の全部または一部と同一もしくは明らかに類似すると認められる内容の著作物および同一題号の著作物について、前条に定める方法による出版利用を、自ら行わず、かつ第三者をして行わせない。

との条文がありますので、契約が有効である限り出版社は発行できるが、契約が無効になった段階で新たな発行はできなくなるのが一般的な契約ということが出来ます。補足して第13条に

乙は、本契約の期間満了による終了後も、著作物利用料の支払いを条件として、本出版物の在庫に限り販売することができる。

と記載がありますので、契約満了後は新たな印刷が出来ないというのは当然のこととされていることが読み取れます。「また著作権の保護期間が満了すればどこの出版社が出版しようが自由なのですから」については、こちらが出典となりますね。執筆している人も行政書士の資格を持つ人が所属する事務所の名前を掲げて掲載しているわけですから、十分に信頼できるとみてよさそうです。以上、夜も遅いので私の主張が私が勝手に言っていることではないことに絞って説明させていただきました。--VZP10224会話2015年1月31日 (土) 18:10 (UTC)[返信]
「STAP細胞に関する言及がないのに、STAP細胞に関する説明資料として取り上げるのはおかしい」のは当然です。書評にも出版社名が入っていなければ話にならないでしょう。私はちゃんと出版社名が入っている通常の書評(「この本はこの出版社が発行しました」とはっきりと示されているもの)を「書評」と言っているのだから、全然「たとえ話」にならないではないですか。何が「等しい」ですか。ほんとに聞いてよかったです。三胚葉由来組織だの刺激惹起性多能性獲得細胞だの難しい言葉を並べ立てて何のことかと思いましたが、やはり見当外れの「たとえ話」でした。まさか「類似」の話で都合のいいように誘導したのではないでしょうね。また「社会的な評価が高い書籍であったとしても契約が破棄されればその出版社は出版できませんし」も独自研究だといわれるので」とありますが、私はそんなことを「独自研究」だと言っているのではありません。「社会的な評価が高い書籍であったとしても契約が破棄されればその出版社は出版できません」からと言って、そのことをもって特筆性を判断するなら、独自研究で基準を作ってしまっていますよ、と言っているのです。日本書籍出版協会が提示する出版契約書のひな型だの、こちらだの行政書士の資格を持つ人が所属する事務所の名前を掲げて掲載しているだの、確かめるまでもなく常識に属することです。それらは十分に信頼できますが、それらを基準に「特筆性」を決めてしまうのなら、それは「独自研究」だと言うのです。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)にはそんなことが認められるという文言は何一つないのですから。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 21:19 (UTC)[返信]
上記コメント執筆中に先の記述に追加されたようですから、それについて申し上げます。「私の発言を「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」と、あたかも発言引用に見せかけて要約してしまい」とお書きですが、「出版社に限らず、本業でさっぱり注目されていなかった会社であったとしても、ほかの要素(「美人社長」でもそうですし「サイドビジネスに絡んだ不祥事」でもそうかもしれません)で特筆性を持つことはあり得るのです」があなたの書かれた原文です。私はそれを「VZP10224さんの「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」というお考え」と要約したのです。何がいけないのでしょうか。全く正確で正当な要約引用です。要約ですから一部をカットしていますが、そのカットを元に戻したら少しでも意味や趣旨が変わるのですか。ご自身が言ったことを言わなかったかのように主張されるのはいただけません。言ったことは言ったこと、言わなかったことは言わなかったことです。何よりもちゃんと記録されていて残っているのですから、ごまかしはやめてご自分の発言を認めてください。
 また、「この書籍を出版するにあたり牧歌舎がいかなる役割を果たしたかについては言及がありませんでした。おそらくほかの出典としている新聞記事についても同様と思われますが、もう少し調査をしたいと思います」とお書きなので、まだ分かっていただけてないのかなと残念に思います。書評等の中に「出版にあたり出版社がいかなる役割を果たしたかの言及」はないのが当たり前で、あるほうが異例です。書評等には「この本がこの出版社によって出版された」ということが示されており、それはWikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)で出版社の特筆性とも関係があるものとされている、と、私はこれらルールに記述されている文言をもとに示しているのです。「出版にあたり出版社がいかなる役割を果たしたかの言及がなければ特筆性がない」というようなWikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)にない独自研究的な条件を作って、それに外れているから特筆性がないと言うのは無意味だと思います。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 17:51 (UTC)[返信]
結局のところ、私は「書籍の紹介の際に出版社がどこであるか記述するのは当たり前の話であり、それはWikipedia:独立記事作成の目安で言う『有意な言及』とはみなせない」と判断しているのですが、Ted&Mさんはそのような考えではないようです。また、あらためてWikipedia:特筆性 (組織)#非営利組織を確認したところ、該当する文言は「組織の存続年数、構成員の規模、主要な業績、その他組織特有の要素」となっており、いくつかの要素とともに「主要な業績(英語版でも「major achievements」と言及されています)」と述べられていました。意図的なのかそうではないのかはともかく、Ted&Mさんはここまでの議論で「主要な」の部分を省いてしまっているわけです。「主要な」があることによって、要求される出典が、たんに出版した、という事実を述べたものでなく、主要な業績とみなすに足ることを説明した資料になりますが、そこを回避したかったのではないか、と勘繰られても仕方ありません。--VZP10224会話2015年1月31日 (土) 18:54 (UTC)[返信]
今度は「勘繰られても仕方ありません」ですか。だんだん話のレベルが落ちてきますね。ちっとも「勘繰られても仕方ありません」ことはありませんよ。「業績」に形容詞がついているとまた「見当違い」のもとになりかねないからVZP10224さんのために省いてあげたまでのことです。そのように言われるなら、それでは「主要な業績」で話しましょうか。「要求される出典が、たんに出版した、という事実を述べたものでなく、主要な業績とみなすに足ることを説明した資料になりますが、そこを回避したかったのではないか」とのことですが、ご自身で言われるようにそれはまさしく「勘繰り」です。私は「たんに出版した、という事実を述べたもの」を出典にしようとはしていません。「書評」や「ニュース」になるほどの高い、注目すべき評価を受けたもの、つまりは「主要な業績」のことしかはじめから言っていないのです。その「勘繰り」もやはり「見当違い」と言わないわけにいきません。それも「真逆」の見当違いでした。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 21:19 (UTC)[返信]

議論不参加の方のテンプレート貼付はご遠慮ください。

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ノートで議論中の記事への「出典の明記」などのテンプレート添付の際には議論に参加することが望まれています。テンプレートそのものが議論への参加を呼びかけるものなのですから、議論中、また改善中の記事について議論に加わらずにただベタベタと貼り付けていかれる行為には納得できません。申し訳ありませんが取り消させていただきました。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 22:43 (UTC)[返信]

問題を解決させずにテンプレートを剥がす行為について

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他人の貼ったタグを剥がすことはおやめください。 こんにちは、牧歌舎さん。ウィキペディアに参加して頂きまして、どうもありがとうございます。

牧歌舎から{{複数の問題}}などを除去編集されておられましたが、Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすることにありますとおり、そのような行為は推奨されておりません。理由あってテンプレートが貼付されているのですから、テンプレートが貼られたことに対して意見があるのでしたら、その記事のノートページでの議論で問題を解決してから剥がしてください。

テンプレートの貼付は記事に疑問を持った人であれば誰がやってもよく、貼付に資格や制限はありません。議論に参加している必要もありません。牧歌舎さんがある記事に疑問を持ったのであれば、議論をせずにその記事にテンプレートを貼ってもかまいません。

今回、剥がしたテンプレートはご自分で復帰しておいて下さい。よろしくお願いします。

では、これにて失礼いたします。--58.98.148.88 2015年1月17日 (土) 23:02 (UTC)[返信]

ご教示ありがとうございます。かなり改善したところで見るとまた貼られていたので、ちょっと「取り消し」の所をクリックしてみたら次の画面で「取り消すことができます」と出たのでやっただけなのですが、そういうことが推奨されていないのであれば復帰させましょう。しかし、Template:出典の明記には「出典の明記」テンプレートの使い方として「本テンプレートはノート等で別途説明することなしに使用することができます。ただし出典不十分の場合に利用者間で「不十分」かどうか見解が分かれた場合には、ノートで不十分だと思う理由を説明した上で貼り付けてください」との説明があります。他のテンプレートにもあるようです。テンプレートは復帰させますから添付された方々もここでの議論に参加してくださるようお願いします。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 23:29 (UTC)[返信]

出版物の書評を出典として出版社の特筆性を証明することは独自研究にあたるか

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上の#宣伝とみなされそうな部分を大幅に削除しました。で展開されている議論を端的に説明すると、この記事を立項したTed&Mさんは、「牧歌舎が出版社としてどのような出版社であるかは、その発行した出版物を例示することをもって論述できる」とされているようです。それに対して私は「牧歌舎が出版社としてどのような出版社であるかは、出版社がどのような出版社であるかを説明した文献によって論述できる」と考えております。私はed&Mさんのこのような意見は、ウィキペディアの各種方針(Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せない)に照らして相容れないものであることを説明しようとしているのですが、Ted&Mさんは、「特筆性とは、「特徴」とか「特色」ぐらいの意味に限定されない、実はもっと厳しくもっと微妙な感覚が決定すべきもの」「ほとんどの記事は「主題の出典」がなくてもWikipediaに載っているのです。notabilityの語義からはそうなるのであって、またそうしかなりません。」などの発言から、そうしたものよりも先にWikipedia:独立記事作成の目安で示されている特筆性(notability)をウィキペディアに記述することが優先するとお考えのようです。この点について、皆様からのコメントをお願いいたします。--VZP10224会話2015年1月25日 (日) 05:30 (UTC)[返信]

その前に、この「牧歌舎」の記事のみについていえば、各種問題のご指摘のたびにいろいろと改善を加えたので現状では標記のテーマを検討するまでもなく問題は解決していると考えていますので、これについて記事を見た上でご意見を頂きたく存じます。これでも足りない場合、また「出版社」一般の特筆性をについての解釈をどのように行うべきかを考えていただくため、Wikipedia‐ノート:特筆性 (組織)で草案作成のためのテーマを提起していますので、ご参加いただければ幸いです。--Ted&M会話2015年1月25日 (日) 08:14 (UTC)[返信]
K-iczn様より「Talkhead」と「出典検索」のテンプレートをこのノートページの上部に貼付いただきました。特に「出典検索」では牧歌舎の出版活動について新たな知識をたくさん得ることができました。議論に参加くださる皆様にもぜひご参照いただきたく存じます。--Ted&M会話2015年1月26日 (月) 15:57 (UTC)[返信]
出版社の特筆性について判断する際には、その書評に「この出版物がこの出版社から刊行された」という以上のこと(たとえば、VZP10224さんの言葉を借りるなら「この書籍を出版するにあたり牧歌舎がいかなる役割を果たしたか」といった内容)が書かれていない限り、その書評は「有意な言及」「対象の話題について、直接的かつ詳細に述べていること」(Wikipedia:独立記事作成の目安#一般的な目安)には該当しないと思います。そういう書評をいくつ積み上げても、この出版社の特筆性を示したことにはならないはずです。--122.30.99.37 2015年1月31日 (土) 21:11 (UTC)[返信]
「この出版物がこの出版社から刊行された」ということは「出版社の特筆性」を検討する上で無視されるべきではないと考えます。これは少なくともその出版社について「直接的に述べている」部分だからです。「かつ詳細に」という部分については問題なしとしませんが、出版物の成立は著者の原稿だけに依るものではありません。原稿を元に、出版社はその作品がより良く、より多くの人に評価され読まれるために様々に創造的な「編集」を加えるのが常です。例えば新人賞を取ったばかり新人の小説であったとすると、プロットや登場人物まで変えたりします。文章の書き方指導さえします。代筆は論外ですが、作家が執筆中の作品に編集者が有用な情報を集めてきたりもします。またそれ以前のこととして、出版物は出版社が「企画」を立て、それに添って執筆者を選んで制作するのがある意味「普通」でもあります。そういうことを考えるとき、「書評」はその出来た作品を評することにより、企画者、著者、編集者をはじめとする制作スタッフの仕事を総合的に評していると考えないわけにはいきません。もちろん著者の役割は大きいのですが、出版社による企画自体の評価が実質的に著者より高い場合も十分あり得ます。書評はそのような背景については評者自身も知らないことですから述べませんが、現実には出版社の企画や編集姿勢などをも「詳細に」評している場合が決して少なくはありません。書評が出版社の特筆性と無縁ではあり得ないと考える所以です。--Ted&M会話2015年2月1日 (日) 00:19 (UTC)[返信]
「出版物の成立は著者の原稿だけに依るものではありません。原稿を元に、出版社はその作品がより良く、より多くの人に評価され読まれるために様々に創造的な「編集」を加えるのが常」であることを示した文献をご提示ください。他人の論点を独自研究と指摘しておきながら、自分の言論は外部出典を一切示さないというのはダブルスタンダードもいいところです。--VZP10224会話2015年2月1日 (日) 15:21 (UTC)[返信]
出版社の編集の仕事はけっこう常識的なことだと思ったので出典を示さなかったのです。「編集」について知りたければWikipediaでも他のWEBサイトでも簡単に調べられると思います。こんなことでダブルスタンダードと言われては困ります。それではご参考までに[[1]]を見てください。--Ted&M会話2015年2月2日 (月) 09:48 (UTC)[返信]

(インデントを戻します)「その出版物に対して出版社がどのような貢献をしたか」なんてものは、書籍1冊ごとに違いうるものですし、具体的な言及がなければ評価など不可能なものです(極端な例として自費出版とか持ち込み原稿なんてものも存在します)。ウィキペディア上でも、フリーオのように、発売元すら明確でない商品でも、製品として特筆性を満たす事例があります。ある書籍への書評は(それ自体に出版社への言及がない限り)出版社の特筆性の根拠とするには、適当でないと判断します。--Jkr2255 2015年2月2日 (月) 23:34 (UTC)[返信]

劈頭に書かれているVZP10224さんの見解は正しいと思います。それ以上でもそれ以下でもないでしょう。出版社の評価は出版社の評価をソースとして論述できる。書評は書評であって出版社の評価ではありません。また、出版している書籍によって出版社の評価を決められるというのは独自研究です。--IP58xv会話2015年2月6日 (金) 12:25 (UTC)[返信]
「評は書評でもありまた一定程度において出版社への評価とみなせます」というのが私の「Wikipediaの目的」に従った見解です。もしこれが正しければ「書評は書評であって出版社の評価ではありません」というあなたのご意見は独自研究ということになります。対等な立場からのご発言を求めます。--Ted&M会話2015年2月8日 (日) 03:14 (UTC)[返信]
コメント 下の#ポイントを簡潔にまとめてみますで引きましたように、一般的に書評は、書籍の「内容」に対する批評です。もちろん、書評によっては出版社への言及になっている可能性もありえますが、そのような事情もない、純粋な内容批評に終始しているような場合も、書評が出版社への「有意な言及」たりうる、というのがTed&Mさんのお考え、ということで間違いないでしょうか。--Jkr2255 2015年2月8日 (日) 22:48 (UTC)[返信]

出版物の特筆性が出版社の特筆性として当然認められていると思われるWikipedia:特筆性 (組織)#製品とサービスの記述

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Wikipedia:特筆性 (組織)#製品とサービス「製品やサービスに関する情報は、その会社の記事が非常に広い範囲を扱っているためその情報が記事全体のバランスを損なうといった事情がない限り、その会社の記事に収録するべきです」という記述があります。またWikipedia:特筆性 (書籍)#判断基準の1番目には新聞や雑誌の書評が挙げられています。特筆性のある製品やサービスは「その会社の記事に収録するべきです」というのですから、「その会社の記事」があるべきことが自然に認められていると思われます。つまりは出版物の特筆性が出版社の特筆性として当然認められているということになると思うのですが、いかがでしょうか。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 13:01 (UTC)[返信]

Wikipedia:特筆性 (書籍)は書籍で単体の記事を作成できるかどうかの仮目安であり、また末尾で触れられているように書籍について収録されるべきは著者の記事内かと。一般に出版社に属するサービスや製品は、雑誌、叢書、文学賞などのことを言います。いくつかの出版社は複数のベストセラーを世に送り出しそれに付随する書評も数多くありますが、評の対象はあくまでも書籍の内容であり出版社の特徴について言及しているものは一般的ではありません。「書籍に特筆性がある」「ならば書籍の特筆性が会社の特筆性を担保する」はWP:SYN的なものの考え方であると思われます。--203.148.113.109 2015年1月31日 (土) 15:19 (UTC)[返信]
IP氏も言及されていますが、書籍の書評は主に書籍そのものの内容や著者に対する言及であり、出版社の事業に対する言及は非常に少ないです。よって出版物の特筆性を証明しうる出典となる文献が存在していたとしても、その存在が当然に出版社の特筆性を裏付ける文献となるわけではありません。出版社の記事ではあくまでも出版社の事業の特徴を記述するので、もちろん出版物を並べて何かを述べることはあるのですが、それには、出版社が出版する出版物に共通する特徴とか、強みとしているジャンルを説明するための要素として列挙されるものであり、またその特徴自体もすでにどこか外部の媒体で第三者によって言及されていなければなりません。--VZP10224会話2015年1月31日 (土) 15:42 (UTC)[返信]
203.148.113.109さんは「出版社の特徴」と言われ、VZP10224さんも「出版社の事業の特徴」などと言われるのですが、やはり皆さん「特筆性」と「特徴」を混同しておられるようです。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)のどこを見ても「特徴」のことなど一言も書かれておりません。「特筆性」と「特徴」は類似はしていますが、語の意味もその使用目的も異なるものです。「特筆性」があっても大した「特徴」はないというものもあり得ますし(出版社と出版物の書評がそれに当たると思われるなら思ってくださってもけっこうなのです)、「特筆性」はないが「特徴」はあるというものもあり得ます(「うどんを口から入れて鼻の穴から出せる人物」などはそれに当たるかも)。203.148.113.109さんの言われる「一般に」とか「一般的」という基準も、「特筆性」を判断する基準としては独自研究になろうかと思います。「WP:SYN的なものの考え方」というのは印象を述べられたのでしょうが、私は合成的な推論をしていませんのでイメージ的に「類似」を示されたものかと思います。何としても気をつけていただきたいのは、「特筆性」と「特徴」の混同です。この二つは類似関係にあるだけで別物なのですから、「特筆性」がないことを示すために「特徴」がないことをいろいろな観点や材料から示されますと、VZP10224さんがやってはいけないものとしてご教示くださった「類似する特徴を持つ事象を外部の出典を伴って掲載する行為」「個々の事例を並べ立てて何かの方向性を推測させる記述」「個人的な主張に対して都合の悪いものをあらかじめ排除して特定の方向性を誘導したいときに使われる記述方法」になってしまい、また「独自研究」にもなってしまいます。よろしくお願いします。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 19:40 (UTC)[返信]
ええとですね、「出版物の特筆性が出版社の特筆性として当然認められている」ということにはならないと思います。そもそも、草案のWikipedia:特筆性 (組織)がガイドラインのWikipedia:特筆性よりも優先されるということはありません。で、Wikipedia:特筆性の文書では「もし対象と無関係な信頼できる情報源から有意な言及があった場合、その話題はウィキペディアの独立記事として作成、収録するだけの価値がある」とされています。要は、この基準を満たしているかどうか、だと思うんです。
たとえば牧歌舎#略歴には「文藝春秋の総合文化誌で紹介される」と書かれています。けれども、公式ウェブサイトの「文藝春秋とのコラボ業務ご案内」[2]を見れば分かる通り、牧歌舎は文藝春秋と提携・協力関係にあるわけです。Ted&Mさんは、「2010年(平成22年) - 文藝春秋の総合文化誌で紹介される」という記述を残したままで「2009年(平成21年) - 株式会社文藝春秋との提携協力業務を開始」という記述を除去し、また同時に、「TBSテレビ番組に制作協力」を「TBSテレビ番組で紹介される」と書き換えておられますよね[3]。Ted&Mさんは{{特筆性}}や{{宣伝}}を除去したいのであれば、こういう編集は控えたほうが良いと思いますよ。--122.30.99.37 2015年1月31日 (土) 21:11 (UTC)[返信]
細かい編集履歴まで見ていただいて恐縮です。まず、前段のご指摘はこのノートページで最大の本質的なポイントですので私の考えを言いますと、今、どうしても探せないのですが、Wikipediaの目的は「多様で豊かな知識を読者に提供すること」だとどこかに書かれてあったことが私の考えの一番上にあります。その下に検証可能性や特筆性のガイドラインがあり、草案がその下ということでしょうか。しかし「草案がガイドラインより優先されるということはありません」ということはいわば理念であって、現実にはガイドラインの表現の抽象的な部分を具体化しようというのが草案でしょうから、ガイドラインと草案は少なくとも並列を目的としているものと理解され、ガイドラインにおいて曖昧なことが草案適用で当面認められることは現実にはあってよいと思います。そういう意味では草案の優先性もあるということになります。
後段のご注意は、ありがたく拝聴しました。言い分がないわけではないですが、ご指摘の部分は元に戻します。他の出典もありますので同様に公平詳細に吟味くださり、是認できる部分はそのようにお知らせください。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 22:49 (UTC)[返信]

(インデント戻す)では端的に。Wikipedia:独立記事作成の目安を基準とするならば、『もし対象と無関係な信頼できる情報源から有意な言及があった場合』には単独の記事として作成できる目安を満たします。しかし出版物に対する書評は書籍の特筆性を担保できても、出版社についての有意な言及ではありません、出版社について言及していないためその特筆性の担保にはなりえません。
また出版物の書評について記事内容にするかどうかはWP:NOT内、『ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません』の4『あらゆる細部に至るまですべて包括する詳細な解説』を見るかぎり避けるべきでしょう。
Wikipedia:方針とガイドラインのはじめにあるようにウィキペディアの目的は『信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げること』です。方針はその目的のため全ての利用者が従うべきと考えられているルールです。その方針の一つであるWikipedia:独自研究は載せないを読んでいただければTed&#38様には御自分の意見が方針から外れていることを納得していただけるものでしょう。--203.148.113.109 2015年2月1日 (日) 07:18 (UTC)[返信]

ここでの私の発言を十分お読みいただいていないように思われます。ポイントを繰り返しますが、書評は、ある出版社がその書籍を出版したことを直接的に示しており、その対象となっている書籍は著者と出版社の共同作業で成立しているものです。書評というものが著者の特筆性をも担保しない、ただその書籍自体の特筆性をのみ担保するという立場に立たれるならまた別の説明が必要になりますが、書評が著者の特筆性を担保するなら、独自研究によることなく、その書籍の企画者であり共同制作者である出版社も特筆性が担保されます。こうして、Wikipedia:検証可能性]]Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)の基準を総合的に検討した結果、書評は、個々の書籍により程度の差はあれ、出版社(出版者)の特筆性を担保します。Wikipedia:方針とガイドラインは確かに基本基準ではありますが、まさにガイドライン(おおまかな指針)であり効率性のためのベストプラクティスに重点を置いたもので、さらに個別具体的な指針が加わることを必然的に要請するものです。それに応えようとするWikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)などを加味し、またWP:GUIDESにあるとおり「常識に基づいて判断」して特筆性を検討するのが妥当です。そうした検討を経て特筆性が認められるものを、Wikipedia:方針とガイドラインの文言からのみ否定することは失当です。--Ted&M会話2015年2月1日 (日) 14:56 (UTC)[返信]
Wikipedia:独自研究は載せない方針でありガイドラインより上位の規則です、ガイドラインをもって方針を覆すことはすべきではありません。効率のために根本的なルールを無視するのは本末転倒です。
作家や学者についてはWikipedia:特筆性 (人物)が基準となります。また節の初頭に『個々の類型の特筆性を裏付けるための代替的な基準について論じています』とあるように、Wikipedia:特筆性 (組織)#製品とサービスは製品やサービスが組織記事の特筆性を担保するかではなく、特筆性のある製品やサービスを単独の記事とすべきかを論じております。--203.148.113.109 2015年2月1日 (日) 15:56 (UTC)[返信]
後段についてはそういうご意見もあり得ると思っていましたのでノートしておきます。問題は前段ですが、気になるのは「上位の規則」という表現です。先には「草案」は「ガイドライン」に優先しないということを言われました。今度は「ガイドライン」より「方針」が上位の規則だから記述が「ガイドライン」をクリアしても「方針」により否定できると言っておられるようです。規則の上位と下位というのが「法律」と「条令」のようなものだとすれば、条例をクリアしていれば違法ではあり得ません。違法な条例が作られてはいけないということです。現在の「ガイドライン」が「方針」に違反していなければ、「ガイドライン」をクリアした記述が「方針」に反することはないのです。--Ted&M会話2015年2月1日 (日) 19:18 (UTC)[返信]
また、上位下位ということで言うのであれば、「方針」より上のものは『信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げること』という「目的」であろうと思います。結局これだけが唯一不動のものであるとしたら、全ての議論は「方針」でなくこの「目的」に添っているかどうかで検討されるべきです。「方針」を最上位において判断するのでなく、「目的」を絶対的な位置に置き、「方針」以下はすべて相対化され本質的に参考基準程度に位置づけられなければなりません。現状の「方針主義」や「出典主義」は、それが絶対化されているならば、改められなければなりません。--Ted&M会話2015年2月1日 (日) 19:18 (UTC)[返信]
目的を達成するための方針です。ここは記事の内容についてどうするかを議論する場所ですので、各方針についての議論がしたいのでしたらWikipedia:井戸端で行なうか、具体的な修正案があるのでしたら修正すべきと考える方針のノートページで行なってください。規則に基づき記事の内容をどのように扱うかについて議論する場所で規則についての議論を行なうことは場所違いです、このままここで方針についての議論を継続されるならば利用者の行為についてのコメント依頼も視野に入れます。--203.148.113.109 2015年2月2日 (月) 01:32 (UTC)[返信]
あなたが「上位の規則」ということを言われたのでそれについてコメントしたまでです。規則の上位下位というのは法律と条令の関係なのですかそうではないのですか。そうでないならばどのような関係なのですか。私は議論でなく説明を求めているだけです。説明を試みようともせずに「利用者の行為」を問題にする、というのではただの「威嚇」ではありませんか。--Ted&M会話2015年2月2日 (月) 12:00 (UTC)[返信]
すでにWikipedia:方針とガイドラインを提示しておりますが、ガイドラインの説明文に『ガイドラインが方針と衝突する場合には、通常は方針を優先します』とあります。これで納得できなければWikipedia:井戸端で質問する方が場所として適当です。--203.148.113.109 2015年2月2日 (月) 13:02 (UTC)[返信]
それは『編集者はガイドラインに従うように推奨されますが、それについては常識に基づいて判断し、個別の事情に応じて例外を適用してもかまいません。』に続く補助的なフレーズですね。上位下位のご説明として了解しました。同時にまた、「方針」が「目的」(『信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げること』)と衝突する場合には、通常は「目的」を優先するということが語られているものとも理解しました。--Ted&M会話2015年2月2日 (月) 16:28 (UTC)[返信]

言論の自由の確保のために

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Wikipediaには多くの出版社のページがあります。私はどんなに小さい出版社でも、新聞の書評やニュースに取り上げられたほどの作品を出版している実績があれば、その出版社のページがWikipediaにあって然るべきと考えますが、「Wikipediaではそれは認められていない」と主張する人々がいます。その理由は、Wikipediaでは書き込みをする全ての人が従うべき「ガイドライン」があり、「対象と無関係な信頼できる情報源から有意な言及があった場合、その話題はウィキペディアの独立記事として作成、収録するだけの価値がある」となっているから、ということです。これは例えば新聞(対象と無関係な信頼できる情報源)でその出版社について詳しく書いている記事があればOK」ということです。「ではそこから出版された本で書評にでも載ったものがあればいいんだな」と考えるのが常識的な感覚だと思いますが、そうはいかないのだそうです。「書評は本について書かれているのであって出版社そのものについてきたものではない。出版社そのものについて詳しく書かれていなければダメだ」ということです。私は変なルールだな、と思います。出版社が書評でなくて新聞に載るということは、何かのことでニュースになったり話題になったりするということですから、小さな出版社には高すぎるハードルで、大手の出版社と較べてあまりにも不利なルールです。そんなルールが本当に適用されたら、今Wikipediaに載っている800以上もの出版社はほとんど全部なくなってしまいます。ほとんどの出版社は作った本以外に新聞に詳しく取り上げられるチャンスはないのですから。それでは、今、800もの出版社のページがあるのはなぜかと聞くと、「管理者」という人たちのチェックが追いついていないからとのこと。ということは、これからチェックが追いつけば、出版社のページはだんだんなくなっていくということです。もともと、WikipediaがWEB上にある百科事典であることの意義は「多様な対象について豊かな知識を得られる」ことだということがWikipedian目的として掲げられているのですが、それとは逆に進んでいるようにしか見えません。私は、極端にいえば、書かれてある内容がウソでないと確かめられる「信頼できる情報源」さえあれば、ある人にとってはつまらないことや些末なことでもどんどん書かれていいと思っています。その記事がつまらないと思う人は見ないだけのことだし、興味があったり必要があったりする人には、紙の百科事典には載っていないようなことまで載っているのだから大いに役立つ情報源になるからです。それが「多様な対象についての豊かな知識が得られる」ということだと思います。それに逆行するようなことが本当にガイドラインなのかといろいろ確かめると、どうもそれは文字通りのガイドライン(おおまかな指針)であって、具体的な個々の事例に当てはめるにはとても無理があるからということでしょうか、それを補うための具体的な基準が別に決められたり「草案」というような形で提案されており、これらを加味してどの記事がWikipediaにあってよいかまたはよくないかが決められるということのようです。そういう、ガイドラインとは角度を変えた基準があるから、出版社に限らずどんな会社の記事も、新聞のニュースになどならなくても掲載が続けられているのだと私は思っています。そこで私は、出版社についても、そうした現実的な基準や解釈で十分クリアできると考えてこの「牧歌舎」のページの改善を進めています。じつはこのページは約7年前に執筆したのですが、ずっと普通に掲載されていたのに、ある日突然、出典を付けなければ削除するという警告のマーク(テンプレートといいます)が記事の頭に貼り付けられて、今日まで慌ただしく脚注やら出典やらの「情報源」を探しては付け探しては付けしてきました。会社そのものが新聞でニュースや話題になった完璧な「出典」は見つけられないとしても、それに準ずるテレビや本などにこの出版社が出たことを記したり、出版物が新聞で書評に載ったりニュースになったりした情報を探しては「脚注」として付けたのですが、それでも「管理者」の人々は不足のような反応です。またそれとは別にこの出版社の出版した本の新聞などでの高評価は、この出版社のページがWikipediaにあっていい根拠と考えるべきだとWikipediaのいろいろな基準のページをくまなく見て証明してきたのですが、そういう有利なポイントがいくらあっても、最終的には「ガイドライン」の文言による条件をそのままで完全に満たさなければダメだと言われてしまいました。その一方で、なんの出典もないほとんどの出版社のページは「チェックが追いつかないから」と放置されたままです。要するに、ほとんどの出版社がクリアできないハードルを設定することでいつでも削除できる形にしておき、気が向いたところに警告のテンプレートを貼り付けて、しぶとく抵抗するならガイドラインを持ち出して削除してしまうということのようです。不公正で不合理なことだと思いますが、理論はだれにも公平です。不公正や不合理には必ず矛盾や無理がありますので、私はそこを突いていくことで、牧歌舎だけでなく他の全ての出版社の言論活動が不利や抑圧を受けないように努めたいと思っております。長い議論ですのでここで一度このようにまとめました。これを踏まえてさまざまなご意見が寄せられることを期待しております。--Ted&M会話2015年2月1日 (日) 05:09 (UTC)[返信]

Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:ウィキペディアは何ではないかをお読みください。--203.148.113.109 2015年2月1日 (日) 07:43 (UTC)[返信]
コメント 第三者言及は別に一般紙に限ったものではないので、出版業界の業界紙・誌をあたってみてはいかがでしょうか。--Jkr2255 2015年2月2日 (月) 23:37 (UTC)[返信]
コメント 私は「編集者のチェック」という表現をしており、「管理者のチェック」という言い方はしておりません。また管理者は記事の削除・保護などの権限を持っていますが、記事内容の査読を行ったりするような権限はありません。記述の内容の検証・訂正・編集に限れば、一般利用者と何ら権限に変わりはありません。誤解なきようお願いいたします。--VZP10224会話2015年2月13日 (金) 14:28 (UTC)[返信]

著作権は大丈夫なのでしょうか

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当記事はWikipedia:削除依頼/牧歌舎にて一度削除され、復帰依頼を経て、削除された記事の復帰ではなく再投稿という形で記事になっています。ここからやや面倒なことなのですが、復帰依頼でPWJ氏が牧歌舎の削除前記事のコピペやアーカイブのリンクを提示されておりますが、現行記事の初版が多くの部分でそれと似ております。おそらく当記事自体が削除前の記事のアーカイブ等に手を加えて再投稿されたものだと思われるのですが、通常の復帰依頼手続きの手順を踏んでいないため、現状では(削除前の記事が確認できないため)形式的に外部のテキストからの流用をしている形になっております。この状態はWP:DPから見て大丈夫なのでしょうか?--203.148.113.109 2015年2月1日 (日) 08:54 (UTC)[返信]

削除された版とほぼ同じならば即時削除の全般5で対処して下さい。即時削除の範囲を超えるほど改変されている場合には、履歴不継承(ケースB)の可能性、かつ前回審議された点(ケースE)が解消されたかどうか、の2点を理由として通常の削除依頼を出して下さい。- NEON会話2015年2月3日 (火) 04:23 (UTC)[返信]
どうも私はこういうお役所的な手続きが苦手であまり興味もないのですが、必要であればしなければなりませんね。まず、「削除された版とほぼ同じならば」と「即時削除の範囲を超えるほど改変されている場合には」という2つの前提条件があるようですが、私にはどちらだかわかりませんし、私が決めることでもなさそうです。多分削除依頼をする方が決めることだろうと思われますので、削除依頼を予定されている方から教えていただけませんでしょうか。--Ted&M会話2015年2月11日 (水) 17:49 (UTC)[返信]

テンプレート除去の報告

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テンプレート{{複数の問題}}を除去しました[4]。宣伝の疑い部分を除去し[5]、「出典の明記」は出典や脚注があちこちついているので[6]、必要ならば文ごとに要出典を貼付すべきと判断したためです。--Yamanosora会話2015年2月2日 (月) 14:58 (UTC)[返信]

ポイントを簡潔にまとめてみます

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書評に出版社がどう書かれているかといえば、普通は「こういう注目すべき本が○○出版社から出た」となっているわけです。これは「○○出版社がこういう注目すべき本を出した」という文と文法上は意味が違いません。類似の合成でも推論でも独自研究でもなく自明に成り立つ事実です。にもかかわらず「書評は出版社について述べたものではない」との言説を信じる人が少なからずいます。「主語が変わるということは、何について述べているかが変わるということだ」とでも言うのでしょうが、文意が同じなのですから、それはまったく主観的な感想あるいは独自研究にすぎません。どちらの言い方も、どちらについて述べたものとでも言い得るからです。もちろん書評ですから主な関心は出版社でなく本に向けられているわけですが、出版社についても述べられている、ということは否定できないことなのです。ただ、それで十分に特筆性を確証できるかというと、それだけでは不十分とも言えます。「対象について直接的に、かつ詳細に述べたもの」が「有意な言及」だからです。書評は上記のように出版社について「直接的に言及」していますが、その本がどれほど出版社自体を規定するものとして詳細に述べられているかは不明だからです。しかし、これらを踏まえて書評が出版社の特筆性を担保するための「取るに足らない」出典でなく「取るに足る」出典であると言えるとすれば、特筆性をいくらかでも示す出典は少数であるより多数であることが奨励されていますから、質と量が「十分」となる水準が検討可能です。「方針」の文言と形式的に合っているかだけにこだわっていくよりも、そうした地道な検討を重ねていくのが正道というものでしょう。「この出版社はなんら特筆すべきものがない出版社だ」ということを詳しく述べた新聞記事があった場合、「これは対象に直接的に述べた詳細な記事だから有意な言及であり、これを出典としてこの出版社の特筆性が証明されている」とするのが「Wikipediaの方針」だというような形式主義がまさに邪道であることは広く認識されなければなりません。--Ted&M会話2015年2月3日 (火) 12:48 (UTC)[返信]

コメント 書評は「書」評である以上、出版された書籍という「物」への評というのが主な性格であって、状況・内容によっては出版という「行為」への評足りうることがある、というのが自分としての考えです(デジタル大辞泉によれば、書評は「内容」を紹介・批評するものだそうで、コトバンクの世界大百科事典では「装丁や造本面など書籍の外形について触れることはなく,著作の内容に関する批評が中心となる」としています)。なお、「特筆性のないことを詳述する」なんてことはまさに悪魔の証明であり、原理的に不可能です。ウィキペディアンにできるのは、1つ1つの言及が特筆性の証明たりうるかを吟味する、それだけです。--Jkr2255 2015年2月3日 (火) 13:15 (UTC)[返信]
概ね同じ意見です。後段は「方針」の「文言」に形式的に忠実に従ってさえいれば過たないとする姿勢に釘をさしたものです。「悪魔の証明」でなくても「特筆性がないことを詳述する」記事は書かれ得ます。--Ted&M会話2015年2月4日 (水) 14:53 (UTC)[返信]
「特筆性」が「特徴」「特色」「特質」などの語とあまりにも混同されていることが問題です。「特筆性」は「特徴」「特色」「特質」と偶然関連する機会が多いとしても、必然的な関連性をもたない別義の言葉であり、これらの言葉との間に必要条件も十分条件も、ましてや必要十分条件も形成しません。特筆性に関する基準のページをいくら検索してもこれらの語がヒットしないことを確認してください。にもかかわらず、「その会社の特徴が書かれていなければならない」とか「経営方針に触れられていなければならない」とかいう言説が当然のようになされています。「特筆する」とは国語事典ふうに言えば「取り立てて言う」ということで個人的な自由意思の発現ですから、それを客観化して一般的な条件を付けることは「一応百科事典らしい見た目にするため」以上の積極的な意味は認められません。そのようにして、ある人にとっては「特筆性が大いにある」記事もその人以外の人が恣意的に定めた「一般的な基準」で掲載されないとなれば、「見た目」のために百科事典としての有用性を失うという本末転倒をきたします。「信頼される百科事典を―それも、質も量も史上最大の百科事典を」という「ウイキペディアの目的」達成を妨げるわけです。ここでいう「質」は「検証可能性」であって「見た目」のイメージでないのは明らかです。つまりは記事はその内容が検証可能であれば記事の主題自体は何かの「与えられた資格」を付けられる必要性は本来的にはないのです。それでも単に「検証可能性」があるだけで主題が立てられると整理がつかなくなるから「主題の特筆性」も便宜上設定しようということであればそれもやむを得ないかもしれませんが、その場合はWikipediaの基準で認められた「特筆性」を満たすものと特別の関係をもつほどのものは優先的に「特筆性」があるとされるべきでしょう。個人の判断にゆだねられるべき「特筆性」を「取り立てて言える条件」と便宜的に一般化するのであれば、例えば優れた製品(Wikipediaで「特筆性」を付与された製品)を世に出した会社はそれだけで「取り立てて言える」(「特筆性」がある)とするのが、「特筆性」なる概念とその制約基準を作った側の責任であり義務でもあるということになります。--Ted&M会話2015年2月4日 (水) 14:53 (UTC)[返信]
コメント たしかに「特筆性」では誤解を招きやすいので、本体はWikipedia:独立記事作成の目安と改名されていますが、まだまだ定着までは道半ばのようです。それはさておき、「Wikipediaの基準で認められた『特筆性』を満たすものと特別の関係をもつほどのものは優先的に『特筆性』があるとされるべき」という考え方は、現状のコミュニティには受け入れられていないようです。「著名な人物の子孫である」人物でも、その人自身の活動だけで単独記事として妥当か判断されています。なお、あまり本質的でないので小さめに書きますが、文学作品でないような書籍の場合、単独記事とするハードルはかなり高いものが要求されるのが現状です。--Jkr2255 2015年2月4日 (水) 22:54 (UTC)[返信]
あなたがいみじくも言われたように、「『特筆性』を満たすものと特別の関係をもつほどのものは」という私の文中で「特別の関係」として概念化したグループは私の意図しないものまで含んでしまいました。偉大な人物の子孫が血縁という「特別な関係」があるからと言ってそれだけで特筆性の根拠にならないことは当たり前のことです。概念化された基準というのはこのように意図しないものも含めたり逆に排除したりするわけです。Wikipediaの「方針」も鵜呑みにすることなく、一つ一つについて常識をもって判断していくことに努めるべきです。ここでいう「常識」とは「社会共通の認識」というより、「自分にとって社会共通の認識と思われること」で、「自分としてこれが当たり前と思っていること」、つまり「自分の頭で考えたこと」にほかなりません。--Ted&M会話2015年2月8日 (日) 12:07 (UTC)[返信]
Wikipediaの方針やガイドラインも個々に判断して行かないといけないことには全面同意しますが、Ted&Mさん曰くの「常識」、すなわち「自分の頭で考えていること」が参加者ごとに違っていることがこのノートの状況を招いていますので、合意形成を図るのが必要な場面だと判断します。--Jkr2255 2015年2月8日 (日) 22:48 (UTC)[返信]

肝心の「出典」はきちんと検討されたのでしょうか

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「出版物の特筆性を示す書評やニュースは出版社の特筆性の根拠になり得る」というテーマについて、まだまだ議論をしたいのですが、牧歌舎についてはすでに「出典」をいろいろ付けています。ここはもともと記事の「改善」について議論するページであり、これら「出典」によってすでに「改善」は完了しているものと思いますので、牧歌舎記事上の特筆性やコメント依頼のテンプレートはきれいに撤去することとし、このノートでの議論はWikipedia:特筆性 (組織)などに移したく考えますがいかがでしょうか。ご検討をお願いいたします。--Ted&M会話2015年2月8日 (日) 13:55 (UTC)[返信]

  • コメント 現状の記事内容では『第三者により牧歌舎を主題とし解釈・分析・評価・論拠・構想・意見した二次資料を基にした記述』が見られないと自分は見ますので「改善」は未了と判断します。

あと、Ted&M様がこちらを確認していることを前提で発言しますが、当ノートの7題目で提起しましたように削除前の記事との履歴が切れておりますので当記事が即時削除、または削除の対象になるおそれがあります。いったん現在集めた資料について情報をまとめて利用者ページかメモ帳の類に保存しておき、再投稿された記事についてはWikipedia:削除依頼を出し、特筆性の担保足りうる資料を提示してWikipedia:削除の復帰依頼にてWikipedia:削除依頼/牧歌舎で削除された記事を復帰しそちらを編集された方が履歴の面で正当と思われます。できましたら御自分で各依頼を出し履歴の分断の解決と特筆性の証明をされるようお願いします。--203.148.113.109 2015年2月8日 (日) 15:46 (UTC)[返信]

おっしゃっていることが私にはちんぷんかんぷんで容易に理解できません。ご指摘を受けるたびにあちこちルールを見ながら進めてきたつもりですが、「解釈・分析・評価・論拠・構想・意見した二次資料を基にした記述」というルールはどこに書かれているのでしょうか。それをよく読んだ上で確かめてみたいと思います。--Ted&M会話2015年2月8日 (日) 17:10 (UTC)[返信]
眠い目をこすりながら『解釈・分析・評価・論拠・構想・意見した二次資料を基にした記述』というルールがどこかにあるのかと特筆性関連のページで検索をかけてみましたが、見当たりません。単語別に検索してさえまったく出てこないものが半分もありますし、あとの半分は出て来ても「出典」でクリアしているかルールとは関係ない意味で使われているものでした。思うに『解釈・分析・評価・論拠・構想・意見』というのは203.148.113.109さんが考えられた「有意な言及」の定義あるいは基準なのではありませんか。だとすればそれは「独自研究」に当たりませんか。まずはこの疑念を払拭したいので、『解釈・分析・評価・論拠・構想・意見した二次資料を基にした記述』というルールがどこのページにあるかを明確にお示しください。--Ted&M会話2015年2月8日 (日) 19:17 (UTC)[返信]
わかりました。ご懸念はごもっともです。強行編集をするつもりは毛頭ないので、合意形成のための議論を続けましょう。現状では203.148.113.109さんに『解釈・分析・評価・論拠・構想・意見した二次資料を基にした記述』というルールがどこのページにあるかをお尋ねしていますので、そのお答えも待っているところです。Jkr2255さんからもこの節のテーマについてのご意見を頂ければ幸いです。--Ted&M会話2015年2月9日 (月) 03:47 (UTC)[返信]
『解釈・分析・評価・論拠・構想・意見』を検索ページで対象を全てのページにして調べてください、google検索でもヒットします。履歴分断についてはどのように処理されるつもりか返答を願います。--202.224.70.59 2015年2月9日 (月) 05:16 (UTC)[返信]
私は『解釈・分析・評価・論拠・構想・意見』の言葉の意味を訊いているのではありません。「牧歌舎を主題とし解釈・分析・評価・論拠・構想・意見した二次資料を基にした記述』が見られないと自分は見ますので「改善」は未了と判断します」とのお言葉が203.148.113.109さんからありましたので、Wikipediaで言う「特筆性」についてこれらの言葉で説明したところがあるのかと思い、どのような文脈でその言葉が使われているのかを確かめて私のルール理解が足りないのであればそれを今後の議論に生かそうとしたのです。そのことがわかっていて「google検索でもヒットします」などと言っておられるのだとしたら、不真面目なご発言です。--Ted&M会話2015年2月9日 (月) 11:10 (UTC)[返信]
ありがとうございました。見つかりました。203.148.113.109さんが挙げられた言葉が、順番もその通りに並んでいます。少し読んでみます。--Ted&M会話2015年2月9日 (月) 11:39 (UTC)[返信]
「二次資料には、一次資料から得た作成者の解釈・分析・評価・論拠・構想・意見などが記されています」とありますが、文脈からみるとこれは明らかに二次資料というものの一般的な説明であって二次資料の要件を示したり基準を提案したりしているものではありませんね。203.148.113.109さんの書いておられない「など」という語が用いられていることからもそう判断するのが妥当です。一般的な説明に使われた言葉に該当するものが洩れなく揃っていないからといって有効でないとするのは、どうしても独自研究ということになってしまいますね。--Ted&M会話2015年2月9日 (月) 12:26 (UTC)[返信]

ミスと思われるテンプレート貼付2件について

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この節の見出しを修正しました。--Yamanosora会話2015年2月12日 (木) 00:53 (UTC)[返信]

「特筆性を証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています」というテンプレートがすでに貼付されているにもかかわらず、現状の議論に加わってもいない方から記事の特筆性不足(特筆性がないとは言っておられません)を理由とした「削除依頼中」のテンプレートがその上に貼付されました。こういうのは、OKなのでしょうか。また、以前から一番上の節で再三ご注意を差し上げているのですが、VZP10224さんが見当違いの理由で脚注に「出典無効」のテンプレートを貼付されたまま取り消してくれません。これは明らかなミスなのですが、VZP10224さんは敢えてそのままにしておられるようです。私が取り消せば「勝手に剥がしてはいかん」というご注意がどこからか来るでしょうし、このウィキペディアのコミュニティというのは昔の相撲部屋のように「ムリ偏にゲンコツ」で新弟子を鍛えてくれる所と理解すればよいのでしょうか。常識的な観点からのご意見をお待ちします。--Ted&M会話2015年2月11日 (水) 17:31 (UTC)[返信]

1. 削除依頼のテンプレート貼付[7] は問題ないと思います。参照:「Wikipedia:削除の方針#参加資格
2. 出典無効のテンプレート貼付[8]については、私は出典を確認していないのでわかりません。VZP10224さんに質問です。出典無効のテンプレートを貼付した理由・根拠をご説明ください。お願い致します。参考:[9] [10] [11] [12]--Yamanosora会話2015年2月12日 (木) 00:53 (UTC)[返信]
削除依頼テンプレートの貼り付けに関しては問題ありません。この点はYamanosoraさんと同様の意見です。出典無効テンプレートについてですが、Ted&Mさんのこれまでの主張によれば「牧歌舎が出版した、特筆すべき出版物」の出典として「書評」を掲載した、とのことでした。ですが私が実際に記事を確認したところ、書籍の内容を引用しながら沖縄戦の惨状を伝え、筆者の感想を一言述べる程度のもので、「書評である」とする見方は適切ではないと思われます。朝日新聞のWebサイトでも、「夕刊掲載の論説委員がお送りする珠玉の随筆」となっており、書評が主な内容でないことは明らかです。また「書評が出版社の特筆性を証明するかしないかのテーマは別として、これは本の脚注ですよ。」と述べられていますが、書誌情報の出典として検討しても、出版社が牧歌舎である、ということ以上の情報がなく、書誌情報の出典としても無効になります。書誌情報の出典として使うのであれば、NDL-OPACの結果のほうがより詳しいので、こちらに差し替えておきますね。--VZP10224会話) 2015年2月12日 (木) 10:37 (UTC)誤字修正--VZP10224会話2015年2月12日 (木) 14:53 (UTC)[返信]
  • 誤字としても「磔」とは恐ろしい話です。脚注なのですから単なる書誌情報ではダメでしょう。NDLの検索結果なんかどの本にだって付けられるではありませんか。朝日の記事のほうがよっぽど読者の参考になるもので脚注として適切です。「私が実際に記事を確認したところ、書籍の内容を引用しながら沖縄戦の惨状を伝え、筆者の感想を一言述べる程度のもの」と言われますが、「夕刊掲載の論説委員がお送りする珠玉の随筆」で取り上げられているわけですから、誰だってこちらの方を見たいと思いますよ。だいたいNDLの検索結果を脚注として付けるのが間違っています。管理者さんなんだからそれくらいわかるでしょう。「書籍の内容を引用しながら沖縄戦の惨状を伝え、筆者の感想を一言述べる程度のもの」かどうか、それでは現物を引用しましょう。以下2012年7月6日朝日新聞東京夕刊2頁からの引用です。(改行省略)「(窓・論説委員室から)赤ん坊の沖縄戦  沖縄戦の最中に0歳から1歳の乳飲み子だった世代は、どのように死線をさまよい、生き残ったか。「赤ん坊たちの〈記憶〉 一九四三年~一九四五年に生まれて」(牧歌舎)は、記憶にない出来事を肉親らの「埋もれた記憶」から追体験し、記録した本だ。 真栄里泰山(まえざとたいざん)さん(67)の体験はこうだ。自身の泣き声に「敵に聞かれたらどうなる。泣かすな、首を絞めろ」と日本兵から何度も迫られた母親が、切羽詰まって赤ん坊を穴に入れ、木の葉をかぶせた。母親は諦めきれず、翌日見たら、穴にはハブが入っていた。驚いてハブを追い出すと真栄里さんはまだ生きていた。 那覇市の真和志中を60年に卒業した人たちが企画した。44年ぶりの同期会で、沖縄戦をどう生き延びたかという疑問が出たのが発端だ。 大城道子さん(67)らが09年秋、出生時の状況や戦時中の家族の避難など100項目にわたるアンケートを、県内外の同期生や知人ら約300人に送った。計110人から回答が寄せられた。 アンケートとは別に30人が自分史などを寄せた。「この世代が壊されたものが、いかに広範囲に及んでいるかに気づかされる」と編集委員の玉木昭道さん(68)。「最年少の戦争体験世代」による貴重な手記だろう。 〈大矢雅弘〉」(引用終わり)。これより図書館検索で出てくる単なる書誌情報のほうが脚注としてふさわしいのですか。誠に申し訳ないのですが、VZP10224さんの言われることもされることも支離滅裂と言わないわけにいきません。どうぞ脚注を元に戻して、NDLの検索結果を撤去してください。お願いします。--Ted&M会話2015年2月12日 (木) 14:09 (UTC)[返信]
ああ、だから「脚注」という逃げ道を作られたんですね。いざというときに「書籍の特筆性を示す出典ではなく、単なる注釈として提示した」という言い逃れをするために、わざとそうされたんですね。で、私の当初の問いかけに立ち戻って、Ted&Mさんが全文引用された朝日新聞の記事を改めて読んでみても、牧歌舎がどのように出版にかかわったのかの言及はありません。である以上、牧歌舎の「出版社としての」特筆性を示す出典としても使えないので、出典として無効であると考えます。--VZP10224会話2015年2月12日 (木) 14:53 (UTC)[返信]
私は書籍の特筆性を示す出典として脚注を付けたのですよ。「単なる注釈として」付けたわけではありません。「単なる注釈」というのはあなたの付けたNDLの検索結果みたいなものをいうのです。書籍の特筆性が出版社の特筆性を示すか示さないかはその次のテーマとして、ここではまず「書籍の特筆性」を示す根拠として朝日の記事を書籍の脚注に付けたのです。もちろん注釈の意味もありますが、そういうことで「単なる注釈」ではありません。なにも「書評」というタイトルでなくても、一般の新聞記事など信頼すべき情報源からの有意の言及があれば特筆性は認められることになっています。朝日の記事はこの書籍の特筆性を示す根拠であるのに、あなたはそれを勝手に外し、書籍の特筆性の根拠とはされていないNDLの検索結果に付け替えられました。あなたは図書館でいろいろ調べられたりして真面目だし良い人だと思うのですが、あなたがなさっていることは、その意図はないのでしょうが、明らかな反則行為です。早く気付いていただけませんか。--Ted&M会話2015年2月12日 (木) 17:14 (UTC)[返信]
コメント 上の議論を読んでいましたが、その状況では書籍記事があるならそちらの出典には使えるかもしれませが、出版社に関してみれば名前が上がっているだけであり、WP:Nのいうところの「『取るに足らないようなもの』(他の話題に関する記述において蛇足的に触れられているもの)」以上のものではないでしょう。--Jkr2255 2015年2月12日 (木) 22:28 (UTC)[返信]
コメントはありがたいですが、ここではそんなことより、VZP10224さんによる脚注外しについて明快にご意見を述べてください。この脚注外しは正当なものですか不当なものですか。--Ted&M会話2015年2月13日 (金) 00:08 (UTC)[返信]
自分がポイントだと判断したところを挙げたのですが、Ted&Mさんに「そんなこと」と言われて肩透かしを食らった気分です。それはさておき、この記事は出版社の記事です。その出版社に対しては「取るに足らない言及」しかない脚注を入れたところで、出版社への理解が深まるわけでも出版社に対する新たな情報が得られるわけでもなく、記事の発展にはほとんど貢献しません。記事の現状を踏まえれば、削除は正当と考えます。--Jkr2255 2015年2月13日 (金) 03:45 (UTC)[返信]
「そんなことより」と申し上げたのは少し失礼だったかもしれないのでお詫びします。Jkr2255さんが「ポイントと判断したところ」については誠実に対話させていただくつもりでおりますが、この節ではミスと思われる2つのテンプレート貼付についてご意見をうかがっております。1つ目はどうやらOKのようです。続いて2つめのVZP10224さんによる脚注への「出典無効」テンプレート貼付、およびその後の同箇所への注の付け替えについて、これは「書籍の特筆性」を判断するうえで不適当ではないでしょうかとお尋ねしているわけです。「出版社の特筆性」を示すものとしては仮に「取るに足らない言及」であるとしても、「書籍の特筆性」のためには重大な言及なので、勝手に外したり他の「重大でない言及」と取り替えたりすべきではないでしょう、というのが、この節を設けている趣旨です。こういうところからコツコツと議論していくべきというのがJkr2255さんのご主張でもあったと思いますので、ご協力をお願いします。あらためて、この脚注外しが正当なものか不当なものかについてのご意見を下さいますようお願いいたします。--Ted&M会話2015年2月13日 (金) 06:35 (UTC)[返信]

不適切なタイミングでの本記事削除について

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上記のように、管理者VZP10224さんによる記事内脚注への不当な「出典無効」テンプレート貼付、続いてその重要な脚注から無意味な脚注への勝手な付け替えについて取り消しを求め、またこれに対してご発言のあった、やはり管理者のJkr2255さんにこの脚注外し・付け替え行為自体についての当否のご判断を求めていたところ、お二人から何のお返事もないまま、突如として管理者menetokoさんから削除依頼がかけられました。そこでの議論では、数票の有効な存続票が入り、削除票も多数ありましたがそのほとんどは「出典」を自らの目で確認した上での説明責任を果たしていないルール違反の感情的な削除票でした。こうしてルール上無効な削除票が多い状態の中で、これまた突如として管理者muyoさんにより削除が実行されました。管理者さんはみなさんボランティアで頑張っておられて、基本的には尊敬していますが、今回の次第を見ますと、誰かが議論に行き詰まるとほかの誰かが助け船を出し、その方も行き詰まると次のほかの誰かが削除依頼をかけ、そこでまともな存続票が出てくるのに対しては、ルール無視の出典未確認の削除票が集ったところで、またほかの管理者が削除を実行してしまう、ということが行われたわけです。心ある管理者の方からは常識をもって存続票を入れていただいていますが、今回の展開に限って見れば、Wikipediaの「管理者」の一部のグループの方々のやり方に非常な疑問を感じざるを得ません。一言で言えば、「陰湿」であります。何年も存続していた記事を、昨年末、いつの間にか削除され、求められるままに改善して再投稿し、出版社の実績として特筆性のある出版物を集めてきて挙げましたが、「特筆性のある出版物がいくらあっても出版社の実績にならない」と極めて非常識なことを言われました。意味が分からないでいたところ「出版社そのものを対象とした有意な言及が信頼すべき情報源からなければならない」との説明です。見当違いのハードルだなと思いましたが、仕方がないので苦労して「紆余曲折を経て、この出版社のおかげでこの本が出来た」と著者が語っている記事を探してくると、「それは本の出版を話題とした記事の中での記述だからダメ。出版社そのものがメインの話題となっている記事でなければ有意な言及ではない」と、Wikipedia:独立記事作成の目安に「そういう特集のようなものでなくてもよい。取るに足りないものでなければよい」という意味の説明があるにもかかわらず否定されました。改善に改善を重ねた結果、まさかと思うような、ほかのほとんどの記事に適用されていない、不可能に近いハードルが持ち出されたのです。しかしこういう理不尽ななりゆきは良識ある人々によって公正に修整されるのであろうと見ていたところ、突如として「削除」という方法で遮断されたのであります。このような言葉は決して使いたくないのですが、「陰湿」――これが残念ながら、Wikipedia管理者の中の一群の人々への偽らざる印象であります。最初は判断力のない子どもに噛み砕いて常識を覚えてもらおうとするような感覚で努力を重ねたのですが、管理者の一人が論破されて、あるいはこちらの言っていることが飲み込めなくて言うことがなくなり立ち往生すると、別の人が別の論点にすり替えて口を出す。その論点でも論破されるとまた別の人が別の論点で、のくり返し。議論どころか反論への反論を誰もできないまま、出典検証もしないルール違反の削除票だけ繰り出して、いきなり削除、という顛末でありました。子どもの素直さでなく、悪意と敵意がそこに見えました。残念無念です。しかし私は敵対主義でなくどこまでも対話主義ですので、罪を憎んで人を憎まず。反省だけを求めます。不当に削除された記事や削除依頼記事、このノートでのやりとりはすべてコピーし、他日を期します。--Ted&M会話2015年3月3日 (火) 19:50 (UTC)[返信]

コメント 自分の名前も挙げられていましたので、それも含めて何点かコメントします。
  • 「Jkr2255さんにこの脚注外し・付け替え行為自体についての当否のご判断を求めていたところ、お二人から何のお返事もないまま」ですが、2015年2月13日 (金) 03:45 (UTC)に「削除は正当と考えます」と明確にコメントしています。これ以上何かしらの意見を求められていたということ自体、私としてはむしろ意外でした。
  • 「紆余曲折を経て、この出版社のおかげでこの本が出来た」という言及ですが、これが「建設会社や機械メーカーが本を出版することになった」ようなものならともかく、出版社が一定の労力を割いて出版物を発刊するのは通常の業務範囲内のことですから、よほどの事情が明記されたものでない限り「有意な言及」の範疇には入らないと、少なくとも私は判断します。
  • 「不可能に近いハードル」というのでしたら、はっきり言ってウィキペディアに投稿するには向いていないのではないかと考えます。わずか3年半で倒産した蓬莱社や、1件の料亭である小松 (料亭)などでも、適切な資料さえあれば良質な記事のように内容豊富な記事をつくり上げることもできます。押し問答を続けるより、ばっちり書かれた資料を探してくるほうが、ずっと建設的です
  • 上の段とも関連しますが、自分から見れば今回の問題は「意見のすり替えが続いた」というより「ウィキペディアの要求水準を満たせないところで右往左往するTed&Mさんを逐一否定していく」というような状況だと見ていました。
再作成に当たっては、ご参考いただければ幸いです。--Jkr2255 2015年3月3日 (火) 22:55 (UTC)[返信]
  • (「「Jkr2255さんにこの脚注外し・付け替え行為自体についての当否のご判断を求めていたところ、お二人から何のお返事もないまま」ですが、」に対して) どうして意外なのでしょうか。「VZP10224さんの脚注外し・付け替え行為自体についての当否のご判断」を求めて立節しているところに次元の異なるご発言があったので、この節の趣旨でである「この脚注外し・付け替え行為自体についての当否のご判断」を下さいと重ねてお願いしたのです。「意外」と言われることが私には意外です。--Ted&M会話2015年3月7日 (土) 19:33 (UTC)[返信]
  • (「「紆余曲折を経て、この出版社のおかげでこの本が出来た」という言及ですが、」に対して) 出典には「よほどの事情」が十分に明記されていると思います。「通常の業務範囲内のこと」であれば著者がこれほどまでに感激する「紆余曲折」はないと考えられますから、「通常の業務範囲外」のことであったと解するのが普通でしょう。--Ted&M会話2015年3月7日 (土) 19:33 (UTC)[返信]
  • (「「不可能に近いハードル」というのでしたら、」に対して) ばっちり書かれた資料はすでに呈示されていると思います。これを全部きちんと読んだ人がいないのに削除するというのは、どう考えてもWikipediaでは認められないことであろうと思っています。--Ted&M会話2015年3月7日 (土) 19:33 (UTC)[返信]
  • (「上の段とも関連しますが、」に対して) 「右往左往」しながら「逐一否定」されたのはあなた方のほうでした。あなたは「VZP10224さんの脚注外し・付け替え行為自体についての当否のご判断」についていまだに答えてくれていませんし、Menetokoさんは信頼すべき情報源の1000分の1も見ずに情報が少ないとして削除依頼を出すのははおかしいという私の反論に答えていませんし、ぱたごんさんは「対象が主題となった記事でないと有意な言及ではない」と言われるので、「特集のような形で取り上げられるまでの必要はない。関連する記事の中で取るに足らぬものとしてでなく言及されていればいい」という意味のWikipedia:独立記事作成の目安の文言を示すとそれきりお返事がありませんでした。このように、こちらからの一つ一つの反問には答えられないまま、他の人が別の角度からの否定論を前の人への助け船のように持ち出してこられることのくり返しでした。--Ted&M会話2015年3月7日 (土) 19:33 (UTC)[返信]
  • 参考にさせていただきます。--Ted&M会話2015年3月7日 (土) 19:33 (UTC)[返信]

報告 Wikipedia:コメント依頼/Ted&Mを作成しました。--氷鷺会話2015年3月4日 (水) 12:41 (UTC)[返信]

  • コメントわたくしも名指しされていますのでコメントさせていただきます。ウィキペディアへの参加はすべてボランティアであり、執筆や意見表明を強制されるものではありません。また、ウィキペディアに対する熱意を失って執筆活動から去っていくことを止めることもできません。よくわからない分野の記事に対して一生懸命になって資料集めをして記事内容を検証するよりも、自分の知識の深い分野に対しておもに執筆したいというのは人間の当然ともいうべき欲求です。こうしたことから、初版の執筆から何年たった状態であったとしても将来にわたってその存続を保証されるものではなく、削除の方針に該当する記事は削除依頼にかけられれば削除されてしまいます。
結局のところ、私を含め多くの方から繰り返し指摘されていた「出版社そのものの特筆性を示す出典」をご提示いただけなかったことが残念です。このノートの最初のほうでも申し上げましたし、コメント依頼の場でも申し上げましたが、ウィキペディアの出版社記事は、大手も含め、まだまだ書きかけで未完成なのですが、そのことをご理解いただけず、ほかの出版社と同程度の内容で十分存続に足ると思い込み、すでに改善は完了したともとれる発言をされていたのでは、削除は致し方ないと考えます。--VZP10224会話2015年3月4日 (水) 15:08 (UTC)[返信]
  • 「出版社そのものの特筆性を示す出典」は複数呈示されています。その実物をすべて確認された人からの削除票はVZP10224さんを含めてまだ一票もありません。明示された出典を確認せずに記事を削除する行為はWikipediaでは認められておりません。--Ted&M会話2015年3月7日 (土) 11:11 (UTC)[返信]
  • (「わたくしも名指しされていますのでコメントさせていただきます。」に対して) いかにボランティアであり、執筆や意見表明を強制されないといっても、削除依頼をかけたり削除票を投ずるときには出典すべてに目を通した上でのコメントが求められるでしょう。いたずら書きなどは別として、そもそも出典を検討しない削除の方針はあり得ません。--Ted&M会話2015年3月7日 (土) 19:33 (UTC)[返信]

コメント 少なくともボランティア団体のブログにおける記述[13]では、特筆性の証明にはならないものと思われます。なお私は管理者ではありません。--Menetoko会話2015年3月6日 (金) 11:57 (UTC)[返信]

  • 「ボランティア団体のブログにおける記述が特筆性の証明にならない」ということはWikipedia:独立記事作成の目安のどこにも書かれていません。「個人のブログは出典にできない」という説明はありますが。差別と偏見を受ける病者の支援活動に長く尽くしてきた歴史を持つ団体のブログは「信頼できる情報源」とすべきものです。--Ted&M会話2015年3月7日 (土) 11:11 (UTC)[返信]
コメント 「独立記事作成の目安」には「信頼できる情報源における全ての言及が、特筆性の根拠になるとは限りません。[中略]マイナーな新聞記事などは信頼できる情報源に該当したとしても、独立記事として作成、収録するだけの価値があることを示す証拠にはならないでしょう」とあり、前述したボランティア団体のブログにおける記述は「マイナーな新聞記事など」に相当するものと思われます。--Menetoko会話2015年3月7日 (土) 12:08 (UTC)[返信]
コメント 例えば塩沢実信の『出版社大全』は120の出版社について簡潔に解説しており記事の骨組みを作るに足る程度の情報があります。また所蔵の豊かな図書館ならば日本十進分類法の総記か産業あたりを調べれば出版関連会社に関する有意な資料もそこそこにはあるでしょう。--210.141.54.169 2015年3月7日 (土) 14:01 (UTC)[返信]
  • Wikipediaにはちゃんとルールがあるのですから、それに基づいた議論が行われなければなりません。Menetokoさんはハンセンボランティアゆいの会のブログの記事が「マイナーな新聞記事」に相当すると言われますが、誤りです。同会は、年間通じた療養所入所者の付き添いや介護、社会復帰支援を長年にわたり地道に続けてきており、歴史資料館のガイドも任されるなど、国立療養所から運営スタッフとして認められている団体です。全国紙でもたびたび活動が紹介されております。宗本智之にも削除依頼をかけたMenetokoさんは、社会的弱者やそれを支援する団体を、なぜそのようにはじめから価値の低いものと見ようとするのでしょうか。--Ted&M会話2015年3月7日 (土) 19:33 (UTC)[返信]
ルールで話すならば出版社に関しての研究や分析を行なっていない、言い換えると専門家ではない団体のブログはWikipedia:検証可能性からすると使用を避けるべきでしょう。--210.141.54.169 2015年3月8日 (日) 01:25 (UTC)[返信]
  • 出版物と関連する分野の専門的な団体の記事の中に、出版社そのものに直接言及する記述があるわけです。その分野の専門でない新聞に取り上げられてさえ特筆性があるのであれば、それ以上に特筆性を示したものともいえるのではありませんか。--Ted&M会話2015年3月8日 (日) 09:54 (UTC)[返信]
出版業界の歴史などについては専門ではないであろう団体の会長のブログの中で出版社についてほんの少し言及しているだけです、個人的には先に例示した『出版社大全』ぐらいに纏め上げられた書籍ですと記事の骨組みとしての使用に足るものと考えております(これも三次資料ではないかという意見は出るかもしれませんが)。あと新聞で取り上げられることが必ずしも特筆性につながらないことは御存知のはずですが。--210.141.54.169 2015年3月8日 (日) 11:46 (UTC)[返信]
コメント 「社会的弱者やそれを支援する団体」を価値の低いものとみなしているのではなく、単に新聞等で報道されたというだけでは特筆性の基準を満たすとは一概に言えないと考えております。--Menetoko会話2015年3月8日 (日) 02:56 (UTC)[返信]
コメント そういう言い方をするのなら「特筆性の基準を満たさない」とも「一概に言えない」のではありませんか。このように切り返せばあなたは「詭弁」として逃げるばかりですが。--Ted&M会話2015年3月8日 (日) 09:54 (UTC)[返信]

報告 Wikipedia:投稿ブロック依頼/Ted&Mを提出しました。--氷鷺会話2015年3月7日 (土) 11:53 (UTC)[返信]

  • 上記の文で指摘した「陰湿」な手口がまたくり返されるわけですね。情けないことです。言いたいことがあるなら堂々と私に向かって理を尽くしておっしゃるべきでしょう。氷鷺さんはWikipediaの歴史にそうやって自ら汚点を残すおつもりなのですか。アカウントという匿名だからといって責任を免れるものではありませんよ。--Ted&M会話2015年3月7日 (土) 19:33 (UTC)[返信]
あなたの容態がもう手の施しようがないものと判断しました。この記事が数年間にわたって削除されないまま放置されてしまったことと、悪質な宣伝担当を相手にウィキペディアのコミュニティが相当な手間と時間をかけてしまったことは反省点かもしれません。--氷鷺会話2015年3月7日 (土) 19:57 (UTC)[返信]
  • いえいえ、反省されることはありません。コミュニティからのいろいろなご指摘を頂いて、牧歌舎の記事はここまで改善されました。ほかの出版社の記事に類例がないほど主題の特筆性を示す出典も付けられました。こうしてすでにほとんど難点がなくなっているところで、出典を自分の目で確認しない人から削除票が入れられ、それを指摘しているところでいきなり削除されましたから、「不適切なタイミングでの削除」と申し上げております。--Ted&M会話2015年3月8日 (日) 09:54 (UTC)[返信]
コメント かなり前から言おうと思っていましたが、「社会的弱者やそれを支援する団体」と差別した上での見下した発言、思い上がった態度は恥ずべきことですね。広告塔に利用したと言っているようなものでしょう。--市井の人会話2015年3月8日 (日) 08:12 (UTC)[返信]
  • 市井の人さんに申し上げます。Wikipediaにはちゃんとルールがあるのですからそれに基づいて意見を言うべきです。「社会的弱者やそれを支援する団体」との語を差別発言とみなすひねくれた見方や、それを「広告塔」とする裏側からの勘繰りのような意見はルールに則った発言とは言えません。そんな言い方が対話の言葉として通用するなら、どんな真正な記事や書き込みでも否定できることになりWikipedia自体が成立しません。そういうのを「コミュニティを消耗させる行為」というのではありませんか。--Ted&M会話2015年3月8日 (日) 09:54 (UTC)[返信]
コメント Ted&Mさんは、なぜそのようにお怒りになられているのでしょうか。私はこのノートで話されていることについて、自分が思ったことをあえて下のほうにコメントしたまでで、そもそもここは「ノート:Ted&M」ではありませんよね。人並はずれた使命感から、ご自分を主語と捉えてしまう自意識云々でしょうか。--市井の人会話2015年3月8日 (日) 14:02 (UTC)[返信]
  • 全然怒ってなどいませんが、不毛な書き込みで消耗させないでいただきたいのです。あなたが私の発言を対象に上記の書き込みをされたことは明白ではありませんか。どうしても市井の人さんの発想にはひねくれたものが感じられてしまい、何か気の毒な悲しい感じさえ覚えます。お望みでしたら市井の人さんには全て降参しますから、もっと明るく生きてください。--Ted&M会話2015年3月8日 (日) 16:39 (UTC)[返信]

本記事「削除」と「復帰依頼却下」について

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報告 本記事「削除」と「復帰依頼却下」について、それぞれ2回ずつ行われた過去の審議へのリンクを、{{削除依頼過去ログ}}を使用し、ヘッダにまとめました。--市井の人会話2023年1月27日 (金) 16:56 (UTC)[返信]