ノート:漢字文化圏
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本文記述に疑問点3箇所 20061102
[編集]記述にいくつか疑問があるのですが、
>1840年のアヘン戦争で清が敗北し、中国の求心力が弱まると、冊封体制下に置かれた諸民族は、漢字そのものに従属の象徴としての疑問を抱き始め、
→アヘン戦争と、漢字への「従属の象徴」という意識の発生とは関係がないのではないでしょうか。日本の国学はどうでしょうか。
>第二次世界大戦後は独立の象徴として漢字を廃止する政策を取り始めた。
→漢字廃止政策は、少なくともベトナムでは第二次世界大戦前からとられていますし、そもそも「中国からの自立」という発想だけに由来するわけではありません。
>漢字が東アジアの国際文字であるとの視点はつい最近まで存在しなかった。
→漢字が日本と中国の共通文字であるという主張は明治期から多く見られます。
以上の記述について、ご意見をいただいた上で、もし異議がないようであれば削除することを提案します。
「漢字文化圏」は必ずしも漢字だけを基準にした概念ではないので、漢字の話ばかりではなく、律令制などの「冊封体制論」や、仏教・道教などの宗教文化にも言及する広い記述を目指した方がいいように思います。--Novo 2006年11月2日 (木) 07:06 (UTC)
- 改稿しましたが、ご意見があれば引き続き考えます。--Novo 2006年11月5日 (日) 12:59 (UTC)
用語「漢字文化圏」の初出
[編集]「漢字文化圏」という語を最初に使用したのは、『日本語の歴史2文字とのめぐりあい』平凡社 1963.12であると言われています。これは、亀井孝が中心的な編集委員でした。「漢字文化圏」の部分を執筆したのは河野六郎ですが、「漢文化圏」「漢語文化圏」ではなく、「漢字文化圏」としたのが亀井孝である可能性は高いと思います。なお、亀井孝が自分が使ったと言っているものをお教えいただければ幸いです。--Kuzan 2007年6月17日 (日) 08:04 (UTC)
- そうなんですか。ご教示ありがとうございます。亀井孝が「自分が作った」といっている証言は、『現代思想』22巻9号、1994年8月に載っているインタビューにあります。--Novo 2007年6月17日 (日) 11:47 (UTC)
- ありがとうございます。『現代思想』確認しました。なお、亀井孝も、より古くは「漢語文化圏」と称していたようです。--Kuzan 2007年6月18日 (月) 13:06 (UTC)
「固有名詞に関する呼称」節転記の提案
[編集]この記事のうち、「固有名詞に関する呼称」節は、テーマが中国語における外国固有名詞の表記#漢字文化圏の固有名詞表記と一部重なっており、転記していっしょに記述したほうがいいと思います。ご意見、コメントをいただければ幸いです。--Novo 2007年7月11日 (水) 02:03 (UTC)
- 確かに、文章に重複する部分があると考えられます。転記に賛成致します。--NipponiaNippon 2007年7月28日 (土) 11:23 (UTC)
- 一部転記を実行しました。--Novo 2007年8月4日 (土) 02:59 (UTC)
「相互主義」節転記の提案
[編集]上の節で、かつて存在した本記事の「漢字文化圏の固有名詞表記」節を中国語における外国固有名詞の表記#漢字文化圏内相互の固有名詞表記に転記する提案を行い、実行しましたが、その後、同じような内容をもつ「相互主義」節が書き加えられました。この節も上記の記事・節に転記し、記述を融合することを提案します。本来このテーマは本記事よりもより狭い、明確な項目名をもつ転記先の項目に書かれる方がふさわしいと思います。--Novo 2008年8月5日 (火) 21:01 (UTC)
- 特に反対意見がなかったので、一部転記を実行しました。--Novo 2008年8月19日 (火) 14:10 (UTC)
清朝の公用語は中国語だけではない。
[編集]モンゴルは、下記の赤字部分がまったく該当しません。
漢字文化圏とは、中国と中国皇帝からの冊封を受けた周辺諸民族のうち、漢文(特に中古漢語)を媒体として、中国王朝の国家制度や政治思想を始めとする文化、価値観を自ら移入し、発展させ、これを中国王朝とゆるやかに共有しながら政治的には自立を確保した地域を指す。
「かつて中国語が公用語だった地域」の地図に含まれているのもおかしい。
チンギス・ハンの即位(1206)から、チンギス裔最後の大ハーンであるリンダン・ハーンの孫が清朝に降伏した1634年まで、「中国語が公用語」だった時はない。また、その清朝であるが、清朝の版図のうち、中国語が公用語だったのは中国の部分だけで、満洲本土は満洲語オンリー、モンゴル・チベット・東トルキスタンではそれぞれ満洲語とモンゴル語・チベット語・ウイグル語の併用だったはず。そして、モンゴルのうち漠北(現モンゴル国の部分)は清朝が滅亡する直前の1911年に独立宣言を発し、その後は1919-1920年に中華民国軍による一時的な占拠を受けた時期をのぞき、一貫してモンゴル人の民族政権が統治していた。モンゴルの民族政権(ボグド・ハーン政権・モンゴル人民革命党政権・現モンゴル国)の歴代政権のなかで、「中国語を公用語に採用したもの」はひとつもないはず。よって地図はコメントアウトします。--Dalaibaatur(会話) 2020年12月25日 (金) 03:13 (UTC)