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ノート:源頼朝

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肖像画について

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頼朝像ですが現在この肖像画は頼朝とはされていません。ゆえに削除します。Izayohi 2005年6月15日 (水) 03:55 (UTC)[返信]

ああ、米倉迪夫先生の説ですね。これって、通説になったのですか?
この肖像画は長く「伝源頼朝像」として伝わってきたのは事実ですから、「伝源頼朝像」として表示しておいても良いのでは。--oxhop 2005年6月15日 (水) 13:25 (UTC)[返信]
自分はOxhopさんの意見に賛成で、但し書きを付けて載せる程度が適当と感じます。-- 2005年6月15日 (水) 13:57 (UTC)[返信]

百科事典なのでその伝来と各説、学校教育での扱いを本文に記載するべきです。Izayohi 2005年6月15日 (水) 22:42 (UTC)[返信]

それで良いと思いますよ。画像は表示、本文で簡単に説明する。これでOKですよね?
この肖像画は国宝だから、独立記事であってもおかしくないわけで、そちらで詳しく解説していただけると嬉しいのですが、どなたかお願いできませんかねぇ。--oxhop 2005年6月20日 (月) 17:30 (UTC)[返信]
Oxhopさんのおっしゃることに全面的に賛同します。これを源頼朝像とみなす説も未だ根強いようですし。伝平重盛像なども将来でてきそうですが、信玄や尊氏の肖像画のように決定打が出るまでは「伝なんたら」でいいと思いますよ。Aboshi 2005年6月21日 (火) 09:07 (UTC)[返信]
2005年6月15日まで掲載されていた画像は、大英博物館所蔵の源頼朝像のように見えます。少なくとも伝藤原隆信筆の国宝ではありません。例の国宝の像主については、まだ結論がだされていませんが、江戸時代には源頼朝像とされており、江戸時代にこれを模写したのが大英博物館本とされてます。6月15日まで掲載されていた画像が大英博物館本であるならば、源頼朝像として描かれたものと言えなくもありませんから、再復帰させて良いような気もします。ところで、国宝の神護寺肖像の画像が欲しいですね。shimoxx 2005年7月1日 (金) 17:07 (UTC)[返信]
(追記)調べてみたらあの画像は大英博物館本ではなさそうです。確実に源頼朝像と呼べそうなのは、甲斐善光寺所蔵の木像みたいです。肖像画よりは木像を掲載した方が良いかも知れないですね。shimoxx 2005年7月4日 (月) 16:51 (UTC)[返信]
どうも他と顔が違って見えていたのですが、国宝の肖像画ではなかったのですね。やはり国宝が良いですね。-- 2005年7月3日 (日) 03:47 (UTC)[返信]

うーん、甲斐善光寺所蔵の木像が文保三年(1319)に彫られた物ならば、本人の姿を写した肖像と呼ぶには、厳しいかもしれません。[[画像:Minamotonoyoritomo.jpg]]を戻せとの声が強い様ですので、特に動きがなければ、そのうち戻したいと思います。-- 2005年7月7日 (木) 16:16 (UTC)[返信]

Minamotonoyoritomo.jpgは結局なんきょく何の画像なんでしょうね?ともあれ神護寺国宝肖像を模写した画像であることは間違いなさそう。神護寺国宝肖像が本当は足利直義像であったとしても、後代には源頼朝像と認識されており、その認識の元に模写された公算が大きいだろうと考えられますから、Minamotonoyoritomo.jpgを源頼朝像として扱うことに特に問題ないのかも知れません。もし国宝肖像を掲載するのであれば話は別でしょうけれど。shimoxx 2005年7月9日 (土) 13:53 (UTC)[返信]
何なんでしょうね?国宝と良く見比べると、細かい所がけっこう違いますね。しかし頼朝と思って模写された画なら、それは頼朝像なのかもしれません。いずれにせよ国宝は、世の中で今も概ね「伝源頼朝像」として紹介されている様ですから、自分としては国宝が投稿されたなら、それを掲載するのが理想に思えます。-- 2005年7月11日 (月) 14:40 (UTC)[返信]

この画像は、多言語からコモンズに私がアップロードしたものですが。もしこれが問題でしたら削除して欲しいのですが・・・ Maakun 2005年8月24日 (月) 07:07 (UTC)[返信]

ご連絡ありがとうございます。「多言語」とありますが、どの言語版でしょうか。ヘブライ語版だとすると、説明やライセンスを判読するのが難しいですね。61.115.201.81 2005年8月24日 (水) 06:00 (UTC)[返信]

Commonsを見てみると:MinamotoYoritomo-NikkoToshogu.jpgという画像もありました。 ただし、日光東照宮とあること、アップロードの際のコメントに「Scanned from Turnbull, Stephen (1998). 'The Samurai Sourcebook'. London: Cassell & Co. by LordAmeth」とあるのが気になります。61.115.201.81 2005年8月24日 (水) 06:00 (UTC)[返信]

模写の肖像画を復活しました。問題は無いと思いますが、なにか有れば教えて下さい。ただ、やはり国宝を載せたいので画像提供依頼も出しておきました。-- 2005年9月16日 (金) 14:59 (UTC)[返信]
国宝の肖像画をReijiYamashinaさんに提供して頂きました。有難う御座いました。あまり関係無いですが、そのうち「黄瀬川の陣」や「洞窟の頼朝」も綺麗にスキャンして載せれたら良いなと思います。-- 2006年5月12日 (金) 06:16 (UTC)[返信]
安田靫彦が亡くなったのは昭和53年、前田青邨が亡くなったのは昭和52年ですから、まだ載せちゃマズイんじゃないですかね?(私の何かの勘違いならすみません)。話は変わって、上でちょっとリクエストのあった国宝画像の項目を書いてみました。とりあえずご報告。--shimoxx 2006年5月14日 (日) 18:16 (UTC)[返信]
本当ですね、まだマズイです。著作権が切れるのはだいぶ先ですが、まぁその時まだウィキペディアが残っていれば、、、。お教え頂きありがとう御座います。神護寺三像、読ませて頂きました。勉強になります。-- 2006年5月15日 (月) 15:36 (UTC)[返信]

寿永2年10月9日の叙任について

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現在、「従五位下右兵衛佐に復位還任」となっていますが、以下を見る限り、官職は復していないと思います。

  • 玉葉 寿永2年10月9日「頼朝本位に復す」
  • 吾妻鏡 寿永3年1月3日「前の右兵衛の佐源朝臣」
  • 玉葉 寿永3年2月23日「散位源朝臣頼朝」

-- 2005年7月1日 (金) 14:21 (UTC)[返信]


この欄の存在を知ったのは、今始めてである。慣れればなんと言うこともないだろうが、見難いし検索しずらい。                                         さて、頼朝右兵衛佐還任の件ですが、次のように思量する。源頼朝が従五位下右兵衛権佐で解官し流刑となったが、その地位を復するにあたっては、官位両方とも旧に復さなければ 復したとは言い難い。従五位下に復し、さらに右兵衛権佐にも還任することによって旧に復したといえる。従って従五位下だけ復しても、いわゆる復したとは言い難い。よって、公卿補任記述の通り、従五位下右兵衛佐の記述の方が名誉回復、旧に復すに叶っていると判断する。                                                                細かいことではあるが、右兵衛権佐に復したのか、それとも右兵衛佐に復したのか。実はこれも考究する必要性はあるが。因みに右兵衛権佐に任官したときの右兵衛佐は誰なのか?というのも興味があるところです。                                                                                     なお、その後、右兵衛佐を辞任したとするのであれば、それは別の次元であり、旧に復するとは関係がない。目下のところ、右兵衛佐を辞任したという史料は見出せない。                  実は、そのほかに問題がある。従五位下に復した後、正四位下に昇叙するが、このとき、右兵衛佐も如元であったのか否かである。この史料も実は見出されていない。               --azusayumi7 2005年7月1日 (金) 16:05 (UTC)[返信]

一度は右兵衛佐に還任したが、その後辞任したのであろうと、おっしゃっているのですね。自分は元々素人ですし、公卿補任を読むことが出来ないので、よく判りませんが、「本位に復す」とあり、右兵衛佐を辞任したという史料は見出せない以上、官職は復していないと考えるのが自然に思えます。-- 2005年7月3日 (日) 04:21 (UTC)[返信]

記述の復活

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他の項目とも記述が重複し、秀逸選考でも細かすぎると批判がありました。とくに戦いなどで独自項目があるものよりこちらのほうに記述が多いというのはアンバランスであると思います。俊さんが戻されていますが、前の版を支持する意見はないのですから、早計ではないでしょうか。--Aphaia 2005年9月4日 (日) 07:55 (UTC)[返信]

記述が重複しているのは、それほど悪いとは思いません。紙に印刷され、リンクが使えない場合もありますし。一冊の本になる程の内容ですから、細かすぎるとも思えません。どちらかというと文章が読みづらかったのが問題だと思っています。戦いの独自項目とのアンバランスさは有ると思いますが、それは戦いの記事が薄いのだと思います。前の版を支持する意見はありませんが、削除後が良いとする意見も無いように思います。しばらく様子を見ていましたが、どうも中途半端で放置されている様に見えましたので、戻しました。-- 2005年9月4日 (日) 08:09 (UTC)[返信]

「本人に直接かかわりの無い「歴史」部分は補足説明程度にとどめてばっさりとカットできるようにも思えますがどうでしょう、平家追討や奥州合戦の節にある人名羅列とか。」という意見を受けて、試案として一部を変更したものですから、全部に及んでいないのは当たり前です。そしてこういう羅列の部分には明らかな反対がありました。一方、以前の版にはこうした明確な反対はなかったことを指摘しておきます。正直に申しまして、すべての記述を旧に復されるのは改悪であると思います。--Aphaia 2005年9月5日 (月) 11:03 (UTC)[返信]


多くの執筆者は自分の編集が改善であると考えています。自分も正直に申しまして、多くの記述を無に帰されるのは改悪であると思いました。削られた記述を復活はしましたが、削除に合意できた箇所は戻していません。取り合えずいくつか書いておきます。

  • 「平治の乱」の「さらに逃れていた信西は討たれる。しかし熊野に詣でていた清盛の率いる平家六波羅へと戻ると、二条天皇は女房に扮し内裏から六波羅へと逃れ、」
    • 頼朝は平治の乱では一武将に過ぎず、乱全体の経過は書きすぎと言うのも理解できます。
  • 「平治の乱」の「堅田で傷を負った大叔父の源義隆が亡くなる。」
    • 後で遺児の源頼隆が出て来ますから、ここで記しておいた方が良いだろうと考えましたが、血縁も遠いですし、無くても良いかもしれません。ただしその場合、読者は頼隆が登場した段で、誰なのか良く分からない可能性も有ります。
  • 「伊豆の流人」の見出し
    • 二十年間ですから見出しをつけましたが、今は内容が薄いですし、平治の乱の節に併せるのも一つの考えだと思います。
  • 「義経との対立」の「義経は彼を吟味の上処刑したが、」
    • 頼朝には殆ど関係の無い記述です。削った方が良いと思います。
  • 「義経との対立」の「静は「よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき」などと詠って」
    • この歌を読み、読者の頼朝に対する理解が深まるとも思えません。二句中の一句しか紹介できていませんし、無くて良いです。

複数人で同時に編集していくのでしたら、時間はかかりますが、執筆者同士で細かく内容を議論していくしかないと思います。-- 2005年9月5日 (月) 14:42 (UTC)[返信]

Jungerさんへ

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この記事はただでさえ長いですから、頼朝との関連が薄い事柄は書かない方が良かろうと思います。「摂津源氏の源頼政が国司である伊豆国」に流された事が、頼朝にどの様な影響を与えたのでしょうか?こういった加筆の意図を他の執筆者に知らせる為にも、編集内容の要約を多少は書いて頂けるとうれしいです。-- 2005年12月5日 (月) 13:54 (UTC)[返信]

奥州合戦の地図が拡大してしまい文章が読めない現象

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わたくしの所有するパソコンのNetscape 7.1で源頼朝の項目を開きますと、奥州合戦の所の地図が拡大して現れ肝腎の文章が読めません。この様な現象の現れる方またはこの様な現象への対処方法をご存知の方はバグの報告のほうへ記入して頂けるでしょうか。--ウィキ豊 2007年6月5日 (火) 06:19 (UTC)[返信]

2007年6月8日 (金)の氷鷺さんのバグ修正により、当方のパソコンでは地図の拡大現象は無くなりました。ご協力ありがとうございました。--ウィキ豊 2007年6月15日 (金) 02:12 (UTC)[返信]

家人一覧の分割提案。

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記事軽量化のためにも、分割するのはどうでしょうか?--小者 2008年3月3日 (月) 19:00 (UTC)[返信]

分割しても記事の量はほぼ変わらないですし、見づらくなるので、やめたほうが良いと思います。-- 2008年3月12日 (水) 15:28 (UTC)[返信]
分割案はよいと思います。--KTMCHI 2008年3月13日 (木) 16:10 (UTC)[返信]

秀逸記事の選考について

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KTMCHIさんが来られているので、別項で。頼朝の記事に関する秀逸な記事選考でのご意見、全面的に賛同致します。秀逸選考は良い機会ですし、KTMCHIさんのような方に思い切った編集をして頂けたら、と思います。--小者 2008年3月14日 (金) 17:55 (UTC)[返信]

平治の乱の項目について

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このあたりの頼朝らの行動について、「金比羅系平治物語」に依拠した記載がされておりますが 「金比羅本」は現代の国文学では「後出本」(後年に書かれた本)の扱いで「平治物語」前出本(比較的成立年代の古いもの)に比べて増補や創作が多いと言われています。 「金比羅本」の記載ではなく、他の史料(たとえば、「吾妻鏡」や古態本「平治物語」)、 もしくは頼朝の逃避行や助命に関して事実が確認できる程度の簡略な記載に書き換えた方が良いように思われます。 --60.38.2.174 2008年4月15日 (火) 03:35 (UTC)[返信]

伊豆の流人項目について

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1167年に頼朝が29才という意味の文章になっていますが、年齢計算が合致しません。 (1167年では数えで21才です) --60.38.2.174 2008年4月15日 (火) 03:40 (UTC)[返信]

記述の復活(その2)

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俊さんは奥州合戦の記事の詳細を復帰された件で「頼朝の事績ですので転記は不適当かと」とのことですが、「記述の復活」については2005年9月5日時点でもこのノートに指摘もあり、「復活」自体をノートでの議論を前提に行うべきではないでしょうか。小者さんならそんなことはないでしょうが、下手をすれば移動・戻しを延々と繰り返す編集合戦にもなりかねません。

Wikipediaは記事のひとつが「作品」というものではなくて、リンク先、関連項目も含めた全体での情報がWikipediaの価値だと思いますが。また、多くの人の目と手を経て記事が落ち着くべき処に落ち着き、良いものになっていくというのがWikipediaのスタンスだと思いますが如何でしょうか。--Ktmchi 2008年5月10日 (土) 10:55 (UTC)[返信]

奥州合戦は頼朝の事蹟として大変重要なものであることは確かなことです。 しかし、頼朝軍がどのように行動したのかということを、ここまで詳細に「源頼朝」の記事で書くというのは書きすぎの感があります。転記以前はあまりにも詳細すぎる記述ゆえに「源頼朝」における「奥州合戦」のスタンスが逆にわかりにくくなっているように思えます。ですから合戦の詳細についてはやはりしかるべき記事に転記され、この項目では合戦の要旨のみ取り上げるほうが、読者にとっては双方の記事が理解しやすいものになると思います。 また、奥州合戦が政治的にどのような意義をもたらしたのかという文章が脚注にまわる理由もよくわかりません。源頼朝という人物を取り上げる場合「政治的意味」という点が「軍事」以上に重要であると思われます。--219.105.197.88 2008年5月10日 (土) 13:48 (UTC)[返信]

転記に関してフォロー頂きありがとうございます。転記の意図をご説明しますと、 2008年5月8日 (木) 14:49の版で219.105.207.182さんが奥州合戦の詳細部分を脚注に移動して本文を簡潔にし、合戦の意義を追記された編集を受けて、合戦の詳細部分は脚注にあるよりは、全体を通して読める方がよいかと判断して奥州合戦の記事に転記致しました。頼朝の記事における奥州合戦の詳細に関しては、219.105.197.88さんとまったく同意見です。 という合戦記事へ誘導できるテンプレートもありますし、人物記事としては以前から指摘があるように、人物名の羅列や細かい経過やエピソードといった詳細は合戦記事に任せて、ここでは頼朝(鎌倉政権)にとっての合戦の意義や位置づけを主にして記述されるべきだと思います。--小者 2008年5月10日 (土) 14:44 (UTC)[返信]


詳細を奥州合戦に記すべきというのは、その通りかと思います。ですが議題の記述は、頼朝の事績や人物像に関わりの深い内容を、史料から抜き出したものです。ただ転記するのみでは、奥州合戦の記事が頼朝に偏った内容になってしまいますので、全体の動向を偏りなく記すよう、再構成が必要です。
頼朝の記事については、以下の通り考えています。

  • 7月19日から8月14日
    • 奥州合戦か阿津賀志山の戦いの記事に移し、この記事は概要に留めてもよいかと思います。
  • 8月20日から8月21日、9月7日
    • 頼朝の人間性および御家人との関係を知る事のできる事績と考えています。書くならばこの記事です。
  • 奥州合戦が政治的にどのような意義をもたらしたかについて
    • 政治的意義は他にも多くあるかと思います。こういった分析は諸説でてきますので、生涯の章には書かないほうが上手くいくと思っています。またこういった記載こそ奥州合戦に記すべきかと。

-- 2008年5月11日 (日) 17:33 (UTC)[返信]


「頼朝の事績や人物像」とおっしゃいますが、それは物語の中の「人物像」でしょうか、それとも「実像の歴史」でしょうか。前者であればタイトルを「物語の中の頼朝」とかにするべきですし、後者であればきちんとした史料批判歴史学研究法に基づくものを参考に、後世に書かれたものの中の裏の取れないものは削ぎ落とさなければ実像、歴史には迫れません。現状ではそういう意味でのノイズが多すぎて全く実像も歴史も、あるいは歴史の、史実の実像が見えてこないように思います。2008年4月15日の60.38.2.174さんもそのことをおっしゃっていると思いますが、そちらへのご意見はどうなのでしょうか。(若干文言追加)--Ktmchi 2008年5月14日 (水) 12:17 (UTC)[返信]


御家人との関係を語るエピソードに関しては、大庭景義の「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」は、御家人・朝廷・鎌倉政権の関係を語る上で象徴的で重要な部分だと思いますが、由利八郎に関しては、誰それを寛大な心で許すという似たようなエピソードは他にも多くあり、これのみを頼朝の項目で詳細に取り上げるほど特別なものとは思いません。梶原景高の歌なども奥州合戦記事かそれぞれの人物記事にあればよいと思います。もしくは頼朝の人間性を語る為のものなら「人物」にまとめればよいのでは。

その意味で象徴的なエピソード・合戦の主な経過・意義でまとめられた219.105.207.182さん(2008年5月8日 (木) 14:49版)の編集は適切だったと思います。

史料=吾妻鏡の丸写しが必ずしも史実ではない訳で、Wikipedia執筆者が参照すべきは資料(参考文献)であり、事の経過を含めてプロである歴史学者の方々が、各史料を分析した結果を書いていくのが素人によるWikipedia執筆の基本姿勢ではないでしょうか。特にこれだけ歴史的に重要人物であれば、日記のように出来事を羅列するだけでなく、主な部分で(歴史学者の分析による)歴史上の意義や位置づけをある程度言及しなければ、頼朝が歴史上どういう役割を果たしたのか全体像が見えないと思います。--小者 2008年5月13日 (火) 15:42 (UTC)[返信]


どうでしょうね。史料批判は必要でしょうが、やりすぎると古い時代の記事は何もかけなくなります。全く実像も歴史も見えないとおっしゃいますが、その言葉に誤りはないですか?「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」は、重要ですね。でもそれはどこで裏がとれているのでしょうか?

由利八郎の件は義朝についてのやりとりもあります。梶原景高の歌もですが、これらは奥州合戦に深い関わりはないかと。頼朝の記事の脚注にするなら、理解はできます。

「参照すべきは資料」というのはこのような有名人物ならばできますね。定説となった歴史学者の分析ならば、書いてもよいかと思います。ただしあくまで頼朝の生涯を記す章ですので、何を書くかは吟味が必要かと思います。

思うところは述べました。あとは皆様方に任せます。奥州合戦も含めて、よい記事になる事を期待しています。-- 2008年5月17日 (土) 05:59 (UTC)[返信]

頼朝を和田義盛が討ち取る?

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「現在の岩手県まで家臣とともに逃げた頼朝を、和田義盛が追っ手として討ち取ったとされる。」 とありますが、これは何ですか? 史料のどこにそういう記述があるんでしょうか。 あまりにも「トンデモ」すぎやしませんか? ---Ktmchi会話2014年3月13日 (木) 18:33 (UTC)[返信]

征夷大将軍と後鳥羽天皇

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『建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御し、同年7月12日、即位した後鳥羽天皇によって頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。』とありますが、後鳥羽天皇の即位はこの時ではないので修正お願いします。 儀狄会話2022年6月7日 (火) 14:40 (UTC)[返信]