ノート:「日本語」をどう書くか
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(ノート:日本語をどう書くかから転送)
この記事は2023年4月6日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、存続となりました。 |
改名提案
[編集]ほかに被る名称のものが見当たらず、曖昧さ回避が不要と判断し、「日本語をどう書くか (柳父章)」を「日本語をどう書くか」に改名すること提案します。--こんせ(会話) 2021年4月13日 (火) 03:54 (UTC)
- コメント。何もないと、ウィキペディアの記事として「日本語をどう書くか」を論じたものとみなされるのではないか。改名して「日本語をどう書くか (著作)」のようにするのはあるかもしれない。--Sibazyun(会話) 2021年4月15日 (木) 17:15 (UTC)
- 個人的にはそう看做される可能性は薄いと感じます。--こんせ(会話) 2021年4月20日 (火) 01:39 (UTC)
- 個人的には、Sibazyunさんと同様の懸念を持っています。日本語をどう書くか (著作)または日本語をどう書くか (著書)とするか、今のままでも良いかと存じます。--ABCEdit(会話) 2021年4月28日 (水) 12:14 (UTC)
曖昧さ回避をつけたままとするならば、他に被る書籍がないため、「日本語をどう書くか (書籍)」に変更する方向をとろうかと思います。「著作」や「著書」だと、「○○の著書」でないとおかしい表現のような気がします。
また、「[[日本語をどう書くか]]」とリンクを設置した際に、書籍の記事に飛べないのは記事がないものと混乱を招くかと思いますので、括弧付きの記事へのリダイレクトを設置するようにしたいと考えています。--こんせ(会話) 2021年5月11日 (火) 04:02 (UTC)
- 賛成 シンプルに「日本語をどう書くか」への改名に賛成します。「括弧がないと、ウィキペディアの記事として『○○』を論じたものと見なされるかもしれない」という懸念はこの書籍に限った話ではなく、本記事だけが曖昧さ回避の原則を外れて括弧を付す理由にはなりえないからです。たとえば同じカテゴリにある「漢字と日本人」、「日本語と外国語」などと比べても、本記事がそうした懸念を持ちやすいとは思えません。--Tkmkz (talk) 2021年5月15日 (土) 15:53 (UTC)
- 報告 本日時点で、「日本語をどう書くか」への改名への賛成意見を1件頂けております。Sibazyunさん、ABCEditさんからはあくまで「懸念」としてのご忠告いただいたもので、明確な反対意見ではないコメントですので、1週間ほど待ちまして「日本語をどう書くか」への改名を実行したいと思います。--こんせ(会話) 2021年5月23日 (日) 03:23 (UTC)
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- 日本語をどう書くか
- 「日本語」をどう書くか
- 1981年のPHP版を読み、表紙や奥付けの題名表記がどうなっているか、本文にかぎかっこをつけた理由の記載がないかを確認する。
- 法政大学版を読み、今度はかぎかっこをとった理由が書いてないか確認する。
- それらの情報を示したうえで、ウィキペディアとしてどちらの表記を使うか議論する
- ちなみに『自警』1983年11月号に載った柳父章「日本語をどう書くか」はかぎかっこなしです。ただこれはPHP版書籍の紹介文ではなく、日本語の書き方について2ページで述べている独立した文章です。--西村崇(会話) 2021年5月30日 (日) 05:37 (UTC)
- 当初のタイトルに鍵括弧がついてたということを存じませんでしたため、1981年版を確認しましたところ、表紙のみならず奥付も鍵括弧付きのタイトル(「日本語」をどう書くか)でした。本文中に鍵括弧がどうとかいった表現は見当たらなかったように思います。--こんせ(会話) 2021年6月15日 (火) 10:39 (UTC)
- PHP版も法政大学版もまだうちには届いていないのでわかりませんが、法政大学版の書評を読む限り、かぎかっこがついている理由は本文を読めばわかるはずです。--西村崇(会話) 2021年6月17日 (木) 12:58 (UTC)
- 当初のタイトルに鍵括弧がついてたということを存じませんでしたため、1981年版を確認しましたところ、表紙のみならず奥付も鍵括弧付きのタイトル(「日本語」をどう書くか)でした。本文中に鍵括弧がどうとかいった表現は見当たらなかったように思います。--こんせ(会話) 2021年6月15日 (火) 10:39 (UTC)
- 一回インデントを戻します。PHP版は表紙・奥付など、どの場所でも
- 「日本語」をどう書くか
要するに、著者の主張を反映すると、PHP版のようにかぎかっこがついているのが正しい、としか言いようがありません。法政大学版でなぜかぎかっこが取れてしまったのか、著者の主張に変化があったのかは不明ですが、現物を見てみないとわかりません。法政大学版もいつかはうちに届くので、そちらも見てみることにします。
ただ、そもそもこの本は単独記事を作って取り上げるような本なのでしょうか。この本が当時爆発的に売れた、とか、この本の主張が学会に衝撃をもたらした、というなら別ですが、そんな記録は見あたりません。1987年に著者が山崎賞を受賞した際にも主要業績の一つとして挙げられているのみであり、代表作、というわけでもなさそうです。3回も出版されているので、全く無名の本、というわけではないでしょうが、改名しようといろいろ調べる前に、本来この記事は必要なのかを考えた方がよいと思います。--西村崇(会話) 2021年6月19日 (土) 14:26 (UTC)- 法政大学版(2003年初版第1刷)を読みました。法政大学版は表紙・背表紙・中扉・奥付のどの場所でも
- 日本語をどう書くか
この状況を受けて私の見解は、この記事は削除する、存続させるなら日本語にかぎかっこをつける、です。「新版へのあとがき」で著者は「当時はさまざまな雑誌とか、研究会とかで、盛んに発言していた」(214ページ)と書いています。著者自身の中でもこのテーマは「過去に熱中していたテーマ」になっており、この本はそんな熱中の中で出した本の一つ、という位置付けであることがわかります。著者の記事から独立させて書くようなことはありませんし、残すのなら著者が熱心にこのテーマに取り組んでいたときの表記、つまり- 「日本語」をどう書くか
- 直截的に「○○だから鍵括弧をつけた」という記載があるかどうか、というお話かと思いました。申し訳ありません。法政大学出版局版のみならず、昨年出たKADOKAWAでも鍵括弧は外されていますが、やはり、著者の思いを酌んで、最初のタイトルを採用すべきでしょうか。--こんせ(会話) 2021年7月5日 (月) 14:29 (UTC)
- 確かに「○○だからかぎかっこをつけた」と書かれていれば明確ですが、あの冒頭文を読んで著者がかぎかっこをつけた理由がわからない読者はいないと思います。
それはさておき、私の意見を繰り返しますと「この記事は削除する、存続させるなら日本語にかぎかっこをつける」です。今示されている外部の言及は山田航さんの書評だけですが、山田航さんは「山田航が薦める文庫この新刊!」のタイトルで朝日に定期的に書評を出していました。つまり定期的に新刊何冊かの書評を書くのが仕事だったから、この本を取り上げたわけです。1980年代まで遡っても同様の書評や、上述のように『自警』に本人が書いた文章が見つかる程度です。山崎賞受賞時には著書が8冊も紹介されている中の一冊として挙がっているだけですし、著者自身にとってもこの時期の取り組みの一つに過ぎません。
むしろ、現在柳父章の記事は翻訳語研究者だと言いつつ、どういう研究をしていたのか記述がありません。山崎賞の授賞選定理由の文章を取ってきて示してあるだけです。柳父章に書きことば日本語関連の研究内容を加筆することの方が必要でしょう。--西村崇(会話) 2021年7月7日 (水) 15:17 (UTC)
- 確かに「○○だからかぎかっこをつけた」と書かれていれば明確ですが、あの冒頭文を読んで著者がかぎかっこをつけた理由がわからない読者はいないと思います。
報告 鍵括弧付きの「「日本語」をどう書くか」への改名を行いました。のちに出版されたものはタイトルから鍵括弧が外されていることも記しています。本提案は改名についてのものでしたので、削除が必要でしたら別途削除依頼の提出をお願いいたします。--こんせ(会話) 2021年7月23日 (金) 02:39 (UTC)
- 改名するというのは存続相当だと主張するのと同じですから、存続相当だと立証するのはあなたの責務です。それをしないで改名だけしていくというのは乱暴だと思います。まあ改名を主張する人は概してそうなので、それは措くにしても、かぎかっこをつけるつけないは、あなたはどうしてつけるのが妥当だと判断したのですか。つけるのが妥当だ、というのは私の意見であって、自分の見解を示すでもない、途中まで議論していた人を呼び返すでもない、というのは提案者としてどうなのでしょうか。そういうことが面倒なら、改名の提案などしないことです。--西村崇(会話) 2021年8月14日 (土) 16:19 (UTC)