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ノート:哲学/過去ログ1

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過去ログ1 過去ログ2

書式がよく分からんのですが御容赦

英語版wikipediaに書かれた概要がシンプルで要を得ていたので参考までに記載しておきます。

"Philosophy is the study of general and fundamental problems――(哲学とは普遍的かつ根源的な問題に関する学問である)"

--Cet255 2011年12月19日 (月) 11:43 (UTC)

追記:ドイツ語版のwikipediaの概要も中々いい。参考までに以下

"In der Philosophie (griechisch φιλοσοφία, lateinisch philosóphia, wörtlich „Liebe zur Weisheit“) wird versucht, die Welt und die menschliche Existenz zu deuten und zu verstehen."

追追記:過去に似たようなことをして、自分と同じように差し戻しをされた件を確認しました。我々に欠けているのは、恐らく自分自身に対して「やれやれ」と嘆息し、笑いかける余裕なのでしょう。あるいは、矜持の過多・不足のいずれか、あるいはいずれも。--Cet255 2011年12月19日 (月) 13:44 (UTC)

  • 英語版ウィキペディアの検証可能性には「Do not use articles from Wikipedia or from websites that mirror its content as sources, because this would amount to self-reference.Similarly, do not use sources that present material originating from Wikipedia to support that same material in Wikipedia, as this would create circular sourcing .」とハッキリ記述されています。他言語版であれウィキペディアはそれ自身が「信頼できる情報源」として「検証可能性」を満たすものではありません。暫定的で過渡的な記述内容として他言語版を参照する場合はWikipediaコミュニティで許容されることはありますが、記述に際しては信頼できる情報源から適切に引用することが求められていることをご確認ください(→Wikipedia:検証可能性)。また、新規挿入文がそもそも日本語の文章としておかしいです。宜しく御検討頂きます様お願い申し上げます。--大和屋敷 2011年12月19日 (月) 14:20 (UTC)
    • 『哲学(てつがく、古希: φιλοσοφία、英: philosophy、独: Philosophie )は、普遍的・根源的な問題をめぐる学問である。』この文章は別に日本語としておかしくなんかないやい! 少なくとも理解されにくい文章ではないと思うんですが。
それともアレですか、『追追記』の部分でしょうか? まあ確かに日本語としておかしいし、そのことには書き込んだ時点で気付いてはいたんですけど、書き直すと何やら議論に拘泥しすぎに見えるかなあ、とか思ったのでそのままにしておいたんです。で、敢えてここに『追追追記』するならば、次のようなことを言いたかったのです。
たかだか数文字のセンテンスを加えることにやたらとモメる我々(私と貴方)には余裕が足りないし、また、矜持が足りない(英語版やドイツ語版だって厳密な意味で概要を記述しているのではなく、単に矜持の表われとして記述しているだけなのでしょう)。もしくは、矜持というものを強く持ち過ぎている――
(まあこんなにも一つのセンテンスに拘るくらいですから、貴方にも些かの矜持があるんでしょう。貴方が厳密な記述から逸脱しない範囲での記述を保存するということに関して、一種の矜持を抱いているのであるということくらいは容易にお察しいたします)
あるいは、その両方……つまり、矜持を持ち過ぎてもいるし、あるいは持って無さ過ぎる――(英語やドイツ語版に見られる矜持に対して無関心すぎる)ということなのではないだろうかと。まあ、そう思ったということです。後半になるに従って『我々』に関する記述から、『私から見た貴方』に関する記述へと移っている点については悪しからず。
長文失敬。しかし、長文ではありますが決して晦渋な文ではありませんので、お目通し頂ければ幸いです。--Cet255 2011年12月20日 (火) 08:23 (UTC)
追追追追記:要約、の欄に書こうとした『この行為(私による取り消し)が取り消されるようであれば、私は今後この[[哲...』以降が省略されてしまったのでこちらに書きます。つまり、私がこの項目に関わるのは、私が先に行った貴方の編集に対する取り消しで最後であるということです。私は今後こちらの項目に関知しませんので、どうぞ自治をお続け下さい。--Cet255 2011年12月20日 (火) 08:51 (UTC)

英語版・ドイツ語版を引用元にするまでもなく、原状の表現でしたら特に問題はないと考えます。英語やドイツ語で記述されてさえおれば、なんとなく「正しくて」「価値がある」と考え勝ちなのは日本語話者にありがちな誤謬です。他言語版Wikipediaであれ、信頼できる情報源にもとづかない記述には検証可能性を認めないのがWikipediaの方針です。--大和屋敷 2011年12月20日 (火) 10:11 (UTC)

現状の表現で問題ないとのことで、安心しました。自分でも些かイレギュラーな提案・編集をしたということは自覚しておりましたので……。--Cet255 2011年12月20日 (火) 10:50 (UTC)

~2003.11.26

こんにちわ。うーん、また218.217.183.144さんに文句をつける形になって申し訳ないのですが・・・私は哲学は素人なんですが、07:27 2003年9月30日の版の方が、それぞれの研究分野に関しての説明が15:25 2003年10月9日の版よりも妥当だと思います。(というより素直に分かりやすい)

例えば、科学哲学などは「科学的な研究が真理の獲得方法であるのか否か、またその理由について検討するもの」から「科学的な研究について検討するもの」に説明が変更されてますが、後者に関してはずばり「そのまますぎ」じゃないですかね?私のような素人にとっては前者の方が分かりやすいです。

リンク先により詳しい説明がありますし、記事を素人に合わせる必要は必ずしも無いとは思いますが、これはちょっとあんまりな気がします。もし良かったら、より具体的な説明を記載してみてはどうでしょうか? (ちなみに、それ以後の修正に関しては特に意見はありません)Tekken 03:53 2003年10月10日 (UTC)


主な変更点:

  • 「アジア・アフリカ・オセアニア・中南米・少数民族などなどの神話的世界・説話的世界・神話・民話・伝説・箴言・ことわざ・歌謡(歌詞)にかいまみられる哲学」は、何も西洋対その他に限らず、西洋でも民話や諺にかいまみられる哲学は哲学でないとされていると思うので、「アジア・・」の限定をなくしました。
  • また、そのように哲学を意識的な、言語による思索に限定する考え方が「無視・矮小化」にあたる、というのは「哲学は思想よりも優れている」とする考え方がある場合に限られ、哲学の定義や特徴の中に含めるとやや浮いてしまう感じがしたのでそこからは省きました。
  • 但し、哲学や哲学的な営み自体を批判する考え方はいろいろあるので、独立したセクションを設けて、「理論ばかりいじっていて実証がない」「解決する見込みのない定義問題などを扱っており非生産的」「理性による思考には限界や落とし穴があり、哲学はその問題をもろに抱えている」といった諸説と一緒に紹介するとよい(他の説明から浮いている感じがしない)のではないか、と思い、そのようにしてみました。
  • 「科学との違い」というセクション名は、自然科学、数学、論理学、言語芸術、宗教、などと哲学の比較を行っている記述のセクション名としては不適切に思ったので、単に「特徴」というセクション名にしました。
  • 順序をいろいろ入れ替えました。
  • 学派のセクションを学派と立場のセクションにし、「懐疑主義」「唯名論」などの学派ではない一般的な立場を表す用語を追加しました。
  • 「専門分野」のセクションを「分類と専門分野」とし、大陸哲学と分析哲学、西洋哲学と東洋哲学、などの分類の仕方も列挙しました。

最後に、上に(10月10日づけ)Tekkenさんが指摘している点には僕も同感です。気が向いたら「検討する」という形容をもう少し具体的な説明におきかえてみようかと思います。が、今回はそこまで手がまわりませんでした。

Tomos 08:48 2003年11月26日 (UTC)

先生、質問です!

純粋な疑問です。超越論的哲学とドイツ観念論を分けていますが、具体的に誰のどの時期をそれぞれに分類するのでしょうか? また自然哲学はなぜ分野として立てられていないのでしょうか? イオニア自然哲学を始め無視できない分野だと思いますが。


この期に及んで

 恥ずかしながら、というものについて考えてみたのですが、いかがでしょうか? (ぶしつけで申し訳ありません!)

a9iiy8 2005,jun,14


自然科学との差異

「理論物理学者と同じく、実験物理学者の行った実験の結果を吟味し、それを手がかりに何か時間についての哲学的思索を行い、新しい考え方を打ち建てようとすることはありうる。」 あるかどうかはっきりしないようならここに書く必要はない。また仮にあるとするなら、物理学者の実験結果を参考にどのような哲学的発展があったのか明記すべきだ。このままでは削除が妥当。

「また、場合によっては、哲学者がデザインした実験が心理学者によって行われることもある。だが、哲学の役割は実験の実施ではなく、それを解釈する際の諸前提や基本概念などの吟味、特定の解釈の構築、などに集中する。」 心理学は日本では人文科学に属し、海外では人間科学に属しているのが普通である。なぜ「自然科学」の項目にこの記述があるのか不明。削除が妥当。--Rumhi 2005年8月4日 (木) 14:41 (UTC)

「現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することは少ないようである。」は「現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することはない(ようである)。」が適切。もし違うというなら現代において科学者が哲学の成果を参照した例を示してください。

「また一方で科学には観察し実証することのできない不可知の領域については何ら記述することができない本質的な限界があり、哲学の成長があらたな科学領域を開拓したり」 観察不能な「不可知な領域」はそもそも科学では「開拓」しようがないのでは?哲学の成長によってなぜそれが観察できるようになるのかさっぱり分からない。もしそれが哲学の成長によって新たな観察法が発見されることがあるという意味なら、そもそもそれは科学の「本質的な限界」などではなかったことは誰でも分かる。削除が妥当。

「あるいは一度社会から放擲され忘却・散逸してしまった科学的果実を再発掘する原動力となることがある。」 科学者の好む思想・哲学あるいは本人の気質と、その研究対象の選択に何らかの相関関係があることは決して否定しないが、両者を区別できない科学者はいない。「原動力」とはそれが研究の意欲につながっているという意味なら分かるが、もしそうだとしても哲学と「自然科学との差異」とは全く別の次元の話。私の見解が違うというなら、具体例を示さないと何が言いたい文章か分からない。このままでは削除が妥当。--Rumhi 2006年6月28日 (水) 20:19 (UTC)

自分で投稿しておいて何ですが、どうも抽象的でぱっとしない、読んで面白くない。最初の項目立てがあまり上手くないような気がしています。削除・加筆、修正等はよろしくご議論ください。--隠者 2006年6月28日 (水) 23:06 (UTC)屋上屋を架すことになりそうですが、興味ある3点の指摘について。1について。修正前の叙述を引用した経緯から本文中「物理学者」とあるが、指摘のように「科学者」とすべきで物理学者と限定する必要はありませんでした。科学者が哲学の成果を参照する顕著な例としては脳死など。2について。たとえば明日おこることは科学では観察できない。しかし哲学はこれをおこなう。哲学の成長、とりわけ論理学・数学が「本質的に科学に記述できないこと」に記述方法を与える。3について。宗教哲学や政治哲学により一度否定された科学的果実が、哲学の成長により許容・修正される例として地動説などを想定して記述しています。--隠者 2006年6月29日 (木) 06:32 (UTC)

数学・論理学との差異

「数学は実験を通して得られたデータが参考にされることがない点」。確かに数学は基本的に一般の自然科学と違い演繹的に発展したものだが、統計学や円周率を求めるアルゴリズムの検証などにはこれが当てはまらないし、代数学のある分野は理論物理学のモデルから発展した。古くはニュートンが運動の法則を説明するために微積分の一部を発見したわけだし、この記述は修正が必要かと思います。これだけ反例がある以上「原則的には」と断りを入れるだけでは済まないと思う。--Rumhi 2005年4月5日 (火) 17:14 (UTC)

特に反論がないようなので数学に関する出鱈目な記述を削除した。執筆者はもしかしたら数学が演繹的に発展した学問であることを言いたいのかもしれないが、言葉足らずである。少なくともその本質は実験の有無ではない。--Rumhi 2005年8月4日 (木) 14:25 (UTC)

哲学の定義

私はソーカル事件の原文を書いた者だが、追記された内容は哲学を広義に捉えるか、狭義に捉えるかの違いに過ぎない。哲学を狭い範囲に限定して延命措置を取ったとして、そのやせ細った幹に何が残っているのか教えてもらいたい。もちろんそれは過去の偉大な知識の森の話ではなく、今もなお枯れずに花を咲かせているものはなにかという質問だ。--Rumhi 2005年4月3日 (日) 05:27 (UTC)

いや、実際ドゥルーズ(とトーマス・クーンですか、でもあの方は科哲のかたですよね)を除くと後の人は、哲学者かどうか議論のあるところでしょうから(ガタリはまあ哲学者でしょうけど今読む人はいらっしゃるかしら)、というより、ほとんどの哲学者はソーカル事件って知らないだろうし、自分のこととはうけとめていないと思いますが、その点でこれを哲学への批判とされるのはいかがでしょう、むしろポストモダン思想のほうにお書きになったほうがよろしいのと違いますでしょうか。
何があるのかというお尋ねですが、それは西洋哲学においてはまず形而上学と存在への問いではないでしょうか。過去になされた思索は、その地平において現在性を失ってはおらず、今も花を咲かせていると思います。この点あるいはお考えが違うかもしれませんが。ただそのような思索の強靭さにおいて比類ないそれらの思想の動径を「知識」といういわば静的なものとしてRumhiさんが捉えられているならば、それは哲学的知のありかたとはちがうだろうと予想します。
項目に即していえば、この構成ではソーカル事件というのが哲学にとって重要な問題であるように見えますが、そもそも哲学者から知られていないことにこの項目でそれだけの重要性を与える必要があるかどうか疑問だとおもいます。読者を誤って導くのではないかとも思います。むしろ項を特別にたてるかソーカルさんの項目をたててそこにお書きになってはいかがでしょうか。--Aphaea* 2005年4月3日 (日) 09:47 (UTC)

ソーカルが知られていないのはむしろ日本のローカルな事情です。何故か日本だけがいまだに、あんなものは取るに足らない揚げ足取りだというような瑣末な批判、あるいは批判にすらならない感情的な反発をしています。それは批判された当人たちの当初の反発と酷似します。ようするに自分たちが信じてきたアイドルたちの物まねをしているわけです。一方、一番叩かれたフランスでは、いまではソーカルの批判を真摯に受け止め、哲学・思想の再構成をしようという動きが始まっているそうです。数学のパロディでしかない怪しげな記号の羅列を排除し、用語の統一をし、内容と形式を整理しましょうというわけです。分野は違いますがブルバキを生んだ国なので、こういう作業は得意なんじゃないかな。ブルバキがそうであったように、ただの用語の整理以上の成果が期待できるかもしれません。このような点からもソーカル事件は哲学に対する非常に有意義な批判だと言えます。実は最近になって日本でもわずかながらソーカルが注目されるようになったのは、そうした本国の潮流を受けてのことだそうです。この分野に関して日本はつくづく翻訳文化で本国より遅れているんだと思います。--Rumhi 2005年4月3日 (日) 11:07 (UTC)

いやドイツでも全然知られてないですよ。。というのはさておき、フランスとせいぜいアメリカのごく一部の話でしかないと思います。おっしゃるような手法を使う人たちはそもそもごく一部にしかいなかったわけですし。フランスは講壇哲学にポスト構造主義が入ってきていますから反応があるというのはそうでしょうね。ただ私の知る限りではほかの言語の哲学にはほとんど影響を与えていないだろうと思います。科哲の人たちがどうというところはフォローしていませんので、取りこぼしはあると思いますが。。よろしければ具体的にドイツ語圏とイタリア語圏の雑誌論文および書籍でおっしゃるような注目なり反応なりを教えていただければと思います(これはメールでお願いします。そろそろオフトピックになりかかっていると思いますので)。--Aphaea* 2005年4月5日 (火) 11:11 (UTC)

まずはこれ[1]を読んで下さい。この論文がソーシャルテキストに載ったことがそもそも事件なわけですが、それを全然知られていないというのは難しいですよね。多い少ない有名無名の議論は不毛な気もしますが、少なくとも思想・哲学の分野に多大なインパクトがあったのはこのパロディ論文ひとつで十分示せています。--Rumhi 2005年4月5日 (火) 16:20 (UTC)

ひとつの回答の試み

議論がどんどん横にそれているので戻す。
>利用者:Rumhi 2005年4月3日 (日) 05:27 の発言より。
「そのやせ細った幹に何が残っているのか教えてもらいたい」
極めて倣岸不遜な質問だと思うが、たぶん若くて気合十分な方なのでしょうね。元気が良いのは若さの特権です。ただ問題はその元気をどこへ向けるかということ。
では、回答。何が残っているかだって?無数に残っています。世界に解決すべき問題がある限り哲学は続くでしょうね。自然科学が哲学の代替にならない、というのは、冷戦時代の核の均衡の恐怖の下で湯川秀樹や朝永振一郎が何十年も前に言明しています。
「何が残っているのか」のような質問がでるのは、あなたが講壇哲学しか知らないからではないですか?哲学は本の中にあるのではない。(意味が分からなければ、もう一度ソクラテスから哲学を学び直してください)
SORA 2005年4月5日 (火) 16:57 (UTC)

脱線です。すみません。Rumhiさんの記述では「所謂講壇哲学」となんの説明もなく既知の事象として言及しておりますよね。自分では辞書的な定義以上のものが投入できないので項目にすることはしませんが、頻繁に使われる用語であり、しかも哲学自体になじみがない人にとってはおそらく初出の概念で、なんらかの解説がいるような気がします(哲学史は項目としてありませんし、百科事典の項目というのはなるべく自律的なのがよいと考えます)。在野あるいは大学や教会に所属しないで思索する思想家たちに対して、とくに大学で教える哲学教師たちあるいはそこで教えられる哲学というような定義でとりあえず出発するとして、この項目全体のどこにいれると収まりがよいのか判断がつきませんでした。諸氏のご意見をお待ちしたいのですが。--Aphaea* 2005年4月5日 (火) 17:06 (UTC)

SORAさんへ。不遜と感じたなら謝りますが、私が言いたいのは哲学の範囲なんて誰も厳密に定義できないのに哲学者が批判をかわすために細かい区切りを作っているように思えたからです。やや自己矛盾ですが、現状の記事は私が書いた初稿よりも中立的だとは思っているのですよ。Aphaiaさんへ。「所謂講壇哲学」は私ではなく追記した方が書かれたものです。--Rumhi 2005年4月5日 (火) 17:33 (UTC)

お返事遅くなりました。申し訳ありません。「所謂講壇哲学」の件は私の誤解で、申し訳ありませんでした。ところで哲学するという項目もあるのですが、これをこちらへ統合できないかという提案が以前にでております。よろしければその議論にもご意見をいただければとおもいます。--Aphaia 2005年5月26日 (木) 20:31 (UTC)

いつの間にか議論とは全く関係なくソーカルが分離されている。しかも本文へのリンクがない。素晴らしい、としかいいようがない。--Rumhi 2005年7月22日 (金) 19:32 (UTC)

項目哲学するの統合

哲学するのノートで哲学との統合が示唆されていたようですが、どうしたものでしょう。ドイツ語、フランス語版では同項目は独立して存在しているようですが。もう半年以上放置されているようです。Hermeneus (user / talk) 2006年1月9日 (月) 05:37 (UTC)


匿名での度重なる差し戻し→第三者アカウントでの仲裁に関して

  • 「哲学が倫理的な面を扱った」といった表現は消され、「学問・科学(羅:scientia)の側面も含んでいた」という以前の表現のみはなぜか残されています。
  • 哲学が「定義」「性質」「見解の整理」を行うものだというは記述は書いてあるが、それでは、「高貴な生き方とは存在するのか、また、あるとしたらそれはどのようなものなのか」「善とは永遠と関連があるものなのか」といった問いの答えを模索する営みが無視されていることになる。事実、「旧来の神学や科学的な知識・実験では明確に解答を与られないような問題を扱うものであるとも言える。」といった記述とともに、排除されている。
  • 以前の「頭の中で、言葉なくして思考し、言葉を表出させる」という記述は残されているが、「ソクラテス的な問答法や対話、瞑想」が削除されている。また現代の「それまで不明確であった事柄を、言語化して明確化する際の象徴化」に関する研究があるという指摘も排除された。
  • 「優れた哲学は身分や国を問わない。(名を残した哲学者は、貴族、奴隷、君主、執政官、レンズ磨きなど、その身分は多岐にわた」る)というくだりは事実であるのに消されたが、「思索は極めて属人的な営みであり、思索家の死や沈黙、著作物の散逸などにより容易に失われる」はなぜか残されている。にも関らず、「著作をものさず」、「主に討論に時間を費やした」ソクラテスの思想が、その死にも関らず弟子達の著作によって残ったという事実は排除されている。
  • 「先哲に対し敬意を払い続ける態度」という記述のみ残されているが、それだと「懐疑主義による独断の蔓延」「戦乱による思想の停滞、無知の出現」「先哲の批判後独自の哲学を打ち立てた近代哲学者の出現」という歴史的事実が、全く無視されていることになる。
  • 特徴について述べる下りで、プラトンやフランシス・ベーコンは削除(いずれも極めて重要な哲学者だ)され、デカルトのみが例として残されている。
  • 希哲学に偏っているという匿名での批判が寄せられたが、それならば、日本や他の国々の古代や近代の哲学の特徴をもかみ砕いて内容に付け加える必要がある。
  • 「哲学はその黎明期から、科学において大切でかつ難しいといわれる仮説の発明を、重要な形で成してきた。」は排除されている。
  • 「自然科学との差異」では「自然科学と哲学の共通点」のうちの重要なものを意図的に無視することになり、げんに匿名での投稿は以前の「哲学は科学的でない」といった論調をまんまと進めることができるわけだ。だが、それでは「近代において有名な経験主義者や科学的な哲学者が現れた」という事実をカヴァーしていない。
  • 「合理主義と神秘主義の混交」の例としてあげた数学者・宗教創始者ピタゴラスの具体的なエピソードが消されている。
  • 仏教ではその成立事情から外の超越者を持たなかったため「神」へのタブーそのものが無く、内観など別の形で哲学的思考が発達した。」という記述は残されたが、仏陀にはタブー意識はうかがえなくとも、「観念としての神々」を考慮に入れていたという指摘は排除されている。(後者は出典を明記してある。)
  • 削除されたのは専らユーザー’Enefproe’(すなわち私)の記述であり、手を加えた人は匿名であった。
  • 匿名で「他のユーザーの編集を受け入れるように」という批判がEnefproeに寄せられたが、例の編集というのが今回のと全く同じ性質のものであったため、Enefproeにとって、またおそらく客観的にみても不公平な要求であり、以前の編集はEnefproeにとって受け入れがたいものであった。
  • しかしEnefproeは匿名がついでに本文に加えた一文に若干手を加え、原文に反映した(「今日では神の存在の合理的な説明の試みも迷信的に映るのが大部分であるが、数学理論や観測技術の発展など時代の制約を考慮に入れる必要がある。また、彼らが投げかけた根源的・本質的な問いは、技術の進んだ現代においても充分に解明されたとすることはできない。」)
  • Enefproeはよほどの誤りがない限り内容をむやみに削除してこなかったし、多様な意見を反映し、その上でなお、世の人びとの議論により、内容が磨かれていくことを願っている。
  • 双方の編集の論理的な妥当性については世の読者に問いたい。(ただし、Enefproeに怨恨を抱く人が、新たなアドレスから第三者を装って、というのは無しにしていただきたい。)
  • 最後になりますが、Enefproeの意見は一部受け入れてもらえました。内容が充実したものとなるよう願っています。

--Enefproe 2008年7月17日 (木) 09:46 (UTC)

  • 今日は。先にノートでご挨拶してから編集すべきでした。お詫びいたします。まず①当記事(哲学)についてですが、記事に投稿されている各々の「文」それぞれが全く検証可能性のある信頼できる出典に依拠しておらず(Wikipedia:検証可能性)、独自研究と指弾されても仕方が無いほどWikipediaの編集ルールに反した状態であることをご理解頂きたいのです。これはEnefproeさんが初投稿をされた以前の状態において、でのはなしです。②次に内容についてですが、別のIPアドレスの方が貴殿の利用者ノートに投稿されていましたが、「元ある文の文ごとに接続詞「なお~」「しかし~」等をもってこまぎれに別の話題や例を挿入することで別論・批評を展開しますと、もとの文脈の話題が発散してしまい、通して読んだ場合何を話題にしているのか分かりにくくなります」(引用)と私も感じましたので、貴殿の投稿内容を踏まえて再編集したいと思い一旦リバートしてあります。③最後に投稿内容が西欧哲学、とりわけ希哲に傾斜しすぎていると感じました。いずれにせよ貴殿の投稿内容がリバートされた状態で編集保護になった点は申し訳なく思います。保護解除後に貴殿の投稿内容を(内容を生かした上で)文の並べ替え整除を元に再編集したいと考えております。私は投稿の(内容)に関しては新規に書き加える意図はございませんので、宜しければ①の点を考慮のうえWikipedia:検証可能性を充実させるための出典情報のご提供も頂けると助かります。--118.16.198.108 2008年7月17日 (木) 10:48 (UTC)


  • 今晩は。118.16.198.108を使っていた方は当記事(哲学)について、私(Enefproe)が初投稿をした以前の状態において、‘記事に投稿されている各々の「文」それぞれが全く検証可能性のある信頼できる出典に依拠しておらず(Wikipedia:検証可能性)、独自研究と指弾されても仕方が無いほどWikipediaの編集ルールに反した状態である’とご指摘なさいましたが、同じようなことは(必ずしも全ての領域でそうだとは言いきれないけれども)私も述べてきています。ただ、118.16.198.108さんは7/16ではそのとうの‘検証可能性のある信頼できる出典に依拠していない’記事にお戻しなさったことになりますが、そのことについてはウィキぺディアの方針に沿った公平な再編集を今後なさってていただけると理解いたしました。今後のご活躍に期待しています。
  • 次に内容についてですが、‘元ある文の文ごとに接続詞「なお~」「しかし~」等をもってこまぎれに別の話題や例を挿入することで別論・批評を展開しますと、もとの文脈の話題が発散してしまい、通して読んだ場合何を話題にしているのか分かりにくくなります'についてですが、「なお~」というフレーズは私は使っておらず、実は以前の執筆者が使っていたフレーズであり、以前のバージョンにそれが表れています。
例えば「なお、近年の英米哲学では、自然主義という名のもとに、哲学を自然科学の一部とする動きがある。」
  • また、エピソードを挿入した後の原文の接続詞が残ったままだと、つながりができるはずの前後の文脈が分断されるので、それを私自身削ったりした例もあります。
例えば「古代ギリシャの哲学においては合理主義と宗教への傾倒が見られ、数学への敬意と神秘主義の混融の要素は、ピタゴラスやその後のプラトンにも色濃く表れている。また、世の著作物の中に太古の思索の形跡が見つけられた場合、その著作家が先哲の思索を継承したのか、独自に着想を得てその高みに至ったのかは即断できないが、それ以前には見られない独創的な発想が認められる場合があり、哲学者たちは後代でも賞賛される比喩などを通してその発想を著作に残している。」→「古代ギリシャの哲学においては合理主義と宗教への傾倒が見られ、数学への敬意と神秘主義の混融の要素は、ピタゴラスやその後のプラトンにも色濃く表れている。世の著作物の中に太古の思索の形跡が見つけられた場合、その著作家が先哲の思索を継承したのか、独自に着想を得てその高みに至ったのかは即断できないが、それ以前には見られない独創的な発想が認められる場合があり、哲学者たちは後代でも賞賛される比喩などを通してその発想を著作に残している。」

ちなみに、この哲学者の「独創的な発想」の例も今回のリバースで削除されております。

  • 私(Enefproe)を批判してきた人は、以前の文章の「また」、や「なお」から始まる補足、批評を認める一方で、私による補足や異なる視点の提示(出典を明記しても)を認めていませんでした。
  • 希哲学へ偏っているとの批判を度々聞かされますが、では他に日本哲学、英・米・独の哲学について補足しようという声が今のところ聞かれません。世の有志を募ります。
  • 最後になりますが、このノートにおける118.16.198.108の方の丁寧なご説明と姿勢に感謝いたします。私の方も折を見て出典の明示等に努めていきたいと思います。また、繰り返しになりますが、記事の内容が世の読者の吟味によって磨かれていくことを願っています。--Enefproe 2008年7月17日 (木) 15:33 (UTC)


出典に関して

「優れた哲学は身分や国を問わない。(名を残した哲学者は、貴族、奴隷、君主、執政官、レンズ磨きなど、その身分は多岐にわたる)」については以下のような例が挙げられます。

  • 貴族‥‥プラトン。

「プラトンは(略)裕福な貴族であり‥」(バートランド・ラッセル「西洋哲学史  1」市井三郎訳、みすず書房、2003年第24刷、p.111」)

  • 奴隷‥‥エピクテトス。

「エピクテトスは(略)ギリシャ人であって、初めは、ネロ帝によって奴隷から自由市民とされ後に大臣にまでなったエバフロディトスというひとの、奴隷だった」(同上、p.261)

  • 君主‥‥マルクス・アウレリウス。

「マルクス・アウレリウスは(略)養父の後を継いで帝位にのぼり‥」(同上)

「皇帝マルクス・アウレリウスと奴隷エピクテトス(略)。両人がひどく違った境遇においてひとしくこの哲学(註:ストア哲学)の効果を示している」(:ヒルティ「幸福論」(一八九一 - 一八九九年)、草間平作訳、岩波文庫、1961年第33刷、p.37)

「エピクテトスとマルクス・アウレリウスとが、すべての哲学的問題について完全に意見が一致していることは、注目すべきことである。」(バートランド・ラッセル「西洋哲学史  1」市井三郎訳、みすず書房、2003年第24刷、p.262)

  • 執政官、改め大臣‥‥セネカ。

「セネカ(略)大臣(略) セネカは政治家としての経歴に乗り出し、かなり成功を収めていた‥」(同上、p.260)

  • レンズ磨き‥‥スピノーザ。

「スピノーザ(Spinoza,一六三四  -  七七年)は偉大な哲学者たちのうちで、もっとも人格高まいでもっとも愛すべき人である。(略)。彼は最初はアムステルダムで、次いでハーグに静かな暮らしをし、レンズを磨いて生計を立てた。」(バートランド・ラッセル「西洋哲学史  3」市井三郎訳、みすず書房、2003年第24刷、p.562)--Enefproe 2008年7月18日 (金) 08:33 (UTC)


「古代において既に婦人の参政権、身分を問わない平等といったことが説かれていた」ことについては、以下の例が挙げられます。

  • プラトン‥‥婦人参政権の主張。

「国を治める上での仕事で(略)女は女、男は男で、どちらもそれぞれの自然的素質に応じてどのような仕事にもあずかれるわけであり‥」 「国の守護する任務に必要な自然的素質そのものは、女のそれも男のそれも同じである‥」 「女もまたそのような性格の者たちが選び出されて、(略)共に国の守護に当たらなければならないわけだ」 (プラトン「国家」455E,456A,B。「国家(上)」藤沢令夫訳、岩波文庫、p.355-357.劇中のソクラテスのセリフ。)

  • エピクテトス、マルクス・アウレリウス‥身分を問わない平等。

エピクトテスは「奴隷も他の人間と対等である、なぜならすべてのひとびとが等しく神の子であるから」(バートランド・ラッセル「西洋哲学史  1」市井三郎訳、みすず書房、2003年第24刷、p.264)と言い, マルクス・アウレリウスは奴隷や婦人の地位が抑圧されていた当時のローマにおいて、「すべての人間に同じ法律が適用され、平等な権利と平等な言論の自由とを尊重して行われる政治体制、またあらゆるものにまして、被統治者の自由を尊重する君主制」(バートランド・ラッセル「西洋哲学史  1」市井三郎訳、みすず書房、2003年第24刷、p.270)について説いています。--Enefproe 2008年7月18日 (金) 12:49 (UTC)

独自研究の投稿は止めるように

情報の合成は禁止されている。出典に書かれていない因果関係の記述を加えることも独自の研究。

出典に書かれていないことを合成するのはいけません。例えば、ある本で次のように

Aが起きました。Bが起きました。

と並べて書かれているだけなのに、Wikipediaに投稿する時に、「AによってBが生じた」とか「Aが理由でBになった」とか「Aを目的にBが行なわれた」などと、因果関係や目的関係に関する推測や断定を、勝手に自分でつけ加えた文章を作り出して投稿してはいけません。これはWikipedia:独自の研究にあたります。

名詞と動詞。言語に関する基本的な理解

ところで、ほとんどの言語において、ある名詞が存在すると、それに対応する動詞が存在しています。例えばフランス語でdance - dancer。philosophie(哲学) - philosopher(哲学する) 日本語でもおおむねそうなっていまして、固有の述語がある場合もありますが、存在しない場合は、名詞にの後ろに「する」つけて、動詞(述語)とすることがある。日本語でも 「ダンス」-「ダンスする」。「調理」-「調理する」。「哲学」-「哲学する」という表現が存在しているのも、基本的にはそういうことです。

それと、「踊る」という、動作を指す述語があって、それに対応する「踊り」という言葉があると考えていいかも知れませんが。どちらにしても大差ありません。

また、次のようなことは、基本的にはある意味であたりまえのこと、あるいはほとんど無意味な言明なので、通常は記述しません。

  • 『「ダンスすること」は「ダンス」の本質である』
  • 『「計算すること」は「計算」の本質である』
  • 『「修理すること」は「修理」の本質である』
  • 『「調理すること」は「調理」の本質である』

こうして見ていただくと、その無意味さが理解していただけるでしょうか? これでは「本質」という言葉を乱用している、とも言えますし、あるいは衒学的な表現で読者をまどわそうとしているとも、あるいは元の表現を作り出した著者が日本語力が欠如していて言葉の意味をあまり把握していない、とも言えるかも知れません。

百科事典の記事は原則的に名詞(体言)で立てる

通常、日本語の百科事典では、名詞(体言)で記事名を立てます。「調理する」ことについて解説する場合、「調理」という項目で行なっています。Wikipedianの過去の不手際や、ちょっとしたいきさつ・いざこざが原因で、あるいはしっくりくる名詞が見つからず、動詞(述語)表現のまま記事名になってしまった例がありますが、基本的には好ましくないでしょう。ですので、本当はWikipediaで「哲学」という記事以外に「哲学する」という別記事が存在するのが、あまり適切ではないわけです。

ただし、歴史上絶対にはずすことができない大哲学者が(例えば古代ギリシャの三大哲学者などが)、「哲学するということは、○○するということなのだ」「哲学することで一番重要なことは○○を探究することだ。××は枝葉末節であり、重要ではない」「哲学するということは、人生を△△△に生きることなのだ」といったようなことをあえて述べていて、哲学史上重要な論点である場合は、それについて(記事全体のバランスも考慮しながら)いくらか記述しておく価値があるでしょう。そういう場合でも、「哲学する」の記事よりむしろ「哲学」という記事の中に記述しておいたほうが有益でしょう。あるいは、哲学の性質も時代とともに変化してきている面がありますので、そういうことは「古代ギリシャ哲学」という記事に記述すればよいのかも知れません。

基本的には動詞(述語)の別記事「哲学する」を立てる必要があるとは思われません。

すると、ふたつの記事を「哲学」に統合するという方向で検討することになりそうですが、ただ、現状では「哲学する」の記事内容はかなり不正確なもののようです。あのままで、この「哲学」の記事に転載する価値があるかどうかも怪しいと思われます。配置するとしても、記事の末尾、目立たない場所でしょう。 --IonianWind 2009年12月26日 (土) 05:51 (UTC)

  • 「哲学する」について文献と記事を追加しました。資料さがしでgoogle(ぐぐ)った印象では、基本的に日本の哲学学界(倫理学学会)に対する批判が主題のようですので、他国の哲学まで含めて一般化するのは早計な印象を持ちました。--大和屋敷 2009年12月26日 (土) 06:07 (UTC)
大和屋敷さん、IonianWindです。出典も明示されている加筆をしていただき、その出典の内容もまっとうで、記事が充実したと思います。ご協力ありがとうございます。--IonianWind 2009年12月26日 (土) 11:23 (UTC)


本件問題行動の一員です。強固に反対するわけでは決してないのですが。
「ダンス」-「ダンスする」。「調理」-「調理する」。「哲学」-「哲学する」という表現が存在している
基本的にはある意味であたりまえのこと、あるいはほとんど無意味な言明なので、通常は記述しません。
本件「哲学する」の問題は「哲学」が動詞ではない(故に日本語として誤っている)こと。その意味するものは儒教の「希賢」(外来語借用すれば「希賢する」)を西周が変えて希哲とした造語(訳語)であること。それは「哲学」とは異なる意味(希哲の学=希哲学とした後に本人がさらに哲学と変えたもの)であること。そしてそれ(希哲)が一般に使用されていない語であること。に起因しているものと考えます。
正しい日本語なら例えば「調理する」の場合、「調理すること」は「調理」と代替出来るわけです。ですが本件では「哲学すること」を「哲学」に代替すると意味が変わります。なので該指摘は的外れであり、「哲学する」を書く動機に何らの影響を与えるものではありません。根本的問題として「哲学する」は俗語であり日本語として誤りなのです。正しい日本語や外国語を持ち出して比較したところで、問題の中心から離れていくばかりです。
「哲学する」は俗語ですが、「哲学する」を俗語認定した出典がこれまで出されていません(し、無いと思います)。なので「哲学する」に関する限り全てを独自研究と看做す方が妥当なのではないかと考えます。
歴史上絶対にはずすことができない大哲学者が~~「哲学するということは~~」といったようなことをあえて述べていて
前述の通り日本語として誤りであるので「哲学するということは~~」と述べた、という日本語の表現がされた書籍は有り得ないわけです。同じ意味の別の言葉になっているのですから。例えば思想、真理追究、智慧の追求、智慧を愛求、等々。
Maddestmagician 2009年12月26日 (土) 09:11 (UTC)

Maddestmagicianさん、IonianWindです。

もし文献が一切無いのなら、一切記述してはいけない。Wikipediaでは、公式ルールどおりに、信頼に足る文献に記述されている内容だけを、出典を明示しつつ加筆すべき。Wikipedia:独自の研究 は絶対に禁止。Wikipediaはそういうルールで成り立っている。

もし、儒教における何らかの概念を記述したいのならば、しっかりした文献を用意して、その文献に記述してあるとおりに、儒教の記事に加筆すればよい(その場合でも、くれぐれも今までのような、説の妙な合成、つまりWikipedia:独自の研究は行なわないように。)

もしも儒教における「希哲学」の概念を説明したいのならば、特に「希哲学」について詳しく説明している、信頼に足る儒教文献もしくは儒教研究者の論文などの該当ページを見つけ、そこに書いてある主旨を素直に要約するか、そのまま引用すればよい。その場合でも、出典の文献名と掲載ページを明記すること。勝手に自分の憶測だとか、自分個人から見た評価・感想だとかを書き加えてはいけない。因果関係も勝手に判断してはいけない。Wikipedia:独自の研究は禁止されている。

「自分は○○○○と考えます」「また△△△とも考えます」などという論法で、次々に独自の説を生成して、それを組み合わせていって独自の説明の世界を構築してはダメ。ともかく出典が提示できることだけを、その出典どおりに記述すること。

Wikipediaは俗語辞典ではないので、わざわざ出典も示せないような誤用だとか俗語は記述するべきではない。この世界には無数の無学な人たちが存在して、大抵の言葉を誤用したり、妙な用法で使っているが、そんなものをいちいち記述していたら、ひとつの記事ごとに数十種類ものバカげた誤用を書かなくてはならなくなりWikipediaはゴミ溜めのようになってしまう。

だから、やはりWikipediaの公式ルールどおりに加筆すべき。信頼に足る出典に基づいて、出典を明記して、出典の記述内容に忠実に加筆するべき。「~なので」「~から」「~のために」だとか勝手に因果関係を判断して、独自の説を組み立てていってはいけない。

ともかく公式ルールを守るように。これ以上説明、いちいち説明させないように。公式ルールを再度熟読すること。くだらないし、時間の無駄になるだけなので、これ以上あまり絡まないように。 --IonianWind 2009年12月26日 (土) 10:56 (UTC)

とりあえず私の署名を変更しないで下さい。公式ルール以前の問題です。他のWikipedianである貴方にとっては想定外で理解しづらいことなのかも知れませんが、だからといって他人の署名を変更していい理由にはなりませんし、ルールに書いていないからといって他人の署名を変更していい理由にもなりません。そして取得したアカウントのまま素直ではない署名しているウィキペディアンは私の他にも日夜ウィキペディアで署名をしていて問題にはなっていませんから、他のWikipedianから見て理解しづらいとは言えません。それは妙なことではなく、ウィキペディアの標準機能です。
もし文献が一切無いのなら、一切記述してはいけない
総論として貴方が言いたいことは理解しますが、極論で全てをまとめようとしないで戴きたいと思います。
出典が提示できることだけを、その出典どおりに記述すること
ウィキペディアは百科事典であって、コピペ集ではありません。出典の複製ではなく、出典によって「検証可能性を担保する」だけです。私は「検証可能性を担保した内容」を書いています。無論「私は完璧」と思っているわけではありませんし、他の立場の人から見れば「検証可能性が不充分」と思えるかもわかりません。ですが「コピペでないから」という理由で独自研究扱いして消すのなら、それはそもそもウィキペディアが目指す百科事典として成り立ちません。
ひとつの記事ごとに数十種類ものバカげた誤用を書かなくてはならなくなり
なりません。何故に書かなくてはならなくなるのでしょう。それが書くに値する俗語なら書かれるだけであり、全てを書かなければならない義務も必要も何処にもありません。
もしも儒教における「希哲学」の概念を説明したいのならば
「希哲学」に関して立項する価値はありません。それは哲学と完全に同義だからです。また「希哲」に関しても書く価値があると判断するのは難しいです。それは使われていない言葉だからです。ですが「哲学する」は俗語であり(しかも日本語として誤って)ながらも書く価値があると考えた誰かが立項し、その後の五年間、貴君を含め誰からも削除依頼が出されることなく様々な人によって加筆編集されています。
ウィキペディアはルール以前に、百科事典であるという大前提があります。ルールは勿論大事ですが、ウィキペディアが百科事典であることを忘れないで下さい。コピペ集ではなく百科事典であるからこそ独自研究が入る余地が残ってしまい、だからこそ独自研究を載せないというルールがあるのです。百科事典であることを危うくさせるようなルールの適用は、下らないとか何とか以前の問題です。
世界最狂の魔法使いCray-G 2009年12月26日 (土) 12:21 (UTC)

保護依頼一件

  • IPアドレス投稿者さんの出典元によれば『西周(にし・あまね1892-97)明治時代の思想家。幕末にオランダで政治や法律を学ぶ。明治維新の後には「明六社」に参加して、ヨーロッパ文明を紹介。「フィロソフィー」に「哲学」という訳語を初めて使用した。(後略)』(P36)とあり福沢諭吉については触れていませんが。goo辞書「哲学」[2]にも「西周の訳語」とあり福沢諭吉への言及はありません。その他複数の資料[3][4][5][6]にも根拠が発見できませんでした。IPアドレス投稿者さんの主張によれば「明六雑誌論文は福沢諭吉との共著であり、当時の編集長が実際に福沢だったことは誰にでも明らかであり、それを覆す事実は無い」[7]とのこと。--大和屋敷 2010年1月21日 (木) 07:55 (UTC)


Wikipediaの公式ルールから判断して、「福沢諭吉」という記述を排除した大和屋敷さんの判断が正しいと思います。

端的に言えば、IP202.209.48.212は、Wikipediaにおいて禁止されている情報の合成を行なっています。「出典の記述」そのものと、「複数の情報を組み合わせて推論した結果」は別物であって、Wikipediaでは後者は禁止されています。 (「Wikipedia:独自研究は載せない情報の合成は禁止されているの部分を熟読のこと。 )

もしも、この記事の本文に「訳語の選択に福沢諭吉が関与した」などと記述するためには、どこかの文献に、例えば「哲学という訳語の選定には福沢諭吉が関与した。」などとストレートにそのままの表現で明言している出典が必要です。しかも、現状確認できる(全部あるいはほとんどの)文献では「西周」としか記述していませんので、(万が一)他の異説を述べている文献が見つかったとしても、掲載する場合に適切なのは、せいぜい、独立した別の文章で別の説(異説)として併記するような形でしょう。

現状では、IPの加筆が前面に出て、いきなり「福沢諭吉」の名前が挙げられてしまっており、怪しい情報が掲載されたままですので、私のほうで怪しい情報の分離および+要出典の作業を進めます。

それと、refタグで示した出典と、記述内容が1対1で対応していなければならないので、現状の表示では出典を偽装してしている形になってしまっておりマズいので、なおさら修正します。この形のままで保護してはいけないでしょう。

--Rf Ptrl 2010年1月23日 (土) 14:52 (UTC)

ref 化し、要出典範囲タグも貼り付けたので、もう記事冒頭に「独自研究」のタグは貼る必要はないと思われます。どうですか?

IP202.209.48.212はブロックされたようね。半保護するのも手かもしれませんが、今回はしなくてもよいような気もします。もしもまた同一人物らしきIPなどが登場するようなら、その時は即 半ブロックすればよいだろうとは思います。--Rf Ptrl 2010年1月23日 (土) 15:36 (UTC)

独自研究が不要な形になって1週間経過なので、タグを外しました。--rshiba 2010年1月30日 (土) 08:44 (UTC)
福沢諭吉一件については、主張されているTotti100さんの提示された引用元にもそのような記述がないことが確認済みですし、さすがに正確性に重大な疑問を抱いておりまして、Totti100さんには申し訳ないのですがコメントアウトとさせていただきました。「哲学」という用語の創出について福沢諭吉が関与したという直接の記述がある文献を紹介頂く様あらためてお願い申し上げます(明六雑誌の編集者であった、などという状況証拠ではなく)。--大和屋敷 2010年1月30日 (土) 08:56 (UTC)

哲学と哲学史の統合提案

哲学史は充実が見込めないように思われます。また、哲学に歴史の項目があることから、内容を哲学の歴史、冒頭にコピーし内容を調整、哲学史は哲学へのリダイレクトにするのが妥当と考えました。哲学史が哲学の歴史学であれば、哲学の歴史の内容で代替出来るように思われます。加えて、現状では記事の哲学史のそれ以上の充実は無いと予測出来るので、問題ないと考えますが如何でしょうか?--Onyx 2010年2月27日 (土) 05:37 (UTC)

哲学史を見てきましたが、ちょっとこれは・・・という感じですねぇ。こちらに統合してもこちらにいらっしゃる厳しいWikipedia編集者の手にかかれば早晩全部削除されるようなレベルと拝見しました。むしろ哲学史側の記事の発展を促す意味で現行のままで宜しいような気がしました。--大和屋敷 2010年2月27日 (土) 06:59 (UTC)
同じく哲学史を見て来ました。むしろ逆に、本項に於ける#歴史を概略のみ残して詳細を哲学史に移動する方が有意義かも知れません。本項に於ける記述の中に#歴史の内容に依存/従属した記述が特に無いことから、詳細な歴史に関する記述は「ページの本質」である哲学そのものと乖離していくことから控える傾向が出ているような気もしますし。世界最狂の魔法使いCray-G 2010年2月27日 (土) 08:44 (UTC)
そういう方法がありましたか。世界最狂の魔法使いCray-Gさんの意見に賛成します。--Onyx 2010年2月28日 (日) 07:13 (UTC)

大和屋敷さんの意見に賛成します。世界最狂の魔法使いCray-Gさんの意見には反対します。

統合提案を見て参加しましたが、あらためて哲学概論などの哲学入門書や教科書を何冊も取り出して確認してみますと、ほとんどがやはり歴史順に書いてあります。哲学は時代ごとに大きく変化しててきていますので、全ての時代をごちゃ混ぜにして一般論を述べるのは無理だからでしょう。英語版en:Philosophyでも、おおむね時代順に記述していますよ。

この哲学は、冒頭の語源の説明、歴史から始まって中間あたりまではしっかりした記事だと認められますが、どちらかと言えば後半の節の文章が怪しげです。哲学の特徴あたりの文章です。後半の節には、Wikipediaの初期の段階に投稿された文章、出典も示さずにテキトーに書かれた怪しげな文章が残骸のように残っているようです。もし歴史順の記述を削って後半の文章を残したりすると、ジャンク風の文章ばかりが目立つ記事になってしまいます。

結局、現状のままに歴史順の記述は残して、むしろ後半の怪しげな節に {{要出典}}を貼って出典を要請したり、出典をつけつつ書き直したり、出典がつかない文章を消したほうがいいと思います。

哲学史哲学史で、できる人が『哲学史』というタイトルの文献を何冊も用意して、哲学とは独立的に、どんどん書き込んでゆけばよいでしょう。この哲学の記事より歴史的な面の詳細を記述したものになればいいわけです。そのかわり哲学の特徴だとか科学や宗教との比較の記述はない記事になるわけです。 --TUPL 2010年2月28日 (日) 10:16 (UTC)

「5.特徴」は項目設定が意欲的すぎる(冒険的すぎる)気がしますね。風呂敷が大きすぎてこぼれ落ちてるテーマをどうしたもんかと思っていました。--大和屋敷 2010年2月28日 (日) 10:43 (UTC)

怪し気な記事が目立つような分割の操作が、初心者の独自研究を助長する面があるかとは思いますが、哲学の歴史と哲学史が重複すること自体が、記事の成長を妨げになるでしょう。記事の哲学の歴史に書くようなことは、記事の哲学史にも書かれます。その時期の科学や宗教との関係や比較は哲学史にとって、有意義であり、TUPLさんのような区別は、各編集者の間で共有出来るものではないと考えます。また、著書名が哲学であるか哲学史であるかは哲学の著作の内容の類推にはあまり有効ではないというのが、私の経験的評価です。片一方があまりに未熟な状態でまとめるのが後々の作業の上でも効率的ではないでしょうか。--Onyx 2010年3月1日 (月) 18:15 (UTC)

門外漢である私が誤解しているのかも知れませんが、TUPL氏の投稿内容から考えるに「学問としての哲学」(←このノート頁でも出てきた「哲学する」に対称する意味で)が、
  1. 「過去の哲学者達の思想(=彼らが哲学した内容/希哲した内容)を研究する」こととほぼ同義であること
  2. 後世の哲学者はそれ以前の哲学者達の思想に影響を受け且つそれを洗練させていっていること
  3. それでいながらそれぞれが包含関係に無い(例えばニュートン力学相対性理論の真部分集合であるような関係が無い)こと
から、「学問としての哲学」を語る上で歴史は欠くべからざる必須要素なのかも知れません。つまり私が書いた「ページの本質」である哲学そのものに関して記載しようとすると、TUPL氏の言う出典も示さずにテキトーに書かれた怪しげな文章が大勢を占めて(そしてそれを除くと#語源と#哲学の主題と#哲学の分類ぐらいしか残らなくなって)しまう、という意味です。この辺に敏感な人が居るようなので、#歴史を取り除くと逆に哲学のページの内容が育たなくなってしまいそうです。
また同時に「学問としての哲学」にとっては、各分野を単に歴史順に並べた以上の意味を持つ「哲学史」としての、「歴史的な面の詳細」だとか「歴史的背景との関連」だとかというのは、あまり興味の無い(食指の動かない)ことなのかも知れません。
ということで、私の 2010年2月27日 (土) 08:44 (UTC) の提案は(興味深いとは思うのですが)現実性が無さそうだと判断しました。
そして今頃ですが、本件統合提案に於ける「現状では記事の哲学史のそれ以上の充実は無いと予測出来るので、問題ない」という判断に同意します。
世界最狂の魔法使いCray-G 2010年3月1日 (月) 20:03 (UTC)

遅くなりましたが、改めて哲学史を哲学に統合することに私の意見を変更します。反対意見の方もいらっしゃいますので、今少し検討を重ねられればと思います。--Onyx 2010年3月17日 (水) 02:11 (UTC)

それでは、改めて反対意見が出ない場合、7日後以降、哲学に統合させて頂きたく思います。--Onyx 2010年3月21日 (日) 05:23 (UTC)

反対です。哲学史学とは歴史学の一分野で、哲学とは分野が異なります。哲学という学問自体がその性質上ウィッキペディアのような媒体にふさわしくなく、哲学者の中から選ばれた、他の哲学者がこの人が書くならしょうがないという学者にしか書けない事項だと思います。逆に、哲学史という学問は、研究方法が限定されており、出典がつけやすく、一般人でも理解しやすいという性質を有しています。むしろ哲学の項に書いてあることが哲学史の分野に属することにすぎないと思います。したがって、むしろ哲学史に哲学を統合して、哲学のリダイレクト→哲学史にすべきではないでしょうか。やることはあまり変わらないのかもしれませんが、それくらいの謙虚さが必要な気がします。もっとも、私は哲学くらいは理解しているので、本件については責任をもつという方がいれば反対しません。--Nyurutan 2010年3月22日 (月) 14:49 (UTC)

皆様お疲れ様です。このままでは統合されてしまいそうだったので、反対を表明させていただきます。哲学史の充実の見込みがないと判断して統合するのではなく、哲学史の記事の内容を充実させるのが本来あるべき努力だと思います。哲学の項目でも研究史が述べられるのは当然のことですが、哲学史の項目ではその研究史の内容を拡大した記事が執筆されなければいけません。哲学史の記事が不十分なのは我々が執筆していない、または執筆する能力がないためです。統合によって哲学史の内容について執筆する我々の機会が失われ、もしくは我々の執筆能力の不足を覆い隠してしまうならば、このような統合は体裁を整える以上の意味はないと思います。--Kazu 62 2010年3月23日 (火) 00:23 (UTC)

経緯を見て頂ければ分かるかと思いますが、私は現状に不満があるだけで、どういう方法で是正されても構わないのです。英語版のように両方を哲学史にしてしまうのは愚かでしょう。 Nyurutanさん「他の哲学者がこの人が書くならしょうがないという学者にしか書けない事項だと思います。」という発言は、その哲学者が認める哲学者の発言をルール上問題ない仕方でウィキペディアに掲載する方法を考量していないように思えますが如何でしょうか? これまでの経緯として哲学するにあるような独自研究ばかりが目立って一向に記事に実りがない状況が続いているように思います。哲学と哲学風の言辞を混同するような状況は非常に残念です。哲学として容認されないものは誰が言おうが哲学ではありません。--Onyx 2010年3月24日 (水) 09:01 (UTC)

皆様お疲れ様です。なかなかまとまりそうにないので長文を書き込んでしまうことをお許しください。Onyx様が指摘されている通り、本項目の内容が全てとは言わないまでも、かなり劣悪であることは否定しません。とりあえず現状では哲学の研究成果を時系列に配列しているものの内容に乏しく、かなりの独断と偏見が混在した内容となっています。哲学は一応学術研究でありますので、哲学風の言辞と区別される必要があることは仰る通りです。
提案から少し離れてしまいますが、ひとつの反対意見として私の改善案を示してみます。哲学者の歴史的な位置づけという哲学史的な書き方ではなく、研究分野により整理した上でテキストに依拠した書き方で全文を刷新しなければならないでしょう。しかも哲学の全領域を網羅する形で再構成を検討することも重要です。一応素案を
    • 概要:哲学の基本的な問題、メタ哲学の議論を少々、哲学研究の方法論。哲学史についてもここでリンク誘導。
    • 認識論:知識や真理、知覚、論理、懐疑主義、科学哲学などを。
    • 形而上学:存在論、自己、決定論と自由、心の哲学もここに配置。
    • 倫理学:メタ倫理、義務論、徳倫理、帰結主義も含まれると思われる。
    • 哲学の応用領域:政治哲学、言語哲学、宗教哲学・・・どう整理するかは未定。
これを基本にして現状の1語源とその意味、2哲学の主題、3哲学の分類、4歴史、5特徴の全文を見なおす作業を行い、再利用が可能な記事を修正して配列しなおし、再利用も不可能な記事は削除し、リンクのつけ方についても哲学者の名称だけでなく哲学書の表題を入れます。作業手順としては現時点で再利用が有望な4歴史の箇所(ここにも多分に問題があることは重々承知ですが)を第一に先ほど示した認識論、形而上学、倫理学の大枠に沿って抜本的に編集しなおします。これはかなり大きな作業になるのが難点ですが。
とりあえず現時点で思いついた提案をしておきます。もし時間さえ指定されないのならば、言いだしっぺの私が一人でも抜本的な見直し作業を行い、皆様がそれに編集を加える方法でも構いません。恐らくこんな面倒に参加したがる専門家はいらっしゃらないでしょう。ただし、その場合だと間違いなくかなり気の長い作業になります。ちなみに私は政治哲学しか研究したことがありません。もしここに特定の領域の専門家が何人か居るならば、担当箇所を分担して一気に再構成してもいいかもしれません。とにかく改めて統合には反対しておきます。我々がウィキペディアに参加しているのは既存の不完全な記事をこねくり回すためではなく、執筆、編集するためであり、今回のような統合は本項目の問題にとって解決にならないことを改めて主張させていただきます。反対提案のためとはいえ長文を投下してしまい誠に申し訳ありませんでした。今後は短文を心がけます。--Kazu 62 2010年3月24日 (水) 12:34 (UTC)

こんにちわ。Onyxさんの「独自研究ばかりが目立って一向に記事に実りがない状況が続いている」との点は同意します。ただ、少し落ち着いて読んでいただければわかると思いますが、私の意見は本提案に「反対」というだけで、大和屋敷さんと同じ現行のままでいいという意見です。哲学史を哲学に統合するくらいなら「むしろ」と一定の留保があるように「哲学史に哲学を統合」したほうがまだましと言っただけでそのような再提案をした訳ではありません。私は日本の文学部哲学科を卒業した訳ではないので、日本で哲学という学問がどのように考えられているのかよく知りません。ただ、フランスの中高生の学校のリセの必修科目の教科書であったP.フルキエの『哲学講義』(筑摩書房)の1巻12頁では、「哲学とは知について深く知ることで、ただ教養の補いをするにすぎない」とあります。この言葉を熟慮すると、リベラルアーツPh.D(Doctor of Philosophy)の関係がよくわかります。例えば、グールドという進化論で有名な学者の専門は生物学者でPh.Dをもっています。欧米では哲学者と呼ばれる一人です。グールドにインタヴューをしようとした記者が何を聞きたいと聞かれ、進化論と答えるとそれじゃ一人じゃ無理だから、あいつを呼ぶかと言った話があります。グールドは自分は生物学の哲学者にすぎないから、進化論では共同作業が必要だと考えているのだと思いますが、哲学者というのは本来謙虚なものです。そのような意味合いで、「他の哲学者がこの人が書くならしょうがないという学者にしか書けない事項だと思います。」という一文がでただけで、文章の前後から明らかなように真意はそれくらいの常識を踏まえた「謙虚さ」がない人が多いから、「独自研究ばかりが目立って一向に記事に実りがない状況が続いている」のではないですか、と自戒を込めた発言なのです。私としては、統合しないことを前提に、本項については、Kazu 62さんの積極的提言を検討するほうが建設的だと思います。私の見解は、上記『哲学講義』では、序論、認識、行動との3部構成で、ほぼKazu 62さんのあげた形而上学とか倫理学とか応用領域とかの要素をほぼ網羅しています。ので、特に反対はしません。--Nyurutan 2010年3月24日 (水) 14:30 (UTC)

お疲れ様です。提案とは直接関係ありませんが、参考までに。私が参照することができた百科事典でDonald M. Borchertが編集したEncyclopedia of Philosophy(2版、2006年)で「哲学」の項目は次のようになっていました。もし私の提案が退けられた場合にはこういう構想で執筆を進めてもいいかもしれません。少なくとも哲学の幅広い領域を網羅する書き方が参考になるかもしれません。各節の表題は私が適当に直訳しました。
    • 中心的な五つの領域:認識論、倫理学、論理学、形而上学、哲学史
    • 他の主要な領域:心の哲学、宗教哲学、科学哲学、応用倫理学、芸術哲学、言語哲学、その他の応用哲学
    • 哲学的方法:認識論の方法、形而上学の方法、方法論
    • 哲学の自主性:下位節なし
    • 哲学と他学問の関連:法学、神学、美学、医学と他の専門職、ジャーナリズムとコミュニケーション、ビジネス
    • 学問における哲学の位置:批判的思考、規範的問題、学際的視座
    • 哲学の文化的意義:知的貢献、世界観の説明、公共政策の形成と批判、哲学者
    • 結論:下位節なし
書いてみたら思ったより長大な目次になってしまいました。日本語版のブリタニカの「哲学」の項目の記事はあまり参考になりません。主に古代から近代の哲学史を中心とした記述にまとまっており、記事の内容もそれほどよくありませんでした。あれを参考にするなら現状のウィキペディア英語版のほうが参考になると思います。英語版のブリタニカは未確認ですが、検討に必要ならば書き込みます。失礼しました。--Kazu 62 2010年3月25日 (木) 09:39 (UTC)

こんにちわ。Kazu 62さんの当初の提案に反対ではありませんが、Encyclopedia of Philosophyの項目のほうが、理論的で将来発展する可能性があると思います。結論は我々のような立場で書くのは僭越だと思うので、序論をつけて自分が書けない部分は協力を求めるとのテンプレートを付けるのが穏当と思います。一番問題のある本項の哲学の特徴の部分は、つまるところ、自然科学者のPh.Dとは区別される狭義の哲学の学問としての自律性ないし自主性?にかかわる問題で、学問としての自律性があるからこそ、他の隣接学問との異同が問題になるのですが、本項の哲学の特徴はそういう視点がありません。重複して意味がないかもしれませんが、本項はEncyclopedia of Philosophyの項目に従った上で、本項の歴史はそのまま残し、哲学史にも同様に記載を加えて既述の部分と合体させて調整するというのではいかがでしょうか?哲学史の項の作業は、異論がなければ、能力不足は十分承知していますが、私が行います。Kazu 62さんにだけ負担をかけるわけにもいかないので。--Nyurutan 2010年3月25日 (木) 14:34 (UTC)

Nyurutanさんの言いたいことはなんとなく分かりましたが、ペダントリーな表現は避けて下さい。あと、海外で哲学者と言われている人々というよりも、日本で哲学者といって全く通用するひとを優越させるべきだと思います。哲学者を比較的狭く捉えられるのは日本語のメリットだと思います。今述べたことは、確かに私考えですが、Nyurutanさんの哲学の認識を宣言されることに重点を置かれる必要は無いように思います、というだけのことです。落ち着くも何も、私の意志は、当初から哲学史の重複が問題であるということと、淡白な哲学史がこの項目に不要だろうということです。現在の議論に至るまで、広義哲学の外部化と「哲学する」の削除は必要だった筈ですし、如何に些末な記事であれ整理する必要はあった筈です。この作業は私がさせて頂きましたが、哲学者の言説に及ばないまでも、全て、学(学問)の記事にふさい記事が成立するための努力の積もりです。 なお、哲学の主題と哲学の分類は大した記事にならないかもしれませんが、今後集中的に編集させて頂く予定でおりますので、残す方向で検討頂ければ幸いです。ただし、哲学における哲学史は最小限に留めるべきで、緩慢冗長な記述は不要でしょう。--Onyx 2010年3月27日 (土) 13:17 (UTC)

こんにちわ。少し話が横道にずれているようなので、とりあえずOnyxさんは、本項目と哲学史を統合しないでもよいとの意見に同意されたのでしょうか?Onyxさんの発言を見る限りそのように読めますので誤解がないように結論を示していただきたいと思います。この点に異論がないのであれば、議論は、本項目をより充実させるためどうすべきか、というレベルの異なる議論に移行すると思います。
本項目をより充実させるためどうすべきか、という議論に関してですが、Onyxさんがなぜ私の発言を「ペダントリーな表現」と受け止められたのか正直よく理解できません。なぜなら、私自身「日本の文学部哲学科を卒業した訳ではない」と哲学に関してはただのディレッタントであるということを明確にしており、であるからこそ政治哲学を研究したことあるというKazu 62さんの提案を尊重したらいかがですかと発言したつもりです。その後、Kazu 62さんからEncyclopedia of Philosophyの目次を参考資料として提出いただきましたので、そちらのほうがよりワールドワイドで独自研究を阻止しやすく、将来発展可能性ある方向であると考えたのでその旨の意見を出させていただきました。ただ、私の発言のなかに「事実」と異なる「表現」部分に不遜な表現と受け止められる部分があったのであればそれは素直に陳謝したいと思います。しかしながら、私としてはより本項を充実させるため建設的な方向で議論をすべきだと考えております。以下はその方向での提案です。Onyxさんの「哲学の主題と哲学の分類」を「残す方向」という点は異存がありません。ただ、以下の点とも関連するのですが、「哲学における哲学史は最小限に留めるべきで、緩慢冗長な記述は不要」との点ですが、ここが一番重要な点と考えております。哲学の歴史は、universitasつまり近代的な意味でいう大学の歴史と切り取って議論することはできません。ボローニャで始めて近代的な意味での大学ができ、法学、神学、医学とこれを支えるリベラル・アーツが学問として成立したという歴史があります。そのため、哲学は当時リベラル・アーツ、後に自然科学に発展する学問領域を統括する概念として成立し、その後、論理学、数学、自然科学等が哲学とは異なる学問としての自律性を確立するに伴い、その対象領域を狭めていき、現在、自然科学を含めた諸領域と関連性を有しつつも、なお独自の学問としての自律性を有しているという状況なのです。以上の内容であれば、多様な出典をつけることができます。私は自分の独自の見解を開闢するつもりはまったくありませんので、「Nyurutanさんの哲学の認識を宣言されることに重点を置かれる必要」とのご心配は無用でございます。このようなことを理解すれば、なぜ自然科学者のいわば名誉教授にあたる学位がDoctor of Philosophyと呼ばれるのかよくわかります。結局は哲学の学問として自律性についての記載がないから、独自研究とはいいきれないが、なにか納得しがたいということで出典要請のタグが付けられるということが繰り返されたきたような印象を受けます。いかがでしょうか?--Nyurutan 2010年3月27日 (土) 15:40 (UTC)

こんにちわ。Onyxさんから返答がなく、けっこう時間も経っていますので、2週間を経過しても反対意見がないようであれば、統合提案は棄却されたとみてタグを外し、哲学史の編集を始めたいと思います。--Nyurutan 2010年4月16日 (金) 13:36 (UTC)

こんにちわ。2週間経過したので、実行します。--Nyurutan 2010年5月1日 (土) 13:02 (UTC)
お疲れ様です。実行を確認しました。結局よく分からない議論の終わり方だったのですが、どういう合意に落ち着いたと見ればいいのでしょうか。先にあげたような目次案で修正しながら加筆編集を加えるということでよろしいのでしょうか? 念のために付記しておきますと、私は提案をした者として編集作業を進めることは進めますが、多忙のため極めて編集作業は緩慢な頻度で段階的に行われるものと予想されます。どうかご了承下さい。--Kazu 62 2010年5月2日 (日) 00:07 (UTC)
Kazu 62さん。こんにちわ。こういう終わり方の場合、合意が形成できたとみるべきなのは、結論を導くにあたり最小限の部分、つまり、当初提案の統合をしないという部分だけだと思います。もっとも、私自身はKazu 62さんの編集に期待しています。それでは。--Nyurutan 2010年5月2日 (日) 03:06 (UTC)

Onyxさんのここ数日の一連の編集は本合意違反ではないでしょうか。哲学の歴史の項目をばっさり削って、哲学史に誘導するという案は否定されているはずです。--Nyurutan 2010年6月22日 (火) 01:52 (UTC)

該案が否定的に見られていることは理解しますが、該案の実行を禁止する合意が為されたわけではないと思うのですが。そもそも該案は「統合をしない」方向の案なので、逆に(形式的には)合意に従った行動と見ることも可能かと思われます。
言葉面だけの無意味な議論を行なうつもりは無いので、改めてOnyx氏と対話するべきだと思われますが如何でしょうか。
世界最狂の魔法使いCray-G 2010年6月22日 (火) 03:22 (UTC)

そうですね。Maddestmagicianさんのおっしゃるとおりだと思います。ただ、哲学の歴史もいろいろいい記述があったのに、と思いまして。哲学史は講壇哲学の立場から古典というか伝統的な立場で書いていたので、両論あっていいと考えたのですが・・・--Nyurutan 2010年6月23日 (水) 02:11 (UTC)

独自研究を阻止するためのルール形成について

おつかれさまです。あいかわらずこの項目は議論が絶えませんね。議論の現状を把握していないので申し訳ありませんが、とりあえず概要だけ書かせて頂きました。何かまずかったり、必要ないと思われるならリバートしてもらっても結構です。私は自分の投稿した後についての経過についてはあまり拘りません。ただ、以前から問題になっていた抜本的な記事の編集については、私の一存だけで進めるのは気が引けるので、できれば合意形成で方針を明確化してもらいたいです。最低でもこの項目で何を書いて何を書かないのかだけでも明確化できないでしょうか。このような編集方針が不安定な状況では私もこれ以上編集しようがなく困っています。--Kazu 62 2010年6月28日 (月) 02:35 (UTC)

こんにちわ。Kazu 62さんの執筆された概要を読んできました。素晴らしい内容だと思います。もっとも、Encyclopedia of Philosophyなんて超高額な本を持っていることだけで私なんかとはレベルが違うのでおこがましい限りですが。私が提案したいのは、出典のレベルの区別です。これだけ議論が錯綜しているので、新規の執筆には必ず出典をつける。出典をつける場合、百科事典である以上、他人の査読をうけた文献を優先する。同様に、他人の査読を受けた文献でも伝統・古典的な見解を優先、比較的新しい議論でも学界の共通了解事項がある見解を優先する。具体的な優先順位としては、百科事典→教科書→論文→個人の出版物とする。いわゆるゾッキ本のようなものはたとえ出典があっても認めない。そうでないと、なぜイスラム哲学が西洋哲学に分類されてしまうのか?どんな本を読むとそういう理解?に至るのか、私には理解の範囲を超えていてコメンとする気にもなれないのですが、これも全部無意味な議論をえんえんとしないといけなくなってしまいます。いかがでしょうか?--Nyurutan 2010年6月28日 (月) 13:06 (UTC)
私の拙い文章を褒めて頂き大変恐縮しています。あと要旨としてもよく分かりました。ただ、私は依拠するべき文献を限定するべきだという一般的な方針だけでなく、この哲学という項目を執筆する上で参考となるような具体的な方針が必要だと思います。これは編集の途上でその場しのぎ的に合意を得ていくしかないような気もしますが、新しく記事を書きたくても現状の記事をどのように扱っていいのかよく分かりません。私が読む限り今の記事の99%に改善の必要があります。だからといって私は自分の一存だけでここの項目を全て白紙化して全面的に書き直す勇気も時間もありません。
とりあえず現状の問題点を三つにまとめることができると思います。第一に記述する内容の範囲をどのように限定するのか。私が執筆した哲学の概要は基本的に西欧の哲学を想定していますが、東洋哲学をどのように位置づければよいのでしょうか。また応用的な哲学の研究領域をどこまで網羅するのか、などなど。第二に目次案をどのようにするのか。現状ではあまり体系的なものではありません。体系化する必要などないかもしれませんが、どの節にどのような内容を書けばよいか少なくとも私にはよく分かりませんし、哲学の全貌を知る上ではミスリーディングだと思います。第三に哲学についての外在的な記述をどのように処置すればよいのか。例えば今の記事には哲学そのものの説明ではなく、哲学と他の学問との関係、また哲学に対する批判についての説明があります。不要であるとは思いませんが、私にとってこれは典型的なメタ哲学の議論の部分的を紹介しているに過ぎません。またこの種類のメタ哲学の議論は哲学の研究とあまり関連がありません。ソーカル事件のことも書いていますが、私は哲学そのものに対する批判ではないと思います。
以上の三点についてどなたか応答してくだされば、以後はそれを参考に編集作業が進めることができると思います。このくらいの合意形成をしておいたほうが、後々になって皆さんにとっても面倒な論争にならないと考え提案させて頂きました。--Kazu 62 2010年6月28日 (月) 15:19 (UTC)
こんにちわ。私の意見は以下のとおりです。
第1について。哲学は近代西欧語でいうところのフィロソフィ、フィロゾフィの訳語ですから、西洋哲学を中心に記載すべきだと思います。東洋哲学とかイスラム哲学とかは本来別項目で書くべきで、そちらに誘導する形にすべきです。
第3について。哲学の特徴とか哲学に対する批判は不要だと思います。ただ、哲学と他の学問との関係は哲学のアイデンティティとも関連するので最後に若干残したほうがよいかと思います。ここに東洋哲学とかイスラム哲学とかの誘導をはるのがよろしいかと。
第2について。以上を踏まえて、Kazu 62さんの概要に対応する形で以下のようなものではいかがでしょうか?
    • 概要
    • 認識論
    • 倫理学
    • 論理学
    • 形而上学
    • 哲学史
    • 他の主要な領域
    • 哲学と他学問の関連
Kazu 62さんの当初提案とEncyclopedia of Philosophyの項目との折衷案で比較的穏当かなと思いますが、いかがでしょうか?--Nyurutan 2010年6月29日 (火) 13:58 (UTC)
ご返答ありがとうございます。他の皆様にもご意見がありましたらここに示して頂ければ幸いです。とりあえず、哲学の主たる研究領域についての節に段階的に再編していくことになりそうですね。また他方面の哲学についてはリンクで誘導する方針なので、既存の記事はかなり大胆に削除することになるかもしれません。もしどなたか現状で重要と思われる記事があると思われる箇所があればここで注意喚起をお願いします。ここまでやる気満々のコメントをしておきながら申し訳ありませんが、こちらの時間の都合で私は編集活動をあまり迅速に実施できそうにありません。気長に編集するので、どうかご了承願います。--Kazu 62 2010年6月29日 (火) 14:56 (UTC)

下に#編集上の注意点というセクションを設けました。そちらのほうをご覧下さい。--IonianWind 2010年7月5日 (月) 23:42 (UTC)

脚注と出典の混同の訂正の依頼

脚注と出典の混同が随分あることが分かりました。しかし、記事が長大になっていて、訂正は労力がいる状況です。効率的な方法を私は知らないのですが、どなたか脚注と出典の混同の訂正をして下さいませんか?--Onyx 2010年2月28日 (日) 07:13 (UTC)

本項目の厳密化

定義が判然としないために、編集と議論に混乱を来している面があることから、学問以外の哲学を外しました。実質的にはもともと学問の哲学を目して書かれていることから、実質的な差異はないと思われます。ただし、広義の哲学が、学問の哲学を照らしだす為に記述されている箇所が残っています。--Onyx 2010年3月10日 (水) 16:27 (UTC)

こんにちは。現在利用者:D.h/日本十進分類法細目表/1類・哲学などで図書分類法の整理を行っています。主題や地域、年代別の哲学の整理、情報源(参考図書)の記述などで利用できないかな、と漠然と考えています。どなたか哲学のプロジェクトを立ち上げてくれるとうれしいのですが。協力してくれる方を募集しています。一人でやっていると時間がいくらあっても足りません。--水と土 2010年3月11日 (木) 00:56 (UTC)

編集上の注意点

こんにちは。

どうもあまりよろしくない編集傾向が見られるので、いくつか気をつけていただいたほうがよいことを指摘しておきます。

Wikipediaでは複数の説、互いに対立する説でも併記するようにしましょう。

自分にとって「これこそが正しい体系だ」と思える体系を過信しない。ある程度以上の領域になりますと、必ずといっていいほど、学者に派閥があったりして、複数の見解が対立しているものです。例えばA説、B説、C説があった時に、B説が一番正しいと思えるからといって、A説の記述やC説の記述を削除してはいけません。「B説が正しいとすると、A説が成り立つわけないんだから、A説なんか消してしまえ!」という単細胞な行為は、Wikipediaでは行ってはいけません。複数の説を併記してゆくのがWikipediaのルールなのです。どれほど互いに矛盾する説でも、それらをうまく併記する方法がWikipediaでは確立しています。次に述べる中立的な記述方法です。

最初からできるだけ中立的な記述にする

Wikipediaの「中立性」Neutralityという用語は、簡単に言えば、出典(参考文献)の文章とは距離を置いた記述のしかたをする、という意味です。これによって、対立する説を、穏便に、いくつでも併記してゆくことが可能になっています。

中立性の例を示します。例えば、Xという学者の書いた文献に次のような文章が書かれていたとします。

 ○○○こそが正しい。□□□は、最低だ、くだらない!

Wikipediaでは、たとえ出典を示したとしても、原則的に次のように書くのは止めるべきだということです。

○○○こそが正しい[1]。□□□は、最低だ、くだらない[2]。(←良くない例)

Wikipediaでは次のように書くべきなのです。

学者のXは、「○○○こそが正しい[3][4][5]」とした。また、「□□□は、最低だ、くだらない[6][7]」とした。

あるいはせいぜい

学者のXは、○○○こそが正しい[8][9][10]、とした。また、□□□は、最低だ、くだらない[11][12]、とした。

というやり方です。他にもいくつかやり方があります。要は、カッコの中に入れて扱ったり、引用と分かる形で扱うことによって、できるだけ地の文に直接組み込まないようにする、ということです。 (中立的な観点も熟読のこと)

どんな領域でも、ある程度以上の規模になるとグループが複数存在し、それぞれのグループは、無自覚のままにドグマ(教条)を作り出して、他を排斥しようとする傾向があります。また18世紀から20世紀中ごろでは、国籍や人種ごとにグループがあることも多々あり、自国至上主義的、人種主義的偏見に凝り固まって、「オラが国の○○こそが、本物の○○だ!」とか、(人種偏見的な動機は表面上は伏せたまま)他人種の活動を陰湿なやり方で無視し葬り去ろうとすることがあります。たとえば「我々白人の○○こそが本物で、白人以外のの○○はゴミだ!」「我々イギリス人の流儀が最高で、フランス人のやり方はゴミだ!」「いや、我々フランス人のやり方が最高で、イギリス人どものやり方はケダモノのやり方だ!」とかいった類の文章は古い文献ではおぞましいほどに溢れていますが、そのような文章は偏りのあるものです。一般的に言えば、あるグループが他のグループのことをけなしている文章は、(一見どれほど論理に基づいて主張しているように見えても、本当は感情的なものに駆り立てられた)自己中心的な偏見でしかないことがほとんどですので、できるだけしっかりとカッコでくくるなどして、特に中立性の確保には留意して下さい。

シュヴェーグラーの本の扱い方は、この点に関して要注意です。

また、Wikipediaでは、古典となってしまった本の取り扱いにはそれなりの注意が必要だ、作法がある、とされています。古典の中に見られる見解や文章は地の文に組み込むのではなく、カッコに入れて扱いましょう。シュヴェーグラーの本はかなり古く、どちらかといえば、古典の部類に属します。

また平凡社の世界大百科事典の【哲学】の項目をよく確認してください。かつて、西洋人らが哲学史においてヨーロッパ中心主義(という人種的な偏見)に基づいて単線的な進歩史観をつくりだしてしまった、歴史の歪曲を行ったことが指摘されています(「<哲学史>のとらえなおし」)。また『新カトリック大事典』第三巻の【哲学】の項にも同様の問題が指摘されています(【哲学と哲学史】)。最近の文献ではシュヴェーグラーのような人種偏見に満ちた記述は避ける傾向があります。西洋哲学至上主義に陥らないように気をつけているのです。

例えば平凡社『世界大百科事典』の【哲学】の項では、"哲学史"に関する上記のような注意点の指摘をしっかり行ったうえで、記事末尾で、「イスラム哲学」「インド哲学」「西洋哲学」「中国哲学」を同列で並べる形で(=西洋哲学至上主義を避ける形で)各論へと誘導しています。『岩波 哲学・思想事典』の【哲学】の項目なども確認してみて下さい。記事を西洋哲学だけで塗りつぶすような愚は犯していません。

一旦要出典タグを貼って様子を見る

他者が投稿した記述をいきなりバッサリと削除してしまうことは止める。自分にとって、どれほど間違っている記述と思えても、まずは一旦{{要出典}}や{{要出典範囲}}タグを貼り、1~2週間ほどは忍耐強く出典の提示を待ち、出典を確認した上で判断する

「きっと間違っている記述だろう」「出典も無いのに投稿しているのだろう」「私の常識とは全然合致しない。私はそんな見解は聞いたこともない」などと思っていたものが、実は信頼に足る出典にしっかり書かれていたものであった、ということや、記述を削除した側の読書不足、知識不足(無知)あるいは偏見にすぎなかった、などということはWikipedia上では日常茶飯事に起きています。高校生や大学生レベルだけでなく、その道の専門家でも犯してしまうことがあるミスです。誰でも(まっとうな学者でも)、ある文献を読み、そこに挙げてある参考文献を手に入れて読み、またそこに挙げてある参考文献を手に入れて・・・・・、というようなことをやるものですが、そのような方法で出来た知識が本当に偏りのない知識とは限りません。特定のグループの説に囲われてしまって、広く学んでいるつもりが、実は反対で自分で自分に特定のドグマを刷り込んでいるにすぎないことがあるわけです。

いきなり削除せず要出典タグを貼ることは、他の投稿者に対する礼儀でもありますし、それ以上に、そのような手順を踏まないと、ほとんど必ずと言っていいほど投稿者同士の感情的な対立となって編集合戦が起きてしまい、管理者によって記事が「保護」状態(=編集・加筆がまったくできない状態)にされてしまう事態を招くからです。

まだいくつか指摘しておきたいことがありますが、今回はとりあえず。--IonianWind 2010年7月5日 (月) 23:42 (UTC)  ( 上の文章、あわただしい朝に投稿し推敲が不十分だったので、夜にいくらか推敲・加筆しました --IonianWind 2010年7月6日 (火) 16:04 (UTC)

どうもこんにちは。以前の議論の下でこちらへの誘導があったので参照しました。ご指摘の内容は大変ごもっともなのですが、どのご指摘も一般的な言い方なのでその意図するところがよく分かりません。ウィキペディアで全般的に依拠するべき編集方針はよく分かるのですが、IoniaWind様はこの哲学という項目の記事をどのようにするればいいとお考えなのでしょうか。より具体的に述べて頂ければ助かります。「気をつける」とは何に対してなのか、項目の中のどの記事や記述、もしくはノートで議論されていたどの編集方針に問題があるかを指し示した上でご意見を示して下されば幸いです。恐らく私を含む前回の議論の参加者に対する発言なのでその趣旨はできれば、以前の議論を踏まえて頂ければ分かりやすいと思います。--Kazu 62 2010年7月6日 (火) 04:20 (UTC)

出典は各文章に個別につけるように

特にKazu 62さんに、出典を各文章につけないという、悪しき傾向が見られます。ひとつひとつの文に出典をつけるようにしてください。検証可能性はWikipediaの公式ルールです。--IonianWind 2010年7月8日 (木) 16:10 (UTC)

出典を各文章につけないという悪しき傾向があるKazu 62よりお返事を申し上げます。なんだか文章だけを見るとだいぶ怒らせてしまっているようで、申し訳なく思っています。恐らく概要で要出典がついた命題に対するものだと想定してお返事を書かせていただきます。まず例の命題についてですが、ずいぶん大げさに取り上げられてしまいましたが、この命題に出典は原理的につけられません。なぜなら、もともと何の根拠もなくあくまで便宜的な定義を書いているに過ぎないからです。「哲学を定義することはできない」という一文からはじめても良かったのですが、それではあまりに不親切だと思ってしまったために便宜的な定義を書きました。私は哲学が定義不能であることを述べた後に当初はメタ哲学の研究で示されている学説を列挙して締めくくる案のも考えましたが、これも煩雑すぎますし、ここはメタ哲学の項目ではないので諦めました。このようないくつかの妥協の産物として哲学そのものの定義については論点を「語る」ことを諦めて、論点を「示す」ことが無難だと判断した次第です。ここは哲学的な議論がどうしても避けられない箇所ではありますが、語源説を示すという無自覚な日常言語学派的メタ哲学の記述が独占している状況より幾分改善になるだろうと考え実行しました。それがあまりここでは、良くなかったのかもしれません。そういうわけで私は出典を各文章につけずに編集作業を行った責任をとって、今後ここの記事を編集することを一切止めてしまうほうがいいと判断しました。私の編集に対してご批判とご指摘を下さった皆様に大しては大変ご心配とご迷惑をおかけしたことを申し訳なく思います。もし私が書き込む以前の状態に戻す必要があれば、私のほうで回復作業を実施しますのでお知らせ下さい。もし私の文章を解体して部分的に使用するのも構いません。ともかく、ここで改めて記事を加筆することはもう一切ありませんので、ご安心して今後も編集作業を進めていただければ幸いです。--Kazu 62 2010年7月9日 (金) 06:53 (UTC)
コメント一言一句にただrefを形式的につけるだけの作業それ自体は、概念の説明という文脈においてほとんど意味がないものです。例えば脱構築についてそれをやれば、ただの著名な哲学者達の引用句集が出来上がるだけで、理解できる「文章」を作ることはできないでしょう。もともと哲学分野ではどんな突拍子もない主張であっても、誰かがどこかで主張していますし、市販の百科事典もそれぞれの記事の執筆者のポジションを反映した構成をしています。こうしたトラブルが頻繁に起こるようであれば、そろそろ哲学分野にもなんらかのローカルルールの設定が必要かもしれません。--Was a bee 2010年7月9日 (金) 07:55 (UTC)
こうして専門的知識のある者ほど去っていく。大変勉強になり、もっと読みたかったので、残念です。--Nyurutan 2010年7月9日 (金) 14:45 (UTC)

概説の節の出典は、事典類の哲学の項のまさに「概説」類に限定するのがよい

念のために言っておきますが、本記事【哲学】概説の節の出典は、百科事典などの【哲学】の項目の最初の1~2ページや、まさに「概説」「概論」のところに書いてある文章に限定することが望ましい。そのようにしておかないと自己主張の強い方が現れて、各論の中のひとつの説を「概説」部にドカドカと書き込むようなことが起きます。単行本や論文類に見られるような突っ込んだ議論を、本記事【哲学】の「概説」にいきなり掲載すべきではなく、そういう情報は本記事【哲学】の後半の各論部分でじっくりと展開すべきでしょう。単行本のこみいった議論をうっかり概説部に掲載してしまったことに気づいた方は、ご自分で後半の各論の適切な節に移動させてください。--IonianWind 2010年7月8日 (木) 17:30 (UTC)

「冒頭部分肥大化の法則」はありがちなお話ですね^^; このあたり編集者のセンス(書かずにすませるセンス)が求められるところです。--大和屋敷 2010年7月8日 (木) 18:16 (UTC)
コメントどこに何を書くかについて、少なくともゆるい合意は多くの方の間で存在しますが、トラブルが頻繁に起こるようであれば、哲学分野でローカルルールを決めていかなければならないでしょう。特に問題としてすぐ思い浮かぶのは場所の問題があるかと思います。議論領域の中でマイナーな「一論者、一個人の主張」を、人物記事でなく概念記事の方に大きく書いてしまう状態、あと、ある論点に対して数ある立場の中で、マイナーな(またはほとんど無名な)ポジションを、個別の人物記事やポジションについての個別の記事の中でなく、メイン記事の中に大きく書いてしまう問題があると思います。--Was a bee 2010年7月9日 (金) 08:03 (UTC)
コメント上の節で述べたような意味も含め、概念的な主題を扱う記事に関して、下の#出典サンプル節にあるような一冊の本から羅列されるrefタグというのは、あまり意味がないまたは逆に不適切なものです。当然、その「論文・原稿の執筆者個人の記事」や「論文・著作単体の記事」でそうした形が出てくるのは当然のことかと思いますが、少なくとも議論のある概念について説明を用意するさい(つまり哲学分野におけるほぼ全ての記事でしょう)、一冊だけの本からrefタグ付けを羅列して全体を執筆することは、逆に避けるべき執筆方法でしょう。こうしたこともトラブルが頻繁に起こるならばローカルルールとして何か定める必要が出てくるでしょう。--Was a bee 2010年7月9日 (金) 08:20 (UTC)
あの"出典サンプル"は、あくまで本文側にどのように出典の"[..]"が表示されるのか、本文の視覚的イメージを感じ取ってもらうために、ダミーを埋め込むための(時間が無い中で)応急措置的に作ったもの。見せたかったのは本文側のイメージ。当然出典の中身に重きをおいて作ったものではない。妙なことで言いがかりをつけないように。「最初から複数の出典を用意して投稿すべし」という点は、(あなたではなく)私のほうがノート:哲学史のほうで最初から指摘しているので熟読するように。(繰り返すが、もともと本文表示イメージを直感してもらうためのダミーでしかないが)、早合点する単細胞な人や、ダミーを見て、それを悪意で口実にして "出典は1冊でいいのだ" などと妙な主張をする人が将来現れないとも限らないので、一応、私の本来の意図に近づけて修正しておく。これを見る人に注意しておくが、くれぐれも出典は最初から複数用意するように。尚、ダミーは2例目以降で同じパターンが繰り返されているが、これは「出典がまったく同じ組み合わせでも、本文の印象はこのように異なるんですよ、投稿者はそれを配慮しつつ、できるだけ中立的にカッコに入れてください」という例を示すためのものなのであえてそうしている。(妙な誤解をうけないよう、念のために言っておく。)--IonianWind 2010年7月10日 (土) 20:44 (UTC)
コメントちなみにIonianWind氏と同傾向の編集をしてるアカウントとして私は今これだけリストを作成しています。同種のアカウントが百を越えるレベルで作成されている可能性もあるでしょう。--Was a bee 2010年7月9日 (金) 08:41 (UTC)
妙ないいがかりをつけないように。--IonianWind 2010年7月10日 (土) 21:00 (UTC)
言いがかりといのはどのような意味でしょうか?「別のアカウントなど作成したことはない」という意味であるのか、「作成しているがまだ100個はないだろう」という意味なのか?曖昧な形でのお答がずっと続いておられますので、はっきりお教えいただけると幸いです。--Was a bee 2010年7月10日 (土) 21:29 (UTC)

出典ダミー

  1. ^ 以下はあくまで基本的に、本文の文章に "[..]" が表示される様子を見ていただくためのダミーです。出典は最初から複数用意してから投稿・加筆するようにしましょう。
    X『哲学』
  2. ^ X『哲学』
  3. ^ X『哲学』
  4. ^ B社『○○大百科事典』
  5. ^ X『哲学入門』
  6. ^ A社『○○○百科事典』
  7. ^ X『哲学入門』
  8. ^ A社『○○○百科事典』
  9. ^ B社『○○大百科事典』
  10. ^ X『哲学入門』
  11. ^ A社『○○○百科事典』
  12. ^ X『哲学入門』

IonianWindさんについて

当記事哲学の編集に関してこのような対話[8]を頂いておりますが、申し訳ありませんが、なにひとつ意味が理解できない内容でしたので、お話しの趣旨がまったく当方に伝わってまいりません。ご了承ください。--大和屋敷 2010年7月10日 (土) 22:52 (UTC)「なされているべき記述」と「なされていてはダメな記述」があるとして、その間には膨大な領域(「あっても良い記述」)があると私は考えております。読者の便宜に適するという趣旨で「多すぎず少なすぎず」「内容にボディがあり(空疎でない)」「明確に誤りであったり信頼できる引用元に基づかない独自研究、ではない」「中立的な記述」はあっても良いのではないか。--大和屋敷 2010年7月10日 (土) 23:02 (UTC)

IonianWindさんの当記事における過去のご貢献を検証しましたところ、ボディのある投稿[9]復帰[10]文献情報追加[11]そのほかは要出典の挿入と前後関係の入れ替えですので、あまり「おおきな顔」で「大暴れ」しないよう宜しくお願い致します(「」部がloaded-languageです)。--大和屋敷 2010年7月11日 (日) 06:33 (UT C)

削除した点等

数箇所文を削除したので、理由も挙げずに、というのも何なので理由を記しておきます。

1.「哲学の対象・主題」の説の「哲学の対象・主題」の小節の「前5世紀ごろのソクラテス以降になると、哲学の対象はもっぱら自然ではなく、『人間的なこと』になった。人間の魂のよさ、倫理的なことがらになった」を削除。理由は、アリストテレス、テオプラストス等自然的な事柄を扱っている哲学者は多数存在するために、確かにソクラテス以降人間に関わる事柄も議論され始めたとはいえ、あたかも哲学の対象が自然から人間へと転換したかのように言い切る上述の文は史的事例と照らし合わせてみるならばいささか誇張的と言えるため。

2.「特徴」の節の「学問分野としての哲学の特徴」の小節の「思索により独自にある共通の高み(結論の類型)を獲得する哲学は、時代や身分、環境を超越し、普遍性を伴う」およびその注「名を残した哲学者たちは、貴族、奴隷、君主、大臣、レンズ磨き等、その身分は多岐に渡り、奴隷であったエピクテトスと君主であったマルクス・アウレリウスの哲学的見解は、ことごとく一致していた」。理由としては、前者は、「思索により独自にある共通の高み(結論の類型)」という表現が意味不明な上に、「時代や身分、環境を超越」した普遍性などというのは別に哲学の特徴でもなんでもないため。「君主」を一例に挙げるならば、農民の子から君主になった者(劉邦、朱元璋)もいれば、貴族から君主になった者(ウァレリアヌスなど)、将軍から君主になった者(アウレリアヌス)、はたまた奴隷(マムルーク)がつくった王朝もあり、これらのケースからすれば「君主」も「時代や身分、環境を超越」した普遍性とやらを満たすと言え、そのことは哲学の専売特許でも何でもないと言えます(他にも例はいくらでも挙げられます)。後者については、「奴隷であったエピクテトスと君主であったマルクス・アウレリウスの哲学的見解は、ことごとく一致していた」というのは非常に思い切った主張ですが、マルクス・アウレリウスは「エピクテトス以上に、内政の強調と結びつく点」(『哲学の歴史2 帝国と賢者』, p. 459)や「ストア学派の標準的な唯物論的定式から逸脱してプラトン主義的な二元論を窺わせる表現」(ibid, p. 465)があるとされていることから、両者の主張が「ことごとく一致」するというのはいささか考えにくいことです。また、常識的に考えて別人である二人の哲学者の見解が「ことごとく一致」するというのは考えにくい事です。--Tantalos 2010年9月4日 (土) 05:20 (UTC)

  • 2点目については「普遍的な正しさ」「時空を超えた普遍的な正しさ」「普遍的法則」について触れようとしているのだとおもいます。もうすこし用語を選択しなおすなり文献情報を追記するなりしてなんとかなるかもしれません。--大和屋敷 2010年9月4日 (土) 15:50 (UTC)「人はあらゆる理性学(ア・プリオリな)の内で、ただ数学をのみまなぶことができるが、しかし哲学(Phiolsophie)をば(それが歴史記述的でない限り)決して学ぶことはできない」「理性に関しては、せいぜいただ哲学すること(Philosophieren)を学ぶことができるだけである」(純粋理性批判)という警句あたりを述べようとし、過去に議論のあった記述「哲学すること」を受けようとしている話題だとおもいます。--大和屋敷 2010年9月4日 (土) 16:00 (UTC)山の登り方【数学】は学ぶことはできるが、山の頂点は登るしかない、山の頂点は登った者たちだけのものである、みたいな比喩?--大和屋敷 2010年9月4日 (土) 16:29 (UTC)


削除や差し戻しをする場合は、理由を説明していただきたく思います。

差し戻しによって、「女性と哲学」という小見出しが、ごっそりと削除されてしまっているのですが(個人的には、その小見出しがあること自体は不適切だとは思いませんが、修正を加えるべきようには思います)、どういう理由でしょうか。

この点に限らず、大きな変更を加える場合は、いくらかの言を費やすよう、お願いいたします。--Sht218 2010年10月2日 (土) 02:14 (UTC)