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利用者:Was a bee/2010

以下、状況整理用メモ

構造的問題

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  • 学術系分野でノートに長文が並ぶと、何かまともな議論が行われていると勘違いされ(または状況の判断がつかないため)、なかなか管理者による対応が行われない(それは火中の栗、後で「結果的に」対応が良くなかった場合、謝罪したり、釈明したりの手間は尋常ではない。とりわけ長期荒らしなどがここぞとばかりに大量のアカウントを作成してコメント依頼に殺到する)
  • 多くの人によく知られている分野(マンガ、映画、ドラマなど)でおかしい人が現れた場合、大体一緒にともなっている、何らかの方針の無理解や無視、 Civility の問題で、それほど長い時間かかる前に対応が行われる。だがあまり知られていない分野(学術系、かなりマニアックな趣味系)だと「その人の言ってる中身のおかしさ」を言葉を尽くして周囲に理解させないと、行動面にはっきり異常があってもなかなか対応されない。
  • コメント依頼をだすようなレベルの論点がもともとない(単純な荒らし・またはいわゆる「キティ」系、「電波」系案件)には、ほとんど誰もコメント依頼を出さない(元々相手の行動が「おかしい」という事以外に特に論ずる点がない、つまり実りある議論とは特にならない。しかもその「おかしさ」を周囲に理解してもらう為には、マニアックな分野の場合、相当量の説明と文章を周囲に向けて書く必要がある。そのことを考えるとやる気がなくなる。特にその編集分野に自分しかいなかったら尚更となる。状況が1対1になってしまうと、自分がどれだけ誠実に言葉を並べても、おかしい相手が何事かをわめき続けるなら、自分の正当性が周囲に確信される可能性は皆無に近いだろう(うーん、何かよく分からんがもめてますなー、という)。また提出した依頼ページでは、被依頼者が、提出者に対して批判的・攻撃的な長広舌を打つ(これは言論弾圧だ!など)であろうことも容易に想像される。だから多くの編集者はそんな面倒にあえて関わりたいと思わない。
  • 依頼がまずいと依頼提出者が非難を受けたり、被依頼者に擁護的な論調が出てくることがある。例えば自分が別の場所で他の利用者と対立を抱えていたりすると、敵の敵は味方、で提出者に批判的、そして問題利用者に擁護的、な言葉が出てくることもある(江戸の仇は長崎で)。あとマニアックな分野での混乱で、問題の所在、つまり「編集内容がまずいんだ」という点が周囲にうまく伝わらなかった場合、第三者的な視点からは「こんなに熱心で頑張ってるんだから・・・確かに乱暴かもしれないけど・・・「ちょっとの間違いで」そんなにフルボッコにしたら可哀想だよ。もうちょっと話しあって^^;」という感じ方も出てくる(人の情としては当然)。そうしたコメントは、時に対象者を自信づけてしまって(俺は間違ってなかった!やはりおかしいのはあいつだった!)、最悪以前より活発化することも予想される。これが最大のリスク(苦労して依頼を出して以前より状況が悪化する)。だから基本的になるべく依頼なんて厄介なものは出したくない。そうした危険で不毛なことに長い時間を使うなら、のんびり記事を書くなりしてた方がはるかに楽)
  • その分野の人から見て一目で分かる典型的パターンで、なぜいちいち依頼が必要かという不毛感(ネット上ではどんな場所、掲示板、ブログコメント欄でも、一定の類型の人は必ずいる。例えば2chの物理関連スレを覗くと、相間さん(そうまさん)、量間さん(りょうまさん)という言葉がある。これは相対性理論間違ってるさん、量子力学間違ってるさん、つまり「アインシュタインは間違ってたんだよ!」「量子力学はデタラメだったんだ!」といった頻繁に発生される方々に与えられる称号である(ちなみに物理板で哲学系の話をやると「哲クズ」と言って追い返される)。また数学分野での作図問題や、特許庁への永久機関の出願など、各分野には典型的なパターンというのがある)
  • マニアックな分野では、共同作業が出来ない相手だから何とかしてくれという訴え(持ち出す文献がおかしい、基本的な対話ができない)があっても、周囲に中身が理解されないため、まず政治闘争・イデオロギー闘争と捉えられて対応がなかなか行われない(よく分からないけど、あなたが〇〇派で、対立するのが××派、ただ対立相手を追い出したいんだけなんじゃないの)
  • 真面目な執筆者が、相手がちょっとおかしくても敬語で丁寧に対応して、おかしい人間が偉そうに講釈を垂れてると、周囲はおかしい人間の方をひょっとすると偉いのじゃないかと見てしまう。
  • 少なくとも共同作業の相手としてどうしようもなくなってしまうのは、多くの場合次の4つの条件が共通して現れていることである。この条件は多いが、このどれかが欠けている場合は、逆に一過性の、収束可能性のある事態とも捉えられることから、この領域への対応が常に後手後手に回り続けている状況がある(例えば非常に熱心に物事を学ぶ人は、しばしば下の2以外、1,3,4の属性を強く持つ。とても攻撃的でいわば大人版「なぜなぜ君」となる。そういうのは吸収が早いと非常に面白かったりもするから難しい)。少なくとも以下のすべてが同時に発動された場合、一介の編集者は手の施しようが何もなくなる。
  1. よく知らない(記事の主題についてよく知らない)
  2. 知ろうとしない(対話が始まり、状況を伝え、情報源を提示しても、それを見ない。知ろうという気や、学ぼうという気が欠如している。そのため壊れたレコードのように言ってる内容が変化せず、同じ内容のことを繰り返す)
  3. だが介入する、主張する、時に相手を罵倒する、批判する(それでもノートで主張を行い、情報を示して編集にストップをかけても本文の編集が止まらない。そしてむしろ相手を批判、罵倒するようになっていく)
  4. いなくならない(以上のようなことを一過性の感情の高まりで行うのでなく、継続的に、広い範囲の記事にわたって、何週間、何ヶ月、時に何年、とずーと行い続ける。もはや周囲は記事に手が出せなくなる)

上の点を確認するまで、少なくとも多くの編集者は丁寧に対応する。「あ、このテーマに興味を持った人かな」とか「何かの分野の熱心な人かな」などと善意にとって、しばらく対話を行う。最悪の状況と分かるのは数回の会話のキャッチボールを終えても相手の行動に何等の変化も出ないことが分かった時である。

  • ただしこれはどちらからもそう見える。だから基本的な問題が出てくる。ウィキペディアの各記事では、社会内でのどういう知的権威にもとづいた情報を置くのか、選択の問題である。世界について書くならば、インテリジェン・トデザイン(世界は知的な神により創造された) と ドーキンス(神は人間の生み出した幻想である)は戦いうる。
  1. ID論者は言うだろう「ドーキンスは神の教えについてよく知らない」 ドーキンスは言うだろう「ID論者は科学についてよく知らない。」
  2. ID論者は言うだろう「ドーキンスは神の教えを学ぼうとしない。」 ドーキンスは言うだろう「ID論者は科学について学ぼうとしない。」
  3. ID論者は言うだろう「ドーキンスのような誤った考えを広めていく人々へは断固とした対応が必要である 」 ドーキンスは言うだろう「ID論者のような誤った考えを広めていく人々へは断固とした対応が必要である」
  4. ID論者は消えないだろう ドーキンスのような人間もまた消えないだろう

しかしウィキペディアが哲学分野の記事でどこを権威とするかという点については、よほどの境界領域でないかぎり基本的にすでに決まっている。それは聖書が伝えることでもなく、ムーの伝えるものでもなく、テレビで言われることでもなく、現在の社会内での哲学系の学会内でのそれ、である。そして記事にすでに貼られている様々なリンクや論文を通じて、その状況はワンクリックで知ることができるように既になっている。ここが分かれ目である。

しかしそうなるとウィキペディアは学会の下請けなのだろうか?ある意味ではそういうものとなる。というかモメるとそうならざる得ない。しかし学会誌と違いここにページ数の制限はない、大学と違いここにポスト数による参加者の数の制限はない。そういう意味で、より深く、広く、物事を扱うことができるポテンシャルも、ここは秘めてはいる。しかしそこで揉めたらどうするか?それはまた別のお話。