ノート:南京事件/過去ログ10
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「論争」について
[編集]- コメント 「保守」の言論空間では、一部の新聞・雑誌や通俗的な歴史本にて、「虐殺」または「事件」の存在を否定する主張が見られるものの、空間内にとどまっており空間の「外」との「論争」には至っていない。また、「肯定派」と「否定派」は共通の活動(や議論)の場所を持っておらず、それぞれの場で互いの研究や主張を批判することはあっても、「論争」がおこる状況にはない。したがって、現状「どんな事件か自体」についての論争は「存在しない」といっても過言ではない状況にある。--花蝶風月雪月花警部(会話) 2023年12月12日 (火) 14:45 (UTC)
- 返信 これはその通りだと思います。それだけにそうしたものに言及・紹介するのは本来Wikipediaにはあまりそぐわないと思います。--TEN(会話) 2023年12月13日 (水) 16:22 (UTC)
- デタラメ。--Konnnitihaseizinnnosabu(会話) 2023年12月27日 (水) 13:47 (UTC)
- 論争が存在しないならそれぞれの出張を載せても論争に参加することにはならないといますが。それとKonnnitihaseizinnnosabuさんは「デタラメ」とだけ返信しても意味不明ですので返信は具体的にお願いします。--フューチャー(会話) 2023年12月28日 (木) 05:27 (UTC)
- 返信 個人的な意見としては、それぞれの主張を載せるというのは、以前にも書いた通り実質的にWikipedia記事を論争の場として使うのに等しいものだと思うので、基本的には言及しない方が良いと考えます。花蝶風月雪月花警部さんの表現を借りて言えば「『肯定派』と『否定派』は共通の活動(や議論)の場所を持っていない」わけですが、Wikipedia上であたかも議論が成立しているかのように両論併記してしまうのは適切でないように思います。一応、現在の南京事件の記事で使われているものの中からそうした議論についての出典も確認はしてみたのですが、敢えて論争に言及するとすれば「犠牲者数」をそれぞれがどのように算出しているか、について言及するのが良いのではないかと思いますが自信はないです。
- まず、論壇誌等での議論においても、実際のところ「否定」されているのは主として中国政府の公式見解となっている「30万人」や数万人~20万人という犠牲者数であって、事件そのものを否定する見解は少なくとも主流でなさそうです。原剛「南京大虐殺はあったのか」『昭和史20の争点 日本人の常識』(2003)では原剛氏は現代の研究では「①の三〇万人説や②の二〇万人以上説、⑤の虐殺否定説(まぼろし説)は、以下に述べるように実証性・論理性に欠けていることが判明してきた」と要約しています。本文のあとがきによれば月刊誌『諸君!』2003年7月号に掲載された記事を加筆訂正・改題したものということなので、いわゆる保守系の「場」においての議論の要約として参考になるかとは思います。加えて、新しい歴史教科書をつくる会の発起人の藤岡信勝『自由主義史観とは何か』(1997)でもp. 34で「今日、南京事件の存在自体を否定する者はほとんどいない。しかし、犠牲者数については長い論争があり...」となっていて、やはり虐殺そのものを否定する見解が極めて少数の例外的な立ち位置であることはこうした「場」においても基本認識と言えるように思います。
- 一方で『南京大虐殺否定論13のウソ』(1999)に掲載されている笠原十九司「『数の論争』のトリック」で主張されている内容は「否定派が仕掛ける『数の論争』のトリックは、今となっては数の問題に正確な結論は出せないということを利用して、数の問題が解明されなければ南京大虐殺も『まぼろし』『虚構』であるかのごとく思わせ、実態認識にいたろうとする思考の道を妨げるところにある。」といった具合で、「否定派」の議論の内容というより手法について批判を向けており、この両者は歴史学的な意味での「論争」をしているわけではないんですよね。
- 実際見てみると南京事件が「どんな事件か自体」についてはそれぞの「場」内部においてさえ争われてはいないように思えます(そしてこれらの多くは、「信頼できる情報源」として取り扱うのは難しいようにも思います)。端的にいってこれらについて解説・紹介するのは基本的に南京事件自体についての説明にはならないと思います。--TEN(会話) 2023年12月28日 (木) 18:58 (UTC)
- >教科書について
- それは当たり前です。しかし、日本国の場合、歴史教科書と政府見解は一致しています。人間は多かれ少なかれ自分の属する国家の見解の影響を受けるはずなので、日本語使用者が最も多い日本国政府の見解の影響を受けている可能性が高いと思います。また、日本語使用者自身の多くが、日本国で教育されています。Wikipediaの記述の変化から日本国の歴史教科書の改変はある程度予想できます。
- ※実際、前々回の中学歴史教科書で「南京大虐殺」が完全少数派となると、ここの名前も2010年には「南京事件」に転換されました。その後、いろいろな箇所で「南京事件」と教わった世代が浸透しているため、学界などでも「南京大虐殺」は完全少数派化してる節があります。本来は、通説に基づいて教科書が編纂されますが、日本国の公民・歴史教科書の場合は違うようです。例えば、昭和30年代から公民教科書が当時の日本国政府が発表した学習指導要領の規定を無視する形で「日本国憲法三原則説」を唱えると、その後、7原則説や5原則説は衰退し、「三原則説」が多数派となりました。採択率が最も低い自由社は三原則説を唱えたのちに残りの「4原則」を唱え、7原則説を主張しています。
- あとはちょっと手に蕁麻疹ができたのと、謎のバグでエンターキーを押すと文字が消える不具合(?)に悩まされているので後で(Wikipediaだけ。じゃがいもサーバーだし。エーペックスかよ。)。--Konnnitihaseizinnnosabu(会話) 2023年12月15日 (金) 16:45 (UTC)
- 返信 本当にWikipediaの記述の変化から日本国の歴史教科書の改変はある程度予想できるとすれば、単に不適切な編集が継続的に行われているというだけであるように思います。なお、履歴を見る限り本記事が「南京大虐殺」から「南京事件」へ改名されたのは「歴史学の分野では、南京事件と呼ぶのが主流であるから。 また、虐殺に関する論争でも多数派であるので。」となっており、教科書の記述が理由にはなっていないです。いずれにせよ編集にあたって中学・高校レベルの教科書は基本的に関係がありません。--TEN(会話) 2023年12月17日 (日) 18:16 (UTC)
- >本当にWikipediaの記述の変化から日本国の歴史教科書の改変はある程度予想できるとすれば、単に不適切な編集が継続的に行われているというだけであるように思います。
- 「不適切な編集」であっても、その人の意識も社会全体の意識としてカウントされます。
- >歴史学の分野では、南京事件と呼ぶのが主流であるから。 また、虐殺に関する論争でも多数派であるので。
- 当時の歴史学者の多くが「南京事件」として教えられた世代です。今後、「南京大虐殺」が復活するでしょう。現在の教科書との関連はちょっと自分でもよく分からなくなりましたが、学者が受けた教育にだいぶ影響されていると感じます。日本国憲法三原則説もそうです。昭和30年の指導要領(https://erid.nier.go.jp/files/COFS/s33j/chap2-2.htm)では「日本国憲法は,基本的人権の尊重,平和主義,国民主権,三権分立,代議制,議院内閣制等の基本的な原則に基いている」となっていますが、教科書には三原則説が載っていました(このとき、学者も検定担当者も基本的に戦前・戦時中(占領下を除く。)の教育を受けた世代です)。現行版では指導要領も三原則説となり、検定では自由社など三原則説をもとにした書き方を強制され、残りの原則は補足的になるなど、学問の自由への侵害も行われています。
- >いずれにせよ編集にあたって中学・高校レベルの教科書は基本的に関係がありません。
- 表面上はそうでしょう。それは間違いありません。--Konnnitihaseizinnnosabu(会話) 2023年12月27日 (水) 13:45 (UTC)
- これに関しては「だから何」としか言いようがありません。記事と関係ない演説はご遠慮ください。--フューチャー(会話) 2023年12月28日 (木) 05:30 (UTC)
- To all, please remember to continue this conversation. I wish everyone a healthy and productive 2024. I am sorry to hear of the recent disasters in Japan; I hope you are all not affected by it.
- There is still work to do. This article has had these problems for over a decade now, it is time to fix it.
- 皆さん、この会話を忘れずに続けてください。 皆様にとって、2024 年が健康で実りある年になりますようお祈り申し上げます。最近の日本での災害のことを聞いて残念に思います。 皆さんが影響を受けないことを願っています。
- やるべきことはまだあります。この記事にはこれらの問題が 10 年以上存在しており、修正する時期が来ました。--Toobigtokale(会話) 2024年1月6日 (土) 11:58 (UTC)
- これに関しては「だから何」としか言いようがありません。記事と関係ない演説はご遠慮ください。--フューチャー(会話) 2023年12月28日 (木) 05:30 (UTC)
- 返信 本当にWikipediaの記述の変化から日本国の歴史教科書の改変はある程度予想できるとすれば、単に不適切な編集が継続的に行われているというだけであるように思います。なお、履歴を見る限り本記事が「南京大虐殺」から「南京事件」へ改名されたのは「歴史学の分野では、南京事件と呼ぶのが主流であるから。 また、虐殺に関する論争でも多数派であるので。」となっており、教科書の記述が理由にはなっていないです。いずれにせよ編集にあたって中学・高校レベルの教科書は基本的に関係がありません。--TEN(会話) 2023年12月17日 (日) 18:16 (UTC)
画像について
[編集]- 一応、あんまり画像について検証できる資料は揃ってないのですが、とりあえずこちらの編集で「写真の出典が明示されてない」として削除されているこの画像についてだけ、そこそこ確認ができたので長くなりますが共有します。現時点で把握している限り、写真の信頼性・出典という観点では掲載に問題はなさそうですが、著作権的な問題がクリアであるのか良くわからないです。掲載可否はこれが大丈夫かどうか次第かなと思います。
- 出典について:まず第一に、出典は画像の詳細ページに「村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線,日本機関紙出版センター,1987年12月20日,46頁,写真139,ISBN 4-88900-218-9」とあり、明記されています。従って出典的な問題はないです。実際にこの写真が掲載されていることも確認しました。
- 第三者言及:次にこの写真には第三者言及があります。『南京大虐殺否定論13のウソ』(1999)には笠原十九司「南京大虐殺はニセ写真の宝庫ではない」という写真の問題についての「否定派」に対する反論が掲載されていますが、229頁から230頁にかけて村瀬守保氏の写真について「これらの写真は、集団虐殺の現場から奇跡的に死を免れて逃げ帰った中国人の証言にある、射殺・銃殺、再度生存者を点検して刺殺したあと、最後は薪と石油で焼殺、焼却するという集団大量虐殺の手段が事実であることを証明するものである」と評されており、特にこの写真は「『虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが平服の民間人でした』というキャプションの写真が三枚ある。(四六-四七頁)」(230頁)として特記されているものの1つです。
- 撮影者(村瀬守保)について:撮影者の村瀬守保氏は『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』の説明によれば1937年7月に召集され31日に入営、兵站自動車第17中隊・第2小隊に所属。個人で写真機を持ち込んでおり、このために検閲を通さない写真を個人的に所持することになったとのことで、1987年に日中戦争中に撮影した写真を写真集として出版したものがこの書籍となります。
- 撮影時期について:同写真集の記述から、この写真は南京事件最中の1937年12月末~1938年1月初頭のいずれかの時点で撮影されたものと特定できます。同中隊は北京方面への派遣を経て上海方面に転進、11月19日に天津から貨物船で出向、11月22日上海着。12月13日には南京にいたようですが、「十三日夕刻には、十六師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。私達輸送部隊はなぜか、二週間ばかり、城内に入ることを許されず、場外に足止めされていました」となっているので、村瀬氏が南京に入城したのは12月27日頃以降。南京陥落後いずれかの時点で長江をわたって徐県城(徐城県?)に移動してしばらく駐屯。1938年2月3日に北上命令を受けて第13師団と共に徐州作戦に参加するため移動。となっているため、村瀬氏の記述から撮影時期がかなり絞り込めます。
- 撮影地点について:これはWikipedia的には独自研究に該当すると思われますが、この画像の詳細ページには、写真に移っている川が秦淮河であり、橋が石城橋(石城桥)であるとの記載があります。Discussionページの議論を見るとMtBellというユーザーが現地の写真から特定しているようです。この石城橋は百度百科に掲載されていて位置が確認できます。また、検索したところ清朝末期および、日中戦争中の橋の写真がありました(現代では架け替えられているようです)。確かに橋脚の数や形などは一致していそうで、しかるべき技能を持った画像解析の専門家が検証すればメートル単位で撮影地点を特定できそうにも見えます。
- 著作権的な要確認事項:詳細ページでPermissionが「Author died more than 70 years」となっているのですが、少なくとも村瀬守保氏は1987年12月時点で存命であったのは間違いなく(本人による写真集のあとがきの日付)、このPermissionの記述は事実ではないです。写真集の性質的に掲載許可が下りないようなものではないと予想はされますが、public domainになっているという詳細ページの権利記載が本当なのかよくわかりません。この点がクリアになるならば、この写真自体は南京事件のページに掲載するものとして非常に適切性の高いものと言えるように思います(撮影地点についてはこの写真集の記述からはわからないので掲載できないですが)。この点どなたか著作権に詳しい方のコメントをいただきたいところです。--TEN(会話) 2024年1月22日 (月) 16:09 (UTC)
- {{PD-Japan-oldphoto}}が付与されているようです。日本国内の著作物の場合、1946年以前に撮影された写真はすべて旧著作権法に基づきパブリックドメイン扱いになるので、権利の問題は発生しないのではないでしょうか。--Nux-vomica 1007(会話) 2024年1月23日 (火) 05:21 (UTC)
- @TENさんへ
- 村瀬守保氏は、Amazonの書籍情報[1]によると、1988年7月にお亡くなりになったようです。そのため、詳細の情報は誤りであることは確定かと思われます。
- 現行著作権法(1971年施行法)が施行される前の旧著作権法(1899年施行法)によれば、写真の著作権はその創作又は発行後13年[2]とされています。そして、現行著作権法の保護期間が適用されるのは、現行著作権法が施行された時点において現に保護期間中のものとされています。
- 撮影が1937年又は1938年とすれば、その13年後の1950年又は1951年の12月末日となりますから、現行著作権法が適用される前に保護期間は終了しているものとできます。
- なお、旧法における「発行後」が適用されるとなった場合は、現行法にる保護期間(死後70年(2058年末)まで)となります。
- 村瀬氏の写真は1971年までに「公開」されたものではないことから、現行法の規定が適用される余地があります。単純に1971年までに撮影されているから保護期間が終了しているとはできないと思われます。
- --Kodai99(会話) 2024年1月23日 (火) 09:29 (UTC)
- 返信 Nux-vomica 1007さん、Kodai99さんありがとうございます。著作権関連は難しいですね・・。自分でも検索してみたのですが、確信をもってこうだと言えるような情報は見つからず。ただ、一般的な傾向としてはこちらのコラムの説明などのように、基本的には戦時中に撮影された写真の保護期間というのは終了しているものとして取り扱われているようには見えます。日本写真著作権協会が発行している雑誌の説明では「創作又は発行後」という文言について次のように説明されているのを確認しました。
- 「写真の著作物の保護期間は、1899年(明治32年)に施行された旧著作権法では発行後10年(未発行の場合、製作後10年)と規定された。」(強調は引用者)
- 「1956年(昭和31年)12月31日までに発行又は製作した(写真撮影)著作物の著作権は1966年(昭和41年)12月31日までに消滅してしまった。著作者が生存していても同様である。」
- 村瀬氏の写真について上記を適用すれば、「創作又は発行後」というのは1987年まで発行されていないことから「製作」の時点から保護期間の計算が行われるはずで、著作者は生存していても1956年(昭和31年)12月31日までに発行又は製作した(写真撮影)著作物の著作権は残っていないのでパブリックドメインとして使用できる、という解釈になりそうですが、こういうものの最終判断ってWikipedia的にはどういう形で意思決定が行われるものでしょうか。法律のことなのであまり適当な解釈で進むのも良くないとは思いますが、一般論的には日本の法制度下での戦前の写真の利用についてはWikipedia上で普通使用できるものと考えるのに問題はなさそうな気がしますし、利便性という点で言えば一般論に従った処理が出来た方が好ましいとは思うのですが。--TEN(会話) 2024年1月25日 (木) 15:14 (UTC)
記事の再構成について
[編集]- 一般的な構成に基づいて、論争を排除した上で、どんな事件か説明できるなら、それに反対する理由はないでしょう。しかしそもそもどんな事件か自体が論争になっていると思うのですが、本当にそのような構成が可能なのでしょうか。--フューチャー(会話) 2023年12月11日 (月) 09:10 (UTC)
- 返信 概説書や事典類などでは「南京事件」の概略を説明する際に基本的に「どんな事件か自体」の論争には言及していないので、これらから記述を作るならば自然と南京事件論争への言及は限定的なものになると思います。現在の版の冒頭文の出典が事典類であるのに「この事件の存在は、連合国軍占領下の日本において行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)で認定され~」という論争の話題に入るところから突然、東京裁判の判決文のような一次資料、産経新聞・朝日新聞のようなマスコミ記事、刑法史の論文といった出典に切り替わるのは恐らくこれに起因しているでしょう。また、論争に言及する場合にも、笠原『南京事件』、秦『南京事件』といった概説書における論争への言及の仕方というのは基本的に実際に起きた事象と論争をきちんと区別していますし、臼井『新版 日中戦争』では論争には言及せず単なる事実として描写が行われています。これらの中では基本的に南京事件が「どんな事件か自体」ははっきりしていて、細部はどうあれ日本軍による虐殺事件という取り扱いは確固たるものがあります。不明なものとして取り扱われているのは「犠牲者の正確な数」という点に尽き、実際「論争」に関連して『戦争犯罪事典』や『現代アジア事典』などで言及されている論争も犠牲者数に関わる点なので、この点を節にまとめて記述すれば論争への言及としては一般的な形になると思いますがいかがでしょうか。--TEN(会話) 2023年12月11日 (月) 16:50 (UTC)
- いかんせん形がないと分かりづらいですから、改稿に向けての草案のようなものを作っていただくことは可能でしょうか。笠原・秦・臼井はいずれも手元にありますので、加筆および査読にはお力添えできると思います。--Nux-vomica 1007(会話) 2023年12月13日 (水) 05:56 (UTC)
- 返信 ありがとうございます。そうですね、一部書いてみたりはしていたので、一応全体的にこんな風にしたら良いのでは的なものを下書きに置いて見ようと思います。--TEN(会話) 2023年12月13日 (水) 16:22 (UTC)
- コメント とりあえず、利用者:TEN/sandbox2に主に笠原『南京事件』と秦『南京事件』の記述をベースにするとこんな形になるのではないかというものを置いて見ました。まだ全く中身も無い節もありますが、あんまり時間を置いても何なので一旦ここで共有します。基本的には
- 前史
- 南京事件
- 南京戦および占領時の日本軍の編成
- 事件を引き起こした要因
- 史料
- というあたり骨格に構成するのが良いのではと思っています。--TEN(会話) 2023年12月17日 (日) 18:16 (UTC)
- すみません、このページからの履歴継承がないようですが大丈夫ですか?--フューチャー(会話) 2023年12月20日 (水) 22:15 (UTC)
- 返信 下書きの内容で現行の南京事件の記事から引き継いでいるのは原剛氏の引用を紹介している注釈だけなので、特に継承する履歴はないと思っています。部分的に反映する場合に備えてタグの形式を揃えるために参照タグはコピーしていますが、これは多分履歴継承は不要だろうと考えます。もし問題があるようであれば別途対処します。--TEN(会話) 2023年12月21日 (木) 11:59 (UTC)
- 報告 さしあたり、こういう感じにしてはどうだろうかというものを下書きにまとめました(誤字脱字や文法のおかしな文章の調整などはまだしていません)。笠原・秦それぞれの『南京事件』をベースにはしていますが、資料部分などはちょっと当初とは変えて別の出典を主に用いてしまってはいます。提案としてはこれを採用するしないは別としても、現在の記事の構成は全面的に見直すべきだというものになります。先だって議論していたXefonさんの編集内容は敢えて独自に組み込むことはしていませんが、必要に応じてそれも併せても良いかもしれないと思います。--TEN(会話) 2024年1月11日 (木) 16:59 (UTC)
- 執筆お疲れ様です。適切な資料を適切に要約した、よい記事になっているものと考えます。形式面で気になった部分を挙げます。
- 報告 さしあたり、こういう感じにしてはどうだろうかというものを下書きにまとめました(誤字脱字や文法のおかしな文章の調整などはまだしていません)。笠原・秦それぞれの『南京事件』をベースにはしていますが、資料部分などはちょっと当初とは変えて別の出典を主に用いてしまってはいます。提案としてはこれを採用するしないは別としても、現在の記事の構成は全面的に見直すべきだというものになります。先だって議論していたXefonさんの編集内容は敢えて独自に組み込むことはしていませんが、必要に応じてそれも併せても良いかもしれないと思います。--TEN(会話) 2024年1月11日 (木) 16:59 (UTC)
- 返信 下書きの内容で現行の南京事件の記事から引き継いでいるのは原剛氏の引用を紹介している注釈だけなので、特に継承する履歴はないと思っています。部分的に反映する場合に備えてタグの形式を揃えるために参照タグはコピーしていますが、これは多分履歴継承は不要だろうと考えます。もし問題があるようであれば別途対処します。--TEN(会話) 2023年12月21日 (木) 11:59 (UTC)
- すみません、このページからの履歴継承がないようですが大丈夫ですか?--フューチャー(会話) 2023年12月20日 (水) 22:15 (UTC)
- いかんせん形がないと分かりづらいですから、改稿に向けての草案のようなものを作っていただくことは可能でしょうか。笠原・秦・臼井はいずれも手元にありますので、加筆および査読にはお力添えできると思います。--Nux-vomica 1007(会話) 2023年12月13日 (水) 05:56 (UTC)
- 返信 確認ありがとうございます。一通り修正してみました。また、一応東京裁判と南京軍事法廷についての記述も追加しました。
- 概要節:追加してみました。一文あたりに出典を付けるのが難しいので、編集合戦を誘発しやすい記事であることを考慮すると概要の作り方はちょっと悩みますが、大雑把にはこんな感じかなと思います。
- 日本軍現地部隊の編成の出典:出典追加しました。
- {{harv}}テンプレート:とりあえず証言など一次資料引用の孫引きは{{Quote}}テンプレート、参考文献の著者の引用は括弧だけで統一してみました。{{harv}}は現時点だと、参照情報の表記法に統一感がなくなってしまうので、実際に記事の方に記述を適用した後に全体の参照表記法の整理と一緒に適用できれば良いかなと思います。--TEN(会話) 2024年1月13日 (土) 15:16 (UTC)
- ありがとうございます。私としては、現状の記事はこの草案で上書きしてよいものと思いますが、他の方の意見を待ちたいです。--Nux-vomica 1007(会話) 2024年1月14日 (日) 23:02 (UTC)
- 返信 確認ありがとうございます。一通り修正してみました。また、一応東京裁判と南京軍事法廷についての記述も追加しました。
- I think this is a significant improvement, thank you for your work. The article still lacks images; is there a plan for their inclusion?
- これは大きな改善だと思います。ご尽力いただきありがとうございます。 この記事にはまだ画像がありません。 彼らを含める計画はありますか?--Toobigtokale(会話) 2024年1月15日 (月) 05:46 (UTC)
- 返信 At least, I have no plans to add any images to the draft. This is because dealing with the authenticity of photos related to Nanjing Massacre is quite complicated, and I am concerned about the spread of discussion and lose its focus. And, there is nothing about photography of the incident among the references that I have collected for this draft. However, I believe it would be better to include some images. It might be easier to bring them from the English version, but I also think it is better to think about them separately from the process of rewriting contents of the article. --TEN(会話) 2024年1月16日 (火) 03:35 (UTC)
- I had suspected that was the reason; images are indeed difficult to prove. Still, this draft is an improvement.
- If you or anyone else can, in the future, work on adding in images, that would be appreciated.
- それが理由ではないかと私は思っていました。 画像を証明するのは確かに困難です。 それでも、この草案は改善されています。
- あなたまたは他の誰かが将来的に画像の追加に取り組むことができれば、それは幸いです。--Toobigtokale(会話) 2024年1月16日 (火) 08:09 (UTC)
- 返信 At least, I have no plans to add any images to the draft. This is because dealing with the authenticity of photos related to Nanjing Massacre is quite complicated, and I am concerned about the spread of discussion and lose its focus. And, there is nothing about photography of the incident among the references that I have collected for this draft. However, I believe it would be better to include some images. It might be easier to bring them from the English version, but I also think it is better to think about them separately from the process of rewriting contents of the article. --TEN(会話) 2024年1月16日 (火) 03:35 (UTC)
- 返信 概説書や事典類などでは「南京事件」の概略を説明する際に基本的に「どんな事件か自体」の論争には言及していないので、これらから記述を作るならば自然と南京事件論争への言及は限定的なものになると思います。現在の版の冒頭文の出典が事典類であるのに「この事件の存在は、連合国軍占領下の日本において行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)で認定され~」という論争の話題に入るところから突然、東京裁判の判決文のような一次資料、産経新聞・朝日新聞のようなマスコミ記事、刑法史の論文といった出典に切り替わるのは恐らくこれに起因しているでしょう。また、論争に言及する場合にも、笠原『南京事件』、秦『南京事件』といった概説書における論争への言及の仕方というのは基本的に実際に起きた事象と論争をきちんと区別していますし、臼井『新版 日中戦争』では論争には言及せず単なる事実として描写が行われています。これらの中では基本的に南京事件が「どんな事件か自体」ははっきりしていて、細部はどうあれ日本軍による虐殺事件という取り扱いは確固たるものがあります。不明なものとして取り扱われているのは「犠牲者の正確な数」という点に尽き、実際「論争」に関連して『戦争犯罪事典』や『現代アジア事典』などで言及されている論争も犠牲者数に関わる点なので、この点を節にまとめて記述すれば論争への言及としては一般的な形になると思いますがいかがでしょうか。--TEN(会話) 2023年12月11日 (月) 16:50 (UTC)
- コメント あまりに節が長くなりすぎてて見通しが悪いので、ちょっと中途半端な位置ですが節をわけました。とりあえず、今週いっぱい程度異論が出なければ、下書きを本文に反映したいなと思います。コメント等あれば随時下書きを手直しするなり対処したいと思います。--TEN(会話) 2024年1月17日 (水) 15:04 (UTC)
- 報告 とりあえず提案から一週間以上経過し、新しい意見もつかなかったため記述を本文に反映しました。何かあれば随時調整ということになるかと思います。--TEN(会話) 2024年1月21日 (日) 15:14 (UTC)
- コメント 議論活性化のためのコメント依頼を見て来ました。出典に関する議論がなされ、笠原『南京事件』と秦『南京事件』をもとにした改稿をTENさんが行ったのを確認しました。基本的にTENさんの改稿に同意します。
- 改稿に関連して、TENさんが2023年11月9日 (木) 14:00に書いた「論壇誌やマスコミ記事の記述を主たる出典にすべきではない」という意見、常陸のクマさんが2023年11月9日 (木) 14:51に書いた、秦『南京事件』・北村『南京事件の探究』・笠原『南京事件』くらいを基礎として書き直すという意見に基本的に同意します。Xefonさんが2023年11月9日 (木) 06:08に書いた「信頼に値しない出典に基づく記述の削除」という意見は、表現がやや攻撃的に見えますけれど、大筋としてTENさんや常陸のクマさんと同じだと解釈しました。私は文献が手近にないので、Nux-vomica 1007さんが2023年12月13日 (水) 05:56で提案したようなお手伝いはできないと思いますけれど、何かあれば随時書きます。
- 花蝶風月雪月花警部さんが2023年12月12日 (火) 14:45 に書いた論争についての指摘は改稿において重要だと考えますけれど、今後の課題とさせてください。
- フューチャーさんが2024年1月21日 (日) 16:37 に書いた参考文献のノートについての提案に同意します。--Moke(会話) 2024年1月30日 (火) 12:52 (UTC)
- 追記。フューチャーさんが 2024年1月31日 (水) 11:57 で議論にもとづいた編集であると発言されているのを確認しました。--Moke(会話) 2024年2月1日 (木) 05:11 (UTC)
1/21のTEN氏による大幅書換えについて
[編集]なんか勝手な解釈で大幅に書換えられたようですが、根本的な誤りが多いので、元に戻した方がよいかと思います。 まず、国際委員会をつくったのは残留した22人の欧米人ではありません。 南京戦時に既に南京を出ている方(デンマーク人など)もいます。22人でも無いです。 諸々ありますが、最低限の知識を持った方が編集された方が良いかと思います。残念ながら偏見の強い勝手な書換えに見えます。--Harukaikeda(会話) 2024年1月28日 (日) 01:51 (UTC)
- 私が歴史学の根本的な素養が無いまま未熟な編集を行い、イデオロギー的な言及をしてしまったために、論争が続いてしまっていて申し訳ありません。粗い形で提示した問題点を汲み取り、信頼できる二次資料を基に記事を再構築したTENさんの編集方針に賛成し、感謝いたします。
- (私はともかく)TENさんや他の編集者の方々は、歴史観的な論争からは一歩引いて、質の高い文献に沿った中立な記述を目指していると思います。各論的な反対意見はあると思いますが、党派的な言及より、文献に基づいた建設的な議論になると良いと思います。--Xefon(会話) 2024年1月31日 (水) 13:48 (UTC)
- ○党派的な言及より、文献に基づいた建設的な議論になると良いと思います。
- →全く同感ですし、私は以前もその様にして編集に参加してきました。
- ○信頼できる二次資料を基に記事を再構築したTENさんの編集方針
- →秦氏・笠原氏に拠ったニ次資料が信頼できるのかだいぶ疑問があります。あくまでも一意見と思います。
- 何より、以前の版の中では、彼らも論争の中の一論者でしたので。そこに格段の信頼を置ことは根拠に欠けるかと思います。--Harukaikeda(会話) 2024年1月31日 (水) 14:00 (UTC)
追記: 海外の論説と日本のものが異なるので、海外に合わせるべきという説がありますが、日本は当事国であるので、それなりに研究が進んでいるという事情があります。 海外の説を取り込みたいのであれば、その説と日本の説との併記、またはどちらの方が筋が通っているかという事実に基づいた視点の提供はありえるかと思われます。
単に海外に合わせるということで、国内の既存の論をなぎ倒し、一定の史観に統一を図ったこの改訂は、一言で言えば、退化であると思います。
せっかくのWikipediaの場が、一定の史観に立つ一説の、単なる押し売りの場にならないことを願っています。
- 返信 南京安全区国際委員会について:「南京に残留した22人の外国人によって」という記述は笠原『南京事件』p. 172の「ドイツ人商社員、アメリカ人宣教師・教授ら外国人二二名が南京国際委員会を組織して~」という記述および、秦『南京事件 「虐殺」の構造 増補版』p. 6の「正確に言うと、ジャーナリストたちが引きあげたのちも、南京にふみとどまり、日本軍とともに正月を迎えた外国人は二二名を数える。主力はドイツ人とアメリカ人で、難民区または国際安全区と呼ばれた南北三キロ、東西二キロの一角に集まった一〇万人近くの中国人難民を世話しよう、と起源を覚悟で残留した篤志家たちだった」という記述をベースにしています。厳密に言えば、南京安全区国際委員会の設立時にメンバーとして記載されているのは15人であり、22人というのは委員長のラーベらが連絡を取り合い、南京に残留して年を越したことを把握している欧米人の数、ということになるとは思いますが、この記事では委員会の細かい組織の話は本筋ではないので、この記述に合わせています。笠原氏は別の著作ではより細かく国際委員会について述べては言いますが、「南京事件」という括りで解説する時の大雑把なまとめとしてはこういう表現になるのでしょう。基本的に粒度をこの二冊をベースにして調整しています。
- 根本的な誤り:私はWikipediaでは基本的に古代史・中世史分野で活動していますし、普段は近現代史についてあまり細かく調べているわけではないので当然不備は予測されるのですが、それだけに基本的に使用した出典の枠組みからはみ出た記述はしていないつもりです。具体的に根本的な誤りとは何になるでしょうか。
- 海外の論説その他:改稿の提案については海外に合わせるという話でしたものではないので、過去の議論を参照下さい。本文への反映は現時点では日本語の出典からしか行っていません。また、また「南京事件」という主題の記事であるので、「史観」というものの解説は基本的に載せていません。--TEN(会話) 2024年1月28日 (日) 13:26 (UTC)
- ご回答ありがとうございます。
- 国際委員会の性格というものが、南京事件を理解する鍵でありますので、勝手に人数を変えると、そこが見えなくなります。
- 例えば、設立に携わった欧米人の一部(デンマーク人・イギリス人)が、残留22人の中に居ないというのは何故か?
- ということも見えなくなります。
- また、以前の版には国際委員会が非公認であったことも記載されていたはずですが、それは削除したのですか?
- ※念の為かきますが、国際委員会を公認組織としている研究者は皆無の筈です。
- この様にいろいろ国際委員会について(人員、誕生の経緯、宣教師との関係等)端折る事で、多くのものが見えなくなっています。
- そこがまず根本的な誤りです。
- 前の版の記載をご参考下さいな。前の版で引用元もついていますので。
- こういったことを無視することが退化であろうと思います。ほんの一例ですが。
- 史観に関しては、笠原氏、秦氏の考えをベースにして、それに沿わないものを弾くとすれば、特定の史観に寄っていると言われても仕方ないのではないでしょうか?--Harukaikeda(会話) 2024年1月28日 (日) 14:17 (UTC)
- 返信 以前書いたことと同じ内容もあるので、基本的には過去の議論を参照いただきたいですが、指摘されている事柄については概ね以下の通りです。
- 基本となる出典の選択について:まず、笠原・秦両氏の『南京事件』をベースに選定したのは、多くの概説書で基本文献として挙げられているのがこれらの書籍だからです。これは例えば臼井勝美『新版 日中戦争』が南京事件の詳細についての説明をこの2冊を参照という形体を取っていることなどからわかります。「歴史・基本的な考え方」「適当な重み付け」等の方針からわかるように、まず信頼できる情報源において一般的な説明を行う形にすべきという理由から、この2冊を骨格として全体を構成することにしました。
- 南京安全区国際委員会:この記事は「南京安全区国際委員会」の記事ではないので、概説書に記載されている範囲を超えて委員会の説明をする理由がないと思います。勝手に人数を変えたのではなく、出典の記述粒度に合わせたのみです。
- 全体の改稿について:元々の版にある問題として出典の文脈を無視した利用法がありました。臼井『新版 日中戦争』を出典とした記述の非常に選択的な記述の抽出を去年の書き込みで指摘しましたが、これは元版の全体に通底する問題です。紹介いただいた、元版の「国際委員会が非公認」という記述と、その出典となっている"The Nanjing Safety Zone Unapproved" by Marcia Ristaino "Jacquinot Safe Zone: Wartime Refugees In Shanghaiの記述を確認しましたが、ここも同じ問題があります。ちょっと長くなりますが、同書のp. 81から始まる§The Jacquinot Zone Copiedの内容を要約すると大体以下のようになります。
- ジャキノー神父(Father Jacquinot)が上海に設立した安全区は中国当局・日本当局双方の協力を確保し、難民の保護に大きな役割を果たした。この成功の噂は各地に広まり、日本軍の前進に伴ってこれを模倣した難民区の設置が南京や漢口で試みられた。南京安全区の着想はここにある。
- ジャキノーの安全区が大きな成果を収めたのに対して、南京安全区国際委員会は日本軍から効果的に難民や敗残兵・女性を保護することはできなかった。
- ラーベにまつわる要因:ジャキノーは難民の保護のためなら日本当局とも積極的に協力することを厭わなかったが、ラーベは直接的な性格で日本に対する苛立ちを表に出しがちであった。また、ラーベはジャキノーと違って日本軍の現地当局とも各国の外交団(その多くは上海にいた)とも緊密な人脈を持っておらず現地での交渉が拙かった。その結果、交渉や外交的圧力を望むにあたって、ベルリンや東京に電報を送って対応を望むなど遠回りな方法を取らなければならなかった。
- 南京と上海の違い:ジャキノーが活動した上海は国際港として通信・郵便のインフラが十分整備されていたのに対し、南京の通信・郵便網は著しく貧弱であった。南京安全区国際委員会は日本軍とのやり取りを軍用無線などで行っており、アメリカの外交使節とのやり取りはアメリカの軍艦を通していた。また、郵便も軍艦による輸送に依存しており、それが到着するかどうかは軍艦が出航するかどうかに依存していた。この結果、委員会の交渉には通信面において障害が多く円滑なコミュニケーションに難があった。
- こうした様々な要因から、南京安全区国際委員会はその立ち位置について日本側から公式な承認を得ることができなかった。
- 元版では大体このような内容の出典から「上海安全区とは異なり中立性に疑義があったため日本からは承認されず、非公式なものであった」という文章が作られていますが、これは出典の内容を正しく反映した記述になっていないです。
- また、この文章は池田悠氏の出典から作られた文章に連続されているのですが、Marcia Ristaino氏は同書の中で「こうした(引用注:20万、30万という犠牲者数の推計とは)対照的に、日本の修正主義者たちは南京虐殺(Nanjing Massacre)など存在せず、ヨーロッパのホロコースト否認論者の如く歴史の捏造に過ぎないと主張している(中略)「正しい」数字がどうあれ、また多くの学者・研究者が東京裁判の数字を受け入れているように見られるが、1937-38年の南京虐殺が恐るべき出来事であったことに疑問の余地はない(p. 91)」と記述しています。『一次史料が明かす南京事件の真実ーアメリカ宣教師史観の呪縛を解く』という書名からして、池田氏とRistaino氏の立ち位置は真逆であることは確実で、にもかかわらずRistaino氏の出典と池田氏の出典の記述が文脈を共有しているかのように接続されているのも適切とは思われません。こうした出典の利用法がこの記事にあった「根本的な問題」の1つであると認識しているので、改稿を提案した次第です。私としては記述が退化しているとは思いません。--TEN(会話) 2024年1月29日 (月) 15:41 (UTC)
- ○多くの概説書で基本文献として挙げられているのがこれらの書籍だからです
- →その多くの、の基準が分かりませんし、例に挙げられた臼井勝美氏のご著書をスタンダードであるとする理由は何でしょうか?
- ○出典の記述粒度に合わせたのみです。
- →人数を適当に書いた笠原氏の出典に合わせて、事実に反して人数を変えることは、粒度の問題では無く、単なる誤りです。不正確であると認識されているのなら、なおさら不誠実です。読者にとって。
- 粒度の問題ではありません。
- ○南京安全区は不承認であったとしていることは、日本軍の回答を見ればわかることです。(池田悠の本でも引用されています)
- Marcia Ristaino氏は単に一例で引いているに過ぎません。
- また、Marcia Ristaino氏の南京事件についての見解ではなく、安全区が公認されたものか、不承認であったかということについてのみ論じています。
- Marcia Ristaino氏は、明確に不承認と書かれていたかと思います。
- 安全区は非公認/不承認であったということは明確に示すべきです。
- もしMarcia Ristaino氏を引用することにご不満でしたら、日本軍の回答を引かれれば良いかと。
- 私がお伝えしているのは、まるで公認されたものの様に記述されているのは明確な誤りであるということです。
- そういった点を指して退化と指摘しています。--Harukaikeda(会話) 2024年1月29日 (月) 16:13 (UTC)
- 大胆な編集じたいウィキペディアで否定される行為ではありませんが、当記事は膨大な資料を元に多数の執筆者により加筆されてきた経緯があり、今般の編集によりそのうちのいくつもが無断で除去され(おそらくは特定の引用元の記述と矛盾すると考えられたためなのでしょう)ており、Wikipedia:中立的な観点から非常に問題があると考えております。いったんすべて巻き戻して、加筆したい論点、あるいは除去すべきと考える論点について、ひとつひとつ再検討すべきではないでしょうか。中立的な観点というのは「主題に関して、信頼できる情報源によって公表されている、すべての重要な観点を、各観点の比重に応じて公平に描写」し、仮に信頼できる情報源の間での記述が互いに矛盾していても、その引用元が信頼できる文献であるかぎり、中立的に(但しその矛盾点はwikipedia読者に理解できるよう)両論併記するべき(Wikipedia:中立的な観点で言うところの「均衡」の原則)との趣旨で申し述べています。--大和屋敷(会話) 2024年1月29日 (月) 17:53 (UTC)
- 今回のTENさんの編集は#記事の再構成についてにおける議論の結果であり無断ではありません。特に大和屋敷さんは以前からこのノートでの議論に参加されているためご存知のはずですが。「膨大な資料を元に多数の執筆者により加筆されてきた」としても問題があれば除去されます。それと「おそらくは特定の引用元の記述と矛盾すると考えられたためなのでしょう」という推測で「Wikipedia:中立的な観点から非常に問題がある」と断ずることも問題があります。それとHarukaikedaさんは出典に基づく記述に対して「自分が間違ってると思うから」で異議を唱えるのではなくきちんと反対の出典を出してください。その出典の信頼性が認められれば大和屋敷さんのいう「出典が矛盾していて両論併記が必要な状態」が真に発生することになるでしょう。--フューチャー(会話) 2024年1月31日 (水) 10:30 (UTC)
- 元々、出典付きで解説してあったものを、比較もなく、勝手に(とりあえず私は書き換えられるまで知りませんでした)削除して書き換えたから、指摘しているのですよ。
- そもそも元々の記述に対して、その出典を確認しつつ、修正するのが筋なのではないでしょうか?
- また、今回特に指摘している国際委員会のメンバー・人数の誤りに関しては、
- やり取りを見ていただければ分かるように、事実としてTEN氏も私の指摘が正しい事を認めつつ、笠原氏の記述の粒度に合わせることが良いという、不思議な論理をかざしておられる。
- 両論併記という問題でも無く、誠実性の問題かと思います。
- こういった点でも現行の記述は問題があるのではないでしょうか?--Harukaikeda(会話) 2024年1月31日 (水) 11:03 (UTC)
- 議論に基づく編集なので「勝手」ではありません。それと元々の記事には単に出典通りに書き直すだけでは済まないレベルの問題がありました。#記事の再構成についてをご覧下さい。22人については確かに委員会の人数ではないので、この資料のみを基にするなら書かない方がいいでしょう。--フューチャー(会話) 2024年1月31日 (水) 11:57 (UTC)
- 〉議論に基づく編集なので「勝手」ではありません。
- 以前、一部の編集に携わったことのある私はその議論は知りませんでしたし、また、議論参加メンバーの方々がどんな属性の方々かも存じあげません。
- 既存編集関与者の知らぬ特定の場所で、ごく一部の方々が議論した結果が全体の正となるという、論理は私は承服しかねますが。
- ただ、それがウィキペディアの流儀と言われれば、何も言うことはありませんが。--Harukaikeda(会話) 2024年1月31日 (水) 12:09 (UTC)
- ひとまず、論点は具体的には国際委員会関係だけでしょうか。ならば、その点に絞って改善案の文言を提案された上で、合意を目指すというのが建設的かと思いますが。 --2001:240:242F:85FD:E452:18FA:AC82:7346 2024年1月31日 (水) 13:23 (UTC)
- 単に、一番目立ち、一目でわかる明らかな誤りが、国際委員会です。
- そもそも論で言えば元に戻すべきと思います。全体として退化していると思いますので。
- 旧版で、東京裁判から始まるのは不自然ではないと思います。何故なら一般の日本国民が知ったのがその時であり、国際的な判定が初めてなされたのがその時だからです。
- また何よりの問題は、元の版では冒頭部分で、虐殺の有無、も論争があると記載されていたところを、
- TEN氏の版では、標準を秦氏(いわゆる中間派)と笠原氏(いわゆる大虐殺派)に定めるたことで、虐殺の程度問題だけが論争の対象となっているとしていることです。
- これでは、実態を無視して、いわゆる無かった派が存在しないことになります。
- ウィキペディアは論争を併記する方針であったかと思います。
- 何派の意見であれ、根拠がある論述は残されるべきであるかと思います。
- この点に於いて、
- 以前は記載されていた根拠付きの論述を秦・笠原ラインに合わないものは削除された様ですので、
- 現行のTEN氏の版は圧倒的に退化していると思います。
- 私の意見は、一度元に戻すべきと思います。--Harukaikeda(会話) 2024年1月31日 (水) 13:42 (UTC)
- 他の方のご意見では、大和屋敷氏のコメント
- ー当記事は膨大な資料を元に多数の執筆者により加筆されてきた経緯があり、今般の編集によりそのうちのいくつもが無断で除去され(おそらくは特定の引用元の記述と矛盾すると考えられたためなのでしょう)ており、Wikipedia:中立的な観点から非常に問題があると考えております。いったんすべて巻き戻して、加筆したい論点、あるいは除去すべきと考える論点について、ひとつひとつ再検討すべきではないでしょうか。
- の通り、無断で削除されたものが数多あるので、いったんすべて巻き戻して、ひとつひとつ再検討するというのが正論かと思います。
- それが出来ない理由は無いでしょう。--Harukaikeda(会話) 2024年1月31日 (水) 14:41 (UTC)
- ひとまず、論点は具体的には国際委員会関係だけでしょうか。ならば、その点に絞って改善案の文言を提案された上で、合意を目指すというのが建設的かと思いますが。 --2001:240:242F:85FD:E452:18FA:AC82:7346 2024年1月31日 (水) 13:23 (UTC)
- 議論に基づく編集なので「勝手」ではありません。それと元々の記事には単に出典通りに書き直すだけでは済まないレベルの問題がありました。#記事の再構成についてをご覧下さい。22人については確かに委員会の人数ではないので、この資料のみを基にするなら書かない方がいいでしょう。--フューチャー(会話) 2024年1月31日 (水) 11:57 (UTC)
- 国際委員会に関して、Askew氏の記述 https://chinajapan.org/articles/14/14.03-23askew.pdf が詳しいです。"22人"とも"15人"とも言い切れないようです。現在の記述を微修正すれば良い話かなと思います。国際委員会に関する主張も含め Harukaikeda さんの編集や意見の大部分は、池田悠 氏の著作に基づいていると推測されるのですが、一般に、歴史家ではない人の著作に大きなウェイトを置くべきではないと思います。原版が、秦・笠原の文献に大幅に依存しているという問題意識について、現版の中で明らかに誤りのある部分は他の信頼できる出典によって補強されるべきだと思いますが、雑多な出典から都合の良い記述だけ採用していた旧版 https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6&oldid=97929446 に戻す理由は無いでしょう。各論的な内容については詳しい知識が無いため判断しかねますが、池田悠氏の主張のみをもって記述内容を変えるのは難しいと思います。--Xefon(会話) 2024年1月31日 (水) 15:50 (UTC)
- 引用されたアスコー氏の論文に国際委員会のメンバーが22名という記述はありません。(私の読み落としでしたら、ココに書いてあると具体的に明示下さい)
- 当該論文では日本側に提出された15名のリストを掲示されています。
- また、一応他の当時の資料について触れると、ラーベの日記では、多少メンバーが変わり、16名の記載があります。
- (アスコー氏が当該論文で別途注釈しているフィッチ氏はラーベ日記では委員会のメンバーに入っています)
- 池田悠の著作は書名の通り、主に(欧米の)一次史料の引用で出来ており、その史料は全て公開されております。その引用元の資料が述べるところは、池田の意見ではありませんので信頼されて然るべきと思います。
- ご指摘の、
- ○雑多な出典から都合の良い記述だけ採用していた旧版
- の、
- 雑多な出典とは何ですか?
- また都合の良い記述だけ採用していたとはどの部分を指しますか?
- 信の置けない出典、解釈の不備があれば都度直すべきかと思います。
- 一方で、秦氏笠原氏の論述が、他と比べて特に信頼がおけるというのは、恣意的な判断、または単なる一意見かと思われます。--Harukaikeda(会話) 2024年1月31日 (水) 16:29 (UTC)
- 返信 とりあえず、まずHarukaikedaさん宛にいくつか返信します。
- 出典の選定について:「多くの概説書で基本文献として挙げられている」については、具体的には以下のようなものになります。
- 臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か』2000 中央公論新社⇒笠原『南京事件』・秦『南京事件』(とりあえずこれを挙げたのは元々この記事で使用されていた出典だからです。)
- 内田知行「第二章 中華民国」『世界歴史大系 中国史5』2002 山川出版社:⇒笠原『南京事件』
- 石川禎浩『シリーズ中国近現代史③ 革命とナショナリズム 1925-1945』2010 岩波書店:⇒秦『南京事件』
- 戸部良一『日本陸軍と中国「支那通」に見る夢と蹉跌』2016 筑摩書房:⇒秦『南京事件』
- 他にも何冊もありますが、こういったより全般的な単位の概説書・学術書が「南京事件」について端的に触れている時、その参考文献にこれら2冊のいずれかがほぼ確実に入っています。これらから、この2冊に基づいて書けば学界において最も一般的な見解から大きく乖離しないであろうと判断できますし、こうした書籍から「ある主題」について「誰が」「どのような媒体・出版社で」出した文献が参照されるものなのかを判断するというのは歴史学においては文献の検索方法として普通の手法で、Wikipedia:信頼できる情報源#歴史「§信頼できる情報源の発見・アクセス方法」に記載されている方法でもあります。また、どのような媒体で発表されたものであるのかも重要です。秦氏は『正論』や『諸君』、笠原氏は『週刊金曜日』のような、党派的な性質が明白な媒体に寄稿実績がありますが、こうした概説書やその他の学術書の参照を見れば、同一人物の著作であっても、こうした媒体に出されたものは、滅多に参照されないことがわかります。これは、誰それが「〇〇派」だとか「中間」だとかいう話とは関係が無いことです。
- 両論併記:これについては前にも一度書いたのでそちらを参照いただきたいです。あとはWikipedia:中立的な観点#適当な重み付けを良く確認ください。基本的に概説書や学術書の類で、南京事件の有無について「両論」併記されていることはありません。これは重みづけの観点で極めて重要なことです。
- 南京安全区国際委員会:委員会の詳細に特別な重要性はないだろうと思うので、数字を省くなり別の出典の記述を使用することで合意できるならそれで良いとは思います。確認した出典による限り、南京安全区国際委員会が南京事件において果たした役割は限定的であり、基本的にどの出典もその動向を詳述はしていません。彼らが事件において重視されるのは「目撃者」であることによるように思われます。実際、Harukaikedaさんが提示されたMarcia Ristaino "Jacquinot Safe Zone: Wartime Refugees In Shanghai"の記述も「なぜ南京安全区国際委員会は効果的な活動ができなかったか」について分析しているわけですし、彼らの残した記録の史料の性質について記述されていれば他の点は些細なことかと思います。
- 「勝手に」:既に書いて下さってる方がいますが、改稿は議論の中で提案したもので「勝手に」と形容されるのははっきり言って理不尽に感じます。ある人はWikipediaに新しく参加し、ある人はWikipediaから離れているわけで、全ての人が気付くように議論するのは不可能です。このノートにはコメント依頼が出されており、記事にはテンプレートが貼られたままで、ノートへの導線は十分ある状態であったと思います。最初に下書きを提示してから記事に反映するまで1か月の時間があり、この点に問題があったとは考えていないです。
--TEN(会話) 2024年1月31日 (水) 16:39 (UTC)--TEN(会話) 2024年1月31日 (水) 17:07 (UTC)- ご回答ありがとうございます。何よりも現状の学(術)会のスタンダードに合わせるべきだとのお考えと、理解しました。
- 現状、そのスタンダード見解に反する証拠(信頼できる一次資料)を削除して、見えなくし、無条件にその見解の維持に寄与しているかと思います。
- 私は、その反証となる証拠も参照することが出来、自分の頭で検討することが出来ることがウィキペディアの価値であると思っていましたが、ご意見が異なる様ですね。
- 論拠よりも権威を優先しているように感じます。
- ○委員会の詳細に特別な重要性はないだろうと思う
- というのも、既存の学会のスタンダードの見方の延長ならば、そうなろうかと思います。
- 私は確かな論拠資料に基づく事実は書くべきであろうと思います。安全区が非公認であったことも含め。
- 既存の見方を盲目的に記載するのではなく、論拠資料を元に自分の頭で考える機会を提供することが重要なのではないかと。
- ○ノートへの導線は十分ある状態であったと思います
- に関しては、既存の編集参加者である私は気づきませんでした。またアラートも来ていません。記事が根拠を示されず、突然、削除されたわけで、やはり勝手に、と感じています。--Harukaikeda(会話) 2024年1月31日 (水) 17:43 (UTC)
- 厳しいことを言いますが、「既存の編集参加者」であるにもかかわらずノートでの議論に気づかないのは普段からノートをチェックしていない重大な過失だと思いますよ。私が#記事の再構成についてへのリンクを2回も示したのに、「既存編集関与者の知らぬ特定の場所」とあたかもこのノート以外の別の場所で議論されたかのような書き方をするぐらいですし。まず#記事の再構成についてを読んでください。そうすれば「根拠を示されず、突然」「勝手に、と感じています」がとてつもない勘違いだとわかると思います。--フューチャー(会話) 2024年1月31日 (水) 22:15 (UTC)
- 自分の編集が議論の対象になったのでしたらアラートも来るでしょうし、確認するかと思います。
- 南京事件に関して色々な議論がある中、通知もなく、ノートの確認が必須とされるご意見は違うと思います。--Harukaikeda(会話) 2024年2月1日 (木) 01:17 (UTC)
- 厳しいことを言いますが、「既存の編集参加者」であるにもかかわらずノートでの議論に気づかないのは普段からノートをチェックしていない重大な過失だと思いますよ。私が#記事の再構成についてへのリンクを2回も示したのに、「既存編集関与者の知らぬ特定の場所」とあたかもこのノート以外の別の場所で議論されたかのような書き方をするぐらいですし。まず#記事の再構成についてを読んでください。そうすれば「根拠を示されず、突然」「勝手に、と感じています」がとてつもない勘違いだとわかると思います。--フューチャー(会話) 2024年1月31日 (水) 22:15 (UTC)
- 15名とする史料と16名とする史料があるようなので、そのように記しました。国際委員会が、残留した約20人の外国人を中心に結成されたことが重要で、細かい人数は微修正で済む些細な問題だと思います(22人の外国人の大部分によって、とかでしょうか。22人も諸説あるようですが。)。この部分一番目につく誤りであるならば、他の部分も細かい修正で済む話だと思います。
- Wikipedia:信頼できる情報源 『学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます。』とあるように、池田氏・展転社は信頼性の高い二次資料とは言い難いと思います(本の内容が間違っていると批判しているわけではありません)。比較して(軽く調べただけですが)秦・笠原両氏の著作は広く引用されていて、この分野の第一人者といってさしつかえないように感じられました。(他に東中野氏の著作も広く知られているようですが、中立性に疑問が残ります)
- 雑多な出典や都合の良い記述に関しては、私や他の方がノートで指摘しているとおりです。問題は旧版がそのような記述が多すぎることです。
- --Xefon(会話) 2024年1月31日 (水) 17:23 (UTC)
- 加筆修正--Xefon(会話) 2024年1月31日 (水) 17:35 (UTC)
- ○国際委員会が、残留した約20人の外国人を中心に結成されたことが重要
- →申し訳無いですが適当に書くのを辞めて頂きたいです。
- 国際委員会の設立に携わりながら、残留しなかった(つまり22人に入っていない)メンバーも複数います。
- こういったところを誤魔化すと、それは何故か?といった考える機会が失われる訳です。国際委員会の性質を考える際に重要なポイントです。
- ○東中野氏同様に、秦氏、笠原氏も中立性き欠け、また、論述に問題があると考えています。ベースにする信頼性は無いと思います。
- だからこそ旧版では、様々なポイントで論争が起きていたと思われます。
- 言い換えれば、信頼できる二次資料が確定出来ないので、論争があったのだろうなと思われます。
- それを突然、無理やり、秦・笠原ラインをスタンダードと決めるのはやはり退化だと思います。--Harukaikeda(会話) 2024年1月31日 (水) 18:03 (UTC)
- 再三説明していますが突然でも無理矢理でもないですし、現状の版に問題があるとしても以前の版にはもっと重大な問題があるため、戻す方が退化します。一つの資料で両論併記されていないことは、直ちに両論併記すべきでない理由にはなりませんが、両論併記すべきなのは信頼できる資料同士が矛盾している場合であり、併記するほどの信頼性がないなら併記すべきでないことになります。逆にどの資料も信頼できないなら、極論ですが記事自体を削除することになります。また、Wikipediaでは資料の内容自体の真偽の判断を禁じられているため、信頼性の判定にはある程度権威に頼らざるを得ません。--フューチャー(会話) 2024年1月31日 (水) 22:28 (UTC)
- 信頼出来る二次資料が無いのなら、おっしゃるとおり、スタンダードを削除すれば(定めなければ)よいのでは?
- 一例として、ここでの国際委員会についての議論で、笠原氏の論述が信頼に値しないことはご理解頂けたでしょう。
- 旧版では信頼出来る一次資料の引用もそこそこあり、それが併記されることで、信頼性を保っていましたが、そこを勝手に削除されたことで、明らかに退化したと思われます。--Harukaikeda(会話) 2024年1月31日 (水) 23:45 (UTC)
- 再三説明していますが突然でも無理矢理でもないですし、現状の版に問題があるとしても以前の版にはもっと重大な問題があるため、戻す方が退化します。一つの資料で両論併記されていないことは、直ちに両論併記すべきでない理由にはなりませんが、両論併記すべきなのは信頼できる資料同士が矛盾している場合であり、併記するほどの信頼性がないなら併記すべきでないことになります。逆にどの資料も信頼できないなら、極論ですが記事自体を削除することになります。また、Wikipediaでは資料の内容自体の真偽の判断を禁じられているため、信頼性の判定にはある程度権威に頼らざるを得ません。--フューチャー(会話) 2024年1月31日 (水) 22:28 (UTC)
- コメント 私は編集が行われたのちにノートに参加した者として、議論をへた編集であることを確認し、同意しました。私の意見は#記事の再構成についてで2024年1月30日 (火) 12:52 に書いた通りで、これまでの議論をへた編集を取り消しにする提案には反対します。この節について、ひとまずコメントします。
- 節について。この節は「1/21のTEN氏による大幅書換えについて」ですけれど、ノートページのガイドラインWikipedia:ノートページのガイドライン#ノートページでの見出しづけに書かれている「見出しで特定の利用者に呼びかけない」に近く、適切ではありません。すでにある「記事の再構成」に書けばよかったのではないでしょうか。「記事の再構成」に書ける内容を別の節にすることで、議論が分散して記録が追いにくくなっています。
- Harukaikedaさんの表現について。(1)「なんか勝手な解釈」「単なる押し売り」「退化」「偏見の強い」などは、利用者の行動のルールにあるWikipedia:礼儀を忘れない、Wikipedia:個人攻撃はしない、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないに該当するのではないでしょうか。発言内容とあわせると、節名も特定の編集者を攻撃する意図があるように見えますが、大丈夫でしょうか。(2)「既存編集関与者の知らぬ特定の場所」というのは、Wikipedia:記事の所有権を誤解していると考えます。Wikipediaにはウォッチリストなどの機能もありますので、私はフューチャーさんの 2024年1月31日 (水) 22:15 の発言に同意します。
- Harukaikedaさんは「そもそも論」という表現を使ってらっしゃいますけれど、そもそも論ということでしたら上記のようなWikipediaの方針や機能についての再確認をおすすめします。こうした状況でも、Harukaikedaさんに丁寧に対応している他の方々には敬意を評します。 --Moke(会話) 2024年2月1日 (木) 05:04 (UTC)
- ・本文上の特定の大修正の投稿について言及したく、分かり易い題名にしました。
- ・本文でウォッチリストは登録していましたが、アラートが来なかったことはお伝えしておきます。
- 既存編集参加者がタイムリーに変更に気付く(=反論の機会を提供する)仕組みが働かなったのは問題ではないかと感じてはいます。
- ・色々と表現についてご指摘頂いていますが、所有権を誤解、という表現も決めつけで失礼な表現と思いますが、いかがでしょうか?--Harukaikeda(会話) 2024年2月1日 (木) 06:29 (UTC)
- 私は、節名に編集者名を入れるのは不適切だと考えますけれど、Harukaikedaさんは適切だと考えているということで理解しました。
- Harukaikedaさんが「特定の大修正の投稿について」とする言及は、「記事の再構成」に書けば問題ないように見えます。あえて議論を分散させて分かりにくくするのは反対です。ただ、TENさんの編集について「修正」という解釈をなさっている点は了解いたしました。修正されたのであれば大筋の方向は問題ないのではないでしょうか。細部について具体的にご指摘を「記事の再構成」で提案すればよろしいかと思います。
- 「既存編集関与者の知らぬ特定の場所」でなされた議論に従えないという主張であれば、このノートにかぎらずWikipedia全体に関わる話題なので、Harukaikedaさんは記事の所有権について誤解をなさっていると私は考えます。「既存編集関与者の知らぬ特定の場所」でなされる議論の問題視や改善については別の場所での提案をおすすめします。
- Harukaikedaさんは、ご自身の表現は問題ないとお考えでしょうか? 私が 2024年2月1日 (木) 05:04 で指摘した表現について訂正はありませんか?
- Harukaikedaさんは、すでに他の方からさまざまな指摘をされていますけれど、 2024年2月1日 (木) 06:29 のお返事は、Wikipediaの方針や機能についての再確認はしないという発言として受け取ってよろしいでしょうか?
- --Moke(会話) 2024年2月1日 (木) 07:06 (UTC)
- ・題名は、本文の、どの投稿か分かり易いかと。私は修正履歴で探して分かりましたので。
- ・〉修正されたのであれば大筋の方向は問題ないのではないでしょうか。
- →私はすべての手入れを修正と認識しています。適切かどうかに関わらず。
- ・所有権への誤解は無いと思います。またそういった主張はしていないかと。
- ・まず、個人攻撃の意図はないです。
- その上で、新原稿については退化だと思っています。
- ・ご教示頂いたWikipediaの方針については拝見しています。ありがとうございます。--Harukaikeda(会話) 2024年2月1日 (木) 07:29 (UTC)
- 通常本文をウォッチリストに登録すればノートも登録されます。私は本文のみ登録する方法を知らないのですが、Harukaikedaさんがその方法を知っていて意図的にそうしていたのなら、アラートが来ないのは自己責任です。--フューチャー(会話) 2024年2月1日 (木) 07:38 (UTC)
- ?
- その様な操作はしていません(知りません)、としか言えませんが。。--Harukaikeda(会話) 2024年2月1日 (木) 07:41 (UTC)
- それではまず、ご自身のウォッチリストにこのノートが入っているかを確認してください。--フューチャー(会話) 2024年2月3日 (土) 07:27 (UTC)
- 本文にも、ノートにも★はついています。
- ただ、ノートの中の、この節?スレッド?(私が立ち上げたココ)にだけ、購読解除のマークが表示されるので、現状それ以外は購読されていないということでしょうね。
- ここは私が書いたから自然に購読登録されたのでしょう(たぶん)。--Harukaikeda(会話) 2024年2月3日 (土) 08:00 (UTC)
- リストの側にこのノートは表示されているでしょうか。--フューチャー(会話) 2024年2月3日 (土) 23:15 (UTC)
- Harukaikedaさんはアラートが来ていないことを「勝手」に編集された根拠の一つにしています(2024年1月31日 (水) 17:43や2月1日 (木) 01:17)。しかし、Harukaikedaさんが想定しているアラートの機能は、Wikipediaには存在しないのかもしれません。フューチャーさんが確認しようとしている点もそこに関連しています。
- 「自分の編集が議論の対象になったのでしたらアラートも来る」という発言(2024年
--1月31日 (水) 17:43や2月1日 (木) 01:17)も、私には意味が分かりませんでした。 - まずWikipediaの機能について確認をした方がよいのではないでしょうか。フューチャーさんの2024年1月31日 (水) 22:15の発言、TENさんの2024年2月3日 (土) 15:55の発言と重複する指摘になります。 --Moke(会話) 2024年2月4日 (日) 08:14 (UTC), --Moke(会話) 2024年2月4日 (日) 08:23 (UTC)
- 以前、私の編集した部分への新編集はアラートが来ていた様な気がするもので。
- そもそも無い機能でしたら、アラートに関しては忘れて頂いて結構です。
- ご確認ご教示ありがとうございました。--Harukaikeda(会話) 2024年2月4日 (日) 08:32 (UTC)
- それではまず、ご自身のウォッチリストにこのノートが入っているかを確認してください。--フューチャー(会話) 2024年2月3日 (土) 07:27 (UTC)
- Harukaikedaさんの「自分の編集が議論の対象になったのでしたらアラートも来る」「既存編集関与者の知らぬ特定の場所」等の発言は、Wikipediaの機能に関する誤解ということで理解しました。また、その点についてフューチャーさんや私などが時間を費やしたことも再確認しておきます。--Moke(会話) 2024年2月5日 (月) 05:48 (UTC)
- 一応、1/21に書き換えがあって、その後、偶々、書き換え後の本文を確認して、初めて大幅なかつ私の以前の編集も含めての書き換えがあった事に気付いたという経緯は、改めてお伝えしておきます。--Harukaikeda(会話) 2024年2月5日 (月) 05:55 (UTC)
- そういえば余談ですが、他にも最近新たに気付いた方が書き込まれているみたいですね。
- 私同様、改定への議論を知らなかった方は多いと思いますので、今後もそういった方は増えるのではないでしょうか。--Harukaikeda(会話) 2024年2月5日 (月) 06:00 (UTC)
- Wikipediaの機能についてご理解くださり、ありがとうございます。今後も参加する方々はいるでしょうから、もしHarukaikedaさんと同様にアラートについてのご意見を書く方がいらしたら、フューチャーさんが労をとられたようにHarukaikedaさんも対応していただければ幸いです。Harukaikedaさんは当初ご自身でよく確認されずに書かれており、そのために私はさておいてもフューチャーさんやTENさんが時間を費やしております。--Moke(会話) 2024年2月5日 (月) 06:22 (UTC)
- 返信 提案時に気付けなかったというのは申し訳ありません。しかし、その議論をしていた場所はこのノートであり、どこか見えない場所でしていたわけではありません。前にも書いた通り、Wikipediaの機能的に過去の編集者全員に確実に伝わるように議論をすることはできないことをご理解ください。--TEN(会話) 2024年2月6日 (火) 03:39 (UTC)
- Wikipediaの機能についてご理解くださり、ありがとうございます。今後も参加する方々はいるでしょうから、もしHarukaikedaさんと同様にアラートについてのご意見を書く方がいらしたら、フューチャーさんが労をとられたようにHarukaikedaさんも対応していただければ幸いです。Harukaikedaさんは当初ご自身でよく確認されずに書かれており、そのために私はさておいてもフューチャーさんやTENさんが時間を費やしております。--Moke(会話) 2024年2月5日 (月) 06:22 (UTC)
- 一応、1/21に書き換えがあって、その後、偶々、書き換え後の本文を確認して、初めて大幅なかつ私の以前の編集も含めての書き換えがあった事に気付いたという経緯は、改めてお伝えしておきます。--Harukaikeda(会話) 2024年2月5日 (月) 05:55 (UTC)
- Harukaikedaさんの主張する事実は、池田氏の著作に基づく「委員会が、アメリカ宣教師によって、国民党に協力するために作られた組織だった」という結論に、読者が"自分の頭で考えて"達するようにために必要なのでしょう。
- そのために「安全区のメンバーが15人でアメリカ人中心だった」「中立性に疑問があるため、安全区が日本に承認されなかった」 という部分を強調されているのだと思います。このうち後者の「中立性」の部分は通説と異なり、池田氏の意見に過ぎないと思います。
- 「委員会は勇敢に残った西洋人が中国民間人を保護するために設立され、彼らの努力により犠牲者数が減った」という通説に基づけば、正確な構成メンバーもあまり重要ではない記述です。そのため厳密に書けば「約22人の西洋人が残り、そのうち約15人の西洋人が委員会を設立した」を、出典に沿って「22人によって設立された」と書くのは確かに事実に反していますが、重大な誤りとまでは言えないと思います。
- ただ、誤りなのもどうかなと思うので、「残留した22人の外国人の大部分によって立ち上げられた」に訂正するのはどうでしょうか。 --Xefon(会話) 2024年2月2日 (金) 11:22 (UTC)
- 事実を追うことで、何らかの結論に辿り着いたのなら、それが真相なのでは無いでしょうか?
- 国際委員会のメンバーにつきましては、前回も指摘したと思いますが、設立メンバーに加わりつつも、南京戦前に離脱したメンバーが複数います。不思議だと思いませんか?
- 因みにこの事実は、ご自身が提示されたアスコー氏の文献の15人と22人のリストを比べれば明らかですのでご確認頂ければと思います。
- 通説に合うように事実を作り変えることは本末転倒でしょう。
- 正確に言えば中立性の維持に疑問ですかね。あまり意味は変わらないと思いますが。
- 日本軍の国際委員会への回答(ジャキノ神父経由のもの、直接の回答)を確認されれば、それは明らかと思いますよ。--Harukaikeda(会話) 2024年2月3日 (土) 07:55 (UTC)
- 返信 とりあえず、Wikipediaでは前版への差し戻し以外でアラートが来ることは基本的にないはずなので、それがなかったというのは特に変なことではないです。また、HarukaikedaさんもまずWikipediaの方針とガイドラインをある程度把握していただきたいです。
- 信頼できる一次資料:Wikipediaの方針(Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料)を参照ください。一次資料が信頼できるかどうかはWikipediaの編集者の判断ではなく信頼できる二次資料によって専門家がそう評価していることを確認して評価しなければならないです。「その反証となる証拠も参照することが出来、自分の頭で検討することが出来ることがウィキペディアの価値であると思っていましたが、ご意見が異なる様ですね。論拠よりも権威を優先しているように感じます」というのもまず方針を確認ください。Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の評価にあるように、「権威ある情報源」を利用して記事を構成することが要求されますし、スタンダードに反する証拠というのも、それが取り上げるに足るべきものであることは「信頼できる情報源」に基づいて確認しなければなりません。さらに、その重要性についてもWikipedia:中立的な観点#適当な重み付けにある通り、信頼できる情報源に従って説明の比重や掲載する・しないを考える必要があります。
- 委員会の重要性:「〇委員会の詳細に特別な重要性はないだろうと思う(改行)というのも、既存の学会のスタンダードの見方の延長ならば、そうなろうかと思います」というのであれば、上記の方針の下、Wikipediaでは学会のスタンダードに従った記述をするべき、という話で終わりだと思います。学会のスタンダードに対してWikipedia編集者が自分の頭で考えた、あるいは自分が発見した反証を記述するのは独自研究そのものですし、「学会ではこのように言われているが、そうではない反証がある。自分の頭で考えましょう」というスタンスでの記述は文体をどのようにせよ、演説・宣伝そのものです。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを良く確認ください。個々人の考え方どうであれ、Wikipediaというのはそういう基本方針で運用されているのであり、この記事ではこれらがあまりに無視・曲解されていたのが問題の根本にあります。
- Marcia Ristainoについて:一応、池田悠『一次史料が明かす南京事件の真実 アメリカ宣教師史観の呪縛を解く』(2020)の記述も確認してみました。そしてわかったこととして、「上海安全区とは異なり中立性に疑義があったため日本からは承認されず、非公式なものであった」という部分を含めて、この部分の本当の出典は池田 2020であるということがあります。同書p. 50の記述は「南京の安全区は、上海と異なり日本側から認められず、非公式なものであったことは上海安全区を研究されたマーシャ・リスタイーノ(Marcia Ristaino)氏の著作『ジャキノ安全区:上海の戦争難民(Jacquinot Safe Zone: Wartime Refugees In Shanghai)』P八一にも『南京安全区 不承認(unupproved)』と明らかなのであるが(以下略)」とあり、参照箇所、一文のみを抽出して著作自体の文脈を無視している部分まで元版の記述と全く同じになっています。なお、このRistaino 2008 p. 81の"THE NANJING SAFETY ZONE UNAPPROVED"は本文でもなく、"The Jacuinot Zone Copied"という章の中の小節のタイトルであり、"THE HANKOW UPPROVED SAFE ZONE"とともにジャキノー神父の活動に触発されて各地に設置された安全区がどのような進展を辿ったかを説明した箇所ですが、池田 2020 p. 51にあるような「南京安全区が不承認であったという事は、これは"Safety Zone(=安全区)"ではなかったということを意味する。つまり、南京の安全区は挙行の存在であった」というような内容を全く含んでいません。出典元自体でそれが行われているという点が特殊なケースですが、はっきり言ってこれはWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成の具体的な実例で、Wikipedia的には許容されない出典の用い方であろうと思います。『現代アジア辞典』から「とされる」という4文字だけが(同書の他の部分はほぼ無視して)記述の根拠とされていたように、「THE NANJING SAFETY ZONE UNAPPROVED」というたった5単語が208ページもある書籍から引き抜かれて、全く異なる文脈に接続されていたのであり、元々の南京事件の記事の問題が出典の取り扱いに対する、根本のところで共通した姿勢によるものであることがこの点からも明らかであるように思います。--TEN(会話) 2024年2月3日 (土) 15:55 (UTC)
- 〇結局信頼できる二次資料が編集のカギであり、TENさん他、以前の議論でそれは学術書で多く引用されている、笠原氏・秦氏のものと決まったと理解しました。
- それに対し私が委員会メンバーを例に指摘したのが、その信頼できるとされた二次資料に誤り(他の一次資料や二次資料を正とした場合)がある場合はどうするのかということです。
- TENさんのご回答をみると、一次資料や他の二次資料に信憑性があろうと、既に委員会については笠原氏の記述を正としたのだから、訂正は必要がない、というご意見と思います。
- Wikipediaのルールの解釈によると、それも一つの考えなのかもしれませんが、
- 学術界の権威を優先するあまり、事実を追求するという点では、逆に記述の信頼性を欠くということになるのではないかと懸念します。
- これまで多くの記載があったのは、学術的に権威あるとされる二次資料が、一次資料に対し多く矛盾あるなどの状態の解決を図った結果なのではないかとも思われます。
- ここで、改めてwiki上で笠原氏秦氏を標準と定めることが、適切なのか、いまだに釈然としません。
- 〇Marcia Ristaino氏が安全区を不承認としている件について、コメントを頂きましたが、
- 『一次史料が明かす南京事件の真実 アメリカ宣教師史観の呪縛を解く』の該当部の記述について、①本来、離れているものをくっつけて、また②併記してある一次資料の記述を無視することで流れがわからなくなって、
- 不思議な読み方をされているなと思います。
- ①についてですが、
- p. 51の「南京安全区が不承認であったという事は、これは"Safety Zone(=安全区)"ではなかったということを意味する。つまり、南京の安全区は虚構の存在であった」
- という文を、まるで、Marcia Ristainoの南京安全区不承認(unapproved)という記述の説明のよう解釈されていますが、池田の本の原文を確認しますと、マーシャ氏を引用した部分はp50で終わっています。
- 別の文を挟んで「ところで、」と池田悠のunapproved安全区についての考察部分での話です。この部分をマーシャ氏の意見であると誤解する方は一般にはいないと思います。
- ②についてですが、
- P50「南京の安全区は、上海と異なり日本側から認められず、非公式なものであったことは上海安全区を研究されたマーシャ・リスタイーノ(Marcia Ristaino)氏の著作『ジャキノ安全区:上海の戦争難民(Jacquinot Safe Zone: Wartime Refugees In Shanghai)』P八一にも『南京安全区 不承認(unupproved)』と明らかなのであるが(以下略)」
- について、
- 日本側から認められずというのは、それを示す以下の資料に拠ります。
- 「日本当局は安全区設置の要望を確かに認識しましたが、残念ながら、認めることができません。中国軍による市民や財産に対する非違行為について責任を負うことは出来ず、しかし、軍事上の要件〔=非軍事・中立性〕が満たされている限りにおいて、そのエリアを尊重するよう日本軍は努力します」 (1937/12/2 ジャキノ神父からの国際委員会への返答 *Yale)
- “Japanese authorities have duly noted request for safety zone but regret cannot grant it. In the event of Chinese forces misbehavior towards civilians and/or property cannot assume responsibility but they themselves will endeavor to respect the district as far as consistent with military necessity.”
- この文書は上海安全区創設者のジャギノ神父が書いた手紙であり、ジャギノゾーンの研究者であるマーシャ氏が確認しないはずはありません。また確認したからこそ『南京安全区 不承認(unapproved)』と表記したのでしょう。根拠なくunapprovedとは書かないでしょうから。
- また、マーシャ氏の著書は、上海安全区についての著書であり、南京安全区非公認というのも、公認された上海との対比であることは間違いないでしょう。上海と異なりという記述はマーシャ氏の意図に沿ったものと思います。
- 「THE NANJING SAFETY ZONE UNAPPROVED」
- が何百ページの中の単なる一記述であると、不思議な過小評価をされている様に思いますが、一か所であろうと、マーシャ氏が、研究の結果、責任をもって書かれたものであろうことは間違いがありません。
- また、①でご説明したように、池田もマーシャ氏のその記述にそれ以上の意味を持たせてはいません。
- ・・・
- そこで疑問なのは、池田もマーシャ氏も、単純に、南京安全区を非公認であると言っているところ、
- また、逆に公認されたものであると反証している研究者が皆無な中、
- なぜ、その非公認の事実を伏せようとするのでしょうか?--Harukaikeda(会話) 2024年2月3日 (土) 23:35 (UTC)
- 返信 Wikipediaの方針について:「学術的に権威あるとされる二次資料が、一次資料に対し多く矛盾あるなどの状態の解決」というのはWikipediaですることではありません。改めて記載しますがWikipedia:ウィキペディアは何ではないか、Wikipedia:信頼できる情報源、Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:独自研究は載せない、Wikipedia:検証可能性をはじめとした方針を確認ください。
- 記述の誤りについて:信頼できる二次資料間で矛盾があるならば、記事主題、他の文献の記述、内容などからより信頼性の高いであろう記述を採用することになるでしょう。以前にも書いた通り委員会の詳細に特別な重要性はないだろうと思うので、数字を省くなり別の出典の記述を使用することで合意できるなら私としてはそれで構いません。
- 出典に対する言及の仕方について:「南京事件」の記事の元版でも池田 2020のp. 50-51の記述でもそうですが、①日本は南京安全区を承認しなかった→②日本軍の回答はこれである→③南京安全区が不承認であったことは安全区は虚構の存在であったことを意味する、という文脈の中で、①のみの論拠としてRistaino 2008のp.81から出典自体が持つ趣旨を無視して小節タイトルの5単語のみを抽出し組み込むやり方は、一般的な先行研究への言及の仕方として非常に不適切ですし、Wikipedia的にもやってはならない出典の利用方法だということを指摘しています。なお、Harukaikedaさんが引用するジャキノーの文章をRistaino 2008は同じ章の中で一部引用していますので推測によらずともRistaino氏はその史料も確認していることは確実です。そして、先に書いたように、Ristaino 2008がこの章で述べていることは、「上海と異なり南京安全区が成功しなかった理由、日本側から承認を獲得できなかった要因は何か」という観点での上海の事例との比較であり、その概要は以前書いた通りです。この出典を池田氏の論考と接続するのはつとめて不適当です。Ristaino 2008を「南京事件」の記事に出典として付け加えたのは履歴を見る限りHarukaikedaさんだと思うのですが、小節のタイトル以外の記述を確認されているでしょうか。
- 安全区の不承認について:なお、Ristaino 2008は信頼できる情報源として扱えると思いますので、南京安全区国際委員会の不承認に関する情報をもっと詳細に記述する必要があるということであれば、Ristaino 2008に基づいて概要を記述するのはありだと思います。--TEN(会話) 2024年2月4日 (日) 04:22 (UTC)
- ご返信ありがとうございます。
- 一応お伝えしますが、池田悠の論考を採用せよ、という趣旨で書いていませんので。
- 南京安全区がさも公認であるかの様な記述になっているのが事実と明確に異なることを指摘しました。
- ①②は明確であると思いますので、
- それではマーシャ氏の文脈で安全区が非公認であることを明示すればよいのでは無いでしょうか。
- 繰り返しになりますが、さも公認であったかのように扱われていることで世間の誤解の元になっていますので。
- ※因みにマーシャ氏の記述なら採用となる理由は何でしょうか?知見が狭くて恐縮ですが、国内で多くの学術書に参照されていることは知らないのですが。
- 安全区のメンバーについては事実に即した記述であれば当然ながら言うことはありません。
- さて、今回の件で指定した誤りがあった様に、果たして笠原氏の記述が信頼に足りうるのか?という疑問はやはり残ると思います。
- 笠原氏(今回秦氏について議論していないので今回こちらは問いませんが)をスタンダードとする決定は適切なのでしょうか?--Harukaikeda(会話) 2024年2月4日 (日) 04:48 (UTC)
- 追記:今回ご提示頂いた基準、また実際の改訂を拝見し、理解を記します。
- これまでの、主に一次資料を元にした、今回の基準では信頼出来る二次資料とは判定されない、既存の膨大な研究(学者によるものを含む)が、今回の改訂基準では不採用となると理解しています。
- その中には、信頼出来る有用な知見もあったかと思いますが、それは今回の基準による信頼出来る学術研究者により取り上げられるまでお蔵入り、ということですね。少なくともこのwikiの場では。
- やはり権威主義的なものを感じ、また情報の提供という観点からは退化を感じますが、wikiの提供する情報はその様なものなのですね。--Harukaikeda(会話) 2024年2月4日 (日) 05:29 (UTC)
- 一つだけ。非公認であると書かれていないことは、公認であると書かれていることにはなりません。ご理解ください。--フューチャー(会話) 2024年2月4日 (日) 05:34 (UTC)
- 安全区は、最初に作られ、日中が合意して公認された上海安全区が標準であると思います。
- 普通に安全区、という言葉遣いは公認されたものであるという誤解をあたえます。
- 当時も、日本側が否定していたからだと思いますが、ジョンソン大使は非公認安全区を、The zoneと、面白い呼び方をしています。--Harukaikeda(会話) 2024年2月4日 (日) 05:43 (UTC)
- 返信 Ristaino 2008の日本語文献での引用例(というより南京国際区の承認不承認について特別に言及している例)は今回の編集にあたって確認した資料の中では私も見ていません。一応Google Scholarで複数の引用例があることが確認でき、出版元的にもWikipedia:信頼できる情報源#歴史的には該当するのはないかと考えます。もっとも非常に雑な確認であることは自覚しており、自信をもっているわけではないですが、安全区の承認の問題についての記述について共通点が見出せるならという感じです。--TEN(会話) 2024年2月6日 (火) 03:39 (UTC)
- マーシャ氏の文献は、出版元的にも、Wikipedia:信頼できる情報源に該当するのでは、との記述了解しました。
- 私も、出版元、またご本人のご経歴的にもその様に思います。
- ところで、笠原氏とともに、信頼があるとしてTENさんがスタンダードに据えられた、秦氏の記述についても言及いたします。
- 秦氏については、ご提示いただいた、上記、信頼できる情報源に示された、歴史の専門教育を受けた方ではありません。
- 秦氏については、信頼できるとする根拠は、偏に、学術書での参照実績があるというところであろうと思います。
- (出版元でしたら他にも多く同様に信頼できる文献があろうと思います)
- 先に笠原氏について、南京安全区国際委員会のメンバーという南京事件関連の基本的な事項にすら誤りがあるので、信頼性に欠けるのではないかと、申し上げました。
- ここで秦氏の著作の信頼性に関しても疑義を申し上げます。
- 具体的に一例を挙げますと、著書「南京事件」(中公新書)で、小説「生きてゐる兵隊」(石川達三著)について、南京事件について描いたものとして賞賛をささげています。しかし、その内容は現在では原著者(石川達三氏)本人により全否定されているという事実があります。
- ※その石川氏が否定したという証拠資料は、「決定版「南京事件」日本人50人の証言」(阿羅健一著 扶桑社)の扉部分に、石川氏直筆の手紙<現物写真>に採録されています。wikiでは一次資料は慎重な取り扱いの上でしたら有効であったかと思います。この資料もその基準に準じるのではないかと思われます。
- この一例からも秦氏の記述においても、笠原氏と同様に、他の著者のものと比べて南京事件において、スタンダードとするまでの信頼性は無いかと思います。
- 記述そのものに明確な誤りがあったり、原著者によりすでに否定された著作を称賛するなどの事実を無視して、
- 偏に、学術関連での参照が多いことによる信頼性を優先して、笠原氏や秦氏の文献には信頼性があるとみなすとは、権威の押し売りになるのではないでしょうか?
- ここで、再度申し上げますが、上記の理由により、笠原氏秦氏の著書を信頼ありとして、wikiの論述のスタンダード・または骨格とするTEN氏のご提案には反対します。
- 改定の検討は結構ですが、まず、あまり多くの方に知られることなく、結果的に、ごく一部の方々の間で決定された、1/21改定版はキャンセルして、一度元に戻すべきかと存じます。
- その前の会合に参加された大和屋敷さんも、同様の意見であったかと思います。--Harukaikeda(会話) 2024年2月6日 (火) 09:43 (UTC)
- Harukaikedaさんがスタンダードという表現を使っているので、笠原、秦を出典のスタンダードとしたのはTENさん個人の判断によるものではなく、議論をへたうえでの編集である点は再確認しておきます。私は2024年1月30日 (火) 12:52に確認して発言しました。--Moke(会話) 2024年2月6日 (火) 10:01 (UTC)
- 勿論、個人ではなく前回の議論の参加にされたごく一部の方々によるOutputだと認識しております。--Harukaikeda(会話) 2024年2月6日 (火) 10:18 (UTC)
- Harukaikedaさんがスタンダードという表現を使っているので、笠原、秦を出典のスタンダードとしたのはTENさん個人の判断によるものではなく、議論をへたうえでの編集である点は再確認しておきます。私は2024年1月30日 (火) 12:52に確認して発言しました。--Moke(会話) 2024年2月6日 (火) 10:01 (UTC)
- 一つだけ。非公認であると書かれていないことは、公認であると書かれていることにはなりません。ご理解ください。--フューチャー(会話) 2024年2月4日 (日) 05:34 (UTC)
戦時国際法からの批判
[編集]本「書き換え」においては「虐殺、および略奪・暴行・強姦・放火など」を不法行為と定義しており、これは犯罪と同義で用いられていると理解しています。
戦闘行動については一般刑法は適用されないので、その行動が慣習国際法違反となる場合に犯罪となりますが、書き換えでは特に構成要件や違法性阻却事由を意識せずに記述しているように見受けられる。
例えば、
①徴発は占領者の正当な権利ですが、徴発が略奪と異なるのは、部隊指揮官の命令により、軍需品を、対価を支払ってまたは支払を約束して供出させることです。
部隊に法幣や軍票の持ち合わせがなければ、引換証(徴発証券)を交付すればよく、また権利者が不在なら引換証を直接交付する必要はなく置き手紙でもよい。(信夫淳平、戦時国際法講義2)
ところが書き換えでは徴発ではなく略奪であった事例として、9D渡辺卯吉の証言を挙げているけれども、これは引換証の記載に不備があったことを示すだけで(権利者は経理部に出頭できているのだから)、支払いの約定が無かったことにはならないし、また、そのような引換証でも経理部が受け付けていることが証言から見受けられる。
②進軍中の放火も同様、慣習法では軍事的必要があれば文化財などでない限りは民用物を破壊できるので、中国兵やゲリラの拠点となりそうな民家への放火は違法ではない。
③「掃討の延長として敗残兵や捕虜の殺害も頻繁に行われた」とされるが、当時の国際慣習法では、投降兵(捕虜)が戦闘行動中に足手まといとなり、かといって解放もできない場合は殺害できる。(佐藤和夫、信夫淳平、Oppenheim 他) 「掃討の延長として」ならば違法では無かった可能性の方が高い。
そうすると、日本軍がもっぱら略奪放火殺人を(違法行為を)しながら進軍したという、南京事件発生の理由のひとつが成り立たなくなってしまう。
このような杜撰な記述となったのは、書き換えが準拠した歴史学者、笠原、吉田、秦が国際法の門外漢であり、かつ国際慣習法を真面目に調査しなかったからだが、
違法性の有無が争点なのに歴史学者のみに依拠して、東京裁判録、「戦史叢書」「南京戦史」などを考慮しなかった書き換え者の重大な過誤でもある。
--くまくま第二(会話) 2024年2月5日 (月) 00:36 (UTC)
- 捕虜の「解決」と民間人の殺傷の項についても、
- ①ハーグ陸戦慣例規則には、「戦意を喪失し組織的な行動能力を失った敗残兵に対しては降伏を勧告し捕虜として待遇する」と解釈できる条項は存在しないし、そのような慣習法の存在も実証されない。慣例規則23(c)は 兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコトとあり、敵兵の投降が捕虜となる前提条件である。(尚、23(c)は戦闘でのあらゆる場合に適用されるものではない(田岡良一 Oppenheim他)
- ② 「自軍の補給にも窮していた日本軍は制圧当初から全体として捕虜を殺害する方針で臨んでいた」
- 「捕虜ヲ取ラヌ方針ニテ」という中島日記の記述等が根拠だが、まず大本営、方面軍、軍共にそのような方針があったことは確認できず、派遣軍では逆に捕虜を取れと支持している(飯沼日記)。16Dも捕虜を取っており、全体として捕虜を殺害する方針はまったく実証されない。
- (大本営の方針につき立川京一、方面軍ー師団までの統一した方針がなかったことにつき南京戦史)
- ③ 敗残兵・便衣兵の掃討と良民の選別
- 書き換えでは、この戦闘員掃討の違法性の有無(争点)が明らかでなく、それに拠って異なってくる誤殺された良民の殺害の違法性も明らかでない。
- 便衣兵につき吉田は違法とまではいえない。秦は無裁判だったことが違法、笠原は無抵抗な敵兵の殺害が違法としているが、書き換え者はおそらく違いを理解していない。
- 笠原、秦を採るなら住民殺害は全部違法、吉田を採るなら、抽出方法に重過失があるなら違法となる。
- 日焼け痕や銃だこで決定したというのが重大な過失となるかは議論がある(佐藤和夫)
- また、水谷日記などによると、日焼け痕などのみで決めたというわけでもない。
- ここでも引用史料は違法性の根拠として十分ではない。
- いずれにせよ--くまくま第二(会話) 2024年2月5日 (月) 01:20 (UTC)
- くまくま第二
くまくまさんの「書き換え者の重大な過誤でもある」などの表現は、個人または単独のアカウントを指すようにも見えるので一応書きます。(1) 議論をへた上での編集である点は確認しておきます。これまでの議論をご確認ください。(2) 意図していないと思いますけれど、くまくまさんの表現だと個人攻撃にも読めます。Wikipedia:礼儀を忘れない、Wikipedia:個人攻撃はしない をご確認ください。たとえば「国際慣習法からの議論が充分になされていない」という主旨のことをおっしゃりたいのでしょうか?--Moke(会話) 2024年2月5日 (月) 06:35 (UTC) アカウント名を間違えて大変失礼いたしました。--Moke(会話) 2024年2月5日 (月) 06:39 (UTC)- 信頼すべき資料に基づいた記述を編集方針とするのであれば、南京事件での「不法行為」は戦時国際法(あるいは一般刑法)違反の有無ということになるから、法学者による著述などを援用するべきです。具体的にいくつか指摘しましたが、笠原も秦も違法とする慣習法の存在を実証して記述しているのではない。
- 個人攻撃だとおっしゃるが、南京事件を一人であるいは数人で全部書き換えるというならば、当然に持っているべき知見を明らかに缺いているという事実を指摘したまでです。--くまくま第二(会話) 2024年2月5日 (月) 19:32 (UTC)
- 返信 上に書いたように、普段近代史を細かく調べているわけではないので知見が十分でないのはその通りだとは思います。しかし、一次資料の取り扱いや信頼できる情報源の指針がWikipedia的には方針・ガイドラインとしてあるのであり、元版に対する問題意識はこれを始めとした各種の方針やガイドラインが基本的に無視されている点です。これはWikipediaに参加する人が従うべき、あるいは従うことが推奨されているものであり、元版はこの点において問題が放置されている点がWikipediaの記事として過誤があります。そして歴史分野の記事としては現状の学(術)会のスタンダードに合わせるというのはWikipedia上基本的なことになると理解しています。日記にせよ戦史にせよ 一次資料の評価は二次資料によるのが基本となります。
- 法学者による出典があるべきというのは個人的にはその通りと思いますが、正直私は法学に関して信頼できる情報源を識別する能力はなく現状は使っていません。南京における戦時国際法の適用について学術的なスタンダードまたは有力な見解があるなら拡充されるべきだと思います。ただ、基本的に何が起きたかとそれが法的にどうであるかというのは別の話であり、戦闘員掃討や住民の誤殺というのが歴史学者によって説明されているならそれがまず記述されるように思います。違法性の有無が争点というのは少なくとも論争の話で、南京事件論争が記述を担当するところだと思うのですがいかがでしょうか。--TEN(会話) 2024年2月6日 (火) 04:27 (UTC)
- コメント 上記のコメントのように個人的には考えるのですが、正直なところ現状は合意形成の道筋が想像できません。賛同してくださったMokeさん、Zefonさん、説明の労をとっていただいたフューチャーさんには本当に大変申し訳ないのですが、大和屋敷さんの言うように一旦2024年1月13日 (土) 09:34版まで戻った方が良いかもしれません。一定期間反対がなければ合意と見なすというのはWikipediaの慣習ではありますが、この場で現実にそぐわないのは明らかで(実際、下書きを置いていた期間反対意見が付かないのは奇妙ではありました)、少なくとも「合意済み」で押し通すのはちょっと無茶があるように思います。議論に気付かなかった方々が気付いたところで一区切り、とするしかないように思います。--TEN(会話) 2024年2月6日 (火) 06:16 (UTC)
- TEN様 ご返信ありがとうございます。
- 2024年1月13日 (土) 09:34版がTEN様書き換え前の元版を指すのであれば、いったんそこに戻して冷静な議論が可能な状況とした上で再協議するのが適当と思います。
- 元版には石も含まれるのですが、ただ学術界の通説をなぞるのではなく、その不備を補う水準にある情報が多々あります。専門家による事典に対するWikiの意義は集合知による知見の深化発展にあります。
- Wikiの編集基準をどこまで徹底するかは、おそらく20年近くにわたって積み重ねられてきた知見を喪うことの不利益との衡量でなければならないと思料します。
- 今後の議論の方向性ですが、南京事件をどう捉えるかといった大きな問題の合意には時間がかかると思う。まず個別の記述、出典につき適否を議論する形でボトムアップする方法を提案します。--くまくま第二(会話) 2024年2月6日 (火) 06:35 (UTC)
- 宛TEN 様
- 不法行為・違法性の議論について
- 南京事件関係のページは他に3つ4つありますが、この「南京事件」のページはその名称からポータルとしての性格、役割を持っています。
- 他のページと連携、分担が望ましいのですが、南京事件を日本軍による戦時国際法、一般刑法違反行為(笠原)と定義した場合、どの行為が違法となるのかの議論は避けられません。
- 違法性の問題はかなり専門的な議論になるので、これを避けるには「南京事件」のページでは違法性を問わずに殺害などの事実として記述するしかないでしょう。--くまくま第二(会話) 2024年2月6日 (火) 06:49 (UTC)
- 私への言及があったので来ました。ありがとうございます。
- 私は2024年2月6日 (火) 04:27 のTENさんのコメントに基本的に同意します。
- TENさんの2024年2月6日 (火) 06:16の書き込みについて1点書きますと、「議論に気付かなかった方々が気付いたところで一区切り」というのは、それまでの議論と編集をリセットするので、議論に参加した方々を含めて慎重な検討が必要だと考えます。私が2024年1月30日 (火) 12:52に若干まとめ的に書いたように、秦、北村、笠原を基礎として書き直すという方針に異議がなかったのは、TENさんが2024年2月6日 (火) 06:16に書いた3名の他にもいらっしゃると考えます。他にもありますけれど、ひとまずということで。
- --Moke(会話) 2024年2月6日 (火) 07:02 (UTC)
- 宛Mike様 ご返信ありがとうございます。
- 以前の会話はざっとでしか見ていないのであくまで印象ですが、
- 南京事件を把握する上で必ず挙げられる文献であるところの南京戦史、日中歴史共同研究における波多野・庄司論文、あるいは軍事史学会の論文集にある板倉論文が、
- 会話上では討論対象になっていなかったところに、基礎が狭すぎるのではないかと思いました。
- 実際のところこれらを一度は検討されていたのでしょうか?--くまくま第二(会話) 2024年2月6日 (火) 07:17 (UTC)
- 訂正のうえ再送 (名宛人の名称誤記m(_ _)m)
- 宛Moke様 ご返信ありがとうございます。
- 以前の会話はざっとでしか見ていないのであくまで印象ですが、
- 南京事件を把握する上で必ず挙げられる文献であるところの南京戦史、日中歴史共同研究における波多野・庄司論文、あるいは軍事史学会の論文集にある板倉論文が、
- 会話上では討論対象になっていなかったところに、基礎が狭すぎるのではないかと思いました。
- 実際のところこれらを一度は検討されていたのでしょうか?
- --くまくま第二(会話) 2024年2月6日 (火) 07:22 (UTC)
- 返信 Mokeさん。基本的には私としては提示した案が最適だろうと考えます。ので私の提案としては基本的には下書き(現在)案に置き換えるというのがまずあります。ですがすみません、確かに議論と履歴をリセットすることになりますね・・これはこれでWikipedia的には多分おかしいのでちょっと軽率でした。「勝手に」という批判に対応するべく、改めて置き換えを提案する趣旨でした(あと、反対意見が付かないのは議論の流れ的に奇妙と感じたのは正直な感想ではあります)。--TEN(会話) 2024年2月6日 (火) 08:19 (UTC)
- 返信 -くまくま第二さん。私宛のコメントではないものもまとめてになりますが返信します。すみません、上の通りですが、基本的な話としては私はこの記事の置き換え(現行版)がより良いと思っていますので、元版に戻すにせよしないにせよ、まずいくつかの文献を基にまず骨格を作るべきというのが意見になります。これは元版の構成自体に問題があるためと考えているからです。具体的には概説書で一般的に参照される秦・笠原をベースにするということになります。前の議論はできれば読んでいただければと思います。個人的には出典に関しては、使用したもの以外にもいろいろ確認はしていますが、『南京戦史』は(今は手元にないですが)資料集の方はWikipedia的には一次資料の評価は二次資料によるという点から基本的には直接引用は避けた方が良いと考えています。記述の方も基本どれが取りあげるべき記述かというのは学者の判断に依った方が良いかなと思っています。波多野・庄司論文は確認はしましたが、むやみに各論の出典を増やさない方がまとまりが良いだろうと考えて私の書いたものの中では使用していません。板倉氏に関しては少なくとも私は検討・確認していません。どの道、私が書いたものが最終版ではないのは厳然たる事実なので時間とともに新しい出典は肉付けされていくだろうとも思います。
- 一応今回の改定の趣旨なのですが、基本的にまず歴史学の学術的な通説に従った記述をする(Wikipedia:中立的な観点#適当な重み付け)べきというのは、Wikipediaの基本原則であり「中立的な観点 (Neutral Point Of View, NPOV) は、ウィキペディアの根本的な方針の一つです」とある通りで、「学術界の通説をなぞるのではなく、その不備を補う水準にある情報」というのはWikipedia:信頼できる情報源の趣旨に沿って判定しなければならないです。これはどのような種類の記事であっても原則として同様で、「Wikiの編集基準をどこまで徹底するか」というのは可能な限り適用すべきという以外の判断はWikipediaの方針的には出てこないと考えています。方針の原則論ばかりになってしまいますが、あまりに無原則に歩んできたからこそ、まず原則を適用することをしなければならないと思っています。--
TEN(会話) 2024年2月6日 (火) 08:19 (UTC)--TEN(会話) 2024年2月6日 (火) 08:43 (UTC)(訂正)- TEN様
- 確認ですが、 以下確認したく。
- ①一旦2024年1月13日 (土) 09:34版というのは、貴殿が書き換える前の版(元版という)を指すのか
- ②元版に差し戻しする意思はあるのか--くまくま第二(会話) 2024年2月6日 (火) 09:36 (UTC)
- TEN 様
- ①Wikiの原則を可能な限り適用することの正当性は、適用によって有用な情報も消去されることによる損失との衡量であることを再度主張します。またWikiの原則は情報源についてのものであって、元版の構成それ自体をまったく変えてしまう理由にはなりません。
- ② 学問上の中立的観点というのは、対抗論文があれば必ず対照し、また在野の論文であっても考慮すべきは参考として掲げて、議論の余地のあることを明らかにすることです。人口に膾炙している(と思われる)論文に絞るというのは中立とは違う。
- 対抗論文の権威についても、波多野・庄司論文(ご存知なかったのはいかがなものかと思う)、南京戦史を疑う者はいないはずで、構成のまとまりを理由に排除したとするなら、正しい執筆姿勢ではない。
- 富澤繁信氏の一連の著作はアカデミーの権威ではないが査読論文の水準にあると思われるし、東中野氏、阿羅氏についてもアカデミーではないからというだけで排除できる水準のものではありません。
- ③情報源の信頼性をどうやって評価するのかについて貴殿らはアカデミーの権威と人口に膾炙していることを選択した。しかしそもそもアカデミーであるかという判断基準はwikiには存在せず、信頼性の判断は、選択する側の知見の深さに委ねられる。上述の富澤氏らの論文内容の信頼性を否定する根拠を、アカデミーではないという以外に貴殿はお持ちなのか。--くまくま第二(会話) 2024年2月6日 (火) 10:18 (UTC)
- くまくま第二さんが私におっしゃりたいのは、南京戦史、波多野・庄司論文、板倉論文が出典として重要であるという主旨でしょうか? でしたら、重要だと考えているくまくま第二さんに代わって、なぜ私が9つある過去ログを含めて前述の文献についての意見を探さなければいけないのか、理由が分かりませんでした。お力になれず申し訳ありません。
- また、本題ではありませんけれど、「基礎が狭すぎる」というのはこれまで議論に参加してきた皆さんに対して強い表現だと考えます。--Moke(会話) 2024年2月6日 (火) 10:13 (UTC)
- 宛Moke 殿
- ①私の発言は、貴殿に過去ログを探すようにお願いする主旨ではありません。
- ②テーマに対して当然参照検討すべき先行研究を一顧だにしない論文に対する評価として、私のような言い方は優しい方だと思います。--くまくま第二(会話) 2024年2月6日 (火) 10:23 (UTC)
- 「優しい方」というのは、Wikipediaでの議論において、という意味でしょうか? 「ざっとでしか見ていないのであくまで印象」ということであれば、議論に参加している皆さんについてかなり強い調子の印象を持たれていると考えます。
- くまくま第二さんの表現は当初から強めですけれど、もし本項目についてご自身の知見を述べたいのであれば、Wikipedia:エチケットにある「あまりにも情熱を持っている事柄については執筆を避けてください」もご参考になるかもしれません。--Moke(会話) 2024年2月6日 (火) 10:48 (UTC)
- 宛Moke殿
- ご指摘ありがとうございました。
- 私の発言は、南京事件について自分の知見に沿った内容に記述を変えさせようとする主旨ではなく、歴史学およびwikiにおいての叙述の在り方としてどうかという主旨であります。
- そのこと、叙述の在り方、についてのご批判であれば、正面からお受けいたします。--くまくま第二(会話) 2024年2月6日 (火) 10:54 (UTC)
- コメント 個人的な意見としては基本的には前と同様なのですが、正直議論を落着させるような説明を持たず、一旦改めて2024年1月13日 (土) 09:34版への巻き戻しを提案したいと思います。版についてはページの履歴を確認いただければ時刻でわかると思います。賛同いただいた方々には改めて大変申し訳ないのですが、問題点については個別の提案とさせてください。--TEN(会話) 2024年2月6日 (火) 10:59 (UTC)
- 宛TEN様
- ご提案ありがとうございました。
- haruka氏もご意見をお持ちと思いますので、同氏の諒解も得たいと思います。--くまくま第二(会話) 2024年2月6日 (火) 11:15 (UTC)
- 私にも確認のお声がけ頂きありがとうございます。
- 2024年1月13日 (土) 09:34版への巻き戻し
- ということでしたら、
- それが1/21の大改訂版の取り消しということになると思いますので、私がお願いしていたことと重なると思います。
- よろしくお願いいたします。--Harukaikeda(会話) 2024年2月6日 (火) 11:48 (UTC)
- 宛TEN様、Haruka ikeda様
- Harukaikedaさんもご確認されたということなら、TENさんの差し戻し案に異存はありません。--くまくま第二(会話) 2024年2月6日 (火) 12:05 (UTC)
- TENさんの2024年2月6日 (火) 10:59のコメントを確認しました。コメントをありがとうございます。--Moke(会話) 2024年2月6日 (火) 11:08 (UTC)
- コメント 上記のコメントのように個人的には考えるのですが、正直なところ現状は合意形成の道筋が想像できません。賛同してくださったMokeさん、Zefonさん、説明の労をとっていただいたフューチャーさんには本当に大変申し訳ないのですが、大和屋敷さんの言うように一旦2024年1月13日 (土) 09:34版まで戻った方が良いかもしれません。一定期間反対がなければ合意と見なすというのはWikipediaの慣習ではありますが、この場で現実にそぐわないのは明らかで(実際、下書きを置いていた期間反対意見が付かないのは奇妙ではありました)、少なくとも「合意済み」で押し通すのはちょっと無茶があるように思います。議論に気付かなかった方々が気付いたところで一区切り、とするしかないように思います。--TEN(会話) 2024年2月6日 (火) 06:16 (UTC)