ノート:南京事件論争/過去ログ6
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みなさんへ
[編集]さんぽーるさん、以外の方も含めて、論議(思想ではなく、編集方針や個々の記載など)したいのでノートにいろいろ記載願います。 --Japanese sincerity(会話) 2016年5月28日 (土) 14:20 (UTC)
コメント言うまでもないことばかりなはずですが、一応リストアップしておくと
- 書くことには出典を示してください。議論があるような話題では、特に必要なものなので、各位、どんな内容であっても、まずは出典ということでお願いします。
- そこに書かれていることから、何かを推察したりすることは控えてください。分析を伴う必要がある記述に関しては、分析を行っている情報源を示して書く。また、そもそも「単なる意見の対立」として存在しているかもしれませんが、それが「論争」「南京事件論争」として括られているかどうかについても、出典が必要と思われます。「無条件降伏論争」と言えば「無条件降伏を巡るあらゆる論争」ではなくて、「本多秋五と江藤淳に端を発するやつ」ですよね。それと同じように、「南京事件論争」と呼ばれるものがあるのか、とか。
- この種の対立がある場合は、執筆者個人の考えをお持ちかもしれませんが、そういう場合は対立する側の記述を充実させることでバランスをとるよう心掛けてください。それによって、自分が支持する考えが述べられる量も増える。それぞれの理屈がどういうものを背景にしているかが分かる。
- 資料の信頼性は、どっちの立場をとっているから「信頼できる」ということではなく、それぞれの立場において信頼できるとされているものならば信頼できるとみなしてください。
- 記述に際しては、当事者の回想や証言に由来するもの、歴史を扱う学問としての情報源に由来するもの、学問ではなく政治家らの認識や主張に由来するものを区別してください。
- 同じことを、複数の項目で繰り返す必要はありませんが、複数の項目で扱う必要がある場合は、詳細はそれを主題とした項目に書き、その他の記事では簡単な要約を書き、内部リンクで誘導できるようにしてください。
といったところでしょうか。--Ks aka 98(会話) 2016年5月30日 (月) 08:08 (UTC)
Ks aka 98(会話)さん 貴殿のおっしゃることを吟味して行動します。ありがとうございます。
便衣兵・投降兵・捕虜の扱いに関して
[編集]便衣兵・投降兵・捕虜についてセクションを別々にするのは、うまく整理されていればよいが、同じような説明が繰り返し続くのはいたって読みにくい。「便衣兵」と「投降兵・捕虜」の二つに分ける方がいいか。投降兵と捕虜とを別々にするのは無意味。また、相変わらず独自研究に固執して書かれているが、いくら書いても出典のないものは無効です。--さんぽーる(会話) 2016年6月7日 (火) 10:32 (UTC)
貴殿の作業を見て、私も出典を必ず付記しつつ、対応します。さんぽーるさんの姿勢には基本的に反対しません。--Japanese sincerity(会話) 2016年6月7日 (火) 12:53 (UTC)
いろいろな意見あって、よいものができるものです。当方の作業にも、貴殿が手を加えても一向にかまいません。--Japanese sincerity(会話) 2016年6月8日 (水) 15:03 (UTC)
さんぽーるさん いろいろ書きますが、どうぞ、遠慮なく、修正して結構です。--Japanese sincerity(会話) 2016年6月10日 (金) 12:01 (UTC)
本文とソースの齟齬
[編集]「南京事件は、中国の首都で発生した多くの軍人や市民のかかわった、欧米の宣教師や学者も含めた目撃者のある事件だが、犠牲者(死亡)者の数については30万人説からゼロまで幅がある」という文に貼付されているソースは、秦郁彦 (2007)の185頁。とのことですが、当該書籍の当該ページにはそのようなことは書かれていません。ソースとの齟齬はさることながら、「南京事件は、中国の首都で発生した多くの軍人や市民のかかわった、欧米の宣教師や学者も含めた目撃者のある事件だが」と断定調で書くのは問題があると思います。必要なし。本文とソースの齟齬は、他にもいくつか見つけてしまいました (秦と笠原の新書本だけみてもかなりたくさんありますよ)。今は時間がありませんので具体的に挙げることはできませんが、「一日も早く」、「第三者の目」で「精査」したい、というか、「トライしてみようと思います。ありがとうございます。」Takabeg(会話) 2016年6月13日 (月) 13:42 (UTC)
私も今更文句いいません。wikipediaはみんなのもの。客観的に精査してください。いいたいことはそのあとで対応します。--Japanese sincerity(会話) 2016年6月14日 (火) 13:45 (UTC)
ただし、完全リバート、泥仕合だけはさけたいので、その旨、お願いします。--Japanese sincerity(会話) 2016年6月15日 (水) 13:24 (UTC)
統合提案
[編集]南京事件 (1937年)との統合を提案します。重複が多く、一括して説明した方が適切です。論争の争点である事実や、資料についても、それらの解釈については一度統合して整理しないと、南京事件 (1937年)も記事として非常に中等半端な状態になっています。合計すると243,994バイトですが、重複を整理すれば20万バイト以下になると予想されます。
- また、南京事件 (1937年)にある捕虜殺害などは南京戦へ移動すべきだと思いますが、それは統合後に提起します。(犠牲者数、またそれが「大虐殺」か否かは議論になっていますが、捕虜殺害は事実として確定しているので。)
- なお、事件と論争が分離された経緯は、過去ログ 南京大虐殺論争への移行を参照。最古は2004年5月22日ですが、現在から見ると分割するほどの分量ではありませんでした[1]。
- 統合後に整理した後で、論争史を南京事件論争史として分割することも考えられます。--さんぽーる(会話) 2016年6月18日 (土) 09:14 (UTC)
さんぽーるさん 私は反対です。理由は、以下のとおりです。南京事件は一定の戦闘終結後の殺害事件について述べたものであり、その発生経緯と発生に係ること、その規模や違法性や証言などの成否の論争は分けたほうがいい。ともかく、1年前の内容を見ると、もっとごちゃごちゃで整理不能であったものが、やっと整理されたわけです。分量うんねんや重複よりも、参照しやすさや論点の正しい把握が大切です。それは否定派も肯定派も一緒です。--Japanese sincerity(会話) 2016年6月19日 (日) 16:36 (UTC)
- 南京事件と南京事件論争を分けることの利点は何でしょうか。「読みやすさ」なら、ひとつの記事で説明する方が読みやすいでしょう。「論点の正しい把握」と反対されていますが、Japanese sincerityさんの南京事件記事での加筆はここのページとほとんど同じ問題を持っています。つまり情報源の追加はよいが、全体として中立性に欠けており、整理が必要でかなりごちゃごちゃしたものになっています。つまり、「否定派に反論するための論点の正しい把握」となっています。しかし、このことについてお互い合意できたところではないでしょうか?Japanese sincerityさんの論争記事の加筆後の私の整理に、重大な問題がまだありますか?出典がきちんとつけられ、諸派の見解が記載されていれば、論点は「正しく」把握できますよね。現状はやはりまだ記載が足りないと思いますが、私は南京戦での加筆をしなくてはと考えています。また、統合ができなくとも南京事件記事の整理はします。
- さて、事件と論争を記事として明瞭に分けることができるのならば、南京事件に記載されている論争的な記載はこちらに移動すべきでしょう。たとえば名称も戦犯裁判も争点です。そうやって移動した場合、南京事件記事には経緯と捕虜殺害位しか残りません。その捕虜殺害とは、日本軍からは「残敵掃蕩」です。戦後は論争になっていますが、作戦の評価は別として、これは「南京攻略戦」の作戦の一部なので、南京戦で記載されるべきではないでしょうか。また見方を変えれば、ここの論争記事のうち南京事件に移動すべきものがあります。犠牲者数、人口、当時の報道、証言、史料です。というのもそれは事件の内容だからです。「論争」を説明する前に、まずどんな「事件」だったのかその内容を先に説明すべきです。現在の論争は、あくまでも事件の「評価」です。南京事件とはいわゆる南京大虐殺のことであり、事件について説明されていない今の状況はウィキペディアの他の記事と比較してもおかしいです。例えばレイテ沖海戦では作戦、戦闘経過書、評価が書かれていますがこれは一般的な構成です。しかし、南京事件記事は事件内容が十二分に説明されていませんし、論争記事へのリンクで済ませてあり、しかも非常に読みにくく、また中立性を損ねている状態です。そもそも2004年に分割された理由が「将来もめるだろうから」程度の理由でした。また、「南京事件」記事に加筆しようとするとこの論争記事と内容がほとんど重複してしまうことも問題です。たとえば当時の人口や国際国内報道について事件記事でも記載が必要ですが、内容は論争記事と重複します。重複してしまうのはなぜでしょうか。それは、事件と論争が明瞭に区別できない、少なくとも、いまの記事の状態は良いとはいえないからで、分離したままにするにしても、分離する明瞭な方針を再確認する必要があります。私は、そのような明瞭な方針はないと判定するため、統合を提案しました。Japanese sincerityさん、分離する明瞭な方針を説明していただけますでしょうか。--さんぽーる(会話) 2016年6月20日 (月) 16:22 (UTC)
いくつかの点で、貴殿とやはり事実関係の認識の違いがあります。戦闘終了後の虐殺は、戦時国際法違反であるかどうか、その背景に日本軍の行動にどこまで問題があったかというのが、近年の論点で、昨年の今頃のものは、今以上に未整理で理解不能でした。--Japanese sincerity(会話) 2016年6月21日 (火) 15:21 (UTC)
- 過去も未整理でしたが、現在も改善すべき状態にあります。私が聞いているのは、事件に関する認識ではなく(ここで南京虐殺はあったのかを我々が議論するのは無意味です)、あくまでもウィキペディアの記事として、南京事件と南京事件論争記事が分離されるべき理由は明確にあるのでしょうか、ということです。--さんぽーる(会話) 2016年6月21日 (火) 16:24 (UTC)
- 統合提案の話と、南京事件記事の整理の話を分けた方がよさそうですので、向こうで整理を提起します。--さんぽーる(会話) 2016年6月21日 (火) 16:27 (UTC)
統合はまだ慎重にしてほしいです。南京事件のあらしがあったあとの多くの人の動きを見てもわかるように注目しているひとも多いので慎重にしてほしい。南京事件はその存否にかかわらず、多くの欧米人の記録・報道があったことはまず、事件のてがかりとして記載すべきでしょう。--Japanese sincerity(会話) 2016年6月27日 (月) 16:26 (UTC)
- 欧米人の記録・報道だけでなく日中の記録も記載すべきでしょう。--さんぽーる(会話) 2016年6月28日 (火) 10:50 (UTC)
- 反対 統合には強く反対します。整理改善すべき点は十分あるとしても、統合で改善が促進されるとは考えられません。いまよりきっとわかりにくくなるでしょう。事件が8万バイト超で論争が16万バイト超。統合ではなく、事件記事の本文のうち、議論のある点についてはできるだけ論点の概要のみにとどめ、詳細は論争記事で書くのが良いと思います。--miya(会話) 2016年6月27日 (月) 21:52 (UTC)
- 反対 -miyaさんの意見と同じ考えです。事件記事の内容と、論争記事内容の目的が違うことから統合する必要性がない。また、編集者間で認識のズレがみられるテーマであることから、分けて問題の議論を展開をし、記事の整理・編集を進めればよいと思います。--Koshi2016(会話) 2016年6月27日 (月) 22:45 (UTC)
- 反対 読者の立場として膨大すぎるwebページは読みづらい。--大和屋敷(会話) 2016年6月28日 (火) 03:41 (UTC)
- 分量については冒頭で述べましたように20万バイト以下と予想され、「膨大すぎる」なんてことはないでしょう。重複が解消されるだけでかなり読みやすくなるはずです。が、分割より前に整理が必要なのは確かなので、南京戦と南京事件の整理と加筆、また重複についても具体的に指摘をしながら提案をしていきます。--さんぽーる(会話) 2016年6月28日 (火) 10:50 (UTC)
- いやあ、かなり多いですよ。攻略戦は攻略戦、「事件」は「事件」、論争は論争が納まりが良いのではないでしょうか。--大和屋敷(会話) 2016年6月28日 (火) 11:40 (UTC)
- 分量については冒頭で述べましたように20万バイト以下と予想され、「膨大すぎる」なんてことはないでしょう。重複が解消されるだけでかなり読みやすくなるはずです。が、分割より前に整理が必要なのは確かなので、南京戦と南京事件の整理と加筆、また重複についても具体的に指摘をしながら提案をしていきます。--さんぽーる(会話) 2016年6月28日 (火) 10:50 (UTC)
- 南京戦、事件、論争の3つあるのはいいのですが、現在の事件と論争とがうまく分けられてないということなのです。しかし、まずは加筆と整理を私の気の済むまでやってみて、それから統合が必要か考えようと思います。--さんぽーる(会話) 2016年6月28日 (火) 12:27 (UTC)
- さんぽーる(会話)さん 貴殿の加筆・整理には可能な限り偏りを避けようという意思は感じられるものの、南京戦、事件、論争についての、内容の移動・整理には可能な限り慎重にしてほしいです。みんなのものですから、このページにもあった、リバート合戦の危険も皆無ではないので、ノートで意見を書きつつ、慎重に願います。 --Japanese sincerity(会話) 2016年6月28日 (火) 13:31 (UTC)
- 反対 16万バイトの現状でも過剰だと感じます。さんぽーるさんは日中戦争でも記事を整理して縮小することに反対をされていましたが、少なくとも記事の分量に関しては他の編集者と大きな認識のズレがあるようですね。--Zakinco(会話) 2016年6月30日 (木) 14:18 (UTC)
- 分量などどうでもよくて、事件と論争を記事として分離する明瞭な方針を再確認したいのです。他の方もそうですが、分量のみを理由に反対されても賛同できません。分量でケチつけるなら、ぜひ特別:長いページで上位の74万バイトから100位の31万バイトの順にノートで「分量が多いので縮小してください」と提案し、削っていったらいかがでしょうか。それをせずに20万以下程度(いたって普通の分量)で分量を持ち出すのは首尾一貫していません。--さんぽーる(会話) 2016年6月30日 (木) 16:11 (UTC)
- コメント-皆さんが、容量についてコメントされているのは、さんぽーるさんの統合提案の大きな理由の一つに挙げていることに由来するのでしょう。その他の理由についても多くの方々は意見を述べています。私の考えはすでにコメントした通りです。--Koshi2016(会話) 2016年7月1日 (金) 01:26 (UTC)
- いやいや、統合提案ですので「統合なんてとんでもない(分量が巨大になりすぎる)」という意見になるわけで。記事間の内容の整理でしたら従来から行われていることですので、淡々と、個々に実施するなり検討するなりすれば宜しいわけでして。「もっと多い記事の分割提案をなぜしないのか」なる主旨の反論は論点ずらしですので無用でしょう。単に我々はそれらの記事に興味がないだけです。--大和屋敷(会話) 2016年7月1日 (金) 04:10 (UTC)
koshi2016さんは誤解されています。私が分量をあげたのは目安程のことで理由ではないです。分量を理由にする場合は分割という方式で提案します。大和屋敷さん、他と比較してこの程度は普通です。私が統合提案した理由は、以下。①から③は同じことをいっているともいえますが、細分すれば
統合の理由 |
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①重複が多い。一括して説明する方が適切。 |
②事実や資料について論争がある以上、事件の記事でどこまでを「論争のない事実」で書くのかが曖昧で不明瞭である。(「論争のない事実」がないほどに「事実の証拠」の詳細が争点となっている) |
③事件記事と論争記事を明瞭に分ける方針がない。明瞭に分ける方針がないまま12年前に分割された結果、事件記事と論争記事を往復して読まねばならなかったり、説明不足が多い。加筆しようとしてもどっちに書けばよいのか分かりにくい。 |
miyaさんは「事件は論点の概要、詳細は論争記事で」と提案されていますが、その場合、ここのページにある全争点の概要(犠牲者数、人口、国際法上の問題、期間と場所、国際社会の認知、証言や日記など資料についての概要)を南京事件でも書く必要があります。なにより難しいのは証言と日記です。概要を書くとして文案はどうなりますか。「虐殺があったとする証言や、なかったとする証言がある」だけでいいでしょうか。しかし、これから加筆する判決では証言や日記の記載が事実認定されて、その後それらの資料について研究と再検討がなされ、論争にいたっている。そうなると中立的な観点から、判決だけを事件記事に書くのは問題があるのではないでしょうか。今は統合前に加筆整理すべきと考え、編集しています。しかし、今後のためにも③の「事件記事と論争記事を明瞭に分ける方針」については明確に確認すべきです。--さんぽーる(会話) 2016年7月1日 (金) 13:36 (UTC)
- 反対 「南京大虐殺」の「事件そのもの」と「論争」を別立てする件に関する議論について過去に発言した記憶があるが、この提案では、本件の過去ログが参照されていないため。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月16日 (金) 21:44 (UTC)
「本件の過去ログ」はどの議論ですか。差分で出してください。--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 11:13 (UTC)
Wikipedia:ページの分割と統合に従い、議論停止して一ヶ月以上経過しているので、統合提案は撤収します。③の「事件記事と論争記事を明瞭に分ける方針」については未確認のままですが、加筆など他の編集を優先させることとします。その後で再度分割提案する際にも同一の理由で提案させていただくでしょう。Dalaibaaturさんのいう差分は分かりませんが、「事件記事と論争記事を明瞭に分ける方針」について明確に主張があるのなら、今後のために解答を希望します。--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 11:56 (UTC)
スマイス調査
[編集]スマイス調査を「重要な一次資料」とする評価などはルイス・S・C・スマイスへ転記。ここでの経歴記載は大学教員と安全区委員くらいにすべきです。この記事に登場する人物の経歴を長々と説明するのは著しく読みにくくなりますし、また論点がぼやけます。--さんぽーる(会話) 2016年6月29日 (水) 15:46 (UTC)
外部リンク
[編集]ノート:南京事件 (1937年)#外部リンクと同様、匿名サイトはWP:ELでの条件を満たしていないので削除。--さんぽーる(会話) 2016年6月29日 (水) 16:32 (UTC)
人口推移
[編集]#編集不備でも指摘したことですが、人口推移は、論争的な否定派の主張を冒頭で唐突に紹介するのでなく、最初に当時の記録を紹介すべきです。そしてその記録についての研究、最後に論争の順にする方が適切です。--さんぽーる(会話) 2016年7月7日 (木) 11:51 (UTC)
なかった証言
[編集]さんぽーる(会話)ちょっとやりすぎですよ。--Japanese sincerity(会話) 2016年8月22日 (月) 23:42 (UTC)
- 仕方ありませんね。当時を知る方の証言は、他の証言と同等に重要ですから。私が加筆した証言について疑問や批判が書かれた書籍があれば加筆してください。肯定派の文献もチェックしているのですが、なかった証言への批判は見つかりませんでした。--さんぽーる(会話) 2016年8月23日 (火) 12:38 (UTC)
さんぽーる(会話)さん 了解。でも個々の証言を批判を探してどうのこうのとはいいません。--Japanese sincerity(会話) 2016年8月23日 (火) 15:04 (UTC)
日記は証言か
[編集]Japanese sincerityさん、日記を「証言」として加筆されていますが、「日記資料」節の方が適切ではないでしょうか。--さんぽーる(会話) 2016年8月23日 (火) 15:07 (UTC)
また、「虐殺があったとする証言」を「陸軍軍人の虐殺があったことの証言」を「批判や疑義の出された虐殺証言」と区別する理由は何でしょうか。「批判や疑義の出された虐殺証言」の中にも「陸軍軍人の虐殺があったことの証言」がありますので、不適切です。反論がなければ、日記セクションに移動します。また、中島日記は内容が重複しています。--さんぽーる(会話) 2016年8月24日 (水) 14:32 (UTC)
さんぽーる(会話) 記事の内容、記載方法、分量は変えます。少し、待ってください。--Japanese sincerity(会話) 2016年8月24日 (水) 23:16 (UTC)
- 内容や分量は問題ではありません。日記と「証言」は、史料としての性格が違います。書く場所が不適切であるといっています。--さんぽーる(会話) 2016年8月25日 (木) 12:26 (UTC)
分割提案
[編集]分量肥大につき、被害者数]節を南京事件の被害者数を分割提案。英語版では独立記事:en:Death toll of the Nanking Massacre。また、論争史を南京事件論争史へも分割提案。--さんぽーる(会話) 2016年8月24日 (水) 14:47 (UTC)
さんぽーる(会話) ご自身で記事を増やしておいて、分割はないでしょうが?やりすぎです。--Japanese sincerity(会話) 2016年8月24日 (水) 23:14 (UTC)
- 言いがかりはご遠慮願います。Wikipedia:ページの分割と統合には「大量に加筆した編集者は、分割提案できません」とは書いていません。また、私が最近加筆したのは証言です。証言の分割も検討しましたが、日記や他の史料とは一覧である方が見やすいでしょうし、Japanese sincerityさんのように、日記と証言を混同される場合もあり、分割は難しいと判断しました。被害者数を分割するのは、争点としてまとまっており、要約も書きやすいですし、英語版でも独立記事になっていることからも、分割を検討すべきでしょう。論争史は、年表としてさらに充実させることができますし、これもまとまっているので、分割を検討すべきでしょう。--さんぽーる(会話) 2016年8月25日 (木) 12:24 (UTC)
「被害者数」セクションにある「「虐殺」否定説」と「戦時国際法上合法説」は、他のセクションとの関連で重要なので、本記事にセクションとして残すことを追加提案します。分割先にも転記します。「要約が書きやすい」といったのは数字の議論のことでした。--さんぽーる(会話) 2016年8月25日 (木) 12:55 (UTC)
- 追加提案を訂正します。「虐殺の対象」セクションに、国際法上の議論について説明されており、内容もほぼ重複しているで、「「虐殺」否定説」と「戦時国際法上合法説」を単独のセクションにすることはやめ、他の数字の各説と同じく、要約にとどめます。--さんぽーる(会話) 2016年8月25日 (木) 13:06 (UTC)
--さんぽーる(会話)さん 取り急ぎ、表現が不適格だったことはお詫びします。日記については、書き直しますので、少し待ってください。--Japanese sincerity(会話) 2016年8月25日 (木) 13:29 (UTC)
- 分割提案のセクションなので、分割に関する議論に集中してください。日記については#日記は証言かのセクションでお願いします。書き直す必要はなく、配置場所の問題です。加筆は歓迎です。--さんぽーる(会話) 2016年8月25日 (木) 14:02 (UTC)
報告 反対意見がなかったので分割しました。要約は一応作成しましたが、記録への疑問などは各セクションへの移動すべきでしょうか。人名の記載も脚注で十分かもしれません。なお、他のセクションとの重複など整理はまだ終わってません。--さんぽーる(会話) 2016年8月31日 (水) 17:24 (UTC)
反対 統合と分割を同時に提案しておられて、一体どういうつもりなのかと思っていましたが、統合の方を撤回されたことを確認。改めて意見表明します。理由:対立の激しい極めてセンシティブな問題を扱うにしては、編集姿勢がずさん。すでに分割を実施した「犠牲者数」、「論争史」では、「要約」が実際には元の文を要約せず勝手な判断で書き換え、あるいは要約を準備せず。事前に要約を準備し、元の文面の主要部を執筆した投稿者たちに連絡して点検を依頼する、という手順が踏まれない限り、さんぽーるさんによる新たな分割の提案や分割の実施には反対。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 15:19 (UTC)--Dalaibaatur(会話) 2016年9月18日 (日) 11:04 (UTC)統合と分割の同時提案が解消されたため。
阿羅編証言
[編集]- 分割議論については他の人にお任せしますが、さんぽーるさんが加筆されている一連の個別の証言については見通しが悪くなるので「南京事件論争」に書くべきではないです。
- さんぽーるさんが加筆されている一連の個別の証言については『阿羅健一は証言を集めて検討した結果、虐殺はなかったと結論付けている。』くらいで十分でしょう。個別の証言は「論争」ではないです。証言資料等を集めて分析している人の言葉を載せるべきです。
- 日中歴史共同研究はこの論争を俯瞰的に見て『このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している』と述べており、ここに焦点をあててこの記事を記述すべきです。--Zakinco(会話) 2016年8月26日 (金) 04:57 (UTC)
- 証言がなぜインタビュアーの主張としてすり替わるのでしょうか??証言や各種史料も論争の争点です。--さんぽーる(会話) 2016年8月26日 (金) 12:12 (UTC)
- --さんぽーる(会話) さん 私もZakinco(会話) さんの主張に賛成です。様々な物証や戦争の事実、国際法との関係や人道的配慮との関係など、様々な状況をみつつ、独自の検討に偏らないようにすることが、大切です。今回の貴殿の作業は、結果的に阿羅健一の論法に引きずられすぎています。--Japanese sincerity(会話) 2016年8月26日 (金) 12:56 (UTC)
分割提案のセクションなので、分割に関する議論に集中してください。証言について議論をしたければセクションを変えてください。--さんぽーる(会話) 2016年8月26日 (金) 13:00 (UTC)
報告 分割提案者として議題を分離します。--さんぽーる(会話) 2016年8月26日 (金) 13:03 (UTC)
お答えします。私は阿羅氏の「論法」を加筆していません。阿羅氏のインタビューに問題があるのなら、それを指摘した出典を明記してください。その他の論点については、加筆すればよいことです。自分の気に入らない証言を削除することはひどいでしょう。否定派が、肯定派の証言を「肯定派の論法にひきずられているから」削除したらどうおもいますか?--さんぽーる(会話) 2016年8月26日 (金) 13:06 (UTC) --さんぽーる(会話) 2016年8月26日 (金) 13:06 (UTC)
--さんぽーる(会話)ほかのいろいろな意見を聞いてみましょう。--Japanese sincerity(会話) 2016年8月27日 (土) 06:36 (UTC)
- 証言自身は一次資料です。Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料をご覧ください。--Zakinco(会話) 2016年8月30日 (火) 00:28 (UTC)
- 独自研究ではありません。Zakincoさんはwikipediaの方針を理解していません。もしインタビューや証言が「一次資料」であるために掲載不可ならば、東京裁判の判決や、「あった証言」、日記史料なども掲載できなくなります。阿羅本への疑義を出すなら、信頼できる情報源ではないことを証明する文献を出すことでしょう。しかし、本多勝一の本への疑義があり、間違いがあったとしても、ただちに信頼できる情報源とはなりません。したがって、「阿羅はこういう。しかし、Aはこう批判する」という書き方しか、論争に決着がついていない現在はできません。否定派、肯定派のどっちが正しいかをWikipedia編集者が判定することはWikipedia:中立的な観点・Wikipedia:検証可能性によって間違いです。管理者のKs aka 98さんはこの記事の編集について「資料の信頼性は、どっちの立場をとっているから「信頼できる」ということではなく、それぞれの立場において信頼できるとされているものならば信頼できるとみなしてください。」と述べておられます。--さんぽーる(会話) 2016年8月30日 (火) 13:24 (UTC)
- ある論争についてWikipediaでどう書くべきかという点で根本的に相違があるので議論がかみ合うとは思えませんが、私は阿羅氏の本を信頼できる情報源ではないなどとは言っていません。裁判の判決などは公の事実で個人の証言とは全く性質が違います。その他証言や日記史料も調査した人による評価を含む記述ならば一定程度受け入れられると思います。だからと言って多数載せればよいということではありません。--Zakinco(会話) 2016年8月30日 (火) 14:58 (UTC)
- 阿羅氏の本が信頼できる情報源であることを認めるなら、なぜそれを基づく加筆に反対するのですか。加筆してよい証言は何人分までならいいのですか。「虐殺があった証言」は何人分ならいいのですか。私は重要な証言であるものは加筆します。私が加筆した証言で重要でないものはありますか。「どう書くべきかという点で根本的に相違がある」から、Wikipedia:中立的な観点という方針があります。方針には「ウィキペディアの狙いは論争を記述することであり、論争に加わることではありません」と明確にかかれています。--さんぽーる(会話) 2016年8月31日 (水) 13:37 (UTC)
- 信頼できる情報源を出典にすれば利用者:さんぽーる(会話 / 投稿記録)さんが重要だと考える事項について何を書いても何も言われないというわけではありません。他の編集者が疑問を述べるのは普通ですし、執筆者はそれに応答すべきです。論争について記述する時に個別の証言をどの程度載せるかは広く議論を募った方が良いでしょうし、他の編集者の疑問自体に問題を感じるならコメント依頼を利用して第三者の意見を聞いてください。
- 私の考えは上に書いてありますが念のためもう一度書きます。『犠牲者数に諸説がある』これが論争です。そしてその原因は『「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している』なので、ここに焦点をあてて記事を書くべきです。ですので、『個別の証言は「論争」ではないです。証言資料等を集めて分析している人の言葉を載せるべき』との主張をしております。以上です。--Zakinco(会話) 2016年9月1日 (木) 00:53 (UTC)
- 話をすり替えないでください。阿羅氏は「証言資料等を集めて分析している人」です。すでに答えたように、証言や史料の分析も争点であり、証言の対立も研究テーマになっています。虐殺がなかった証言について批判が出されるまでは記載すべきではないと主張されるんですか。疑問を述べるな、と私はいっていないし、Zakincoさんが歴史学研究会でネガティブな評価を書くのを必死で不当に阻止しようとしているのを考えると、「議論」は無理ですね。ウィキペディアは演説台、政治的プロパガンダの場所ではありません。--さんぽーる(会話) 2016年9月1日 (木) 04:38 (UTC)
- 私は話のすり替えなどしていませんが、自分の文章を読み返してみて言葉足らずの部分があったので付け加えます。阿羅編証言のみを問題にしてるのではなく「証言」の章自体が長すぎると考えています。著作権の切れていない書籍からの大量の引用は控えきちんと要約してください。『「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違』との関連が分かる証言を集めてください。それらが分かるように補足されて書かれた証言であるなら受け入れます。あと、「ウィキペディアは演説台、政治的プロパガンダの場所ではありません」とのことですが、『ネガティブな評価を書くのを必死で不当に阻止しようとしている』根拠が示されていない以上、あなた個人による言いがかりです。この場で議論することは避けますが、訂正と謝罪を求めます。--Zakinco(会話) 2016年9月1日 (木) 13:25 (UTC)
- 証言セクションは長くなったので分割提案しています。引用は要約しています。単に虐殺を否定しているわけではない、つまり捕虜等の殺害の目撃証言も含まれるので、中立性から書きました。名前の列記が楽でしょうが、不十分です。「論争」との関連ですが、阿羅氏は田中正明とも親しい否定派で、証言集は、教科書誤報事件での日中対立を踏まえて調査されたものです。それだけで論争との関連は十分ですが、証言内容には虐殺の定義や、記録などについて見識を深める内容もあります。それを全部書いたら大変な長さになりますので、要約にとどめました。プロパガンダの話はノート:歴史学研究会の全文転載議論を踏まえたものですが、Zakincoさんの答えで、誤解があったことが確認できたので、撤回します。--さんぽーる(会話) 2016年9月1日 (木) 13:46 (UTC)
反対 統合と分割を同時に提案しておられて、一体どういうつもりなのかと思っていましたが、統合の方を撤回されたことを確認。改めて意見表明します。理由:対立の激しい極めてセンシティブな問題を扱うにしては、編集姿勢がずさん。すでに分割を実施した「犠牲者数」、「論争史」では、「要約」が実際には元の文を要約せず勝手な判断で書き換え、あるいは要約を準備せず。事前に要約を準備し、元の文面の主要部を執筆した投稿者たちに連絡して点検を依頼する、という手順が踏まれない限り、さんぽーるさんによる新たな分割の提案や分割の実施には反対。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 15:19 (UTC)--Dalaibaatur(会話) 2016年9月18日 (日) 11:03 (UTC)統合と分割の同時提案が解消されたため。
不当な白紙化
[編集]Japanese sincerityさんは、出典の明記された記載を削除しないでください。こうした行為は「不当な白紙化」としてWikipedia:荒らしとみなされます。--さんぽーる(会話) 2016年8月26日 (金) 12:18 (UTC)
--さんぽーる(会話) さん そもそも、もともと誰が記載したか良くわかりませんが、あった証言ただし疑義ありが羅列されてしたのです。そこに、あった証言で疑義なしを入れることに、したらどうなります?そもそも証言のない(否定された)記事は位置づけがはっきりしないので消さざるをえないじゃあ、ないですか。貴殿の作業によった影響ですよ、すべて。もう勘弁してほしいです。。。他の方のご意見もお聞きします。--Japanese sincerity(会話) 2016年8月26日 (金) 12:50 (UTC)
- 証言内容について加筆すればよい。「不当な白紙化」はやってはいけないことです。--さんぽーる(会話) 2016年8月26日 (金) 12:59 (UTC)
証言セクションの方針と分割提案
[編集]Japanese sincerityさんによる証言加筆ですが、以下、確認すべきです。
- 「証言」に日記や手紙を入れるのはどういうつもりですか?「証言」は、法廷証言やインタビューに限定すべきで、日記や手紙は性格が異なります。手紙は、いまのところ一つだけなので、日記セクションがいいと思います。
- Japanese sincerityさんは配列についてどのように考えていますか。年代順でも証言者のあいうえお順でもないし、でたらめな順番にすると困ります。私は年代順を基本原則にすべきであると提案します。
- 足立証言、石川証言については、「なかった証言」にもあるので、これはどうしましょうか。二人は、当初「あった証言」から、後に「(中国のいう大虐殺は)なかった」証言に変化しています。年代順からいうと、「あった証言」に入れて「備考」で証言の変化を書くのがいいでしょうか。
- 表も内容が増えると非常に見通しが悪くなりますので、どうしましょうか。表をやめてもいいのかもしれません。
- 私とJapanese sincerityさんによる加筆によって分量が増えたので、「証言」を南京事件の証言として分割提案します。山田支隊の部分は、国際法セクションに移動し、ここに残すのが適切です。
- 「なかった証言」にも「捕虜殺害や市民のいくらかの殺害はあった。しかし『大虐殺』はなかった」というのが含まれています。これは虐殺の定義によるものですが、これも確認すべきことです。「(30万などの)大虐殺があった」証言と、「残虐行為としての虐殺があった」証言、「大虐殺がなかった」証言の3つとして分けてはいかがでしょうか。また、「あった証言」でも証言は嘘だったと後で述べたものもあり、分けるのは難しいので、すべて一括して年代順にするのがいいかもしれません。--さんぽーる(会話) 2016年8月29日 (月) 16:58 (UTC)
私は、基本、賛成です。あえて、言えば、例えば阿羅インタビューでの石川達三のとこは「どのような質問をしたか不明」「最晩年で体も不自由な石川への不可解な取材」などがありますので、質問内容などわかる範囲で正確に書くべきでしょう--Japanese sincerity(会話) 2016年8月29日 (月) 23:18 (UTC)
- 賛成ありがとうございます。私の質問にお答えはもらえませんでしたが、私の指摘に賛成したということであればよいです。石川証言は田中インタビューですが、質問の情況について「不可解な取材」など書いてあるわけないですよ。それは肯定派がいう疑義でしょう。阿羅インタビューへの学術的検証を書いた文献があるなら書いてください。--さんぽーる(会話) 2016年8月30日 (火) 12:41 (UTC)
というか、どういう質問に答えたかはっきりしないと、こうもタッチ―な問題は不明確ですよね。今まで証言したことを覆したのなら、どう質問したか明示すべきだと思います。しかし、確かに反論本となると、すぐ思い浮かびませんので、表現ぶりは困難かもしれません。答えになっていませんが。。--Japanese sincerity(会話) 2016年8月30日 (火) 13:29 (UTC)
- 出典とページ番号も書いていますから、確認してください。私は質問を明記するのは不要と考えました。そのかわり、「(捕虜などの)虐殺があった」という部分は書いています。阿羅本での「なかった」とは、ほとんどずべて「30万規模の大虐殺はなかった」「戦闘による殺害はあった」というものです。証言では他にも重要なことが述べられていますが、省略せざるをえません。確認されればわかることですが、期待されるようなことは書いていませんよ。特に石川証言は。--さんぽーる(会話) 2016年8月30日 (火) 14:08 (UTC)
さんぽーる(会話) 不十分だったことを人にお任せするのは恐縮ですが、貴殿の意見を尊重しますので、いかようにもしてください。十分な回答足らずおわいします。--Japanese sincerity(会話) 2016年9月1日 (木) 14:26 (UTC)
報告 分割終了。ハロルド・J・ティンパーリについては、証言よりも報道セクションが適切なので移動します。--さんぽーる(会話) 2016年9月5日 (月) 15:33 (UTC)
お疲れ様です。。--Japanese sincerity(会話) 2016年9月7日 (水) 15:03 (UTC)
反対 統合と分割を同時に提案しておられて、一体どういうつもりなのかと思っていましたが、統合の方を撤回されたことを確認。改めて意見表明します。理由:対立の激しい極めてセンシティブな問題を扱うにしては、編集姿勢がずさん。すでに分割を実施した「犠牲者数」、「論争史」では、「要約」が実際には元の文を要約せず勝手な判断で書き換え、あるいは要約を準備せず。事前に要約を準備し、元の文面の主要部を執筆した投稿者たちに連絡して点検を依頼する、という手順が踏まれない限り、さんぽーるさんによる新たな分割の提案や分割の実施には反対。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 15:19 (UTC)--Dalaibaatur(会話) 2016年9月18日 (日) 11:04 (UTC)統合と分割の同時提案が解消されたため。
論者の分類がおかしい
[編集]すでに過去ログ3-14節、過去ログ3-24節で指摘した、「誤った分類」が復活していましたので、上記の指摘を踏まえて修正しました。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月14日 (水) 11:07 (UTC)
- 反対 Dalaibaaturさんの「虐殺者数」での編集には反対します。北村稔のみを詳細にここで書くとバランスが悪いです。プロパガンダ説は鈴木明、東中野ほか多くの論者が主張しています。書くならば「プロパガンダ説」としてまとめるべきです。別のセクションにすべきでしょうけど。過去ログを拝見しました。「レッテル」に対する懸念は理解できますが、再度確認させてください。「30万の大虐殺があった」派というのは日本の研究者ではいませんが、「数はともかく虐殺があった」派、「中国の主張する『大虐殺(大屠殺)』はなかった」派がいます。この分類では大虐殺派・虐殺派・大虐殺否定派となりますが、日本での論争では、本多・洞・吉田・笠原らの「虐殺派」と、田中・藤岡・東中野らの「大虐殺否定派」がそれぞれグループを作っています。北村稔氏は「大虐殺否定派」グループに所属しているようではないですが、別冊正論15号では「抗日を煽って逃げた中国共産党」を発表しています。虐殺派の論文集や青木書店・岩波書店・朝日新聞社の刊行物でなく、産業経済新聞社の『正論』の別冊である「別冊正論」(扶桑社)に発表していることは、「虐殺派」からは「大虐殺否定派」と見なされるのではないでしょうか。北村稔は「中間派」ということでいいのかもしれませんが、「大虐殺否定派」また証言者のなかにも同じく「大虐殺否定派」だが「虐殺があった」とする人もおり、何を基準に分ければいいでしょうか。「中間派」を自称する秦郁彦は「大虐殺はなかったが、捕虜の虐殺はあった」派といえますが、しかし、決して本多・洞・吉田・笠原ら「虐殺派」のグループに分類されるわけではないでしょう。「各論者」というセクションでも作って、自称他称など詳細を書いて説明した方がいいかもしれません。--さんぽーる(会話) 2016年9月14日 (水) 14:32 (UTC)
- 上記の修正を行った動機は、以下の文面が、(1)日本語として不完全、(2)内容に疑念がある、という2点によります。以下の引用では、論者名を省き、2か所に注釈を入れるとともに、1~3の番号を付加しました。
ゼロ :虐殺否定説
- 戦時国際法上合法説は30万人の市民の虐殺はなかったと主張し、(中略。以下、北村を含む論者名を列挙)。(←この箇所に述語なし。日本語としておかしい)。。
- 戦時国際法上合法説では、便衣兵(ゲリラ兵)や投降兵の殺害も戦闘行為の延長であり、戦時国際法上合法とする。
- 南京安全区の欧米人記録やその話をもとにしたジャーナリストの記録の信頼性への疑問、国民党は事件の翌年の300回の記者会見で言及しなかった、国民政府の記録での人口記録の矛盾、また日本軍の非行として訴えられた殺人は計26件、目撃された事件は合法殺害1件のみ、虐殺を証明する写真がないと主張。
- まず(1)の「日本語として不完全」ですが、特に1の部分が、日本語の体をなしていない。次に(2)の「内容に疑念がある」ですが、私が修正を加える直前までの版に列挙されている、北村を含む2団体6名が全て1〜3の主張を行っているように読みとれる。北村については明らかに間違いなので、著書・講演から読み取れる主張・立場を要約した別セクションを設けましたが、のこる2団体5名についても、果たして1〜3の通りの主張を実際に誰がどれだけ・どのように行っているか疑問。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月14日 (水) 17:35 (UTC)
- さんぽーるさんが9月1日に投稿した「要約」にも、同意できかねます。同意できない理由は、(イ)「検証可能性を満たす典拠に依っていない、投稿者独自の分類項目と分類基準」に依って論者が分類されている。(ロ)もとの文面による分類を踏襲せず、分割者が論者の分類先を勝手に変更しているので、「要約」と称しているが実際には要約ではない。(ハ)「要約」文がきわめて不正確で、論者の実際の主張とは食い違う要約がなされている、という3点です(記事の分割については、Wikipediaルール上の手順を踏んで実施され終えたものなので、改めて異を称えることはしません)。
- 私は、2011年3月の投稿で、北村の位置付けを「否定派」から「中間派」に改めましたが、その際には北村の著書(北村,2001)を典拠として挙げています。しかし、さんぽーるさんの「要約」では、いかなる議論も提案も経ずに、北村の位置付けが、コッソリと「虐殺否定説・まぼろし説」に戻されています。しかも戻すに際しては、私が示した中間派としての典拠(北村が「幕府山捕虜殺害事件」について新資料を発見した記述など)を削除する一方、「ゼロ:虐殺否定派」に分類する根拠として1点だけ挙げた典拠では、北村の「旧日本軍が南京で゛無秩序〟や゛混乱〟に陥って便衣兵や捕虜を殺害したことはあったが、一般市民を対象とした゛虐殺〟(massacre)はなかったとの結論に達する」という発言のうち、虐殺事案の発生を認めている前半部(赤文字部分)を省略するという、恣意的な引用を行っておられます。しかし、元来この北村発言は、日本軍による虐殺案件を認めていることより、北村がまさに「中間派」そのものであることを示すものです。この発言を「ゼロ:虐殺否定派」の根拠として利用するためには、前半部の赤文字部分は不都合なのでしょうが、このような「典拠の提示」は、本来の典拠の趣旨を真逆に歪めるもので、全く同意しかねる手法です。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月15日 (木) 08:34 (UTC)
- まず(1)の「日本語として不完全」ですが、特に1の部分が、日本語の体をなしていない。次に(2)の「内容に疑念がある」ですが、私が修正を加える直前までの版に列挙されている、北村を含む2団体6名が全て1〜3の主張を行っているように読みとれる。北村については明らかに間違いなので、著書・講演から読み取れる主張・立場を要約した別セクションを設けましたが、のこる2団体5名についても、果たして1〜3の通りの主張を実際に誰がどれだけ・どのように行っているか疑問。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月14日 (水) 17:35 (UTC)
- 北村稔が「中間派」であるという典拠はありますか?「三派」については、野村耕一「過去の克服をめぐる学問と政治」三重大学人文学部文化学科研究紀要. 2016, 33, p. 75-83.では、1「虐殺派」(笠原十九司、吉田裕)、2「まぼろし派」(鈴木明、田中正明) 3「中間派」(櫻井よしこ、 原剛)となっていますが、北村は分類されていません。他の資料を探してみます。なお、要約が不十分であるのは認めますが、「論者の分類」については典拠を提示して詳細を書くべきであると考えます。
著書・講演から読み取れる主張・立場を要約した別セクション2011年3月の投稿で、北村の位置付けを「否定派」から「中間派」に改めましたの編集では、ページ番号も記載されていませんし、後半の文章には出典が明記されていません。--さんぽーる(会話) 2016年9月15日 (木) 12:10 (UTC) - 笠原十九司「南京虐殺『虚構説』のトリックの見分け方」『週刊金曜日』2002年8月2日(No.422) pp.66-67では北村稔を「南京虐殺否定論者」とし、笠原十九司『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』で、北村著書を「南京大虐殺否定本」とする。渡辺久志「もとめているのは「実像」か「虚像」か? 北村稔著『「南京事件」の探求 その実像を求めて』を批判する」(4回連載)(季刊『中帰連』2002夏(21)、2002秋(22)、2002冬(23)、2003春(24))でも北村を「否定派」とする。一方、星山隆「南京事件 70 年―収束しない論争」では、1虐殺肯定派(笠原十九司)、2虐殺否定派(東中野修道)、3中間派に分類。p.21に「中間派に属すると見られる北村」とある。以上、北村稔を否定派、中間派にする別々の典拠がありますが、どうしますか。--さんぽーる(会話) 2016年9月15日 (木) 12:42 (UTC)
- 北村稔が「中間派」であるという典拠はありますか?「三派」については、野村耕一「過去の克服をめぐる学問と政治」三重大学人文学部文化学科研究紀要. 2016, 33, p. 75-83.では、1「虐殺派」(笠原十九司、吉田裕)、2「まぼろし派」(鈴木明、田中正明) 3「中間派」(櫻井よしこ、 原剛)となっていますが、北村は分類されていません。他の資料を探してみます。なお、要約が不十分であるのは認めますが、「論者の分類」については典拠を提示して詳細を書くべきであると考えます。
- 秦郁彦 『南京事件」(中公新書、2007,p302)では、A.大虐殺派 B.中間派 C.マボロシ派(中国では「虚構派」)と分類。CとBの影響力が伸びて、Aは低落しつつある、と述べている(前掲書,p302)。また同書p318で犠牲者数について一覧を作成している。--さんぽーる(会話) 2016年9月15日 (木) 12:58 (UTC)
- 先日行った北村説の再分類では、「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」と「分類の項目の名称」を修正しました。
- かつての私の2011年3月の編集において、北村の立ち位置を「虐殺否定説」から変更するに当たって、この差分比較の左側(=「数千~2万」)のところに配置したのは、幕府山捕虜だけでも「2万弱」(諸説ある)である点からの判断でしたが、北村,2001のどこかに「いわゆる「南京大虐殺の被害者総数」について「数千~2万」とする」という言説があるわけではありません。そこで今回の修正に当たっては上述のような「分類項目の名称」を立て、そこに帰属させました。
- さんぽーるさんが、この[この編集で、「要約」と称しながら、北村の位置付けを元の位置から勝手にコッソリ「ゼロ :虐殺否定説」移動した件について、自己弁護として、「○○氏が北村を△△派と呼んでいる」というのをいくつか挙げておられるのを拝見しました。だだし、すでにこちら(→過去ログ3-24節)ですでに述べているように、様々な立場・主張を持つ論者たちがそれぞれのレッテルを提示している中、記事の本文では、一部論者のレッテルを恣意的に採用し、百科事典の記事としての分類に採用するのは問題である、と改めて指摘しておきます。多くの論者たちは、自身の著書物や発言により、各自が認定する犠牲者の規模を明らかにしたり(あるいはいわゆる「南京大虐殺における被害者数」なんて概算しないという立場を示したり)しているのだから、それに依って分類は客観的に可能です。
- さんぽーるさんの「要約」に立ち戻って論ずるなら、
- 北村は、「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」する立場であり、それらの事案の中には「幕府山捕虜殺害事件」が含まれているので、「虐殺否定」でも、ましてや「ゼロ」などでは、決して、ない。
- 1万数数千人の虐殺案件を事実として認定し、「日本軍の非行」として非難する立場の論者であっても、自説の発表媒体の一部に産業経済新聞社の『正論』の別冊である「別冊正論」を用いると、「ゼロ :虐殺否定説の論者に分類される」(さんぽーるさんの2016年9月14日 (水) 14:32 (UTC)に依る)という分類基準には、全く同意できません。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月16日 (金) 17:32 (UTC)
- 北村を中間派と分類する基準もないでしょう。否定派という「レッテル」をつける出典がある以上、「否定派または中間派とされる北村稔」と書くしかないですね。そもそも北村の主張は鈴木明の「まぼろし説」を補強するものでしょう。鈴木明も「大虐殺」ではない殺害(「虐殺」かどうかは別にして)については認めています。Dalaibaaturさんは北村を中間派と主張しますが、一つも出典を提示されませんし、「「虐殺否定」でも、ましてや「ゼロ」などでは、決して、ない。」という発言では、自分の脳内の分類だけを基準にしています。「幕府山捕虜殺害事件」を認めれば、虐殺肯定派?中間派?どう主張されようが、すべては典拠が解答です。出典なき主張は、独自研究のゴリ押しにすぎず、演説にすぎません。--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 10:22 (UTC)
- 「幕府山捕虜殺害事件」を認めているので、あなたの「ゼロ :虐殺否定説」という分類は誤り。
- 北村の分類「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」の典拠は「北村,2001」。この記事の主題に関する北村の専著『南京事件の探求』(文藝春秋, 2001)。この書物は私の脳内だけでなく、今でもそのへんの書店に存在しています。
- 論者の分類は、本人の著作や発言(雑誌・論文などの記事)など本人自身の典拠に基づいて行われるべき。
- (過去ログ3-24節の記述の一部再録)論争の当事者には、自身をふくめた論者たちをそれぞれの基準で分類・整理している場合が多い。ただしどんな基準で分類し、だれにどんな「○○派」のレッテルを使用するかは、論者と立場により非常に多彩である。「南京大虐殺論争」を俯瞰するうえで、さまざまな立場の論者たちそれぞれについて、「論争の当事者をどんな基準でどのように分類しているか」、および「自他にどんな「○○派」のレッテルを使用するか」を紹介することは、百科事典の記事として有為であるとおもわれるので、節を改めるなどしたうえで、レッテルの種類と使用者ごとの用法を典拠を明示したうえで紹介すること自体は、むしろ必要であると考える。この方向での増補には反対しない。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 10:32 (UTC)
- 北村自身の本で「中間派」と自称していますか。ページ番号を提示してください。「北村は中間派」という典拠を出さずに分類するのは脳内です。「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」という基準ならば、鈴木明と同じですね。Dalaibaaturさんの基準でいくと、「否定派」は誰もいなくなります。否定派は戦闘詳報などの公式記録にある「敗残兵の殺害」は認めています。しかし、「虐殺ではない、戦闘行為であり、国際法上合法」と主張しています。それに、そもそも「虐殺者数」のセクションです。北村は、何人が犠牲者数だといっていますか?何人が「不明」ならば、「不明、または誇張(プロパガンダ)説」ですか。--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 10:44 (UTC)
- 自分のこの編集について、改めて点検してみましたが、「中間派」なる単語は、私には見当たりません。さんぽーるさんには見えておられるようなら、取り除いてくださっても構いませんよ。
- 私自身が記事の本文で示した北村の分類の項目名はも、何度も繰り返しますが、「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」です。この分類名称の典拠は「北村,2001」。この記事の主題に関する北村の専著『南京事件の探求』(文藝春秋, 2001)。この書物は私の脳内だけでなく、今でもそのへんの書店に存在しています。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 10:49 (UTC)
- 北村を中間派と分類する基準もないでしょう。否定派という「レッテル」をつける出典がある以上、「否定派または中間派とされる北村稔」と書くしかないですね。そもそも北村の主張は鈴木明の「まぼろし説」を補強するものでしょう。鈴木明も「大虐殺」ではない殺害(「虐殺」かどうかは別にして)については認めています。Dalaibaaturさんは北村を中間派と主張しますが、一つも出典を提示されませんし、「「虐殺否定」でも、ましてや「ゼロ」などでは、決して、ない。」という発言では、自分の脳内の分類だけを基準にしています。「幕府山捕虜殺害事件」を認めれば、虐殺肯定派?中間派?どう主張されようが、すべては典拠が解答です。出典なき主張は、独自研究のゴリ押しにすぎず、演説にすぎません。--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 10:22 (UTC)
(インデント戻し)「中間派」が「レッテル」なら、「肯定派、虐殺派、否定派」もすべて「レッテル」となります。よって、「論者の分類は百科事典の記事にはふさわしくない」という立場になり、矛盾していますね。「分類」は「レッテル」であるが、「レッテル」とは名称のことであり、名称なしに「論者の分類」は不可能。Dalaibaaturさんの論理は破綻しています。また、同じ文章をコピペする前に、それが何ページにかかれているのか、答えてください。--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 11:03 (UTC)
この編集に「中間派」が使用されていることで議論しているのではない。「否定派、ゼロ派」に北村を分類していることに反対しているのでしょう。しかし、北村の説は全体として鈴木明や東中野と大きくは変わらない(ティンパーリ資料の「発見」)し、笠原らは北村を否定派としているし、「北村は断固として否定派ではなく、中間派だ」とする出典はDalaibaaturさんの脳内にしかありません。--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 11:10 (UTC)
- 私は記事の文面について論じています。
- 自分のこの編集について、改めて点検してみましたが、「中間派」その他のレッテル単語は、私には見当たりません。さんぽーるさんには見えておられるようなら、取り除いてくださっても構いませんよ。
- 私自身が記事の本文で示した北村の分類の項目名はも、何度も繰り返しますが、「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」です。この中に「中間派」なる文字列は存在していません。にもかかわらすこの項目名が「断固として中間派」に分類しているように見えているとすれば、それはさんぽーるさんの気のせいです。この分類名称の典拠は「北村,2001」。この記事の主題に関する北村の専著『南京事件の探求』(文藝春秋, 2001)。この書物は私の脳内だけでなく、今でもそのへんの書店に存在しています。
- 被害者数に関する論者の分類は、本人の著作や発言(雑誌・論文などの記事)など本人自身の典拠に基づいて行われるべき。レッテル貼りは不要。
- (過去ログ3-24節の記述の一部再録)論争の当事者には、自身をふくめた論者たちをそれぞれの基準で分類・整理している場合が多い。ただしどんな基準で分類し、だれにどんな「○○派」のレッテルを使用するかは、論者と立場により非常に多彩である。「南京大虐殺論争」を俯瞰するうえで、さまざまな立場の論者たちそれぞれについて、「論争の当事者をどんな基準でどのように分類しているか」、および「自他にどんな「○○派」のレッテルを使用するか」を紹介することは、百科事典の記事として有為であるとおもわれるので、節を改めるなどしたうえで、レッテルの種類と使用者ごとの用法を典拠を明示したうえで紹介すること自体は、むしろ必要であると考える。この方向での増補には反対しない。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 11:27 (UTC)
- Dalaibaaturさんはこの発言で 2011年3月の投稿で、北村の位置付けを「否定派」から「中間派」に改めましたと言っていますが?その「中間派」に改める典拠がないのだから、脳内分類です。いつまでもページ番号を明記されないのも謎です。また、同編集で「2016年9月14日 (水) 17:35 (UTC)」から「2016年9月15日 (木) 08:34 (UTC)」へと時刻を改ざんする理由はなんでしょうか。
- 私も 2016年9月15日 (木) 12:10 (UTC)で「「論者の分類」については典拠を提示して詳細を書くべきである」と発言したとおり、それをセクションにして設置するのは賛成です。どうぞお書きください。--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 11:39 (UTC)
- 私は記事の文面を論じています。
- 北村の分類については、さんぽーる氏の「ゼロ:否定派」から、「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」に改めました。
- この分類の典拠は北村,2001です。
- 私が新たに設けた「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」という項目の文面には「中間派」という文字列は存在しません。さんぽーるさんには見えておられるようなら、取り除いても構いませんよ。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 15:07 (UTC)
- 以下は、次節にて「誠実な解答」をお求めになった質問への回答です。
- 2011年3月の投稿では、北村の位置付けを記事の文面で「虐殺否定説・まぼろし説」から「数千〜2万」に移動。2016年9月、この編集について「2011年3月の投稿で、北村の位置付けを「否定派」から「中間派」に改めました」と回顧。
- 「2016年9月の投稿」では、北村の位置付けを「虐殺否定・ゼロ」から「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」に変更。
- どちらの投稿でも、記事の文面には「中間派」なる単語は不使用。
- 記事の文面中に存在しない記述の典拠を記事中で表示する方法については、私にとっても「謎」です。よろしければ参考までに教えてください。記事の文面中に存在する記述の典拠を示す方法(=refタグなど)については知っています。
- 以上、「誠実に」お答え致しました。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 15:47 (UTC)
報告 北村稔は虐殺数の推定を行っていないので、戦時宣伝(プロパガンダ)説として別のセクションを設置し、移動しました。ティンパーリセクションと後でまとめます。--さんぽーる(会話) 2016年9月18日 (日) 06:03 (UTC)
報告 北村稔に関する記述の主要部を「主な論者とその特徴」に移動。北村の分類については「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」を復活。さんぽーるさんの上記セクションを解消。私が主として執筆した上記文面について「ティンパーリセクションと後でまとめること」は不要。さんぽーるさんが「ティンパーリセクション」を執筆する際に、北村に関する記述を何かあらたに書きおろすことについては、ご随意に。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月18日 (日) 10:42 (UTC)
「日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定」ですが、虐殺数の推定を行っていないので、不要です。また「主な論者とその特徴」とも重複なので不要。--さんぽーる(会話) 2016年9月18日 (日) 11:58 (UTC)
20日間、「要約」が提示されていない件について
[編集]前節の「2016年9月15日 (木) 08:34 (UTC)」の投稿ではさんぽーるさんの「分割」について「改めて異をとなえることはしません」と述べていましたが、撤回し、以下のように「異をとなえ」ます。
- さんぽーるさんは、この記事のノート(第24節)で「南京事件 (1937年)」との統合を提案しつつ、同時に30節では分割の提案を行い、そして反対のなかった後者について取り組み始めているようであるが、これから前者への賛成者が多数現れた場合、一体どうするつもりであるか。編集行動として異常。
- 「被害者数」について:この記事が対象としている論争は極めてセンシティブな問題なので、文面の取り扱いにはより慎重さが必要。それにしては、(私は自分が文章を作った北村稔に関する記述しかチェックしていないけれども、)「要約」の文面の作りがずさんで、不正確(詳細は前節の「2016年9月15日 (木) 08:34 (UTC)」の(2)「内容が不正確」を参照)。とりあえず旧分面を復帰し、あなたの要約案について、旧分面の主要部を執筆した人々にチェックを依頼してはどうか。
- 「論争史」について:「南京大虐殺論争」という記事において、論争史を「分割」した意図が不明。他のセクションを分割するにしても、ここに残すべきセクションでは?(こちらにおいて、利点と欠点について議論や検討がなされた形跡もなし。論争史を移動した結果、いつ、どんな論者たちがどのような議論をしたか、各論者はそれぞれどんな主張をする人々であるのか、議論の焦点、議論の推移……、この記事に目を通しても全く不明になった。20日過ぎても「要約」が提示されていないようだが、分割実行者には、なるべく早く「要約」の文案を用意するよう希望。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 05:58 (UTC)
- 統合は反対意見も多かったので、問題点を確認したいと私は述べて事実上撤回しています。賛成者が現れれば、議論します。「編集行動として異常」なことは何一つない。個人攻撃はやめよ。
- Dalaibaaturさんの「要約」もずさんであり、不十分です。旧文面の復帰をしたいなら、南京事件の被害者数で統合提案すればよい。先にいっておくと、分量のバランスからいって統合に反対。また、「要約」は合意形成を計ればよく、それを理由にした統合提案には明確に反対。
- 論争史の要約は非常に困難と思われたため作りませんでしたが、作ってみます。しかし、私の編集への疑問を述べるにとどまらず、個人攻撃をするまでにいたったDalaibaaturさんは、Wikipediaでは個人攻撃は禁止されていることを理解していますか?--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 10:35 (UTC)
- あなたが統合を提案したこの節の文面をいくらじっくり読んでも、あなたが提案を撤回しているようには読み取れません。「統合提案」が生きている状態のまま新たに「分割提案」を新たに行っているので、「統合と分割の提案を同時に行っている」となります。統合と分割という真逆の提案を同時に行っているので「異常」と評価しました。古い提案を取り下げるのなら、節の末尾で「この提案は取り上げます」とはっきりと明示すべき。「個人攻撃」と受け取る前に、この提案でのご自身のだらしなさを反省していただきたい。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 11:09 (UTC)
- Dalaibaaturさんが#論者の分類がおかしいで北村を中間派と編集したと発言していながら、本文にそれを記載していないことをもって話をすり替えることもだらしないので、猛省していただきたい。誠実な解答を待っています。--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 12:01 (UTC)
- 北村の分類に関するお尋ねについては、前節(=この差分の529行目)にて、誠実に解答しておきました。
- これから、何か提案をされる場合、特に以前とは真逆の提案をされる折には、旧提案の方をちゃんとクローズしてくださいね。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 15:39 (UTC)
- Dalaibaaturさんが#論者の分類がおかしいで北村を中間派と編集したと発言していながら、本文にそれを記載していないことをもって話をすり替えることもだらしないので、猛省していただきたい。誠実な解答を待っています。--さんぽーる(会話) 2016年9月17日 (土) 12:01 (UTC)
- あなたが統合を提案したこの節の文面をいくらじっくり読んでも、あなたが提案を撤回しているようには読み取れません。「統合提案」が生きている状態のまま新たに「分割提案」を新たに行っているので、「統合と分割の提案を同時に行っている」となります。統合と分割という真逆の提案を同時に行っているので「異常」と評価しました。古い提案を取り下げるのなら、節の末尾で「この提案は取り上げます」とはっきりと明示すべき。「個人攻撃」と受け取る前に、この提案でのご自身のだらしなさを反省していただきたい。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月17日 (土) 11:09 (UTC)
(インデント戻し)さんぽーるさん。「論争史」を分割提案の対象とした理由について、「分量肥大につき」以外の理由もありましたら、挙げていただきますよう、よろしくお願いします。--Dalaibaatur(会話) 2016年9月18日 (日) 10:55 (UTC)
加筆が予想され、また加筆が必要であることも理由です。加筆に協力してくだされば幸いです。--さんぽーる(会話) 2016年9月18日 (日) 12:20 (UTC)
「史実派」
[編集]大虐殺派を史実派として書きましたが、これは笠原個人の見解であり、中立的観点からも問題があり、および流通という点でも一般的とはいえないので前段での説明、および笠原本人の自称の部分のみとします。中立的観点からは、大虐殺派を史実派とするなら、「南京の真実」を主張する否定派が「真実派」となりかねません。--さんぽーる(会話) 2016年9月19日 (月) 12:29 (UTC)
『眞相はかうだ』修正依頼
[編集]『眞相はかうだ』p33の2行目から3行目にかけて「『南京においてかく多数を惨殺し、また財産を掠奪した●●の徒はこれを捕縛した上厳罰に処されました。」の●部分が判読できません。判読できた方は修正してください。--さんぽーる(会話) 2016年10月18日 (火) 14:39 (UTC)
陣中日誌の表
[編集]陣中日誌の表が見やすさを阻害しているので、テキストにしました。--さんぽーる(会話) 2016年10月26日 (水) 15:46 (UTC)
捕虜殺害命令説
[編集]捕虜殺害命令説で陸支密第198号と三笠宮崇仁親発言を書いてあるが、関連性不明、また「虐殺の対象」セクションと重複につき、「虐殺の対象」へ移動。--さんぽーる(会話) 2016年10月26日 (水) 16:14 (UTC)
昭和天皇の弟である三笠宮崇仁親王は陸軍将校だった経験から、戦後「私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。また、(日本軍が毒ガスの実験台に中国人捕虜を犠牲にした例にふれ)これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。(1941年の北京駐在の日本軍司令官は)軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。(中略)日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと聞きました(後略)」「THIS IS 読売」1994年8月号 54‐55頁。
これは南京事件と関連性不明。731部隊や日中戦争で記載すべきことです。--さんぽーる(会話) 2016年10月26日 (水) 16:29 (UTC)
了解です。皇室は捕虜殺害と無関係と強調したかったのですが、先走りすぎでした。ありがとうございます。--Japanese sincerity(会話) 2016年10月28日 (金) 15:05 (UTC)
プロパガンダ説について
[編集]さんぽーる(会話)さん 貴方のプロパガンダについての記述は、非常に熱がこもっていますが、事実と誇張、プロパガンダと捏造は異なります。プロパガンダが誇張に変わった場合の弊害はわかりますが、ここまで量が多いと、事実と誇張の部分は整理してもいいと思います。どうでしょうか?舌足らずですが。--Japanese sincerity(会話) 2016年11月14日 (月) 15:45 (UTC)
プロパガンダ説の最初に、「南京事件は事実発生した事件を、日本に対する批判として、しかも事実というより誇張も含めたプロパガンダとして中国政府及び連合国側が宣伝した事実があります。結果的に、そのことが、事件の誤った情報宣伝になったといっても過言ではありません。」と書き、残りは要約と本文にわけて、本文は別サイトとして頁を作ってはどうでしょう。--Japanese sincerity(会話) 2016年11月19日 (土) 09:22 (UTC)
反対 提案された冒頭文は意味が分からないので反対します。分割にも反対。どこまでが事実で、プロパガンダかは論争の主要な争点です。分割理由とはなりません。--さんぽーる(会話) 2016年11月19日 (土) 13:35 (UTC)
さんぽーる(会話) さん ただ、貴殿のサイトでは、どこまでプロパガンダで誇張されたか、不詳です。南京事件はプロパガンダでできた物語でなく、事実は事実として、それが誇張されたわけです。そのように明確にみえにくいのですが。--Japanese sincerity(会話) 2016年11月20日 (日) 23:32 (UTC)
- どんなおかしな情報源を使っているのかとおもえば産経新聞のサイトじゃないですか。さすがにこれはJapanese sincerity氏の言いがかりでしょう。たしかに報道機関としての傾向はあると思いますが、報道機関に対する批判はwikipediaやそれを引用するwikipedianに対して行うのではなく、外部の信頼できる情報源でその批判を行ったうえで引用するべきでしょう。産経新聞からの引用なので分割すべきだという主張についても編集方針に対する不誠実さを感じます。--大和屋敷(会話) 2016年11月21日 (月) 02:11 (UTC)
大和屋敷(会話)さんぽーる(会話) さん 産経新聞とは知りませんでした。考えるとこありますが、議論が広がらない以上、いったん引きます。--Japanese sincerity(会話) 2016年11月21日 (月) 14:56 (UTC)
「貴殿のサイト」?私のサイトは情報源として使用していません。また、産経だけを情報源としていません。脚注に情報源は書いています。産経新聞はマクヒュー資料について使いましたが、Japanese sincerityさんはその箇所をいっているのですか?南京事件はプロパガンダとする主張があり、南京事件はプロパガンダでなく事実とする主張の両方を書くべきですが、「南京事件はプロパガンダではない事実である」とする主張の紹介は南京事件 (1937年)および当記事の関連記事で紹介されています。プロパガンダセクションは、プロパガンダとしての側面からの説明です。例えば有馬哲夫はGHQのブラックプロパガンダと論じていますが、肯定派が有馬説を新しい証拠を出して批判しているならそれを記載すればよい。事実説が足りないなら書くといいです。--さんぽーる(会話) 2016年11月23日 (水) 12:18 (UTC)
さんぽーる(会話) さん 貴殿のサイトでなく、貴殿の書き込みでした。あわてて書いて、誠にすみません。いずれにしろ、さんぽーるさんの趣旨を考慮して行動します。とりいそぎ。--Japanese sincerity(会話) 2016年11月24日 (木) 15:25 (UTC)
さんぽーる(会話) さん 一部、プロパガンダを編集しますが、整理しないと突出してみられることのため、が趣旨です。意見あれば、貴方が修正してもかまいません。--Japanese sincerity(会話) 2017年3月11日 (土) 05:04 (UTC)
外部リンク修正
[編集]編集者の皆さんこんにちは、
「南京事件論争」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。
編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。
ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月27日 (水) 20:44 (UTC)
極めて読みにくい本記事の構成と編集の杜撰さについて
[編集]wikipediaは書き手(編集者)の主張の場ではなく百科事典なのですから、一つの節・章に際限なく文章を書き連ねて長くするのは止めて頂けませんか? 情報の整理が全くされておらず、もはやこれは記事としての体裁を備えていないのではないでしょうか。 記事を見てみると、「~という意見がある」「~という意見がある」がこれでもかというくらいに全体を埋め尽くしていますが、あらゆる論者の意見を全て網羅していく編集方針なのでしょうか? また、本記事で取り上げられている論者、取り上げられている論の内容は、どういう基準で選定されているのでしょうか? 現状編集者の意図のままに編集者が知る限りの情報を思いつきで文章が延々と書き足されているのでしょうか? そんな馬鹿なことがあるわけないですから、どの論者を取り上げるか、取り上げないか、の明確な基準をわかりやすく示して下さい
2018年6月10日 (日) 05:09 (UTC)
- 自分もほぼ同じ意見です。ざっと見ただけですが、虚偽出典や作話 (捏造) を発見してしまいました。時間があまりないので、とりあえず、{{Wikify}}と{{未検証}}を添付しておきます。Takabeg(会話) 2019年3月24日 (日) 14:12 (UTC)
反日感情からのコピペ
[編集]特別:差分/72138234ですが、これは反日感情からのコピペです。ノート:反日感情においてWikipedia:ページの分割と統合の分割の提案が為されていませんので差し戻します。Takabeg(会話) 2019年3月26日 (火) 13:40 (UTC)
「疑問ある写真(虐殺否定派への反論)」という箇所の虚偽出典と独自研究
[編集]水間政憲
[編集]『週刊朝日』、『毎日新聞』、『神戸新聞』の記事には"「南京歴史戦」ポストカード"という用語も南京という文字も見当たりません。また、『毎日新聞』、『神戸新聞』には水間氏への言及が無く、水間氏に言及した『週刊朝日』も「ハガキが届き始めた当初は、中国に進駐した旧日本軍が、現地で歓迎されているように見える写真などが印刷されたポストカードに、短い抗議文が書かれていたものがほとんどでした。ポストカードには『プロデュース・水間政憲』と書かれていました」としか書いていません。しかも、「水間氏は「知らない」と関与を否定した」となっています。水間氏のサイトや和田孫博氏のエッセーにより詳しい情報 (「南京陥落後の難民区の市民が日本軍を歓迎したり日本軍から医療や食料を受けたりしている写真葉書で、当時の『朝日画報』や『支那事変画報』などから転用した写真」とか「南京歴史戦ポストカードで対抗しましょう」とか) がありますが、自己公表された情報源なので信頼できる情報源と見做されるか疑問です。ウィキペディア利用者が個人的に知った話や信頼できない情報源と、『週刊朝日』、『毎日新聞』、『神戸新聞』の記事とを合成して作話しているので、独自研究になります。より詳細に記述している「独立した二次資料」を発見して忠実に記述したとしても、「疑問ある写真(虐殺否定派への反論)」という小見出しとはうらはらに、写真に対する疑問が示されていませんし、当該「事件」が南京事件論争という記事にとって特筆性のある出来事であるとは到底みなされません。学び舎の教科書 (現時点では記事がないようです) や水間政憲といった記事にとって特筆性があるか否かも意見が分かれるところでしょう。
佐藤振寿
[編集]水間氏の『完結「南京事件」日米中「歴史戦」に終止符を打つ』の表紙の写真が12月15日に佐藤振寿氏によって撮影されたものである点は確認できます。しかしながら、「佐藤振寿報道員は、前日14日や翌日16日に(写真にはもちろんとられなかった)捕虜虐殺や敗残兵と見られた者(家族と見られた女性が泣きつく様子もあり、一般人も紛れたか)の連行(その後、安全区外で処刑されたらしい)があったことを証言する」というのは不味いと考えます。佐藤氏がそう証言していないからです。恐らくウィキペディア利用者が「八十八師営庭の中国兵"処断"」と「中国の女に泣きつかれる」の内容を読んで感想を書いたものであると推察します。佐藤氏は「彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と同じ服装をしていた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろうと答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた。」とあるように、「連行」の写真は撮影しており、『上海・南京 見た撮った』にも掲載されています。したがって、「写真にはもちろんとられなかった」というのは間違いです。また、八十八師営庭で目撃したできごとについて、井家又一氏の日記を紹介したあと、「難民区から敗残兵を駆り立てた時の様子が如実に書かれている。便衣に着かえた中国兵を"処断"する情景を描いた他の兵士の日記もあるが、私は現場を見ていないので評論する資格がない。私が自信を持って書くことができるのは、この眼で見た八十八師の営庭での敗残兵の"処断"だけである (『南京戦史』618頁) 」と書いています。捕虜虐殺とも捕虜処刑とも書いていません。それに続いて、歩七の戦闘詳報 (敗残兵六、六七〇人刺射殺)、伊佐大佐の日記 (六千五百名ノ残兵ヲ厳重処分ス)、歩七の参戦者と『南京戦史』編集委員会との再会談の際の見解、昭和63年末の土屋正治氏の質問に対する伊佐氏の回答、に言及しています。なお、佐藤氏は「当時、現場の僕たちは新聞が読めないから、何が不許可になったのか、一切知りませんでした。当時、撮っても検閲に通らないと教えられていたのは、日本兵でも中国兵でも死体の写真でした。他は何もなかった。戦車などの写真も、ある程度いけないと思いましたが、万が一許可されるかもしれないと思い、角度を変えたりして、撮っていました。が、そもそも検閲とか不許可ということは、あまり念頭になかった。」と書いています (「従軍カメラマンの証言 佐藤振寿さん (元東京日日新聞写真部員)」『永久保存版 シリーズ 20世紀の記憶 別巻1 不許可写真1-第2次上海事変から日中戦争へ』毎日新聞社、2000年4月1日発行、204頁) 。佐藤振寿、南京事件の証言などに正確な形で加筆するのは結構です。しかし、証言していないのに証言したと強弁し、「必ずしも和やかな写真が南京の全ての真実の姿でない可能性も記述に残している」というウィキペディア利用者による作文を導きだすのは独自研究です。
マッカラム
[編集]マッカラムが書き留めていた手紙とされるものの1月9日の部分を見る限り (146D 1937-38年冬季の日本軍南京虐殺に関する報告、1942年3月ワシントンDC、266頁)、「難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、(中略)、こちらの写真は一枚も撮らなかった」という箇所は、「二次資料」ではないので使用不可とする利用者もいるでしょうが、記述内容としては間違っていないと思います。ただ、現行のサブタイトルの下では使えないでしょう。いずれにしても、マッカラムは「日本軍に都合の悪いシーンは撮影していない」と述べていませんので、これも利用者による作文で独自研究とみなされます。
林謙一
[編集]「「南京歴史戦」ポストカード」の写真を何枚も撮影した林特派員とは、東京日日新聞記者・南京への特派員そして年明けの1月から内閣情報部事務嘱託になった林謙一(戦後の人気朝ドラ「おはなはん」の原作者であり、モデルヒロインの実子)であるが、」というのは変です。まず、「(戦後の人気朝ドラ「おはなはん」の原作者であり、モデルヒロインの実子)」なんて書くべきではないです。佐藤振寿氏が "処断"を目撃した場所に「棚橋部隊」の札がかかっていたからといって 「(部隊長の棚橋真作は、紀里谷和明の祖父)」 なんて書くべきではないのと同じことです。そもそも、「写真を何枚も撮影した林特派員」が林謙一氏だと誰が言っているのですか? 水間氏の著書に「林特派員撮影」とある写真が掲載されていることは事実です。この林特派員は東京朝日新聞写真部の林武雄氏です (111頁の中段右から四人目)。東京日日新聞社会部の林謙一氏が海軍省記者倶楽部黒潮会会員で9月中旬に上海に派遣され、1938年に情報部に入ったのは事実です。しかし、ウィキペディア利用者は、東京朝日の林武雄氏を東京日日の林謙一氏であるかのごとくすり替えています。また、提示されている資料は、Google booksでも読めますが、当該箇所を示しておきます:「内閣情報部に所属し同誌の編纂に携わった林謙一は、同誌創刊の契機について、中国政府の宣伝担当の切れ者のしかけで「上海付近の片田舎のプラットフォームで焼けただれた一歳半ぐらいの赤ん坊がいたのを写真にして、日本軍の虐殺行為の証拠だと、全世界にばらまいた」という出来事を上げている。そして、これをきっかけに日本品ボイコット運動などが起こり「さんざんな目」にあい、これに対抗すべく「視覚による対外宣伝を拡充すべき」こと、「目で見せて、理解を得る」ことの重要性を政府が認識した、と証言している (竹内幸絵「第4章 二つの東京オリンピック―広告グラフィズムの変容とプロパガンダ」坂上康博/高岡裕之編著『幻の東京オリンピックとその時代: 戦時期のスポーツ・都市・身体』2009年9月16日、青弓社、ISBN 978-4-7872-2036-3、147頁)」。上海南駅の赤ん坊でなら利用できると思います。最後の部分「その後多くの日本の市井の人々が安価で読むこととなる写真雑誌(写真週報:日本政府の宣伝用写真雑誌)の編集に携わることから、彼の写真にもプロパガンダの要素が皆無とは言いにくい可能性もある」というのも、ウィキペディア利用者による作話です。そもそも、写真への疑問でも反論でもなんでもありません。
結論
[編集]以上のことから、「疑問ある写真(虐殺否定派への反論)」という部分は虚偽出典及び独自研究による作文としか考えられず、全て除去されるべきです。Takabeg(会話) 2019年3月27日 (水) 13:11 (UTC)
ミスであっても、間違いについては謝罪します。ただ、全てを「虚偽出典及び独自研究による作文」とまで言われるのは異論あるも、ミスも含めて、貴方のお考えにそって対応いただいてかまいません。この場は参加者の意見を尊重すべきですから。--Japanese sincerity(会話) 2019年3月27日 (水) 13:37 (UTC)
50.万人以上?
[編集]2007年12月6日 付の人民日报に掲載されているRG59—793.94/12207 が当該報告書です。ドッド在独合衆国大使 (William Edward Dodd 1869—1940) からルーズヴェルトに宛てられたものですが、「南京デルタ」ではなくて「揚子江デルタ」と書かれています。この頃、ドッド大使は罷免され本国召還が決まっていました。人民日報に書いてある東郷茂徳は着任しておらず、当時の日本大使は武者小路公共でした。完全な事実誤認です。ドッドの日記を確認してみると、日本大使と会ったという記述はありません。程天放とは可成り懇意のようで頻繁に会っています。程はドッドに「シカゴ大学で学んでいたときから大使 (当時はシカゴ大学教授) のことを存じあげていました」と言ったそうです。程以外ですと、ノイラートとも割と会っています。ノイラートが日本大使から聞いた話と自身が程から聞いた話が違う、というようなことが書かれていますが、上海戦のころの話です。ドッド大使には、ウィリアム・E・ドッド・ジュニア (William E. Dodd Jr.) という息子とマーサ (Martha Dodd) という娘がいました。NKVDエージェントのボリス・ヴィノグラードフはマーサをリクルートするよう命令を受け、愛人となりマーサを諜報活動に引き込むことに成功しました。アレン・ワインスタイン (Allen Weinstein) と アレキサンダー・ヴァシリエフ (Alexander Vassiliev) の共著『アメリカにおけるソヴィエトの諜報活動―スターリン時代』 Allen Weinstein and Alexander Vassiliev, Soviet Espionage in America - The Stalin Era, Random House, December 22, 1998, ISBN 978-0679457244, pp. 56-57. に、マーサからスルツキーへのメモが掲載されており、マーサはスルツキーに、「今現在、私は、父と合衆国国務省や合衆国大統領との私信や信書にアクセスできるの。私の軍事や海軍や空軍に関する情報源は、専ら我が大使館職員との個人的な接触からなの。」と言っています。これが、ジョゼフ・E. パーシコ (Joseph E. Persico) の手にかかると、「マーサはドッド大使のルーズヴェルトへの報告書をチェックしていた」となります (Joseph E. Persico, Roosevelt's Secret War: FDR and World War II Espionage, Random House Publishing Group, October 9, 2001 978-0375502460)。なんだかヴェノナ文書みたいなお話になりそうです。ドッド大使は"Dupes"といったところでしょうか。12月13日以前に「南京大虐殺」のシナリオが描かれていたなんてことが判明すれば、それはそれで面白いのですが、そうした信頼できる二次資料は発見できませんでした。そこまで、日本関連の暗号文解読が進んでいないとうことなのでしょうか。いずれにしても、「50万人以上」は、範囲も違いますし、独立した信頼できる二次資料で提示されておりませんので、除去です。Takabeg(会話) 2019年3月28日 (木) 12:33 (UTC)
写真の撮影場所
[編集]「ちなみに、旧日本軍の南京占領時の中国人の南京にて平和に暮らす人々や日本軍と交流する姿を撮影した、当時の日本側の報道写真の多くは、難民区(安全区)つまり、日本軍人の立ち入りが制限され、南京の多くの民間中国人が避難している地域、しかもその安全な居住を欧米人の南京安全区国際委員会が守っていた場所で撮影された 「支那事変画報」第15集等 偕行社「南京戦史 II」」。」という箇所ですが、写真集を見た感想を利用者が述べるのは、独自研究です。Takabeg(会話) 2019年3月28日 (木) 13:11 (UTC)
分割提案: 脚注整理
[編集]南京事件とは直接関係の無い記述で冗長なものを適切な記事に移転することを提案します。移転先に既に同様の記述がある場合は結果的に除去ということになります。まず、第一段として、以下のものを検討してみてください。他にも分割提案があれば追加していってください。註釈には、高橋文雄「経済封鎖から見た太平洋戦争開戦の経緯 ―経済制裁との相違を中心にして―」(pdf文書)からのコピペも結構ある感じがします。
1. 「当時、戦争に新たに加わった無差別攻撃が空爆であり、スペイン内戦のゲルニカ爆撃が最初であった・・・つまり、日本の空爆は、人的被害の過多に関わらず、個別非難を決議すべき国際法的な理由があった」をゲルニカ爆撃、渡洋爆撃へ。さすがに、碇順治『現代スペインの歴史』彩流社、2005年、p.55 には、南京事件の記述は無いでしょう。
2. 「鹿地亘は中国の国民党地区で反戦運動を行っており、日本兵捕虜を組織した・・・倉前盛通は、この青山証言から連合国側は事前に真珠湾攻撃を知っていたと主張している」を鹿地亘へ。さすがに真珠湾攻撃は。。。
3. 「旅順虐殺事件についてニューヨークワールド紙特派員ジェイムズ・クリールマンが、・・・婦女子は殺されていないとするフランス武官ラブリ子爵の証言を報告している」と「旅順虐殺事件は日清戦争時の旅順戦の敗残兵掃討戦において発生したとされる事件で、・・・など、日本の研究者では虐殺は史実であるとされる」を旅順虐殺事件へ。「秦郁彦や一之瀬俊也は旅順事件を南京事件と比較している」は残せると思います。本来、南京事件との比較の内容こそが本記事にとり重要なのですが、無関係な事実の羅列ばかりで残念。
4. 「「田中上奏文」は日本が世界征服するためには中国、満州、蒙古を征服しなければならないという内容の文書で・・・田中上奏文の作成経緯については王 家楨やソ連、日本軍人の談話など諸説がある」を田中上奏文へ。 Takabeg(会話) 2019年4月2日 (火) 11:38 (UTC)
済 ゲルニカ爆撃、渡洋爆撃、青山和夫、鹿地亘、田中上奏文へ分割移動。Takabeg(会話) 2019年4月10日 (水) 14:21 (UTC)