ノート:創価学会/過去ログ10
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新型コロナウイルスの感染拡大を受けた対応の一覧について
[編集]該当項目が加筆されているのを確認しておりますが、その項は百科事典として必要な内容なのでしょうか。また、該当項を含む部分も、出来事を羅列しているだけに過ぎず、こちらも百科事典としてわざわざ掲載すべきでないものも多く含まれるのではいかと考えます。どちらかというと活動記録じみたもの、あるいは創価学会における宣伝目的のような感じにも見うけられます。--静葉(会話) 2021年3月28日 (日) 19:49 (UTC)
新型コロナウイルスの感染拡大を受けた対応の一覧の除去提案
[編集]内容が過剰なため新型コロナウイルスの感染拡大を受けた対応の一覧の削除を提案させていただきます。コロナ禍で活動やイベントが中止、延期、縮小しているのは創価学会だけではないと思います。内容も学校に例えるとコロナの影響で修学旅行や入学式、卒業式を中止した程度のもの、企業で例えるならコロナ対策でテレワーク実施しましたとか株主総会を縮小しましたという程度で該当する企業や学校のwikipediaには載っていません。また新型コロナウイルスの感染拡大を受けた対応の一覧出典もほとんどが創価学会のHPです。ページに載せたい気持ちも分かりますが、これは明らかに内容過剰です。今後さらにコロナ禍が進めばページの肥大化も招きます。いくら出典があっても載せるには不適切だと思われますがいかがでしょうか?--事件簿マニア(会話) 2021年3月28日 (日) 20:30 (UTC)
- 除去と違うんですか?削除なら削除依頼のほうになりますが。Wikipedia:ウィキペディア用語集#さ行にありますけど、削除は「過去の版の履歴も含めてページを消し去ること。」、除去は「編集によって記事中のある記述を取り除くこと。」という意味になりますので。Wikipedia:過剰な内容の整理#ノートは積極的に使うでも「記事の整理において、なにが過剰でなにが不要であるかの判断基準は個人差があります。編集作業には他の編集者への配慮が必要であり、ウィキペディアは何ではないかに反しているかが曖昧な記述を除去する場合は、ノートページでの合意形成を経てから編集に移るように心掛けてください。」「ただし、明らかな独自研究や著作権侵害、人物に対する出典無き批判が書かれている場合は、その記述は議論を経ずに除去して構いません。」とあります。で、今回の件は(今のところ)前者になりますので確実に合意形成を経るためには{{告知}}はしておいたほうがいいと思います。Wikipedia:コメント依頼#合意形成のためのコメントに出すのも手です。その上で、この提案に至る根拠の「これは明らかに内容過剰です。」との判断が「ウィキペディアは何ではないか」に明らかに反していると読み変えるとして、「そう思わない」との反論があれば、では方針上どこが有用であるのか説明してもらうことになりますし、漠然と除去に反対しても合意形成にはノーカンでいいと思います。--市井の人(会話) 2021年3月28日 (日) 22:30 (UTC)
- 提案の節名を訂正した上で告知貼りつけ(カテゴリに載りますので)とコメント依頼に出しておきました。目安として1週間待って合理的な反論がなければ合意形成に至ったとみなせるでしょう。--市井の人(会話) 2021年3月28日 (日) 22:56 (UTC)
- 市井の人さん、削除と除去の丁寧な説明や題名の訂正、提案告知など私が不足した部分の手配、お手数をおかけして申し訳ございません。ありがとうございました。--事件簿マニア(会話) 2021年3月28日 (日) 23:16 (UTC)
- いえいえ。ついでに私なりの根拠を述べて 賛成 といたします。まず、Wikipedia:独立記事作成の目安#対象と無関係なとは言えない出典に基づく記述は内容的にも除去でいいと考えます。残りの一部分も対象と無関係な出典に基づく記述であっても他の宗教との比較でしかありませんから(これ、ちなみに出典側の観点にも一部問題がありそうです)、Wikipedia:過剰な内容の整理#箇条書きには文脈を持たせるにある「一部の文章を別節に組み込んだり」するまでもなく、創価学会#新型コロナウイルスの感染拡大を受けた対応・活動(紛らわしいですが一覧の節とは異なります)のほうにある概要で十分でしょう。いずれにしても一覧というのは善意のつもりで(掲載基準などない)取るに足らない加筆の便乗を招くので考えものです。--市井の人(会話) 2021年3月29日 (月) 07:25 (UTC)
- 市井の人さん、削除と除去の丁寧な説明や題名の訂正、提案告知など私が不足した部分の手配、お手数をおかけして申し訳ございません。ありがとうございました。--事件簿マニア(会話) 2021年3月28日 (日) 23:16 (UTC)
- 私の視点からして、創価学会#沿革の項そのものがかなり雑多になっているという印象ですが、そちらはさておき、件のコロナウイルス関連において、創価学会がどのような対策を取っているのかというものは、百科事典に記載するに相応しくなく割とどうでもいい、という印象を持っています。創価学会のみならず、数多くの企業や団体その他が対策を取っているわけですし、それを各記事にわざわざ書く必要性はないでしょう。そもそも、どのような対策を取ったのかというのと、本当にそうした対策が有効なのかどうかについては別次元の話でもありますし、また、対策をこのように講じているという記載が創価学会に対するいい意味での印象操作、つまり宣伝目的に繋がりかねないのではと深読みもしてしまいますね。実際に該当部分を除去するかどうかについては、私は明確な判断はこの場では避けますが、前述のように不要であると考えてはいます。もう少し他の方々の意見をお伺いしたく思います。--静葉(会話) 2021年3月29日 (月) 20:32 (UTC)
- 何らかの表彰を受けたとか、(よくも悪くも)大きな動きの起点となったとか、でなければ一々詳しく書くべきではないと思います。年一回の集会が例年と違ってオンライン開催になった、というような類の記述くらいは、あっていいような気がしますが、それも「社会貢献活動」内の一文で十分かなと思います。 --2001:240:241C:1B4B:7974:2316:EB76:D970 2021年3月30日 (火) 11:41 (UTC)
報告 皆様ご意見ありがとうございます。特に反対意見もなく1週間の告知期間を経て、本提案は合意形成済みの決定事項になりましたので除去を行いました。ちなみに「創価学会#新型コロナウイルスの感染拡大を受けた対応・活動」節のほうで『(後述)』とされた除去対象の節へのリンクも併せて除去しました。これについて後述と振ったことで省いた内容があったのでしょうが、そのような当初の前提を改めようと、残っているほうの節へ記述復帰することはおやめいただきたいと思います。新たな内容を加筆する場合においても正確性「信頼できる情報源を用いて、中立的な観点から記述」が条件となります。これは今回、他の記述(列挙)においても懸念がある宣伝目的にあたるかにもかかわることでしょう。そもそも創価学会は広宣流布といった喧伝や顕彰に繋がる情報発信が信条なのは言うまでもありません。それだけに素直な成り行きと割切って言うのですが、要するに善意にとればこそ「ここがすごいぞ創価学会」全般が取り扱い注意になるわけです。ということで今後は「ウィキペディアは何ではないか」はもちろんのこと前述の意味での正確性(特にWikipedia:中立的な観点#観点の中立とは何ではないか)を守っていただけるなら、百科事典にとって有用な内容に絞り込まれ、方針に沿った記事の成長を見守れると思います。--市井の人(会話) 2021年4月5日 (月) 03:07 (UTC)
教勢への追加
[編集]現状、「創価学会が大勢力となった要因」として、宗教学者の島田裕巳氏の指摘が記載されています。 補足のため以下の通り、ジャーナリストの田原総一朗氏の、同様の指摘も掲載したいと思いますが、いかがでしょうか。
「ジャーナリストの田原総一朗は、「創価学会の〝強さ〟の秘密」について、3点にわたって指摘している。 1つ目は、「池田大作が持つ魅力と、彼と学会員との強い絆」である。池田の判断力や決断力とともに、「多くの人を惹きつけてやまない人間的な魅力こそ、創価学会を支えている」と述べ、さらに「池田を学会員一人ひとりが敬愛し、絶対的に信頼している。そして自分たちが彼と身近な次元でつながっているという実感を抱いているのだ。この一体感が学会員と創価学会を強く結びつけている。それは日本を超えて世界にも広がっている。この結束が崩れないかぎり、創価学会は今後も健在なのだろう」としている。 2つ目は、「座談会など、一人ひとりの学会員が尊重される活動システム」である。定期的に行われる座談会で、学会員たちは自身の苦悩を吐露し合い、互いにそれぞれの話に対し親身に耳を傾け、励ます。座談会に出席することで、自分は大切にされている、認められているという実感を得られると指摘。「自分一人の力ではどうにも解決できない悩みに直面し傷ついた学会員が、周囲の励ましを受け生きる力を取り戻す、座談会はそうした回復力も与えてくれるようだ。創価学会には『一人を大切にする』という言葉があると聞く。こうした一人ひとりを尊重する座談会という運動を、創価学会は世界中で地道に展開している」と述べている。 3つ目は、「宿命転換」という仏法の教義である。「学会員はみな、宿命転換を目指して日々、勤行を続けている。たとえ信仰を深めても、病気や家庭不和、仕事上のトラブル、子育ての苦労など、日々の悩みや苦しみは尽きることがない。学会員はその苦悩の原因を自分の『宿命』にあると受け止め、自己の内面を変革することによって苦悩が解決でき、幸福になれると考えている。深刻な苦悩を抱え、絶望を感じることは誰にでも当然あるだろう。そうしたときでも学会員にとって信仰とは、それを解決できる心強い支柱になっているようだ。どんなときでも希望をもつことができる、その源になっているのが『宿命転換』の教え」「学会員は『どう生きるべきか』『どう死について考えるか』という問いへの答えを宿命転換や三世の生命観に求めている。それが人生を前向きに生きるための希望となっているのであろう」と指摘している。」 (田原総一朗『創価学会』毎日新聞出版)--りゅうじ0105(会話) 2021年4月26日 (月) 14:43 (UTC)
- 一人の意見をあまり長く書き過ぎるのはよくありません。もう少々簡潔に(1文か精々2文程度に)まとめた方がいいかと思います。別の手段としては色々な人が書いた関連意見・対立意見を複数まとめていく方法もあります。 --2001:240:241A:EB21:5CE6:C5FC:D10F:7860 2021年5月4日 (火) 09:52 (UTC)
島田氏の関連意見として、田原氏の引用の掲載を提案しています。なので、島田氏の指摘と同じ程度の長さにして、追記したいと思います。--りゅうじ0105(会話) 2021年5月11日 (火) 15:06 (UTC)
報告ご意見ありがとうございました。1週間の告知期間を過ぎて、上記の提案は合意形成済みの決定事項となりましたので、提案通りに追記を行いました。--りゅうじ0105(会話) 2021年5月23日 (日) 15:09 (UTC)
教義・理念への追加
[編集]「教義・理念」に、島田裕巳氏の書籍の引用が掲載されています。同様な形で以下のように、田原総一朗氏の見解も載せたいと思いますが、いかがでしょうか。
「田原総一朗は、学会の草創期において排他的な態度が見受けられたことについて、「信仰を広めるために他宗教を否定する、これは草創期の新宗教においてやむを得ないことだ。おそらくどこの宗教団体も同様の活動をしていただろう」と述べている。田原はまた、学会が日蓮正宗(宗門)と決別してからは、地域活動が活発になった点を指摘する。「例えば、地域のお祭りでお神輿も担ぎ、町会役員や学校のPTA役員も引き受ける。さらに、交通安全週間の行事にも参加するなど、ありとあらゆる地域活動に参加している」「宗門と別れたことで、世界広布、地域との融合など、新たな布教の形を見出した」と述べている。」(田原総一郎『創価学会』毎日新聞出版) --りゅうじ0105(会話) 2021年4月26日 (月) 15:08 (UTC)
- これは教義・理念というより活動実態の一側面を述べたものと言えると思います。「創価学会#組織活動」が近いでしょうか。 --2001:240:241A:EB21:5CE6:C5FC:D10F:7860 2021年5月4日 (火) 09:54 (UTC)
そうですね。その意味では、掲載されている島田氏のコメントも教義・理念には即していないように思います。ご提案いただいた「#組織活動」も検討しましたが、「#他宗との関係」の方がより近いようですので、そちらに今回の追加案と島田氏のコメントを移したいと思います。--りゅうじ0105(会話) 2021年5月11日 (火) 15:07 (UTC)
報告ご意見ありがとうございました。1週間の告知期間を過ぎて、上記の提案は合意形成済みの決定事項となりましたので、その通りに実行しました。--りゅうじ0105(会話) 2021年5月23日 (日) 15:09 (UTC)
政治との関係への追加
[編集]「政治との関係」で、塚田穂高氏、野田毅氏、島田裕巳氏の書籍の引用が掲載されています。同様な形で以下のように、佐藤優氏の見解も載せたいと思いますが、いかがでしょうか。 〈一方、佐藤優は「国立戒壇の問題と言っても、現在、創価学会は宗門(日蓮正宗)と訣別しているわけだから、宗門の教義である『国立戒壇の問題』が、もはや存在しないことになる。すなわち、公明党と創価学会には日蓮正宗を国教化する狙いがあるという、批判者たちの論理の前提が崩れているのだ」としている。〉--りゅうじ0105(会話) 2021年5月13日 (木) 15:30 (UTC)
報告1週間の告知期間を過ぎて、上記の提案は合意形成済みの決定事項となりましたので、追加を行いました。--りゅうじ0105(会話) 2021年5月23日 (日) 15:09 (UTC)
「政治との関係」の中の「自由民主党との関係」で、島田氏の書籍からの引用が掲載されています。同じ程度の分量で、佐藤優氏の見解も載せたいと思いますが、いかがでしょうか。 〈佐藤優は、2014年7月の集団的自衛権行使容認の与党協議に関して「公明党が ブレーキ役として与党にいなければ、憲法に制約されない集団的自衛権の行使を容認する ことが閣議決定されていたと思う。」「閣議決定に賛成したために、公明党は「平和の党 の看板に傷がついた」「平和主義の看板を下ろした」などと批判された。連立政権を離脱 して、きれいな平和論を主張するという選択肢もあったはずだ。もし、公明党がその選択 を行っていたならば、私は、公明党の平和主義は本物ではないと批判したと思う。平和の 党の看板に傷がついても、現実に戦争を阻止し、平和を維持することが重要なのである。 少なくとも現時点では公明党はその機能を果たしている。」としている。(「創価学会と 平和主義」)〉--りゅうじ0105(会話) 2021年5月26日 (水) 13:03 (UTC)
報告1週間の告知期間を過ぎて、上記の提案は合意形成済みの決定事項となりましたので、追加を行いました。--りゅうじ0105(会話) 2021年6月5日 (土) 15:13 (UTC)
日蓮系教団との関係への追加
[編集]「日蓮系教団との関係」の中の「昭和52年路線」に、日蓮正宗と創価学会の対立の経緯が記述されています。その背景について、佐藤優氏の見解も載せたいと思いますが、いかがでしょうか。 〈佐藤優によれば、学会と日蓮正宗の対立の「背景には、僧侶が「上」、一般信徒は「下」 とする宗門の宗教観と、そのようなヒエラルキーを認めない民衆宗教である創価学会の基本的価値観の対立があった。」とある。(「池田大作研究」)〉--りゅうじ0105(会話) 2021年5月26日 (水) 12:44 (UTC)
報告1週間の告知期間を過ぎて、上記の提案は合意形成済みの決定事項となりましたので、追加を行いました。--りゅうじ0105(会話) 2021年6月5日 (土) 15:15 (UTC)
新型コロナウイルスの感染拡大を受けた対応・活動の除去提案
[編集]こちらの内容に対して除去を提案します。以前、新型コロナウイルスの感染拡大を受けた対応の一覧は不要ではないかと意見があり、除去された経緯が存在します。改めて確認しましたが社会貢献と新型コロナウイルスの感染拡大を受けた対応は全く違います。たとえ出典があっても社会貢献の項目に載せる内容では無いと考えます。いかがでしょうか?--事件簿マニア(会話) 2021年6月12日 (土) 21:57 (UTC)
報告1週間の告知期間を過ぎて、上記の提案は合意形成済みの決定事項となりましたので、その通りに実行いたします。--事件簿マニア(会話) 2021年6月24日 (木) 04:29 (UTC)
地域貢献活動への追加
[編集]「地域貢献活動」のところで、島田氏の書籍が引用されています。同様な形で、田原総一朗氏の書籍からも引用したいと思いますが、いかがでしょうか。 〈田原総一朗は「(宗門との決別以降)創価学会の活動領域が広がったことは間違いないようだ。学会員に話を聞くと、宗門と決別して以降、地域のためのさまざまな活動に参加するようになったという。例えば、地域のお祭りでお神輿も担ぎ、町会役員や学校のPTA役員も引き受ける。さらに、交通安全週間の行事にも参加するなど、ありとあらゆる地域活動に参加しているというのだ。言論・出版問題後、池田が目指した地域との融和が、ここにきてようやく根付いたということだろう」と述べている。(『創価学会』)〉--りゅうじ0105(会話) 2021年6月14日 (月) 00:24 (UTC)
お疲れ様です。以前の内容も確認しましたが、逐一ノートにお伺いを立てなくても良い程度の内容と思われます。誰も反対せずかと言って賛同も無い!この程度なら次回からは直接本文に組み込んだらどうでしょうか?--事件簿マニア(会話) 2021年6月15日 (火) 21:06 (UTC)
ご指摘ありがとうございます。 ただ、「Wikipedia:ガイドブック 交流・議論#ノートページ」には、 「いろいろな立場の人の見方を取り交し、それをすり合わせて中立的な記述にする」等の時にノートを使うとしており、「些細なことでも積極的に利用して、みんなで記事を磨いていきましょう」と推奨しているので、今後も可能な限りノートに提案して、加筆・修正をしていきたいと思います。その上で、1週間以上経過しましたので、追加します。--りゅうじ0105(会話) 2021年6月23日 (水) 19:26 (UTC)
いえいえこちらこそ。良いこころがけだと思います。他の方から説明を求められた時にしっかりと説明できればノートへお伺いを立てなくても良いと思っています。これからも宜しくお願いします。--事件簿マニア(会話) 2021年6月24日 (木) 04:27 (UTC)
上での「告知」について
[編集]ノート:創価学会/過去ログ10#新型コロナウイルスの感染拡大を受けた対応の一覧の除去提案で{{告知}}について申し上げているのですが、上でたびたび「1週間の告知期間を過ぎて」とされてはいるもののどこにもそのような形跡がありません。ノートに書くことは提案・提起などにはなっても告知とは別です。告知は必ずしも行わなければならないとまでは考えておりませんが、たとえば内容でもめている当事者間で話し合って決められそうなら、とりあえずはノートでの合意ということにできるのでしょうが、第三者が静観するかコメントをくれるかに関わらず、目に触れるようにしておくと後悔しないと思います。ここ最近のケースはもめる以前に先の決定事項に準じた一連の対応とみなして告知なしに気がついても静観してる方がおられるのかもしれませんが、いくらなんでもやっていないことをやったかのように書くのはそろそろ待ったがかかるようにも思います。--市井の人(会話) 2021年6月24日 (木) 06:21 (UTC)
「池田の後継者に関する憶測」の除去提案
[編集]ウィキペディアの編集方針「ウィキペディアは何ではないか」には「検証不能な推測を集める場ではありません。」「「推定、憶測、「将来の歴史」を提示するような記事は独自研究であり、したがって不適当です。」ということが書いてあります。この基準に照らしてみると「池田の後継者に関する憶測」という項目自体、検証することが難しいものであり、ウィキペディアに掲載するにはそぐわないと思います。具体的に見てみると、本文中の「~の名前が浮上している」は、単なる噂の域を出ないでしょう。また「~と予測する学会関係者」というのも、誰でも言える話なので、検証可能性は低いと思われます。よって、ここの項を除去すべきと考えます。--Bbbfffchi(会話) 2021年5月28日 (金) 14:06 (UTC)
- それはウィキペディア編集者が個人的に予想しているだけのことを書いてはならない、という意味であって、信頼できる情報源で発表済みの見解であれば、未来についてのことであっても「検証不能な推測」には当たりません(「適切な出典を示せるならば、将来的な提案や計画の成功の見通し、あるいは何らかの展開がありうるのかに関しての議論や見解を報告することは適切です。」)。報道や論文等に推測が書かれているのであれば、それは検証可能な推測です。ただ週刊誌が出典として弱いのは事実でしょうから、出典追加を要請して、追加されなければ除去という程度が落とし所かなと思います。そのためにTemplate:要出典等があります。 --2001:240:241F:A452:1C3A:E6A0:EB42:B266 2021年6月5日 (土) 23:23 (UTC)
ご存知だとは思いますが、ページの編集やノートの投稿には、ユーザーの「説明責任」が求められます。ガイドラインの「説明責任」のページにも、「投稿の際は利用者名の代わりにIPアドレスが記録されますが、それは一定のものではないので、他の人達にとってあなたの編集について、あなたと対話するのが難しくなり、それをもどかしく思う利用者がいることは事実です。」「ログインしていないのは、自身の投稿に自信がなかったり、責任を持ちたくないためであるとか、ウィキペディアの方針に沿っていないことを自覚しているため、と見られることも多々あります。」ともあります。私もこのガイドラインの考え方に同意します。今後もノート上では誠実な議論を展開していきたいと思っていますので、「記事の内容に関わる編集をしようと思うなら是非、アカウントを取得し、ログインして説明責任が果たせる立場になった上で編集」をしていただきたいと思います。
その上で、「週刊誌が出典として弱い」という指摘は、私も同意見です。さらに、この投稿の引用元の一つであるNEWSポストセブンの記事では、「創価学会広報室は、「当会では、いかなる役職であれ世襲することはございません」と答えた」という憶測を否定する記述になっています。[1]このことからも、この出典では、内容面としても弱いと言えます。よって、後継者について、検証可能で適切な出典を要請します。1週間待って、追加出典がなければ、除去したいと思います。--Bbbfffchi(会話) 2021年6月9日 (水) 14:28 (UTC)
追加出典の要請をしてから、1週間以上が経ちましたので、項目を除去します。--Bbbfffchi(会話) 2021年6月17日 (木) 12:19 (UTC)
- 脚注を節内に収めたほうが可読性がよいので{{Reflist-talk}}を挿入しました。--市井の人(会話) 2021年7月6日 (火) 11:32 (UTC)
脚注
- ^ 創価学会 関西のドン死去で大作氏から長男への世襲が話題に - ニュースポストセブン、2015年3月25日配信
日蓮正宗との対立・決別への追加
[編集]「日蓮正宗との対立・決別」のところで、佐藤優氏と田原総一朗氏の書籍からの引用を追加したいと思いますが、いかがでしょうか。
〈田原総一朗は、創価学会は「創立当初から、従来の日蓮正宗の枠組みを超えた、独自の在家信徒団体」であったと述べている。(「創価学会」35)。また「第九を歌うことのどこが問題なのか。しかも、当時の聖教新聞に掲載されたスピーチを何度も読んでも、日顕への批判や侮辱はどこにも見当たらない。私からしても、宗門側がどこに激しい怒りを感じているのか、さっぱりわからない」としている。(「創価学会」233)「歓喜の歌」に関して佐藤優は「ここで宗門が問題としたのは、キリスト教だ。ベートーベンの『歓喜の歌』を歌うことが邪教礼賛になると宗門は考えた。ヨーロッパの文化はキリスト教と深く有機的に結びついている。ヨーロッパ文化から、キリスト教を抜き去って理解することは不可能だ。科学的無神論を国是としたソ連や東ドイツでも、『歓喜の歌』が、無神論の否定する神を礼賛するといった理由で禁止することはなかった。宗門はソ連共産党やドイツ社会主義統一党よりも偏狭なキリスト教観を持っていることが露呈した」(「池田大作研究」527)と記している。さらに「各国の文化から、宗門以外の宗教的要素を除去しようという発想は、絵に描いたような排外主義だ」「ある文化と根底から結びついた宗教を完全に否定するならば、宗教間対話は成り立たない。宗門の頑なな姿勢が、創価学会の世界宗教化の深刻な障害になっていることがもはや明白になった」(同540)と述べている〉--りゅうじ0105(会話) 2021年6月14日 (月) 00:21 (UTC)
報告1週間の告知期間を過ぎて、上記の提案は合意形成済みの決定事項となりましたので、その通りに実行しました。
「日蓮正宗との対立・決別」で、佐藤優氏の書籍の引用を追加したいと思いますが、いかがでしょうか。 〈学会の「お伺い」文書に対する宗門側の回答拒否について、佐藤優は「宗門に創価学会と対話する意思はなかった」(「池田大作研究」528)、「ここで重要なのは、創価学会から宗門に離脱を申し出たのではないという事実だ。宗門が一方的に『創価学会解散勧告書』を送りつけてきた」(543)と指摘している。「創価学会は日蓮正宗宗門とは別の宗教団体なので、他団体から解散を指示される筋合いはない」と述べている。〉--りゅうじ0105(会話) 2021年6月27日 (日) 15:04 (UTC)
佐藤優氏の書籍の引用追加は自重して頂けませんでしょうか。佐藤優氏を調べましたが、同氏のwikipediaでも創価学会のファンであると公言していると記載されています。佐藤氏の信条はともかく創価学会のファンであると公言している人物の書籍を引用して記事を構成したり追加するのは元来中立であるべきwikipediaの記事を大きく歪めるものではないでしょうか。それは宜しく無い!どうしても追加を希望されるなら佐藤氏以外の書籍から引用追加をお願いしたいです。--事件簿マニア(会話) 2021年7月1日 (木) 22:35 (UTC)
Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点とはに以下のようにあります。〈ウィキペディアのコミュニティにおいて理解される「中立」を成し遂げようとする姿勢とは、さまざまな信頼できる情報源を注意深く、批判的に分析し、それらに含まれる情報を公平に、各観点の比重に応じて、可能な限り編集上の偏向なく読者に伝えることを意味します。〉またWikipedia:中立的な観点#情報源が内包する偏向には次のように書かれていました。〈そもそも偏向した情報源は、その他の点で根拠の薄い記事を作る元になるおそれはあるものの、ただ偏見に基づいているという点だけでは却下されません。中立的な観点は、複数の信頼できる情報源においてその意見が持つ重みに基づいて、諸情報源が内包する偏りのバランスをとることによって達成されるべきであり、特定の編集者の観点と観点が一致しない情報源を除外することによってなされるべきではありません〉さらに、Wikipedia:検証可能性#他の原則との兼ね合い#中立性には、〈出典とする情報源自体はかならずしも中立性を満たしている必要はありません。多くの信頼できる情報源は中立的ではないことが多いです。編集者の仕事は、単に信頼できる情報源に記載されている主張を忠実に紹介するだけです〉ともあります。つまり、引用される文献の執筆者の信条は、ウィキペディアの中立性を担保する上で、あまり問題にならないと考えます。佐藤氏の書籍を引用した主な目的は、「諸情報源が内包する偏りのバランスをとる」ことでした。同じ人物の文献に頼りすぎるのもよくないと思いますが、これまで用いた佐藤氏の引用は他に代替可能な文献が見つからず、使用したものです。ご指摘の点に留意した上で、ノートで提案中のものも含めて、今後も必要に応じて佐藤氏の文献を用いたいと思います。--りゅうじ0105(会話) 2021年7月9日 (金) 14:31 (UTC)
報告上記の提案はページに反映させていただきました。--りゅうじ0105(会話) 2021年7月9日 (金) 14:43 (UTC)
報告上記のりゅうじ0105(会話)による内容は議論終了しておらず、合意形成すら為されていない状態で編集を強行されたため一度差し戻しました。本件はりゅうじ0105氏が一週間ルールを悪用し、創価学会のファンを自称する人間が創価学会を評価した創価学会人間有利となる内容の掲載を強行したものであり、中立的観点から掲載やりゅうじ0105氏の編集態度に疑問符が付くものである。りゅうじ0105氏が再度編集を強行されるのであればwikipedia管理者への通報や創価学会のファンを自称する佐藤優氏の著者が創価学会のページ掲載に相応しいものか第三者からのコメントも検討します。重ねて申し上げますが、佐藤優氏の同内容を他者が他文献に残しているならそれを出典として掲載するのはありです。--事件簿マニア(会話) 2021年7月10日 (土) 21:48 (UTC)
コメントりゅうじ0105様返信ありがとうございました。一つお伺いしたいことがございます。上記佐藤優氏の著書について私が宜しくないと申し上げた後、返信をいただきました。その返信の12分後に半ば事後報告のような形で編集完了報告をされました。内容を見ましたが、そこまで至急性は高くないと思われます。私からの返信を待つ、またはあなたの返信から1週間経過してから時間経過で告知され編集されても良かったと思われます。今回そこまで急がれた原因は何故ですしょうか?--事件簿マニア(会話) 2021年7月10日 (土) 22:22 (UTC)
報告りゅうじ0105(会話)は管理者により無期限ブロックされたようです。--事件簿マニア(会話) 2021年7月13日 (火) 21:53 (UTC)
事件簿マニアさんの投稿履歴に既視感があるのですが。質問です。ファンを公言する人物の著作が出典として中立性を満たさないのであれば、敵意を露わにする人物のそれも同列ということになるという解釈でよろしいですね?--ぐぐぐ(会話) 2021年7月15日 (木) 09:11 (UTC)
ぐぐぐさんの仰る解釈の意味が全く分かりませんのでお答えは致しかねますが、佐藤優氏の件はお答えします。私の感覚ではファンを自称される方の著書は中立性が担保されていないでしょう。一例として申し上げれば熱烈な巨人ファン、長嶋茂雄ファンを自称する徳光和夫氏の発言や著書が中立性が満たされているかと言われればそれはNO!これと同じです。ただし、佐藤氏をはじめ作家やライターは執筆する際、他人の著書を参考、引用することがあります。りゅうじ0105氏が主張した箇所が他人の著書に載っていればそれを出典として用いて下さいということです。掲載が100%ダメという意味ではございません。それとも出典の中立性が満たされていなくても出版物であればそれを用いて良いということでしょうか?--事件簿マニア(会話) 2021年7月15日 (木) 23:49 (UTC)
本議題の終了を検討したいと思います。 理由
- 提案者りゅうじ0105氏が無期限ブロック(現在ブロック解除申請中)され議論の進展が見込めないこと。
本来なら提案者がしっかり最後まで責任を持ち締めるのがビジネスマナーですが、本人不在のまま放置された状態も宜しく無いので一旦クローズとします。りゅうじ0105氏が提案された佐藤優氏の件は先日ぐぐぐ氏へ回答した通り佐藤氏の内容が第三者の著書に載っていれば第三者の文献を出典として用いることを推奨します。どうしても佐藤優氏の著書を出典として引用されたいならそれを妨げません。ただし、他の方から佐藤氏の著書を引用した説明を求められた場合は引用した方が説明責任を果たしください。また本件の議論を再開される場合は新規で議題を立ち上げてくださいませ。--事件簿マニア(会話) 2021年7月17日 (土) 22:45 (UTC)
「謗法払い(焼却)」について
[編集]「会員が折伏を進める過程で、入会しようとした家庭に他宗派の仏壇や神棚が置かれていると、それを謗法払い(焼却)したり、大人数で対象者を取り囲んだりと、時として強引さを伴ったため批判を呼び、社会問題化した」の内容の謗法払い(焼却)、について創価学会は2代目会長の戸田氏が当時そういった事実はないと否定しており、また会としても当時から会では処分等を行わず、新規会員本人が処分または以前の宗教への返却をするようにしていたそうです。当時日蓮正宗の法華講も同じように折伏活動をしており、その中の妙心講(現在の富士大石寺顕正会)がそういった焼却等の処分事を行っておりまた現在もそういったことをしているため実際は創価学会が行っていないデマであるという話を聞きましたので検証していただくことは出来ませんか?--以上の署名のないコメントは、1.0.94.222(会話)さんが 2021年7月6日 (火) 08:33 (UTC) に投稿したものです(市井の人(会話)による付記)。
- 引用されたのは創価学会#折伏大行進にある記述ですね。折伏大行進として独立記事もありますが、まず、Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するやWikipedia:出典を明記する#本文中での出典言及に目を通していただきたいと思います。「社会問題化した」とされる内容は出典が「朝日新聞アエラ編集部 『創価学会解剖』 朝日新聞社」となっていますので本文中の出典言及はしたほうがいいと思いますが、読みづらくなるデメリットに勝る実効性があるかは何とも言えません。一方で1.0.94.222のIPユーザーさんがおっしゃられる「戸田氏が当時そういった事実はないと否定しており、」や「デマであるという話を聞きました」のあたりは信頼できる公刊された情報源を提示していただかないと、申し訳ありませんが単なる理解または信条ということになり、併記による解決とまではいかなくなります。また、朝日新聞系列だけが言っているのか、それに対して創価学会側の資料で反論しているのか、現在までに争っているのか、なども内容の改善を要するかのポイントになります。--市井の人(会話) 2021年7月6日 (火) 11:32 (UTC)
- 一応調べてみました。折伏大行進期の第一線にいた池田氏は『人間革命』第9巻の「実証」や『会長講演集』第6巻「参院選の目的」、第7巻「二百六十万世帯の団結」、第10巻「若き革命児の誇りもち」でたびたび【仏壇を焼く】を否定していたようです。--市井の人(会話) 2021年7月6日 (火) 13:04 (UTC)
- 書き方としては、「〜といった噂が立つようにもなるが、これを池田大作は1960年代までに講演[出典1]や著書[出典2]にて否定。一方でその後、朝日新聞社は『創価学会解剖』と題した刊行物において事実であったかのように言及している[出典2]。」とでも修正したほうがよさそうですね。--市井の人(会話) 2021年7月6日 (火) 13:39 (UTC)
- ちなみに『人間革命』第9巻の「実証」には「一九五六年(昭和三十一年)」「十一月十九日」「M紙に、公安調査庁長官が、学会の折伏行進は破防法にひっかかるとか、ひっかけるとかいう講演をしたという記事が出ている。」「長官の言明によると、創価学会に触れたことは一言もない。」「創価学会は、同新聞社に抗議した。」「十二月十四日の同新聞に、事実無根であった旨の訂正記事が掲載され、」とあります。「ひっかかるとか、ひっかけるとか」の部分が意味深だと思うのですが、要するにM紙(毎日でしょうか)は長官(藤井五一郎しかいません)が明言したので創価学会は悪である、とも、長官にそういう計略があるのをすっぱ抜いたとも、どっちともとれる意味で報じた可能性があります。ただしこれを出典とすると情報が劣化しますので新聞縮刷版で該当記事をあたってみればよいと思います。それとWikipediaの宗教の記事の出典に宗教本を使うのは、たとえWikipediaの方針上の許容範囲であっても、検証可能性(読者・編集者として確かめてみるほう)がかえって「自覚なきオルグ」とでも言いましょうか、取り込まれてしまう懸念がありますので、そういう意味でも宗教本にある歴史的な内容は裏付けが取れるまでWikipediaの記事では触れないほうが、宗教本を出典にしないほうがいいとも思います。--市井の人(会話) 2021年7月6日 (火) 18:46 (UTC)
横から入ってしまい、すいません!ノートのやりとりを読みました。私も「〜といった噂が立つようにもなるが、これを池田大作は1960年代までに講演[出典1]や著書[出典2]にて否定。一方でその後、朝日新聞社は『創価学会解剖』と題した刊行物において事実であったかのように言及している[出典2]。」という修正が妥当な感じがします。私も他の出典がないか確認しますが特に見当たらない場合、また、しばらくして別の出典がなかった場合、そのように修正する形でいいのではないでしょうか?--Bbbfffchi(会話) 2021年7月15日 (木) 15:06 (UTC)
横から入ってしまい、すいません。大人数で対象者を取り囲む件は自身の体験から申し上げるとありました。私が入会を勧められた時、家に来られた学会の方は5人でした。5人のうち発言したのは3人。残りの2人は挨拶以外語らず、まるで他の3人を監視する役割だったと思われます。うちは他の宗派ですが、学会の方が仏壇を謗法払い(焼却)したり、仏壇や私の宗派に悪態を突くこともなかったのでを謗法払い(焼却)は明らかなデマだと思われます。--事件簿マニア(会話) 2021年7月24日 (土) 23:24 (UTC)
- 取り囲むと言うか、あるとすれば人の家に上がり込んだら(時には深夜から朝まで)帰らない、それも何かの世話をしてあげるなど大勢で来る理由がないんです。多少離れた地区からも何度でも来ます。学会員からすればキャラをいくつも調達して信仰体験を宅配みたいな理由にはなるのですけどね。黙って座っていて「この人は以前は……ところが今では」みたいに信仰体験の紹介を受けるだけというのもあるので、けっこう何しに来たのかわからず、建前とは別の役割があるとの見方にもなるのかと思いますが。押し寄せるの範囲であるのを誇張したり一部の騒動(たとえば悪質な先祖供養・霊感商法と学会側との衝突)の一般化ではないかと思います。--市井の人(会話) 2021年7月25日 (日) 03:19 (UTC)
事件簿マニアさんや、市井の人さんのご意見にもあるように、謗法払いの事実については、信憑性が薄いようですね。以前、市井の人さんが提示された「〜といった噂が立つようにもなるが、これを池田大作は1960年代までに講演[出典1]や著書[出典2]にて否定。一方でその後、朝日新聞社は『創価学会解剖』と題した刊行物において事実であったかのように言及している[出典2]。」という表記に修正した方がよいと思われます。ノートで最初に問題提起された1.0.94.222さんにも、ご意見を伺えればと思います。特にご意見がなければ、私の方で、市井の人さんのご提示された上記の文章に修正したいと思います。--Bbbfffchi(会話) 2021年8月10日 (火) 12:29 (UTC)
- 私は方針に基づき自分でやるならこうで、やってもいいと思いつつ改善案を出していますが、やるならもう少し先を広く見たほうがよろしいと思います。とりあえずであるとか段階的にという一般論もわからなくないですが、応急的編集ではそれこそ“雉ではなくて記事の草隠れ”であって下手をすると検閲(Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアでは検閲は行われませんに反する)にさえ見られてしまいます。そもそも本記事では親のセクション創価学会#創価学会が起こした社会問題の子のセクション#折伏大行進の下に孫のセクション創価学会#未成年者への入信強要を含めて社会問題とするWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成が行われており、それは独立記事の折伏大行進という現在に繋がる躍進の過程を中立的ではなく特定の観点による社会問題のほうにスポットを当てて書くのを許す原因になっています。そこで独立記事の「折伏大行進」を情報の合成として削除依頼に出すのも考えましたが、記事の主題自体は創価学会の歴史としての特筆性を有するとも言えなくはないので編集対応としたほうが方針に沿っていると思いやめました。数年前ならかなり反発があったでしょうが現在ならすんなり削除で決まるかもしれないという想定とは別にです。
- 重ねて申し上げますけど「折伏大行進」は歴史であって社会問題とするのは、そこを前面に出すのは特定の観点による偏向です。「未成年者への入信強要」では自殺者が出たとの報道をもとに記述されていますが、時期的に重なっているに過ぎないことを「折伏大行進」が招いた社会問題の一例とする独自研究を孕んでいます。出典には「折伏大行進」がどうのという言及がないからそれが書かれていないのでしょうし、こじつけにもほどがあるでしょう。で、独立記事の「折伏大行進」と並行して改善するというよりWikipedia:検証可能性#中立性にあります「それを専ら記述するための記事」として独立記事の「折伏大行進」はここでの話し合いからは手をつけない、必要ならそちらのノートにでも書いておくというのが今の段階では言えると思います。それから本記事での具体的な対応ですが、独立記事の「折伏大行進」へのリンクは各所にあります。結論を先に申しますと、「折伏大行進」以下「未成年者への入信強要」も含めて丸ごと除去でもいいのではないかと考えました。独立記事の「折伏大行進」では「社会問題」との記述はないのですし、あればWikipedia:中立的な観点#中立的な観点とはにある「判断を下さない言葉遣いを好んで選択する」に反するでしょう。それが本記事では記述ではなく区分として分けたセクションだからと「創価学会が起こした社会問題」の中で誇示するのも問題ですし、だったらセクション名を「謗法払い」にすればいいのかという案が出たとしても、これ自体は日蓮正宗の化儀に過ぎませんから的外れだと思います。孫のセクション「未成年者への入信強要」にしても組織の構成員が関与した以上の裏付け、意味がないこと(近年でも重大事件が起こるとそういうことがゴシップ誌などで取り沙汰されがちですが)を社会問題に含めるのは間違っていると考えます。--市井の人(会話) 2021年8月10日 (火) 19:09 (UTC)
「折伏大行進」以下の除去提案
[編集]早速ですが、上記『「折伏大行進」以下「未成年者への入信強要」も含めて丸ごと除去』を正式な提案として記事本体に告知した上で合意形成に至れるかご意見をうかがいたいと思います。--市井の人(会話) 2021年8月10日 (火) 19:48 (UTC)
- 賛成 これは創価学会というより、国や政府の問題だと思います。例えば「創価学会以外の宗教団体は未成年者へ宗教勧誘をしてない」「国が未成年者への宗教勧誘を法律て禁止、制限している」のなら創価学会が悪いですが、実際日本は直接の法規制(宗教法人法に記載)が無く、明治時代に作られた民法で未成年者の権利制限に触れているが、民法ができたのは大日本帝国憲法発布前。当然信教の自由は触れていない。一種のダブルスタンダードである。国によるダブルスタンダード状態で起きた未成年者の勧誘問題を特定宗教団体の問題定義として記事にするのは違うので除去が妥当。--事件簿マニア(会話) 2021年8月13日 (金) 21:49 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。このノートのようにいろいろお話できる機会がありましたら、また詳しくお願いいたします。--市井の人(会話) 2021年8月14日 (土) 16:13 (UTC)
- 賛成 賛成します。それらのソースは昭和の頃に発刊された雑誌類なので国立図書館がある東京周辺の在住者しか確認・検証ができません。限られた者でしかアクセスできないソースによる記事は削除が妥当だと考えます。--最果て(会話) 2021年8月14日 (土) 15:02 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。Wikipedia:検証可能性#アクセシビリティで「この検証可能性の原則は文献へのアクセスが容易でなければならないことを意味するものではありません。」と触れられていますが、これは逆に言いますと図書館に蔵書があればウィキペディアの出典としてはお墨付きを与えていることになりますし(図書館のほうでも出典調査には積極的です)、地理的な事情があっても(一概に言えませんが横断検索等が可能な範囲であるなど)検証可能性は満たされているとみなされます。ウィキペディアで出典を探すのは近くの図書館になるのが最も確実であると思いますが、そうでなければちょっと贅沢な投資でも有料で各種資料にアクセスできる環境を持っている方が「ここにある」と示されれば、そのような環境にないからと拒むことも認められていません。これはベテランの方でもこちらのノートのように理解の違いがあることなのでわからなくもないですが。ただ、国立図書館にしかない雑誌類でも、たとえば古いラジオの型番や仕様などを書くのには重宝されますが、有意であるか疑問のあるゴシップを扱ったものではWikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源であることのお墨付きにもなりますから、その意味ではおっしゃることはごもっともですね。--市井の人(会話) 2021年8月14日 (土) 16:13 (UTC)
報告 特に反対意見もなく1週間の告知期間を経て、本提案は合意形成済みの決定事項になりましたので除去を行いました。記述の正確性を問うにあたり、本提案にご賛同いただきました各位には感謝申し上げるところであります。--市井の人(会話) 2021年8月17日 (火) 20:06 (UTC)
「池田教であるとの批判」について
[編集]「池田教であるとの批判」項目について、疑問提起したいと思います。 「指導者」という言葉は「デジタル大辞泉」などによれば、「学問などの手引きや助言を行う人(例:技術指導者)」「国家や団体を率いる立場にある人(例:国家指導者)」という意味であり、「崇拝の対象」という意味がありません。(「先生」という言葉に崇拝の意味が無いことも同様。)よって「永遠の指導者」という表現をもって「池田教」との批判の要因とするのは無理があるように思います。
また、創価学会の会則によれば、牧口・戸田・池田の「3人」を「永遠の指導者」とする旨の記述があります[1]。さらに、創価学会の公式ホームページによると、「創価学会は、日蓮大聖人の仏法を信奉」[2]と書かれており、尊信の対象は「日蓮大聖人」であると明文化しています。(会則に「末法の御本仏日蓮大聖人」との記述もあり、逆に池田氏を本仏とする記載はありません。) 創価学会は、「池田教」すなわち個人崇拝であるという批判の、「個人」にも「崇拝」にも当たらないことになります。よって「池田教」との批判は、要因が存在しないと言わざるをえません。以上からも、「池田教であるとの批判」項目の文章にある「三代会長」「永遠の指導者」と「三代会長の敬称は、先生とする」という2つの情報を組み合わせることで「池田教」との批判の要因とするのは、ウィキペディアの方針にある通り、「特定の立場を推進するような」独自の批評[3]といえます。よって、この項目自体を削除するべきではないかと考えます。--Bbbfffchi(会話) 2021年9月4日 (土) 13:28 (UTC)
- 創価学会会則、創価学会の公式ホームページは創価学会による1次資料であり、1次資料は発信者によって自身に都合良くかかれている場合があり取り扱いに注意が必要です。"尊信の対象は「日蓮大聖人」である"等と書かれてあっても、ホームページにそのように「書かれている」ということだけが事実であり、実際にそのように実施、運営されているかは2次資料や批判者の1次資料等と照らし合わさなければ分かりません。従ってBbbfffchiさんのおっしゃる創価学会の会則やホームページに書かれているだけで「『池田教』との批判は、要因が存在しないと言わざるをえません。」とは、創価学会側に立った一方的な主張と言わざるをえません。見出しに「池田教であるとの批判」と書かれてあるのに本文に「池田教」の語句が無いのが問題なら項目名を「池田に対する個人崇拝」等と変えるとか編集対応で可能な事案であると考えます。項目全体を削除するなどとはあまりに横暴な提案であると思います。--HotKorokke(会話) 2021年9月5日 (日) 13:55 (UTC)
- 私も項目の削除には反対です。池田大作が会長に就任したのは1960年、会則の変更が2002年。40年以上この問題が放置されていたことになります。仮に日蓮正宗との兼ね合いで会則の変更が難しい状況であったとしても破門され袂を別れた1991年に着手できたと思います。創価学会と公明党の政教分離問題が時の政局に利用されたのはそういった創価学会と池田大作の関係性を着手しなかったツケであり、創価学会から見た視点だけでも削除はできない項目と判断します。--事件簿マニア(会話) 2021年9月11日 (土) 23:27 (UTC)
掲載するには確固たるソースが欲しいです。何故なら団体の名称を意図的に個人の名前にすり替えて呼称する行為は批判的な意味合いに使われ、このwikiでそう表現することは名誉棄損に該当する可能性があります。 なので特定の団体に個人の名前を付けて呼称する旨を載せる場合は慎重の上に慎重を重ねなければならず、それこそ裁判所の判例のような一次資料でなければ載せるべきでないと考えます。--最果て(会話) 2021年9月13日 (月) 15:08 (UTC)
- 日本語版ウィキペディアの方針に基づいて提起され、話し合っているところに「名誉棄損(ちなみに名誉毀損です)」と言った法令違反を持ち出すのでしたら、ここよりも削除依頼でやっていただけませんか。そのほうが早く結論が出るでしょう。Wikipedia:中立的な観点は『この文書で説明している中立的な観点の方針は「交渉の余地のないもの」とされ、その基盤となる原理は、他の方針やガイドラインによって、または利用者同士の合意によって覆すことはできません。』とされています。これは「確固たるソース」つまり方針で言う「信頼できる情報源」がそう書いていないのなら、どのような内容でも表現でも書いてはいけないという前提の時点で法令違反の可能性を排除できるからです。その上で残ってしまった法的リスクを伴う部分があったなら、リンクが貼れて容易に参照可能な過去の版は削除しなければなりません。中には信頼できる情報源に書かれている事実でも削除の方針によって排除されることがありますが、日本の裁判の判例などとも関係があります。で、ついでですが、池田教云々を節名に置くのであれば、そう表現している出典に基づかない内容は含むべきではないでしょう。それならと適切な節名に表現を変えても意味は変わらず不適切であると言うなら本提起の振り出しに戻りますが。--市井の人(会話) 2021年9月13日 (月) 17:17 (UTC)
私の意見は提案なので採用するかどうかはBbbfffchさんが決めることです。 後、私が名誉棄損を持ち出した時、反論として日本の法律でなくwiki内でしか通用しないルールを持ち出してきたことには残念です。 現実でも起こりやすいのですが、ある組織内での独自ルールにどっぷりと浸かっていたばっかりに法律よりも組織内ルールを優先し、不祥事を起こしたり世間の実情からかけ離れた判断をしてしまう事例に暇がありません。 wiki内でしか通用しない独自ルールを守っているからといって日本の法律(名誉棄損、侮辱)に抵触してしまうとwikipedia全体の信用を低下させる恐れがあります。 確かにwikipediaは巨大で影響力も大きいサイトですがだからといって特権があるわけでもなく、小さなサイトや個人ブログと同じように平等に法が適用されます。 今一度、その事実を思い出すよう願います。 失礼しました。--最果て(会話) 2021年9月14日 (火) 09:44 (UTC)
- そもそも私は名誉毀損云々を肯定も否定もしておらず、その可能性については議論の余地があるのを認めた上で「法令違反を持ち出すのでしたら、ここよりも削除依頼でやっていただけませんか。」と言っています(念のため上で削除と除去の混同がありますが削除とは「過去の版の履歴も含めてページを消し去ること。」です)。法令違反なら修正や除去ではなく削除しなければならないのは、Wikipedia:削除の方針#ケース B: 法的問題がある場合をご覧になればわかることです。ですから反論ではなく案内や誘導のたぐいです。「wiki内でしか通用しない独自ルールを守っているからといって日本の法律(名誉棄損、侮辱)に抵触してしまう」などというのは案内や誘導に対する見込み違いです。私は方針によって「信頼できる情報源」の提示を要する「前提の時点で法令違反の可能性を排除できるからです。」とも言っています。最果てさんが「確固たるソースが欲しい」と判断されているのは、現状では方針で言う「信頼できる情報源」の提示がないとの見方を意味するのは言うまでもありません。そう認められれば法的リスクありとして本来は書くべきではないのであって、書いてしまったら削除しなければならないのも方針です。記事のノートは削除を決めることは出来ません。「Wikipedia全体の信用を低下させる恐れ」という心配は方針も守っていればご無用です。もしも方針が法令違反を招く懸念でもおありでしたら、方針のノートで提起なされてください。あとは読む気がおありならWikipedia:名誉毀損の主張があった場合の法的状況の判断と法的対応に関する議論をご覧になってください。--市井の人(会話) 2021年9月14日 (火) 13:04 (UTC)
報告 暫定で節名を「指導者への個人崇拝に対する批判」に変更いたしました。それに伴い池田大作の記事のほうでもリンクを修正いたしました。なお、「池田教」については出典として提示のある矢野絢也の(独自の造語というほどでもなく)著書の目次で確認できるほど前面に出している言葉ですが、本記事の当該節では現時点では省かれておりますので、『元公明党委員長の矢野絢也は+実質的には「池田教」であるとし、+指導者としての池田大作名誉会長への個人崇拝が顕著であると主張をしている』と加筆してもいいのですが、そのような表現の推進は本提案に関わっている以上しないでおきます。また、池田大作の記事のほうで無出典によって「池田教」云々が記述されており、「池田教[出典:矢野絢也の著書]」としようとも思いましたが、それ自体は問題の改善であっても、出典をつけたからには残しておこうという意図と断定されても困りますので今回はいじらないでおきます。必要であれば別途そちらで話し合ってください。--市井の人(会話) 2021年9月15日 (水) 05:20 (UTC)
「創価学会側に立った一方的な主張」との表現は、Wikipedia「行動の方針」-「個人攻撃はしない」の「個人の人種、民族、宗教、性、国籍、学校、学歴、職業、職歴、障がい、病気などに関わる非難や差別、あるいは揶揄を行う」や「個人の性格や経験を、利用者の独断で決めつけて攻撃する」に該当します。 さらに、「あまりに横暴な提案」との表現は、Wikipedia「行動の方針」-「礼儀を忘れない」の「加筆をする利用者は、意見をはっきりさせようとするがあまり、不必要に過激になってしまうことがあります。(中略)無礼な態度は参加者を不機嫌にし、落胆と離脱を招きます。(中略)ですから、決して無礼な態度をとることは許されないのです。」や、その例としてあげられている「要約欄、またはユーザーのノートページでの決めつけ語調」「行きすぎた批判」等に該当します。 私としては、丁寧な議論をしたいとの思いでノートに提案をしましたが、このような投稿をされ、非常に嫌な思いをしました。今後、良質な百科事典にしていくためにも、善意の投稿者が、私と同じような思いをしてもらいたくはありませんので、警告をさせていただきます。 HotKorokke氏には、もう一度ガイドラインを、よくご理解していただきたいと思います。--Bbbfffchi(会話) 2021年9月16日 (木) 13:39 (UTC)
- 「創価学会側に立った一方的な主張」とはBbbfffchiさんの記述に対して言及したことであり、「人種、民族、宗教、性、国籍、学校、学歴、職業、職歴、障がい、病気など」のいずれにも該当しませんし、「性格や経験」にも該当していないと考えております。さらに、私は「あまりに横暴な提案であると『思います。』」と書いたのであって「決めつけ語調」は使っておりません。従いましてガイドライン等には反していないと考えます。むしろBbbfffchiさんの方が、「『個人の性格や経験を、利用者の独断で決めつけて攻撃する』に該当します。」、「『行きすぎた批判』等に該当します。」等と「決めつけ語調」を使っているのではないでしょうか? 私に対するこの様な決めつけ語調は非常に遺憾に感じます。--HotKorokke(会話) 2021年9月19日 (日) 15:44 (UTC)
その上で、皆さま、さまざまなご意見をいただき、ありがとうございます。いったん話題を戻しますが、このノートでの問題提起の主眼は、「三代会長」「永遠の指導者」「三代会長の敬称は、先生とする」といった情報を組み合わせることで、「個人崇拝」と決めつけている点です。これは、ウィキペディアのルールにある「特定の立場を推進するような」独自の批評にあたると考えるのが一般的です。 また、HotKorokke氏は「創価学会の公式ホームページは創価学会による1次資料であり、1次資料は発信者によって自身に都合良くかかれている場合があり取り扱いに注意が必要」と述べられていますが、問題提起した本項の記述は、すでに「しんぶん赤旗」や「創価学会公式サイト」といった1次資料を引用元として使っています。よって、HotKorokke氏のご指摘は、本項の記述そのものを否定していることになります。 ちなみに、私が、創価学会ホームページを引用したのは、あくまで、ノートで議論するための参考資料として紹介したにすぎません。 さらに、ウィキペディアのルールには「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。記事全体を一次資料に依拠してはいけません。一次資料のみに依拠した大きな段落を作る場合にも慎重になってください。あなたの個人的な経験に基づいた記述を記事に加えてはいけません。そうすることにより、ウィキペディアが一次資料となってしまうからです」[4]とあります。私が問題提起している箇所は、上記のルールの通り、記述者による「分析・解釈」に当たります。 市井の人氏も「「確固たるソース」がそう書いていないのなら、どのような内容でも表現でも書いてはいけない」と指摘されている通り、「「池田本仏論」の存在~加筆明記されている」の箇所は除去が妥当であると判断します。--Bbbfffchi(会話) 2021年9月16日 (木) 13:43 (UTC)
- リンクを貼ったら脚注が追いやすいように{{Reflist-talk}}を貼っておりますので発言はその上にお願いします。あと、リンクは脚注に持っていかなくてもHelp:リンクのようにしたほうがいいのですが、(それとこれは別ですけど)そもそもBbbfffchiさんは記事の編集において出典の付け方(インテキストであったり書誌情報が不備であったりウィキペディアを出典にしたり)自己流が目立ちます。一度別のところでお話しするようになる前に、「ご自分だけやっていること」はないか他の方の編集と見比べた上で各種文書をご確認いただければと(誰かに言われる前に自主的にやるのがご自分のためです)。そうでないと今後他の編集者と衝突しかねないです。で、私が暫定的に行った修正は合意形成が済んではいませんので、誰でも再度修正できます。ですが除去となると合意形成は要ります。他の方法として別の節(ないし節分け)に異動ということもできますし、誰かが「個人崇拝」でも「池田教」でも出典を探してきてそれ以外を排除して固めることもするかもしれません。私は「池田教」の記述を別の言葉に置き換えましたが、それは除去ではないです。それでも妥協できないのは止めは致しませんが、異論が出たままディベートを続けても合意形成には至らず効力は得られません。Bbbfffchiさんがどんなに方針違反だと主張しても、それに同意する人がいても節・文・出典の入れ替えや組み合わせはいくらでもありますので対案なき反対は避けられます(反対がなくならないことには平行線です)。節名を戻して出典を別の赤旗の記事創価学会の「池田教」設立宣言/会則と宗教法人規則を変更にしようか考えています。すっきり揃いますよね。--市井の人(会話) 2021年9月16日 (木) 15:37 (UTC)
- 私は「注意が必要」と述べたのであって1次資料を使うこと自体を否定しておりません。従いまして「本項の記述そのものを否定していること」にはなりません。「「池田本仏論」の存在~加筆明記されている」の箇所については不備な部分はありますが除去までは必要なく、ここも編集対応で可能でしょう。現在、市井の人さんが編集対応されたようですが、概ねこの文章でいいのではないかと考えます。--HotKorokke(会話) 2021年9月19日 (日) 15:44 (UTC)
報告 考えたとおり行いました。こちらの出典のほうがいろいろ書いてあるので、Wikipedia:言葉を濁さない#意見を具体的な事実に置き換えるに基づき具体的に加筆するかもしれません。なお、上にあった{{警告}}は除去しました。そういうことは向かって言っている相手の会話ページでやってください。--市井の人(会話) 2021年9月16日 (木) 16:38 (UTC)
- 出典と記述を増やして固めました。なお、現時点での想定では今後あり得る加筆に伴う報告は特にないと思います。--市井の人(会話) 2021年9月17日 (金) 12:16 (UTC)
脚注
- ^ https://www.sokanet.jp/info/kaisoku.html
- ^ https://www.sokanet.jp/info/index.html
- ^ https://ja-two.iwiki.icu/wiki/Wikipedia:%E7%8B%AC%E8%87%AA%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AF%E8%BC%89%E3%81%9B%E3%81%AA%E3%81%84
- ^ https://ja-two.iwiki.icu/wiki/Wikipedia:%E7%8B%AC%E8%87%AA%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AF%E8%BC%89%E3%81%9B%E3%81%AA%E3%81%84
市井の人氏の見識に敬意を表します。まだまだ不慣れなため、教えて頂きたいのですが、「このように称される主な要因として以下が挙げられる。」と、編集者が要因を分析するような記述は「独自研究」に該当しないのでしょうか。引用元の「しんぶん赤旗」(2002年6月3日)には、学会が、会則改正で、牧口、戸田、池田を「創価学会永遠の指導者」としたことに触れていますが、その後の一文に、「牧口、戸田両氏はすでに亡くなっているので、池田氏が生きた「弘法の体現者」「永遠の指導者」つまり教祖となります」という、飛躍した解釈がなされています。これはウィキペディアのルール「情報源の評価・注意すべき論点」にある「資料は論点や問題関心における対立、強硬な見解、そのほか報告内容を特徴付ける偏見を含んでいませんか」に当たると思います。--Bbbfffchi(会話) 2021年10月1日 (金) 14:36 (UTC)
本項において、追記させていただきました。併せて報告させていただきます。--Bbbfffchi(会話) 2021年10月1日 (金) 14:41 (UTC)
- 修正であるからには先に書いた利用者(確認してませんが、出典が手元にありながら加筆できない状況に置かれることなどもあるでしょう)の意図がわからぬまま全面的に書き換えるのは躊躇われますので、「と批判される主な要因として以下が挙げられる。」という文の繋げ方を残しましたが、独自研究かと言われれば接続の部分に出典はありませんから、方針によれば出典を明示するか接続のし方を要改善ということになっています。そこは後者のほうでなんとかなると思いますが、「要因として以下が挙げられる。」を変えないまま加筆しているご自分は何をなさっておられるつもりでしょうか。「なお」など繋げることもなく、著作権を侵害する従で占める引用をされて、さらに新聞のページ番号も不明です。そのような理解ではちょっと編集をお待ちいただかないと、別の問題で手続きが増えるばかりです。ローカルルールと言うほどかは知りませんが、脚注のグループ属性も創価学会側資料との区別は無視されていおりますし(脚注位置もよくおわかりではないようで)。飛躍した解説については、ガイドラインのそこだけ(「〜含んでいませんか」)を切り取って言われても困ります。Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点とは「ウィキペディアのコミュニティにおいて理解される「中立」を成し遂げようとする姿勢とは、さまざまな信頼できる情報源を注意深く、批判的に分析し、それらに含まれる情報を公平に、各観点の比重に応じて、可能な限り編集上の偏向なく読者に伝えることを意味します。ウィキペディアが目指すところは、論争を記述することであり、論争に加わることではありません。」もお読みください。
で、加筆なされた記述は出典の付け方を改めていただき、引用の主従関係を逆転させ翻案にならないように自分の言葉で書き直したうえで、削除依頼に出していただくのをお奨めします。ということで一旦除去します。--市井の人(会話) 2021年10月1日 (金) 16:22 (UTC) コメントの一部を取り消し。--市井の人(会話) 2021年10月1日 (金) 20:41 (UTC) - 加筆なされた記述の内容を十分カバーしている既存の節がありましたので、全体を加筆修正した上でリンクさせました。サイゴンを勝手に(個人崇拝を嫌った)ホーチミンに変えたのと、創価学会側資料による「狂信的な会員」がかぶります。教育機関などの話は除去しましたが、必要なら聖教新聞などがどう載せているか調べたほうが事実になるでしょう。--市井の人(会話) 2021年10月1日 (金) 20:41 (UTC)
「活動」の子のセクションである「組織活動」について
[編集]--Fink115(会話) 2021年9月2日 (木) 13:05 (UTC)「活動」の子のセクションである「組織活動」に示された創価学会の会合についてですが、 その引用となる央忠邦氏の著作が半世紀以上前のものです。 創価学会公式サイトの「年間の活動」ページを確認したところ、現在は、開催されていない行事も含まれています。 現在の行事については、すでに、同じく「活動」の子のセクションである「年間主要行事」に記されています。 したがって「創価学会の会合には、本部総会(5月)、男子部総会(11月)、女子部総会(11月)、学生部総会(7月)、夏期講習会(8月)などがある」までは除去に値すると思います。 また「座談会は班や地区の単位で行われ、央忠邦の1968年の著書によれば座談会の拠点は日本に二十万か所以上あった」の記述についても、「二十万か所以上」というのは1968年時点の話であり、現在の具体的な数字を証明できる文献は見当たりません。 よって、この項目においても、除去が妥当だと思います。 これらを踏まえ、以下のように編集したいと思いますがいかがでしょうか。
創価学会の公式ホームページによると、座談会は、三代の会長がもっとも大切にしてきた伝統行事であり、活動である、とされている。 央忠邦氏によれば、創価教育学会時代(牧口の時代)から、会員同志が「それぞれの悩みや克服した信仰体験などを話り合い、信仰の結びつきを確認し合った」(央忠邦の1968年の著書より引用)場である座談会が伝統となっていた。--Fink115
- 先に、自動的に変換される署名を冒頭ではなく「発言の末尾に」していただくようお願いします。他に手動の署名は不要ですので。また、参照しやすいように内部リンクも活用していただければと思います。で、創価学会#組織活動ですが、Wikipedia:出典を明記する#本文中での出典言及に基づいておりますし(ただし、ここではいいのですが、本文中ではWikipedia:スタイルマニュアル#人物・人名およびWikipedia:表記ガイド#人名にあるように「央氏」との敬称は不要です)、誤解がないよう限定的に「1968年」と3回も出てきておりますので、たとえ現在との比較がなされていなくても内容そのものは歴史として(編集対応はしても)残しておいてもいいと思います。むしろ百年後も変わりようがない1968年当時のことが書かれているのが記述というものではないでしょうか。何かもう少し限定的な節名(すみません、今は思い浮かびません)に変えてみるのも手だと思いますが。あとは出典やその年(誰がいつか)が繰り返し出くるのが冗長表現に見えるので整理出来ればそれに越したことはないのでしょうけど、意味が変わらないように修正できればの話になると思います。 「創価学会の公式ホームページによると、」とするには脚注でもきちんと出典を示すのはもちろんですが、先に持ってくると1968年の話に続く脈絡がどうなのかと感じますし、「なお」などとした上で後に続いたほうがいいような気もします。いずれにしても央忠邦(ちなみに朝日新聞の記者)の著書が「対象とは無関係な信頼できる二次情報源」であるとの前提に異論がなければ無用ではないと現時点では思います。--市井の人(会話) 2021年9月2日 (木) 15:52 (UTC) 補記--市井の人(会話) 2021年9月3日 (金) 02:03 (UTC)
- せっかくですので、座談会についてなど。国際宗教研究所が発行している「現代宗教」2017に創価学会と題したまとまった記述がありました。そこには島田裕巳による、学会員は外部との交流不要で一生を終えることも可能という極論が紹介された上で、座談会は世代別組織に分かれた学会活動の成果を報告・共有する場とされておりました。また、座談会の重要度に匹敵することとして選挙(=ではなく≒公明党)を挙げ、さらに都市部に流入した未組織労働者等の相談や解決の場を提供していたようなことが書かれています。ということもあり、座談会を単に創価学会内部の伝統とするだけではなく、外部の二次情報源による見方も含めたその役割に触れておくことは、読者の理解の助けになると思います。なお、1970年ごろから学会員数は頭打ちになり、いわゆる「総体革命」へと移行していくことについても言及がありますので、その前の段階である先の1968年に絡めて書くことも(情報の合成というほどにはならなず)可能と考えます。--市井の人(会話) 2021年9月3日 (金) 19:46 (UTC)
- あと、「日本に二十万か所以上」に関して興味深いことがあったのですが書き忘れました。全国の直営郵便局の総数が2万ということはよく知られていると思いますが、創価学会の座談会の拠点の数が1968年当時でその十倍の20万あったというのは(記事に書くことではありませんが)感覚的につかみやすいかなと。この20万という数は日本郵便、全国2万の直営郵便局運営: 日本経済新聞にもありますが日本郵便の社員数とほぼ同じです。--市井の人(会話) 2021年9月3日 (金) 20:28 (UTC)
ご意見ありがとうございます。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#疑問に思ったときはの中には、「記事に何が含まれるべきで何が含まれるべきでないか疑問に思ったときは、読者が百科事典の同じ見出しの項目に何を期待するであろうかを考えてみてください」とあります。この方針を踏まえると、「組織活動」という見出しの項目と、現状の記述内容は合致していないように思われます。したがって、節目の変更に関するご提案も踏まえ、「組織活動」を「座談会」という項目に修正したいと思います。また、1968年当時の主な会合への言及については、歴史をとどめる上で意味はある一方、創価学会の公式ホームページによると、現在は行われていない会合もあるようです。したがって、創価学会#沿革の「1968年」の箇所に、「本部総会(5月)、男子部総会(11月)、女子部総会(11月)、学生部総会(7月)、夏期講習会(8月)などが行われていた」と追記したいと思います。その上で、現状の記述に見られる表現の重複を避け、かつ「現代宗教」2017を引用し、下記の通り修正したいと思います。
座談会は、三代の会長がもっとも大切にしてきた伝統行事であり、活動である、とされている。 また、寺田喜朗氏は、 高度経済成長期、農村から都市へ大量の労働者が流入し、不安定な生活と将 来に対する不安を抱えた人々が、「座談会」などを通して「悩み・不安を共有・解決」し、信仰のコミュニティーを築いたと指摘する。央忠邦は、この座談会は、創価教育学会時代(牧口の時代)から、会員同志が「それぞれの悩みや克服した信仰体験などを話り合い、信仰の結びつきを確認し合った」場であったと述べている。座談会は班や地区の単位で行われ、1968年時点で、座談会の拠点は日本に二十万か所以上あったとされる。--Fink115(会話) 2021年9月19日 (日) 02:42 (UTC)
- まず、「敬称は不要」と上で2つも文書示しているのですから、読まないのは別として、(本文に記載する前提の案でも)改めていただけないのは残念です。それはともかく、(細かいことを言って申し訳ありません)他の複数の方にも見られますが、項目(単独記事)とセクション(節)、「見出しの項目」(セクション・節の項目)とを混同されないようお願いします。で、節名は組織活動の他の要素の加筆を促すのにそのままでもいいですし、座談会で固めてしまうならむしろ過去のこととして沿革へ分離するのは追いにくくするだけでしょう。そうならないための(検索結果や目次から飛んでくる)見出しです。別に重複している記述など他にもいくらでもありますし、沿革のほうである程度触れて、「[[#座談会]]も参照。」などとしてもかえって読者に親切です。それと「座談会は世代別組織に分かれた学会活動の成果を報告・共有する場(要約)」なのですから、組織活動としても誤りではありませんし、座談会を孤立したサブセクション(子の節)にしても構いません。公式サイトに合わせて「組織の地域活動]としてもいいでしょうし(親か子の節かはともかく)、左記の出典で2021年現在はこうだと併記すればよく、どかすこともないです。あと、引用であれば(とおっしゃるからには)要件を満たしてないのでその案では無理です。Wikipedia:著作権侵害を避けるための注意点#自分の言葉で書くをお読みになられてください。パラフレーズにしても「央忠邦は、この座談会は、創価教育学会時代(牧口の時代)から、」は央忠邦の出典には言及らしきものがなく独自研究になります。--市井の人(会話) 2021年9月19日 (日) 05:59 (UTC)
- ちなみに寺田喜朗の出典を用いるなら「総体革命」に繋げないと切り取りになると思います。その場合は私が加筆してもいいですが。--市井の人(会話) 2021年9月19日 (日) 06:16 (UTC)
敬称は、指摘くださったのに失礼しました。以後、気をつけます。節名ですが、ご提案にあった「組織の地域活動」にします。「本部総会(5月)、男子部総会(11月)、女子部総会(11月)、学生部総会(7月)、夏期講習会(8月)などが行われていた」は、「沿革」の方に追記したいと思います。あと、央忠邦の言葉は、改めて確認しましたが、引用箇所を見つけることができませんでしたので、他の方が引用箇所を示さないかぎり、現状では、独自研究ということで除去が妥当であると思います。--Fink115(会話) 2021年11月3日 (水) 23:14 (UTC)
「名誉会長と歴代会長」について
[編集]本項の記事について、出典元の資料「恩師の二十三回忌に思う」を読みましたが、「現人神とみなす狂信的な会員」への言及がありませんでした。本来の文意を踏まえて、下記の通りに編集したいと考えます。
池田自身、「恩師の二十三回忌に思う」の中で、いわゆる「会長本仏論」について、「創価学会の会長とは何か。牧口常三郎先生、戸田城聖先生は、広宣流布の仏法実践の指導者」であるとしている。また、いかなる団体や国であれ、一つの組織が存在すれば、そこには「指導者」が必要になってくると強調したうえで、学会には「教祖も、唯一至上の絶対者などいない」と述べている。さらに、池田は「代々の会長を神格化」してはならないし、「私などを絶対視してはならない」と明言したことがある。--Bbbfffchi(会話) 2021年10月18日 (月) 23:12 (UTC)
- なるほど、確かに言及はありませんね。そうなりますと別の件で申し上げましたがWikipedia:著作権侵害を避けるための注意点#自分の言葉で書くにリンクのあるパラフレーズ(コトバンクの「精選版 日本国語大辞典」にある解説も参照)による表現ではないか、ということになります。ですが、そもそもかぎ括弧で括るのは引用・ママであるかのような誤解を招くので不適切です。{{要出典範囲}}とするにも小説『新・人間革命』第3巻「平和の光」によれば、牧口は獄死するまで天皇が現人神であるはずがないなどと言い続けたのですから、「現人神」はあり得ないですね。ここは要修正です。
- で、出典元の資料に確かにある「同じことは、今までも数多くの会合で話してまいまりした。」「神格化などしてはなりません。」などが『会長本仏論』に対してでであると片付ける(丸投げする)のは、資料側の文脈を無視する、あるいは時期が限定的(後述)な点への説明が足りないと思います。創価学会#名誉会長と歴代会長にある「狂信的な会員」云々の記述は前提として、どこかにあるには違いないのですが、資料側の文脈を確かめながら要約してもっと別の前提を持ってきたほうが、なぜ池田がこの時期何度も自身も凡夫(前述、牧口が言う天皇も同じ)を強調してきたか、に繋げるに相応しいと思います。出典元の資料には、「もとより日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。」との宣誓がありました。また、この資料の趣旨は客観的に見れば「主客転倒の風潮を生んだ」池田による大石寺への懺悔文でしょう。加筆修正するならその点にありますね。--市井の人(会話) 2021年10月19日 (火) 06:37 (UTC)
- ところで、Bbbfffchiさんが10月1日のWP:引用要件に反する編集(特別:差分/85832392で取り消し済み)とほぼ同じ内容を別の節とは言え、再度掲載を希望されている拘りはどこから来るのでしょうか。厳密には今回の案で出された文も、(それこそ主客転倒ではありませんが)主従関係における引用の範囲を減らしたつもりであっても翻案になります(記事本体の記述に反映しない分には「署名のある投稿者の自己責任」になるので細かいことはこれ以上言いませんが)。先に私が「拘り」と申しましたのは、現在の事実として会則が提示されているのに対し、池田がどう望んでいたかについてをこれほどまでに(「神格化などしてはなりません。」程度はわかります)併記する合理的な理由の説明が依然としてないからです。当時の池田の心境を抜きにしているだけに余計です。
- 今も当時も本仏#日蓮本仏論、血脈相承 (日蓮正宗)などが創価学会内外を問わず前提として欠かせない絶対であることには変わりません。当時としては、もしも大石寺に破門されたら創価学会は謗法と化すと言う危機感を訴えていたのがあるでしょう。しかしこれも法難であり、今は法華経と広宣流布のためには創価学会が重要であることが30年を経て事実化しつつありますから、創価学会#創価学会は「池田教」であるという批判で記述しておりますが、私は作家の佐藤優のような視点が一番中立的であると考えています。本仏論に白黒つけようとするまでもなく、池田がいくら偉大であっても日蓮の生まれ変わりであるかについては、創価学会内外の誰もが妄想と認める了見違いでしかありません。--市井の人(会話) 2021年10月19日 (火) 19:28 (UTC)
- 私のほうで加筆修正しておりますが、『会合等で常日頃より自身を「凡夫」と卑下していたとおり、組織の指導者たる歴代の会長と本仏は別であり、』の範囲について2点ほど。池田大作全集84巻、第三回ドイツ最高会議 (1994年)では池田が諸法実相抄の「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」を引用して説いています。出典元の資料、聖教新聞の記事では本仏ではなく仏となっていました。しかしそのままでは迹仏とも取れてしまうので本仏としました。次に『「凡夫」と卑下』は、池田大作全集31巻、如来神力品(第二十一章)「凡夫こそ本仏」で須田晴夫が「凡夫」と称する意図が卑下であれば傲慢の裏返し、「凡夫」とは尊貴なものだ、と言うのに応じた池田がそこでも凡夫が本仏で仏は迹仏と説いています。池田はこのことにより「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」とも言っています。ですが当時(1980年)の心境としては、あえて『「凡夫」と卑下』としました。また凡夫への内部リンクも貼っていません。--市井の人(会話) 2021年10月21日 (木) 16:39 (UTC)
- ところで、創価学会の記事を読んでいて前から気になっていましたが、「お山」「登山会」そして懐かしい「みそ玉(飴)」の話がどこにもありませんね。みそ玉は今でも一部の文化会館の売店で販売されているようですが。と、ここまではこの節の話題とは関係ないのですが、「登山会」について創価学会外部の資料を探していたら、まさにこの節の話題に行着きました。島田裕巳によるプレジデントオンラインの記事です。登山会については「毎年その数は180万人近くにのぼったとされる。」ですから特筆に値すると思います。そのあとで、「戸田の立場は教祖と言えるものではない。創価学会の信仰の核にある法華経の信仰を説く指導者であり、おすがりのようなことは一切やっていない。戸田が力を入れたのは信者に講演を行うことだった。」とありました。「おすがり」は日蓮正宗自体がおすがり信心・信仰は謗法のあらわれであると強く言ってきたことで、それは現在の創価学会も同じです。プレジデントの引用箇所は、会長・指導者であっても(聖職者などとは違い)信者であるとの特別視の否定をうまく言いあらわしていると思いました。カリフに近いのではないかと。--市井の人(会話) 2021年10月22日 (金) 01:40 (UTC)