ノート:伊達政宗/過去ログ1
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[編集]片目について
[編集]食べてしまったのは片倉景綱だったような気がします。
大河ドラマで食べたのは義姫。史実ではどうか分からんが。「片目を食った」と政宗が言ったのは、小田原参陣の際、秀次に初めて対面したとき(これも大河ドラマ)。--219.112.198.200 2007年7月19日 (木) 22:33 (UTC)
- 『成実記』『言行録』等には明確な記述は無いようですが、「万海上人の生まれ変わり」「片目を喰らった」などの逸話を政宗自身が流布していたとの伝承は残っています。後年の創作であったとしても山岡荘八等近代の小説家によるものではなく、江戸時代には既に伝承として流布されていたものと思われます。「要出展」にするべきでしょうか?--2007年7月24日(火) 10:46 (UTC)
- 訂正。「独眼竜政宗」見なおしたら家康の息子・結城秀康に迎えられた際に彼から質問され、「奥州に睨みを利かせるため、そのまま置いてきた」という旨の発言をしてました。--219.112.198.200 2007年8月17日 (金) 16:17 (UTC)
これは誤りでは?
[編集]記事中「1.4 関ヶ原合戦と最上陣」のところに掲載されております、「ローマ教皇から伊達政宗にあてられた書簡」との説明(画像データのサマリーをそのまま訳したと思われる説明文)は、「『伊達政宗からローマ教皇に』あてられた書簡」の間違いではないでしょうか? --茶々 2007年9月17日 (月) 10:33 (UTC) :修正しときました。--茶々 2007年12月23日 (日) 12:38 (UTC)
逸話にある舟山進二なる人物の存在が確認できません。同一IPの方が作成された舟山氏なる項目もありますが、どうもおかしいです。他の記述についても顧問などという職は幕府にはありませんし、秀忠時代にも政宗は出仕しています。伊達家臣団に詳しい方調査をお願いいたします。--222.150.199.132 2008年9月30日 (火) 11:29 (UTC)
関連作品について
[編集]『ハンニバル・ライジング』や「鎧伝サムライトルーパー」は伊達政宗を扱った作品に掲載するより、関連項目に掲載した方が適切ではないでしょうか?--トメぞう 2008年3月22日 (土) 10:04 (UTC)
マンガ・ゲーム・小説・ドラマの政宗は、かっこいいですけど、史実の政宗は、事跡の通りです。史実に基づいて記述しましょう。史料ではない紙料に基づいて記述するのは、まずいですよ。--Uminumin 2008年4月14日 (月) 20:11 (UTC)
分割提案
[編集]関連作品の一覧が肥大化しておりますので、ドラマ・小説・漫画・ゲームなど創作類は伊達政宗が登場する作品一覧としてまとめて分割する事を提案します。--Nihonsi 2008年10月28日 (火) 12:09 (UTC)
- (条件付き賛成)分割する前に、まず関連作品を整理する必要があると思います。伊達政宗は有名な武将であり、創作作品に登場する機会が多いため、少なくとも伊達政宗が主役級になっている作品に絞るべきです。たとえば「太閤記」や「戦国無双」を掲載することが、伊達政宗について調べている人に
死資するとは考えられません。ただ、一覧を見ると伊達政宗を主役にした作品も多いようなので、絞った結果が50件を超えるようであれば分割もやむをえないのではないでしょうか。--M.F 2008年10月31日 (金) 13:25 (UTC)
- Nihonsiさんが当記事以外にも徳川家康・織田信長・西郷隆盛・沖田総司・土方歳三・豊臣秀吉などの各記事で登場する作品の分割提案を出されており、それぞれに意見がついてしまっており、これでは議論が錯綜してしまいます。ですので以後、ノート:徳川家康で議論を一本化したいと思います。--らりた 2008年11月1日 (土) 12:41 (UTC)
- 拙速でした。議論場所はPortal‐ノート:歴史#フィクション作品の情報を原則として人物記事に載せない旨の合意について提案でお願いします。--らりた 2008年11月1日 (土) 12:54 (UTC)
- Nihonsiさんが当記事以外にも徳川家康・織田信長・西郷隆盛・沖田総司・土方歳三・豊臣秀吉などの各記事で登場する作品の分割提案を出されており、それぞれに意見がついてしまっており、これでは議論が錯綜してしまいます。ですので以後、ノート:徳川家康で議論を一本化したいと思います。--らりた 2008年11月1日 (土) 12:41 (UTC)
要出典の記述について
[編集]2008年11月4日 (火) 20:48の版で追加された記述は出典が確認できません。要出典をつけておきましたが、1ヶ月経っても出典が示されないようであれば削除したいと思います。--M.F 2008年11月4日 (火) 13:47 (UTC)
統合提案
[編集]首記、伊達三傑および伊達の双璧を伊達政宗#主要家臣団へ統合することを提案します。注釈程度に記述すれば充分と思われる内容であるほか、各人物の詳細はそれぞれの項目に譲るべきと考えられ、いずれにせよサブスタブから脱するのは困難と考えるためです。--しいたけ 2008年11月30日 (日) 02:46 (UTC)
- (賛成)提案者票。--しいたけ 2008年11月30日 (日) 02:46 (UTC)
- (賛成)ですね。papamaruchan22 2008年11月30日 (日) 04:23 (UTC)
- (報告)統合作業を実施しました。--しいたけ 2008年12月8日 (月) 03:34 (UTC)
125.28.139.133さんへ
[編集]あなたのこの版の編集[[1]]ですが、これはその前の利用者:ハニーハニー00さんの編集を事実上リバートしたものです。 私は要約におけるハニーハニー00さんの指摘は筋が通っていると思うのですが、ハニーハニー00さんの編集の一体なにが問題なのか、説明してください。説明がないのでしたら失礼ながらこちらでリバートします。あと、あなたの会話ページで私が出した質問にも答えていただきたいのですが。--ポコポコ 2008年12月28日 (日) 02:45 (UTC)
議論の整理
[編集]記事が編集合戦の様相を呈し始めています。皆様、とりあえず編集する前にノートで議論をするようにしていただけませんでしょうか。編集時の要約欄やコメントアウトでの指摘で済ませられる段階ではなくなってきています。
以下に、いま問題になっている箇所を箇条書きにしてみます。もしよろしければ、以下の部分で議論をしていただければと思います。
(1月17日追記)現在、解決していないのは以下の2と3の部分です。とりあえず私から提案をさせていただいています。ご意見などをお待ちしています。--ポコポコ 2009年1月17日 (土) 10:15 (UTC)
(1月24日追記)下の2,3につきましても、私の提案にそって修正させていただきました。今年に入ってからはほぼ私のみが議論にコメントしていましたが、それ以前に皆様からいただいたご意見に沿った形としたつもりです。いつまでも問題箇所を放置して新編集の妨げになるのもなんですので、ご異論がございませんでしたらとりあえず今回の議論は収束とさせていただきたいと思います。この議論に参加していただいた皆様方に、お礼を申し上げます。--ポコポコ 2009年1月24日 (土) 10:21 (UTC)
1、項目タイトルについて
- 修辞的な見出しの是非について
- Okztosh氏から不適切との指摘がありました。項目タイトルについては、先ずこちらから議論するべきでしょうか。
- 以前から気になっていたのですが、この伊達政宗の記事に関しては、主観的な表現や修辞的な表現が、Wikipediaの他の記事に比べて非常に多いように思います。(いかにも伊達政宗ファンが書いた…という感じ。「伊達成実」の記事も同様の傾向があります。まぁ、私自身、「地元」なので結構好きなのですが…) コラムや小説ならともかく、Wikipediaは百科事典なのですから、基本的には事実関係を中心に据え、過度の修飾は不要だと思います。たとえば、「政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗」という記述がありますが、これも推測であって、輝宗がどのように考えていたかなど分かりません。しかも誰の推測かも明記していません。きわめて客観性に欠けています。輝宗が反対意見を押して家督を譲った、という事実さえ記述してあれば、それ以上の表現は必要ないと言えるでしょう。過度の修飾が盛り込まれていることによって、残念なことに、かえってこの伊達政宗の記事は百科事典の記事としての信頼性を落としているように思えます。ファンページとか、コラムとか、ブログだというのなら問題はないのですが…。--ok2 2008年12月29日 (月) 03:22 (UTC)
- 項目タイトルにつきましては、以前ok2さんが編集された版[2]が適切ではないかと思います。本文中の修辞的、主観的な表現につきましては今後推敲されるべきでしょう。あと、今回項目タイトルについての編集を私がリバートしましたが、これは議論が継続中であるからです。ご了承ください。--ポコポコ 2008年12月30日 (火) 00:59 (UTC)
- 編集合戦で編集を強行しているのかなと思って適切な版に差し戻したつもりだったのですが、事実誤認だったか。申し訳ないです。で、おいらの意見としては、ok2さんのご意見に全面的に同意です。ファンサイトならともかく、ここは百科事典なのですから。伊達政宗に劣らないぐらい人気が高くていろいろな創作物の主人公になってることも多い真田幸村の項目と比べてみても、この見出しは明らかにおかしいです。--人造人間だみゃ~ん(対話|履歴) 2008年12月30日 (火) 02:57 (UTC)
- この部分につきましては、早めに合意が得られそうです。とりあえず、最初に私が議論を提起してから一週間後、1月5日をめどに収拾の提案をするつもりです。--ポコポコ 2008年12月31日 (水) 01:14 (UTC)
- 突然、失礼いたします。ok2さん案についてですが、「会津征伐」という単語を使ってしまうと関ヶ原の時の上杉征伐とまぎらわしいので、もしこの方向性が採用されるなら「家督相続から摺上原の戦いまで」みたいな感じにしてはいかがでしょうか?--Carbucketty 2008年12月31日 (水) 03:09 (UTC)
- そうですね。私も「会津征伐」ということばが適切かどうか、ちょっと悩んだのですが、そのときは適切な言葉を思いつかなくて…。上杉景勝への会津征伐と紛らわしいという件は失念しておりました。Carbuckettyさん案の方がいいですね。また、基本的に、なるべく紀年体に近づけるシンプルな見出しがいいと思います。--ok2 2008年12月31日 (水) 03:35 (UTC)
- とりあえず、1.1と1.2を「幼年期」「家督相続から摺上原の戦いまで」とするのが妥当でしょうか。提案してみましょう。--ポコポコ 2009年1月5日 (月) 12:42 (UTC)
- 上記提案の通り修正させていただきました。節タイトルにつきましてはとりあえず合意形成とみなしていいでしょう。--ポコポコ 2009年1月12日 (月) 10:13 (UTC)
- 「奥羽」の太守(覇者)なのか「奥州」の太守(覇者)なのか
- (以下、コメントをお願いします。)
- 「太守」の呼び方について
- Okztosh氏から、「日本で太守というのは上総守、常陸守、上野守のいずれか、または江戸時代の国持大名。」との指摘がありました。
- 平安時代、慣習的に上総、常陸、上野の守には皇族があたりました。そのため、これらの守を太守と呼ぶようになりました。江戸時代には国持ち大名を太守と呼ぶようになっています。となると、安土桃山時代の記述について太守と呼ぶのは不適切に思えます。おそらく、有力戦国大名という程度の意味で気軽に太守という言葉を使ったのかと思いますが、Wikipediaが百科事典である以上、通常会話に比べれば言葉の使い方をより厳密に心がけた方がよろしいかと思います。--ok2 2008年12月29日 (月) 03:22 (UTC)
- 朝廷より正式に陸奥守に任じられた時期1608年<慶長13>をもって、陸奥=奥州の太守とするのが妥当かと思います。混乱を避ける上で、広義での太守をここで当てはめてしまうと収集付かなくなる気がします。よってそれ以前の時期の場合、伊達家は奥州における最大軍事勢力という意味からも、どちらかを選べと言われれば「奥州の覇者」でよろしいかと。奥羽の覇者は不適切に思われます。南出羽ですら互いに牽制しあう伊達、最上、上杉(大宝寺)と各勢力があったのですから。--あずまえびすっ子 2008年12月30日 (火) 05:42 (UTC)
2、政宗の勢力拡大への評価
- 125.28.139.133氏から、「吉川弘文館『伊達政宗』47ページより。」との出典の提示がありました。(著者は小林清治でよろしいのですか?)
- この本は以前に支倉常長関連記事の調査で参照しましたが、あいにく近くの図書館が年末休館に入っているため、来月5日以降にならないと私の方では閲覧できません。この部分についての私のコメントはそれ以降にさせていただきます。もちろん、その間も他の方のコメントをお待ちしています。--ポコポコ2008年12月29日 (月) 05:14 (UTC)
- 小林清治『伊達政宗』吉川弘文館p. 47.に「これは平安後期ー」のくだりとほぼ同じ記述を確認しました。また「家督を継いでー大勢力を築いた」のくだりはありましたが、「伊達政宗の他にはいない」とはありませんでした。さて、どうしましょうか。--ポコポコ 2009年1月5日 (月) 12:42 (UTC)
- 上の議論でもありました修辞的な文言についての問題もありますので、「家督をー他にはいない。」は削除、「これはーゆえんである。」については「東北地方の戦国史研究家である小林清治はこう評価している。」と、引用であることをはっきりさせるのはどうでしょうか。--ポコポコ 2009年1月12日 (月) 10:13 (UTC)
- 以上に沿って修正しました。--ポコポコ 2009年1月24日 (土) 10:21 (UTC)
3、芦名滅亡から秀吉への臣従まで、政宗の「支配」した「所領」はどこまでなのか。
- 先ず私からの疑問ですが、最近の版では岩手県南部や栃木県の一部が含まれている場合があり、編集の度に変転しています。岩手県南部を政宗の所領、領土に含むということは葛西氏の所領を政宗の所領とみなしているのでしょうか。あと栃木県というのは白河氏の所領を同じく指しているのでしょうか?下の問題とも関わってきますが、秀吉の奥州仕置で改易等の処分を受けた豪族、大名の所領を果たして政宗の所領とみなしていいのか、という点は疑問です。今の版では漠然と「東北地方南部」となってはいますが・・。--ポコポコ 2008年12月29日 (月) 05:14 (UTC)
- 現在の版の、「このとき政宗はー岩手県の南半分に及んだ」の記述は出典とされている(コメントアウトですが)小林清治『伊達政宗』吉川弘文館のp. 47.にほぼそのままありました。大崎氏については同p. 41.に、天正17年に事実上従属したともありました。ただ葛西氏については「伊達氏の勢力下にある」と書かれているものの、いつ、どういう事情で従属したのかについての記述は見つかりませんでした。もう少し調べますが、私の調査では見つからないかもしれません。--ポコポコ 2009年1月5日 (月) 12:42 (UTC)
- 大崎氏、葛西氏の所領を伊達氏の「準領土」と表記するのは適切か。「準領土」の定義とは?
- 「勢力下」などの表現の方が適切では? やはり「準領土」という言葉は、日本史では未定義だと思います。--ok2 2008年12月29日 (月) 03:22 (UTC)
- 基本的に「勢力下」の表現でいいと思うのですが、芦名滅亡直後の時点で、そもそも葛西氏は伊達氏に服属していましたっけ?そこがはっきりしません。当時の伊達氏の勢力について、年明けに少し調べるつもりですが・・。--ポコポコ 2008年12月31日 (水) 01:14 (UTC)
- 上述の通り、出典では「勢力下」と書かれていました。ここは「勢力下」でいいでしょう。--ポコポコ 2009年1月5日 (月) 12:42 (UTC)
- 領土の定義も広義に解釈すると間接統治先とかもその範疇に入ってしまいそうなので、ここは伊達家とその家臣団が年貢を徴収していた土地、そして伊達家の律令によって治められていた土地を領土とすべきだと思います。外交上の従属や傀儡政権などは、直轄領とはすべきではなく、ok2さん言われる様に「勢力下」が妥当かと。葛西領や白河領は領土石高として計算してしまうと誤解を生じさせるのではないでしょうか?--あずまえびすっ子 2008年12月30日 (火) 05:42 (UTC)
- ここはどうしたものでしょうね。小林清治『伊達政宗』は結局、白川、田村、石川等の現福島県の諸豪族を伊達氏の支配下領地、大崎葛西は伊達氏の勢力下としているようです。(p. 47.)他の研究がどうなっているのかにつきましては、私ではなかなか手が伸ばせないのが現状です。--ポコポコ 2009年1月5日 (月) 12:42 (UTC)
- 別資料として、『戦国武将合戦辞典』吉川弘文館、2005年の伊達政宗の項目を見ましたが、ここには政宗の最大版図として、領国は長井(置賜)、伊達、信夫、会津、岩瀬、安積、田村、安達、宇多、亘理、伊具、刈田、柴田、名取、宮城、黒川、そして志田の一部とあり、これに伊達の勢力下にあった白川氏、石川氏、大崎氏、葛西氏を加えると、政宗の勢力圏は浜通りをのぞく福島県域、宮城県、及び岩手県南部であるとされています。(山形県の置賜はまた確認しますが、どちらにせよ勢力圏に含まれていると見ていいでしょう。)ここでは田村氏所領は伊達の領国としているらしく、一方で岩城氏は除外されています。この項目の編集も小林清治氏ですが、『伊達政宗』とは記述が微妙に異なっています。どちらを基準とすべきか、ご意見をいただければ幸いです。--ポコポコ 2009年1月13日 (火) 13:07 (UTC)
- とりあえず、政宗の最大版図については、去年の11月30日の版[3](この時点でー領国規模を築いた。)をベースに、「上述の白川氏等や大崎、葛西といった諸豪族、大名も政宗の勢力下にあった。」と加えるのはどうでしょうか。賛否をお待ちしています。--ポコポコ 2009年1月17日 (土) 10:15 (UTC)
- 以上に沿って修正しました。--ポコポコ 2009年1月24日 (土) 10:21 (UTC)
- とりあえず、政宗の最大版図については、去年の11月30日の版[3](この時点でー領国規模を築いた。)をベースに、「上述の白川氏等や大崎、葛西といった諸豪族、大名も政宗の勢力下にあった。」と加えるのはどうでしょうか。賛否をお待ちしています。--ポコポコ 2009年1月17日 (土) 10:15 (UTC)
--ポコポコ 2008年12月29日 (月) 01:34 (UTC)
重ねて申し上げますが、議論が続いているうちは、議論に該当する箇所の編集は控えていただくよう、申し上げます。特に125.28.139.133さん、今回の編集合戦の一部については、あなたが最初に記事に記述した内容に対する疑問から生じているのですから、編集する前に議論に参加し、ご自分の以前の編集についての擁護なり、撤回なりを表明してください。--ポコポコ 2008年12月31日 (水) 01:14 (UTC)
某IPユーザー氏への対処
[編集]某IPユーザー氏がここや会話ページにおける、再三の議論参加の呼びかけにも関わらず、独自に編集を続けています。このままではたとえ議論の合意が得られても、このIPユーザー氏が合意を無視して編集を行う可能性があります。Wikipedia:保護依頼を出すべきかどうか、ご意見を伺いたいと思います。単なる荒らしとみなせば半保護依頼、編集合戦とみなせば全保護依頼となるのでしょうか。この場合は全保護になってしまうのでしょうか。--ポコポコ 2009年1月1日 (木) 01:56 (UTC)
- 議論の参加の呼びかけに応じていないのはこのIP氏だけなので、保護依頼よりもこのIP氏へのブロック依頼でいいんじゃないでしょうか。編集保護だと、その後合意が得られて保護解除という流れになっても、保護解除になった途端にまたIP氏に書き換えられてしまうという事態が発生するかもしれないので(この手のタイプは執拗に己の持論に拘る傾向があったりします。自分も過去に結構この手の人たちを見てきています。)。--人造人間だみゃ~ん(対話|履歴) 2009年1月1日 (木) 06:28 (UTC)
- 今回の件も含め、IP氏に対するコメント依頼を提出しました。[4]IP氏がたとえ短期ブロックになっても、ブロック明けにまた同じことをされても困ります。保護依頼については賛成意見が無い限り私はとりあえず様子見します。--ポコポコ 2009年1月1日 (木) 16:10 (UTC)
- 2009年2月3日 (火) 02:34 125.28.139.133の編集版を差し戻し。議論になったばかりの部分を議論なしで編集されたため、合意違反の編集とみましました。--ポコポコ 2009年2月5日 (木) 10:20 (UTC)
- 125.28.139.133氏が、上の議論で問題となった政宗に対する過剰な修辞的文言を執拗に挿入し、コメントアウトで暴言を吐くなど対話も期待できないため、半保護依頼と125.28.139.133氏への投稿ブロック依頼を提出しました。--ポコポコ 2009年2月6日 (金) 20:24 (UTC)
- 125.28.139.133氏のブロックを受け、半保護依頼を撤回しました。--ポコポコ 2009年2月7日 (土) 01:35 (UTC)
- そもそも、現世の利益の追求にすぎない通商交渉にローマ教皇を巻き込んではいけないのは当然で、今も昔も変わりません。まして倒幕に利用しようとしていたとしたら、それこそ日本の恥になってしまいます。--114.149.238.106 2009年2月24日 (火) 07:50 (UTC)
- 114.149.238.106さんの上記のご意見には、ノート:慶長遣欧使節でコメントさせていただいています。もっとも、この記事で慶長遣欧使節について長々と説明をする必要は私も感じてはいません。冗長な部分を省いたこと自体には反対はしません。ただ、出来れば事前に提案をされるべきだった、とは思います。--ポコポコ 2009年2月24日 (火) 16:42 (UTC)
「大坂の役」における味方討ちについて
[編集]味方である神保相茂隊を皆殺しにしてしまった、とする説は講談本や風聞を纏めた書物にしか記録されていませんので、公式記録にある記述(神保相茂は奮戦して討死し、伊達隊による味方討ちとしない)を優先しました。記述自体は残しつつ、一説であることを明記してあります。
なお、水野隊を巻き込んだ可能性が高いとの記述についても、記事編集者の推察であるようですので、カットしてあります。 --Re-れな 2010年8月8日 (日) 03:57 (UTC)
(WP:PAに抵触する恐れのある発言をコメントアウト。--1108-Kiju/talk 2022年7月14日 (木) 08:28 (UTC))--オルフェ(会話) 2017年7月23日 (日) 20:02 (UTC)
(WP:PAに抵触する恐れのある発言をコメントアウト。--1108-Kiju/talk 2022年7月14日 (木) 08:28 (UTC))--オルフェ(会話) 2017年7月23日 (日) 20:55 (UTC)