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ノート:九州王朝説/過去ログ2

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2006年10月以前の議論について。ログ[1]化しました。 なお、この項目については、過去に編集合戦が起こったため、変更に新たな合意が必要な部分があります。詳しくはノート:大宰府をご覧ください。

九州王朝と九州王朝説の統合報告

記事の重複があり、最初の筆者が同じと思われるため、また、特に有効なリンク先もないため、九州王朝をこの記事に統合いたしました。--202.248.88.144 2005年6月25日 (土) 13:39 (UTC)

IPユーザさんへお願い

  1. 合意に反する編集はおやめください。現在、九州王朝説に関しては、ノート:大宰府#コメント依頼に出しましたで出された、二つの「おとしどころ」(九州王朝説の場合は特に提案2番目)に留意して記述することで合意しているはずです。この提案の第2項「問題点の記述を認める」は、解釈が恣意的であることと、学界からは、全く支持をえられない論であるということの記述を認める、ということです。九州王朝説の「弱点」を記述することではありません。特に、「問題点」の部分について、合意に反する編集があるようです。合意に不満がある場合は、再度ノートにて疑義を出してください。(ただし、私個人は、前回の合意のときと事態が大きく変わらないので、再度同じ議論は無意味だと考えます。そのため、再度疑義が出された場合には、1週間程度のコメント依頼提出→投票という手続きを提案するつもりです。この手続きは、前回の議論において、もし合意が得られなかった場合に、提案しようと思っていたことです)
  2. Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすことをお願いします。差分がきわめてわかりにくく、文章の校正などの有益なお仕事も、合意違反のリバートも、一緒くたに行われてしまう可能性があります。また、サーバにもやさしくありませんので、プレビュー機能を積極的に用い、推敲を重ねた上での編集をよろしくお願いします。--ごまふあざ 2006年11月28日 (火) 17:25 (UTC)

デーモン博士へ

「近畿の古墳からは大陸との交流を示す遺物が多数出土している。」の根拠について、どの様な資料に基づいているのか明示して下さい。多数と記している以上HPなど沢山あるのでしょうね!明示せずに書き換えを行えばアラシ行為として報告します。--しょかい 2006年12月25日 (月) 05:01 (UTC)

「しょかい」さんへ
気づかなくて失礼しました。「近畿の古墳からは大陸との交流を示す遺物が多数出土している。」ですが「近畿の古墳からは大陸との交流を示す遺物出土している」は事実であり、議論の余地がありません。ただ「多数」という曖昧な表現は適当ではなかったと思えますので、センテンスは削除します。
大陸との交流を示す遺物の一例として
「有銘単龍紋環頭大刀 三国時代5世紀」http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=38391
「大阪塚原P1号墳 金銅装単龍環大刀柄頭」http://chikatsu.mediajoy.com/96ase/22j.html
九州王朝説に対して論難する意図はありません。どの説を支持するかは各人が考えることです。--デーモン博士 2006年12月26日 (火) 13:44 (UTC)

大陸との交流を示す遺物が多数出土しているのは近畿の古墳に限った事ではないので、特に書くほどのことでもないのでは?--202.147.217.166 2006年12月27日 (水) 04:17 (UTC)

「有銘単龍紋環頭大刀」は、朝鮮から出土 「銀象嵌銘大刀」「金銅製冠帽」は、熊本の江田船山古墳から出土・・・、九州でも出土しているのに、特に「近畿の古墳からは・・・」などというのは誤った表現、意図的に読者に誤解を招くことを狙ったものだと思われます。--しょかい 2006年12月27日 (水) 13:37 (UTC)

「銀象嵌銘大刀」は中高の教科書にも取り上げられており、有名ですね。

さて、弥生時代の遺物として鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、九州は近畿の3倍弱出土しました。 また、朝鮮半島で多数出土した「環頭大刀」は、近畿でも九州でも古墳から出土しています。

古墳の規模(全長)を比較すると上位50位中近畿43基、九州1基(宮崎県の女狭穂塚古墳48位)となります。

どのような仮説が適当なのでしょうか、考えてみるのも一興。--デーモン博士 2006年12月27日 (火) 18:03 (UTC)

著作権侵害のありうる文章について

脚注4 「倭による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合で、しかもほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが・・・」

この文章は

鷲﨑弘朋著 新人物往来社刊「邪馬台国の位置と日本国家の起源」

「倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合で、しかもほとんど300年の間、連続的に起こっており、ま た倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている。」

http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper37.html

からの盗用ですね。あきれました。気づくのが遅かったです。--デーモン博士 2006年12月27日 (火) 18:50 (UTC)

デーモン博士さんのご指摘で、著作権侵害の状態を解消できます。その手のサイトは、全く見ないので、知りませんでした。IPユーザさんには猛省を促します。ただ、該当部を抹消するだけでは、削除したことになりませんので、特定版削除を依頼しました。他の表現も、若干怪しげな箇所がありそうですが(他サイトの文章を切り貼りしただけのような文章もありそう)…--ごまふあざ 2006年12月30日 (土) 08:30 (UTC)

Wikipedia:著作権侵害かもしれない記事に、コメントを依頼しました。--ごまふあざ 2006年12月30日 (土) 08:43 (UTC)

著作権法第10条2項は、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第1号に掲げる著作物に該当しない。」と規定している。

学術書にも作者を明らかにすれば他人の書の引用が許されています。

今回の件も事実の伝達にすぎない内容なので出典を明らかにすれば著作権侵害には当たらないと考えられます。--202.157.15.235 2006年12月31日 (日) 00:29 (UTC)

該当文章について、節をわけました。二重三重に勘違いがあるとお見受けしますので順番に。

  1. 事実の伝達は著作物ではないので、出典云々は議論になりません。自由に転載可能です。出典を明示した上で引用云々という問題になるのは、著作物が対象です。そのため「事実の伝達にすぎない内容なので出典を明らかにすれば著作権侵害には当たらない」は、意味がとおりません。
  2. そのため、両者をわけて考えます。
    1. 上記文章は「事実の伝達にすぎない雑報」ではありません。単なる事実の摘示ではなく、出版された書籍に書かれた一つの文章であり、(水準はどうあれ)史料から導き出した一つの成果です。雑報でもありません。また、このような言い方自体が、著者に失礼にあたる虞がありますよ。
    2. また、「引用」は、作者ではなく、該当の引用元を明らかにしたうえで、主従関係が明白であるものに限るものです。特定版削除を依頼した版は、引用元が明らかにされていないため、引用の要件を満たしてなく、著作権を侵害している可能性があります。
  3. wikipediaは、削除されないかぎり、すべての過去の版について閲覧可能になっています。つまり、一度でも、著作権を侵害したかたちで保存してしまうと、後々にいくら訂正しても、侵害状態の版が残ってしまうのです。そのため、著作権侵害の状態の版が一つでもあれば、その版については、削除を求めるのがwikipediaのルールになっています。今回の依頼も、過去の著作権を侵害している状態の特定の版について削除を依頼しているものです。今、いくら訂正したところで、過去の版を削除すべきであるという事実はかわりません。また、すべてを削除するというものでもありません。
  4. 以上、僭越ながら、もう少しwikipediaのしくみと、文章をパブリッシュされる際の作法について、調べられたほうがよいのではないかと思います。

また、削除依頼のテンプレートをはった後でも編集している方がいるようですが、大丈夫なのでしょうか。削除テンプレートを貼った以降の版はまとめて削除されてしまうような…--ごまふあざ 2006年12月31日 (日) 07:29 (UTC)


2007年1月26日 (金) 15:14の版 (編集) (取り消し) 202.219.21.230

『続日本紀』和銅元年正月(708年) の詔に「山沢に亡命し禁書をしまい隠しているものは、百日を経て自首しなければ、本来のように罪にする。」

http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC&diff=10256726&oldid=10254524

古代史ひとりごと 山沢に亡命する民      2006.4.20

②和銅元年正月(708)山沢に亡命し禁書をしまい隠しているものは、百日を経て自首しなければ、本来のように罪にする。 http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_8.html

からコピーしているようです。

(原文は『続日本紀』和銅元年正月(708年) の詔「亡命山澤 挾藏禁書 百日不首 復罪如初」)--黄金もち 2007年2月12日 (月) 16:32 (UTC)

同じ現代語訳を写した可能性等もありますが。--したたみ 2007年2月12日 (月) 19:11 (UTC)

Wikipedia:著作権侵害かもしれない記事に依頼しました。--したたみ 2007年2月13日 (火) 07:26 (UTC)

Wikipedia:進行中の荒らし行為にテンプレート剥がしを報告しました。--黄金もち 2007年2月13日 (火) 15:01 (UTC)

半保護を依頼しました(Wikipedia:保護依頼#九州王朝説)。現代語訳ひとつでも独自の著作性がでますから、著作権侵害でしょうかね…--ごまふあざ 2007年2月14日 (水) 13:33 (UTC)

黄金もちさんご指摘の2007年1月26日 (金) 15:14 (UTC)(上記)と2006年10月16日 (月) 12:18 (UTC)(下記)に関する特定版削除依頼を出しました。外部の文章との一致がありますので、Wikipedia:著作権侵害かもしれない記事の対象である「著作権侵害かもしれない」に当たらず、削除依頼が適当であると思います。Wikipedia:著作権侵害かもしれない記事の2007年2月の指摘は除去、2006年12月の指摘はひとまずそのままとしました。-- 2007年2月15日 (木) 08:36 (UTC)

同じことを何度も繰り返しのか?

ただし、現在、本説は東洋史、日本史などの学界からは黙殺されている(後述)。

以下に、その説を詳細に記す(注:学界等では認められていない説であることに留意する必要がある)。

上記の文書は同じことを2回書いてあります。注:の文を削除しようと思いますが、強く反対されている方がいます何故ですか?不要なものでしょう。

--202.147.217.166 2006年12月27日 (水) 03:59 (UTC)

合意違反です。2回書いていると不都合ですか?たしかに表現として美しいとは思いませんが、当面、原理原則を維持し、「学界からは黙殺されている」という点の記述に関して削除された場合にはリバートするほうがよいと考えています。過去に、上記記述を少しずつ削除しようとした方がいて、結果的に編集合戦になったことがあると記憶していますので。--ごまふあざ 2006年12月27日 (水) 16:32 (UTC)

この文章を書き込んだ人は、自分があらしだとの自覚がないのかな?--123.50.227.22 2007年1月4日 (木) 11:05 (UTC)

そう思うならWikipedia:荒らしをどうぞ。--Rekishi 2007年1月4日 (木) 15:25 (UTC)

これはちょっと

「これは○○自身の『東日流外三郡誌』論争における姿勢に -中略- 熱狂的読者は「○○信者」と揶揄されることもあり、九州王朝説を含む「多元的古代史観」とそれを支持する人々を心理学の研究対象として検討する論説も存在する。 」

『東日流外三郡誌』についてはリンクにとどめたほうが良いと思います。「心理学の研究対象として検討する論説」があるのは事実ですが、反発を招いたようです。--黄金もち 2007年2月12日 (月) 23:34 (UTC)


徳間書店 『週刊アサヒ芸能』1994年9月29日号掲載 『独占 町おこし、村おこしにつけ込み 古代史 昭和薬科大「TV有名教授」に噴き出した「偽造スキャンダル」』--したたみ 2007年2月13日 (火) 05:49 (UTC)

九州王朝説と直接関係ありませんよ。--黄金もち 2007年2月13日 (火) 07:33 (UTC)


『季刊邪馬台国』55号のグラビア記事 「古田武彦昭和薬科大学教授に衝撃の疑惑!!二百万円支払って、古文書偽造を依頼」

200万円がふりこまれた通帳・銀行の明細、古田武彦氏から安本美典への葉書

は↑の記事のそれでしょう。真相は知りません。なんとも評しかねますが、参考にはなるでしょう。あくまで私見ですが、「九州王朝説」「○×史観」等は、日本史の学説としてより、ある種の社会現象として把握したうが良いのでは。--掘っ立て 2007年2月13日 (火) 17:34 (UTC)


本文の冒頭に九州王朝説は「古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める所論である」とある。「多元的古代史観」の重要な資料である和田家文書に関する記事を参考までに紹介する。

邪馬台国の会 第253回 津田左右吉説、古田武彦説の検討 古代史探求の方法

上の記事では「偽物の作成を依頼してきた古田氏は表沙汰にできないと読んだ詐欺師は、200万円を着服したまま、古田氏から注文された「寛政年間の古文書」を作らなかった。古田氏は詐欺に引っかかったのである。 」とあり、安本氏は古田氏を「詐欺の被害者」としている。

「念書」には「和田家文書とみられる文書のレプリカ作成を、昭和薬科大学教授古田武彦氏から確かに依頼されました」とある。

古田氏が「文書のレプリカ」作成を依頼した意図は不明。

吉沢寛氏は昭和50年5月14日日本経済新聞文化欄の記事と和田家文書についての裁判の原告側訴訟代理人。

参考 倭人伝への旅 『季刊邪馬台国』掲載「和田家文書」関連論文・記事

--したたみ 2007年3月1日 (木) 09:17 (UTC)

「転載疑い」と「 出典」?

相反する注意が示されていますが、何か根拠があるのでしょうか?

この九州王朝説は、通説側の批判などを考慮に入れて少しずつ加筆・訂正れてきたもので、これは履歴を見れば一目瞭然です。 書籍などの他の媒体から文章が転載されている「転載疑い」などの可能性は皆無です。

通説と九州王朝説の違いは、資料解釈方法の違いに過ぎません。ここで使っている資料も他の項目とのリンクなどを見れば分かるとおり、一般に知られているものばかりです。

九州王朝説に対する反論ができないからこんな幼稚な嫌がらせをするのでしょうが、これらは荒し行為以外の何物でもありません。 --202.219.21.230 2007年2月14日 (水) 14:07 (UTC)

呆れました(2回目)・・・。本当に反論・批判を書いていいんですか?編集合戦を憂慮して、遠慮しているんですが。--デーモン博士 2007年2月14日 (水) 15:12 (UTC)

「九州王朝説」は容量が一杯です。「九州王朝説批判」の項を作ったらどうでしょうか?編集合戦にはならないと思います。反論がないから、私も含めて「九州王朝説」を信じてしまう人々が増えてきてしまうのです。「反論が無い=反論不能=正論」だと思ってしまうのです。本でもネット上でもきちんとした論理的な反論は見たことが無いです。部分的な反論や感情的なものばかりです。理論的・体系的な反論は大歓迎です。

しかし、wikipediaにおいては出典が必要とされ、独自の見解は難しいようですから大変でしょう。--202.219.21.230 2007年2月17日 (土) 04:42 (UTC)

一部は、典拠のない編集者の見解である可能性があり、出典がある部分は、原典丸写しになっている場所がある、というただそれだけのことでしょう。また、上記にあるように、著作権侵害となりうるような事態は、過去に起こっていますし、一部サイトとの類似性を比較しただけでも、疑わしい場所は多くあります。加筆されても、訂正されても、過去の一つの版で著作権侵害があれば、削除しなければなりません。なお、史料本文そのものは、独自性がないと理解してよいですが、史料の解釈や、現代語訳、書き下し文などは、独自の思考が含まれているので、著作性があります。
通説と九州王朝説の最大の違いは、通説の大部分は学術的な研究の成果であり、九州王朝説は俗説であるということです。それは単純な史料解釈の差ではありません。また、wikipediaにおいて、九州王朝説に反論する必要はありません。九州王朝説の正しさについて議論する場ではないからです。wikipediaにおいて重要なのは、それ(九州王朝説)が、社会的に、学術研究の成果として認識されているのか、俗説として認識されているのか、という点です。この点は、ノートで議論する必要があります。少なくとも、私は、学術研究の成果として、認定されているものが、一例もない以上、それは俗説である、という主張をしており、その点についてはコミュニティの合意を得ていると自覚しています。この主張について、反証がないかぎり、この合意をひっくり返すことはできないでしょう。(さらにいえば、なぜ、俗説として認識されているのかが、九州王朝説の説明として必要かどうかは、議論すべき点となるでしょうね。)
九州王朝説が「正しい」といわれるのであれば、学術雑誌に投稿して、社会的認知を経てください。社会的に九州王朝説が、「通説」であると理解されれば、wikipediaの中身も変更されるでしょう。そうでない限りは、たとえ、一般に知られていても、「俗説」という位置づけをはずすことはできませんし、上記のような「歴史か?」という疑問に対して応えているとはいえないでしょう。とりいそぎ。--ごまふあざ 2007年2月14日 (水) 15:27 (UTC)

部分的なものの場合は「Fact(要出典)」で十分です。「出典」は項全体の根拠を疑うもので不適切です。明らかな嫌がらせ「荒し」です。

「九州王朝説」の紹介ですから、古田史学会の「史料の解釈」を含むのは当然です。前段でそう宣言しているのですから、「著作権侵害」にはならないでしょう。

「現代語訳、書き下し文」まで著作権があるとは気が付きませんでした。(○○文庫訳)等と表記すべきだったでしょう。以後、気を付けます。他の項でも出典の無い「現代語訳、書き下し文」を見かけましたが、「著作権侵害」だったのですね!勉強になります。

何が言いたいのか分かりませんが、議論は要はないと思いますが、「九州王朝説」がこの世に存在する限り説の紹介や反論の紹介は必要でしょう。--202.219.21.230 2007年2月17日 (土) 04:42 (UTC)

念のため最初に確認しておきますが、IPさんはしょかいさんではないですね?しょかいさんは、現在投稿ブロック期間中[2]ですので。CU依頼したほうがいいでしょうか。一言で言えば、ノートで九州王朝説の中身や正当性について、議論するな、ということが言いたいのです。反論があろうが、なかろうが、俗説であり疑似科学であることは事実でしょう。
どの部分で出典がなくて、どの部分があるのか判然としないから、項目全体に「出典」が必要でしょう。
あと、たいへん失礼な申し上げようで、恐縮ですが。「現代語訳、書き下し文」まで著作権があるとは気が付きませんでした。この程度の「作法」も知らないのであれば、wikipediaにおいて歴史関係の項目へ投稿するのは、お控え願えませんでしょうか?書き方まで強制するつもりはありませんが、「作法」の中でも最低限、法令違反になりかねない部分については、知っておいてもらわないと困ります。原史料から、歴史の叙述ができるまでの手続きと、著作権について勉強されてから、投稿を再開されても遅くはないと思います。今後、編集されるたびに著作権侵害のおそれについて確認しなければならないのは、コミュニティにとっては、著しく疲弊させられる状態なのですが…。書き下しについては、今回話題になったから、なんとかなるでしょうが(それでも、削除依頼の対象となっていますので、すでに他ユーザに十分迷惑をかけているわけですが)、他にも「作法」はあります。何かあるたびに、いちいちここでレクチャーするわけにはいきません。--ごまふあざ 2007年2月17日 (土) 15:52 (UTC)
☆『相反する注意が示されていますが、何か根拠があるのでしょうか?』
「転載疑い」と「出典」は相反するものではありません。
「転載疑い」は他人の著作物を出所をあきらかにせずに切り張りしている疑いがあるということです。転載するさいは「○○」から引用したと出典を明記する必要があります。著作権の問題をクリアーするための、絶対的な要請です。
「出典」は記述の拠りどころ、つまり出所をあきらかにして欲しいということです。例えば、(九州年号表にある年号が)「各地で現在500以上確認されている」と記述するさいは、参考「○○」ないし「○○」による、などと書き添えて欲しいと指摘されているのです。出典が明記されていないと、「各地で現在500以上確認されている」という記述の信用度を検討し難いからです。
☆『この九州王朝説は、通説側の批判などを考慮に入れて少しずつ加筆・訂正されてきたもので、これは履歴を見れば一目瞭然です。 書籍などの他の媒体から文章が転載されている「転載疑い」などの可能性は皆無です。』
ご努力は良くわかりますが、所謂「通説側」からも加筆・訂正の努力がなされています。例えば2006年12月23日までのように「伊都國が陳寿の目的地であり」とありますと、陳寿が九州を訪問したように受け取られかねません。また、「蘇我氏は『古事記』には一切登場せず」のような明白な誤りは、すぐに訂正されています。
「他の媒体から文章が転載されている」と疑われる根拠は「亡命山澤 挾藏禁書 百日不首 復罪如初」の現代日本語訳が他サイトと一致していることです。上記サイトから202.219.21.230さんが使用したと思う人もいるでしょうし、もちろん他にいくつかの理由も考えられます。
付け加えれば「冨山家の近くの熱田社傍らの畑より出土した」という部分は二つの試金石 九州年号金石文の再検討にまったく同じ文があります。
(参考までに九州王朝説の中でも言及されている神籠石については、ある方の編集が原因となって特定版削除にいたりました。Wikipedia:削除依頼/神籠石


☆『通説と九州王朝説の違いは、資料解釈方法の違いに過ぎません。ここで使っている資料も他の項目とのリンクなどを見れば分かるとおり、一般に知られているものばかりです。』
「資料解釈方法の違い」についてですが、
「『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」によれば、俀國王の多利思北孤(日出處天子)のいる島には阿蘇山があると明記されているので、俀國は九州のことである」という部分について
「倭國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國。三十餘國,皆自稱王。夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。-中略-有阿蘇山,其石無故火起接天者,俗以為異,因行禱祭。」
仮に山島が九州を指すとしても、倭國の領域が九州のみであるとは記されていません。阿蘇山が九州にあるのは確かですが、多利思北孤が九州に住んでいたとは限らないのです。邪靡堆は大和の音を写したものである可能性もあります。邪馬壹ではなく「魏志所謂邪馬臺」とありますが、九州王朝説ではこの「邪馬臺」は「邪馬壹」の誤記・誤刻なのでしょうか。
確かに、九州王朝説における資料解釈方法には独自性があるようです。
☆『九州王朝説に対する反論ができないからこんな幼稚な嫌がらせをするのでしょうが、これらは荒し行為以外の何物でもありません。 』
「倭人および中国人にとって本州が島であるか半島であるかは長い間不明であった。島と認識されていたのは九州や四国だけである。」
いかなる根拠に基づいてこのように断言できるのでしょうか。特に大業三年(西暦607年)に津軽海峡が倭人および中国人に知られていなかったとする根拠は何でしょう。「隋書」の「山島」が九州のみを指すと解釈するためには、7世紀初頭にまだ津軽海峡が倭人および中国人に知られていなかったことを証明しなければなりません。誰がいつ証明したのでしょうか。
岩手県奥州市の角塚古墳、宮城県仙台市の遠見塚古墳など、東北地方にも前方後円墳が築造されており、宮城県古川市、山形県米沢市付近までは古墳文化の展開が確認されています。青森からも土師器、須恵器が出土しています。どのように理解するべきでしょうか。
私見では、九州王朝説の根拠として列挙されている事項は、たやすく反論が可能なものばかりです。「幼稚な嫌がらせ、荒し行為」などではありません。児童・生徒や知識、批判力の乏しい人も参照する可能性があることを心配しているだけです。--黄金もち 2007年2月14日 (水) 23:26 (UTC)

「他人の著作物を出所をあきらかにせずに切り張りしている疑いがある」の根拠はなんですか?「九州王朝説」を俗説と主張しながら、その俗説に著作物の出所を求める?俗説とは一般に広く信じられていることですよ!ここの項で挙げている根拠等は九州王朝説の常識です。

「たやすく反論が可能なものばかりです。」・・・何故出版物やネットでそれらの反論を見かけないのでしょうね?

なお、「山島」は隋(7世紀)代でなく魏等の古から云われていることです。前方後円墳は関係ありません。7世紀初頭の証明も必要ありません。

神籠石の項は、以前私が書いたものですが、最近みてませんでしたが何かあったのかな?--202.219.21.230 2007年2月17日 (土) 04:42 (UTC)


『「たやすく反論が可能なものばかりです。」・・・何故出版物やネットでそれらの反論を見かけないのでしょうね?』
プロの学者は「論文が無い」から批評のしようがないんです。
大衆向けの出版物は学術論文のていをなしてないから、厳密な検討が難しいです。
出版物は何冊かあるんじゃないんてすか。「否定側」のところに載ってますけど。
それと、F氏の無体な詭弁を嫌がって敬遠するむきもあるんでは。
正直、「相手したくない、こちらに一利も無い」というところでは。
「たやすく反論が可能」についてですが、悲しいかな「試合にならない」というところでしょう。
「倭王武」が九州に住んでたのなら、なんで西服衆夷六十六国なんでしょうね。
九州の西は海なんですけど。
内容についての議論はここではもうよします。
こんなことを書いているとノートの品位を下げますから、これをもって擱筆仕候。--したたみ 2007年2月17日 (土) 22:18 (UTC)


「俗説とは一般に広く信じられていること」は無理があるでしょう。
「大辞林」 第二版 (三省堂)によると
通説 世間に広く通用している説
俗説 世間に言い伝えられている根拠のはっきりしない話
定説 決まったこと、疑いないこと 正しいと認められている説
通説(つうせつ)2006年12月29日 (金) 10:22の版
[3]
--黄金もち 2007年2月18日 (日) 12:35 (UTC)


黄金もちさんの仰りたいのはこういうことでは。
漢代から隋代までのいずれの時代においても、倭人および中国人にとって本州が島であるか半島であるかは不明であったとする根拠は無い。
漢代から隋代までのいずれの時代においても、倭人および中国人にとって本州が島であるか半島であるかは不明であったことを証明することは不可能。
『隋書』に『其國境東西五月行,南北三月行,各至於海』とあることから、隋代には倭人および中国人は本州が島であることを認識していた。
したがって、『倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない』は誤りである。
「山島(九州王朝の継続性)」を赤ペンで添削しました。
「古代において津軽海峡は蝦夷国(『新唐書』における、「都加留(つがる)」、「麁蝦夷(あらえみし)」、「熟蝦夷(にきえみし)」)にあった。倭人および中国人がいつの時代に本州が島であるのか半島であるのかを認識したのかは不明である。漢代から隋代までの正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されているが、「山島」が九州を指すのか本州を含むのかは確定できない。」
「山島(九州王朝の継続性)」が否定されると「九州王朝説」の逆ピラミッド形の体系が崩落するのでは。
ノートでのこういう議論は避けたほうがよいと思いますのでもう書きません。
1月6日、いろいろな掲示板に九州王なるハンドルで書き込みをなさった方は誰でしょう。
スパム行為と見做されるおそれがありますが。
--デーモン博士 2007年2月19日 (月) 01:52 (UTC)


-デーモン博士さんにお力添えいただきましたが、もう少し補足させてください。某○○教系団体のサイト管理人さんには少々苦言を呈したくなりますが・・・

☆なお、「山島」は隋(7世紀)代でなく魏等の古から云われていることです。

なるほどそうですが、倭王姓阿毎字多利思比孤の倭國は在百濟 新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居とありますから、隋(581年-619年)代のお話でもあります。

当時津軽海峡が倭人および中国人に知られていなかったことを証明していただかないと、

①隋書の山島=九州⇒倭王(=九州王朝の首長)姓阿毎字多利思比孤は九州に居住・都の所在地も阿蘇山のある九州

②隋書の山島=本州・九州・四国⇒倭王(=大和王権の首長)姓阿毎字多利思比孤は本州の大和(邪靡堆)に居住・都の所在地も本州の大和

①②の両方の解釈が可能になります。もちろん教科書的な定説は様々な理由から②です。

☆前方後円墳は関係ありません。

関係が無いと主張される前に、古墳文化の展開と情報の伝達が無関係だと証明する必要があります。

☆7世紀初頭の証明も必要ありません。

九州王朝説において倭王姓阿毎字多利思比孤が九州に居住し、倭國の都も九州にあると主張されるのでしたら証明する必要があります。

ごまふあざさんが「wikipediaにおいて重要なのは、それ(九州王朝説)が、社会的に、学術研究の成果として認識されているのか、俗説として認識されているのか、という点です」 「学術研究の成果として、認定されているものが、一例もない以上、それは俗説である」 と述べておられますが、私もまったく同じ意見です。私は俗説(疑似科学)として認識されている理由も十分記述されるべきだと思います。

「九州王朝説批判」の項 できたらご遠慮ください。九州王朝説については議論したくないので(本音を言えば放置プレイに徹したいから-ノートではなおさらです)。反省してしばらく退場します。--黄金もち 2007年2月19日 (月) 08:07 (UTC)


Yamatai.jpgがもし書籍からスキャナで取り込んだ画像なら、著作権の問題はないのでしょうか。確認していませんが、「邪馬台国はなかった」などから転載していませんか。2006年8月24日 (木) 22:57の版 (編集) 125.1.69.15--したたみ 2007年2月20日 (火) 05:37 (UTC)


202.219.21.230さんが編集された2007年1月26日 (金) 15:14 (UTC)等に関する削除依頼を出しました。
Wikipedia:著作権などのWikipedia:基本方針とガイドラインを読まれることをお勧めします。
前にも一度申し上げましたが、観点が偏っておられます。どういったことが「嫌がらせ」に当たるか、ご自身のなさったことも含め、よく考えて下さい。-- 2007年2月15日 (木) 08:36 (UTC)

雑記「九州王朝についての話題」・「山島(九州王朝の継続性)」についての批判

九州王朝にまつわる面白い話題はたくさんあります。あまり肩のこらない話もいろいろあります。私自身はとても好きなんですが、いかんせん諸般の事情で語りづらいものがあるのが残念です。そのうち書くかもしれません。--デーモン博士 2007年2月22日 (木) 10:01 (UTC)

IPユーザさんへ 「Wikipedia:ウィキペディアは何でないか」をご覧になることをお勧めします。--したたみ 2007年3月1日 (木) 15:50 (UTC)

高良山の「古系図」 「九州王朝の天子」との関連をめぐって--掘っ立て 2007年3月2日 (金) 02:32 (UTC)

文脈から見て、IPユーザさんは当然三国志・魏書のおつもりでしょう。間違ってません。--デーモン博士 2007年3月2日 (金) 04:12 (UTC)

確かに間違ってはいませんが、魏書には三国志の魏書(魏志)、王沈の魏書、北魏の魏書もあるわけですから、「魏志」とするかデーモン博士さんがなさったように注記するべきです。

山島(九州王朝の継続性)にある「魏書」の内部リンクは北魏の正史になってしまっているでしょう。

2007年3月1日09:25の編集でIPユーザさんが「魏志」を「魏書」に変更したのですが、IPユーザさんは「北魏書」をご存知無かったのでは。その意味で注意を喚起したのですが、少々言葉が過ぎたかもしれません。妄言多罪。--掘っ立て 2007年3月2日 (金) 07:21 (UTC)


「隋書」については上にありますから繰り返しません。
①後漢書卷八十五東夷列傳第七十五倭人「倭在韓東南大海中 依山島為居」
倭は韓の東南の大海のなかにある。山島(山の多い島)によって居をなしている。
依山島為居の主語は「倭」
②晉書四夷傳東夷条「倭人在帶方東南大海中 依山島爲國」
倭人は、帯方(郡)の東南の大海のなかにある。山島(山の多い島)によって国をなしている。
依山島爲國の主語は「倭人」
③宋書卷九十七列傳第五十七夷蠻倭國「倭國在高驪東南大海中 世修貢職」
山島の記載なし
④『魏志』倭人伝
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑」
倭人は、帯方(郡)の東南の大海のなかにある。山島(山の多い島)によって国邑(国・村)をなしている。
依山島爲國邑の主語は「倭人」
宋書に山島の記載はありませんから、
①②④から得られる情報は「倭または倭人という人々が山の多い島にいる」ということです。
仮に山の多い島が九州を指すとすると
①②④から得られる情報は「倭または倭人という人々が九州にいる」ということです。
倭または倭人が本州、四国にいるかどうかについては、①②④は何の情報ももたらしません。
倭人を国名とみる説(松本清張氏)もあります。
倭または倭人を国名としても
①②④から得られる情報は「倭または倭人という国が山の多い島にある」ということです。
仮に山の多い島が九州を指すとすると
①②④から得られる情報は「倭または倭人という国が九州にある」ということです。
倭または倭人という国が本州、四国にあるかどうかについては、①②④は何の情報ももたらしません。
「漢代から隋代までの正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されているので、倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない。」は論理に誤りがあります。--掘っ立て 2007年3月2日 (金) 08:29 (UTC)


「倭(わ、やまと)は、紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称である。倭の住人を倭人と呼ぶこともあった。紀元前後頃から7世紀末頃にかけて、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称した。」ウィキペディア(Wikipedia)より

「倭 7世紀に日本国号が成立する以前の日本の呼び名。もとは中国による呼び名である。中国は中華思想により、周囲にすむ人々にいやしい名をつけた。倭にすむ倭人とは、背丈が短く背がまるくまがっている人の姿をいう。 」 MSN エンカルタ 百科事典より


日本語で「したたみさんは九州にいる」ならしたたみさんは個人の名前ですから、したたみさんは本州にいはいません。でも「倭または倭人は九州にいる」なら「倭または倭人」は地域または集団の名前(例えばニッポン人みたいな)ですから、倭人は本州にいても、日本列島以外にいてもよいわけです。


三國志魏書東夷伝馬韓伝

「韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里」

((韓)は東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する)

三國志卷魏書東夷伝弁辰伝

「弁辰與辰韓雜居 亦有城郭 衣服居處與辰韓同 言語法俗相似 祠祭鬼神有異 施灶皆在戸西 其瀆盧國與倭接界

((弁辰の)瀆盧國は倭と界を接する)


ここでは「倭」は地理的な名称でしょうが、朝鮮半島の一部を指していると解されます。

しかし、山尾幸久氏は平凡社『世界大百科事典』で倭を次のように解説されています。

「7 世紀以前の日本の呼び名。中国人が付けた名であるが,対外関係では 7 世紀後半まで自称として使われていた。-中略-三国志魏志東夷伝によって,中国人は朝鮮半島南部を倭と呼んでいたとか, 倭人が朝鮮南部に進出していたとかいう説もあるが,史料解釈が穏当ではない。九州北部と朝鮮南部との間に古くから住民の移住も含む継続的交流があったことは確かであるが,歴史的親縁性の証拠を中国史料の文面に求めるのはむつかしい。したがって,倭人は,前漢の朝鮮 4 郡の設置 (前 108) によって中国人に知られ,平均身長に約 10cmの差があったらしい韓人種族と区別して〈小柄な人〉と命名された公算が大きい。 1,2 世紀に九州北部の部族連合が栄えたが, 倭人種族を正式に代表する〈倭王〉が国際的に公認された最初は 3 世紀の邪馬台 (やまと) の卑弥呼(ひみこ∥ひめこ) で, 倭についてのまとまった叙述 (魏志倭人伝) もこのころ現れる。-以下略」

様々な理解の仕方があるでしょうが、いずれにしても

「漢代から隋代までの正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されているので、倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない。」

は三國志魏書東夷伝を恣意的に解釈していると言えます。

「古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は九州王朝の前身であるとし」ですが、

「「倭」とは九州のこと」が「「倭」とは九州以外ありえない」という意味なら、中国史書から見る限り、誤りでしょう。

--したたみ 2007年3月3日 (土) 06:47 (UTC)


掘っ立てさんが紹介された

高良山の「古系図」 「九州王朝の天子」との関連をめぐってから引用しますが

「「東高く、西下り、邪靡堆(やひたい)に都す。」 従来は(たとえば、岩波文庫)、これを「やまたい」と訓んできた。「靡」を「摩」の“あやまり”と見なしてきたのである。  しかし、これは、実はありえない。なぜなら隋書国伝は「都斯麻」(対馬)「一支」(壱岐)「竹斯」(筑紫)というように、現地名(筑紫は現地名では「ちくし」)を厳密に表記している。その上、「靡」には「ひ」の音しかない。その「音」を指示すべき〝音標文字〟として加えられているもの、それが「麻」の下の「非」なのである。ことさら「ひ」の音であることを、明示しているのだ。それを「摩のあやまり」と称するなど、あまりにも法外な「原文改定の手法」だ。わたしには、全く同じえない。それゆえ、これは「やひたい」と訓まねばならぬ。「都」の地に対する、「現地音の表記」なのである。 「やひ」は「八日」。“八つの太陽”の意。「堆(たい)」は、湿地帯に土埋めした領域を指す。」

は「ま」と読めるはす゛なのですが?

「「都」の地に対する、「現地音の表記」なのである。 「やひ」は「八日」。“八つの太陽”の意。「堆(たい)」は、湿地帯に土埋めした領域を指す。」

「やひ」は「八日」は良いとしても、「現地音の表記」のはずなのに「「堆(たい)」は、湿地帯に土埋めした領域を指す」はどういう意味なのでしょう。私には良くわかりません。「国名はたいこく、都はやひたい」説ですね。--したたみ 2007年3月3日 (土) 08:43 (UTC)


↑の「「やひ」は「八日」。“八つの太陽”の意」はフォルクスエティモロジー(Volksetymologie 語源俗解)では。「ハヤシライス」は林さんが考えたから「ハヤシライス」という類の。「奈良」が現代朝鮮語の「ナラ(国)」からなども同類ですが、反証可能性の問題から科学的な議論とはみなせません。--デーモン博士 2007年3月5日 (月) 19:46 (UTC)


高良山の「古系図」 「九州王朝の天子」との関連をめぐってで 「「阿蘇山有り。火起りて天に接す、云々」は、当然、九州第一の名山の表現である。大和三山や三輪山ではない。また中国人には珍しい「内海」である瀬戸内海の風物も、一切記されていない。」と述べておられますが

1「阿蘇山の記述あり」で都は九州
2「阿蘇山の記述なし」で都は九州
3「阿蘇山の記述あり」で都は近畿
4「阿蘇山の記述なし」で都は近畿
5「大和三山や三輪山の記述あり」で都は九州
6「大和三山や三輪山の記述なし」で都は九州
7「大和三山や三輪山の記述あり」で都は近畿
8「大和三山や三輪山の記述なし」で都は近畿
9「瀬戸内海の風物の記述あり」で都は九州
10「瀬戸内海の風物の記述なし」で都は九州
11「瀬戸内海の風物記述あり」で都は近畿
12「瀬戸内海の風物記述なし」で都は近畿

実際の隋書の記述から1、3、6、8、10、12が残ります。

九州説は(1、6、10)で大和説は(3、8、12)です。

(1、6、10)と(3、8、12)はどちらを残すべきでしょうか。

論理的にはいずれとも決めがたいのでは?--デーモン博士 2007年3月3日 (土) 14:51 (UTC)

うちの爺さんによると「本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』などの江戸時代後期の国学者の説を換骨奪胎して創造したフランケンシュタインの怪物のようなものです。九州王朝説はもとより「科学としての歴史学」の土俵にあがることはできません。「試合にならない」と書かれていますが、試合をする資格がありません。」だそうだ。--218.230.158.237 2007年3月5日 (月) 06:17 (UTC)


「近代科学以前の議論がゾンビ化したもの」なんて言う人がいるかもしれませんね。私はそうは思いませんが。私は(「魏志倭人伝」を信じるなら)狗奴国が気になってしかたがないんですかね。女王に服さぬ狗古智卑狗の狗奴国はその後どうなったんでしょう・・・。--デーモン博士 2007年3月5日 (月) 19:46 (UTC)

「ウィキペディアは演説場所ではなく、百科事典ですので、テーマについてではなく記事について話してください。」 やりすぎですよ。九州王朝説これぐらいにしておきましょう。みなさん、他をのぞいてみたらいかがでしょう。--黄金もち 2007年3月5日 (月) 21:19 (UTC)

「中立的な観点・正確性・独自研究」

Wikipedia:中立的な観点

ごく小さな少数派にしか支持されていない観点を掲載することは、それを保証するためには、十分に信用できる、第三者による情報源が不足していることから、独自研究に認定される場合があります。このことについて、ウィキペディアの共同創始者ジンボ・ウェールズは、次のように述べています。

もしあなたの考え方が多数派に属するのであれば、広く認められている参考文献を示してその観点を実証することは容易なはずだ。 もしあなたの考え方が言及するのに意味があるような少数派に支持されているのであれば、同じ意見を持っている著名な支持者の名前を挙げるのは容易に違いない。 もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、その内容はウィキペディアで言及するに値しない


情報源の評価

編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません。学術的な主題についてはどんな分野でも、その分野の学術雑誌に見られるような査読と評価についての確立された制度を持っています。例えば歴史では、アメリカン・ヒストリカル・レビュー (American Historical Review) 誌は毎年約 1,000 冊の書籍を査読しています。アメリカ歴史学会の史学文献に関する指針(1995年)では、歴史の全分野に関する27,000 冊の書籍と記事についての評価をまとめています。権威ある情報源を見つけるために、編集者はこのよう公表物を探し出して利用すべきです。権威ある情報源の間での不一致は記事中で示されるべきです


議論している分野で、修士以上の学位を取得している人か実証可能な形で公表された専門知識を実証できるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていると想定できます。

特別な主張には特別な証拠が求められる

注意信号がでたら、編集者は寄せられた主張を念入りかつ懐疑的に調べるべきです

広く知られてはいない、驚くべきまたは重要な主張

一流のニュースメディアで取り上げられていない最近の出来事にに関する、驚くべきまたは重要な報告

誰かの発言に関する、ふだんとは違う人を困惑させたり物議をかもしたりするような、あるいはそれまで擁護してきた関係者に反対するような報告

支持されていない主張や、関係学会に普及している見解に矛盾する主張。提案者が、そうした人々が沈黙しているのは陰謀のためだと言っている場合は特に気をつけてください

何が除外されるか

独自研究排除の方針の本来の動機は、個人的な持論を持った人々が彼らの考えに注意を引くためにWikipediaを使おうとするのを阻止することでした。[2]しかし、独自研究(の排除)は「私的トンデモ理論禁止」にとどまるものではありません。この方針は編集者の個人的観点や政治的意見、発表済みの情報の個人的分析や解釈、そして自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します。つまり、ウィキペディアで公開されるいかなる事実、意見、解釈、定義、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません

特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成

もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。しかし、これは「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな合成」の典型であり、独自研究に相当します。[4]「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。分析や解釈をウィキペディアで発表する際には、信頼できる情報源を通してその主題に対して行われたまったく同趣旨の分析や解釈が既に発表されていなければならないのです

都合よく解釈してるだけですね。九州王朝と通説の違いは権威ある情報源の間では一致しており、情報の解釈の違いだけです。--202.157.19.112 2007年3月26日 (月) 02:35 (UTC)

「情報の解釈」方法に疑似科学的なテクニックが駆使されているところが素晴らしい!--したたみ 2007年3月26日 (月) 14:30 (UTC)

「考えられる」が記事中に38回出現しますが、どなたが考えておられるんでしょう。あなたですか?--したたみ 2007年3月26日 (月) 17:19 (UTC)

↑拘束力は無いでしょうが、参考にするべきです。--黄金もち 2007年3月28日 (水) 17:16 (UTC)

警告 - 2007年3月27日 (火) 『ただし、現在、本説は...』

係る記載は本プロジェクトの公式な方針すなわちRULES以下CSに違反するものであり、同時にNPOVおよびNORないしVとの違反の含有の疑いを有するものである。したがって係る記載の復元を再度において行った者は、本プロジェクトにおけるそれは基より、あらゆる言語のもとでの当該プロジェクトに遍く係る合意事項について、これを無視する利用者であると見做され、BAN以下S1の定義に基づき、一律に追放の対象たりうる。 - 辻斬 2007年3月27日 (火) 17:24 (UTC)

差し戻し。合意なき編集。seeノート:大宰府。--Los688 2007年3月27日 (火) 17:34 (UTC)

提起 - 2007年3月27日 (火) 『ただし、現在、本説は...』

係る記載について、WP:CON以下S-2-3に基づき、RULES以下Vを満たす出典が只今より24時間以内に示されない場合、これをもって本コミュニティにおける係る記載の削除についての合意の成立とし、係る記載の削除を行う。 - 辻斬 2007年3月27日 (火) 17:47 (UTC)

ノート:大宰府にて投票実施・合意形成済み。--Los688 2007年3月27日 (火) 17:49 (UTC)
see RULES and CS
  1. 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
  3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。

- V

- 辻斬 2007年3月27日 (火) 17:57 (UTC)

附記

係る記載は本プロジェクトの公式方針たる検証可能性を満たしていない。したがって係る記載の一時的なコメントアウトを行う。

なお、係る記載を復元する者は、公式方針の無視を容認ないしは推進する者であると見做される。加え、その復元がノート:大宰府における合意事項に依拠するものである場合、その復元を行った者は次のような認識を持つ者と見做される。

個別の会話用名前空間における合意事項は公式方針に優越する。

本提起に基づき、RULES以下Vを満たす出典が本提起の署名時刻 2007年3月27日 (火) 17:47 (UTC) より24時間以内に示されない場合、コメントアウトのタグとともに係る記載の削除を行う。 - 辻斬 2007年3月27日 (火) 21:52 (UTC)

「公式方針は個別の会話用名前空間における合意事項に優越する」とする公式方針ないし規則はあるのでしょうか?ご指導いただければ幸甚です。--デーモン博士 2007年3月27日 (火) 22:26 (UTC)

デーモン博士さんへ 深夜にカッカするのは健康によくありませんよ。私的には仰りたいことは良く理解できます。大丈夫ですから、静観することにしましょう。--黄金もち 2007年3月27日 (火) 23:58 (UTC)

検証可能性についてですが、CiNiiで“九州王朝”を検索した結果が参考になると思います。--黄金もち 2007年3月28日 (水) 00:15 (UTC)

WP:NPOVにある

「われわれに課せられた任務は、その疑似科学が科学的な見方とあたかも平等に張り合うような説であるがごとく紹介するという何かインチキな「フェア」の概念に基づいて論争をフェアに描写することではありません。むしろわれわれの任務は、主流派の(科学者の)意見を主流派のものとして提供し、少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、更に、科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです。これは全て論争をフェアに説明するという任務の一部です。」

の趣旨からいって、「少数派の意見」を解説する大容量の記事の後半に全体の十分の一以下の「主流派の科学者の意見」を両論併記の形で提供している現状は中立的であるとは言えません。しかしながら本項目は「少数派の意見」を解説するものである以上、「主流派の科学者の意見」の割合が多くなることは差し控えるべきです。(WP:NOT) となれば、冒頭に「科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているか」を説明する文章を入れることにより対処することは、有効な選択肢の一つです。また、WP:Vとおっしゃるのでしたらとりあえず出典を2つ挙げておきます。無視している専門書は多すぎて逐一挙げられませんが。

「倭国―東アジア世界の中で」岡田英弘 ISBN 4121004825
巻末に批判掲載。
「邪馬台国論争」佐伯有清 ISBN 4004309905
「科学者」の邪馬台国論争史に九州王朝説を片鱗も掲載しておらず無視している。

私は九州王朝説が間違っていると声高に主張する気はありませんが、現在科学者が九州王朝説をどのように受け止めているかは、上記公式方針から言っても明記すべきであると断言します。ということで、以下の文章に修正した方が、より正確かもしれないので、皆さんの意見を求めます。

(修正前)「ただし、現在、本説は東洋史、日本史などの学界では認められていない説であることに留意する必要がある。(後述)。」
(修正後)「ただし、現在、本説は多くの東洋史・日本史学者から批判または無視されている説であることに留意する必要がある。(後述)。」

--ろう(Law soma) 2007年3月28日 (水) 01:44 (UTC) --ろう(Law soma) 2007年3月28日 (水) 08:08 (UTC)追記修正


林健太郎氏(元東京大学学長、西洋史学者)から安本美典氏(元産能大学教授)に宛てた書簡の一部(「詐欺師たちの時代」 『季刊邪馬台国』五七号)

「御高著『虚妄の九州王朝』御恵送に与り誠に有難う御座いました。初版がよく読まれ、それがこういう改訂新版に発展したのは慶賀の至りです。古田氏はオウム真理教麻原の如く信者を持っていますから何度もやっつける必要があります。」

初版とあるのは「安本美典 『古代九州王朝はなかった』古田武彦説の虚構 新人物往来社」

上記の安本氏著書は井上光貞氏が九州王朝説を「空中楼閣」と評したとする。

--黄金もち 2007年3月28日 (水) 11:41 (UTC)

「係る記載は本プロジェクトの公式方針たる検証可能性を満たしていない」はあなたがそう考えておられるだけでは。
「私は係る記載は本プロジェクトの公式方針たる検証可能性を満たしていないと考える」とするべきでは。
「私は係る記載は本プロジェクトの公式方針たる検証可能性を満たしていないと考えるから係る記載の一時的なコメントアウトを行う」とするべきでは。

作文についてもう少し学ばれるべきでは(あまり他人のことは申せませんが)--黄金もち 2007年3月28日 (水) 12:04 (UTC)


学士会報No857 2006-II 古田武彦「九州王朝の史料批判」から引用。

「九州王朝説は、三十余年来わたしの提唱し来たった学説である。学術論文や著述を通じ、逐次その論証点を明らかにしてきた。けれども、これに対する学会の応答欠乏し、ために自他に迷惑を与えること、少なくない。」

古田氏は学会が九州王朝説を殆ど無視ないし黙殺していると認めておられるようです。

保護が解除された2006年10月14日 (土) 07:10の版では「ただし、現在、本説は学界からは無視されている。」でした。削除されてしまったため確認できないのですが、どなたかが「ただし、現在、本説は学界から無視されており、認められていない説であることに留意する必要がある。」と変更されていたのです。

2007年2月28日 (水) 09:04の編集でしたたみさんが削除されてしまった部分をもとに戻されてからは②③の表現になっています。

①「ただし、現在、本説は学界からは無視されている。

②「ただし、現在、本説は学界から無視されており、認められていない説であることに留意する必要がある。

③「ただし現在、本説は東洋史、日本史などの学界では認められていない説であることに留意する必要がある。

①は検証可能性を満たしていると考えます。

②③について

「学会の応答欠乏」⇒「学界で認められていない」とは申せないと考えます。

余談ですが下にある

『隋書〔ツイ〕国伝』から見える九州王朝 学士会会報 2005(5) (通号 854),114~119,2005/9(学士会)

についての批評

朴斎雑志

--デーモン博士 2007年3月28日 (水) 14:36 (UTC)


「学会の応答欠乏し、ために自他に迷惑を与えること、少なくない」
古田氏の仰る学会はおそらく東洋史・日本史・考古学関連の学会等のことでしょう。「学界から」の学界とは学問の世界でしょうから、より範囲が広い。西洋史は無論のこと、あらゆる学問を包摂している言葉です。
「ただし、現在、本説は学界からは無視されている」
「学会の応答欠乏し、ために自他に迷惑を与えること、少なくない」
の記述をもって検証されるというのは少々無理ではないでしょうか。--黄金もち 2007年3月28日 (水) 17:08 (UTC)


朴斎雑志は大野圭介氏(富山大学助教授)が書かれたものですが、T氏(田口利明氏 著書を出版されているのですからお名前を記しても差し支えないでしょう)の著書。

『九州王朝と日本の古代―古代史の真実を求めて 』 三一書房 2006/12 

ところで辻斬氏どこにいったんです?--掘っ立て 2007年3月29日 (木) 17:08 (UTC)


国立情報学研究所(NII)が提供する論文情報ナビゲータCiNiiで,学術雑誌と研究紀要を検索してみます。

「九州王朝」で検索

1.古田,武彦 九州王朝の史料批判 学士会会報 2006(2) (通号 857),129~133,2006/3(学士会) 2.田口,利明 『隋書〔ツイ〕国伝』から見える九州王朝 学士会会報 2005(5) (通号 854),114~119,2005/9(学士会) 3. 古田,武彦 九州王朝の「君が代」論 : 溝口論文への反論 国際教育研究 24,67-85,20040325(ISSN 03893189) (東京学芸大学国際教育センター国際教育研究室 編/東京学芸大学国際教育センター国際教育研究室/東京学芸大学) 4. 室伏,志畔 皇統の南船北馬 (特集 九州王朝説の現在) 季報唯物論研究 (87),85~97,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 5.福永,晋三 〔シ〕倭の興亡概要--神功王国対卑弥呼王国 (特集 九州王朝説の現在) 季報唯物論研究 (87),77~84,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 6.大芝,英雄 『古事記』の実像、豊前王朝説 (特集 九州王朝説の現在) 季報唯物論研究 (87),68~76,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 7.兼川,晋 安閑・宣化紀と欽明紀--二朝並立と仏教の伝来 (特集 九州王朝説の現在) 季報唯物論研究 (87),61~67,76,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 8.徐,桐生; 藤田,美代子 訳; 藤田,友治 殷商時代は中日文化交流の始動期である(抄訳)〔含 解説〕 (特集 九州王朝説の現在) 季報唯物論研究 (87),51~60,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 9. [40006131321]王,金林; 藤田,美代子 訳; 藤田,友治 王、大王から天皇へ〔含 解説〕 (特集 九州王朝説の現在) 季報唯物論研究 (87),44~50,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 10.沈,仁安; 藤田,美代子 訳; 藤田,友治 九州勢力東遷説と王朝交替説--古代日本の統一問題の研究現状〔含 解説〕 (特集 九州王朝説の現在) 季報唯物論研究 (87),35~43,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 11.藤田,友治 多元史観と九州王朝説--日本の古代国家の統一諸説を検討する (特集 九州王朝説の現在) 季報唯物論研究 (87),23~34,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 12.中小路,駿逸 古田言説が出現してから--中小路言説とのかかわり (特集 九州王朝説の現在) 季報唯物論研究 (87),14~22,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 13.添田,馨 歴史思想としての「九州王朝説」 (特集 九州王朝説の現在) 季報唯物論研究 (87),6~13,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 14. 特集 九州王朝説の現在 季報唯物論研究 (87),5~97,2004/2(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 15. 室伏,志畔 南船北馬の向こう側(6)九州王朝の内部葛藤--磐井の乱論 季報唯物論研究 (86),113~125,2003/11(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 16.溝口,貞彦 「君が代」九州王朝賛歌説批判 : 志賀海神社の神楽歌に寄せて 国際教育研究 23,53-70,20030325(ISSN 03893189) (東京学芸大学国際教育センター国際教育研究室 編/東京学芸大学国際教育センター国際教育研究室/東京学芸大学) 17.室伏,志畔 南船北馬の向こう側(2)九州王朝説の向こう側--継承論 季報唯物論研究 (80),122~140,2002/5(ISSN 02852993) (季報「唯物論研究」刊行会 編/季報「唯物論研究」刊行会) 18. 韓日関係掘り起こ史(番外編)『本誌〔アプロ21〕の古代史論文への異論・九州にあった倭国』に反論する 七世紀には、九州王朝はない アプロ21 5(9) (通号 53),58~62,2001/10(アプロツ-ワン 〔編〕/アプロツ-ワン 19.川村,明 九州王朝説批判(4) 古代史の海 (通号 18),62~93,1999/12(ISSN 13415522) (季刊「古代史の海」の会) 20.川村,明 九州王朝説批判(3) 古代史の海 (通号 17),70~88,1999/09(ISSN 13415522) (季刊「古代史の海」の会) 21.川村,明 九州王朝説批判(2) 古代史の海 (通号 16),100~126,1999/06(ISSN 13415522) (季刊「古代史の海」の会) 22.川村,明 九州王朝説批判(1)中国史書の「倭」の徹底分析から見えてくるもの 古代史の海 (通号 15),68~97,1999/03(ISSN 13415522) (季刊「古代史の海」の会) 23.半沢,英一 九州王朝説と考古学の現実 市民の古代 (通号 18),194~210,1999(ISSN 02871246) (市民の古代研究会 編/ビレッジプレス) 24.半沢,英一; 丸山,晋司 対談 九州王朝説をどう考えるか 市民の古代 (通号 17),115~121,1996/04(ISSN 02871246) (市民の古代研究会 編/ビレッジプレス) 25.古田,武彦 「読み人知らず」に秘められた流転--「君が代」は九州王朝の王者を讃える歌だった! 朝日ジャ-ナル 32(20),p24~27,1990/05/25(ISSN 05712378) (朝日新聞社 〔編〕/朝日新聞社) 26.古田武彦「君が代」は九州王朝の讃歌 1990(新泉社) 27.中島,洋 古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ, 古田武彦著〔一九八五年十一月、徳間書店1,600円〕 太平洋学会学会誌 (30),100,19860400(ISSN 03874745) (太平洋学会) 28.梅沢,伊勢三 古田武彦著「失なわれた九州王朝」 季刊人類学 5(2),208~214,1974/05/00(ISSN 03873072) (京都大学人類学研究会 編/京都大学人類学研究会)

東洋史・日本史・考古学関連の学会名は見当たりません。--したたみ 2007年3月28日 (水) 23:27 (UTC)

貴重な調査結果有り難うございます。これらを拝見すると古田先生が関わっておられる会がほとんどであり、その他の多くが数学がご専門のアマチュア歴史家川村氏や教育行政学の溝口貞彦先生となっていますね。あとは書評とおぼしきタイトルです。書評は肯定的意見なのか否定的な意見なのか分かりません。
古田先生関与団体が多くなるのは、或る意味当然でありまして、「九州王朝」でタイトル検索すれば九州王朝について主張した論文が多くなることは自明であり、既に検索条件でバイアスがかかっているのではないでしょうか?
また、通常論文とは批判を主題とするものは少なく、通常は自説を述べる際に先行する説の検討をする中で批判するのがよく見受けられます。論文の主題でない批判対象の説の名前をタイトルにする人はいません。川村氏は批判を目的とした論文ですので例外ですが。
いわゆる学界における史学者(専門家として、上記公式方針でいう科学者)の論文に占める「九州王朝説評価」、「九州王朝説批判」、「九州王朝説無視」の割合が分からないと、このようなデータは意味をなしません。
最後に、誰が「学会」誌、「学会」編などと言っているのでしょうか?「学界」とは一般的には「或る特定分野を専門とする学者の世界」です。--ろう(Law soma) 2007年3月28日 (水) 14:33 (UTC)


『ハインズ博士「超科学」をきる』井山弘幸訳、化学同人より引用

「擬似科学に対する彼ら(学者や科学者)の反応は、決まってナンセンスだから相手にしないというものである。とはいえ、そうしたお決まりの態度は不幸なものとしかいいようがない ―中略― 科学者たちは国民から多額の税金を払ってもらっている手前、そのことを国民に知らせる義務がある。相手にせず調べないでいることは、結局それを主張する側のいいたい放題になってしまう危険性があるし、国民が納得のゆく選択をするための知識を教えないことになる」

私は生物学が専門なのですが、上と同じ意見です。専門の方々にこそ責任を果たして欲しい。お願いいたします。--デーモン博士 2007年3月28日 (水) 15:21 (UTC)


CiNiiで“九州王朝”を検索した結果が参考になると思うと記したのは私なのですが、CiNiiの検索結果は「本説は東洋史、日本史などの学界では認められていない説」の出典とはならないでしょう。ただ、九州王朝説を主題とする査読を経た論文が見当たらないことが判るのみです。--黄金もち 2007年3月28日 (水) 16:38 (UTC)

学術雑誌等を図書館で精査したいものですが、時間と費用が負担できません。残念至極です。それにしてもさすがに故林健太郎氏は凄い。恥じ入るのみです。--したたみ 2007年3月28日 (水) 23:48 (UTC)

すべきことは別にあるのではないでしょうか。友よいったん撤収して出直しましょう。--掘っ立て 2007年3月29日 (木) 01:37 (UTC)

「蘇我氏の名は、馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿や蝦夷などその存在自体が怪しい点がある」
馬鹿の語源についての新説。私は「記事の正確さ」のテンプレートを張っておくべきだと思いますが。--掘っ立て 2007年3月29日 (木) 01:52 (UTC)

『ハインズ博士「超科学」をきる』なら原田実さんの小論にデーモンさんご紹介のそれと同じ部分が紹介されてますよ。この本はM.ガードナーやC.セーガンの本とともに良く知られたものです。 『東日流外三郡誌』裁判・判決とその問題点

※マイペディアサーチ・世界大百科事典サーチ・エンカルタ百科事典ダイジェストで“九州王朝”はノーヒット。エンカルタで古田武彦をサーチすると古田選手がヒットする。--掘っ立て 2007年3月29日 (木) 02:45 (UTC)


学界は辞書的には「学者の社会または学問の世界」のことでしょうね。東洋史、日本史などの学界なら「東洋史、日本史などの学者の社会または学問の世界」ですかね。「東洋史、日本史などの学者の社会または学問の世界では認められていない」の十分条件は何でしょう。仮に「これこれしかじか」がそれだと主張しても「それでは不十分」と難癖をつけられたら困ってしまいますね。

馬鹿という言葉はどこまで遡れるのでしょうね。「蘇我氏の名は、馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿や蝦夷などその存在自体が怪しい点がある」を書いた方にお聞きしたいです。

記事中の「なお、8世紀には日本列島最古の地図(行基図)が作られ」はリンク先の行基図についての解説も読んでいないようですね。行基図については朴斎雑志にも解説があります。アイピーさんはもう少し調べてからお書きになったらいかがですか。読む人が迷惑しますよ。

そういえば20年以上前に古田さん(と思うんだけど?)に立命館で道を尋ねたことがあります。--デーモン博士 2007年3月29日 (木) 18:12 (UTC)

「大和が滅亡させた九州王朝が制定した『九州年号にある「継体」』を淡海三船が参考にした可能性があるとする人もいる」
上の「人」はアイピー氏ですね。「独自研究」では。
「九州王朝説では、倭(九州王朝)が日本列島の盟主であったことを示しており」
「多元的古代史観」と矛盾していませんか?
正確性のテンプレートに一票。自分で貼って撤退します。みなさんも本業多忙でしょうからこのあたりで休止としませんか。 --したたみ 2007年3月29日 (木) 19:57 (UTC)

要出典が貼られた部分について

☆要出典が貼られた部分について一言☆
主観を排した事実のみ記してみます。
「史料批判など歴史学の基礎手続きを踏んでいない」について
①九州王朝の存在を記した一次資料が存在しない。従って史料批判は不可能です。
②「九州年号」の根拠の一つである『襲国偽僣考』に記された「九州年号」と題する古書は現存しない。従って史料批判は不可能です。
③外国の史書にも九州王朝の存在を記したものは皆無。九州年号の存在を記したものも皆無。『海東諸国記』にも九州年号の記述は無い。従って史料批判は不可能です。
ないものは批判できないのですから史料批判など歴史学の基礎手続きは踏めないです。
「考古学の資料分析の成果とそぐわない」について
①仮説は事実をもとにして、事実を矛盾無く説明できるように組み立てる。考古学の資料分析をもとにして、判明した事実を矛盾無く説明するために「九州王朝」を持ち出す考古学者は皆無である。--したたみ 2007年4月4日 (水) 04:53 (UTC)(どこまで伸びるんでしょうね)
したたみさんに補足。
二次史料のみを元とした歴史学仮説は、一次史料も加味した仮説より信憑性が少なくなります。通説の方が一次史料群との矛盾が少ないと見られているから九州王朝説は無視されているのです。これは学閥とか権威主義とか学界の閉鎖性などとは全く関係ありません。その証拠に立花京子氏の新説などは元来歴史学の専門でない「一介の主婦」(今谷明談・出典:今谷明、『信長と天皇』、講談社、1992)にもかかわらず、批判も多いものの無視はされておらず評価する学者も多くおります。要は最初に『魏志』の史料批判のやり方が恣意的であるとの批判をされたときに当該批判に対する反証なり自己批判&自説強化なりをせずに等閑に伏し、自説の横への展開を図りマスコミと市民団体に訴えた古田氏の手法が学問的でないために生じた「無視」なのです。キャッチボールの途中で球を返さず懐に入れてしまったための無視と言っても良いでしょう。
考古学上の現在の通説は、(王の権限や国家体制に諸説あるものの)3世紀半ば頃の古墳時代初期に畿内を中心とする勢力がトップに立つ連合が関東~九州において成立したというものです。これは古墳の編年研究が進んだことから、同時代の古墳建設状況や分布がかなり判明してきたために分かってきたことです(出典:白石太一郎、『古墳とヤマト政権』、文芸春秋、1999)。このため邪馬台国九州説論者は、あくまで文献史学の立場から「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」(『魏志』)を根拠とするか編年研究の誤差を追求し古墳時代の初期を4世紀以降とするかしています。当然考古学者からは編年の誤差を縮める研究が発表され、きちんとした論争となっています。このような状況だと、歴史学上では畿内説と九州説は併存・論争中、考古学上では畿内説が有力説、と記載できるでしょう。
しかし古墳時代以降明らかに畿内より劣った勢力となっており、土器の形式からも畿内からの移住者が多くなっている九州に、7世紀まで畿内より優越した政権があったとする九州王朝説は、このような論争にすらなっていません。同じ九州王朝説の同士内での雑誌発表と書籍出版に偏っています。このような状態を「考古学の資料分析の成果とそぐわない」とあっさり書いているのは、むしろ控えめといっても良いでしょう。
要出典を貼った219.127.248.70氏へ。いずれあっさりした記述が要出典とされるのであれば、批判を逐一出典付きで挙げるしかありませんが、そうすることで「九州王朝説」であるべき項目が「九州王朝説批判」となるのは百科辞典的には多少心苦しいものを感じますので、それでも出典を要求されるのであればご自由にどうぞ。--ろう(Law soma) 2007年4月4日 (水) 07:28 (UTC)

辻斬氏の提案についてと修正文案の検討提案

辻斬氏の「ただし、現在、本説は...」削除の提案は、合意違反を以て、一旦反対されました。その後、かかる合意の有効性を問題視した辻斬氏により、舞台はWikipedia‐ノート:検証可能性に移っています。皆さん一旦休止をおっしゃっていますが、いずれこの文章が検証可能性を満たしているかについては皆さん疑念を抱いている様子です。現在の意見としては、

  1. 私の出した「ただし、現在、本説は多くの東洋史・日本史学者から批判または無視されている説であることに留意する必要がある。」の方がより正確でないかとの意見。
  2. デーモン博士さんの出された「ただし、現在、本説は学界からは無視されている。」の方が検証可能性を満たしているとの意見。
  3. 黄金もちさんの、「無視されている」でも検証可能性を満たしているとは言えないとの意見。

がありますが、いずれ疑似科学について言及された項目の目立つ位置に「科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明する」文章は必要です。変なつっこみを入れられないように合意形成する必要があろうかと思います。私も上記1の提案は一旦撤回します。--ろう(Law soma) 2007年3月30日 (金) 00:35 (UTC)

なお、上にありました「無視されて...」の文章はここにあり、したたみさんによりこのように変更されています。--ろう(Law soma) 2007年3月30日 (金) 01:48 (UTC)


このようになのですが、 2007年2月13日に記録しておきました削除された版に基づいて表現を復旧いたしました。

私なりに皆様のご指摘をまとめてみます。

①九州王朝説を構成する諸説を批判した研究者

井上光貞(東京大学・日本史)、榎一雄(東京大学・東洋史)、大野圭介(富山大学・中国古典文学)、奥野正男(宮崎公立大学・考古学)、岡田英弘(東京外国語大学・東洋史)、白崎昭一郎(福井工業大学・医学)、林健太郎(東京大学・西洋史)、溝口貞彦(二松学舎大学・教育学)、三木太郎(駒沢大学・日本史)、安本美典(産能大学・心理学)、山尾幸久(立命館大学・日本史)

川村明(数学・解析学)、久保田穣(弁護士)、高木彬光(作家)、原田実(作家・元昭和薬科大学助手)等

②主要な百科事典・辞書等で九州王朝説は記載なし。CiNiiで、東洋史・日本史・考古学関連の学術雑誌に掲載された、タイトルに九州王朝を含む論文なし。論文内での九州王朝の扱いについては不明。

③佐伯有清氏(北海道大学・成城大学・日本古代史)は「邪馬台国論争」 岩波書店 2006年 において「科学者」の邪馬台国論争史に九州王朝説を掲載しておらず無視している。

④古田武彦氏は自ら「これに対する学会の応答欠乏し」と述べられており、学会が九州王朝説を殆ど無視ないし黙殺しているとする。

個人的にはろう(Law soma)さんの案に賛成です。また「「科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明する」文章は必要です」とのご意見に100%賛成いたします。-したたみ 2007年3月30日 (金) 19:36 (UTC)


「学界からは無視されている」ですと誤解を招くと思えたのです。

「東洋史、日本史などの学界からはほとんど無視されている」なら、提唱者である古田氏が「学会の応答欠乏し」と述べられていること及び、主要な百科事典・辞書・教科書等に九州王朝説の記述が皆無であることを根拠として検証されたとして良いと考えます。

私もろう(Law soma)さんの案で良いと思います。どなたか別の私案も出して頂ければと思います。--黄金もち 2007年3月30日 (金) 21:26 (UTC)


「学界では認められていない説」を「学界では科学的な学説とは認められていない(俗)説」とすれば出典ないし論拠が見つかるのではないでしょうか。

暫定的には「本説は多くの学者から批判を受け、東洋史、日本史などの学界では無視されている説であることに留意する必要がある」はどうでしょう。ろう(Law soma)さんの案の方が簡潔で良いかもしれませんね。--デーモン博士 2007年3月31日 (土) 02:35 (UTC)

余談ですが、「体系化された学説」と「妄想体系」のスペクトルは連続しており、峻別することができないとする見解がありますね。--デーモン博士 2007年3月31日 (土) 16:21 (UTC)

ろう(Law soma) さんの文案に賛成させていただきます。ただ、年間何百と出る論文・報告書・書評の類の中で、古田氏の提唱から何年間も全く顧みられていないというだけで、十分検証できていると思うのですが…それこそ全体的に悪魔の証明的な疑似科学の手法にひっかかっている気がします。一方で、この手の俗説にあまり批判をしない学界側にも問題があるのかもしれませんが…学界側としては、歴史好きの人々の「自由な」発想を抑えつけるような筋合いはない、一つ一つの俗説をつぶしていくほどの余裕もない、という事情もありそうです。この辺は、歴史学や考古学の学問そのものに内在する問題でもあるのでしょう。--ごまふあざ 2007年3月31日 (土) 16:56 (UTC)

皆さんの御賛同、ありがとうございます。九州王朝説信奉者でも科学的思考をされる方でしたら

  1. 九州王朝説が多くの学者から批判又は無視されていること。
  2. 中立的観点から言って本項目に1.の事実を記載する必要があること。

については了解していただけると思います。--ろう(Law soma) 2007年4月2日 (月) 00:37 (UTC)

皆さんの御意見を踏まえまして、次の文案を提案します。

  • ただし現在、本説は、井上光貞榎一雄を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書[1]においては記載されずに無視されている[2]説であることに留意する必要がある。
  1. ^ 佐伯有清、『邪馬台国論争』、岩波書店、2006年
  2. ^ 古田武彦氏は自ら『学士会報』No857 2006-II所収「九州王朝の史料批判」において「これに対する学会の応答欠乏し」と述べている。

これにより、検証可能性、中立性を確保できるのではないでしょうか?

ろう(Law soma) さんのご意見に全面的に賛成します。まとめ、ありがとうございます。さて、以下、簡単に私見を。

  1. 私個人的には、「少しでも、評価であれ、批判であれ、通常の説として取り扱っている論文・報告書が一例もない」という主張で、立派に挙証責任を果たしていると考えています。悪魔の証明をしているつもりです。なので、本来は、これに反論をすべきほうから、一例でもいいので反証を出してもらうべきではないかと考えております。査読のある論文で、一例でも出てくれば、「完全に無視されている」という主張を撤回し、謝罪することはやぶさかではありません。そうでなければ、「無視されている」に出典もなにもあったものではないと個人的には考えています。(ただし、ろう(Law soma) さんのご提案は周到なものですので、訂正を求めるものではありません)
  2. 私は、このノートで九州王朝説批判を、原則としてするべきではない、という主張を何度か行ってきました。なぜかといいますと、ここで、九州王朝説を批判しても、その結果を記事空間に反映できないからです。このノートで、いくら反論しても、その主張に検証可能性がなければ、独自の研究でしかないからです。wikipediaは、事実を書く場であって、真実を書く場ではありません。「どちらが真実か」ということを議論し続けることは、九州王朝説肯定論者と同様の土俵にのってしまうのと同じ過ちを犯していると考えます。なので、検証可能性のある事実のみを淡々と述べればよいのだと思います(なので、学界から無視されている=学問的水準にないということだけ、わかりやすくはっきり書いておけばよい、というのが私の個人的主張です)。ただし、相手を説得するために、九州王朝説批判をノートで書くことは、手段としては必要だと思います。
  3. 気になっていたのですが、「注:下記に記された内容は、投稿者を含む他の研究者の主張も取り入れており、古田説とは若干異なる点もある」冷静に見てみたら、この文章「以下の記事は独自の研究である」と宣言しているわけですよね。出典が証明されていない文章は、どこかの段階で編集対応してばっさり削ってもよいのかな、とすら考えてしまいます。
  4. 一方で、著作権侵害が多すぎます。以前は、通りませんでしたが、IPユーザさんによる度重なる著作権侵害は荒らしに十分値するものだと思いますので、またどこかで半保護を依頼すべきかな、と考えています。
  5. wikipediaでは、コミュニティの合意は、方針に優越します。それは、ルールすべてを無視しなさいの目指す精神の一つです。以前、別のノートではありますが、以下のような主張をしました。「合意は形式に優先しますが、形式の正しさは合意を得やすくするために重要な手段です」と。しかし、wikipediaでの形式やルールは、あくまで手段であって、それを遵守することそれ自体が目的ではないはずです。合意が形成されていれば、形式やルールを遵守するという目的のみによって覆される理由はないと考えます。

以上、私見を長々と失礼しました。

また、合意事項(ノート:大宰府)に訂正と一つ追加の提案をしたいと思います。

  1. 百科事典としての「正しさ」を維持するため、大宰府大化の改新日本の首都鬼ノ城白村江の戦いなど、7世紀日本史学の項目について、九州王朝説については、「俗説」という節をもうけ、項目全体の後半に九州王朝説へのリンクのみはることとする。また、この節には、他の俗説についてもリンクとして列挙することも認める。
  2. 九州王朝説については、むろん、内容を充実させることは、百科事典として問題ない。ただし、(上記のろう(Law soma) さんのご提案をはじめとして各種の)問題点の記述を認める。
  3. 日本の首都には、俗説をのせることが認められていないので、文章をのせることは行わない。

若干、以前より肯定論者に厳しい提案としてみました。記事によっては、分量のバランスが悪いところがあること、一連の議論で、「俗説」であることがより明確になったと考えますので、上記変更を求めます。また、これ以上、俗説でもめるのは勘弁してほしいところですが、俗説の記事は百科事典としては、あってもよいのではないかと考えます。俗説であることがはっきり明示されていれば。なので、他の関連する俗説があれば、九州王朝説と同列に記述されることがあってもよいのではないかと。

日本の首都で、以前から編集合戦が起こっていました。それは、今までの合意事項で、直接この記事への言及がなかったためだと思われます(ただのあげ足取りでしかないのですが)。その点を反省し、第3項目を追加提案いたします。日本の首都で、一覧とされているのは、正規の天皇・大王がいた場所のみ書かれています。南北朝の問題や、行宮なども一覧の対象とされていません。なので、ここで明確に合意事項として提案したいと思います。なお、独自の研究はかかない、著作権侵害はしないは、wikipediaの基本方針であり、いちいち合意事項に書くのもばかばかしいので、追加しませんでした。以上です。--ごまふあざ 2007年4月12日 (木) 16:38 (UTC)

ろう(Law soma) さんの文案に賛成です。7世紀日本史学の項目の九州王朝説についての記述すべてにろう(Law soma) さんの文案を簡潔に記述して、九州王朝説が多くの学者から批判又は無視されていること(≒科学的な学説とは見做されていないこと)を明記すると、さらにわかりやすくなると思います。学習目的で利用する人がいることに充分な配慮があればいいなと思えます--黄金もち 2007年4月13日 (金) 14:45 (UTC)

本項目以外での取り扱いについては、デーモン博士さんがノート:白村江の戦いで各項目毎の合意を求めております。私も同意しますので、一旦ペンディングいたします。ここでは、私の提案以来10日が経過して反論が見られないことから取りあえず合意がなされたと見なし、本文を編集いたします。--ろう(Law soma) 2007年4月17日 (火) 05:57 (UTC)

「金印」についての批判

記事を修正した理由

蘇我倉山田石川麻呂は後に右大臣。蘇我赤兄は 左大臣。
継体天皇の没年を日本書紀は531年か534年としている。
「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」は開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思比孤」。
所謂「九州年号」を九州王朝が制定したとする証拠が無い。
蛇紐金印の例として「てん(さんずい+眞)王之印」(雲南省 晋寧県 石寨山6号墓 前100年頃)もある。「匈奴」にしか、与えられていないは誤り。外臣に下賜する印は王朝名、民族名、部族名の順に刻まれている。

「てん王之印」はつい最近日本で公開されていましたよ。--デーモン博士 2007年4月1日 (日) 18:42 (UTC)


☆「皇帝が冊封国の王に与えた印綬に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い」は誤り。

①「漢の○の○の国王」は「漢の○(族名)の○(部族名)の+国王(官爵名)」。

「福岡市博物館」による金印の解説から引用

「印面に刻まれた文字は、“漢”の文字で始まります。異民族であっても直轄領内の内臣には「てん王之印」のように王朝名は付きません。漢で始まるのは倭が外臣として服属しているが、直轄領となっていなかったためです。つぎの“委奴”の解釈はわかれていましたが、『後漢書』の記載と一致することから「倭奴(わな)」の略字と理解できます。外臣に下賜する印には王朝名の次に民族名、そして部族名がくるので、「倭(わ)(族)」の「奴(な)(部族)」とつづきます。最後の“国王”は外臣の王を格付けする五段階の筆頭で、自己の領域の支配権が認められたことを意味します。以上の理由で「漢委奴国王」を「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」と読むことができます。」

②王朝名の次に民族名、そして部族名の例

「漢匈奴悪適尸逐王」「漢匈奴悪適姑且渠」「漢匈奴姑塗黒臺耆」「漢保塞烏桓率眾長」

☆「当時、金印は「委奴」の他に「匈奴」にしか与えられていないなど高位の印である」は誤り。

①漢の時代、璽、印の材質は上から順に玉、金、銀、銅(諸侯王は内臣なら金璽綟綬、外臣で王号を持つものは金印紫綬)。

②後漢時代に金印は匈奴以外では57年倭奴國、97年ビルマ(ミャンマー)地域の国、100年四川省南の国、122年西羌王に授けられている。

③1956年に中国雲南省の漢墓から前漢の武帝が紀元前109年に滇族の王に与えた蛇鈕の金印「滇王之印(てんおうのいん)」が発見。

☆「金印は「委奴国王」=「倭王」に与えられたものである。通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはない。 」は誤り。

①後漢書にある「漢倭奴国王」の記述

「建武中元二年(紀元57年)、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」

の記述と金印の「漢委奴國王」が一致する(委は倭の減筆)。

②後漢書は、倭国と倭奴国を明確に区別して記述している(倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也)。「奴」を助詞の「の」の音を写したものとすると倭国と倭の奴国の区別が無くなる。

③「博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはない」の証拠はない。「私はそう思う」と同様の「意見」にすぎない。


☆「「委」の字は「わ」とは読めないので、「かん ゐど こくおう」と読むべきである。 」は誤り。

①委、倭は秦漢音で「わ」と読める。しかし奴は「と、ど」とは読めない。「と、ど」と読めるのは隋唐音。


なぜ「疑似科学」だと言われるか、お解かりいただけますか?これでも「九州王朝と通説の違いは権威ある情報源の間では一致しており、情報の解釈の違いだけです」と言えますか。断言しますが「権威ある情報源の間では一致」どころか「後漢書」のような情報源をろくに読まずに、出鱈目な思い付きを並べたのが九州王朝説です。IPユーザーさんへ、愚かな人々に騙されてはいけません。--デーモン博士 2007年4月3日 (火) 23:26 (UTC)


確かに「ただし現在、本説は東洋史、日本史などの学界では認められていない説であることに留意する必要がある。(後述)。以下に、その説を詳細に記す。」とあり、阿呆陀羅経説をそのまま記しているということらしいです。
しかし、「大化の改新で滅んだ蘇我氏」、「当時、金印は「委奴」の他に「匈奴」にしか与えられていない」など小中学生でもわかる様なことを臆面も無く記するのは酷いと思います。手直しするべきでしょう。
しかし、また元通りにされるのでしょう。ご苦労様なことです。嗚呼。--したたみ 2007年4月4日 (水) 01:09 (UTC)

①「『旧唐書』倭国条の冒頭等、多くの記録に「倭国者古倭奴国也」等との記事がある。倭奴国とは倭の中の小国「奴国」ではなく、倭国そのものである。」

『旧唐書』の「倭国者古倭奴国也」は「今の(旧唐書編纂当時)の倭国はいにしえの倭奴国のことである」という意味であり、建武中元二年(57年)に倭奴国=倭国であったという意味ではありません。後漢書は、倭国と倭奴国を明確に区別して記述しており、建武中元二年(57年)に倭奴国≠倭国であることは明らかです。

②「皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い」について

他にその例が無いとしても、「漢ノ委ノ奴ノ国王」と読んでなんの不都合もありません。漢ノ委ノ奴ノ国王と読んではいけない理由を提示できますか。「三重にも修飾した例が無いから三重に読むべきではない」は論理に誤りがあります。

漢匈奴悪適尸逐王は漢ノ匈奴ノ悪適ノ尸逐王と読むことができます。悪適尸逐王は名前と主張されている人がおられるようですが、漢匈奴悪適姑且渠と悪適が一致しており、悪適を部族名と考えることができます。--黄金もち 2007年4月6日 (金) 23:58 (UTC)


建武中元二年(紀元57年)頃の「倭奴国」と魏志倭人伝の「奴国」は時代がぜんぜん違いますよ。倭国大乱についてはいろいろな意見があるでしょうが。--黄金もち 2007年4月11日 (水) 06:33 (UTC)


「金印は陪臣に与えるものでない」について

「漢の倭の奴の国王」は「漢の家来倭の家来奴の国王」という意味ではありません。「倭(わ)(族)」の「奴(な)(部族)」です。倭の奴の国王は倭の家来ではなく、倭を代表する奴の国王ですから、もちろん陪臣ではありません。


「この金印は「委奴国王」=「倭王」に与えられたものである」について

「委奴国王」=「倭王」であるとする証明がありません。後漢書は、倭国と倭奴国を区別して記述しているのですから(倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也)、「委奴国王」=「倭國王」ではありません。


「『旧唐書』倭国条の冒頭等、多くの記録に「倭国者古倭奴国也」等との記事がある。倭奴国とは倭の中の小国「奴国」ではなく、倭国そのものである。 」について

「倭国者古倭奴国也」は、いにしえの倭奴国の後継が今の倭国だと述べているのでして、建武中元二年(57年)に倭奴国=倭国という意味ではありません。

「「奴国王」は存在しない。『魏志倭人伝』によれば、「奴国」には官の正・副の存在が明記されているが、王はいない。王がいる国は、「女王国」「伊都国」および敵国の「狗奴国」のみである。 」について

『魏志倭人伝』の時代の「奴國」と後漢書の「倭奴國」は時代が異なりますし、 同じ国(地理的に)なのかもしれませんし、そうではないのかもしれません。 かりに「奴国王」は『魏志倭人伝』の時代には存在しないとしても、過去にそうであったとは限りません。--デーモン博士 2007年4月11日 (水) 14:01 (UTC)


デーモンさんの書かれた「継体天皇の没年を日本書紀は531年か534年としている」ですが、日本書紀の531年は百済三書の「百済本記」が出典ですね(「或本に云はく天皇二十八年歳次甲寅崩ずと。而るを此に二十五年歳次辛亥に崩ずと云へるは百済本記を取りて文を為れるなり。」)。もちろん1145年に完成した「三国史記」ではありません。本文で「三国史記」にリンクされているのは誤りです。--黄金もち 2007年4月11日 (水) 09:26 (UTC)


日本書紀 巻第十七 男大迹天皇 継体天皇

「或本云 天皇廿八年歳次甲寅崩 而此云廿五年歳次辛亥崩者 取百濟本記爲文 其文云 太歳辛亥三月 軍進至于安羅營乞城 是月高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣 後勘校者 知之也」

↑ですね。202.219.21.230さんは「三国史記」百濟本記と「百済三書」の百済本記を混同されています。百済三書(「百済記」、「百済新撰」、「百済本記」)は「日本書紀」の編纂に資するために7世紀末から8世紀初頭に亡命百済人によって編纂されたものです。--デーモン博士 2007年4月11日 (水) 13:03 (UTC)


「現在でも韓国・朝鮮では日本を「倭奴(ウェノム)」と呼ぶことがある」について。

倭奴はウェノムとは読めない。ウェノム(왜놈)は倭놈。倭奴はウェノ(왜노)。いずれにしても、現代語であり本項目となんの関係も無い。根拠にならないことを、さも根拠であるように並べている。疑似科学の名に相応しい。

倭奴国王印に貼られた要出典について

202.219.21.230さんは上古音、中古音、中世音と呉音、漢音、唐音の意味をご存知なのでしょうか。--デーモン博士 2007年4月12日 (木) 01:27 (UTC)


久米雅雄氏(大阪府教育委員会・「日本印章史の研究」の著者)の説=「上古北方漢音と上古南方呉音が存在したとして、奴を『ど』と読む。漢委奴國王は『かんのいとこくおう』」。金印の項目は直接的にか間接的にかはわかりませんが、久米説の影響を受けているようですね。それにたいして、奴の発音が濁音化して「ndo」となるのは唐・長安の特殊な方言であり、これが日本に伝わったのが「ど」という漢音であるとする説があるわけです。--黄金もち 2007年4月13日 (金) 17:26 (UTC)


倭・倭奴についての論考を一つ。 王瑞来(学習院大学客員研究員)の論考。

「倭」の本義考――あわせてその意味変遷を論ずる--黄金もち 2007年4月14日 (土) 06:24 (UTC)


三宅米吉は委を倭の略字とみる根拠の一つとして、「法華義疏」において「大倭国」を「大委国」とした例を挙げています。
「法華義疏」の題箋の部分。
「此是大委国上宮王私集非海彼本」
「此れは是(これはこれ)、大委(だいわ)国の上宮王の私集にして、海彼(外国)の本にあらず(これは日本の上宮王(聖徳太子)による私集であり、外国から渡来した本ではない)」
題箋の部分がいつ書かれたかについては諸説あります。
漢文で、当時(伝615年?―)倭を委と書くことがあったことがわかります。国号を甚だしく異なった発音で表記するのは不自然ですから、倭と委の発音が類似していた証拠の一つと言ってよいでしょう。
「藤原京出土の木簡に、「伊委之」(=鰯、いわし)」には爆笑。「熊毛評大贅伊委之煮」、いわしの煮つけですね。

神奈川水総研 おさかな情報 さかなのあれこれ 鰯の漢字と地方名

「鰯の漢字ができる以前には、イワシは漢字の音によって3字で表わされました。イワシのイは伊、ワは和か委、シは之か志を使っていました。694年持統天皇によって都は奈良県飛鳥の藤原京に遷都されましたが、その都跡から出土した木簡に「熊毛評大贄伊委之煮」と「与謝評大贄伊和志」があります。評(こおり)は郡を表わし、前者は現在の山口県熊毛郡平生町、後者は丹後国(京都府)与謝郡です。ここで使われている漢字は鰯という漢字ができてからも使われており、平城京跡から「青郷御贄伊和志」や「名錐郷秋科里荒伊委之」の木簡が出土しています。前者の青郷は現在の福井県西部、若狭国大飯郡、後者の名錐郷は志摩国で、現在の三重県大王町波切にあたります。イワシのワの漢字で、和と委の使い方については、当時の文化圏の違いが関係しているといわれています。」

上の記述が正しいなら、地域の違いによる微妙な音の違いを反映していたなんて言い出す人が出てくるかも知れませんね。しかし、「いうぃし・いいし」は不自然(発音しずらいので)ですからやはり「いわし」でしょう。--デーモン博士 2007年4月15日 (日) 04:14 (UTC)

「倭の五王」について

黄金もちさん、したたみさんお願いします--デーモン博士 2007年4月15日 (日) 08:04 (UTC)


「ヤマト王権は九州王朝から派遣された一族の子孫・・・九州王朝(ウガヤフキアエズ鵜草葺不合)から東征に派遣された一族(ワカミケヌ若御毛沼命)の子孫であることになる」

若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)、神日本磐余彦火火出見尊(カムヤマトイワレヒコホホデミノミコト)、豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)、豊毛沼命(トヨケヌノミコト)と同じ方です。

ファンタスティックでおもしろいですね。--デーモン博士 2007年4月15日 (日) 12:14 (UTC)


「九州王朝説では神武東征は単なる神話ではなく史実の反映であり、年代は3世紀末から4世紀末の頃と推定している。」

仰るとおりです。

しかし「東征毛人五十五国」を九州王朝と結びつけるのは×です。 この点はいわゆる本居宣長「馭戎概言」、鶴峯戊申「襲国偽僣考」等の偽僣説(九州のだれかがヤマトの大王になりすまして朝貢していたとする説)をリバイバルした時に生じた矛盾なのです。

ヤマトが九州王朝の友好勢力なら征する必要は無い。また、九州王朝が東征した証拠は皆無であるからです。倭王武はウソをついたことになります。

「昔より祖禰 躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆らず。」

倭王武は祖先が東、西、海北を平定したと述べています。九州王朝から派遣された一族の子孫であるヤマト王権が「東征毛人」の主体であるとすると倭王武はやはりウソをついたことになります。ヤマト王権の首長は倭王武の祖先ではないからです。

これでは倭王武が気の毒です。--デーモン博士 2007年4月15日 (日) 14:46 (UTC)


古田説を支持する方々へ(少々失礼なものいいですがご容赦)。

あなた(あなたの祖先)はヤマトに居住しているとします。あなた(あなたの祖先)は東の毛人五十五国を征しました。西は衆夷六十六国を服せしめました。朝鮮半島に渡って九十五国を平らげました。

漢文で表現するとどうなるでしょうか?

「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国(渡りて海北を平ぐること九十五国)」でよいのではありませんか?

この「海北」は毛人、衆夷、と同じく名詞であり、朝鮮半島を指しています。朝鮮半島を指す「海北」は『日本書紀』にもみえます。

『日本書紀』欽明天皇15年(554)12月条

「以斯羅無道、不畏天皇、與狛同心、欲殘滅海北彌移居」 (以(おもひみ)れば斯羅(しらぎ)無道にして、天皇に畏(かしこま)らずして、狛(高句麗)と心を同(ひとつ)つにして、海北(かいほく、わたのきた)の彌移居(みやけ、任那)を殘(そこな)ひ 滅さむと欲ふ。) --黄金もち 2007年4月16日 (月) 05:12 (UTC)


「九州王朝の歴史を記録した一次資料は存在しない」について

古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版より

「『磐井王は筑紫の邪馬壹之系なり』 この一節を見たときの、わたしの驚き。わたしの『九州王朝』のテーマが、ここですでに語られている。これは孝季の『自作文』ではなく、神社所蔵文書などからの『写し』だったようだけれど、知己を見た思いだった。少なくとも3~6世紀を一貫する間の『九州王朝』論の真髄がズバリ語られていたのである。」

最近の話題もこの文脈から見ると興味深いものがあります。--黄金もち 2007年4月16日 (月) 09:42 (UTC)


「想像される」「・・・であろう」

投稿者が自分の考えを記事にするのは反則では。--デーモン博士 2007年4月17日 (火) 05:25 (UTC)


遺跡=事実をして語らしめたいものです。

「『天皇陵』古墳の“巨大さ”に幻惑されて、近畿と九州と 関東、各古墳群の“質のちがい”を無視すること、それはもはや許されないのである。」(古田武彦「邪馬一国の証明」角川文庫)

質量比は概ね大きさの比の三乗であり、“質のちがい”は目で見た違いよりもはるかに大きなものです。--掘っ立て 2007年4月17日 (火) 07:57 (UTC)

ウガヤフキアエズ王朝の項目があるのは知りませんでした。とうとう古史古伝に突入してしまったようですね。面白いことは面白いですが。個人的にはこの手の話題は好きなんですけどね。--デーモン博士 2007年4月17日 (火) 14:53 (UTC)

「倭王武が宗にウソをついたとは考えられないから、倭王武はヤマト王権の王であろう。」 ネタにマジレスが続いてましたが。 しかし、上表文は名文ですね。--黄金もち 2007年4月17日 (火) 16:28 (UTC)

ネタにマジレス…お疲れ様です。私は今回の編集で本項目自体がネタであることを述べる文章を若干冒頭に移しました。太字にせずとも、これで一般の読者はネタであると認識してもらえると考えたからです。逐一の批判は労多くして益少なしと思います。本項目はある意味「隔離板」であり、九州王朝説論者を封じ込めて他の項目を荒らさせないようにすべきです。好きなように書かせてもいいのではないでしょうか?25年前の私がそうであったように普通に歴史に興味を持って調べ出せば九州王朝説が砂上の楼閣であることは自然に分かると思うのですが。--ろう(Law soma) 2007年4月18日 (水) 00:05 (UTC)

ろう(Law soma) 様のご意見に謁する前にまたやってしまいました。まったくご指摘のとおりです。「隔離板」とは言いえて妙です。IPユーザーさんはお若い方なのでしょうか。明智光秀のところなど、ゲームみたいな印象を受けたのですが。--黄金もち 2007年4月18日 (水) 09:17 (UTC)


ろう(Law soma)さんのご意見どおりでしょう。「上手に人を騙すには真実にウソを少々混ぜる」と言います。半端に記事を修正してしまうと、むしろ逆効果になりそうです。

インターネットの力で九州王朝説にかぎらず、奇説が広く流布されているようです。学校や塾の先生と思しき人が、古田説にそって教えているなどと書いていらっしゃるのを目にすると、気が滅入ります。水からの伝言のように教育現場でトラブルを生んでいるのではないでしょうか。

お話は変わりますが、クマソの正体については諸説ありまして、黄金もちさんが引用された世界大百科の記事は代表的なものです。外国(新羅)となにがしかの関係があるとする説もあります。日本書紀は磐井の乱の背後に新羅の策謀があったとしていますね。

古代日向の謎

--デーモン博士 2007年4月18日 (水) 11:57 (UTC)

全く同意見です。学校で九州王朝説を先生から習った生徒が史学科などに進学してどのように感じるか…。九州王朝説論者の方には「異なる視点から書かれた複数の歴史概説書を読んでみて自分で判断してください」としか言えませんが。私事ですが、25年ほど前に「邪馬台国はなかった」に嵌り、その後古田説の矛盾に気づいてからも20年近く邪馬台国九州説でした(現在は畿内説寄りですが)。斯様に古田説の呪縛は強いです。--ろう(Law soma) 2007年4月19日 (木) 01:34 (UTC)


私も25年-20年ほど前に古田氏の本はよく読みました。そのころ古田説について考古学の超有名教授に質問しにいこうと思ったことがあります。今となっては冷や汗モノです。古田説の版元「駸々堂」は京都の老舗の本屋さんでしたが、無くなってしまいましたね。--デーモン博士 2007年4月21日 (土) 10:24 (UTC)

分子生物学関係の話題が出ました。すこし嬉しい。--デーモン博士 2007年4月23日 (月) 22:25 (UTC)

ご紹介

やすいゆたかの部屋掲示板にて、 さきほどStromdorf様が「「古代ギリシア祭文」の史料批判」を紹介されました。

必読です。ぜひ読み比べてください。(Stromdorf様 本当にご苦労様です)。


ギリシア祭文の反証 奇想天外の「偽作」説


「古代ギリシア祭文」の史料批判

--デーモン博士 2007年4月22日 (日) 09:57 (UTC)


Stromdorfさんが香川大学教育学部研究報告 第Ⅰ部 第99号 掲載の論文 田村道美「野上弥生子訳『ギリシア・ローマ神話』と「古代ギリシャ祭文」」に補注を付して紹介されたものです。
(上野弥生子とありますのは誤表記ですから、すぐ修正されることと思います。)
田村道美(たむら みちよし)さんは、
「野上弥生子とJ・W・マッケイル―「古きギリシアの戀の歌」と『ギリシア詞華集』」香川大学教育学部研究報告第1部第98号1996
「野上弥生子と「世界名作大觀」―野上弥生子における西欧文学受容の一側面』」香川大学教育学部研究叢書71999
等の論文があることから、野上弥生子を研究されている方のようです。古田氏の主張(唖然とさせられるものですが)を綿密に検討されています。

--黄金もち 2007年4月22日 (日) 11:17 (UTC)


「寛政原本」の正体―『東日流外三郡誌』擁護論の自爆―

古田信者が気の毒になります。今になって故林健太郎氏の言葉の重みが良くわかります。 --掘っ立て 2007年4月28日 (土) 11:01 (UTC)


古田氏が紳士的で安本氏は言葉が汚いなどとインターネットで宣伝している人がいるようですが嘘ですね。「神津恭介への挑戦状」などと挑発的な表現をしたのは古田氏なのに。知らないのか都合の悪いことは無視なのか。--黄金もち 2007年4月29日 (日) 08:19 (UTC)

独自研究やりたいほうだいですね、アイピーさんは。記事がどう化けるか見てみたいのでしばらく放置しておきたいと思います。そこここの掲示板等で職人をつのって総がかりで編集してみるのも楽しいかもしれませんね。--黄金もち 2007年4月29日 (日) 15:32 (UTC)


「やすいゆたかの部屋掲示板」の投稿より引用します。
「『ギリシア・ローマ神話』の「パルナッソスの山だけが水をぬきんでて」の部分を前後の文脈も何も無視して並べ替えて“水を抜けるパルナツソスの山神よ”とし、「トリトンに貝を吹かせて」の部分を前後の文脈も何も無視して並べ替えて“貝の神トリトンよ”とし、最後の「その時デウカリオンは」の部分を前後の文脈も何も無視して並べ替えて“時の神デウカリオンよ”とするなどは、まさに噴飯ものの書き換えといえます。」
に対するコメント
「そのような説明は、一時的に騒いで支持をえられても結局はもダメだと理解しております。それから「とても滅ぶべくギリシアならそれもよし」の部分のギリシャ語の解釈ですが、これもまったく同じ方法で述べていると理解します。自分たちに有利な解釈を紹介しているだけですから。」
「自分たちに有利な解釈を紹介しているだけですから」は
「通説と九州王朝説の違いは、資料解釈方法の違いに過ぎません。」「都合よく解釈してるだけですね。九州王朝と通説の違いは権威ある情報源の間では一致しており、情報の解釈の違いだけです。」とよく似ていますね。興味深い。--掘っ立て 2007年5月6日 (日) 11:40 (UTC)

猿でもわかる

九州王朝(サルでもわかる日本古代史)より

今でも邪馬台国近畿説等を唱えている学者等は、馬鹿を証明しているようなものです。そのような者が研究者として給料を貰っているなどもってのほかです。従来の日本古代史学会は消滅しなければならないのでしょう。

ほとんどおんなじですね。「サルでもわかる」とは酷い。--デーモン博士 2007年4月9日 (月) 12:21 (UTC)

九州王朝(サルでもわかる日本古代史)より

「朝鮮の歴史書「三国史記」によれば倭による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭 が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及びます。これは4年に1回の割合で、しかもほとんど300年の間、連続的に起こっており、ま た倭は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されています。」

「未だに古い皇国史観に基づく「邪馬台国=畿内大和王朝説」等を信じている日本人が多い事は残念なことです。ウィキペディア(Wikipedia)に九州王朝説の項を書きました。参考にしてください。」

倭の五王と九州王朝説 - 古代統一国家の形成 (鷲﨑弘朋著 新人物往来社刊「邪馬台国の位置と日本国家の起源」)より

「倭の五王に関して、日本側と中国側の記録の食い違いを理由として九州王朝の王者群とする説がありますが、この九州王朝説は誤りです。すなわち、

1 倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合で、しかもほとんど300年の間、連続的に起こっており、ま た倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている。 このような事態は、日本国内の政治的・軍事的統一を前提としない限り考えられず、この期間に活躍した倭の五王も当然のこととして大和朝廷の天皇ということになる。」

引用元を示していないから上は下の盗用ですね。なぜ引用元を示せないのでしょう。--デーモン博士 2007年4月9日 (月) 13:06 (UTC)

例の「著著作権侵害のありうる文章について」では、最初「倭(日本)による・・」となっていましたから、下(倭の五王と九州王朝説)からのカット&ペーストのようです。上の「サルでもわかる・・」は2002年以後、「邪馬台国の位置と日本国家の起源」のサイトは1999年から,書籍は1996年9月刊です。「サルでもわかる・・」には、「邪馬台国の位置と日本国家の起源」に無い 「朝鮮の歴史書「三国史記」によれば」が付加されていますね。--黄金もち 2007年4月11日 (水) 08:52 (UTC)

「サルでも」の筆者は九州王朝等の項目について熱心に編集しておられるIPユーザーさんのお一人かもしれませんね。ただ、いわゆる切り張りは良くないですね。著作権の問題以前に、他人の書いたものを無批判に受け入れているわけですから。--黄金もち 2007年4月13日 (金) 00:29 (UTC)

記事が隔離されてしまうアサイラム

通説では近畿の古墳から出土する、大陸産とみられる遺物や鉄材がどのようにもたらされたかについ疑問視する意見もある、遺跡の規模が如実に示すとおりヤマト王権は経済力において九州を凌駕している。半島での軍事活動の目的は利権の維持であり、鉄材等の財貨を確保することである。任那を九州王朝が経営していたのなら、それに見合う経済的利益があったはずである。九州王朝が軍事活動で疲弊したとする説には矛盾があるとする。したがって九州の勢力はヤマト王権に、軍事面において使役されていたものと考え①史実性には疑問が持たれるものの、日本書紀に景行天皇が九州勢力の反乱を鎮圧した九州巡幸の記事がある。②軍事活動で疲弊させることこそ九州勢力の反乱を防ぐ方便であったとする説がある。③「同一の王権が大規模な対外戦争を継続しつつ同時にこのような大規模な土木事業を多数行うことは考えられない」「長期の遠征を続ける事は大変な負担」とあるが、定量的な議論では無く、科学的な議論とは言えない。④朝鮮半島南西部で相次いで発見された前方後円墳は、単なる文化の伝播では説明できない。宮崎県西都市にオサホ塚・メサホ塚が控える九州と共に、朝鮮半島南西部にもヤマト王権の影響力が及んでいた証左であろう。⑤日本書紀には仁徳天皇の外戚として日向の豪族「諸県君牛諸井」の名があり、「葛城襲津彦」を九州の豪族とする説もある。⑥強大な経済力を持つヤマト王権に背後をつかれないようにするために、九州王朝は如何なる方法を持ってヤマト王権を従わせていたのであろうか?等々の疑問がある。

九州王朝説ではヤマト王権が巨大古墳を造れるほど豊かであったことから交易により大陸産とみられる遺物や鉄材を購入したものであろうとする。しかし①、何がヤマトから九州へもたらされたのかは不明であり、考古学的遺物にもヤマトから九州へ移出されたと考えられているものは存在しない。②ヤマト王権が大陸産とみられる遺物や鉄材を直接獲得していたと考えたほうが、仮説としての簡明さにおいてまさる。 九州王朝説では、九州王朝は半島等での軍事活動で疲弊し高句麗のような強力な競争相手のいない新天地を獲得したヤマト王権はその後発展に向かったとする。日中戦争の例でも分かるように長期の遠征を続ける事は大変な負担であり、経済的利益等は失われるものであるとする。しかし、①この主張は定性的なものであり、定量化されていない。定量化されていない議論は科学的な議論とはみなされない。②「経済的利益等は失われるもの」なら、なぜ長きに渡って任那経営に固執したのかが疑問である。 九州の勢力がヤマト王権に、軍事面において使役されていたとすると、遠征に慣れた九州の兵がなぜ従順にヤマト王権に従い反乱らしい反乱らしいも起こさなかったのかとの矛盾が残る。反乱としては磐井の乱がただ一つ記されているが、遠征に慣れているはずの磐井軍は座して動かず磐井の乱の記事には大きな疑問がある。半島で戦いを続けて来た軍なら何時でも速やかに攻撃目標を変更し(本能寺を襲った明智光秀のように)ヤマトに攻込むのが反乱の常道であるはずであるとする意見がある。しかし、①「遠征に慣れた九州の兵」と「遠征によって消耗した九州の兵」はコインの両面のようなものである。②この議論もまた定量化されていないため科学的な議論とはみなされない。③「遠征に慣れているはずの磐井軍」は文献に裏付けられていない。④「(本能寺を襲った明智光秀のように)ヤマトに攻込むのが反乱の常道」に当てはまるのは磐井軍ではなく近江毛野軍か物部麁鹿火軍。九州からヤマトへ明智光秀のように攻込むことは不可能。⑤景行天皇の九州巡幸は史実性には疑問があるが、反乱鎮圧の記事である。九州巡幸は「景行12年7月熊襲が背いた(十二年秋七月 熊襲反之不朝貢)。12年8月に天皇自筑紫(九州)に入る。豊後国(大分県、北部を除く)碩田(おおきた)で土蜘蛛(つちぐも)を誅した。12年11月日向国に入る。翌年熊襲平定(十三年夏五月 悉平襲國)。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に6年滞在。18年3月に都へ向け出立。熊県(熊本県球磨郡)・葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年9月に還御。」熊襲は「古代日本九州の西南部の地域とそこにすむ人々の総称。―中略―九州の《風土記》には熊襲は〈球磨,贈於〉と併記されるから,肥後国球磨 (くま) 郡,大隅国贈於 (そお) 郡に基づく名称であろう(出典 平凡社世界大百科事典)。肥後国球磨郡は熊本県人吉市周辺、大隅国贈於郡は現鹿児島県霧島市周辺。 軍事活動で疲弊させることこそ九州勢力の反乱を防ぐ方便であったとする説もあるが、半島を九州勢力の軍事力に押さえさせて、そこから揚がる経済的利益だけを遠方のヤマト王権が奪えたのか新たな疑問が生まれる。通説ではヤマト王権は九州勢力と共に大陸に出兵していた考えており、仮設としての簡明さにおいてまさる。 九州王朝説では経済面では豊かでもヤマト王権の軍事力は大陸での戦いに慣れた九州王朝には劣っており、またヤマト王権の東方には未征服の地が残っていて神武の東征は続いていた、なによりヤマト王権自体が九州王朝の分家として勢力を拡大していたとする意見がある。しかし、①経済力に劣る九州王朝が軍事力で優越していたとする説は不自然。職業軍人の数は経済力の単調増加関数。②「ヤマト王権自体が九州王朝の分家」は九州王朝を攻撃しない理由にはならない。③「競争相手のいない新天地を獲得したヤマト王権はその後発展に向かったとする」と矛盾する。

景行天皇の記事はどう見ても反乱鎮圧ではなく新たに征服して行った話。経済力に劣る九州王朝が軍事力で優越していたとする説は不自然でもない。「ヤマト王権自体が九州王朝の分家」は九州王朝を攻撃しない理由にはならないは、友好関係にあったとのこと。近くに簡単に得られる土地があるのに遠くの強力な国を相手にする必要はない。「競争相手のいない新天地を獲得したヤマト王権はその後発展に向かったとする」と矛盾する・・・なにと矛盾する?--202.157.55.63 2007年4月18日 (水) 10:36 (UTC)

通説では①任那を経営していた主体はヤマト王権であるとする。②九州の豪族はヤマト王権の豪族とともに半島に兵を送ったとする。③光州、木浦近辺などに分布する前方後円墳はヤマト王権に関係する遺跡とする。現地で製作されたと考えられる円筒埴輪、ベンガラ(酸化鉄)を塗った横穴式石室が確認されている。墳墓に埋葬された人物の身元については諸説ある。「前方後円墳、横穴式石室、埴輪と体系的に前方後円墳祭祀がこの地で実現している。」出典東北学院大学オープン・リサーチ・センター 韓国調査報告2江田船山古墳が示すように、ヤマト王権の支配は九州に及んでいた。九州王朝説では①②に対し遠方から僅かな兵しか送れないヤマト王権が、任那を経営し利益だけを独占したとするには歴史上他に例を見ない巧妙な支配方法をヤマト王権が確立し行っていたことになり、その手法も解明されておらずとても現実的な説明ではない。④の通説の鉄刀銘文解釈は恣意的であり江田船山古墳の名文はワカタケル大王と読める根拠もなく、仮に読めたとしてもワカタケル大王をヤマト王権と結びつける証拠は示されていないとする。しかし江田船山古墳は岩戸山古墳とともに前方後円墳である。九州における前方後円墳の分布は限られた領域であり、前方後円墳は機内を発祥の地とする墓制である。「東の地下式横穴墓、西の地下式板石積石室墓という二大分布圏があることがわかる。これに対し、ヤマト政権の墓制である前方後円墳は沿岸部に分布するに過ぎない。考古学的には古墳時代の終わり=7世紀末まで、ヤマト政権は内陸部まで進出することはできなかったとみるほかない」出典古代日向の謎 「ホケノ山古墳が三世紀中ごろの築造と確定したことは日本の古代史研究にとって極めて重大な意味を持つ。一つは後の時代に続く大王墓の定型である前方後円墳のルーツである点。もう一つは邪馬台国の時代に築造された大規模な墓だったという点だ。三世紀末ごろから全長200mを超す巨大な前方後円墳が登場する。こうした古墳は奈良盆地東南部に多く、「大王墓の系譜」とよばれる。大王たちがつくった政治勢力は初期ヤマト王権と呼ばれ、こうした王権の中心が奈良盆地にあり、影響力が全国の広い地域に行きわたっていったことを疑う研究者はいない。―中略―従来はこの時代は、九州、瀬戸内、山陰、東海のそれぞれの地域に独自の墓があるため、強大な王権が存在せず、各地の王がそれぞれ活躍していたと考えられていた。しかし、ホケノ山古墳の調査で、埋葬施設の構造が瀬戸内地域に見られる木槨(もっかく)を持っており、埋葬施設に落ち込んでいた土器は東海地域の系統と分かった。副葬されていた銅鏃(やじり)も東海地域のデザイン。ここにバラバラだった墓に共通点が見つかり、卑弥呼は諸国の王に「共立」された女王だったというイメージが重なる。」出典ホケノ山古墳(新聞報道) 産経新聞 大王墓のルーツ(視点)

付記

↑ジョークを理解してくださる大人の方々は笑ってご容赦くださいますよう、伏してお詫びいたします。

「九州の勢力がヤマト王権に、軍事面において使役されていた」は私のネタふりです。本気にしないでください。 ちなみに倭王武のご遺族から名誉毀損を主張されそうな論争も百科事典にふさわしい物ではありません。

「遺跡の規模が如実に示すとおりヤマト王権は経済力において九州を凌駕している」も怪しい言い方ですねぇ。 --掘っ立て 2007年4月20日 (金) 07:23 (UTC)

故人の名誉毀損は嘘っぱちの場合しか成立しませんが、倭王武のご遺族って、どなたでしょう・・

--デーモン博士 2007年4月21日 (土) 07:56 (UTC)

考古学の記事はここではタブーのようですね。疑似科学と科学が共存できるはずがないのですから当然です。隔離板では正気の人は隔離されるのです。--掘っ立て 2007年4月21日 (土) 18:31 (UTC)

議論の余地があるとありますから、隔離したのでもないんでは。前から気になっていたのですが、「高等学校日本史教科書の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある」邪馬壱国説がここで取り上げられていないのはなぜでしょう。邪馬壱国説は岩波文庫の注にもあったような。--デーモン博士 2007年4月22日 (日) 05:19 (UTC)

その割には議論と称しても何も意見を出していませんが。ところで、最近までの注釈では、あたかも古田説全体が教科書に載っていたように書かれていましたが、修正しました(ここ参照)。邪馬壱国説自体は一応歴史学の研究手法を用いて導き出した(同じ土俵上の)学説でしたから、真っ当な学者からの批判が寄せられています(『後漢書』と『三国志』の刊本の年代や、短里批判など)。その結果、批判に対する説の再構築のないまま、説を広範囲に展開して現在の壮大な「九州王朝説」が出来上がったものです。斯様な邪馬壱国説を元に周辺に敷衍した九州王朝説は、あたかも、基礎に欠陥がある住宅を増築し、建て増し部分が相互にもたれ合うことにより倒壊を免れている御殿のようなものです。邪馬壱国説は九州王朝説論者にとって、古い学説であると同時にアキレス腱でもあると思います。--ろう(Law soma) 2007年4月23日 (月) 00:32 (UTC)


3/29 宮崎県教委 西都原古墳群「男狭穂塚」「女狭穂塚」の地中レーダー探査結果発表

畿内古墳と構造同じ 西都原・女狭穂塚

「また、円形と方形の間のくびれの部分に位置し、祭事などを行う小さな方形の丘(造り出し部)は左右対称ではなく、右側の造り出し部は比較的小規模で円墳から離れていることも判明した。こうした特徴は応神天皇(第15代)の皇后だった仲津姫の陵とされる仲津山古墳(大阪府藤井寺市)と同一。畿内から地方の豪族に古墳の設計図が渡されていたことも推定される。」

九州王朝説ではどのように説明するのか興味があります。--デーモン博士 2007年4月30日 (月) 11:54 (UTC)


「ヤマト王権は九州王朝の分家であり、友好関係にあった。古墳の形式が同じであることは不自然ではない。前方後円墳のルーツが九州にある可能性もある。ホケノ山古墳が最古の前方後円墳とは限らない。今後、新たな発見がある可能性がある。」などというのは駄目ですよ。疑似科学の典型的なそれですから。--掘っ立て 2007年4月30日 (月) 12:45 (UTC)


平面図がほぼ相似形である古墳の一例

宮崎県女狭穂塚:大阪府仲津山古墳=3:5

宮崎県生目(いきめ)古墳群10号墳:奈良県箸墓古墳=1:2

鹿児県塚崎古墳群10号墳:奈良県行燈山(あんどんやま)古墳(崇神天皇陵)=1:6

体積比はおおざっぱですが、 宮崎県女狭穂塚:大阪府仲津山古墳=27:125≒1:4,63

女狭穂塚は1000人/日で2年半という試算があるとのことですから

1人/日の労働力を1マンパワーとするなら

女狭穂塚91万2500マンパワー  大阪府仲津山古墳422万4875マンパワー

参考までに当時の人口を300万人~500万人程度とする説があります。--デーモン博士 2007年5月1日 (火) 13:15 (UTC)


IPユーザの怒り

※参考(すべて引用です。内容についての判断はご自身で。)
邪馬台国の会 第255回 特別講演会より引用
「古田武彦氏は著書『真実の東北王朝』なかでつぎのように述べる。
「昨年(昭和63年)10月、二回目に当地(藤崎)に来た。朝日トラベルの古代史ツアーだった。藤本光幸さんのお宅に、和田喜八郎氏が幾多の文書を運んできて下さった。モーニング姿は、きりりときまっていた。
『磐井王は筑紫の邪馬壹之系なり』
この一節を見たときの、わたしの驚き。わたしの『九州王朝』のテーマが、ここですでに語られている。これは孝季の『自作文』ではなく、神社所蔵文書などからの『写し』だったようだけれど、知己を見た思いだった。少なくとも3~6世紀を一貫する間の『九州王朝』論の真髄がズバリ語られていたのである。」
古田武彦氏は『東日流外三郡誌2』(八幡書店刊)の別報の「秋田孝季の人間学」という文のなかでもつぎのように記している。
「”築(筑)紫の磐井王は築紫の邪馬壱の系なり。”として、近畿の邪馬台(ヤマト)とは別の、九州なる王朝の系列の存在を予告している。昨年十一月、この紙葉にふれて、愕然として狂喜したわたしの心緒、それはおそらく心ある人々のよく察して下さるところであろう。 」
和田喜八郎氏は、古田武彦氏の本を読んで「古文書」を製作しているのだ。その「古文書」を読んで、古田武彦氏が、自説を支持する根拠となる「古文書」が出現したと思いこみ、「愕然として狂喜する」する構図になっている。和田喜八郎氏は、古田武彦氏に会見するにあたり、古田氏が喜ぶように、古田氏の潜在意識的「御要望」にあわせて「古文書」を製作していることに、古田氏は気がつかないのであろうか。「需要」にあわせて「供給」が行われているのである。
―中略―
現在、インターネットで検索すると、このような「寛政原本」発見の話題がいくつか見つかる。オンブック社というオンデマンド書籍の出版社から『東日流外三郡誌 寛政原本・写真版』が発刊される予定とのことである。
前々回の講演会でも紹介したが、10年ぐらい前に古田氏は200万円支払って古文書を作ろうとした。証拠をつかんだ安本先生は古田氏に直接電話で強く抗議したそうである。そのせいか、古文書が日の目を見ることはなかった。しかし、斉藤光政氏の著書の出版にタイミングを合わせるように「寛政原本」が出てきた。追いつめられると、それを跳ね返すために偽物の証拠を作るという構図である。 古田氏は、いまもなお一発逆転を狙っている。なにをかいわんやである。古田武彦氏は同じような手法でつぎのように繰り返しインチキを行ってきた。
200万円支払っての古文書製作依頼事件
共同通信社説配信事件
『サンデー毎日』弁護士導入事件
吉野ヶ里=『週刊文春』事件
中村卓三教授電子顕微鏡写真事件
高知県紙業試験場の大川昭典氏の紙の鑑定事件
不易糊蛍光反応ノリ事件
大学の先生がデータを捏造したりしてニュースになることがあるが、普通は、一つでもインチキをしたことがバレたら、その学者は大学をクビになり学会から追放される。これが世間の常識なのに、古田氏の論法は、次から次とインチキをやってそのうち一つでもバレなければ勝利宣言を出すという非常識なものである。 我々はたがいに信用しあう社会に住んでいる。インチキがないことが前提の社会なので、インチキを平気で行う人に対してまったくの無防備になる。 よくよく注意しなければならない。」


邪馬台国の会 第253回 津田左右吉説、古田武彦説の検討 古代史探求の方法より引用
「 『東日流外三郡誌』事件の経験から、古田武彦氏の言うことは信頼できない。
その理由は、古田氏が自説の正しさを証明するために、偽物の古文書を作ろうとした事実があることである。
古田氏と安本先生が『東日流外三郡誌』の真贋論争で渡り合っていたころ、二人の論争をNHK「ナイトジャーナル」で見ていた詐欺師が、古田氏に「寛政年間の偽の古文書の製作」を持ちかけた。古田氏は、「サンデー毎日」で、『東日流外三郡誌』の寛政年間に書かれた原本があり、真贋論争は、それを公開することで決着するといっていた。そこに詐欺師がつけ込んだのである。なんと、古田氏は200万円を支払って詐欺師に「寛政年間の偽の古文書」の制作を依頼したのである。
偽物の作成を依頼してきた古田氏は表沙汰にできないと読んだ詐欺師は、200万円を着服したまま、古田氏から注文された「寛政年間の古文書」を作らなかった。古田氏は詐欺に引っかかったのである。あろうことか、この詐欺師は、同じ話を安本先生にも持ちかけた。古田氏が寛政原本を公開した時に、同じものが安本先生の手元にもあることになり、古田氏が偽物を作ったことが露見する仕組みになるというのである。
犯罪心理学の専門家である安本先生は、詐欺師の意図を見抜き、電話の録音テープなど、証拠をそろえて弁護士とともに詐欺師を問いつめた結果、全貌を白状したという顛末であった。
古田氏は、最近、また寛政原本が出たと騒いでいる。懲りずにまたインチキをくり返しているのであろう。古田氏は著書の中で次のようなことを記している。「私は愛国者である。愛国者は真実を望む。それゆえ虚偽の歴史像は許せない。」こんな不正を企てたにもかかわらず、声高に「真実」という言葉を並べる人は、やはり信頼できない。」


※参考 徳間書店 『週刊アサヒ芸能』1994年9月29日号 『独占 町おこし、村おこしにつけ込み 古代史 昭和薬科大「TV有名教授」に噴き出した「偽造スキャンダル」』
※参考 『季刊邪馬台国』55号 「古田武彦昭和薬科大学教授に衝撃の疑惑!!二百万円支払って、古文書偽造を依頼」
※参考 『新・古代学』古田武彦とともに 第1集1995年 新泉社 「貴方は何処へ行くのか 桐原氏」 
※参考 「寛政原本」の正体―『東日流外三郡誌』擁護論の自爆―


--掘っ立て 2007年5月22日 (火) 02:10 (UTC)


※参考(『真実の東北王朝』より引用。作者のスタイルを明確に示す例と思われますが、内容についての判断はお任せします。)
「「キュリーの反証」 面白い反証が見つかった。『太古代絵巻』偽作説に対する反証だ。ここには「放射能」の記事がない、挿図がないのである。「何を」と思われるであろうけれど、次第は、次のようだ。
周知のように、キュリー夫人は夫のピエールとの共同研究の中で、ウランの原鉱石ピッチブレンドの中から新元素を発見した。いわゆるラジウムである。これは、一八九八(明治三十一年)の事件だ。確かに「事件」である。なぜなら、この年以来、「現代は、はじまった」わたしは、そう言っていい、と思っている。なぜか。わたしたちの住む世界は、「核の下の世界」だ。戦争も、平和も、恐怖も、希望も、その下に展開されている。これは疑えない現実だ。そのような「現代」は、夫妻の、この発見の「時点」から出発したのである。それが、人類永遠の歴史にとって、吉だったか凶だったか、判定は後世にゆだねるとしても、この事実は疑えない。そのような重大な事件、その歴史的意義は別として、一個の自然科学上の事実としても、実に“面白い”事件であること、疑いえない。
ところが、和田長三郎末吉は、(時問上の問題としては)この「事件」を知りうる立場にあった。彼は、大正二年三月二十八日に没している。すなわち、もし関心があれば、右のキュリー大人の“興味深き意見”を、十分に知りうる時間帯に生きていた。夫人の発見は、一九〇三年(明治三十六年)、ノーベル物理学賞を受け、世界に喧伝された。ベクレルや夫のピエールと一緒の受賞だった。
ところが、和田長三郎末吉の、「再写」による、この『太古代絵巻』には、全くこの「放射能」の話がない。絵もない。
 ーーなぜか。
答えは、簡単だ。寛政年間、孝季や長三郎古次の時代には、まだ、この「発見」はなされていなかったからだ。それ以外にない。すなわち、この『太古代絵巻』は、文字通り、末吉の「再写」であって、末吉の「創作」ではないからである。もし、彼の「創作」であれば、宇宙創成の秘密と深くかかわり合う、この「放射能」の話、ベクレルの発見した放射性原石の「挿図」など、欠かせないところだ。だが、それはない。
若く、好奇心に燃える魂である孝季等に講義した、レオポルド・ボナパルド先生は、まだ「放射能の知識」をもっていなかったのである。
以上を、「キュリーの反証」と呼ぶ。もって「『東日流外三郡誌』や『太古代絵巻』等の、孝季文書をもって『偽書』のごとく疑う」人士の前に、つつしんで、この反証を呈したい。」」

   これでお終いにしましょう --掘っ立て 2007年5月22日 (火) 13:36 (UTC)


IPユーザー220.156.128.81氏が2006年4月12日に記述された部分を引用して御終いにしましょう。

「なお、支持者には理解できていないが、九州王朝説の方が『日本書紀』の記述を無批判に丸呑みする傾向が高い。そもそも九州王朝説は「中国の史書と『日本書紀』との記述に齟齬があるのがおかしい」というところからスタートしているが、この主張は「中国の史書も『日本書紀』の記述も正しい」、すなわち「中国の史書と『日本書紀』の記述の両方を信ずる」という前提に立たなければ成立しえない。なぜならば、「史書にも間違いや書き漏らしがある」という学界で一般的な理解に立った途端、両者が完全に一致しなければならない必要性がなくなるからだ。」

--黄金もち 2007年6月19日 (火) 15:26 (UTC)