ノート:九州王朝説/過去ログ1
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九州王朝と九州王朝説の統合報告
記事の重複があり、最初の筆者が同じと思われるため、また、特に有効なリンク先もないため、九州王朝をこの記事に統合いたしました。--202.248.88.144 2005年6月25日 (土) 13:39 (UTC)
2005/10/28編集の訂正理由
今回の訂正の理由。
>日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できるので合理的であるとして支持者が多いが、
→「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」として支持者もあり,
- 「無理なく説明」と「合理的」は意味内容が重複するので統合
- 「支持者が多い」ではアマチュア研究者内での多数派ともとれるので「あり」に変更
>直接的に裏付ける証拠が少ないので、
→削除
- 「証拠が少ない」では、「少しは直接的な証拠がある」という意味になるが、直接的な証拠が存在するならば「九州王朝はあった」「なかった」の議論にはならない。現実と異なるので削除。
>歴史学会
→歴史学界
- 「歴史学会」では単一の組織を指す。広く歴史学研究者の集合をさす場合は「学界」の方が妥当かと。
>「根拠が史料批判など正当な歴史学的研究法や考古学的事実の検証に耐えうるものではない。」「トンデモ説だ。」等の否定的な意見が多い。
→提示される根拠が史料批判など正当な歴史学的研究法や考古学的事実による検証に耐えうるものではないと見なされており、事実上相手にされていない。
- 「トンデモ説」は表現の行き過ぎと反省し,削除。
- 「否定的な意見が多い」では少数ながら評価されていることになるが、現実には賛同する歴史学研究者はおらず、九州王朝説論者とは論争すら起きていないので現実に即し「事実上相手にされていない」に変更。
- 「トンデモ説」は表現の行き過ぎと反省し,削除。
—以上の署名の無いコメントは、IP:202.221.5.234(会話/whois)氏が[2005年10月28日 (金) 09:41 (UTC)]に投稿したものです(shimoxxによる付記)。
2005/11/02編集の訂正理由(1)
今回の変更の理由
>アマチュア研究者の間では、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」として支持者もあり,多くの亜流・珍説も存在する。
→アマチュアの研究者には「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」として支持する者もあり、多くの亜流をも生み出した。
- 「珍説」と評価されるものは「亜流」の中に含まれているはずなので統合。
→熱狂的な支持者の中には「歴史学界からの反論はないではないか」と当説の優位性を主張をする者もあるが、
- 版を比較すればすぐに分かる事実なので追加。
>歴史学界からの反論は無く、無視されている。
→上記例も含め「根拠」として提示される内容は、史料批判など正当な歴史学的研究法や考古学的な資料事実などの検証に耐えられないものばかりであり、歴史学研究者からは「反論するに値しないもの」と見なされているのが現状である。
- 「反論が無く、無視されている」ように見える理由を具体的に提示
—以上の署名の無いコメントは、IP:202.221.5.234(会話/whois)氏が[2005年11月2日 (金) 11:30 (UTC)]に投稿したものです(shimoxxによる付記)。
2005/11/02編集の訂正理由(2)
さらなる変更について
上記
>→熱狂的な支持者の中には「歴史学界からの反論はないではないか」と当説の優位性を主張をする者もあるが、
>版を比較すればすぐに分かる事実なので追加。
- の部分が、大きな勘違いである可能性に思い至ったので、ばっさり削除。
その他の部分については、アマチュア界に与えた影響の大きさを追加。なお、学界ではどのように扱われているのかという部分は、現状を客観的に捉えるためには非常に重要な部分だと考えていますので削除していません。—以上の署名の無いコメントは、IP:202.221.5.234(会話/whois)氏が[2005年11月2日 (金) 14:33 (UTC)]に投稿したものです(shimoxxによる付記)。
- 学界からの反論が無いのは事実ですが、反論するに値しないから、反論しない?そんな馬鹿な事は無いでしょう。反論できないから、反論しないのでしょう!?学界に寄りの過ぎの部分を削除。—以上の署名の無いコメントは、IP:220.63.144.32(会話/whois)氏が[2005年12月22日 (木) 16:10 (UTC)]に投稿したものです(shimoxxによる付記)。
- ウィキペディアは妄想やガセネタを宣伝する場ではありません。--Ttfcache 2006年5月31日 (水) 12:01 (UTC)
研究者にアマチュアとかプロとかの表現は不適切--202.157.53.186 2006年7月27日 (木) 17:45 (UTC)<署名がなかったので--葉月 2006年7月28日 (金) 02:32 (UTC)付記>
本ノートの可読性を上げるため、何カ所かマークアップ等を施しておきました。あしからずご了解願います。--shimoxx 2006年8月6日 (日) 08:20 (UTC)
九州王朝説への評価・批判の消去について
IP:202.147.215.198(会話 / 投稿記録)さんによって九州王朝説への評価・批判に係る記載が消去されていました[1]が、百科事典にとって、歴史研究の中でその学説がどのように位置づけられているかを記述することは必要不可欠なことです。特に九州王朝説は、criticalかつcontroversialな問題を多く抱えていますので、読者へ正しい知識を提供するという観点からすると、評価・批判部分を本文中に記載しておくことは不可避であると考えます。また、評価・批判部分を九州王朝説批判へ分離されていましたけれども、これも上記の観点から不適切な処置だったと言えましょう。202.147.215.198さんには今後ご考慮いただけますようよろしくお願いします。--shimoxx 2006年8月6日 (日) 08:20 (UTC)
九州王朝説への評価・批判
偽書ではないかとのされ
[[「主張」や「根拠」として提示される内容は、史料批判など正統な歴史学的研究法や考古学的な資料事実などの検証に耐えうるものではないとされ、
上の文には主体者が無いので意味がわかりません。修正します。 2006年8月6日 (日) 20:10 -以上の署名のないコメントは、IP:202.147.215.198さんによって2006年8月6日 (日) 18:09(JST)に投稿されたものです。その後何回も小修正有り。--yamato 2006年8月15日 (火) 07:58 (UTC)
- 史料批判など正統な歴史学的研究法や考古学的な資料事実などの検証に耐えうるものではないため、
- 上の文は、「無視されている」のに「・・・の検証に耐えうるものではない」と記されているが、「検証に耐えうるもの」かどうかは、検証してみなけらば分からない。無視されているのだから検証が行われたとは考えられない。また本当に「・・・の検証に耐えうるものではない」なら実際に検証が行われている分けだから「無視されている」の表現は間違いであるので削除します。--125.1.255.147 2006年10月29日 (日) 14:32 (UTC)
反対します。「検証に耐えうるものではない」のは、中身の話。「無視されている」のは、説自体です。中身に関して、検証を加えたうえで、批判・否定するにすらいたらないと判断されているので、無視されているのです。学界での「無視」とは、論文や学会・研究会での検討の俎上にあがらない、ということであって、実際に読まないということとは異なります。--ごまふあざ 2006年10月29日 (日) 16:30 (UTC)
- 検証とは、提唱者と批判者で論議され行われるもので、一方的な批判は、検証ではない。読んだだけでは、検証したことにはならない。自分達で「検証に耐えうるものではない」と決め付けただけである。客観性を持たせかつ表現もダブっているので、以下の表現が妥当と思います。
- 古代日本史学および東洋史学の研究者は、本説の内容に関して、史料批判など正統な歴史学的研究法や考古学的な資料事実などの検証に耐えうるものではないとして議論することはない。--125.1.255.147 2006年10月30日 (月) 09:40 (UTC)
- 上記の署名位置変更しました。んー、見ただけでわかる検証も十分あると思いますが。科学者が疑似科学を相手にしないように(歴史学も、広い意味では「科学」です)。しかし、提案された文章表現には、それほど異存ありません。それでは、このぐらいでいかがでしょう。
- 歴史学および考古学の研究者は、本説の内容に関して、史料批判など歴史学の基礎手続きを踏んでいないこと、考古学の資料分析の成果とそぐわないことをもって、検証に耐えうる内容ではないとみなしており、議論の対象とすることはない。
- 1.歴史学・考古学の研究者が(古田史学関係者は、狭義では両者に入りません)、2.資料批判の手続きがない、考古学資料の分析成果との結果とそぐわない、として議論の対象にしない、この2点の要件を満たしていれば、私としては、合意します。ただし、今後、大きく状況が変わらないかぎり、表現を変更しないことが条件ですが。--ごまふあざ 2006年10月30日 (月) 16:02 (UTC)
批判の文案
なぜ九州王朝説が無視されているかについての文案です。らりた 2006年8月15日 (火) 14:16 (UTC)
- ご起草ありがとうございます。これでWikipedia:中立的な観点#疑似科学と科学を対等に扱うのかにある「明確に、完全に、フェアに」という要請を満たせていると思います。--spirituelle 2006年8月15日 (火) 15:11 (UTC)
- この文面は「明確に、完全に」ではあると思いますが、結局は通説側から九州王朝説を評価しているもので、「フェア」ではないように思われます。下記文案の視点は、そのまま津田左右吉をはじめとする記紀の解釈にもいえることです。私が古田武彦のところで少しだけ触れた、「釈古」と「疑古」の問題です(詳細は雑誌『季節』12号の「古田古代史学の諸相」特集にあり)。九州王朝説は、記紀の史料価値を否定したのではなく、編纂方針を疑う立場と思います。また中国文献と日本列島での実態の齟齬についても、“細部での記述の誤りはありえても、中国が特定の夷狄国家が一つか二つかを見誤る可能性はない。日本は唐の交戦国であり、阿倍仲麻呂をはじめ日本(倭)人が何人も唐に在住したりしていた”旨を古田は繰り返し述べています。その点も反論として言及するか、クリアにしないと、「フェア」とはいえないと思います。通説が絶対多数であることは確かですが、古田説の論理にこのような一定の合理性がある以上、おそらく、またいつものように編集合戦になるのではないでしょうか。むしろ要諦は、下記文案の最後から3行目半以降であり、きわめて的確な叙述であると思います。つまり文字史料は解釈によって変動するが、考古学的遺跡・遺物はそうはいかず、古墳時代以後の九州地方は近畿地方に比べて圧倒的に劣勢である、という点です(それに対する古田側の反論もあるが、文字の解釈に比べて格段に弱くなる)。--タビックスJapan 2006年8月17日 (木) 00:23 (UTC)
- タビックスJapanさん、初めまして。私の文案に対する査読を頂き、ありがとうございます。
- 『記紀』・『旧唐書』の二つの文は「上記二つはいずれも解釈のレベルなので・・・」に対する文であり、「九州王朝説が根拠として挙げるものが直接的な証拠ではなく、他の解釈も出来る」ということの例としてあげたつもりでした。九州王朝説に対して評価をするつもりはなかったのですが、私は通説側の立場なので悪意がこもっていたかもしれません。
- 『記紀』に関しては「『記紀』に疑いがある」ということと「『記紀』が九州王朝の存在を抹消した」ということとは隔たりがある。と述べたかったのですが、筆が滑りました。
- 改定文案として下の文案を改定いたしました。前の文案がは申し訳ありませんが履歴を見てください。読みにくいかもしれませんが、再度お願いいたします。らりた 2006年8月17日 (木) 12:36 (UTC)
- らりたさん、こんにちは。当方の誤読があったようで失礼しました。私個人はこれで適切であると思います。ありがとうございました。--タビックスJapan 2006年8月17日 (木) 21:25 (UTC)
- しばらく参加してなくてすいませんでした。この先、反対意見が無いようであれば、下記の文章を本文に載せた上で「九州王朝説は九州王朝説・古田武彦の記事で述べて、他の個別の記事では『○○という異説もある。詳しくは九州王朝説を参照』という形でリンクを張るに留める。」という方針を合意事項といたしたいと思います。とりあえず一週間、待ちたいと思います。らりた 2006年8月25日 (金) 09:13 (UTC)
- らりたさん、こんにちは。当方の誤読があったようで失礼しました。私個人はこれで適切であると思います。ありがとうございました。--タビックスJapan 2006年8月17日 (木) 21:25 (UTC)
問題点
九州王朝説は現在のところ、歴史学的観点からは「批判・検証を受ける段階に無い」と看做されている。九州王朝説が挙げる根拠がいずれも直接的な証拠とは言い難く、解釈の仕方次第で何とでも読み取れてしまう段階のものだからである。
一例を挙げると九州王朝説の有力な根拠とされている『旧唐書』の記述である。『旧唐書』には倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つが立てられており、『日本国伝』には「日本国は倭国の別種なり」(日本國者、倭國之別種也)と記述されており、これに続いて「倭国の名前が雅でないので日本と改名した」・「日本国が倭国を併合した」などとも記述されている。これを古田は倭(九州王朝)と日本(ヤマト王権)とは別の国であり、倭が最初に日本を名乗り、その後ヤマト王権により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めた。と解釈している。
しかしこれには別の解釈がある、まず二つの伝に関しては、この『旧唐書』は編纂時期が五代十国時代の戦乱の時代であったがために編纂が杜撰との定評がある。この中で同じ一人の人物に二つの列伝を立ててしまっている部分があり、『倭国伝』・『日本国伝』にもこれと同じことが起きたと解釈も出来る。また『日本国伝』に付いても各々の話は「或曰」といった言葉でつながれており、これは『旧唐書』の著者である劉昫らが「色々な話があってどれが本当なのか解らないのでとりあえず全部並べた」という解釈も出来る。
上記二つはいずれも解釈のレベルなので「そうかもしれない・そうでないかもしれない」ということは言えても肯定・否定いずれも不可能である。九州王朝説を肯定・否定する直接的な証拠は一切無く、そのため批判・検証を行うことが出来ないというのが現状である。
議論を進めるには直接的な証拠が提示される必要があるが、現在の所為されていない。
以上。第一文案です。らりた 2006年8月17日 (木) 12:00 (UTC)
- 第二文案に改めました。らりた 2006年8月17日 (木) 12:36 (UTC)
- Spirituelle氏やタビックスJapan氏がらりた氏の文中にコメント書き込まれたので、「問題点」という文章を誰が書いたのかが分かり難くなる可能性があります。また、らりた氏も署名位置を「問題点」の後に付けるとよいと思います。--yamato 2006年8月17日 (木) 01:51 (UTC)
- (新顔です。かつて古田氏の著作をわくわくしながら読んだのを懐かしみつつ、参加させていただきます。いまは平凡にも邪馬台国畿内説を支持していますが、ここでは中立をめざします。)上記、問題点の文案につきご提案。「歴史学的観点からは」→「日本の古代史の学会からは」(古田説は歴史学ですらないとも読めてしまいますので)、「看做されている」→「見られている」(看做すとは、事実とは違う擬制にも用いられます。ex)未成年者は婚姻により成年者と見なされる。……古田説は真実なのだが、皇国史観から抜け出せない畿内説論者たちの陰謀によって不当なものと擬制されている、などと曲解されるのも困りましょう)。曲芸的レトリックを特技とする古田説についての解説だけに、この項目はかなり気を遣う必要がありますよねえ。ところで、森浩一、奥野正男などのいわゆる邪馬台国九州説との異同について、どこかで触れるべきではないでしょうか。--monja 2006年9月3日 (日) 17:49 (UTC)
一週間待ちますと言っておきながら二週間以上が過ぎていました。すいません。とりあえず文面の掲載と各記事での記述の削除を行いました。Wikipedia:井戸端/九州王朝説についてを併せて参照のほどをお願いいたします。
monjaさん、ご意見ありがとうございました。意見を取り入れた上での表記とさせていただきました。私も邪馬台国の記事で白鳥庫吉などの伝統ある九州説が九州王朝説とごっちゃにされていることに強い違和感を覚えていたのですが、そこら辺のことがあまり詳しくないので手をつけることが出来ない状態でした。何とかしたいとは思います。らりた 2006年9月9日 (土) 13:03 (UTC)
だいたい問題ないものと思います。のちほど、私なりに手を加えさせて頂きます。ただ一点だけ(繰り返しになりそうですが)、
>古代日本史学および東洋史学の研究者らは、本説は議論の対象になり得ないとし議論することもなく、
>史料批判など正統な歴史学的研究法や考古学的な資料事実などの検証に耐えうるものではないとし、
>日本古代史の学界からは「批判・検証を受ける段階に無い」と見られている。
といった記述について、具体的に誰がどこで発言・記述したものかソースを明らかにしないと、また編集合戦になる虞を抱きます。安本美典氏とすれば、彼は理系であり日本古代史プロパーではないので、やや厳しいと思います。 なお九州王朝説と邪馬台国九州説の分岐点は、東遷説を採って「倭の五王」を畿内の王とみなすのが後者ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。その伏線とすべく、本文冒頭に長沼賢海らの名を挙げておいてあります--タビックスJapan 2006年9月9日 (土) 13:20 (UTC)。
予想通り荒れてきてしまったようです。そこで、「説の歴史」のうち、
>古代日本史学および東洋史学の研究者らは、本説は議論の対象になり得ないとし議論することもなく、史料批判など正統な歴史学的研究法や考古学的な資料事実などの検証に耐えうるものではないとし、事実上無視しているのが現状である。
というのを
「日本古代史および中国古代史の研究者からは、本説は議論の俎上に置かれることなく事実上無視されているのが現状である。その背景には次のような理由が考えられる。
- 仮説が学術雑誌、学会発表において公開されていない。また派手なタイトルの書など、伝播の方法がセンセーショナリスティックであり、古田を「研究者」としてではなく「作家」として認識させる。
- 方法論が「~はおかしい」「~に違いない」といった絶対的経験論によるものが多く、考古資料などの第一級史料ではなく、もっぱら史料操作によって導き出されている。したがって下記の『旧唐書』の例のような解釈の相違によってまったく異なる結論を導くことが可能となり、論争すると隘路に陥ることとなる。
- 緻密な論証(例えば「壹」「臺」字をすべて渉猟する)による仮説と、超時代的で感覚的な着想とが混在しており(家永三郎の言)、整理された学説としての価値を認めがたい。
- 「王朝」など、学界になじまない本説独自の概念ないし用語が多い。
- 九州王朝の外観を明らかにしていても、政治体制・社会構造などの内実は具体的にほとんど論じていない。学界の主流は政治史・社会経済史であり、関心を惹かない。
- 九州王朝説が各論として通説と相違するのではなく、総論において完全に相容れない論理体系であるため、議論に莫大な労力を要する。また両者を止揚することが不可能なため、議論の結果が学術振興に資する可能性が低い。
こうして、提唱当初は部分的に家永三郎などが論戦に応じていたが、現在では決着済みのものとして学界では認知されている。」
と改訂・増補してみたいと思います。いかがでしょうか?ご意見、よろしくお願いいたします。--タビックスJapan 2006年9月11日 (月) 06:29 (UTC)
- ↑古田説側からの反論に対し、委細を尽くして述べるとこういうことになるのでしょうね。でもさらにどんどん字数が増えそう(笑)。全体の文章構成からいうと、ここは極力、簡潔にいきたい箇所ですよねえ。……たとえば、「妥協を許さず徹底的に追いつめる古田の鋭い筆法に、学会では正面からの論争を避ける風潮が定着し」ぐらいで、少し古田説に花を持たせてさっと流せるといいんですが。--monja 2006年9月11日 (月) 16:06 (UTC)
- おっしゃるとおり、ちょっと紙数を取りますね…。今後も文字数が増えていくことは間違いなさそうなページですし。私はむしろ古田説に共鳴する側なんですが、それを差し置いて、支持者とおぼしき方の荒らし的行為にはいささか辟易です。それに釘を差すためにも上記のような指摘をしておく必要があると考えました。後段で古田説側からの反論を附加して、バランスを取ることも考えていますが、ますます量が増えてしまいますね…。--タビックスJapan 2006年9月11日 (月) 19:42 (UTC)
上記問題点での論法は、一部の根拠の曖昧さを指摘し、あたかも九州王朝説全体の根拠が希薄であるかのように思わせる心理トリックだと思います。 この記事で根拠にも上がっていないような微弱な根拠に反論し、あたかも九州王朝説全体を論破したような論調は問題があると思います。 こんないい加減な論法を使えば、学界の定説も簡単に否定することができます。不適切なので削除しました。 逆の反論例を示します。こんな大雑把なものは反論ではないでしょう?
- 日本古代史の学界が挙げる根拠は、いずれも証拠とは言い難いものである。
- 一例を挙げると邪馬台国畿内説の有力な根拠とされている卑弥呼の鏡される「三角縁神獣鏡」である。「三角縁神獣」を使った同じような鏡は中国では一枚も出土しておらず、中国で既に改元された年号や実在しない年号の銘が入った「三角縁神獣鏡」も出土しており、「三角縁神獣鏡」は国産である可能性が高く、邪馬台国畿内説の証拠だとは言い難い。
- 更に、「金印」の例等が示すように倭王の印である可能性が高いものを奴国の印として九州王権の存在の証拠を抹殺している。
- つまり学界は、ありもしない証拠を捏造し、九州王朝の証拠を歪曲によって抹殺しているのである。既存のに先入観に囚われ全く学問の体をなしていないのである。
--しょかい 2006年9月14日 (木) 03:58 (UTC)
- 良く読んでください。私が書いた文章は「旧唐書」の記述をあくまで「例示」としてあげているに過ぎません。九州王朝説を「論破」する目的で書いた文章ではありません。九州王朝説の全体的な問題点として「直接的な証拠」が挙げられていないのが「問題点」として挙げられると述べているのです。
- また文章の妥当性に付いて、「仮にあなたがどんなに不満であろうとも」「いきなり削除」ということは止めてください。私がWikipedia:井戸端/九州王朝説についてに於いて九州王朝説を各記事から削除すべきと最初に動議してから既に一ヶ月が経っています。あなたにそれと同じだけの時間を使えとは言いませんが、「いきなり削除」は荒らしと看做されてもしょうがありません。らりた 2006年9月15日 (金) 12:13 (UTC)
- 編集合戦を起こしてしまい保護されてしまいました。申し訳ありません・・・。らりた 2006年9月18日 (月) 08:55 (UTC)
- 編集合戦による保護というのは残念な結果ではあるのですが、ここはひとつ前向きに、この項目を健やかに立て直すよい機会と考えましょうよ。少なくともこのノートは九州王朝説の当否についての論争の場ではないですし、また本文も、現状のような九州王朝説の詳説ページではないはずです。百科事典で「九州王朝説」を引いたらどんな誌面が出てくるかを想像したら、もっとざっくり、簡潔で、冷静な説明文でしょう。いまはギラギラべっとり、くどくて、熱すぎ。素直に見て……変な項目になってますよ(笑)。
一方、賛否中立で五分五分の編集態度だと擬似科学を増長させかねないという考えをお持ちの方もいるようですが、それをここで貫けば、反対する側からのレジスタンスとして当然、今回のような編集合戦を生むでしょう。ここは九州王朝説の当否についての記述を避け、九州王朝説で考えるとこうなる、通説で考えるとこうなるという客観的な記述に留めるべきではないでしょうか。その基本的視座と、双方、五分五分の文章量で説明するという原則を立てれば、どなたが執筆してもそう極端な違いは出ないはず。この項目を読んで、九州王朝説に興味を持った方にとってはちょっとしたガイダンスに、不信の方には論点確認になるという程度の、冷ややか、さっぱり解説が妥当と考えます。--monja 2006年9月18日 (月) 15:37 (UTC)
- 編集合戦による保護というのは残念な結果ではあるのですが、ここはひとつ前向きに、この項目を健やかに立て直すよい機会と考えましょうよ。少なくともこのノートは九州王朝説の当否についての論争の場ではないですし、また本文も、現状のような九州王朝説の詳説ページではないはずです。百科事典で「九州王朝説」を引いたらどんな誌面が出てくるかを想像したら、もっとざっくり、簡潔で、冷静な説明文でしょう。いまはギラギラべっとり、くどくて、熱すぎ。素直に見て……変な項目になってますよ(笑)。
「論争の場ではない」全くその通りだと思います。「疑問があったら、図書館で自分で調べろ。九州王朝関係の本は一杯ある。」と言いたくなります。詳細過ぎるとのご指摘ですが、この項には決して詳細な記述はありません。各記事は、最低限必要な紹介だけにしてあります。量があるのは、九州王朝説が古代日本史全般に亘っている学説だからです。記すべき事項が多いからです。本来、日本古代史の各項に分散して記述したいところですが、各項に記載するとshimoxx・らりた・葉月のような方が多くて、いつのまにか削除されて記事が無くなってしまうので、金印の項のようにここに集めてあるのです。「九州王朝説の解説は、ここに集中させろ」という意見が多いのです。妥協しないと日本古代史全てが編集合戦になりかねません。変な項目になっていますが、ウィキペディアですから、仕方ありません。
なお、編集合戦となった問題点の「九州王朝説の有力な根拠とされている『旧唐書』の記述」これが完全な間違いだったので削除されたのです。「『旧唐書』の記述」は、関連する主張に入れられてます。従って、それに続く関連文章も無意味なので削除されて当然です。「直接的な証拠」が挙げられていないのが「問題点」なら、以下のような文章はどうでしょうか?
- 九州王朝の歴史を記した一次資料が残されておらず、その詳細は不明である。ヤマト王権や中韓の歴史書等に散見される記録、九州年号や大宰府など僅かな資料を基に推測するしかないのか現状である。九州王朝の歴史書が無いことが、日本古代史の学界が「九州王朝説は批判・検証を受ける段階に無い」と主張する論拠となっている。また資料の少なさが九州王朝説が多くの亜流を生む原因でもある。
--しょかい 2006年9月23日 (土) 03:45 (UTC)
九州王朝説への疑問
九州王朝説は、史料を中心に述べいますが、考古学史料「古墳」についてあまり触れていないのではないかと思います。伝仁徳天皇陵や伝応神天皇陵のような日本で最大の古墳が、現在の北九州地方にではなく、関西地方に造られたのはどうしてでしょうか? タビックスJapan氏も少し触れられていますが。--yamato 2006年8月17日 (木) 02:04 (UTC)
- こんにちは。古田説では、「朝鮮半島での戦争を繰り返していた九州王朝に、巨大古墳を築造する余力はなかった。むしろ近畿天皇家が巨大古墳を作っていたことこそ、朝鮮半島で抗争を繰り返していた倭がヤマトでない証拠である」という立場です。ただこの論法は、擬似科学で指摘される危険性をはらんだものであり(心霊現象を再現できないのは、実験会場に反心霊論者がいるからだ的詭弁。つまりどんな状況もすべて心霊肯定派に有理に解釈できる)、私が上で「格段に弱くなる」と述べた背景です。--タビックスJapan 2006年8月17日 (木) 02:29 (UTC)
九州年号をつかった木簡の出土例はあるのでしょうか? 干支だけの記述なら、飛鳥地域からたくさん出土することは存じておりますが、たとえば大宰府址かいわいから、木簡とかは出土していないのでしょうか。 --ねこぱんだ 2006年8月17日 (木) 12:43 (UTC)
- 奈良時代のものは大宰府の条坊からいろいろ出土しているようですが、九州年号はないようですね。ほかの場所で九州年号の例であるとされる木簡・金石文も、史料操作でそうみなされているだけのようです。--タビックスJapan 2006年8月17日 (木) 21:25 (UTC)
九州王朝説信奉者の方からのお返事がないようですが、質問を書いておきます。
- 倭王武(雄略)が478年(宋の順帝の昇明2年)に使いを遣わして上表文を奉ったことが、『宋書』夷蛮伝にみえている。その上表文では「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国」とある。このことを学界では、おそくとも五世紀後半のヤマト政権は、東は東国、西は九州を治めていたとするのが通説である。一方、ワカタケル大王(雄略=武)の名を刻んだ鉄剣・鉄刀が東国の稲荷山古墳や九州の江田船山古墳から出土したことが、それまでの学界の通説を証明したことになると思う。
- 九州王朝説では、既述の通説と異なっているが、上表文や鉄剣・鉄刀の銘文を史料として、倭の五王は畿内の王ではなく九州王朝の王であることを説明してもらいたい。
よろしくお願いします。--Asuka 2006年8月24日 (木) 06:45 (UTC)
- ワカタケル大王(若大将?)の名を刻んだ鉄剣・鉄刀が東国の稲荷山古墳や九州の江田船山古墳から出土したでは(本当にワカタケルかも疑問)、それまでの学界の通説を証明したことにはならない。最低限ワカタケルが雄略=武の個人名である証明が必要です。--202.157.15.174 2006年9月23日 (土) 12:13 (UTC)
質問を書いておきますので、お答え下さい。
- 和歌山県の隅田八幡宮所蔵人物画像鏡の縁に「癸未年八月日十 大王年男弟王 在意柴沙加宮時 斯麻念長寿 遣開中費直 穢人今州利二人等 取白上同二百旱作此竟」の文字が刻まれている。癸未は、503年と言う説もあるが443年が通説となっている。この年は、『宋書』倭国伝によれば倭王済が宋に使いを遣わして「安東将軍倭国王」の称号をもらった年である。このことから、銘文に見える大王は済であり、允恭天皇を指すと考えられている。
- 倭王済(允恭)に関係の鏡が北九州の地でなく近畿地方の和歌山県にあるのはどうしてでしょうか?また、意柴沙加宮、開中費直など、北九州ではなく大和や河内などに関係する地名が使われるているのはどうしてでしょうか?
お答え、よろしくお願いします。--Asuka 2006年8月27日 (日) 01:46 (UTC)
- 前提条件として、癸未が443年である証明が必要です、仮設に対して反論無意味。--202.157.15.174 2006年9月23日 (土) 12:13 (UTC)
お答えがないようですが、三つ目の質問を書いておきます。
- 奈良県天理市にある石上神宮に七枝刀(しちしとう)が所蔵されている。『日本書紀』神功皇后五十二年九月の条に、百済の肖古王が日本の使者に七枝刀などを手渡し、友好を誓ったとある。252年のことである。
- 百済から伝来の刀が北九州の神社ではなく、大和の神社に伝世されているのはどうしてでしょう?
お答えをよろしくお願いします。--Asuka 2006年9月1日 (金) 02:23 (UTC)
- そもそも奈良県天理市にある石上神宮にどのような経緯で七枝刀(しちしとう)があったのかが不明でしょ、倭がヤマトなら七枝刀は正倉院などにないと可笑しいはず。--202.157.15.174 2006年9月23日 (土) 12:13 (UTC)
以上のご質問への回答は『古代は輝いていた』Ⅰ-Ⅲなどで古田氏により取り上げられています。鏡や刀剣のような什宝は移動する性格のものですから、現在の所在地を問うても古田説では顧慮しないものと思われます。また、通説の稲荷山鉄剣の読みには相当の無理があります。--タビックスJapan 2006年9月1日 (金) 14:01 (UTC)
四つ目の質問を書いておきます。
- 九州王朝説は、一つの王朝なのですか? それともいくつかの王朝が興亡したのですか? ヤマト王権も河内王朝や葛城王朝など色々あるようですが、九州王朝はどうなんでしょうか?
お答えをよろしくお願いします。--Asuka 2006年9月2日 (土) 00:18 (UTC)
- 九州王朝は一つの王朝か複数の王朝が興亡したのか不明ですが、単一の王朝が最初から最後まで続いたと考えるのは不自然でしょう--202.157.15.174 2006年9月23日 (土) 12:13 (UTC)。
ここに書いてあった「五つ目の質問」を下の節に移しました。--Asuka 2006年9月11日 (月) 06:32 (UTC)
新五つめの質問です。
- 三世紀中葉から六世紀の後半までの約300年間、王の墳墓と考えられる巨大前方後円墳が、九州王朝の所在地と目される北部九州にではなくて、特に大和や河内に集中して造営され続けられました。九州王朝説では、王墓はどこに造営されたのでしょうか? 300年間、どこかの国と闘っていてその余力がなかったのでしょうか?
お答えをお待ちしています。--Asuka 2006年9月20日 (水) 14:06 (UTC)
- 九州にも数多くの古墳があります。--202.157.15.174 2006年9月23日 (土) 12:13 (UTC)
記述に関する疑問
一つめです。
- 表の「概要」で「九州王朝は、紀元前から7世紀末まで~」と書いておきながら「邪馬壹国は、九州王朝の前身に当たる。」とはどういうことでしょうか?2世紀中葉の邪馬台国が「前身」とはおかしくありませんか?それとも邪馬台国が紀元前の国でしょうか?
お答えをお願いします。--Asuka 2006年9月10日 (日) 00:40 (UTC)
- 邪馬壹国=九州王朝ですから問題はありません。九州王朝が何時から何時まで邪馬壹国と呼ばれていたか不明ですが、九州王朝の古い呼び方といった意味です。--しょかい 2006年9月23日 (土) 05:06 (UTC)
二つめです。
- 「記紀等の記録」の節に「天下一の都市である」と言ったとありますが、そうではなく「天下有数の都市である。」と誇張して言上したのでは?原文をお願いします。--Asuka 2006年9月11日 (月) 06:32 (UTC)
- そのくらい自分で調べて下さい。どうせ知っているのでしょう。解釈は色々あると思いますが、ここで議論するべきではありません。
- また、手柄になるわけでもないのに、官僚の報告文書に誇張は必要ありません。「天下一の都市である」はヤマト王権内の共通認識です。--しょかい 2006年9月23日 (土) 05:06 (UTC)
- 次に、「倭京」と書いたからと言って「大宰府」ではない。第一「府」は「京」ではない。これを書いた8世紀初めごろの貴族たちは、既に板葺宮、難波宮、近江宮、飛鳥浄御原宮、藤原京、平城京等を経験しており、宮号を特に指定しない時はヤマト王権の原郷を「倭京」と言い、「飛鳥京」をさしたのである。--Asuka 2006年9月11日 (月) 06:32 (UTC)
- 「倭京」と書いたからと言って「大宰府」ではない。・・・意味不明です。
- 「府」は「京」ではない。・・・名称は変更されたり、色々な呼び方をされたりします。
- これを書いた8世紀初めごろの・・・壬申の乱は7世紀です。「飛鳥」までは宮であって京ではありません。藤原京や平城京は京です。ヤマト王権は京と宮を明確に区別しています。--しょかい 2006年9月23日 (土) 05:06 (UTC)
訂正要求
節を分けました。--Asuka 2007年1月2日 (火) 03:18 (UTC)
訂正を2件要求します。 いずれも大宰府についての記述の部分ですが、
1 「天下一の都会なり」とあるのは原文では「天下之一都会也」で、「天下の一都会なり」と書き下すべきです。その部分の原文をご確認いただくとともに論旨そのものにも影響があると思いますので訂正を願います。
2 『竈門山旧記』には大宰府が「四神相応の地」であるという記述はありません。原文をご確認の上、この部分の削除を願います。--- 59.190.191.186 2006年10月13日 (金) 15:25(UTC)による。署名追加
- 保護中ですと、ここに書かれても編集できません。先ほど保護解除されたようですが…続紀については岩波書店の新古典文学大系『続日本紀』で確認しました。原文は「天下之一都会也」(高松宮本では都が「部」と書かれる)なので、ご指摘の通りの書き下しが正しいですね。『竈門山旧記』は手元にないのでわかりません。続紀該当部の史料記載のみ訂正します。 --ごまふあざ 2006年10月14日 (土) 14:04 (UTC)
1 意味は、「天下で唯一の都会である」か「天下で一番の都会である」ですね! 「天下の都会の一つである」では、都会が他にも沢山ないとならないが、他は平城京しかない。
2 「鬼門除けの祭祀が行われた」ということは、陰陽道(四神相応)による都市設計がなされていたということでは?--しょかい 2006年10月16日 (月) 14:17 (UTC)
IPユーザさんへお願い
- 合意に反する編集はおやめください。現在、九州王朝説に関しては、ノート:大宰府#コメント依頼に出しましたで出された、二つの「おとしどころ」(九州王朝説の場合は特に提案2番目)に留意して記述することで合意しているはずです。この提案の第2項「問題点の記述を認める」は、解釈が恣意的であることと、学界からは、全く支持をえられない論であるということの記述を認める、ということです。九州王朝説の「弱点」を記述することではありません。特に、「問題点」の部分について、合意に反する編集があるようです。合意に不満がある場合は、再度ノートにて疑義を出してください。(ただし、私個人は、前回の合意のときと事態が大きく変わらないので、再度同じ議論は無意味だと考えます。そのため、再度疑義が出された場合には、1週間程度のコメント依頼提出→投票という手続きを提案するつもりです。この手続きは、前回の議論において、もし合意が得られなかった場合に、提案しようと思っていたことです)
- Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすことをお願いします。差分がきわめてわかりにくく、文章の校正などの有益なお仕事も、合意違反のリバートも、一緒くたに行われてしまう可能性があります。また、サーバにもやさしくありませんので、プレビュー機能を積極的に用い、推敲を重ねた上での編集をよろしくお願いします。--ごまふあざ 2006年11月28日 (火) 17:25 (UTC)
デーモン博士へ
「近畿の古墳からは大陸との交流を示す遺物が多数出土している。」の根拠について、どの様な資料に基づいているのか明示して下さい。多数と記している以上HPなど沢山あるのでしょうね!明示せずに書き換えを行えばアラシ行為として報告します。--しょかい 2006年12月25日 (月) 05:01 (UTC)
- 「しょかい」さんへ
- 気づかなくて失礼しました。「近畿の古墳からは大陸との交流を示す遺物が多数出土している。」ですが「近畿の古墳からは大陸との交流を示す遺物が出土している」は事実であり、議論の余地がありません。ただ「多数」という曖昧な表現は適当ではなかったと思えますので、センテンスは削除します。
- 大陸との交流を示す遺物の一例として
- 「有銘単龍紋環頭大刀 三国時代5世紀」http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=38391
- 「大阪塚原P1号墳 金銅装単龍環大刀柄頭」http://chikatsu.mediajoy.com/96ase/22j.html
- 九州王朝説に対して論難する意図はありません。どの説を支持するかは各人が考えることです。--デーモン博士 2006年12月26日 (火) 13:44 (UTC)
大陸との交流を示す遺物が多数出土しているのは近畿の古墳に限った事ではないので、特に書くほどのことでもないのでは?--202.147.217.166 2006年12月27日 (水) 04:17 (UTC)
「有銘単龍紋環頭大刀」は、朝鮮から出土 「銀象嵌銘大刀」「金銅製冠帽」は、熊本の江田船山古墳から出土・・・、九州でも出土しているのに、特に「近畿の古墳からは・・・」などというのは誤った表現、意図的に読者に誤解を招くことを狙ったものだと思われます。--しょかい 2006年12月27日 (水) 13:37 (UTC)
「銀象嵌銘大刀」は中高の教科書にも取り上げられており、有名ですね。
さて、弥生時代の遺物として鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、九州は近畿の3倍弱出土しました。 また、朝鮮半島で多数出土した「環頭大刀」は、近畿でも九州でも古墳から出土しています。
古墳の規模(全長)を比較すると上位50位中近畿43基、九州1基(宮崎県の女狭穂塚古墳48位)となります。
どのような仮説が適当なのでしょうか、考えてみるのも一興。--デーモン博士 2006年12月27日 (火) 18:03 (UTC)
著作権侵害のありうる文章について
脚注4 「倭による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合で、しかもほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが・・・」
この文章は
鷲﨑弘朋著 新人物往来社刊「邪馬台国の位置と日本国家の起源」
「倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合で、しかもほとんど300年の間、連続的に起こっており、ま た倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている。」
http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper37.html
からの盗用ですね。あきれました。気づくのが遅かったです。--デーモン博士 2006年12月27日 (火) 18:50 (UTC)
デーモン博士さんのご指摘で、著作権侵害の状態を解消できます。その手のサイトは、全く見ないので、知りませんでした。IPユーザさんには猛省を促します。ただ、該当部を抹消するだけでは、削除したことになりませんので、特定版削除を依頼しました。他の表現も、若干怪しげな箇所がありそうですが(他サイトの文章を切り貼りしただけのような文章もありそう)…--ごまふあざ 2006年12月30日 (土) 08:30 (UTC)
Wikipedia:著作権侵害かもしれない記事に、コメントを依頼しました。--ごまふあざ 2006年12月30日 (土) 08:43 (UTC)
著作権法第10条2項は、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第1号に掲げる著作物に該当しない。」と規定している。
学術書にも作者を明らかにすれば他人の書の引用が許されています。
今回の件も事実の伝達にすぎない内容なので出典を明らかにすれば著作権侵害には当たらないと考えられます。--202.157.15.235 2006年12月31日 (日) 00:29 (UTC)
該当文章について、節をわけました。二重三重に勘違いがあるとお見受けしますので順番に。
- 事実の伝達は著作物ではないので、出典云々は議論になりません。自由に転載可能です。出典を明示した上で引用云々という問題になるのは、著作物が対象です。そのため「事実の伝達にすぎない内容なので出典を明らかにすれば著作権侵害には当たらない」は、意味がとおりません。
- そのため、両者をわけて考えます。
- 上記文章は「事実の伝達にすぎない雑報」ではありません。単なる事実の摘示ではなく、出版された書籍に書かれた一つの文章であり、(水準はどうあれ)史料から導き出した一つの成果です。雑報でもありません。また、このような言い方自体が、著者に失礼にあたる虞がありますよ。
- また、「引用」は、作者ではなく、該当の引用元を明らかにしたうえで、主従関係が明白であるものに限るものです。特定版削除を依頼した版は、引用元が明らかにされていないため、引用の要件を満たしてなく、著作権を侵害している可能性があります。
- wikipediaは、削除されないかぎり、すべての過去の版について閲覧可能になっています。つまり、一度でも、著作権を侵害したかたちで保存してしまうと、後々にいくら訂正しても、侵害状態の版が残ってしまうのです。そのため、著作権侵害の状態の版が一つでもあれば、その版については、削除を求めるのがwikipediaのルールになっています。今回の依頼も、過去の著作権を侵害している状態の特定の版について削除を依頼しているものです。今、いくら訂正したところで、過去の版を削除すべきであるという事実はかわりません。また、すべてを削除するというものでもありません。
- 以上、僭越ながら、もう少しwikipediaのしくみと、文章をパブリッシュされる際の作法について、調べられたほうがよいのではないかと思います。
また、削除依頼のテンプレートをはった後でも編集している方がいるようですが、大丈夫なのでしょうか。削除テンプレートを貼った以降の版はまとめて削除されてしまうような…--ごまふあざ 2006年12月31日 (日) 07:29 (UTC)
同じことを何度も繰り返しのか?
ただし、現在、本説は東洋史、日本史などの学界からは黙殺されている(後述)。
以下に、その説を詳細に記す(注:学界等では認められていない説であることに留意する必要がある)。
上記の文書は同じことを2回書いてあります。注:の文を削除しようと思いますが、強く反対されている方がいます何故ですか?不要なものでしょう。
--202.147.217.166 2006年12月27日 (水) 03:59 (UTC)
合意違反です。2回書いていると不都合ですか?たしかに表現として美しいとは思いませんが、当面、原理原則を維持し、「学界からは黙殺されている」という点の記述に関して削除された場合にはリバートするほうがよいと考えています。過去に、上記記述を少しずつ削除しようとした方がいて、結果的に編集合戦になったことがあると記憶していますので。--ごまふあざ 2006年12月27日 (水) 16:32 (UTC)
この文章を書き込んだ人は、自分があらしだとの自覚がないのかな?--123.50.227.22 2007年1月4日 (木) 11:05 (UTC)
- そう思うならWikipedia:荒らしをどうぞ。--Rekishi 2007年1月4日 (木) 15:25 (UTC)