ノート:三河国
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三河守などについて
[編集]編集合戦を呈し、ご迷惑をおかけいたしました。三河国の編集について14.132.52.1さん(おそらく115.39.236.125さん、180.197.74.236さんも同じと思うので同様に)に伺いたい点がいくつかあります。
- 三河守をどのような記事にするのが望ましいと考えているのでしょうか。今川義元が三河守を名乗ったという記述は『瑞光院記』にあるようですが、それを記載すればよいのでしょうか。また、織田信秀・今川義元がそれぞれ三河守を名乗ったことはわりと知られていることのようですが、本当は正式な任官でなかったとしてもこれだけ一般に知られているならば、何らかの形で記述すべきなのではないでしょうか。そもそも『歴名土代』は絶対正しいという貴方の姿勢には疑問を覚えます。
- 織田・今川は別として、他の武家官位保有者まで同時に削除したのはなぜなのでしょうか。大幅に記事の増減をするからには何らかの理由があると思いますので質問させて頂きます。
- (180.197.74.236さんに対して)藩の一覧表を削除したのはなぜでしょうか。「小藩の一覧表を並べられても困る」というコメントに違和感を感じました。そこに藩があった以上、記載することは理にかなっていると思います。困るのは貴方の都合でしょうが、別にこのページは貴方の所有物ではないです。
- これは要望ですが、今後大幅に記事を削るときはノートページでの議論をしてからにして下さい。
以上長くなりましたが、ご返答をお待ちしています。--Saigen Jiro(会話) 2012年3月14日 (水) 15:12 (UTC)
というか、あなた膨大な記事を加筆したうえに、誤っているうえに出典不明。削除は妥当でしょ? ここでいう三河国は律令制の話しなので、戦国大名の領土範囲や江戸時代の幕藩体制とは違うんですよ。 安城市や豊川市は藩はありませんし。新城市は藩じゃない、交代寄合でしょ。蒲郡も違うし。 江戸時代の藩の一覧表は、武鑑というモノがあり、時代によって、異動がある。300年分を一括して、 個人の考えで編集しているのも問題。
個人のブログでやるか、別ページを設けて記事を作成するべきでしょ?国司の一覧や藩の一覧とか出典はまったく不明。
朝廷の官位官職と、武家が自称で名乗った官位官職をごちゃまぜにして、武家官位としているし。 知ったかぶりが酷いわ。
『外宮引付』以外に織田信秀が三河守を名乗ったとする同時代史料がないのです。信長公記に記述ナシ。 瑞光院記以外に、今川義元が三河守になったという記事はない。徳川の史料に一切ないですね。 ※外宮引付も瑞光院記も、朝廷の史料ではない。
四位五位の叙任記録簿の歴名土代には、三河守は徳川家康になってますね。
歴名土代 四位五位
【解 題】 歴名とは五位以上の位階授与の記録で、土代は草案の意。本書は、山科言継が天文6年(1537)清原、広橋両家および自身の所持本をもとに編集した本を、永禄2年自ら転写したもので、以後も言継自身が、没後は子息言経が書き継いだ。編集の際、『公卿補任』のカバーする三位以上を省略、対象を四位・五位に限ったが、記載は貞治6年(1367)から慶長11年、延べ4243人にのぼる。永禄9年12月29日には「藤家康」こと徳川家康が従五位下に叙せられ、三河守に任ぜられたことが見える。この時家康は、関白近衛前久(このえさきひさ)の執奏で叙爵任官を果たすとともに、松平から徳川に名字を改めることについても勅許を得た。その際、先例とのかかわりから藤原姓を称する必要があり、以後将軍任官の直前に源姓に改めるまで藤原姓を称した。藤の字の上に「源イ」とあるのは、のちに遡及して源姓に改竄した流布本の系統と校合したためであろうか。 〔参考〕湯川敏治編『歴名土代』(続群書類従完成会 1996)。渡辺世祐「徳川氏の姓氏について」 (『国史論叢』 文雅堂書店 1956)。
〔釈文〕 三川国松平号徳川源イ藤家康 同九十二廿九、同日参河守、永禄11月日左京大夫、 (史料編纂所史料集発刊100周年記念『時を超えて語るもの』所収)
※歴名土代は信用できないとするのは、あなたの独自研究ですね。また、先行する記事量と出典を無視して、出典不明の膨大な記事を加筆するのは、傲慢な姿勢と受け取る。
また、織田信秀・今川義元がそれぞれ三河守を名乗ったことはわりと知られていることのようですが、 ※知られていないですね。本屋で売ってる武将データファイルみたいなモンに書かれているんだろうが、 ウソばっかですね。織田信秀は弾正忠。今川義元は治部大輔。が一般に知られています。 しかしながら、両名の名前は、歴名土代に記載ありません。よって、自称の官位官職となります。 今川義元は仮名目録追加で幕府と絶縁していますので、幕府を仲介して朝廷からもらえる官位官職を名乗っている はずがありませんね。--180.197.138.218 2012年3月15日 (木) 05:29 (UTC)
- ご返答ありがとうございます。なるほど、参考になりました。
- まず出典うんぬんですが、最初に記載なさったのは私ではなくHkusanoさんなので、その方の話を聞かない限り何とも言えませんね。私は大幅に記事が削られたのを見て、貴方が荒らしかと思い復旧しただけなので。それでも、貴方の削除が妥当であったとは思いません。「膨大な記事を加筆したうえに、誤っているうえに出典不明だから削除は妥当」ということですが、膨大な記事の加筆は別に問題ではないと思います(wikipediaの編集方針にそのような類のことがあるのなら、当方の落ち度です)。誤っているというのはお聞きする限り「朝廷からの正式任官しか載せてはいけない」とする貴方の見解に基づくもので、そこはノートでの議論をすべきだと思います。出典に関しては出典タグで知らせて改善を促すことができたのではと思います。
- ID:41623197 の版で貴方が述べた「武家官位と朝廷の官位がごちゃごちゃに記述」に関しては私の方で誤解がありました。申し訳ありません。ただ武家官位とは「武士が任官または自称した官位」とwikipediaの武家官位ページにあり、私もそのように理解しております。ですので自称官位を武家官位の項に掲載することは構わないと考えています。その項目内で、貴方のおっしゃるように分離すればよかったのかもしれません。ただ、この時期には朝廷の権限は形骸化していて「正式な任官」にさほど権威がないことを踏まえると、織田・今川が正式か否かにこだわることには疑問を持ちました。その意味で「『歴名土代』にこだわる貴方の姿勢に疑問符」という趣旨の発言を以前した次第です。これは私の個人見解になるので、他の方の意見を聞かないことには私としても強く言えないですね。
- 江戸時代の藩についてですが、当ページは律令制の話ですかね。「三河国」という名称は律令制に始まりましたが、律令制は形骸化して領域を示す地名として残りました。なので「三河国」という地名が存続している間、そこにあったものなどは記す価値があると思うのですが。それに藩自体、各国の事情に基づいて設置されていますし。これも私の個人見解になりますけれど。安城市・豊川市・新城市・蒲郡に藩がないのはわかりましたが、藩がないなら載せられないだけで藩を記載してはいけない理由にはならないのでは。
- 最後に。怒っていることは文面からわかるのですが、もう少し汚い言葉を慎んで下さい。--Saigen Jiro(会話) 2012年3月15日 (木) 12:44 (UTC)
- まず、国司(官位)に関してはプロジェクト‐ノート:日本史#日本史人物記事の官名カテゴリについてで議論されており、別ページとして分割される予定です。次に、室町・戦国期の武家の官位に関してですが、朝廷から与えられたものだけにするか、受領名を含むかが問題とされているわけですが、これも国司のページが作成された時点でおいおい決めていくことに成るかと思います。現時点では国司のページに「武家官位」も含むことになっていますので、「寛永諸家系図伝」などで確認できる名乗りは記載することになると思います。
- 次に「XX国」の時間軸をどこまで含むかに関しては、記事ごとにバラバラで、現代の記述が含まれている記事もあります。「国」として実質的に機能していようがいましが、名称としては明治初期まで存在したわけですから、江戸時代の藩を含むことは妥当と思います。--Hkusano(会話) 2012年3月15日 (木) 13:19 (UTC)
- 『歴名土代』に掲載が無くとも、出典根拠として検証可能性に応える、第三者言及としての出版物・公刊本・公表された論文があれば、記述は可能です。したがって、むしろ『歴名土代』という、1次資料のみの確認でこれに記載が無いからという理由でいきなり強引に削除すべきとするのは、好ましい編集姿勢と思えません。まず出典を求めるべきであったと思います(そもそも、どの『歴名土代』を出典としたかについて書誌情報の明示もされていない)。一応公刊本で『中世室町幕府守護職家事典』の著者でもある、今谷 明(文学博士)の『戦国大名と天皇』 講談社学術文庫1471、2004年にこの天文期以降の売官の風とも言うべき朝廷の官位乱発と、室町幕府の権威を離れた戦国大名たちが本来律令官制である国司等の任官を朝廷に直接求める動きが良く解説されていますが、織田信秀・今川義元・徳川家康の三河守についても解説があるので、当ページの記事本文に記述をしておきました。
- なお、利用者:180.197.138.218氏は、特定の1次資料の記述を根拠にこれに反するとする他の記述を出典の有無に関わらず削除・両論併記も認めないなど自己中心的姿勢、またその投稿者や議論相手をウソツキ・デタラメなどと罵倒するなど、Wikipediaの行動についての指針である、礼儀を忘れない反する発言やWikipedia:多重アカウント使用などで、無期限ブロック中の、LTA:OTASUKEのブロック破りの疑いで、管理者伝言板に連絡済みです。--故城一片之月(会話) 2012年3月19日 (月) 14:57 (UTC)
- なるほど。対処ありがとうございました。--Saigen Jiro(会話) 2012年3月19日 (月) 15:24 (UTC)
「三河国司」への記事分割提案
[編集]本文中、国司に関する記述を、三河国司に分割することを提案します。 分割理由は、Wikipedia:ページの分割と統合#ページの分割の「分割すべき場合」「ページ中で特定の説明だけの分量が多く、明らかにバランスを失している場合」です。この分割により、本記事を軽くするとともに、国司一覧記事の作成によりカテゴリでの対応に際し指摘されてきた問題を解消することも期待されています。なお、これまでプロジェクト‐ノート:日本史#日本史人物記事の官名カテゴリについてで議論され、全ての国記事に関し国司記事を分割するとの合意が成立しております。--故城一片之月(会話) 2012年3月18日 (日) 03:47 (UTC)
- 規定の期間を経過して、この提案に特に反対意見が無いので国司の節及び関連部分を三河国司に移動いたしました。該当節項目へのご質問等は移動先のノート:三河国司にて願います。--故城一片之月(会話) 2012年3月27日 (火) 13:06 (UTC)
水野元綱の件
[編集]>明暦4年武鑑により、水野元綱の名前が確認できず、大名でないのは明らか。よって新城藩は架空。水野監物、水野出羽守の名前はあるのに、おかしい。
- このような理由で、利用者:14.132.58.243さんは、該当ページの新城藩のみならず、吉田藩・西尾藩・岡崎藩等の他の藩の記述も含めて一括削除をしておりますが、提示されている根拠から、このページの全ての藩の記述を削除する理由にはなりませんし、記事の破壊行為に他なりません。一括削除をおやめ下さい(警告です)。
- 次に、指摘の水野元綱は『新訂 寛政重修諸家譜 6』(「寛政重修諸家譜巻第三百三十五・清和源氏満政流・水野」)によれば、父・分長(わけなが)が慶長11年(1606年)6月18日(旧暦)、それまでの尾張国小河等の所領を改められて三河国新城に移され、設楽・宝飯両郡の内に1万石とされ「御朱印」を下されています。この分長が水戸徳川頼房卿に付属され別に封地を給されたために、嫡子元綱が元和6年(1620年)4月15日にこの旧領1万石余を給わり、その後も加増あって1万4千石となり、正保2年(1645年)6月28日上野国(碓氷・群馬両郡)に2万石で増封移転するまで新城を領した内容が明記されています。万石以上が大名ですから、新城藩が架空という話は成立しません。
- 「武鑑」以外の資料を当たって検討もせず、しかも関係のない記述まで乱暴に削除を繰り返すならば、記事の破壊行為=荒らし行為の扱いも考えられます。--故城一片之月(会話) 2012年5月19日 (土) 05:00 (UTC)
.水野弾正忠分長 永禄5年(1562年)水野藤次郎忠分の子として尾張で生まれる。小牧・長久手の戦いや九戸一揆に徳川家康の旗下として参戦する。慶長4年(1599年)に大番頭となる。関ヶ原の合戦に参戦し、戦後の慶長6年尾張小河9820石の領主となる。慶長9年に従五位下に任官し備前守を名乗る。慶長11年には三河新城藩1万石に転封となり、元和2年(1616年)に2000石加増される。元和6年に水戸家徳川頼房附きとなり、安房国内に1万5000石の領地を与えられ名乗りを弾正忠とする。この時新城藩は子の元綱が相続する。元和9年に江戸で死す。この際安房領は収公される。正室は山口半左衛門重勝の娘。
水戸家徳川頼房附き=つまり家臣ですので、陪臣ということになります。陪臣は大名ではない。 陪臣で1万石以上あっても、大名扱いされない。
大名の定義が確立したのは、明暦のころであって、大名家の一覧を記載した一番古い史料は、明暦の武鑑です。 江戸初期は、単に武家です。江戸初期は改易などの改廃も多い。
武家諸法度には、大名の定義の記載はありません。
『大名武鑑』 明暦4(1658)年 江戸松会堂刊本 1冊 本資料は、題箋は「大名武鑑」となっているが、内容は「紋尽」である。 これには、1万石以上の大名しか記載されていません。
このころ、大名=1万石以上ただし陪臣のぞく。の定義が確立してることがわかる。--14.132.58.243 2012年5月19日 (土) 06:07 (UTC)
- まったく貴方の早合点というか理解力の欠如というか驚きです。水野分長の貰った1万5千石と長男・元綱の賜った1万石余は別物で、その時点で別家になったことが理解できないのですか?もう一度『寛政重修諸家譜』を読み直して見て下さい。父・分長死後に安房・上総の1万5千石は嗣ぐべき男子無きにより収公されましたが、水野元綱の系統はその子元知が発狂して改易になるまで続き「安中藩」と呼ばれています(日本史辞典にも掲載されてます)。元知改易以降のこの家は2千石の旗本水野右近家に縮小しましたが、あくまで独立の家(直参旗本)であって陪臣の扱いじゃありませんよ。付け家老だったのは水野分長の一代のみです。よく確認してください。--故城一片之月(会話) 2012年5月19日 (土) 09:17 (UTC)
- 議論の主題と関係のない、他の藩の削除は復帰いたしました。また、 2012年5月20日 (土) 03:30(utc)までに、「新城藩と水野元綱系大名の存在」が架空であったとする、14.132.58.243さんの主張を裏付ける出典資料を具体的に提示されない場合は、「江戸時代の藩」の節に新城藩の記述を復帰いたします。--故城一片之月(会話) 2012年5月19日 (土) 10:49 (UTC)
- 「新城藩」部分の記述を復帰しました。--故城一片之月(会話) 2012年5月20日 (日) 06:55 (UTC)
西三河・東三河の件
[編集]本文に西三河・東三河という節があって、東・西三河の区別の起源を『徳川実紀』(嘉永2年(1849年))とする記述がありますが、その現在の記述は根拠が薄弱であり、寄稿者の独自研究を思わせる記述内容となっており、他にも不正確な記述箇所があります。
例えば、「昔は、三河といえば西三河が指された。三河物語においても、西三河を単に、三河(国)と言い、牛窪・吉田(豊川・豊橋)辺りを特段に指定する場合、東三河(国)と呼称している。」との記述ですが、
戦国期の永禄5年(1562年)11月13日(旧暦)の今川氏真感状には「参州八幡合戦之時」(この「八幡」は豊川市八幡町)など東三河地域に所属する地名にも単に三河を指す「参州」が冠せられており、「参州」が「西三河」を指すとすればこの矛盾をいったいどう考えるのか疑問です。現在の記述の出典は示されておらず独自研究のように感じられます。
また、 「幕末に編纂された徳川実紀において、初めて、西三河という呼称が登場する。この頃になって、ようやく三河国を東西に分割して、西三河(矢作川流域)、東三河(吉田川流域)と呼称するようになったと思われる。」との記述も、
同様に永禄7年(1564年)6月22日(旧暦)付けの酒井忠次宛・徳川家康判物には「吉田東三河之儀申付候……」との表現が見られ、『徳川実紀』以前から「東三河」の用語・概念が存在していたことがわかります(煎本増男『戦国時代の徳川氏』新人物往来社刊、1998年、原出典=『譜牒余録』収載古文書写し)。「西三河」についても「酒井忠次社領安堵状写」という古文書に「西三河山中八幡領之事」とあり( 出典、新編岡崎市史編さん委員会編 『新編岡崎市史 6 古代中世史料編 』 岡崎市、1983年収載古文書。)、いずれも『徳川実紀』の嘉永2年より遙かに古い用例ですがどうなんでしょう。『徳川実紀』を最初とする出典根拠はあるのでしょうか?書き換える必要が有る気がしますが…。--故城一片之月(会話) 2013年3月29日 (金) 17:16 (UTC)