ノート:三島由紀夫/過去ログ1
このページは過去の議論を保存している過去ログページです。編集しないでください。新たな議論や話題を始めたい場合や過去の議論を再開したい場合は、現在のノートページで行ってください。 |
過去ログ1 | 過去ログ2 |
2004年の話題
関連人物に川端康成を加えてはいかがでしょうか。 川端康成の項目には三島が川端門下だとの記載がありました。 自分は文学史にうといので、詳しい方に判断を預けます。--Njt 2004年9月28日 (火) 09:14 (UTC)
[この編集]の意図は何だったのでしょう? 以下のいずれかに該当すると判断されたのではないかと思いますが、編集の要約に何も書いていないので、意図を測りかねます。
- 事実に反する
- 不必要な個人情報
- 身分差別につながる
三島事件への分割提案
三島事件を分割することを提案します。--経済準学士 2006年6月24日 (土) 13:28 (UTC)
- 賛成。単独で記事にするのに十分な量があると思います。予断ですがしかし、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」「なに考えてんだバカヤローっ!!!」みたいな文章は出す必要があるのかどうか。--DOERAX 2006年7月7日 (金) 03:25 (UTC)
- 大賛成であります。とんちゃん2 2006年7月7日 (金) 09:11 (UTC)
- 分割に賛成します。「三島事件」だと、「地名+事件」のようにも感じられますが、検索してみるとそれなりに使われている用語なので、これでいいのではないでしょうか。--わたあめひみつ 2006年9月24日 (日) 07:04 (UTC)
- 大賛成であります。とんちゃん2 2006年7月7日 (金) 09:11 (UTC)
- (なんとなく分離なら)反対。「その生涯」「略年譜」「映画」を執筆した者として一票。昭和を代表する文学者であり、現在に至るまでインパクトを残した行動者であった三島由紀夫を知る、読む、書くにあたって「1970年11月25日」と「それ以前」を分離することは不自然。1つにまとまっているべき情報で、章立てとしては分離し、同じ場所(ページ)にあるべきと思います。肥大化やバランスが分離の理由なら、日本版で「三島由紀夫」なら足りないくらいかもと思います。「三島事件」という項目の立てかた自体も慎重を要すと思います。「三島事件」「楯の会事件」「三島由紀夫と楯の会事件」…と、いろいろありますし、そもそもどれもが人口に膾炙した項目名とは思えないからです。「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」「なに考えてんだバカヤローっ!!!」は、一方的、厳密性は別にせよ史実(ただボールド、太字にする必要がわからない)。もし分離した場合でも現状でも、(センシティブな問題をはらんでるとはいえ)反論的要素、国内外の反応などの記述が少ないので、スタブ項目であると思いますが。論議の末、両項目について有益である道が開かれれば、喜んで賛成します。長々とすいません…。Kamawanu 2006年7月7日 (金) 18:22 (UTC)
- 日本の歴史からみて、ただ単に個人的な事件に終始しているわけではないので、単体で記事化する意味はあると思います。「三島事件」の三島自身に関わることと少々の評価は残しておいて、本記事で解説すればよいのではないでしょうか。
- ついでに、前述した罵声のような記述はいちいち出さずに、「強い罵声や野次がとばされ…」というようにすればいいはずです。会話文を出すのは百貨辞典として低俗ですし、感嘆符が三つもつけられているのもいただけない(そもそも百科事典に感嘆符は不要だと考えています)。--DOERAX 2006年7月31日 (月) 16:19 (UTC)
会話文が低俗と思われるなら、他の記事で会話文が載っているのはすべて低俗になります。気になるのならすべて削除されてから申してください。
- 据え置きで良いのではないでしょうか。三島という作家を知る上で、三島事件はやはり契機となっていますし、さけては通れないと思います。自衛隊員の発言についても事実ですから、資料としての精度上、据え置いてよいのでは。その上で、社会との連関等、三島本人以外の、さらに一般的な切り口から三島事件について項目を立てるのであれば、立てれば良いと思います。--N.h.n 2007年3月4日 (日) 15:46 (UTC)
関連人物
関連人物の項が無意味やたらと長いので、関係性が強く、重要な人物以外は削除するべきです。特に、関係のベクトルが「関連人物→三島」のみの人物をわざわざ記述する必要性が分かりません。(平野啓一郎、浅田次郎、ビョークなど)wikipediaはなんでもかんでもいっぱい書けばいいというものではありません。Addict 2007年2月10日 (土) 00:52 (UTC)
恣意的な判断で何でもかんでもいっぱい削ればいいというものでもありませんね。「関係性が強く、重要な人物」は残すべきというなら、『サド侯爵夫人』成立に決定的な影響を与え(三島が小島千加子に語った言葉によれば)『暁の寺』の今西康のモデルとなった澁澤龍彦、『愛の処刑』成立に重要な役割を果たした中井英夫、『林房雄論』で詳細に論じられた林房雄、『岬にての物語』で三島に模倣されたダンヌンツィオ等は尚更残すべきでしょう。坂本一亀は木村徳三と共に作家三島由紀夫の育ての親と言うべき重要な編集者であり、三島の書簡を読んだことがあれば「関係のベクトルが『関連人物→三島』のみの人物」とはまさか思わないはず。その一方で、通俗的知名度の高い石原慎太郎や安部譲二を残すことは何とも思わないあたり、失礼ながら、Addictさんは本当に三島を読んだことがあるのでしょうか。--Arpeggio 2007年2月10日 (土) 06:06 (UTC)
誰も削除した全ての関連人物のベクトルが「関連人物→三島」だとは言っていません。Arpeggioさんは上で挙げた人物以外で誰を関連人物の項に残すべきと考えているのでしょうか。お教えください。Addict 2007年2月11日 (日) 06:59 (UTC)
人名事典を参考にして、いま草案を作っています。人名も五十音順に配列するつもりです。少々時間が欲しいですね。--Arpeggio 2007年2月12日 (月) 20:21 (UTC)
宣言されてから1年以上が経過したにも関らず、一切手が加えられておらず、行う気がないと判断できる為、当方で整理いたしました。--Metaurus 2008年6月7日 (土) 06:47 (UTC)
愛読
そして『万葉集』や『古事記』などを愛読した。とありますが、これらは教養として求められるものであり、三島の思想的な路線では聖典にひとしいもので、聖書を愛読といわないのと同じ理由で、表現がまちがっているのではないでしょうか。--KOGARASI 2008年11月27日 (木) 22:19 (UTC)
三島由紀夫の同性愛
三島由紀夫が同性愛者か否かはべつとして、そのような関係をもっていたことはかなり確かなことではないでしょうか?福島との関係は事実で、かくしようもないことでは?--KOGARASI 2008年11月27日 (木) 22:19 (UTC)
分割提案
「主な作品」「映画作品」「テレビドラマ作品」「ラジオドラマ作品」「音楽作品」の項をまとめて三島由紀夫の関連作品として分割することを提案します。理由は、ページのサイズ増加です。--Susuka(会話) 2012年8月10日 (金) 03:44 (UTC)
- 本文にかなりの量がありますから、作品リストだけ分割して記事内にリストがない・あるいは貧弱なリストしかない状態にするとかえってバランスが悪いと思います。--頭痛(会話) 2012年8月10日 (金) 09:14 (UTC)
かなりページのサイズが増加してますから、「三島由紀夫の関連作品」としてリストを独立させるのもいいかと思います。そうすれば、数多い短編小説などは全てをリスト化もできるという利点もありますし。 分割する際は、きちんと誘導リンクがなされるようにすれば、三島由紀夫の記事内に作品一覧リストがなくても、主だった作品は「略年譜」に書かれてありますので、特に問題はないのではないでしょうか。 詳細なリストが知りたい人は、「三島由紀夫の関連作品」へ飛ぶと思います。--みしまるもも(会話) 2012年8月10日 (金) 10:55 (UTC)
- コメント 「三島由紀夫の関連作品」では、三島由紀夫が登場する作品や三島由紀夫を論じた作品などを中心とした記事であるかのようであり、三島由紀夫の著作を中心とした記事とは読み取れません。
- 分割するなら「三島由紀夫の作品」とすべきでしょう。「三島由紀夫の作品」と言えないもの、たとえば三島由紀夫が登場する映画などは、そもそも著作と同じ記事で扱うメリットがないです。--Greeneyes(会話) 2012年8月10日 (金) 16:21 (UTC)
三島由紀夫自身が出演した映画、たとえば「からっ風野郎」でも、主題歌は三島の著作ですし、同じ記事で扱うメリットや意味は充分にあると思います。それに三島の場合は、単に小説などの著作だけではなく、映画出演も彼の芸術活動の一環ですから、「三島由紀夫の関連作品」と大きな範囲として含めてまとめて分割した方がいいと思います。もし含めないとすると、少量の関連作品だけが残ってしまい、すっきりした分割にならなくなると思います。--みしまるもも(会話) 2012年8月11日 (土) 02:27 (UTC)
今、考えたんですが、分割する際の記事名は、Greeneyesさんの言うように「三島由紀夫の作品」としておいて、本人出演映画などの関連作品も含めた方向がベストな気がします。「三島由紀夫の関連作品」とすると、三島を論じた関連本まで入ると勘違いする人が出る可能性もあるので、タイトルはあくまで「三島由紀夫の作品」としておくべきでしょう。--みしまるもも(会話) 2012年8月11日 (土) 06:49 (UTC)
- 「三島由紀夫の作品」という記事名で翻案や出演映画まで扱うのは変です。つけるとしたら「三島由紀夫の著作・出演作品ならびに翻案作品」とかになるでしょうが、さすがに無理があるでしょう。仮に著作と翻案を分けた場合、著作はともかく翻案は単独の一覧にするほど量があるようには見えません。
- 現在この記事は35万5000バイトですが、著作などを切り離したとしても30万前後は残るでしょうから「サイズの増加」を問題とするならあまり本質的な解決にはならないと思います。私は別にページサイズが増えることに問題は感じないのですが、サイズのことを考えるのであればまず記事のブラッシュアップからはじめるべきです。精査はしていませんが、現在この記事は事典としては瑣末な情報まで詰め込みすぎている印象も受けます。その上でなお必要なら全体のバランスを十分考慮したうえで分割をすべきです。(この点では一度査読依頼で意見を募ってみるといいかもしれません。)なお「短編小説などのリスト化」を考えているのであれば、何も記事の分割をしなくても現在記事にあるのとは別により詳しい著作の一覧をつくることはできると思います(そこまで詳しいリストが必要かどうかという点はちょっとわかりませんが)。単にページサイズを減らすためというだけの分割には賛成できません。--頭痛(会話) 2012年8月11日 (土) 09:34 (UTC)
頭痛さんへ。 記事内容はどれも必要項目に欠かせない情報ですし、決して無駄な情報まで入れてないと思います。変に削ると、三島の辞書としては偏った内容になると思います。特に家系に関する項目は、私が加筆する以前はかなり偏向的で悪意のある一面的内容でした。様々にある諸説を網羅する正しい辞書にするならば、必要不可欠な内容ですし、サイズのことを第一優先して、内容を削るのは辞書としては不完全だと思います。 分割についても、サイズの増加はこれ以上は増えないと思いますが、やはり著作関係は分割した方がすっきりすると思いますよ。より詳しい著作の全リストはあった方が辞書としては親切ですし、短編などは個別に作品記事にする必要のないものが多いので、リストアップだけはしておいた方がいいと思います。テンプレ類が膨れ上がるよりは、年月日も付随するので記事内が適しているでしょう。 分割する際の、タイトルは簡潔にした方がよいので、「三島由紀夫の作品・関連作品」ではどうでしょうか? 主演作品や翻案作品を含めていることは、記事の最初の文章で説明すればよいと思います。--みしまるもも(会話) 2012年8月11日 (土) 11:33 (UTC)
- ええと、「関連作品」とつけると「三島を論じた関連本まで入ると勘違いする人が出る可能性もある」という話だったのでは。まあそのあたりは冒頭で「三島を対象とした評論やファンブックなどは扱わない」というような断り書きをすれば済むのかもしれませんが。
- それはそれとして、やはり私には現状の記事状態がベストであるようには見えません。ざっと「経歴」を読んだだけでも整理しきれていないと思います。削るか削らないかということはともかく、脚注化したり別の節に移したほうがよいのではないかと思われる情報が散見されます。例えばですが、「経歴」のなかでとりたてて交流があったわけでもない太宰治とのエピソードを長々と書く必要があるでしょうか。これはもっと内容を圧縮したうえで「関連人物」で述べるのがよいのでは。三谷信の回想や橋川文三・加納典洋の『英霊の声』評といったものも長々と引用しすぎだと思います。引用は基本的に地の文に対して従の関係にあるべきですが、このあたりは各段落で引用文のほうが主になってしまっています。引用するにしてももっと地の文を生かし引用部分を絞ることができるのではないでしょうか。
- また短編作品のリストアップをしたいのであれば前述のようにさしあたり「三島由紀夫の作品一覧」などにして本稿とは別に作成するほうが良いと思います。他者の査読を経たうえでどうしても内容が膨大になってしまうようであればそのとき場合には分割を検討してもよいでしょう。ノストラダムスのように家系・親族や関連人物一覧を別項として分割することも考えてもよいかもしれません。現状での分割は記事にとってプラスになるとは思えません。--頭痛(会話) 2012年8月11日 (土) 16:49 (UTC)
「三島由紀夫の作品一覧」などにして本稿とは別に作成するならば、分割して記事にするのと同じことでは。別に作成するのに、現在の記事の中に残しておくのはダブリになるので、もし作成するならば分割してしまった方がいいと思います。主だった作品履歴はすでに略年譜でも網羅されていますし。もし分割する場合は、記事のタイトルは、「三島由紀夫の著作および関連作品」とて説明文をつければ問題ないと思います。
頭痛さんの意見の、親族や関連人物一覧は別項にして独立分割するのは、少し違和感があります。ノストラダムスの場合と三島の場合は意味合いが違うのでは。親族は個別の記事もありますし、三島の記事内でまとめた出目、家系家族の項は移動すると三島の経歴との関連性や全体的繋がりがバラバラになり混乱すると思います。三島の著作リストならば、分割は簡単にできますし、デメリットはないと思いますが、どうしても著作の項の分割反対ならば、このままの状態でどちらも分割しない方がベストでしょう。短編のリストに関しても現状態でも大体ほとんどは網羅されていますので、わざわざ分割記事にして全リストしなくてもいいかとも思います。ちょうど著作分割の提案が出たので、分割できれば全リスト化したいというだけの話で、無理にすることもないでしょう。
太宰に関するエピソードに関しては頭痛さんのおしゃるように、関連人物の項で書いた方がいいかとも思いますので、後日、修正していきたいと思います。「英霊の声」評の引用部分も、個物作品記事で充実させているので、本記事の方は絞ってみたいと思います。記事増加はこれ以上はないでしょうから、分割は無しの結論でどうでしょうか? なるべく記事は分割しない方がいいことは確かですから。私も基本的には現状のサイズ量は問題ないと思います。もしどうしても分割するならば、著作リスト分割がベストで、他の項を分割したり、簡略化を第一優先にして、無理に記事を縮小してしまうのは反対だというだけの話です。--みしまるもも(会話) 2012年8月12日 (日) 01:22 (UTC)
- 分割する前に別に一覧記事を作ったらどうか、というのは現状よりも詳しい一覧にするのであればということです。例えば作品を全部テーブル化して初出や備考を細かくつけるとか。その場合には容量が増大しますから別項一覧記事にしたほうがよいということになりますし、本記事にある一覧は簡略版として機能することになると思います。まあその場合は本記事の一覧をもっと削ってもよいかもしれませんが。別途一覧記事があるからといって(また年譜に記されているからといって)作品一覧を作家記事から完全に除外して別記事まかせにすべきではないと思います。残念ながらアガサ・クリスティや松本清張などはそのようになってしまっていますが、一つの記事としての体系性や利便性を損ねています。
- 親族などの記述についてはちゃんと読まないまま発言しましたので、記事構成上分離できないということであれば無論分離すべきではないでしょう。しかし系譜などの節も私は「書きすぎ」ではないかと思います。ちょっと手が空いていないのであまり具体的なコメントはできませんが、やはり一度査読を依頼したほうがよいのではないかと感じます。--頭痛(会話) 2012年8月13日 (月) 20:02 (UTC)
三島の系譜については、私が編集する前は、話者匿名の週刊誌・噂の真相などからの悪意的な真偽不明の引用が主体となって偏向していましたので、それに対応する他の三島研究者からの引用を付加した客観的なバランスのとれた記事にするためには、現在の内容量は必須です。三島について知らない人の審査にゆだねて、単に記事を簡略化する方向にするのは反対です。これぐらいの内容になるのは、数え切れないほどの三島論がある三島由紀夫という人物の辞典として必要最小限の内容ですから。--みしまるもも(会話) 2012年8月14日 (火) 01:37 (UTC)
「愛国心」の節分け
三島の持論の中で、「天皇論」について愛国心に関することを記述したものです。「愛国心」については分割して三島の持論の一つとして分けたほうがいいでしょうか?どうかおねがいします。--BlackClow(会話) 2014年9月13日 (土) 05:31 (UTC)
- BlackClowさん、こんにちは。BlackClowさんが書かれた「愛国心」についてのものは、「天皇論」とは違いますので、やはり項目は分けた方がいいと思いますが、まとめ方はもう少し補足しておかないと、三島の本来の結論主旨になりませんので、加筆が必要となります。
- BlackClowさんが引用なさった三島の『愛国心』の一節はよく抜粋される部分ですが、そのエッセイ全体の三島の主旨や結論は、「国を思う心」自体は否定していないものです。三島が言っていることは、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉が、国を「恋うる心」とはそぐわない言葉だという意味なので、いわゆる「愛国心(国を思う心)」自体を否定しているのではなく、むしろ日本人には、その「恋」は「内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的」にあるもので、「恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである」と肯定しているのです(全文の論旨をご覧になるとお分かりなると思います)。なので、一般的にこのエッセイの前半の一部分だけがよく抜粋され、一人歩きしている傾向があるので、きちんと全体の結論主旨を反映したものに、後日まとめ直したいと思っていました。今現在、私は他の案件にかかっており、いますぐにはできませんが、それが一段落したら、まとめようと思います。あるいはBlackClowさんがまとめて下さっても構いませんが、全体の結論主旨にしたものにしてから、項目分けはした方がいいと思います。--みしまるもも(会話) 2014年9月13日 (土) 07:51 (UTC)
- ありがとうございます。ただ、まとめるにはかなり時間がかかると思いますが、構いませんか?--BlackClow(会話) 2014年9月13日 (土) 09:44 (UTC)
そうですね、特に急がなくても、BlackClowさんのペースでまとめて下さって構いませんよ。とりあえずは、今書かれてある〈三島自身は「愛国心」に関しては、〉の部分に、「という言葉」を入れて、〈三島自身は「愛国心」という言葉に関しては、〉にしていただければ、正確な意味になるので、そこだけ入れておいて下さい。エッセイ『愛国心』の全文は、『決定版 三島由紀夫全集第34巻・評論9』(新潮社、2003年)で読めますので、よろしくお願いします。--みしまるもも(会話) 2014年9月13日 (土) 12:12 (UTC)
とりあえず、ある程度節分けしました。--BlackClow(会話) 2014年9月13日 (土) 23:28 (UTC)
- ありがとうございます。脚注部分や細かい点などを少し補足・補正しておきました。--みしまるもも(会話) 2014年9月15日 (月) 12:37 (UTC)
「三島の持論」の太字について
「三島の持論」の節で、三島の述べた言葉に太字が使われているところがあります。これは、なぜ太字になっているのでしょうか?「三島由紀夫」を説明する記事として太字で強調する必要性があったのだと思いますが、特に政治の主張などは、三島に影響を受けた人が三島の主張を喧伝するために太字にしているような印象を持たれてしまう可能性があると思います。私はなるべく、太字は避けた方がいいと思っています。「三島由紀夫」の記事を読んでいて、多少、気になったところです。--Bonatyuna(会話) 2015年9月4日 (金) 14:39 (UTC)
- Bonatyunaさん、こんにちは。ご意見ありがとうございます。おそらく太字になさった方は、強調したい気持もあったかもしれませんが、発言部分と説明文を解かりやすく区別したい気持もあったんじゃないでしょうか。いずれにしろ、Bonatyunaさんのおっしゃるように、太字がだらだら長々とあると違和感があって変ですので、取っておきます。
- 私は今、出典補強を兼ねながら、少しずつ三島の記事の整理を項目ごとに進めており、「文壇デビュー…」以下も徐々にやっていこうと思っていますが、その際、太字だったところも、記述全体を見ながら、引用枠にするか、要約でまとめるかを考慮し改稿していきます。とりあえず今は、太字だけ解消しておきます。--みしまるもも(会話) 2015年9月5日 (土) 00:30 (UTC)
- 了解しました。--Bonatyuna(会話) 2015年9月5日 (土) 10:51 (UTC)
内容過剰の整理について
現在、私は記事全体を整理し、三島本人の生涯・経歴や、必要不可欠な情報を充実させ、その他の「裁判」「家族」「関連人物」などの節の雑多な情報はブラッシュアップしてゆくつもりで作業中です。「三島由紀夫文学館」の節も、独立した別記事があるので削ろうと思っています。
宴のあと裁判は、「宴のあと」、剣と寒紅裁判は、「福島次郎」の記事へ適切に移行し、平岡家の系譜については大幅削除して必要最低限にまとめるので、しばらくお待ちください。元々、平岡家の家系情報は、噂の真相からの恣意的な誤情報で占められていたため、それに対する訂正情報を付加して膨大な量になったという経緯がありますので、元のいらない誤情報を精査し、信頼性の高いものだけでまとめたいと思います。--みしまるもも(会話) 2015年10月5日 (月) 00:30 (UTC)
- 整理をされると宣言されて以降、しばらくの間は頻繁に作業をされていたようですが、最近は三島由紀夫への編集回数も減り、他の記事の作成に力を入れられているように見受けられます。その後に作成された他の記事では良質な記事に選ばれるほどに力を入れられたものもあるようですが、本記事の作業は一段落ついたということでよろしいでしょうか。良質な記事に選出されたものと比べてみても本記事の内容は遜色ないように見受けられます。この記事も選考に出してもよいと思えるようでしたら良質な記事に推薦したいと思います。いかがでしょう。--Old jacket(会話) 2016年10月23日 (日) 08:39 (UTC)
- Old jacketさん、こんにちは。査読どうもありがとうございます。以前『豊饒の海』の鬼頭槇子のモデルの件も、出典付記の良いきっかけをいただきとても勉強にもなりました。感謝しております。この三島由紀夫の記事も残存していた出典不明や独自研究も無くなり、加筆整理が何とか終わって一段落しております。大体これでこの作家の全体像は網羅されていますので、一応これでいいかなと考えています。良質記事選考は特に考えていませんでしたが、Old jacketさんのご推薦があればとても心強いので、ご厚意に甘えて受けてみようかな。ダメ元ですしね。私の方はいつでもいいので、Old jacketさんのお手隙の時にでも手続きお願いします。どうもお気遣いいただきありがとうございました。--みしまるもも(会話) 2016年10月24日 (月) 00:48 (UTC)
- ご了承いただけましたので推薦いたしました。--Old jacket(会話) 2016年10月24日 (月) 13:43 (UTC)
学習院高等科の卒業式について
「卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝受され」た、とありますが、『昭和天皇実録』の昭和19年9月9日条には、「学習院において卒業式挙行につき、朝融王を差し遣わされる」とあり、昭和天皇は臨席されていないようです。本記事に提示の出典が間違っているのでしょうか?--Susuka(会話) 2017年5月3日 (水) 05:58 (UTC)
- Susukaさん、こんばんは。昭和19年9月9日の学習院卒業式に天皇陛下が臨席されていたことは、全集の年譜(第42巻の95頁)にも書かれており、他の三島関連資料中でも基本的事柄として共有されていますので、これが違っているということはまず無いと思うのですが・・・。
- 「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争」の記録にも、卒業式で陛下が3時間も微動だにしなかった佇まいの立派さに言及している箇所があります(ちなみにここは、しばしば引用される有名な部分です)。資料をお持ちでない方でも、とりあえずYoutubeでご覧になれますので確認してみてください([1]6:44頃以降)。あと、三島の同級生の本『級友三島由紀夫』(三谷信著)にも、「我々の」卒業式の時にも天皇陛下が「御臨幸」になったと書かれています(15頁)。--みしまるもも(会話) 2017年5月3日 (水) 11:24 (UTC)
- 追記 でも今、エッセイ「学習院の卒業式」を注意深くよく読むと、総代として卒業生代表で免状を受け取った三島は、「正面の御名代の宮殿下に最敬礼し斜右の宮内大臣から免状をもらつた」とあり、その後に山梨院長と共に宮中に御礼言上に参内したとありますね。もしかしたら、その時に陛下と謁見したのでしょうか。しかしながらその時には3時間もいないと思うんですよね・・・。宮中に参内した後に華族会館で謝恩会に行ったとあるので。--みしまるもも(会話) 2017年5月3日 (水) 12:12 (UTC)
本文中の括弧の用例について
この記事全体では〈 〉という記号が多用されていますがこれは何かしらのテキストからの引用を表すものでしょうか。だとすれば「」などの括弧の使用が適切ではないでしょうか。wikipediaの表記ガイドにも反しますし出典表記も欠くように思われます。他の記事(森鴎外など)との統一を図るべきだと思いますが。--Singing Wolf(会話) 2018年10月2日 (火) 23:27 (UTC)
- Singing Wolfさん、こんにちは。その括弧の区分けは、三島を論じている評論家・知人などの発言を「 」で示した時に、そこの論文内で出てくる三島本人の発言や著作からの引用文を〈 〉で区別し、二種のものが混同しないよう意味を明瞭にする目的で約物を別表記にしてあるのです(三島の発言を『 』とすると、作品名の約物とかぶってしまうので、〈 〉が適当かなと思いました)。そして、「生涯」節などの他のところでも、三島以外の人物(友人・知人)の発言や引用文があったりするので、三島の発言や著作物からの文言を区別した方が、読んでいてより分かりやすいかなと考えて区分けしてあります。
- 特に三島本人のものと分けるほどでもない節については、「 」に統一するように後日見直してみますが、それだけで統一してしまうと発言者を区別できず混同してしまうケースでは、やはり約物を別表記にしないと読み手に会得しにくいので(三島の発言や作品からの文章だとすぐに分かる人には無用かもしれませんが)、区分けする必要があるのです。ガイドラインの原則では、引用の表記は「」となっていますが、どうしても引用元を分けないといけないケースでは、ご容赦いただけたらと思います。ガイドラインはできるだけ遵守することが推奨されますが、冒頭にも「このガイドラインはすべての記事に絶対に適用しなければならないものではありません」と書かれているように絶対の鉄則ではないので、論者と小説家本人の発言を区別しないといけない場合のところについては、許容していただければありがたく存じます。--みしまるもも(会話) 2018年10月4日 (木) 02:42 (UTC)
- みしまるももさん、迅速なお返事ありがとうございます。この質問をしたのは「三島の持論」の項目に見られる〈違憲〉〈平和憲法〉〈最重要問題〉〈国家〉〈軍事力〉などの表現に奇異の感を拭えなかったためです。これらのほぼ一般名詞的な表現(の抜き出し)に対してこれほどにも多数使用するといかにも読みにくいのではないかと思われます。最後の2つなど何であれ約物は無用ではないでしょうか。(もちろん三島自身がこれらの用語に特殊な意味付けをしていて、例えばラカンの言う「去勢」を日常的な意味における「去勢」と区別するとかと同様の必要があれば別ですが)
- また、本文にはそのような使い分けの基準が示されていない(少なくとも論文などでは見ない使い分けですし……今回お返事を頂いたのでノートを見た読者には分かりますが)点からも、何らかの対策が必要ではないでしょうか。--Singing Wolf(会話) 2018年10月4日 (木) 22:53 (UTC)
- Singing Wolfさん、違和感のご指摘ありがとうございます。「三島の持論」の節などは、「 」で統一しても問題のない節かと思うので、Singing Wolfさんご指摘の一般名詞的なもので特に引用符のいらなさそうなものを見直しながら対処しておきます。その他の節についても、評論家の引用部との区別が必要な節以外は、「 」にしていき、使い分けている節は冒頭にその旨を明記しておこうかなと思います。--みしまるもも(会話) 2018年10月5日 (金) 07:57 (UTC)
町名の誤記載の修正について
本記事の町名に複数誤りがあったため修正したところ、一つが再度誤ったものへと戻っておりました。「大田区馬込東一丁目1333番地」がそれに該当致しますが、正しくは「大田区馬込町東一丁目1333番地」である為、正しいものへと修正を提案致します。「角川日本地名大辞典」によると、現在の南馬込四丁目に昭和7年~40年に存在した町名は「馬込町東」であり、東京市新區町名地番表においても、馬込町東となっております。--Otherde(会話) 2020年5月14日 (木) 02:01 (UTC)
- 本記事ではなくて、平岡梓のおける編集についてだと思いますが、いずれにしても三島由紀夫の記事内にも関わってくるものなので、ここのノートでも構いません。私としてはOtherdeさんの問いかけへの返信として、利用者‐会話:みしまるもも#平岡梓における大田区馬込東の表記についてで書いたとおりでございます。あと、Gtorewさんが調べてくださった資料によると、他の会社や個人の住所が「大田区馬込東」で正式住所として載っているものが複数あるとのことなので、やはりこの場合は、出典の通りの住所表記にしておくのが適切かつ無難なのではないかなと感じます。やはり居住者本人の三島自身が「大田区馬込東」とずっと書いており、他の人物からの三島への書簡の住所も「大田区馬込東」と明記されていることがまずあることと、複数の三島研究者が三島の資料を作成するに際して、そこをあえて、現住所の南馬込四丁目を付記した上で旧住所を「大田区馬込東」と明記し(それはこのデータベース[2]からも確認可能です)、それを「誤り」だと断じてしまうのは一概に言えない性質の事柄なので、元の出典の通りに一応「大田区馬込東」にしておくべきかと思います(ちなみに1960年の「東大人名錄」でも大田区馬込東の住所が複数あります[3])。そしてOtherdeさんが主張なさっている「馬込町東」に関する情報は注解に書くことにいたします。--みしまるもも(会話) 2020年5月14日 (木) 06:11 (UTC) 補記--みしまるもも(会話) 2020年5月14日 (木) 06:27 (UTC) 補記--みしまるもも(会話) 2020年5月14日 (木) 08:28 (UTC)
- コメント こちらで、大田区に馬込東が存在したことを示す資料を3点示させていただきました。特に3つ目の資料(株式会社 ヤマダコーポレーションの「沿革」)は、現在の南馬込に、かつて「馬込東」が存在したことを示す有力な資料であると思います。--Gtorew(会話) 2020年5月14日 (木) 06:51 (UTC)
- コメント 【追記】 こちらでも述べましたが、この件の最終判断は、私以外の利用者さんにお任せ致します。--Gtorew(会話) 2020年5月15日 (金) 01:14 (UTC)
- コメント 平岡梓のノートにて議論すべきところを間違えてしまい、深くお詫び申し上げます。また、みしまるもも様におかれましては、「三島由紀夫の記事内にも関わってくるもの」としてこちらにて議論を継続を認めて下さることに感謝致します。さて、みしまるもも様が仰る「出典の通りの住所表記」ですが、その出典の住所(馬込東)は出典も用いて上げた通り過去に存在したことのないもので誤りです。故に、「大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)」と番地と現住所まで載せての間違った町名の記載には反対致します。「赤坂区の日枝神社参道入口付近の家」のようにおおまかにその場所を指す為に「大田区の馬込東にある家」と記載するのであればまだしも、これではあたかもその住所が番地まで含め実在したように見える上に、ピンポイントで現在地まで示されているからです。また、大田区馬込町東1丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)と記載した上で注解に「〇〇(出典)には馬込東とあるが、当地に存在したのは馬込町東である」と記載する等の措置を取る方法を提案致します。Gtorew様がご提示下さっている資料ですが、そちらの記載は本当に合っておりますでしょうか。利用者‐会話:みしまるもも#平岡梓における大田区馬込東の表記についてにおいてGtorew様がご提示下さっている昭和石油の4ページの有価証券報告書も住所の部分のみ目を通しましたが、「横浜市中区滝之上」を「横浜市中区滝の上」
、「新潟市上大川前通10番町」を「新潟市上大川前通10番町」と間違えていたり、「京都市中京区東洞院通錦小路入ル阪東屋町」を「京都市中京区東洞院錦小路入阪東屋町」と記載していることも確認できました。私が出典として挙げた角川日本地名大辞典の内容は、大田区の町名(私は編集したことがございません)の内容と相違なく、東京市新區町名地番表を参照しても荏原郡馬込町が東京市大森区となった昭和7年に新設された町名は「馬込町東」とあります。ご確認を頂けますと幸いです。--Otherde(会話) 2020年5月14日 (木) 09:01 (UTC) 一部修正--Otherde(会話) 2020年5月14日 (木) 09:57 (UTC) - コメント 補足です。昭和石油の3ページには、同一人物の住所を「大田区馬込町東」と記載しております。こちらの資料はかなり雑である上に、民間企業の資料に過ぎず「住所が実在したか否か」には地名辞典、官報、区発行資料等を用いるべきと考えます。もう一つ出典を挙げさせて頂きます。住居表示旧新・新旧対照表 6の2(昭和40年11月15日施行) (東京都大田区, 1965)--Otherde(会話) 2020年5月14日 (木) 10:13 (UTC)
- コメント 補足です。Gtorew様が提示されたもう一つの資料である、ヤマダコーポレーションですが、マイナビ国際派就職においては、 会社概要を「昭和37年 (1962年) 本社を大田区馬込町東4丁目(現所在地)に移転(5月)」と記載している為ご報告致します。--Otherde(会話) 2020年5月14日 (木) 11:46 (UTC)
- コメント Otherdeさんの平岡梓の編集[4]を見ましたが、要約に「山王下は地名として存在したことがない為フェードアウト・除去。西久保、馬込東など大字や町名の間違いを修正。」とあるだけで出典が加えられていません。「角川日本地名大辞典」を出典とされるなら、みしまるももさんが提案されたように本文はそのままで注解で説明と出典をつけるのがよいと思います。--Sazanamiya(会話) 2020年5月14日 (木) 12:40 (UTC)
- コメント 他の旧町名に出典が付記されていなかった為同様に致しましたが、出典を明確にする為に角川日本地名大辞典を出典として付記することに賛成及び対応致します。また、みしまるもも様の提案では本文が「存在したことのない誤った住所」となる為、実在した正しい住所を本文に記載した上で注解で説明と出典をつけることが適切であると考えます。--Otherde(会話) 2020年5月14日 (木) 13:21 (UTC)
- コメント 事実関係を簡潔に述べるのみで事足りるかと考えておりましたが、説明の必要性を感じた為細かく説明致します。まず、みしまるもも様が仰る『やはり居住者本人の三島自身が「大田区馬込東」とずっと書いており、他の人物からの三島への書簡の住所も「大田区馬込東」と明記されていることがまずあることと、複数の三島研究者が三島の資料を作成するに際して、そこをあえて、現住所の南馬込四丁目を付記した上で旧住所を「大田区馬込東」と明記し(それはこのデータベース[5]からも確認可能です)、それを「誤り」だと断じてしまうのは一概に言えない性質の事柄なので、元の出典の通りに一応「大田区馬込東」にしておくべきかと思います』ですが、三島由紀夫やその研究者たちが当地を「馬込東」と記載したことが「馬込東という住所が存在した」事実には全く繋がりませんし、「大田区馬込東1丁目1333番地」という住所は存在したことがなく誤りです。これは、「世田谷区北沢〇丁目〇〇番地」を、当地は下北沢(駅名及び世田ケ谷町時代の大字下北沢<丁目なし>の名残です)と呼ばれているからと「世田谷区下北沢〇丁目〇〇番地」と存在しない(したことのない)住所にするようなものです。これが「大田区の馬込東」や「世田谷区の下北沢」と言うのであれば慣例的に当地を指して使われる地域名として捉えることができ取り立てて問題ないかと存じますが、明確に番地を記載している上に「(現・南馬込四丁目32番8号)」と現在地も明確にされております。その為、そこに実在した「馬込町東」と記載すべきと考えます。また、大田区の町名として馬込町東がかつて存在し、馬込東が存在していないことの証明ですが、発行当時までに存在した大字・町名を全て網羅した角川日本地名大辞典において「馬込東」の記載はありません。記載があるのは「馬込町東」であり、「昭和7~40年の町名。1~4丁目があった」との記載や「同40年現行の北馬込2丁目、山王1~2・4丁目、中央4~5丁目、中馬込1・3丁目、西馬込1丁目、東馬込1~2丁目、南馬込1~4・6丁目となる」とあります(それぞれ「馬込町東」より一部引用)。また、現在地として本文に記載のある「南馬込」についても角川日本地名大辞典で調べたところ記載があり、「昭和40年~現在の大田区の町名。1~6丁目がある。もとは馬込町西1丁目・梅田町、馬込町東1~3丁目の大部分、馬込町東4丁目・馬込町西2~3丁目・新井宿4丁目・桐里町~の各一部(コピペとなってしまうため~と記載した場所は伏せますが、残りは「池上」が付く町名のみです)と記載があり、南馬込に当たる場所に馬込東があったとの記載もありません。その他に既に挙げた出典は、東京市新區町名地番表、住居表示旧新・新旧対照表 6の2(昭和40年11月15日施行) (東京都大田区, 1965)です。よって、本件は「大田区馬込町東1丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)」と記載した上で注解に「〇〇(出典)によると、当地に居住した平岡梓は馬込東と記載していた」と記載する等の措置を取ることが適切であると考えます。--Otherde(会話) 2020年5月14日 (木) 14:23 (UTC)
- コメント Otherdeさんの平岡梓の編集[4]を見ましたが、要約に「山王下は地名として存在したことがない為フェードアウト・除去。西久保、馬込東など大字や町名の間違いを修正。」とあるだけで出典が加えられていません。「角川日本地名大辞典」を出典とされるなら、みしまるももさんが提案されたように本文はそのままで注解で説明と出典をつけるのがよいと思います。--Sazanamiya(会話) 2020年5月14日 (木) 12:40 (UTC)
- Otherdeさん、詳しいご説明どうもありがとうございます。その期間の地名の厳格性を最重要視なさっているOtherdeさんから見ると、「馬込東」は、「存在したことのない誤った住所」という認識になるのは当然のことだと思いますが、一方で、この地域には「馬込東中学校」という名称もあり、その地に現実に暮らしていた人々にとってはたぶん「馬込東」でも十分に通用していたことが、その「馬込東」という現存する言葉からも看取され、そこまで「町」の有無の違いを気にはしてはいなかった類の地名なのだろうなと推察されます。ちなみに、少し検索してみると昔の名残りか「馬込東三丁目町会」という自治会も2019年更新時点であるようです([6])。そして、Gtorewさんの調べてくださったように、「馬込東」という住所書きも散見されており、「町」が入っていなくても普通に郵便物は届き、郵便局から「存在していない」住所だと返送されたり咎められたりするような性質のことではなく許容されていたと容易に推察されますが(現に三島宛の郵便物もずっと「馬込東」で届いていましたから)、しかしながら、Otherdeさんのお調べのように、官の定めた正式地番的には「馬込町東」だということで、地理の歴史上はその方が適切だということになるのかと思います。
- ただ、ご理解ただきたいのは、この場合では、三島の記事を作成するという観点がまず先にあり、ウィキペディアの編集の原則からから見ても、やはり凡ての(最新の2020年出版のものも含めた)三島研究・年譜・評伝の出典の記載通りに「大田区馬込東」としておくべき性質の事柄だということです。それはなぜかというと、その地に家を建てた三島本人が、自身の新住所を「大田区馬込東」と名刺にも書簡に書いていた事実と、三島へ宛てた川端康成、澁澤龍彦、ドナルド・キーン、清水文雄、等々あらゆる知人からの書簡の宛先も「大田区馬込東」と明記されている歴然とした事実があるので、それらを踏まえてあえて「大田区馬込東」としている三島関連の研究文献と反する記載の仕方をウィキペディアだけ勝手にするわけにはいかない、というのが私の基本姿勢でございます(全集補巻の正誤補訂一覧を確認しても、その住所を訂正していませんし、する必要性のない事柄だと認識されているのだと思います)。なので、そうした三島研究の総合的な観点から見て、この場合は「大田区馬込東」と出典のままにしておいて、注解でOtherdeさんのご説明のようなことを補足するのが無難なことなので、そうさせていただきたくお願いいたします。--みしまるもも(会話) 2020年5月15日 (金) 03:13 (UTC)
- みしまるもも様、利用者‐会話:みしまるもも#平岡梓における大田区馬込東の表記についてにおいてもそうですが、何度もWikipedia‐ノート:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月、Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20140528でなさったような印象操作や論点をずらすことはお止め頂きたく存じます。みしまるもも様は、『その期間の地名の厳格性を最重要視なさっているOtherdeさんから見ると、「馬込東」は、「存在したことのない誤った住所」という認識になるのは当然のことだと思います』と頭の中を決めつけておりますが、私が「存在したことのない誤った住所」と決めているのではなく、実際に「大田区馬込東」は存在したことがない住所であるのは出典で挙げた通りです。既に申し上げております通り、私は当地において地域名として「馬込東」と呼ばれていた可能性を否定しておりませんし、三島由紀夫が「馬込東」を記載していたことも否定しておりません。馬込東と名の付く学校の存在も町会の存在も否定致しません。しかし、それは馬込東が正式な住所であったということには繋がらず、それらを理由に本文中に誤りである住所を記載し、注釈に正式な住所を書くべき理由には当たらないと考えます。なぜ本文中に正式な町名を記載すべきか、注釈の方に馬込東を書く方が適切かは既に述べた通りで、本文中に「大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)」とあるように、「番地」や「現在の住所」が記載されているからです。特に現在の当地の正式な住所がピンポイントで記載されているにも関わらず、当時の住所が「存在したことのない住所」を記載するのは既に例として挙げた下北沢と同様のことを行うことに他なりません。また、「この場合では、三島の記事を作成するという観点がまず先にあり」と仰いますが、三島由紀夫の記事であろうとなかろうと同一に扱われるべきものと考えます。本件に付きましては、第三者より論点に沿った上で理由を明確にした意見を頂くべきと考えます。--Otherde(会話) 2020年5月15日 (金) 03:54 (UTC)追記 --Otherde(会話) 2020年5月15日 (金) 04:43 (UTC)
- コメント 正しく書くことが最善ではありますが、「大田区馬込(町)東1丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)」と記載した上で、注釈に「当地に存在した町名は大田区馬込町東だが、三島由紀夫は馬込東と記載していた」などの注釈を入れる分には南馬込四丁目32番8号に当たる本文中の住所が誤記に当たらない為、この方法でも対応可能であるとの見解を述べさせて頂きます。--Otherde(会話) 2020年5月15日 (金) 04:15 (UTC)
- どうして私の真面目なコメントに対して、「印象操作や論点をずらすことはお止め頂きたく存じます」という返答をなさり、はるか昔のコメント依頼のことまで出て個人攻撃をするのか、全くOtherdeさんの意図が分りかねます。私にしてみれば、Otherdeさんの「印象操作や論点をずらすことはお止め頂きたく存じます」という発言自体が「印象操作」だと受け取れます。今回私は十分にOtherdeさんの説明や「馬込町東」が官の定めた正式な地番だと理解した上で、この場合に関しては、まずは三島の総合研究の観点に基づいて凡ての出典の記載の通り、「馬込東」と一旦していただき、その上で注解を付けさせてくださいという許容性をお願いしているのです。あと、三島が家を建てたのは1959年(昭和34年)なので、昭和34年時の「住居表示旧新・新旧対照表」のURLも出していたければ幸いです。『角川日本地名大辞典』の出典ページもお願いいたします。--みしまるもも(会話) 2020年5月15日 (金) 04:57 (UTC) 補記--みしまるもも(会話) 2020年5月15日 (金) 05:08 (UTC) 補記--みしまるもも(会話) 2020年5月15日 (金) 07:20 (UTC)
- 対応可能な妥協案のところに気づかず失礼しました。その案については、「馬込(町)東」だと、予備知識のない人にとって余計分かりにくくなるので、「大田区馬込東一丁目1333番地」のすぐ後に注釈を入れてから、「(現・南馬込四丁目32番8号)」と続けるのがいいと思います。
そして注釈は、「当時の地番表記では「馬込町東」が正式表記であったが[出典]、三島の書簡や名刺、知人からの宛先はすべて「馬込東」とあり、三島の評伝・年譜の記載も「馬込東」となっている[出典]。」と補足したいです。--みしまるもも(会話) 2020年5月15日 (金) 05:22 (UTC) 補記--みしまるもも(会話) 2020年5月15日 (金) 05:44 (UTC) - (追記) あと、まだ少し腑に落ちない点があり、『角川日本地名大辞典』の「南馬込」の説明書きに「馬込町東1~3丁目の大部分、」とあるとのことですが、「大部分」ということは「全部」ではないということではないのでしょうか。やはり、いろいろと三島文献を再確認すると、三島が新築の家を建てるまで、建設会社の担当者と直に何度も面談し、家の設計から施工まで細かく注文を付けているので、自分の新しい居住地の正しい住所表記が「馬込町東」だったのならば、ちゃんと必ずそう書くと思いますし、研究者の方々がきちんと精査している三島関連のすべての出典が「馬込東」と明記されている事実から、この地については「馬込東」が正しい地番だったのではないかなという感じがいたします。また、当然のことながら健康保険証の住所を三島自身見ていたでしょうし、国民年金にずっと加入し、ペーパードライバーながらも1962年(昭和37年)に運転免許証も取得しているので公的身分証の住所表記と違っていたら、絶対に気づくと思うので、やはり「馬込東」だったのではないかなという感触もまだどこかあります。また『角川日本地名大辞典』には「馬込東」の記載はないとのことですが、ウィキペディア記事の東京都の土地区画整理事業一覧には「馬込村馬込東4丁目」という地があるので(これが間違いなのかもしれませんが)、全く無いともいえないのではないかなと思います。--みしまるもも(会話) 2020年5月15日 (金) 07:41 (UTC) 補記--みしまるもも(会話) 2020年5月15日 (金) 08:45 (UTC)
- みしまるもも様、本ノートの中でも『その期間の地名の厳格性を最重要視なさっているOtherdeさんから見ると』等、私に対しての印象を断定される発言をされております。ご確認を頂けますと幸いです。みしまるもも様にご確認です。『官の定めた正式地番的には「馬込町東」だということで』、『今回私は十分にOtherdeさんの説明や「馬込町東」が官の定めた正式な地番だと理解した上で』の類似した2つの発言がございましたが、こちらについてご説明頂けますでしょうか。2度出てきたことより間違えて書いた訳ではないかもしれないと考え、念の為確認させて頂きたく存じます。また、『その案については、「馬込(町)東」だと、予備知識のない人にとって余計分かりにくくなるので、「大田区馬込東一丁目1333番地」のすぐ後に注釈を入れてから、「(現・南馬込四丁目32番8号)」と続けるのがいいと思います。』とありますが、予備知識のない人が見たら本文に書いてある住所が実在した住所と勘違いすると考えます。予備知識のない人が見たら、本文に番地まで載っている上に現在の住居表示まで載っている住所が実在しなかった住所とは到底思わないと考えます。『あと、三島が家を建てたのは1959年(昭和34年)なので、昭和34年時の「住居表示旧新・新旧対照表」のURLも出していたければ幸いです』とありますが、昭和34年時点に住居表示は存在致しませんし、私が出した出典住居表示旧新・新旧対照表 6の2(昭和40年11月15日施行) のタイトルだけでも見て頂ければ当地においては昭和40年に施行したものと分かります。また、仮に住居表示施行後の年代で存在したとして毎年発行するようなものではない「住居表示旧新・新旧対照表」の類のものを年度指定で求めることは無理難題である上に、既に角川日本地名大辞典において1959年を含む当地の町名について証明しているにも関わらず、その必要性やご発言には理解ができかねます。『角川日本地名大辞典』の出典ページもお願いいたします。』については、角川日本地名大辞典はCD-ROM版を使用している為、出典付記には「角川日本地名大辞典 CD-ROM版「馬込東」、「南馬込」」とすれば満たしていると考えますが、書籍版のページも記載すべきであれば図書館開館後までお待ち頂きたく存じます。『まだ少し腑に落ちない点があり、『角川日本地名大辞典』の「南馬込」の説明書きに「馬込町東1~3丁目の大部分、」とあるとのことですが、「大部分」ということは「全部」ではないということではないのでしょうか。』ですが、こちらは本件と関係がありますでしょうか。「南馬込」については全引用を避けるために池上と付く旧町名は割愛しておりますが、それ以外の旧町名は既に全て挙げております(そもそも、現在の南馬込に当たる場所がどこかが分かれば本件は解決です)。また、馬込町東に当たる地域の現町名は全て挙げております。ご確認頂きますようお願い申し上げます。『自分の新しい居住地の正しい住所表記が「馬込町東」だったのならば、ちゃんと必ずそう書くと思いますし、』については、三島由紀夫の頭の中の話ですので私には分かりかねますし、『ちゃんと必ずそう書くと思いますし』と第三者が判断することはWikipediaの範疇外であると考えます。『研究者の方々がきちんと精査している三島関連のすべての出典が「馬込東」と明記されている事実から、この地については「馬込東」が正しい地番だったのではないかなという感じがいたします。』については、日本語が理解できかねる部分がございますが、既に述べた通りです。繰り返しとなりますが、三島由紀夫の研究者が馬込東と書いたことが大田区馬込東という町名が存在した証明にはなり得ない上に、その部分については角川日本地名大辞典や大田区の住居表示旧新・新旧対照表等で当地に存在した町名が何かを証明しております。『ウィキペディア記事の東京都の土地区画整理事業一覧には「馬込村馬込東4丁目」という地があるので(これが間違いなのかもしれませんが)、全く無いともいえないのではないかなと思います。』についても同様に既に挙げた出典をご確認頂けたらと存じます。1年で消滅した町・大字でさえ全て載せている角川日本地名大辞典のみならず、大田区の住居表示旧新・新旧対照表等まで出して事実を明確にしております。既に明確にしているものについても再度説明を行ったことより、長文となったことを閲覧される皆様にお詫び致します。--Otherde(会話) 2020年5月15日 (金) 10:14 (UTC)加筆。--Otherde(会話) 2020年5月15日 (金) 10:17 (UTC)
- 昭和34年時の「住居表示旧新・新旧対照表」のURLを出していただいきたいというお願いは、やはり三島が家を建てた年なので、それがあればより良い出典になるので、別に「無理難題」を押し付けたわけでないです。あれば出してもらいたいということですから、「その必要性やご発言には理解ができかねます」と言われても、逆にその「理解ができかねます」発言の方が私にとっては「理解できかねます」と言いたいところです(笑)。
- あと、私が言った「その期間の地名の厳格性」とは、「官が定めた正式な地番表記」のことであることは、普通にその段落をすべてちゃんと読めば分かることなので、それの何が「印象操作」にあたるのか分かりません。ちなみに、私がOtherdeさんに対し「厳格性」という言葉を使った背景には、以前Otherdeさんが、堀辰雄において私が堀文献の出典に沿った形で、「信濃追分の油屋旅館で『物語の女』を書き上げ」とあえて書いている箇所を、「長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分)の油屋旅館で」と変えたり、私が堀文学のキーワードである「信濃追分」という語を生かしながら「東京の下町ではなく、信濃追分を『ふるさと』にしようという志向が表れている」と編集したところも、「東京の下町ではなく、追分を『ふるさと』にしようという志向が表れている」と変えて、「信濃追分」という堀文学にとって大事な言葉を無視し「官が定めた正式な地番表記」を重要視するような編集([7])をなさっていた方だということがあったからです。その当時、この編集は、上で挙がっていたコメント依頼の後のことだったので、Otherdeさんの私に対する嫌がらせ、あるいは地番正表記を振りかざす押し付けのように思ったことが正直ありました。
- 本題の、「馬込(町)東」については、やはり見づらいし、予備知識のない人にとっては余計に何だか分かりづらいです。なのでやはり本記事の原典・出典に沿った形でまず「馬込東」にしておき、「馬込東」のすぐ直後に注釈を付けるので、その地についての丁寧な補足説明はなされますから、Otherdeさんの危惧は問題ないことと思います。そもそも本記事は地理記事ではないので、そこまで正式な地番表記を最優先させることだけを目標にさせず、まずは三島研究者があえて総合的な観点から「馬込東」にしてある背景を尊重していただけたらなと思っています。--みしまるもも(会話) 2020年5月15日 (金) 12:49 (UTC)
- みしまるもも様、『逆にその「理解ができかねます」発言の方が私にとっては「理解できかねます」と言いたいところです(笑)。』という発言は正気でしょうか。議論以前の問題と捉えます。『あと、私が言った「その期間の地名の厳格性」とは、「官が定めた正式な地番表記」のことであることは、普通にその段落をすべてちゃんと読めば分かることなので、それの何が「印象操作」にあたるのか分かりません。』についてですが、もう一度ご確認頂きたいのですが、私は地番について触れておらず、私はその件について「印象操作に当たる」との発言もしておりません。上記発言(理解できかねますの件)も含め、みしまるもも様は「地番」や「住居表示」という本議論において最低限必要な基礎的な言葉を理解しておりますでしょうか。『そこまで正式な地番表記を最優先させることだけを目標にさせず、まずは三島研究者があえて総合的な観点から「馬込東」にしてある背景を尊重していただけたらなと思っています。』と仰いますが、『正式な地番表記を最優先させることだけを目標』はどなたが行ったことでしょうか。私はそもそも元から記載の地番に対して異論はなく、馬込東・馬込町東の話であれば、『「大田区の馬込東」や「世田谷区の下北沢」と言うのであれば慣例的に当地を指して使われる地域名として捉えることができ取り立てて問題ないかと存じますが、』とあるように用法によって不適切と感じません。既に述べた通り、今回正式な町名を本文に記載すべきとしたのは、番地や現在の住居表示を明確に記載している為です。また、みしまるもも様の書き方では『予備知識のない人が見たら本文に書いてある住所が実在した住所と勘違いすると考えます。予備知識のない人が見たら、本文に番地まで載っている上に現在の住居表示まで載っている住所が実在しなかった住所とは到底思わないと考えます。』との見解も変わりません。これらは、第三者による客観的な意見が広く求められるべきと考えます。『その期間の地名の厳格性を最重要視なさっている』について、過去の編集の一部を見てOtherdeという一人格をみしまるもも様が行った推測に過ぎません。本ノートの前段階である利用者‐会話:みしまるもも#平岡梓における大田区馬込東の表記についてにおいても『地理に詳しく正式表記を重んじているOtherdeさん的にはそれは絶対に許せないことなのかもしれませんが』と私の考えを憶測で述べており、少なからず見た者に印象を与えることと存じます。堀辰雄の件につきましては本件から脱線する為、利用者‐会話:みしまるももに改めてコメント致します。--Otherde(会話) 2020年5月15日 (金) 14:00 (UTC)
*堀辰雄の件、謝罪していただきありがとうございました。今後は、「慣例的に当地を指して使われる地域名」で「信濃追分」とあえて書いているところまでも、「長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分)」と付け替えるような類の編集はやめていただきますようお願いいたします。その他、上記のOtherdeさんの私の発言に対する事細かな追及や「正気でしょうか」といった誹謗中傷には、正直言って辟易いたしました。私にしてみれば、Otherdeさんの方こそ、「正気でしょうか」とか、私に対して変な印象を与えてようとしており、その言葉はとても失礼です。--みしまるもも(会話) 2020年5月16日 (土) 01:14 (UTC)
コメント(インデント戻します)本件については、公正な第三者の意見・判断を求めたく存じます。争点は明快であり、平岡梓に記載の一文をどのように表記するかです。なお、これまでの議論にありますように、「馬込東」は三島由紀夫やその関係者、複数の三島研究者が使用していること、「馬込町東」は実際に当地に存在した町名であることはそれぞれ出典によって証明されております。なお、地番についての異論はどなたからもございませんが、地番の入っている地図にて補足を致しますと、現在地の住居表示である「南馬込四丁目32番8号」に当たる場所は、荏原郡馬込町字中井1333番地(東京府荏原郡馬込町全圖 番地界入 コマ番号3)、大森区馬込町東一丁目1333番地(東京市新區町名地番表 コマ番号31、蒲田区との合区により大森区から大田区となった後(東京都區分圖 : 大田區詳細圖 1949、大田区東部 1960 (東京都全住宅案内図帳))、1965年に現在の住居表示である大田区南馬込四丁目32番8号(住居表示旧新・新旧対照表 6の2(昭和40年11月15日施行))となっております。 候補として挙がっている表記案は以下の3つです(注釈に記載しているものはどのようにすべきかの内容であり、そのままの内容を記載する提案ではありません)
- 1,(本文)1959年(昭和34年)5月からは、大田区馬込東一丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)の新築の邸宅に移住した。
- (注釈)三島由紀夫やその関係者は書簡等にて「馬込東」と記載しており、三島研究者にもその表記が見られるが、当地に存在した住所は、実際には「大田区馬込町東一丁目1333番地」であることの説明及び出典付記。
- 2,(本文)1959年(昭和34年)5月からは、大田区馬込町東一丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)の新築の邸宅に移住した。
- (注釈)当地に存在した町名は「馬込町東」だが、三島由紀夫やその関係者は書簡等にて「馬込東」と記載しており、三島研究者にもその表記が見られることの説明及び出典付記。
- 3,(本文)1959年(昭和34年)5月からは、大田区馬込(町)東一丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)の新築の邸宅に移住した。
- (注釈)当地に存在した町名は「馬込町東」だが、三島由紀夫やその関係者は書簡等にて「馬込東」と記載しており、三島研究者にもその表記が見られたことの説明及び出典付記。
第三者からのご意見を広く賜りたく存じます。--Otherde(会話) 2020年5月15日 (金) 21:22 (UTC)ご意見がない段階での修正--Otherde(会話) 2020年5月15日 (金) 21:25 (UTC)
- (補足) 上のOtherdeさんがあげた3つの案のうち、2番と3番がOtherdeさんの意向に沿った案で、私みしまるももの意向に沿ったものは1番です。--みしまるもも(会話) 2020年5月16日 (土) 06:27 (UTC) 改行修正--みしまるもも(会話) 2020年5月16日 (土) 06:30 (UTC)
- コメント Otherdeさんが出典として出してくださっている上記のサイトですが、昭和40年時の「住居表示旧新・新旧対照表」以外は(
本当は三島が家を建てた時の昭和34年時のものがあればいいのですが)、よく確認できないので、他にもっとちゃんと分りやすく閲覧できるものはないのでしょうか。そして、この三島記事を主執筆した私としては、三島や川端康成の直筆の書簡で「馬込東」と明記されていることや(エアメールでも、magome-higashi となってます)、三島の名刺でも「馬込東」となっていることと、三島研究者が編纂した年譜・評伝でも「馬込東」しており、それを「誤り」「誤記」だとしている研究者がいないことから、やはり出典にはないことを注釈する際には、きちんとした他の出典が必要となるので、できればネットでググったものではない文献を複数出してもらえれば有り難いです。「馬込東」と書かれている出典は、少なくても8冊はありますので、角川の辞典に類する文献を複数お願いいたします。一応ここは三島由紀夫の記事であり、三島の文献がプライオリティに来ることは、どうか許容していただきたく存じ、その出典と異なることを注釈する場合、編集者としての責任がありますので、よろしくお願いいたします。--みしまるもも(会話) 2020年5月16日 (土) 01:42 (UTC) 修正--みしまるもも(会話) 2020年5月16日 (土) 06:34 (UTC)
- コメントみしまるもも様におきましては、まずはOtherde様の仰る様、第三者の意見をお待ち頂けますでしょうか。お二人だけでやりとりをなされてるこの光景は第三者から意見をはさみづらくなる要因となります。私個人的にはどちらでもよい、と思いましたがお二人の意見を兼ね備える2番が落としどころでは、と感じました--126.255.156.109 2020年5月16日 (土) 05:47 (UTC)
- 126.255.156.109さん、「お二人の意見を兼ね備える2番」との見解についてですが、2番は、これまでの私の意見(本文は「馬込東」)とは相いれないものです。それと、できればログイン・ユーザーとしてご意見を述べていただければ幸いです。やはりそうではないと、こちらとしても一抹の疑念がぬぐえませんので。--みしまるもも(会話) 2020年5月16日 (土) 06:08 (UTC)
- 2番はみしまるもも様は相容れないとの考えを承りました。それでは第三者の意見をお待ち下さい。あと私はあなたの一抹の疑念とやらは拭えません。拭うつもりもありません。ログインユーザーによるipの書き込みとの断定されたこと、私はこれを個人攻撃と判断しました。これ以上は脱線となりますので、できればレスをお控えください。--126.255.156.109 2020年5月16日 (土) 06:43 (UTC)
- 「一抹の疑念」なので「断定」はしていません。お気にさわったのならすみませんでした。--みしまるもも(会話) 2020年5月16日 (土) 06:59 (UTC)
- 4,(本文)1959年(昭和34年)5月からは、大田区の馬込東の新築の邸宅(現・南馬込四丁目32番8号)に移住した。
- (注釈)1959年(昭和34年)に建てられたこの家の住所を、三島由紀夫やその関係者は書簡等にて「大田区馬込東一丁目1333番地」と記載しており、三島研究者にもその表記が見られるが、現・南馬込四丁目の旧住居表示は「馬込町東一丁目」となっていることの説明及び出典付記。
--みしまるもも(会話) 2020年5月16日 (土) 06:59 (UTC) 補正--みしまるもも(会話) 2020年5月17日 (日) 07:04 (UTC)
Wdppさんから、「利用者‐会話:みしまるもも#平岡梓における大田区馬込東の表記について」で、以下のような新たな資料をいただきましたので、お知らせしておきます。ちなみに、三島の家の建築が始まったのは昭和33年10月です。
- 昭和33年の路線価を調べる資料 | 調べ方案内 | 国立国会図書館よりリンクされている昭和33年-東京(詳細地域)(PDF 2ページ目、資料内146ページ目?) - ここでは、町(大字・小字)名として馬込東1~4丁目という表記があり。
- 昭和34年-東京(詳細地域)(PDF 28ページ目、資料内100ページ目?) - 町(丁)名に馬込町東1丁目などとなっている。
--みしまるもも(会話) 2020年5月17日 (日) 03:51 (UTC)
- 「三島由紀夫の住所として示された出典」として現時点で「馬込町東」記載のものが示されておらず、2、3の案は現時点において適切でないものであり、第三者の意見を求めることを取り下げます。IPユーザー126.255.156.109様におかれましては、ご意見を賜りましたにも関わらず申し訳ございませんでした。また、「馬込町東の町名が存在したか」の検証資料をご提示頂きましたWdpp様及び転記頂きましたみしまるもも様にも御礼申し上げます。--Otherde(会話) 2020年5月18日 (月) 12:43 (UTC)
出典にないことは書けないこと
上の節がだいぶ長くなったので、ここで一番大事な点を含め改めてまとめます。上の案についてコメントのある方は、引き続き上の節に書いても構いません。まず大前提として、Wikipediaの編集は「出典にないことは書けない」ということがあります。そして、三島が1958年(昭和33年)から建築開始し1959年(昭和34年)4月前に完成させた大田区の家の住所は三島文献において、「大田区馬込東一丁目1333番地」、「大田区馬込東一丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)」となっており、細かい番地を書いていない研究本でも、「大田区馬込東」と記載されています。それを以下に少しまとめてみました。
- 三島本人が書いた書簡における自身の居住地が「大森局区内(大田区)馬込東一丁目1333番地」、「大田区馬込東一丁目1333番地」あるいは「1333, 1-chome, Magome-higashi, Ota-ku」と書かれている。これは、清水文雄、川端康成やドナルド・キーン、澁澤龍彦、埴谷雄高その他の知人・友人に宛てた当時のすべての書簡・葉書などで、川端康成が書いた宛先も「馬込東」と書かれています。出典は、三島全集決定版の第38巻、補巻、『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』、『三島由紀夫 未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』などです。
- 三島の名刺の住所が「大田区馬込東一丁目1333番地」となっている。出典は、『三島由紀夫・金閣寺 三島由紀夫研究』です。これは([8])でも一部分が見られ、一度図書館で借りて見た覚えもありますが、再度手に取って全容を詳細に今は再読していないので、解説文の再確認が必要ですが、住所は「馬込東」となっています。
- 三島研究者が三島についてまとめた評伝・年譜において、この旧住所を記載しているものは、「大田区馬込東一丁目1333番地」や「大田区馬込東一丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)」あるいは「大田区馬込東」と明記されている。出典は、三島全集決定版の第42巻、『年表作家読本 三島由紀夫』、『新潮日本文学アルバム 三島由紀夫』、『三島由紀夫の生涯』、『三島由紀夫 人と思想』などです。これもこちらのレファレンス事例([9])で一部見られます。
- これら、この馬込東の旧住所の問題部は、三島文献で「大田区馬込東」と明記され、決定版全集など主要なものの編纂には三島の遺族も資料提供など関わっています。2005年に発行された決定版の正誤表にも、馬込東の旧住所の訂正はありません。『三島由紀夫 人と思想』は今年2020年2月の出版された最新の評伝ですが、これも「大田区馬込東」となっています。なので、Wikipediaの編集において、これらの出典とは異なる「大田区馬込町東」と本文中で書くことはモラルとしてできないのです。これは「出典にないことは書けない」というWikipediaの大原則であり、これ以外のことを書く際には「注釈として一筆加える」という手続きになるのが本筋となります。もちろん、信頼できる複数の三島研究者の検証により本当は「馬込町東」だったという出典が新たに出てくれば、そこを変更することは容易に可能となります。
- そして三島研究の観点から上の方で一昨日15日に(追記)したように、三島自身が新築の家の設計・施工にかなり関わり、業者(清水建設)との面談も重ねている経緯や不動産登記の面などから考えて、自分の新しい居住地の住所を間違えるということはまず考えにくく、運転免許証、パスポートその他の公的身分証明書と住所表記が違えばと気づくだろうという素朴な疑問があります。そのため、やはり出典の通りに、三島の家の住所は「大田区馬込東」にしておくのが無難、という感覚があります。また、昭和の時代だったということもあり、超有名人の三島の邸宅の地は、何か特例的なことで「大田区馬込東」だった可能性もないとは言い切れない面も考えられるため、出典には書いていない「馬込町東」を本文にすることはリスクがあり責任が持てない、というのが正直な私の立場です。
- また、先ほどWdppさんから提示していただいた昭和33年の資料には「馬込東1~4丁目」という表記もあり、一昨日かに私が見たサイト(「馬込と大田区の歴史を保存する会」だったかも)で、何かの表の中に「馬込町東○丁目」とは別に「馬込東○丁目」というのを発見したのですが、それをブックマークに入れ忘れてどこだったか不明になってしまったこともあります。ちょっと最後はとりとめもなくなってしまいましたが、そんなこともあり、とりあえずは、三島文献の通りに「大田区馬込東」にしておくことがリスク的も最適であり、「馬込町東」のことは注釈で必ずお入れしますので、それで許容していただきたいと思っております。Wikipediaの基本方針(WP:NOR)には、「記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです」とあるので、それをご理解願いたいと思います。--みしまるもも(会話) 2020年5月17日 (日) 06:28 (UTC)
- あと補足で、もう一点大事な点があり、今回、Otherdeさんからお知らせいただいた「馬込町東」に関する「住居表示旧新・新旧対照表(昭和40年施行)」の出典から、南馬込四丁目の旧住居表示「馬込町東」について補足する際に、「当地に存在した住所は、実際には、大田区馬込町東一丁目1333番地である」と書くのは、厳密にいえば、新旧対照表の中にそこまでのこと(三島の家を云々、一丁目1333番地が云々)は言及されてはいないので、ただそこの対照表に書かれているだけのことを淡々と書き、「実際には~である」とかの言葉や断定口調は避けなければならないことも、予めお伝えしておきます。--みしまるもも(会話) 2020年5月17日 (日) 06:59 (UTC)
- コメント 「三島自身が新築の家の設計・施工にかなり関わり~気づくだろうという素朴な疑問があります。」や「超有名人の三島の邸宅の地は、何か特例的なことで「大田区馬込東」だった可能性もない」については異なる見解を持ちますが、その部分についての真偽の必要はなく、出典に対する上記みしまるもも様の主張において、みしまるもも様の編集提案は適切なものと考えます。「三島由紀夫の住所を示している資料」において「大田区馬込町東」や「大田区馬込町東一丁目1333番地」が示された場合には別の対処が必要になることと考えますが、現段階においてそのようなことはなく、『とりあえずは、三島文献の通りに「大田区馬込東」にしておくことがリスク的も最適であり、「馬込町東」のことは注釈で必ずお入れしますので、それで許容していただきたいと思っております。Wikipediaの基本方針(WP:NOR)には、「記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです」とあるので、それをご理解願いたいと思います。』とのみしまるもも様の提案・主張について理解・賛同致します。補足について、『「実際には~である」とかの言葉や断定口調は避けなければならない』、『そこの対照表に書かれているだけのことを淡々と書き』も、上記出典の観点より賛同致します。新旧対照表は、「現・南馬込四丁目32番8号」に対しての脚注として目次の内容である「住居表示旧新・新旧対照表. 6の2(昭和40年11月15日施行)目次 には、南馬込4丁目に当たる従前町名に馬込町東1丁目、馬込町西1丁目、新井宿4丁目と記載」)などの淡々とした記載を出典を行って頂ければと存じます。また、新旧対照表のP271が確認できた際には、それを「住居表示旧新・新旧対照表. 6の2(昭和40年11月15日施行)P271には、南馬込4丁目32番8号に当たる従前町名、地番として、~~(番地までの住所)と記載」と変更をさせて頂きたく存じます。--Otherde(会話) 2020年5月17日 (日) 11:23 (UTC)
- Otherdeさん、どうもありがとうございます。三島の名刺が載っている『三島由紀夫・金閣寺 三島由紀夫研究6』の解説文を再確認後に注釈を加えたいと思いますので、編集は後日になりますが(今月内に可能かもしれません)、その際、まずは平岡梓の記事で加筆し、その文章でOtherdeさんの合意をいただいてから、三島由紀夫やその他関連記事の当該部を同様に注釈補足していきます。新旧対照表のP271のご確認はOtherdeさんのご都合のつく時期で構いませんので、ご確認できた場合には、目次記載からP271の記載内容へ変更よろしくお願いします。今回Otherdeさんからお知らせいただいた情報は今後の三島研究の一助になるかと思いますので、貴重な情報どうもありがとうございました。--みしまるもも(会話) 2020年5月18日 (月) 06:34 (UTC)
- みしまるもも様、上記の件誠にありがとうございました。編集の件は急ぐものではなく、いつでも構いません。新旧対照表の件につきましてもご配慮頂きありがとうございます。出典に対する論点がずれていましたことをお詫び致しますと共に、ご対応に感謝致します。--Otherde(会話) 2020年5月18日 (月) 13:39 (UTC)
- こちらこそ、昭和34年時の「住居表示旧新・新旧対照表」のURLも出してほしいなどと、頓珍漢な質問をしていたようでOtherdeさんを戸惑わせてしまい申し訳ありませんでした。それでは、注釈編集の際にはよろしくお願いします。--みしまるもも(会話) 2020年5月19日 (火) 03:20 (UTC)
- みしまるもも様、上記の件誠にありがとうございました。編集の件は急ぐものではなく、いつでも構いません。新旧対照表の件につきましてもご配慮頂きありがとうございます。出典に対する論点がずれていましたことをお詫び致しますと共に、ご対応に感謝致します。--Otherde(会話) 2020年5月18日 (月) 13:39 (UTC)
- Otherdeさん、どうもありがとうございます。三島の名刺が載っている『三島由紀夫・金閣寺 三島由紀夫研究6』の解説文を再確認後に注釈を加えたいと思いますので、編集は後日になりますが(今月内に可能かもしれません)、その際、まずは平岡梓の記事で加筆し、その文章でOtherdeさんの合意をいただいてから、三島由紀夫やその他関連記事の当該部を同様に注釈補足していきます。新旧対照表のP271のご確認はOtherdeさんのご都合のつく時期で構いませんので、ご確認できた場合には、目次記載からP271の記載内容へ変更よろしくお願いします。今回Otherdeさんからお知らせいただいた情報は今後の三島研究の一助になるかと思いますので、貴重な情報どうもありがとうございました。--みしまるもも(会話) 2020年5月18日 (月) 06:34 (UTC)
コメント みしまるももさん、お久しぶりです。Otherdeさん、はじめまして (多分)。当時の『時事年鑑』や『讀賣年鑑』などの三島由紀夫関連の事項では、「馬込町東」となっています (google books で覗き見しただけです) が、三島研究の書籍や論文では全集を含め「馬込東」となっているようです。みしまるももさんも既に読まれたとは思いますが、犬塚潔「三島由紀夫の名刺」松本徹・佐藤秀明・井上隆史責任編集『三島由紀夫研究 ⑥ 三島由紀夫・金閣寺』鼎書房、平成二〇年 (二〇〇八) 七月一日、ISBN 978-4-907846-58-9、169、171頁。(論文全体は166~171頁)に、名刺に「大田区馬込東一ノ三三三」とあることが書かれており、小宮山書店のブログに名刺の写真があります。三島由紀夫は住所印 (ゴム版?)でも「馬込町東」ではなく「馬込東」を使用していて、川端康成・三島由紀夫『川端康成 三島由紀夫 往復書簡』新潮社、一九九七年一二月一〇日 発行、ISBN 4-10-420001-8 を確認してみたところ、三島は一貫して「馬込東」と書いていて、川端の三島宛書簡での住所は「馬込東」だったり「馬込町東」だったりしています。この記事の地の文では二次資料で書かれている通りに記載して注釈で調整するのがよいかと思います。三島に「馬込東」へのこだわりがあったのか、それとも習慣だったのかわかりませんけど、一般論として、町名に「〇丁目」が続く場合は「●●町」の「町」を省略することはわりとあることのようです。-- Takabeg(会話) 2020年5月22日 (金) 13:26 (UTC)
- Takabeg様、はじめまして。ご検証ありがとうございます。「この記事の地の文では二次資料で書かれている通りに記載して注釈で調整するのがよいかと思います。」に同意致します。あくまで私的見解ですが、大田区などの郊外区は旧来の字(あざ)に町を付けたパターンが殆どの為、日常的な町の省略は比較的よく見られたのではと思います。馬込の場合はさらに特殊で、都内では墨田区吾嬬町と2例だけ見られた「町+方角」町名だったことより、よりそれが顕著だったのではと思われます。吾嬬町では郵便局名も町を省略したものを正式な名称とし、吾嬬東〇(〇は丁目の数字)郵便局などとしていました。--Otherde(会話) 2020年5月22日 (金) 23:17 (UTC)
Takabegさん、詳細な調査どうもありがとうございます。教えてくださり助かりました。川端康成の書いた「馬込町東」をよく見ず見落としてしまい、Otherdeさん申し訳ありませんでした。。。google booksの検索上でも『時事年鑑』や『讀賣年鑑』では「馬込町東」、『出版年鑑』では「馬込東」となっていたりでいろいろとややこしいですね。川端康成が「馬込町東」と書いた時、何を写し見ていたのか気になるところです。TakabegさんやOtherdeさんのお見立てのように「町」の省略が郵便局名などで正式化していたパターンだと、住民票や健康保険証などの公的証明書の住所はどっちだったのかも気になるところですが、一応三島研究文献の「馬込東」の記載通りにしておき「馬込町東」のことは注釈で詳細説明いたします。なお、『三島由紀夫・金閣寺』の本は昨日手に入れ、名刺にまつわる犬塚潔の解説を確認しましたが、「馬込町東」に関しての情報はなかったです。--みしまるもも(会話) 2020年5月23日 (土) 01:27 (UTC)
- 川端自身がかつて馬込文士村に住んでいたことがあったので知っていたのかもしれませんし、交流のあった室生犀星が馬込東町三丁目七六三に住んでいたからかもしれません。昭和18年のものですが 室生の住所印には東京市大森區馬込町東三丁目七百六十三番地とあります。-- Takabeg(会話) 2020年5月24日 (日) 11:40 (UTC)
- Takabegさん、ありがとうございます。たぶんそうでしょうね。川端が28~29歳頃に馬込町に住んでいたことを忘れてました。--みしまるもも(会話) 2020年5月25日 (月) 00:10 (UTC)
- 川端自身がかつて馬込文士村に住んでいたことがあったので知っていたのかもしれませんし、交流のあった室生犀星が馬込東町三丁目七六三に住んでいたからかもしれません。昭和18年のものですが 室生の住所印には東京市大森區馬込町東三丁目七百六十三番地とあります。-- Takabeg(会話) 2020年5月24日 (日) 11:40 (UTC)
- 先ほど、平岡梓で注釈部をまとめましたので、修正点などあれば平岡梓のノートでお知らせいただければと存じます。--みしまるもも(会話) 2020年5月23日 (土) 05:17 (UTC)
- みしまるもも様、吾嬬町(吾嬬町東・吾嬬町西)の郵便局の例を挙げたことが却って分かりづらくしていたら申し訳ございません。こちらは「吾嬬町(吾嬬町東・吾嬬町西)では郵便局の正式名称ですら実在の町名ではなく町を省略したものを付けた」と捉えて頂くと正確です。住民票や健康保険証などの公的証明書の住所については、一字一句違わず正しい住所が記載されます(小字については今回関係なく、却ってややこしくなるかと思いますので説明を省略します)。当地に実在した町名が何かと言うのは、Wikipediaの出典的には既に挙げた角川日本地名大辞典の記載内容が答えと考えます。角川日本地名大辞典は地名を扱っている辞典ですが、地名の中でも大字や町(今回はこれが該当)については出版時までに僅かな期間でも存在したものは正式な名称にて網羅されており、地名を調べる時に使用されます。また、Wikipediaの出典に用いることが適切ではない(Wikipediaの編集に用いる為ではない)ということを前置きした上でご報告の意味も含めお伝えすると、大田区役所に問い合わせた際の大田区区民部戸籍住民課からの回答は以下の通りです。『現在の大田区南馬込四丁目32番8号に当たる従前の住所は、昭和40年11月15日の住居表示実施までは、馬込町東一丁目1333番地に該当いたします。また、大田区の町名に「馬込町東」とは別に「馬込東」は、存在したことはありません(原文ママ)』Wikipediaの編集とは関係なく実際にどうだったのかを知りたい場合、東京法務局城南出張所にて土地台帳等を閲覧することによっても上記情報は分かるかと思います。広さや所有権の移譲等土地の詳細についても知ることが可能です。脱線となり申し訳ございません。平岡梓の件、ありがとうございます。後ほど確認し、お伝えしたいことがございましたらノートにてお知らせ致します。ご対応に感謝致します。--Otherde(会話) 2020年5月23日 (土) 13:42 (UTC)
- ノート:平岡梓にて一点だけ触れさせて頂きました。お手隙の際にご確認頂けますと幸いです。--Otherde(会話) 2020年5月23日 (土) 14:52 (UTC)
- みしまるもも様、吾嬬町(吾嬬町東・吾嬬町西)の郵便局の例を挙げたことが却って分かりづらくしていたら申し訳ございません。こちらは「吾嬬町(吾嬬町東・吾嬬町西)では郵便局の正式名称ですら実在の町名ではなく町を省略したものを付けた」と捉えて頂くと正確です。住民票や健康保険証などの公的証明書の住所については、一字一句違わず正しい住所が記載されます(小字については今回関係なく、却ってややこしくなるかと思いますので説明を省略します)。当地に実在した町名が何かと言うのは、Wikipediaの出典的には既に挙げた角川日本地名大辞典の記載内容が答えと考えます。角川日本地名大辞典は地名を扱っている辞典ですが、地名の中でも大字や町(今回はこれが該当)については出版時までに僅かな期間でも存在したものは正式な名称にて網羅されており、地名を調べる時に使用されます。また、Wikipediaの出典に用いることが適切ではない(Wikipediaの編集に用いる為ではない)ということを前置きした上でご報告の意味も含めお伝えすると、大田区役所に問い合わせた際の大田区区民部戸籍住民課からの回答は以下の通りです。『現在の大田区南馬込四丁目32番8号に当たる従前の住所は、昭和40年11月15日の住居表示実施までは、馬込町東一丁目1333番地に該当いたします。また、大田区の町名に「馬込町東」とは別に「馬込東」は、存在したことはありません(原文ママ)』Wikipediaの編集とは関係なく実際にどうだったのかを知りたい場合、東京法務局城南出張所にて土地台帳等を閲覧することによっても上記情報は分かるかと思います。広さや所有権の移譲等土地の詳細についても知ることが可能です。脱線となり申し訳ございません。平岡梓の件、ありがとうございます。後ほど確認し、お伝えしたいことがございましたらノートにてお知らせ致します。ご対応に感謝致します。--Otherde(会話) 2020年5月23日 (土) 13:42 (UTC)
Otherdeさん、注釈の査読どうもありがとうございました。ノート:平岡梓にお返事しておきました。大田区役所からの情報もどうもありがとうございます。当時の正確な土地住所の調べ方の方法もお知らせいただきご厚意に感謝いたします。中島敦でも漢数字の○丁目の件など知らなかったことの知識が広がりとてもためになりました。今後また何か住居表記的に変な点などありましたら、遠慮なくお知らせください。--みしまるもも(会話) 2020年5月24日 (日) 06:46 (UTC)
- 既に解決済かとは思いますが、山崎久登「馬込 まごめ」竹内誠編『東京の地名由来辞典』東京堂出版、二〇〇六年三月一〇日 初版発行、ISBN 4-490-10685-8、374頁 から引用しておきますと、「(前略) 昭和三年に馬込町となる。 (中略 文士村のこととかかいてあります) 昭和七年に大森区馬込東町一~四丁目や馬込町西一~四丁目などに分かれた。昭和四十年~四十三年に住居表示実施によって、中馬込一~三丁目、西馬込一・ニ丁目、東馬込一・二丁目、南馬込一~六丁目が成立した。」とあります。三島の研究の本ではないですが参考までに。-- Takabeg(会話) 2020年5月30日 (土) 11:41 (UTC)
- Takabegさん、どうもありがとうございます。参考にさせていただきます。--みしまるもも(会話) 2020年5月31日 (日) 01:52 (UTC)