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ノート:ラジオ塔

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嘉義市崇文国民小学の「播音塔」あるいは「播音臺」について

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嘉義市にあった玉川公学校にラジオ塔があったとの文献(新井淑子「植民地台湾における戦時下の玉川国民学校と平和国民学校の教員の意識と実態」(PDF)『埼玉大学紀要 教育学部』第56巻第2号、埼玉大学、2007年、21-36頁。 )が存在し、また、同校の後身たる嘉義市崇文国民小学に「播音塔」あるいは「播音臺」と称する日本統治時代の施設が遺されているとの資料[1]がありますが、この「播音塔」あるいは「播音臺」がラジオ塔だった(つまり単なるアンプスピーカーでなく放送受信機能を有した)との確証が得られないため、関係資料を精査できる方の判断を待つこととし、ひとまず記事には反映しませんでした。--Cauli.会話2015年10月14日 (水) 15:32 (UTC)[返信]

現存又は復元された所在地一覧 上田城跡公園(上田市)の扱いについて

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ご関係各位 本「ラジオ塔」は戦前に設置されたラヂオ塔について記述されている。しかし掲題の信越放送が上田城跡公園に設置した塔は 「概要」にも、「戦後民間放送により設置された事例(後述の上田城跡公園)もある。」と記述されている。 確かに、吉井正彦氏によれば、「日本の屋根 信越放送10年史」(昭和36年10月18日刊)の年表に昭和30年7月16日  上田公園にラジオ塔建設の記録がある。

一方この脚注の “エピソード12 「市民の憩いの場となった公園」”. 上田市.の記述ではSBC信越放送のラジオ塔について、 かつては全国の公園などにこのようなラジオ塔が建てられ、時報や緊急放送を伝える役目を果たしていました。現在では放送が 流れることはありませんが、古くなりその役割を終えた今も、上田城跡にその姿を留め歴史を物語っています。と書かれていて、 この記述ではこのSBC上田のラヂオ塔も戦前のラヂオ塔であると誤解されかねない表現になっている。 {吉井さんの訂正依頼で訂正済みかもしれませんが、現状では確認できていません}。 小生は昨年夏から大阪府・箕面瀧安寺と名古屋市内3公園のラヂオ塔を現存又は復元された所在地一覧に追加しており、現在は 上田公園を含めて32個所(大阪・堺大浜公園の旧およびレプリカの2塔あるが1個所と計上)になるが、その全体が戦前からの 現存と誤解を招きやすいのではないかと危惧するものです。 そこで、①少なくとも現存又は復元された所在地一覧 上田城跡公園(上田市)については戦後建設されたものと明示する。 むしろ②現存又は復元された所在地一覧 から削除して、「概要」の、「戦後民間放送により設置された事例(後述の上田城跡公園) もある。」を、「戦後民間放送(信越放送)により上田城跡公園設置された事例[n]もある」 [n] 「日本の屋根 信越放送10年史」(昭和36年10月18日刊)の巻末年表 昭和30年7月16日建設 とした方が良いのではないかと思うが、如何でしょうか。 2017/4/10 信越放送10年史の名称訂正 --ちくりんさん 2017年4月4日(火)00:35(JST) 2017/4/25 同上冒頭段落内の訂正漏れを訂正 ーーーちくりんさん 2017年4月25日(火)10-:20(JST) --ちくりんさん会話2017年5月10日 (水) 13:01 (UTC)[返信]