ノート:サティ (仏教)
「サティを入れる」という表現は日本テーラワーダ協会など一部の宗教法人の独自用語で、仏教全体からするとあまり一般的な言葉ではないと思うのですが、どうでしょうか。--Masaj 2011年12月3日 (土) 23:38 (UTC)
- 日本の上座部の用語というのは「サティ」という表現から明らかなのでそのままでいいのではないでしょうか。Vapour(会話) 2012年3月31日 (土) 22:16 (UTC)
改名提案
[編集]サティ (仏教)から念 (仏教)に改名提案します。ガイドラインのWikipedia:記事名の付け方#正式名称に基本的に日本語とあるので、Wikipedia:ページの改名#改名前にすべきことの明らかにガイドラインに沿っていないを満たすと考えます。明らかなのですぐさま改名しようと思いましたが、念 (仏教)が既に存在するため改名提案とします。
上座部の『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』といった専門書を見ても「念」で説明されており、用語集に「念(Sati)」のようにパーリ語でも書いてあり、上座部だからとかサティと呼ぶということはなくそれは一部の著者の呼び方でしょう。大乗仏教の『ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく』といった仏教書を見ても、索引に「念(smṛti)」こちらはサンスクリット語も索引には書いてありますが文中では念で説明されています。念が日本語での正式名称ですし、それぞれが別のものを指しているということもなく、単に何語かというだけです。
他の近似の語彙も、信、精進、定、般若など日本語であり、念だけをパーリ語の記事名にする必要はないです。
改名された後、ノート:サティ (仏教)は、リンク元がないため即時削除することも提案します。サティ (仏教)は、リンク元の移動を解消した場合に即時削除することも提案します。曖昧さ回避のサティが存在するためナビゲーションに問題も出ません。--タバコはマーダー(会話) 2016年6月16日 (木) 13:31 (UTC)
- コメント行く先々で御免なさいね。サティは広義の“念”と区別する為に“サティ”と呼ばれているのだと理解していましたが、それに反駁する根拠資料(“サティ”より“念”の方が優勢又は正式である事を示すもの)をお持ちですか?--七比㐂乃貓(会話) 2016年6月17日 (金) 22:11 (UTC)
- 出典を挙げています。勉学のための質問サイトでもないですし、独自研究を書き込むサイトでもないのでそのような独自研究を反駁する必要はありません。少なくとも出典としての信頼できる情報源を挙げてほしいです。--タバコはマーダー(会話) 2016年6月18日 (土) 02:30 (UTC)
- 独自研究ねぇ……。まあ、お好きになさいまし。--七比㐂乃貓(会話) 2016年6月18日 (土) 05:32 (UTC)
- 出典を挙げています。勉学のための質問サイトでもないですし、独自研究を書き込むサイトでもないのでそのような独自研究を反駁する必要はありません。少なくとも出典としての信頼できる情報源を挙げてほしいです。--タバコはマーダー(会話) 2016年6月18日 (土) 02:30 (UTC)
- コメント行く先々で御免なさいね。サティは広義の“念”と区別する為に“サティ”と呼ばれているのだと理解していましたが、それに反駁する根拠資料(“サティ”より“念”の方が優勢又は正式である事を示すもの)をお持ちですか?--七比㐂乃貓(会話) 2016年6月17日 (金) 22:11 (UTC)
- こんにちは。この改名提案の是非については、私、ちょっと判断がつかないので、結局どうすべきだという結論は持っておりませんが、日本仏教の「念」には「気づき」やマインドフルネスという含意がなかった、という説を述べている資料を知ってますので、情報提供として書き込みいたします。こちらです→グーグルドキュメント。このなかの〈「念」の意味について〉という小見出しの段落以降のところです。これは音声のテープ起こしなので、原本の音声はこの文書名・人名でググれば聴けると思います。まあ、これがWikipediaの編集方針がいうところの「信頼できる情報源」に該当するかというと、しなそうですが、一応の参考資料にはなるかもしれません。失礼しました。--Leonidjp(会話) 2016年6月18日 (土) 06:56 (UTC)
- そういうことではなくて、もしそういっている方がいても、単に仏教用語としての念が日本語であり、satiがパーリ語、smṛtiがサンスクリット語であるということです。日本の念の概念には、他国でみられる概念との違いがあるといった指摘は、個々にあると思いますよ。派や仏典間で解釈が異なっているのも仏教ですけど、そのレベルで分けるという話ではないです。--タバコはマーダー(会話) 2016年6月18日 (土) 07:23 (UTC)
- >>そのレベルで分けるという話ではないです。
- 「そのレベル」では分けない、というお考え、承知いたしました。--Leonidjp(会話) 2016年6月18日 (土) 07:40 (UTC)
- 移動依頼を行いました。--タバコはマーダー(会話) 2016年6月26日 (日) 01:02 (UTC)
- コメント「サティ(仏教)」が別の記事に移動されたあと、移動の差し戻しがあったようですね(参照)。当事者のかたから経過説明がないので一連の経緯がいまいち分かりにくいのですが、移動をなさったタバコはマーダーさんの会話ページで関連の議論がなされている模様です(参照)。--Leonidjp(会話) 2016年7月14日 (木) 23:13 (UTC)
- 移動依頼を行いました。--タバコはマーダー(会話) 2016年6月26日 (日) 01:02 (UTC)
- そういうことではなくて、もしそういっている方がいても、単に仏教用語としての念が日本語であり、satiがパーリ語、smṛtiがサンスクリット語であるということです。日本の念の概念には、他国でみられる概念との違いがあるといった指摘は、個々にあると思いますよ。派や仏典間で解釈が異なっているのも仏教ですけど、そのレベルで分けるという話ではないです。--タバコはマーダー(会話) 2016年6月18日 (土) 07:23 (UTC)
- こんにちは。この改名提案の是非については、私、ちょっと判断がつかないので、結局どうすべきだという結論は持っておりませんが、日本仏教の「念」には「気づき」やマインドフルネスという含意がなかった、という説を述べている資料を知ってますので、情報提供として書き込みいたします。こちらです→グーグルドキュメント。このなかの〈「念」の意味について〉という小見出しの段落以降のところです。これは音声のテープ起こしなので、原本の音声はこの文書名・人名でググれば聴けると思います。まあ、これがWikipediaの編集方針がいうところの「信頼できる情報源」に該当するかというと、しなそうですが、一応の参考資料にはなるかもしれません。失礼しました。--Leonidjp(会話) 2016年6月18日 (土) 06:56 (UTC)
各専門辞書等の項目名はこうです。
- 総合仏教大辞典編集委員会『総合佛教大辞典』法蔵館、2005年。ISBN 4-8318-7070-6。
- (編集)中村元、田村芳朗、末木文美士、福永光司、今野達『岩波仏教辞典』(第2版)岩波書店、2002年。ISBN 4-00-080205-4。
- 中村元『佛教語大辞典』東京書籍、1975年。
- 「念」p809、「サンスクリット語でsmrti(パーリ語sati)」です。東京書籍は、仏教専門ではないですが、例えば『原典で読む原始仏教の世界』ISBN 4-487-79535-4 のように参考文献を備え複数著者からなる仏教専門書を出版している出版社です。
- パーリ学仏教文化学会上座仏教事典編集委員会『上座仏教事典』めこん、2016年。ISBN 978-4-8396-0299-4。
- 瞑想の概要紹介p91の項目で、「念(サティ)」との言及があり、独立した項目はありません。めこんという出版社はアジア系の本を出版しているとのことですが、この場合にはむしろパーリ学仏教文化学会という学術団体が著者です。
- 藤永保監修『最新心理学事典』平凡社、2013年。ISBN 9784582106039。
- 「カバットジン」p894に Mindfulness は パーリ語 sati の英訳で、念と日本語に訳されたり、気づきと訳されたりするとあります。
- 『ブリタニカ国際大百科事典』
- 「念 smṛti」の項があります。
ウィキペディアは百科事典なので、これら辞典等の項の定め方に沿うというのが方向性ですし、信頼できる情報源においてもっとも著名だと考えられる記事名であり、Wikipedia:記事名の付け方#正式名称の日本語の正式名称であり、「念」だということです。「サティ」という表現は一部著者が行っていることはあるでしょうから別名としては適格です。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月20日 (金) 15:16 (UTC)
- 反対 ウィキペディアに辞典等の項の定め方に従うという方針はありません。--Ryo 625(会話) 2017年1月20日 (金) 21:30 (UTC)
- 何に反対しているのか分かりかねますが、確かに辞典等の項の定め方に従うという直接的な方針はないです。
- Wikipedia:記事名の付け方には、信頼できる情報源にてもっとも一般的に使われ最も著名であり、日本語の正式名称を使うということがありますね。
- Wikipedia:信頼できる情報源には、学者や、より信頼できる学術団体の関与した情報源や、複数の情報源、または品質管理や学術的な出版社である場合に信頼性が高いとあります。つまり以下のようにあります。
- 学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます。
- 信頼できる情報源であるかぎり出典は一つである必要はなく、複数挙げられていることがむしろ好ましいです。
- 彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。
- ここでは、語彙を検討しているので、なんと表記すべきかについて、佛教大辞典のような学者や学者集団による語彙の書を引くのは適切だと思いますが、それらが信頼性の高い情報源であれば、それらの項の定め方に準じてきますということです。
- パーリ語「サティ」を用いるべきとする出典は挙げられていないのですが、上で挙げた出典を覆すほどの出典や、あるいはガイドラインの変更がなければ、それらの項の定め方に準じてくるでしょう。
- ガイドライン等に反対しているということでしたら、当方ではなく他の場所で訴えてくださいますようお願いいたします。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月21日 (土) 16:18 (UTC)
- 改名提案に反対という意味ですね。出典についてですが、上座部比丘の著作も専門性の高いものでしょう。P.A.パユットー、アルボムッレ・スマナサーラ、マハーシ・サヤドーなどです。訳語に統一性が無い場合、(気づき、念、守意、気をつけること etc.)原語表記ということもありえるでしょう。改名については、よくよく議論を重ねてから決めることだと思います。--Ryo 625(会話) 2017年1月28日 (土) 09:26 (UTC)
- 上座部比丘とおっしゃるあなたの想像に関して言及いたしますと、上座部比丘の著作を含めて日本語の正式名称が「念」だと確認されております。パーリ学仏教文化学会の『上座仏教事典』だけでなく、
- P.A.パユットーは、『仏法の思考と実践』ISBN 978-4904507131 では、Amazonで立ち読みができますが、全般的に日本語の専門用語が使われております。当然、p79に「念」の漢字が用いられております。
- 『ポー・オー・パユットー仏教辞典』ISBN 978-4905425045 ではAmazonで確認できますが、p3「念sati」が確認できます。
- マハーシ・サヤドーの『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』 は既に記事内に出典が示してありますが、用語解説のp158に原文のままで「念(sati)」の項目が設けられており、他にも「念じる」のような説明が多いですが、特におっしゃられるような出典とはなっていません。
- ノート:サマタ瞑想でも説明していますので、2度以上説明していますが、こちらの示す通り最も著名な日本語での正式名称を示す専門家集団による書籍が出典として示されてあるため、Wikipedia:記事名の付け方に従って、原語表記などはありえません。
- Wikipedia:ページの改名では、「明らかに、ページ名が記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」にただちに改名できます。そうでない場合に、改名提案が行われます。
- Wikipedia:ノートページのガイドライン#認められない行為には、ほとんど証拠を示さず反対意見を述べることは推奨されておりません。
- 議論は結構ですが、念を上回る、最も著名な日本語での正式名称を示す出典が、明らかに示されておらず、またガイドラインに反対でしたらここで議論することは相応しくありません。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月29日 (日) 11:24 (UTC)
- 統一的に「念」が使われているなら念でも構いませんが、挙げられた例を見ますと、辞典類は伝統的訳語を当てて括弧書きで(samatha)という語を追記するなど機械的なものであり、学者によるものとはいえ、疑問もあります。単独で念としていない以上、慎重に取り扱うべき事柄だと思います。特に日本の仏教では伝統的に「無念無想」、「念々」、「一念三千」などのように「心に浮かぶ思い」というように意味が変質しており素朴に記事名を「念」とするのは不適切だと考えます。さて、訳語ですが、パユットー氏のものはサマタも「止」であり、訳者の野中耕一氏の理解を踏襲しているようですね。ここは了解しました。マハーシ・サヤドーは、星飛雄馬訳では「念じる」、「気づく」、「観察する」の区別を行なっていないと用語集で解説されています。(ちなみにですが、ここでは「サマタ瞑想」をsamatha bhāvanāの訳語に充てており、記事「サマタ瞑想」の議論の参考になると思われます。)中村元はsatiを「念」と訳していませんし、アルボムッレ・スマナサーラ比丘は「気づき」という訳語を当てています。マインドフルネスとも呼ばれますし、さらにこのマインドフルネスが「精神集中」とも訳されます(『マインドフルネスストレス低減法』2007年)。決定的な訳語が存在しない以上、原語を表記するのが最適だと思われます。--Ryo 625(会話) 2017年1月30日 (月) 08:29 (UTC)
- ガイドラインに、信頼できる情報源において最も著名であり、日本語の正式名称を採用されるという基準があります。現在、少数派の別名に何があるか、個々の著者の訳語がなんであるかの議論はしておりませんので、最も著名な日本語の正式名称がなんであるかという記事名のガイドラインに話をお戻しください。日本語の正式名称を用いるというガイドラインに反対されているようであれば、当方に対してではなくガイドラインのノートページで議論を行ってください。
- 『総合佛教大辞典』『岩波仏教辞典』『佛教語大辞典』『上座仏教事典』『ブリタニカ国際大百科事典』『ポー・オー・パユットー仏教辞典』において、念で確認が取れるものを「決定的な訳語が存在しない」というのは事実認識が解離していると思います。
- また想像ではなくて出典を提示してください。中村元は私の提示している2つの仏教辞典で「念」の項目を用意しており、他の著者との同一性が確認できます。
- 一部の訳者の訳語などはWikipedia:中立的な観点に従って、記事にさえ記載は不要なものもあると思われますが、そのような議論に脱線しないでください。アルボムッレ・スマナサーラの著書は、著しくパーリ語に傾倒しているため、アルボムッレ・スマナサーラの用語の用法は記事の中心とすることはできないかと思います。既に申し上げていますが、パーリ語に言及することが、上座部の合意でもなんでもありませんし、他に日本語の正式名称に言及する出典がまさに存在しているためです。少数派の観点は、少数派の観点だと分かるように記述する必要があります。気づきの訳語については、出典を挙げている通り最も著名だとは考えられません。
- 星飛雄馬の『初期仏教キーワード』ISBN 978-4901679923 日本語索引 p160に「念」が存在していますし、『45分でわかる!数字で学ぶ仏教語』ASIN B00YE99DGA p8では、念はパーリ語でサティであり、意味が「気づき」であると解説したすぐ後に、「念(サティ)」と日本語を中心に表記しています。Amazonで確認できます。星飛雄馬の観点でもなく、星飛雄馬の著書のうち個別の書籍の観点でしょう。
- 『マインドフルネスストレス低減法』はカバットジンの著書ですが、既に挙げた通り 『最新心理学事典』の「カバットジン」の項目に Mindfulness は パーリ語 sati の英訳で、念と日本語に訳されたり、気づきと訳されたりするとあります。他の出典と合わせて、日本語の正式名称が念であると確認が取れます。
- 漢字の用法についてはWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは辞書ではありませんもお読みください。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月30日 (月) 10:01 (UTC)
- 統一的に「念」が使われているなら念でも構いませんが、挙げられた例を見ますと、辞典類は伝統的訳語を当てて括弧書きで(samatha)という語を追記するなど機械的なものであり、学者によるものとはいえ、疑問もあります。単独で念としていない以上、慎重に取り扱うべき事柄だと思います。特に日本の仏教では伝統的に「無念無想」、「念々」、「一念三千」などのように「心に浮かぶ思い」というように意味が変質しており素朴に記事名を「念」とするのは不適切だと考えます。さて、訳語ですが、パユットー氏のものはサマタも「止」であり、訳者の野中耕一氏の理解を踏襲しているようですね。ここは了解しました。マハーシ・サヤドーは、星飛雄馬訳では「念じる」、「気づく」、「観察する」の区別を行なっていないと用語集で解説されています。(ちなみにですが、ここでは「サマタ瞑想」をsamatha bhāvanāの訳語に充てており、記事「サマタ瞑想」の議論の参考になると思われます。)中村元はsatiを「念」と訳していませんし、アルボムッレ・スマナサーラ比丘は「気づき」という訳語を当てています。マインドフルネスとも呼ばれますし、さらにこのマインドフルネスが「精神集中」とも訳されます(『マインドフルネスストレス低減法』2007年)。決定的な訳語が存在しない以上、原語を表記するのが最適だと思われます。--Ryo 625(会話) 2017年1月30日 (月) 08:29 (UTC)
- 上座部比丘とおっしゃるあなたの想像に関して言及いたしますと、上座部比丘の著作を含めて日本語の正式名称が「念」だと確認されております。パーリ学仏教文化学会の『上座仏教事典』だけでなく、
- 改名提案に反対という意味ですね。出典についてですが、上座部比丘の著作も専門性の高いものでしょう。P.A.パユットー、アルボムッレ・スマナサーラ、マハーシ・サヤドーなどです。訳語に統一性が無い場合、(気づき、念、守意、気をつけること etc.)原語表記ということもありえるでしょう。改名については、よくよく議論を重ねてから決めることだと思います。--Ryo 625(会話) 2017年1月28日 (土) 09:26 (UTC)
- 反対 ウィキペディアに辞典等の項の定め方に従うという方針はありません。--Ryo 625(会話) 2017年1月20日 (金) 21:30 (UTC)
(インデント戻す) 漢字の用法ではなく、「念」(ねん)という仏教語の日本における用いられ方です。「念」という一般的な漢字の用法を問題にしているのではありません。 出典を示すと、
- 一念三千は「一瞬一瞬のかすかな心の動きに,三千の数で現された宇宙のいっさいのすがたが完全にそなわっているということ」世界大百科事典 第2版
- 無念無想は「一切の想念を離れること。無我の境地に入り、無心になること」デジタル大辞泉
などですね。
>念はパーリ語でサティであり、意味が「気づき」であると解説したすぐ後に、「念(サティ)」と日本語を中心に表記しています。「念(サティ)」と
日本語の念にsatiの意味を想起させるには、このような多数の前置きが必要だということではありませんか?
>アルボムッレ・スマナサーラの著書は、著しくパーリ語に傾倒しているため
サティに日本語における「気づき」や「注意力」のような用法を持たせているのはパーリ仏教です。大乗仏教のsmṛtiにそのような定義が存在する、と仰るのであれば梵語辞書などの出典を是非お示し下さい。(マインドフルネスが流行った後の法話とかではダメですよ。)と、なれば大乗的な「スムリティ」と記事を分けるのも一つの方法ではないでしょうか。
>最も著名だとは考えられません。
ガイドラインには「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」とあります。「念」は日本語において多義的に用いられ曖昧であり、タバコ氏が引用して下さったように、後ろに(サティ)とつけたり、原語がsatiであること、意味が「気づき」であることを示さないと仏教語であること、またはその意味するところが分からないものです。よって記事名にはふさわしくない・・・と考えます。--Ryo 625(会話) 2017年1月30日 (月) 12:48 (UTC)
- 再度提示いたしますが、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは辞書ではありませんや、またWikipedia:曖昧さ回避もお読みください。同じ概念については基本的に分けませんし、辞書のようには作成されません。上座部仏教でも大乗仏教でも、結局五根のひとつである念、八正道のうち正念と書くことになります。一念三千は別の項目となり、百科事典は辞書ではないので辞書においての定義だけの解説を超えることがなければ基本的に掲載基準を満たしません。
- また申し上げております通り、Wikipedia:記事名の付け方#正式名称の日本語の正式名称があります。「念」は、信頼できる情報源で最も使われている認知度が高いものです。
- 上座部仏教系の日本語の著作で、『ポー・オー・パユットー仏教辞典』p3「念sati」、マハーシ・サヤドー『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』 用語解説p158「念(sati)」、訳者・星飛雄馬『初期仏教キーワード』日本語索引 p160「念」と日本語が掲載されている出典はもう提示いたしました。
- アルボムッレ・スマナサーラ『沙門果経』サンガ、2015年。ISBN 978-4-86564-013-7。では、Amazonの中身検索で目次に「ヴィパッサナー瞑想 念と正知」という節見出しの存在が確認できますが、実際のページには最初に「パーリ語で念はsati」と書いてあります。
- あなたが上座部とおっしゃった上座仏教系の著作で、なぜ彼らは揃いも揃って「念」と書いているのでしょうか。日本語の正式名称が認識されており、同じ概念であることをご存じだということです。Wikipedia:中立的な観点の方針を押しのけて、上座部の観点から書いたとしても結局は日本語の正式名称は念です。
- 大乗仏教のsmṛtiに「注意力」のような用法・定義があるか。『ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく』は。索引p13に「念smṛti」があり、p108に「注意深いこと(念)」とあります。この書籍は、改題されてきた古い書籍で、原著は1966年ですし、初版『大乗仏教入門』1980年、改訳『智慧の眼』1988年、と経てきたことが、あとがきp237にあります。
- おっしゃることが空想的であり、無駄な労力をかけている気がします。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月31日 (火) 05:47 (UTC)
- >上座仏教系の著作で、なぜ彼らは揃いも揃って「念」と書いているのでしょうか。
- それはサンスクリットのsmṛtiが伝統的に「念」と訳されてきたからです。それ以上でも以下でもありません。実際の用法では気づき、マインドフルネス、精神集中など様々に訳し分けられます。
- >上座部の観点から書いたとしても結局は日本語の正式名称は念です
- 曖昧であるという批判にはどうお答えいただけますか。「一念三千」における「念」と「念 (sati)」はどうやって見分けますか。
- >『ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく』は。索引p13に「念smṛti」があり、p108に「注意深いこと(念)」とあります。
- 御承知のことでしょうが、その本は英語訳の時点で西洋人のテーラワーダ比丘による手が入っています。その本だけを唯一の情報源にして大乗におけるsmṛtiに「気づき、注意力」などの意味があると断定することはできません。--Ryo 625(会話) 2017年2月1日 (水) 10:28 (UTC)
- 曖昧については提示しております。さかのぼってお読みいただき、Wikipediaの方針等に反対でしたらそちらで提案を行ってください。
- 「サンスクリットのsmṛtiが伝統的に念と訳されてきた」について、 sati も念と訳されていますよね。仏教辞典で「念 smṛti sati」のように原語が示されます。「出典についてですが、上座部比丘の著作も専門性の高いものでしょう。P.A.パユットー、アルボムッレ・スマナサーラ、マハーシ・サヤドーなどです」と仰っていますよね。
- そちらのおっしゃる上座部比丘の日本語の正式名称は確認がとれています。パユットーの『ポー・オー・パユットー仏教辞典』だけでなく、『仏法テーラワーダ仏教の叡智』『仏法の思考と実践 テーラワーダ仏教と社会』と全て「念」「念 sati」などと示されます。マハーシ・サヤドー『ミャンマーの瞑想』「念(sati)」、他のマハーシの訳者・星飛雄馬の『初期仏教キーワード』日本語索引に「念」とあり。併せて、アルボムッレ・スマナサーラ 『沙門果経』「パーリ語で念はsati」とあるわけです。
- 気づき、マインドフルネス、精神集中など、伝統的な訳語・日本語の正式名称たる「念」以外の別名については話が少々脱線しておりまして、信頼できる情報源で最も使われている認知度が高いということ、例としていくつもの辞書でもその言葉で引けば出てくるとかですね、念を上回る明らかさで記事名としてふさわしいという証拠を挙げてください。
- 『ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく』は注釈に上座部ではこうこうであると書いてあるのでぜんぜん関係ないですね。改題前の『大乗仏教入門』は1980年初版で、訳者はすべて同じですので訳語が激しく異なるというよりは、ほぼそのままです。逆にパーリ語仏教辞書をひきましても、sati 念、正念などと出てきます。--タバコはマーダー(会話) 2017年2月1日 (水) 12:40 (UTC)
- P.A.パユットー師の著作は訳者の野中耕一氏の理解によるでしょうね。マハーシ・サヤドーの訳書も星飛雄馬氏の訳文も検討すべきでしょう。アルボムッレ・スマナサーラ師の著作はだいたい「気づき」が使われることが多いと思いますが、一部の表現の違いをもって「ここでは念を使っている。だからこの人も念を最適な訳語と認めている」とすることはできないと思います。これはサマタ瞑想をサマーディ瞑想と呼称する場合にも言えることですが。
- 御承知のことでしょうが、その本は英語訳の時点で西洋人のテーラワーダ比丘による手が入っています。その本だけを唯一の情報源にして大乗におけるsmṛtiに「気づき、注意力」などの意味があると断定することはできません。--Ryo 625(会話) 2017年2月1日 (水) 10:28 (UTC)
- >パーリ語仏教辞書をひきましても、sati 念、正念などと出てきます
- それはサンスクリットでsatiに相当するsmṛtiへの伝統的な漢訳語を、大乗の僧侶であるパーリ学者が機械的にあてはめているだけだと思いますが。水野辞典は典型的ですね。--Ryo 625(会話) 2017年2月4日 (土) 09:28 (UTC)
- 申し上げておりますが、日本語の正式名称が確定しているので、Wikipedia:記事名の付け方#正式名称に従って、「よく使われる略称、別名、別表記などは記事名に使うのではなく、正式な記事名へのリダイレクト(転送)ページにしましょう」が適用されるかと思います。--タバコはマーダー(会話) 2017年2月7日 (火) 08:18 (UTC)