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ノート:カタリーナ・コルナーロ/削除

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転載疑い

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3月2日、ドン・フアン・デ・アウストリアで転載が発見されました。(依頼提出済み)

この記事でも文章の傾向が似ており(伝記的な長文)、転載が疑われています。具体的な書籍などを見つけましたら、情報をお願いします。

なお「ドン・フアン〜」の執筆者IP:124.96.241.202会話 / 投稿記録氏は他にも記事を書いており、こちらも情報を募集中です。詳細はWikipedia‐ノート:削除依頼/ドン・フアン・デ・アウストリアをご覧ください。桜の国 2007年4月3日 (火) 12:08 (UTC)[返信]

引用か?

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≫ジャック2世は、「もし、カテリーナに男子が生まれれば、その子がキプロスの王位を継承する、もしその子が女子かまたは死亡した場合は、自分の2人の庶子の内、年長の方が王位を継ぐ事、もし彼ら全てが死亡した場合は、リュジニャン家の内、自分に近い関係がある者が継承する。以上のどのような場合においても、王妃カテリーナは、その死までキプロス主長としての権利を有する」という内容の遺言を残した。さらに、カテリーナの補佐をする摂政として、彼女の叔父のアンドレア・コルナーロが任命されていた。廷臣達は彼らを助けてキプロスの統治を行なっていく事とも遺言されていた。

(本項目)より

王は次のような遺言書を残した。「王位は、カテリーナに生まれてくる子が男子の場合、彼がキプロスの王位を継承する。もしその子が女子かまたは死亡した場合は、王位継承権はニ人の庶出の男子のうりの年長の者から権利を得るこのとになる。もし彼らすべてが死亡の場合はルジャーニノ家のうち、王ジャコモに近い関係の者が継承する。以上のどのような場合においても、王妃カテリーナは、その死までキプロス主長として残る権利を有する」。王の遺言書はこれに続けて、摂政としての王妃の叔父のアンドレア・コルネールを指名し、家臣たちは、彼に協力して王妃の執政を助けていくよう記されていた。

塩野七生著≪『ルネサンスの女たち』第四章 カテリーナ・コルネール、単行本中央公論社1964年、中公文庫1974年、新潮社2001年『塩野七生 ルネサンス著作集-2』≫上記の文章は「新潮社版」ISBN 4-10-646502-7 C0395 のP225から抜粋。

なお、本項目の「ジャック」は塩野版では「ジャコモ」、「シャルロッテ」は「カルロッタ」との違いがあること。ナポリ王の名前は本項ではフェルディナントとあるのに対し、塩野版には明記されていないこと。

ほかにも類似点は少なからずある、(『塩野版』は小説なのでかなり冗長で、それを抜書きし再構成したかと)。

Nakaoka7675 2007年4月3日 (火) 14:56 (UTC)[返信]

著作権侵害の疑い

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『ルネサンスの女たち』塩野七生 著、中央公論社 刊の要約・改変による著作権侵害を確認しました。
以下、改変の手法の例示と、著作権侵害に当たる部分を一覧表としました。ご参照下さい。

人名、地名、表現の改変例

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出身国、所在国及び、それに連なる血統により名前の表記を変更しているもの。

イタリア名→フランス名
原文 記事
ルジャーノ(Lusignano) リュジニャン(Lusignan)
ジャコモ(Giacomo) ジャック(Jacques)
カルロッタ(Carlotta) シャルロット(Charlotte)
サヴォイア(Savoia) サヴォア(Savoie)


その他
原文 記事
アフロディテス(Afrodites)1 アプロディテ(Aphrodite)
ルイジ(Luigi) ルイージ(Luigi)
コルネール(Corner)2 コルナーロ(Cornero)
フェランテ(Ferrante)3
ナポリ王
フェルディナント1世
島民 国民
家臣 廷臣
  1. Wikipedia日本語版既存記事表記への置き換え。
  2. イタリア版Wikipediaによれば、いずれの表記も用いられていた模様。父マルコ・コルナーロの項参照[[1]]
  3. フェルディナント1世の別称ドン・フェランテ(Don Ferrante)


また「歎願→嘆願」「尋問→訊問」「計画→計略」など同・類義語への置き換えや、「三人称→本名あるいは肩書き」(逆も有り)への置き換え、かな表記を漢字に変換する、助詞を落とす(逆に「無い所に入れる」も有り)、文章の前後を入れ替えるなど、原文を改変しています。

著作権侵害に当たると思われる部分の一覧表

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  • ページ数は『ルネサンスの女たち』塩野七生 著、中央公論社 刊 1969年初版、1976年13刷に依ります。


ジャック2世死後の争い
原文 記事
(p.251 4-10) ジャック2世は、「もし、カテリーナに男子が生まれれば、その子がキプロスの王位を継承する、もしその子が女子かまたは死亡した場合は、自分の2人の庶子の内、年長の方が王位を継ぐ事、もし彼ら全てが死亡した場合は、リュジニャン家の内、自分に近い関係がある者が継承する。以上のどのような場合においても、王妃カテリーナは、その死までキプロス主長としての権利を有する」という内容の遺言を残した。さらに、カテリーナの補佐をする摂政として、彼女の叔父のアンドレア・コルナーロが任命されていた。廷臣達は彼らを助けてキプロスの統治を行なっていく事とも遺言されていた。
(p.251 12-13) 王妃を助けるという名目で、キプロス王国の中で日に日に勢力を拡大しようとする、ヴェネツィア人達に不信感と警戒感を抱いた。
(p.251 15-20) 彼女は滞在先のロードス島から、エジプトのスルタンに大使を派遣した。そしてシャルロットは、ジャックが死去した今、キプロス王国の正当な統治者は自分であると主張し、自分をキプロス女王として承認する事を求めた。しかし、スルタンは当時エジプトと交易関係にあり、レヴァンテの海において強い海軍力を持っていたヴェネツィアと敵対する事は避けたかった。このため、彼はシャルロットをキプロス女王として認めることを拒否した。そして彼はシャルロットからの大使とほぼ同時期に到着した、カテリーナからの大使を引見した。これは、キプロス王国前女王であるシャルロットではなく、キプロス王国王妃にしてキプロス主長のカテリーナを正当なキプロス統治者として認めた事を意味していた。
(p.252 1-3) なおもシャルロットはあきらめなかった。

次に彼女は、ロードス島近海にいたヴェネツィア艦隊提督ピエトロ・モチェニーゴにも、スルタンに対してした時と同様の主張をした。


ファマゴスタの乱
原文 記事
(p.253 17-20行目,
p.254 1-2行目)
この陰謀の目的は、摂政会議の中のヴェネツィア人を殺害する、キプロス島駐在のヴェネツィア海軍の武装解除、キプロスに駐在しているヴェネツィア政府関係者の追放、王妃カテリーナの権限を剥奪し、ジャック2世の庶子の王女であるシャルラとフェルディナンド1世の息子アルフォンソとの結婚、ならびにアルフォンソにはやがてキプロス女王になるシャルラの夫という事で、女王の夫君の「プリンチペ・ディ・ガリレア」の身分を与える事を、彼女に認めさせる事だった。
(p.254 3-6行目) 陰謀者達は大きく二派に別れていた。一派は、ナポリ王の後援を受けた大司教と、ジャック2世に当初から従っていた、リッツォ・デ・マリンらキプロス宮廷新参の家臣達。他の一派は、以前はシャルロット派であったが、後にジャック2世に臣従した重臣達で、彼らはジャックの死後、前女王シャルロットとの間で連絡を再開していた。
(p.254 10-15行目) 13日の夜中3時、突然大司教とリッツォがカテリーナの部屋に入ってきた。眠っていた所に突然押し入られ、驚きと恐怖で彼女が声も出ない時、カテリーナを守ろうとした医者ガブリエロ・ジェンティーレが彼女の目前で殺された。時を同じくして、異変を察知し王妃の所に急行した、アンドレア・コルナーロとその甥のマルコ・ベンボも、王宮に入った所でリッツォに殺された。
(p.255 2-3行目) この状態の中で、カテリーナは、ファマゴスタ港外に停泊していたナポリのガレー船に連れて行かれ、フェルディナンド1世の特使と会見させられた。
(p.255 3-7行目) 彼女は陰謀者達から、キプロス王女シャルラとナポリ王子アルフォンソとの結婚、アルフォンソにプリンチペ・ディ・ガリレアの称号を与える事、さらにアンドレア・コルナーロ達の殺害は、日頃からの彼の強欲さに対する個人的な復讐であり、政治的な暗殺ではない事を、ヴェネツィアに向けて王妃カテリーナ直筆の手紙で説明する事を強制された。
(p.255 7-10行目) 彼女は、叔父の暗殺については彼らの言う通りの手紙を書いたが、シャルラとアルフォンソの結婚と彼らにキプロスの王位継承権を譲り渡す事は、拒否した。それでもこの彼女の妥協は、息子に対する心配があったからだった。
(p.256 13-15行目) この間、陰謀者達は国民が信頼し、彼らに人気のある王妃が自由の身である事を示すため、12月5日にカテリーナを馬に乗せて広場をまわり、教会にまで行かせた。
(p.256 17-20行目,
p.257 1-2行目)
12月15日、陰謀者側の内部対立が表面化した。以前からのキプロス王家の重臣で、いまだにシャルロットの女王復帰を画策するロシャス伯、トリポリ伯ジャン・タフュールの一派と、ジャック2世にそのカイロ逃亡時から従い、国王の死後ナポリ王と提携して、ヴェネツィアの勢力を排除していこうとする、リッツォら新参の廷臣達との間の対立が激化していた。
(p.257 12-13行目) しかし、ニコシアの大司教は聖職者であり、極刑にする事は不可能だったため、ヴェネツィア政府は理由を付けて彼をヴェネツィアへ護送してしまった。



ヴェネツィアの干渉
原文 記事
(p.259 1-4行目) ファマゴスタの乱に対してヴェネツィアが行なった武力介入は、キプロス王妃カテリーナの要請を受けてのものではなかった。また、キプロス王国の廷臣達も誰一人として、ヴェネツィア軍に援助を要請してはいなかった。ヴェネツィア共和国の養女としてカテリーナがジャック2世と結婚した時の契約の1つである、キプロス王国を外敵から守るという契約を盾にとった、ヴェネツィア側の独断介入であった。
(p.260 3-4行目) 武装したガレー艦隊をファマゴスタ港内に停留させながら決定した、ヴェネツィアによるキプロス王国への内政干渉は、徹底していた。
(p.260 5-11行目) 内政に関しては、以後、キプロス王国は、その王室以外、ヴェネツィアの他の植民地と同じ政治機構を受け入れる。すなわち国王ジャック3世と王妃カテリーナの下には、王妃の執政を助けるため、2人の行政官が評議員の官名で設置される。彼らは一人ずつ二年おきに交代する。その他にこれも2年の任期の、実際の行政を担当する行政官と領事を1人ずつ設置する。

財政担当は2人の財務官が、軍事その他のキプロス国内の最高決定は1人の幕僚長ソランツォが執り行う。さらにキプロス第1の港ファマゴスタの警備担当として隊長を1人配置する。この8人のヴェネツィアから派遣されるヴェネツィア人によって、キプロスの政治・経済・軍事は、ヴェネツィア共和国の支配を受ける事になった。

(p.260 12-14行目) ヴェネツィア政府は、キプロスに派遣するこの8人に対して、国民に対するいかなる布告をも、あくまでも王妃カテリーナの名によって行なうよう厳命を与えた。
(p.260 11-12行目) ヴェネツィアが、新しくキプロスに導入した制度は、クレタ島など他のヴェネツィア共和国の植民地の行政組織とほぼ同じだった。
(p.260 15-18行目) 軍事面においては、ピエトロの後任の新提督グリッティには、モドネ、クレタ両海軍基地から、常にキプロスの情勢に対する注意を怠らない事。もし何かが起きた時は、早急にキプロスに直行できるよう常に備えておく事。変事を察知した時には、本国政府に報告せずに、全て提督個人の判断で行動できる全権限を提督は持つものとする。


ジャック3世の死後
原文 記事
(p.262 12-13行目) 国民達の大部分は、カテリーナを支持していたが、それでもキプロスの独立が脅かされる不安から、国内で権力を握っているヴェネツィア人達への反感は根強いものがあった。
(p.262 14-17行目) キプロス宮廷の廷臣達の大部分は反カテリーナ派だった。彼らはヴェネツィア人の王妃の名の下に、ますます勢力を強くするヴェネツィア人達やヴェネツィア政府によって、植民地化が進められていくキプロスの将来を心配していた。
(p.262 19-20行目,
p.263 1-3行目)
しかし、依然としてキプロス王家累代の重臣達は、この機会に前女王シャルロットを擁立しようとし、先王ジャック2世直属の新参の廷臣達は、彼の庶子である王子を擁立しようとした。このような状態で彼らは統一した行動を取る事ができず、あちこちで小競り合いが起きた程度に終わった。
(p.263 7-8行目) しばらくした後、キプロス王国の重臣の1人を、ヴェネツィア政府はカテリーナの名によって、ヴェネツィアに連行させた。そしてまた別の1人は国外へ追放された。
(p.263 9-12行目) この事件によるキプロスの動揺が静まらない10月末、ヴェネツィア共和国元老院は、ナポリ、ミラノ、ローマへ特使を派遣し、公式にジャック3世の死を知らせると共に「国王の死後も、引き続き、ヴェネツィア共和国は、トルコ、エジプトの異教徒の脅威から、またその他のあらゆる反逆行為からも、キプロス王国を守る覚悟である」と宣告した。
(p.263 13-15行目) ローマ教皇庁は、ナポリ王国、ミラノ公国とは違い、キプロスに対して直接の野心を抱いていなかったため、表面的には賛同の返事をした。しかし、実の所はキプロスがローマ教会と一線を画し、ローマ教皇庁の意のままにならないヴェネツィアの手に落ちるよりも、教会と良好な関係にある個人か、または国に支配される事を望んでいたのだった。
(p.263 16-17行目) ヴェネツィア大使に賛同の返事を与えておきながら、ナポリとローマは秘密裡に連絡をとり、反ヴェネツィアの方向に向かおうとした。
(p.263 18-19行目,
p.264 1行目)
この2国の動きをいち早く察知したヴェネツィア政府は、キプロス駐在の幕僚長ソランツォに、ヴェネツィア・ガレー艦隊による、キプロス島周辺の海上を封鎖する事、これからはキプロスに常駐させる幕僚長は2人とし、常に王妃の側を離れずキプロスの執政を執り行う事。またキプロス全島の城砦は、ヴェネツィアに完全に忠実な者の手にだけ任せる事」との厳命を下した。
(p.264 2-4行目) この指令に従い、キプロス近海の海上には、15隻のヴェネツィア・ガレー船が常駐する事になった。結果として、キプロスの港に入ってくる船は、ほとんどヴェネツィアの軍船か商船だけになってしまった。



傀儡となったカテリーナ
原文 記事
(p.265 14-17行目) さらに彼女は手紙にヴェネツィア人の行政官が私服を肥やしている事、その一例としてキプロスの自由民を奴隷商人に売り飛ばすと言って捕らえ、彼らを自由にする代わりとして、彼らから多額の金銭を受け取っている事実がある事、これでは国民に恐怖を与えるだけではなく、キプロス王国の経済を破滅に追いやるものである。
(p.265 17-18行目) また王妃の自分でさえも、キプロス国内を歩き回る自由も与えられず、王妃の尊厳を傷つけられるどころか、これでは奴隷と何ら変わらないという事も書いた。
(p.267 2-4行目) この父娘双方の訴えを聞いたヴェネツィア政府は、王妃に年金8000デュカーティを保証しただけで、彼らのその他の訴えは聞き入れようとはしなかった。
(p.267 11-17行目) 1476年の10月には、ヴェネツィア政府はマリエッタ・ド・パトラスとジャック2世の庶子の2人の王子、シャルラ王女たち先王の家族と、トリポリ伯、リッツォ・デ・マリンら8人の重臣の家族を、人質としてヴェネツィアに送る事を決定した。
(p.268 8-9行目) 驚き恐れるカテリーナの嘆願にも、人質を連れていくためにキプロスに派遣された提督ロレダンは、耳を貸そうとしなかった。
(p.268 10-13行目) ジャック2世の母と子供達は、キプロスでの砂糖の売上金を生活費の一部として、ヴェネツィア市内の修道院に住む事になった。重臣の家族達の方は、自費でヴェネツィア市内に住まわされ、市外に出る事も禁止された。
(p.268 16行目) 王子たち2人はその後下婢と結婚し、ヴェネツィア下層民として一生を終えた。
(p.268 19-21行目) フェルディナンド1世に再三自由獲得を要求したシャルラ王女は2年後の1479年にパドヴァの修道院で死去したとヴェネツィア政府は発表したが、彼女の死因は明らかではない。
(p.270 4-5行目) 陰謀者達は提督ロレダンの拷問と尋問により全てを白状し、反乱予定日に全員絞首刑に処された。
(p.270 5-8行目) この失敗は、実に18年間、ロードス島、ローマ、全イタリア、最後にはエジプトまで訪れて、王位復帰のために精力的に行動し続けたシャルロットの意志までも、挫く事となった。ナポリ王、スルタンに見放された彼女は、貧窮生活の中、ローマで死去した。


ナポリ王フェルディナンドの野心
原文 記事
(p.275 2-3行目) 彼女の承諾が得られしだい、ナポリとアレクサンドリアから軍船がキプロスに急行し、それを背景に至急結婚式が行なわれる手筈になっていた。
(p.275 5行目) 1488年、エジプトに向かったリッツォは、この計画に対するスルタンの全面的な賛同を得る事ができた。

※なお、この節全体も同著の要約です。--ゲルマニウム 2007年4月16日 (月) 08:50 (UTC)[返信]

削除依頼の提出

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著作権を侵害していると思われる部分を削除すると記事の体裁が保てなくなる為、白紙化の上削除依頼を提出しました。--ゲルマニウム 2007年4月16日 (月) 09:45 (UTC)[返信]