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ノート:イエス・キリスト/過去ログ1

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ノート:史的イエスのりダイレクトになっていたので独立させます。

ラテン語 Iesus の発音も(あえて日本語の発音に表すならば) イェ(ー)スースでは?

アラム語

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イエスがアラム語の話者であったと言われていることは、どこかの記事に含まれているべきだと思いますが。以前はアラム語話者への言及があったと記憶しています。219.164.202.107 08:57 2004年5月3日 (UTC)

この分割でいくと史的イエスと聖書と受容には入っていてよさそうですが、個人的(?)には救世主にも入ってていいと思います。どなたかが適当に記入されるかも。あなたにして頂いてもよいと思います。Johncapistrano 09:07 2004年5月3日 (UTC)

史的イエスの項目に、「イエスは、アラム語の話者であったと言われている」という説明を追加しました。イエスに限らず、歴史上の人物がどのような言語を話していたのかには興味があります。ウィキペディアでもその関連の記述が充実するとよいのですが。219.164.202.107 09:25 2004年5月3日 (UTC)

記事移動の提案

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ここ「イエス・キリスト」へのリンクは、ほとんど宗教的な信仰の対象としてのイエスです。

の形にしませんか。ヨセフの記事は、聖ヨセフではなくナザレのヨセフですし。唐変木 2005年3月1日 (火) 15:25 (UTC)

統合の提案

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イエス・キリストについての記事が3つも必要だとは思えません。まず、このイエス・キリストの充実を図るべきだと思います。救世主として、信仰の対象としてのイエスなら、この項目での解説が適当でしょう。Ligar 2005年3月3日 (木) 17:16 (UTC)

キリスト教の救世主としてのイエス イエス・キリスト(信仰の対象)

ナザレスの大工ジョセフの息子ジーザスの総合 ナザレのイエス(歴史的人物)

の人の提案に賛成です、すべてを統合すると学説(その説も本当かどうか不明)を事実であるかのように書く人がいるので大変な事になると思います。

上記の分類は一般的に使われているようです。

では、現在この「イエス・キリスト」へのリダイレクトになっている「ナザレのイエス」を史的イエスの内容にして、「救世主イエス・キリスト」を「イエス・キリスト」へ統合でよろしいでしょうか?Ligar 2005年3月10日 (木) 09:42 (UTC)

統合には反対する。「理由:過去にキリスト教関係はしばしば、教義論争が惹き起こっていること」それらをさけるために、分離した経緯がみられること。現在、比較的平穏である状況を変更する積極的な理由はみあたらない。状況を変更して、また論争とリバートとブロック合戦の種を蒔くのは避けた方がよい。Xrist 2005年3月13日 (日) 03:36 (UTC)

統合には反対です。この記事の経緯としてXristさんの意見に説得力が感じられます。又Ligarさんの案では宗教的な存在としてイエス・キリストを認めていても、救世主としては認めていない場合等は考慮されていないように見受けられます。さらに「ナザレのイエス」と言うタイトルで読み手が歴史的な存在としてのイエスと認識できるかどうかも疑問です。--Juyukichi 2005年3月31日 (木) 02:44 (UTC)
統合しなくてよいが、「イエス・キリスト」と表記した時点で「史的イエス」とは別物なのだろうと思います。「救世主イエス・キリスト」は同語反復。--忠太 2005年5月2日 (月) 16:38 (UTC)

項目は四個必要です

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 「「イエス・キリストについての記事が3つも必要だとは思えません」」……このように、Ligar さんは述べておられますが、わたしは、三つではなく、最低、四つ必要だと思います。次のようになります:

  • 史的イエス ……これはイエス・キリストの歴史的実体を指します。史的イエスの問題とは、そもそもイエスはいたのか、どうかというところまで進みます。
  • ナザレのイエス ……これは、史的イエス問題において、一つの非常に有力な仮説として出されている答えです。ナザレのイエスという史的実体がいた、という考えです。しかし、史的イエスの問題は、史的実体はなかった、から、複数の実体があった……つまり、苦しむ義人の書物である『イザヤ書』は単一の著者がいたのではなく、第一イザヤ、第二イザヤという風に、複数のイザヤがいたという説があるように、イエスも複数の人物の合成の可能性があるのです。
  • イエス・キリスト ……これは、ユダヤで新しい教えを説き、奇蹟を起こし、「メシアではないか」と人々に期待された、伝承の人物のことです。この名が中心に来ます。この名を、「救世主イエス・キリスト」と混同することは許されないのです。
  • 救世主イエス・キリスト ……これはギリシア語で、「イエスース・クリストス・ソーテル」ですが、救世主であるイエス・キリストは、キリスト教の「神の子」であり、神であり、また三位一体を認めない宗派では、「神的存在」です。イエス・キリストは、神的存在ではないのだということが重要です。信仰の対象は「救世主であるイエス・キリスト」で、「救世主でないイエス・キリスト」は信仰の対象ではないのです。しかし、略して「イエス・キリスト」と呼んでいます。

 ナザレのイエスと史的イエスが区別する必要があるように、イエス・キリストと救世主イエス・キリストは区別する必要があるのです。イエス・キリストの名前をどうしても、救世主としたい人は、本当は、イエス・キリストではなく、「救世主イエス・キリスト」で、略して言っているのだと気づくべきです。  なぜ、このような複雑なことになるかと言えば、キリスト教の「三位一体」教義が、反合理的で、パラドックスを含むためです。「神である」とすれば、信仰上の神キリストと、人間イエスは分けて考えることができるのです。また「人である」とすれば、同じように、神とする考えとのあいだで分けることができます。しかし、「人であって神である」ということなので、切り分けが拒否されるのです。このように境界を乗り越えようとする本質性がキリスト教にはあるので、三つあるいは、四つに分けて、説明することで、矛盾が補完できるのです。よく考えてください。Maris stella 2005年6月8日 (水) 06:45 (UTC)

現在の状態ではそういった説明が書かれておらず、ただ単に論争を避けるためという理由しかありませんでした。英語版で秀逸記事になっている項目が、現状スタブレベルの情報量しかない点を見て統合提案したわけですが、Maris stellaさんのいう方向性で記事が書かれていくのでしたら提案は取り下げます。--Ligar 2005年6月8日 (水) 07:20 (UTC)


「イエス・キリストと救世主イエス・キリストは区別する必要があるのです」とおっしゃいますが、「イエス関連」の項目が多すぎて、神学の素人の私にはやはりよく違いが判りません。百科事典ですから「イエス」だけのほうがシンプルな気がします(上記の4つの区分は「イエス」の下位区分にすべきでは?)。「史的イエス」は信仰に対立する概念として「言葉として」ほぼ確立していますから(ほかの百貨事典にも出ている)別個でいいと思いますが(リンクは必要でしょうが)。--119.239.144.102 2008年11月19日 (水) 17:53 (UTC)

イエス・キリストについての概説

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  •  イエス・キリストについての「概説」を記しました。できるだけ広く、中立的な記述を試みましたが、異論のある方や、表現が不適切と思われる方は、ノートに理由を記して書き直すなりして戴いて結構です。わたしは、上の「四つ必要です」という文章で、ある程度、方向性を述べて、その延長の上で、新しい記述を試みました。「イエス・キリスト」は、まず、キリスト教の独占物(者)ではないという確認から始めています。イスラム教の聖典『クールアン』においても、「マスィーフ・イーサー」という形で、「メシア・イエス」が出てきます。ユダヤ教ではどうなっているのか知りませんが、「メシア」という称号は付けていてもおかしくないと思えます。イスラム教の「マスィーフ」はメシアに当たりますが、これで「救世主」の意味ではないのは当然のことです。イスラム教でもユダヤ教でも、イエスは偉大な預言者の一人ではあっても、神の子や、神自身などではないからです。当然、「救世主」ではありません。元々、「メシア」にそのような意味はなかったからです。
  •  しかし、イスラム教やユダヤ教でも、イエスは重要な人物ではあっても、やはり、ムハンマドやアブラハムに較べると、第二的な位置になります。イエス・キリストを第一の預言者、いや救世主として、格段の地位、つまり、神自身である、という理解または信仰を持つのはキリスト教です。従って、冒頭では、イエス・キリストは様々な宗教でも聖なる者として崇拝または尊敬されていると一応記しましたが、実際に細かいイエス・キリストの像や把握があるのは、やはりキリスト教で、キリスト教におけるイエス・キリストをメインに持って来るのが妥当と思います。イスラム教やユダヤ教、マニ教におけるイエス・キリストの位置付けというのも加えてもよいのですが、それらは、各宗教に委ねるという形に取りあえずしました。「三位一体」に限定しないとも注記したので、ネストリウス派やエホバの証人のイエスの概念を否定していないことにもなります。Maris stella 2005年6月10日 (金) 08:22 (UTC)
  • 「仏教の開祖釈迦牟尼や、古代ギリシアの智の聖人ソクラテス、儒教の始祖孔子や、老荘思想の聖人老子などと共に、伝統的な民族宗教に合理的反省を加え」の一節が削除されています。削除されたかた(イエスチャンさん)のコメント(合理的でも無く、イエス自身が世界宗教に育てたわけでもない)というのは、コメント自体には納得できますが「ソクラテス、孔子、釈尊とならんで人類の精神の歴史に巨大な影響を及ぼした人物としてのイエス」(世界の四聖、人類の教師)との捉え方は、明治以来の伝統的イエス受容のありかたと言ってもよく、あえて削除する必要があるとは思えませんでした。この記述は読者の興味や知的興奮を惹起し、さらには古代における他の聖人への関心を呼び起こすものであり、削除するにはあまりに惜しいと感じます。そこでイエスチャンさんのコメントを尊重しつつ上記の記述を復元しようと思います。編集合戦になるのは私としても好みませんので再度の削除をなさる際には、こちらで議論を深めてからということにできればと思います。

編集にあたって感じたこと、考えたことを書いておきます。


老荘思想の聖人老子」をここにあがったそのほかの人物と同列

に扱うのは一般的ではないと思われるので、一旦復活を控えておきます。


「最も大きな」の「大きな」(以前はあったと思います)が無いと日本語として座りがよくないし、

「大きな」があっては主観的だと言うひとは「最も」だけでも主観的だと言う べきはずであるため復活してしまいます。


実際のところ、「今日のキリスト教を築いたのはイエスで無くパウロ」という議論は「史的イエス」の項でするべきことかもしれません…。

使用者:Dakusui 2006年 5月6日 16:57


定義文

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わたし(Maris stella)は、「2005年6月10日 (金) 08:03 の版」の定義文において、次のように記しました:

イエス・キリスト (希:Ιησους Χριστος,ヘブライ語:Yhoshuah ha-Mashiah) は、人類精神歴史において、もっとも重要な人物の一人である。それは、仏教の開祖釈迦牟尼や、古代ギリシアの智の聖人ソクラテス儒教の始祖孔子や、老荘思想の聖人老子などと共に、伝統的な民族宗教に合理的反省を加え、世界宗教へと導いた偉大なる聖者の一人である。キリスト教においては、神の子である救世主として、信仰の対象となっており、ユダヤ教においても、偉大な預言者の一人、そしてイスラム教においては、ムハンマドに先立つ、もっとも偉大な預言者の一人である。あるいは、現在は消え去った古代の世界宗教マニ教においても、仏陀ゾロアスターと並んで、マニに先行する真理の開示者・神から派遣された預言者として崇拝されていた。

「ユダヤ教においても偉大な預言者」というのは勘違いしたのですが、その他の部分では、イエス・キリストについての中立的な定義文を記したはずです。

なぜ、これを強調するかというと、イエスというのは、歴史学的には:

  1. 実在したのか実在しなかったのかが、まず問題としてある。
  2. 実在したと考える方が妥当であると、現代の歴史学ではとりあえず考えられている。しかし、どういう人で何をした人なのか、諸説があり、よく分からない。または決定的とは言えない資料に基づく、様々な解釈があり、色々な説を並列記述していると、訳が分からなくなるし、また、包括的に記述するには専門家でなくては無理であり、専門家が記述しても、色々な異論や異議が出て紛糾するのは明らかである。

なぜ、こういうことになるかというと、イエスについて記した歴史資料が、事実上、存在しないからです。資料は存在しますが、それは正統・異端も含めてのキリスト教側の資料か、グノーシスか、またはヘレニズム後期のシュンクレティズム宗教運動における資料しかないのです(つまり、「神話」資料です)。

こういう人物について、最初の定義文を記す場合、どう書けばよいのか、イエスと較べれば、歴史的に確認できる資料が多く存在するが、似たような立場、あるいは歴史において評価を持つ人物(つまり、釈迦牟尼、ソクラテス、孔子、老子)などと並列して、イエスもまた、このような人であった、と記すのが一番中立的で確実なことである。この場合、これらの人はすべて、「民族宗教」「所属社会の伝統の文化」と何らかの意味で対立し、民族宗教などが、「教え・律法」などにおいて、特定の民族を中心に考え、更に、社会的階層における区別・差別を肯定乃至根拠付ける教えとして機能していたことに対し、それに異を唱えて、「すべての民族・国民の人」「すべての階層の人」に「普遍的に適用される」倫理や救済の道を説いたということで、共通性があるのです。(また、孔子やソクラテスは社会的背景があった為か、明確な言及はありませんが、イエスと釈迦牟尼は、男女は平等であるということを教えました。これも当時としては画期的な教えです)。

「伝統的な民族宗教に合理的反省を加え、世界宗教へと導いた偉大なる聖者」というのは、「合理的反省」の意味は、上で述べているように、教えの適用性において、民族・国民を超越し、社会的階層の差別や区別も超越したという意味です。現代における「合理的」という意味とは少し違うのであり、しかし、時代を考えると、「人間は所属民族や種族、社会階層などの規定を越えて、普遍的に、人間として平等である」という理念・教えは、それ以前の考え方、伝統的共同体の常識を大きく変える「合理化」であり、このような考えを提唱し、実践したということが、「合理的反省を加えた」という意味であり事実なのです。また、彼らが、世界宗教を造ったのではなく、「世界宗教へと導いた」のです。釈迦牟尼も孔子もソクラテスも、彼ら一人だけなら、または彼らのまわりの弟子たちだけであれば、世界宗教にはならなかったでしょう。仏教だと、部派仏教の後、大乗派が登場するあたりで、世界宗教となったとも言えます。また孔子の儒教も、何世紀にも渡り後継者が出現し、漢帝国の国教にも近い地位となったので、世界宗教になったとも言えます。

イエス・キリストは「民族宗教を世界宗教へと導いた」というのは、そもそも歴史の運動の端緒・契機となったということです。その後継者がいて、それらの人たちが教えを広めたというのは当然のことです。孔子も釈迦牟尼もイエスもソクラテスも老子も、「世界宗教を造った」とは書いていません。また、彼らが「聖者」であったというのは、在世当時にも、そのように見なされ、その後の2千年の歴史の後でも、端的に、何であったかというと、「人類のなかの聖者であった」というのが妥当だからです。「イエスは聖者などではない、ただのユダヤ教の改革者であった」というのは、史的イエスにおける一つの説です。また「改革者」というのは、宗教を前進させる改革者も居れば、後退させる改革者もいます。「宗教改革」は、カトリック・キリスト教をある意味で後退させたとも言えますし、ゾロアスター教は、古代の世界宗教でしたが、サーサーン朝ペルシアで国教となり改革されたことで、民族宗教に後退してしまいました。

イエスはユダヤ教の改革者で、パウロスが世界宗教としてキリスト教を広めたというのは、キリスト教概説などに出てくる、有力な一つの説ですし、キリスト教が世界宗教となったのは、アレイオス的な考えや、ネストリウス的考えに立つキリスト教徒や、コンスタンティヌスがばっさり切り捨てた、「異端文書」やその信奉者たちの大きな活動が前提にあるはずです。そして、こういう話は、キリスト教の歴史での話で、イエス・キリストとは何か・誰かというときには、「世界宗教キリスト教の祖」「聖者」というのが、定義として、もっとも妥当であるし、これ以上何か書くと、史的イエス問題や、宗教上の解釈問題に入ってしまうので、このように記したのです。(その後の記述で、キリスト教が世界宗教となるのは、もっと後であると説明しています)。

従って、上に記述したような定義文に再度、戻す予定です。(無論、ユダヤ教の部分等は訂正し、その後の編集も考慮して、文面は訂正しますが、基本的には、こういう記述にしないと、歴史上のイエスのことか、神話上・宗教上の崇拝の対象のキリストのことか、編集合戦が起こります)。 --Maris stella 2006年5月22日 (月) 23:53 (UTC)

ソクラテス、老子、荘子、孔子が偉大な思想家であったことは間違いありませんが、「世界宗教」という表現はそぐわないと思います。特にソクラテスが宗教的存在であるという認識はあまり一般的でありません。儒教にしても「世界」宗教と考えるには地理的分布・民族分布が狭いのではないでしょうか。--Finch 2006年5月23日 (火) 11:12 (UTC)
世界宗教」は、「民族宗教」と対立的または対比的に使われる概念で、「世界中に広がった宗教」というのが意味・定義ではありません。民族宗教は、民族のアイデンティテイの確立のためにある宗教とも言え、基本的に、信徒資格をその民族の成員に限定しますし、それ以外にも、社会階級や国籍や性別で限定を加えます。こういう限定がなく、人種、国籍、民族、階級、性別などに関係なく、人間であれば誰でも教えが適用され、信徒になることができるような宗教を「世界宗教」あるいは「普遍宗教」と呼びます。世界宗教は、誰でも信徒になれるのと、民族や人種、性別の区別などを原則しないので、特定の民族や地域の外側にも信徒が広まり、結果的に、世界中に信徒が存在するというようなことになります。現代だと、「世界」というのは地球全体のことだと考えるかも知れませんが、古代などにおいては、「世界」というのは「既知の領域」のことで、民族や国境を越えて広がった宗教は、「世界に広がった」と言っても差し支えありません。
マックス・ヴェーバーは、世界宗教として、仏教キリスト教イスラム教の他に、儒教ヒンドゥー教ユダヤ教も加え、また、更に、道教ゾロアスター教、地中海世界で広く信仰されたミトラス教やイシス信仰なども世界宗教に入れる考えもあります。マニ教も世界宗教です。紀元4世紀の地中海世界だと、実際、キリスト教とミトラス教は勢力的に拮抗していましたし、紀元6世紀だと、マニ教の方が、キリスト教よりも布教領域が広いです。
ソクラテスは、非常に宗教的な人物です(例えば、弟子プラトンが伝えるところでは、ソクラテスの自死による最後は非常に宗教的で、ソクラテスの最後の言葉は、ある神殿に献げものを行うのを忘れた、代わりに献げものを奉納してほしい、という言葉だったとプラトンは記しています。このようなソクラテスが宗教的人間でないなどと言うのはおかしいです。「ソクラテスは哲学者だ」という先入観が大きすぎるので、宗教人ソクラテスが意識されていないのです)。愛智者(ピロソポス)であることと、宗教の信徒であることは矛盾しません。ソクラテスの教えとその生死はプラトンに大きな影響を与え、プラトンの思想はソクラテスの思想に淵源しているとも言えます。そして初期キリスト教の教父哲学・神学は、プラトンの思想を基盤に成立しています。キリスト教は、ソクラテスを祖とするギリシアの合理思想・信仰と、モーセを祖とするイスラエル=ユダヤの思想・信仰のシュンクレティスムだと言っても過言ではありません。ユダヤ教は、その中心的な宗教概念が「ゾロアスター教」に淵源しているともされます。唯一絶対人格神はユダヤ教のオリジナルですが、唯一神の信仰概念は、エジプトのアクエンアトンの「アトン信仰」に起源があるとも考えられます(更に、大乗仏教は、ヘレニズムによる東西思想・宗教のシュンクレティスムから出てきた可能性が高いです。阿弥陀信仰や弥勒信仰は、ゾロアスター教やミトラス教と明らかに関係があります。また「儒教」は現世指向がキリスト教などに較べ、強く出ているので、宗教ではないように思えますが、儒教の根本的な要素に「祖先崇拝」「祖先祭祀」があり、この面から見ると、儒教は宗教そのものです)。
--Maris stella 2006年5月23日 (火) 12:27 (UTC)
たしかにおっしゃる通りかもしれません。リストにマニを入れても良いでしょう。ただ、世界宗教の一般的な認識は、世界中と言わないまでも、ある程度の地理的・民族的分布を想定しているのではないでしょうか。もちろん様々な解釈はあり得ますが、Wikipediaでの定義は「世界宗教(せかいしゅうきょう)は、世界的規模でその思想が浸透し、様々な地域・民族によって信仰されている宗教を指す。」となっています。もちろんヴェーバーの考えはあるでしょうが、百科事典たるWikipediaにおいては、より一般的な解釈(Wikipedia自身も採用している解釈)を用いるべきと考えます。儒教が一種の宗教であるというのはその通りだと思います。ただ、「世界宗教」と言うには分布が狭いのではないかと。
また、ソクラテスについても同様です。もちろん宗教的な面があるのは否めませんが、やはり「世界宗教」という言葉には一般的に結びつかないと考える方が妥当でしょう。共通認識としてキリストの描写に記述する、というよりは「宗教」の項目に「ソクラテスも宗教人といえる」という記述が出来る、という程度ではないでしょうか。--Finch 2006年5月23日 (火) 15:21 (UTC)
有用な記述がばっさり削られているように感じたので先頃記述を復元したものです。正直にいってわたし自身はMaris stellaさんの当初の記事でそんなにおおきな違和感はないです。いくつかコメントと意見を書いておきます。
イエス・キリスト (希:Ιησους Χριστος,ヘブライ語:Yhoshuah ha-Mashiah) は、人類精神歴史において、もっとも重要な人物の一人である。それは、仏教の開祖釈迦牟尼や、古代ギリシアの智の聖人ソクラテス儒教の始祖孔子や、老荘思想の聖人老子などと共に、伝統的な民族宗教に合理的反省を加え、世界宗教へと導いた偉大なる聖者の一人である。キリスト教においては、神の子である救世主として、信仰の対象となっており、ユダヤ教においても、偉大な預言者の一人、そしてイスラム教においては、ムハンマドに先立つ、もっとも偉大な預言者の一人である。あるいは、現在は消え去った古代の世界宗教マニ教においても、仏陀ゾロアスターと並んで、マニに先行する真理の開示者・神から派遣された預言者として崇拝されていた。
  1. ソクラテス、孔子、釈尊と並列するのは違和感無し。ただしその目的はイエスという人物を並記した人物と対照させることで、イエスの事績、人類の精神の歴史にあたえた影響の大きさを読者に相対的に把握させるため。(なおソクラテス、孔子、釈尊の歴史資料がイエスと比較して充実しているとは一概にいえない。例えば孔子の伝記は結局「論語」しかないとされている。)
  2. したがって人類の精神の歴史への大きさにおいてイエスと比肩しえる人物のみをここに記すべきである。このため存在すら疑われ、道教なるものの実体も定かならぬ老子をここに記すのは疑問を感じる。
  3. さらに上述の理由(人類の精神の歴史への影響の大きさの観点)ソクラテスのフィロソフィアも孔子の儒学も宗教ではないがここに書くことに違和感を感じない。
  4. 「合理的反省」との文言は、近代的な意味での合理的反省(民主主義や男女平等を無原則に是とする類の)と混同しやすい。より慎重な言い回しのほうが真意が伝わると思われる。
  5. 「ユダヤ教においても」のくだりは勘違いとのことなので削除されるものと考えている。
  6. 「イスラム教においても」のくだりは「イスラム教においてもイエスのほうがムハンマドよりも偉大とされている」と誤読される可能性があるため、文言を調整した方がよいと思う。
  7. 「偉大なる聖者」とはわざわざ書かなくとも、前後の文脈から偉大であることも聖者であることも十分に伝わる。
  8. ソクラテスや孔子の事績を「世界宗教」と称することに合意を形成するのは無理がある。彼らの思想が弟子達によって世界的な拡がりをもったことを記述するところまでにしておいてはどうか。

--Dakusui 2006/5/28 18:00〜

キリストの誕生日について

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もう過去に議論になったことがあるのかもしれませんが、履歴を見ても見つからなかったのであえて問題提起させていただきます。

本文では誕生日が12月25日であると断定されていますが、「~12月25日とされている」に表現を改めるべきと考えます。今のクリスマスは、4世紀にローマ帝国のコンスタンティヌス帝がキリスト教を国教認定した前後に、当時冬至のお祝いをする習慣のあった12月25日をクリスマスにしたのが始まりで、本当の誕生日がいつなのかについては種々の議論があるというのが定説です。このことは複数の文献でも確認できますし、私はイエズス会の牧師(聖イグナチオ教会:四ツ谷の上智大学にあります)から直接そう聞きいたこともあります。12月25日と断定するのは問題があると思います。 Alt_winmaerik 2006年10月1日 (日) 06:13 (UTC)

おっしゃるとおりと思います。私の知識とも符合します。(冬至の日→ミトラス教における太陽の誕生日(冬至を境に日が長くなる→太陽の再生を象徴)→イエス・キリストの誕生日として設定された。本当の誕生日については知るすべがない。)これについては議論が生じるとも思えず、議論が生じた際には12/25がイエス・キリストの誕生日であるという主張にこそ、そもそも典拠が必要とかんがえるべきと思います。以上に鑑みまして勝手ながら記述を変更させていただこうと思います。
...と、おもったのですが「誕生日とされる12月25日は」とすでに断定ではない気がします。まあついで表現を改めて「伝統的に誕生日とされる12月25日は」ってとこでどうでしょうか。>Alt_winmaerikさん。--dakusui^
えー、何処のイエズス会牧師がいるのか、麹町教会は上智大学にあるのかなど信用ならない点が満載ですが(笑)、マトモな教会は12/25を主イエスの誕生日などとは教えていません。「13日の金曜日は不吉」などと同様、むしろ教会と関係の薄い人ほどそう思い込んでいるというガセビアの類ですので、「伝統的に~とされる」などと現在形で書かれては、むしろ悪意さえ感じますが。…もっとも、私は福音派の系列書店で購入した「Happy Birthday Jesus!」と書いてあるチープな輸入クリスマスアクセサリを所有してまして、過去の誤謬にしがみつく反知性教会はバイブル・ベルトあたりに沢山在りそうではあります。LR 2006年10月2日 (月) 14:34 (UTC)
まともな教会ってなにをさしてます?12/25はカトリックでは「主の降誕」として盛大にお祝いするようですが?聖公会も同様です。プロテスタント諸派についても同様でしょう。聖書には12/25がイエスの誕生日なんて話は一行も書いていないにもかかわらずその日が伝統的にイエスの誕生日とされるがゆえにクリスマス・キャロルを歌ったりキャンドル・サービスもやってます。なんならカトリック、聖公会、そのほかプロテスタントでもいいですが伝統的とみなされえるキリスト教会を12/25にお尋ねになったらいかがでしょうか?イエズス会はカトリックなので牧師はなく神父であるのは事実ですが、その程度の誤認はAlt_winmaerikさんがクリスチャンでない限りやってしまってもしょうがないことでしょう。ただし私も上智大学はカトリックの大学としか知らなかったのでイエズス会だったかは記憶がさだかでありません。あと聖イグナチオ教会は上智大学の構内にあります。 実際私も礼拝に行くわけではないので法的には上智大学の所有物件ではないのかもしれませんが、まあ東京近在の人々はイグナチオ教会といえば上智にあるあの教会ねといって意思の疎通をするので、本文にかくことならともかくこんなところでそこまで言っても始まらんでしょう。差し出がましいようですが、聖書学の知見がすべてそのまますぐに教会の文化や教義に反映されるとお思いでしたらそれは間違いです。もしそのようにお考えで、かつあなたがキリスト教に興味をお持ちでしたら認識を改める機会としていただければと思います。あと、「過去の誤謬」なるものでなにを指しておられるのかわかりかねますので必要でしたらご説明いただけますか。--dakusui 2006年10月2日 (月) 15:48 (UTC)
妙な先入観により正しい判断が妨げられていらっしゃるようで、私に対するご説明の殆どが意味を為していません。私は「マトモな教会は12/25に降誕を祝わない」などとは一言も申しておりません。今日の教会は12/25が誕生日でないだろうことを承知した上で、その日に降誕を祝い、再臨を待ち望むのです。ですから「伝統的に誕生日とされる12月25日は」は現状と食い違っていて困ります。誕生日とされた時代が長かったですが、最早されてはいないからです。「伝統的に12月25日はクリスマス(キリスト降誕祭)とされ、毎年世界各地の風習に基づいた色々な行事が行われている。」ぐらいが妥当な線で、最大譲歩しても「伝統的に誕生日とされ12月25日」です。
さて、私のいうマトモな教会とは学術の知見を反映する余地のある謙虚な教会のことを指します(クリスマス関連の話題はどうやっても聖書学ではないので、表現を変えました)。教会は学問を無視乃至対立することがあると考えるならそれこそ大間違いです。大抵は素直に聞き従っているのですが(なにしろその研究のスポンサーが教会なことは多々なので)なにか対立事項をご存知でしたら、その各々について、相手こそ「学問の威を借りようとしているだけ」程度に根拠が無いのか、教会(というか大抵は末端信者)が頑なに無駄な抵抗をしているのかを確かめてみる価値があります。逆に、学問の反映を拒否しそれに反することを述べつづけるなら、それは単に根拠の無い主張、場合によっては誤謬や虚偽を確信的に広めつづけているわけで、マトモな宗教のすることではないですね。従って、今時クリスマスをイエス・キリストの誕生日だなどと教える教会は、他の点においても信用なりません。マトモじゃない所以です。
最後に余談の始末ですが、カトリック麹町教会は上智大学の四谷キャンパスに「隣接」しています(構内といわないのは、大学の門とは別の出入り口があるからです)。「過去の誤謬」とは「クリスマスの成立経緯を忘れて、もしくは知りもせず、12/25をイエスの誕生日と思い込んだこと」です。LR 2006年10月3日 (火) 01:28 (UTC)
Dakusui さん、論旨を汲取っていただきフォロー&修正ありがとうございます。LRさん、ちなみに私はクリスチャンではありませんが、母はクリスチャンでイグナチオ教会の下にお墓もあります(LRさんほど博学でしたら、件の教会の下にお墓があるのはご存知ですよね)。従って、「構内か隣接か」などという問題はそれこそ枝葉末節ですし、さして重要とも思いません(そもそも上智大学の設立母体はイエズス会ですし、世間一般に「上智大学にある教会」で通じる以上、このノートで取り上げる必要性を感じません)。また百科事典の本文に記載するうえでの判断基準は、「教会の常識」や「キリスト教に明るい方にとっての常識」ではなく、比較的多くの日本人に共有されている常識(正しい認識も誤解も含めて)ではないでしょうか。少なくとも今回私はそのような観点で指摘したつもりです。余談ですが、私は大学時代合唱をやっておりまして、紀尾井ホールでも何度か唄わせてもらいました(笑)Alt_winmaerik 2006年10月3日 (火) 09:23 (UTC)
(LRさんへ)別のところで非常に不愉快な利用者がいたもので、意識せず表現がとげとげしくなっていたかもしれません。もし、そのことでLRさんが不快な思いをされたのでしたらお詫びいたします。
(ご提案の修正の内容)「伝統的に12月25日はクリスマス(キリスト降誕祭)とされ、毎年世界各地の風習に基づいた色々な行事が行われている。」自体は妥当な文言と存じますので、そのように変更いただくことには同意します。もっとも私のもとの文では気に入らなくて、この文言ならばよいというのは不思議な感じがしますが。
(そのほかのことについて 1)私は学問と教義・教理は別のものであり、教会は学校では無い以上、「学問の観点では~だけど、教会の立場(教義)では~」のような使いわけは生じるものと思っています。その一例こそがまさに「イエスの誕生日は何月の何日か」に対する答えだと考えます。
(そのほかのことについて 2)「伝統的に誕生日とされる12月25日」の表現が困る、実態とあわない、過去の誤謬であるという主張を第三者に対してするためには、12/25が降誕節として教会暦、典礼暦に記載されており、カトリックの教理としてこの日付が「キリストの降誕祭として守るべき祭日」として記載されている事実をどう説明するかが必要かと思います。後学のため、ご高見を賜りたく存じます。
(そのほかのことについて 3)いろいろと考えてみたのですが、やはり「学術の知見を反映する余地のある謙虚な教会」(=まともな教会)が具体的にどの教派ないし教会を指しておっしゃっているのかわかりませんでした。ご教示賜りたく存じます。
(ご参考) 釈迦に説法なのかもしれませんが http://www.caritas.org.pe/brevecatecismocatolico/japones.pdf 残念ながら手許には「カトリック教会の教え」がないため、出典はこれで勘弁してください。
(Alt Winmaerikさんへ)いえいえどういたしまして。記事の冒頭、まさか生年のところに12/25なんて書いてあるとは思わずびっくりしました。--dakusui 2006年10月3日 (火) 15:44 (UTC)
今、われわれは「イエス・キリスト」の記事の「イエスの誕生日」に関する記載をどうするのか話し合っているという本来の目的から逸れていかないでください。重要なのはその一点で、私たちの出自も体面も信仰も特定団体支持も、ここでは一切関係ないのです。
その意味でここで話し合う意義のある意見は「12/25が降誕節として教会暦、典礼暦に記載されており、カトリックの教理としてこの日付が「キリストの降誕祭として守るべき祭日」として記載されている事実をどう説明するか」だけですよ。既に散々説明済みですが、納得されるまでお付き合いはしましょう。
まず前提として確認しておかなければならないのは、wikipediaはローマ・カトリックキリスト教の最大教派以上の存在とは見なさないということです。バチカンの見解は自動的に多数派にはなりますが、それがすなわちキリスト教の標準見解になるわけではありません。カトリックだけが言ってる事ならそれは一部見解なので、キリストやキリスト教を総合的に説明する上では、場合によっては無視しなければなりません。クリスマスは異教起源であるという理由でそれを祝わない教派がありますが、カトリックの発言権もそれと同じ一票でしかなく、どちらも断りなく一般化するとPOVになります。
但し、クリスマスの件に関しては幸いキリスト教界にほぼ共有の一般事項ですのでローカルな権威を振りかざす必要ないですし、そもそも持出し方が見当違いで、説明の必要はありません。貴方が、カトリックの教理は一言もいっていない「生誕は誕生日に祝わねばならない」「よって生誕を祝う日を定めそれを奨める者は、その日を誕生日と宣言している」という、同情は出来ますが根拠のない思い込みを二つばかりしているだけですから(イエス専用のキリスト教用語である「降誕」は言い換えました)。大体、12/25がイエスの誕生日なら、ディエスナタリスを乗っ取るのに「義の太陽」などというレトリックは必要ありませんでしたし。
御納得いただけて、他の方も同じ誤解をしているに違いないと思われるのでしたら、この実体験を生かして、わかりやすい追加説明の文章をお願いしてもよろしいでしょうか。
なおここで雑談はふさわしくないですが、まずご紹介いただいたカテキズムについて是非御礼を述べさせてください。まるで第二バチカン公会議などなかったかのような(笑)この資料は、一教派としてのローマ・カトリックの特色と特異事項をコンパクトにとてもよく説明しており、この先重宝すると思います。また場違い甚だしく何時までもやっててはいけない「マトモな教会論」に関してですが、私は聖遺物信仰や教皇論などカトリックが未だ完全には拭い切れない虚飾部分を批判対象とすることを躊躇しないのに対して、貴方はカトリックの実像を承知していながらそれを護ろうとするので、二律背反に嵌まるんです。申し添えますと、私は二重基準者ではないつもりなので、十全にマトモな教会など地上にはないと思っています。LR 2006年10月4日 (水) 04:42 (UTC)
(本来の目的)「イエス・キリスト」の記事の「イエスの誕生日」に関する記載をどうするのか話し合っているという本来の目的からすると、私はあなたの第一案にすでに同意しているので、この目的は果たされました。従って、それ以外のことはすべて私の個人的興味によるものです。お付き合いいただけるとのことで大変かたじけなく思いました。
(しかし、以降の議論は遠慮します)あなたの主張の根拠がなんなのかを確認するために、あなたの言うところの所謂「マトモな教会」、すなわち「学術の知見を反映する余地のある謙虚な教会」なるものが何なのかと私は問いました。それに対する答えとして「マトモな教会など地上にはない」とのお考えを承りました。地上に存在しない教会についての議論をするつもりは私のほうにはありませんので、せっかくお答えをいただきましたが以降の議論は遠慮するのがよろしかろうと思いなす次第です。ありがとうございました。--dakusui 2006年10月4日 (水) 12:00 (UTC) --dakusui 2006年10月4日 (水) 15:13 (UTC)(冗長な文言を排し、若干の補綴等)

最も大きな影響か

[編集]

Pixanさんの編集で「最も」が削除されました。これ、以前にも議論された覚えがうっすらとあるのですが…。 私は「最も」があっても間違いではなく、削除には及ばないとの意見です。

「最も」というのは「一番大きい」という意味だけではなく、それを上回るものがないという意味合いもあります。ここではこの意味で、つまりイエスをはるかに凌駕する影響を人類の精神に及ぼした人物は提示できないという意味で使われているのでは?(イスラム教徒も、百科事典的な観点から人類の精神に与えた影響においてはマホメット>>イエスという評価はできないはず)

「人類の精神の歴史において最も大きな影響を与えた人物」ではないというのなら、客観的に見てイエスよりも明らかに大きな影響を人類の精神に及ぼした人物を提示してほしいです。そういう人物の提示がない以上削除は不適当では?

「地域・民族・歴史などの環境によって観点が違うはず」とのことですが、具体的にどういった条件かを提示し、上述の例示を行ったうえでの削除でなければ独自調査ってやつになるのでは?

これはイエスの及ぼした影響に比肩しえる人物が他に存在することとは矛盾しません。つまりイエスが「最も大きな影響を及ぼしている」と同時に孔子、釈尊、ソクラテスが「最も大きな影響を及ぼしている」ことはありえるのです。--dakusui 2006年10月11日 (水) 14:52 (UTC)

私は、痛くない腹を探られる事を防ぐためにも、「最も」は二箇所ともない方が相応しいと思いますが。LR 2006年10月11日 (水) 23:06 (UTC)
どことどこの二箇所ですか?--dakusui 2006年10月12日 (木) 02:34 (UTC)
仮名漢字の揚げ足を取られているのではないとするなら、差分という便利機能をご利用ではないのでしょうか。すでに削除された「最も大きな影響を与えた人物の一人である」と「もっとも偉大な預言者の一人とされる」の二箇所のことですけれども。国文法を力説するより事大表現や誤解の余地を減らすのが事典編集者の仕事としては優先ですよね。LR 2006年10月12日 (木) 05:24 (UTC)
私がノートのさきのコメントで「最も」の表現を他用していたので、もしやそのことを指摘されているのかも?と思いました。これについては勘違いでしたね。すみません。
また、正直な所「(イスラム教においての)もっとも偉大な預言者の一人とされる」のほうまでご賛同いただけないとは思っていなかったので念のため確認をしたほうがいいとも考えた次第です。お気を悪くなさらないで下さい。
イスラム教で「預言者」と言えば、アダム、アブラハム、イエス、マホメットの四人のことであり、より後に顕われた預言者ほどより偉大とされています。従ってイスラム教においてマホメットに先立つ最も偉大な預言者はイエスです。これは必要な情報だと考えます。(もっともイスラム教におけるイエスの把握をどこまで書くべきか?という議論はありますが、ひとまず措きます)
「最も大きな」という表現が「事大表現」(所謂、大言壮語?)に見えるというのはお気持は分りますが、やや短絡的な議論でしょう。これはアレクサンドロスとかイエスとか、現実にある領域で「最も大きな」事績をのこした(少なくとも広くそう看做されている)人物の記事を修正するときには注意が必要なことではないでしょうか。
揚足をとるわけではありませんが、「事大」とは「大なるものに事(つか)える」ことを指す語で、近年では近代朝鮮の政治姿勢を批判的に表現する際などに使うことが多いようです。
人類の精神の歴史に(最も、とまではいえないまでも)大きな影響を与えた人物には他にもトマス・アクィナスとかハイデガーとか、孟子とかも含め、色々ありますけど、そういった人物が与えた影響の大きさとの違いを表現しないのは百科事典として健全でしょうか?
「大きな影響を与えた」だけなら例えばアクィナスとイエスのどちらが大きな影響を与えたのかが分りません。したがって「最も」を取り去った表現では必要な情報が欠落していることになります。
また、イエスと比肩し得る影響をおよぼした人物は人類の歴史上、いるとしても稀であることも表現できていません。
つまり「最も」を削除しては逆に誤解を招きます。どうしても「最も」を削除したままにするべきとお考えならば、上述の問題点がなく、新たな問題点を含まない代替の表現をご提示いただきたく思います。
皮肉にきこえるかも知れませんが我慢して聞いていただきたく思うことがあります。文法に則らない言語表現こそが誤解のもとです。先の発言で私が述べたのは「文法」というよりも「語法」に近い議論ではありますが、相通ずるものがあると思います。いずれにせよ言語表現における文法、語法の重要性はよくふまえていただきたく思います。--dakusui 2006年10月12日 (木) 13:47 (UTC)
pixanです。この問題は、実のところ難しくありません。キリストの他にも人類の精神の歴史に功績を残した人々は何人もいますが、キリストがその中で一番だと述べて差し支えなければこのように書かねばなりません。→「イエス・キリストは人類の精神の歴史において、最も大きな影響を与えた人物である。
私が重視しているのは「最も」という語です。念のため、今Infoseekの辞書でひいてみると、「比べたものの中で程度が一番上であることを表す。この上なく。最高に。」とありました。つまり、キリストを上回る功績者が存在しないと推せる場合のみに「最も」の語で修飾することができるわけです。そうでなければ、「最も」の語は不適当です。キリストの功績が今日もなお受け継がれていることに異論はないですが、本当にキリストを上回る人物や思想があったのかどうかはなかなか確かめにくいうえ、おそらく書く人・読む人の環境によって評価が変わりやすいものなので、不安定な修飾である「最も」を省いたわけです。
この記事に限らず、このような「最も」の使われ方はウィキペディアの外も含めてしょっちゅう見かけています。この語を正しく使うための簡単な方法があります。俗っぽい言葉の使い方も含みますが、「ナンバーワン」「第一位」「世界一」「他の追随を許さない」「もうこれ以外に何が選べるか」という表現に置き換えてみて違和感の有無を確かめればよいのです。この検証方法は容易ですので、ぜひ一度、お試しください。--pixan 2006年10月12日 (木) 15:42 (UTC)
その表現に置き換えてみても、違和感がない(すくなくとも間違いとは言い切れない)のがイエスやアレクサンダーや孔子といった現実にぬきんでている(と評価せざるをえない)人物なのです。「もっとも」の語はPixanさんが辞書で確認されたように「その上がない」ことでしかなく、同位のものを排除しないことにもご注意ください。
以降、やや、刺激的な言い方があるかもしれませんがご辛抱ください。
「不安定な修飾」といいますが、精神の歴史におけるイエスや政治、軍事の歴史におけるアレクサンダー、ナポレオンといったレベルの人物以外では不安定でしょうが、それはその修飾が不安定ではない人物も稀にはいることとは矛盾しません。
いったい、いかなる観点からみて「書く人・読む人の環境によって評価が変わ」るかを具体的に例示しないまま、「おそらく」変わりそうという理由で必要な情報(前回の私のコメントを参照)を捨て去るのは「独自調査」に他なりますまい。
すなわち「本当にキリストを上回る人物や思想があったのかどうかはなかなか確かめにくい」からと言って単純に「最も」を削除しては私が前回述べた問題を生じることになるわけです。で、さらに言えば、あるものがあったかなかったかという議論をする際には「あった」と主張する側がその実例を示すのが普通です。(「なかった」という証明をするには対象となる全てを調べつくさなくてはならないが、「あった」という証明をするには全てを調べつくさなくても単純に例を示しさえすればいいから。もし、そういった実例が示せないならば単純にその主張は「独自調査」ってことになるでしょう?)これはまあ、議論をする上で立証責任がどっちにあるかってのを判断する上でのルールみたいなモンです。
ですので「キリストを上回る功績者が存在しないと推せる」「イエスは最も大きな影響を人類の精神の歴史に与えた」っていうけど本当?という疑問にたいしては「じゃあ、イエスよりも明らかに大きな影響を人類の精神の歴史に与えた人物を挙げてごらん」という反問が答えになります。そういう人物を挙げられるなら「最も」の語は不適です。あげられないのなら、それこそが「最も」の語が必要である証拠です。「最も大きな」ってのは他の人物に冠したら多くの場合は反例をあげえるので普通は使うべきじゃないってのはもちろん同意しますよ。
感想としてですが、イエスを評する際に「人類の精神の歴史において最も大きな影響を及ぼした人物」ってのは、表面的には百科事典の基本的な記述のルールに反しているように見えるにもかかわらず、実際には百科事典の記述としてもその基準を満たしている興味深い事例だと思っています。
まあ、LRさんから「最も」という語を含まない、いい提案をいただけるかもしれませんし、もちろんPixanさんの視点からのアイデアもあるかも知れないと思っています。私としては「最も」の語に必ずしも拘っているわけではなく、前述の問題(イエスの事跡に匹敵しえる思想家、宗教家は存在するとしても稀であることが表現できるか?等)が解決された表現であれば虚心坦懐に検討したいと思っています。
なお、非常にこまかいことですが「最も大きな影響」は善悪を含んでいないことにもご注意ください。(「功績」は善なる意味を含みます)
もっと言えば、定義文をどうするか?っていう議論が中絶したままになっているのが、こんな話になる原因の一部なんですよね…。どうしたもんか…。
まったくの余談なんですが、昔自宅にあった百科事典でナポレオンの項目には「アレクサンドロス、カエサルと並ぶ歴史上、最大の政治、軍事的天才」なんて書いてありました。まあいくら百科事典が「中立的」な立場から物事を書こうとしても現実として卓越しているものを卓越していると書かないのは、逆に中立性が疑われるってことかもしれませんねえ。最初眼にしたときは自分が「百科事典的」と思っている表現とはかけ離れているのでぎょっとしましたが、考えてみるとなかなかに理が通っています。ちなみに平凡社世界大百科事典でした。

--dakusui 2006年10月12日 (木) 16:43 (UTC)

いや、これはそんなに難しい問題ではないはずですが。実のところ、発端になったpixan氏の編集と主張は完全な誤読に基づいているので、内容的にはリバートしても問題ありません。その意味で濁水さんの主張は一理あります。問題の誤読の内容は、初めに濁水さんが説明しているように、もともと「イエスは先頭集団の一員」というどちらの個所の記述でも問題なく事実と見なしてよい範囲の評価しか書いてなかったのに「イエスが比類なきナンバーワン」であるかのように読んでしまったことです。これは「どちらにも読める」という代物では全くない上に、濁水さんの説明も全然理解していただけてないようですので、もうこれ以上の説得はしません。
但し。これはpixan氏程度の読解力の読者に誤読を誘う悪文にも原因の一端がありますので、百科事典としては修正される事が望ましい。それに、誤解に基づいた字句削除の後にさしたる意味の変化はなかった(ここが私LRと濁水氏で意見が合わない)、ということはそもそもそれは必要ではない修飾語だったんです。ならば、誤読した張本人がそれなら判るというほうの表現にしておくことでそのクラスの読解力の人々が救われるんですから、この怪我の功名な修正は受け入れておくべきですよ。
また、濁水氏におかれましては、「ジーザスアズナンバーワン」といいたい狂信者がPOVの是正に抵抗しているのではないかというあらぬ疑念(これが痛くない腹、です)を抱かれない努力を払われることをお勧めします。私はそのためにイエスの史的評価に関する表現が「偉人トップ3(実力そんなもんでしょう)」から「偉人ベスト50入り」程度に留まることに反対しません。これは語法からも文法からも50位に転落させられたわけでもなんでもないですからね。LR 2006年10月13日 (金) 01:50 (UTC)
こんばんは、pixanです。なかなか良い議論になってきたなあと、種を蒔いたものとして実感しています。この議論はいくつもの新しい知識を得る可能性を持っています。また、文章の読解力(または読み方のセンス)は個々人で大きな差がありますので、そういった場合は少し難しいかもしれませんが、読解力の低い人が誤解しにくくなるように配慮した書き方をするのが好ましいのです。それと、リバートされても怒ったりしませんので、議論に応じて適切な処理を行ってくださいね。以下、私の記述やいただいたコメントの中から考える点をいくつかピックアップしますので読んでください。
「最も大きな影響」は善悪を含んでいないことにもご注意ください。(「功績」は善なる意味を含みます)
ご指摘ありがとうございます。功績というのは間違った書き方でした。
「じゃあ、イエスよりも明らかに大きな影響を人類の精神の歴史に与えた人物を挙げてごらん」
ここは大事なところです。ここをあえて再確認していくことで、イエスがやっぱり一番だ、ということを記述できるのだと思います。大きな影響とは何かを考えてみました。ひとつ思いついたのは、おおざっぱではありますが人数と年月による延べ数がひとつの指標になるかも、ということです。イエスの場合、2000年近くにわたるものなので、当然ですが確たる統計のない時代のものを計算することはできません。しかしおおよその人口から概算していく方法や、少し強引かもしれませんが統計の発達した時代の中だけでも計算してみれば、他の人物との対比を見つけることができると思います。(計算してくれ、とか計算します、という意味で言っているのではありません。)
しかし、イエスや釈迦のように、宗教というかたちで影響を及ぼした人物の場合、その信者の数を調べる可能性はありますが、宗教という形をとらなかった人物の場合は、カウントできませんのでどうしようもありませんね。ですので、「イエスより明らかに大きな影響を与えた人物がいるのかどうか」という問いには、「そうでもあり、そうでもない」という答えしか導けないと思うのです。つまり、比較不能です。比較できないものに対して、いわゆる「比較級」「最上級」という修飾は与えられないと私は考えます。もう少し正確に言うと、集合の各要素を、その要素に応じた基準で比較できるものに対してのみ「比較級」「最上級」を与えることができるのです。例えば、人口、金額、沸点、距離、質量、投票結果などです。
人類の精神の歴史に(最も、とまではいえないまでも)大きな影響を与えた人物には他にもトマス・アクィナスとかハイデガーとか、孟子とかも含め、色々ありますけど、そういった人物が与えた影響の大きさとの違いを表現しないのは百科事典として健全でしょうか?
ここが何とか記述できれば本当に健全だと思います。難しいと思いますがこれを大きなテーマとして年月重ねて作れればそれこそ人類に大きな影響を与えるような百科事典の記事になると思います。ものすごいリサーチ(博士論文級?)が要るとは思いますが・・・
「書く人・読む人の環境によって評価が変わる」
これは、書く人・読む人がキリスト教の影響をどれだけ受けているかによって変わるということです。日本の場合はキリスト教を含めいくつもの宗教がそれなりに共存していますが、キリスト教の立場が小さい(あるいは無い)ところでは、イエスの存在を高く認識していないと思われます。例えば仏教が支配的なネパールとかラオスとかが挙げられます。数年前に台湾に行きましたが、台湾では孔子の思想が人々の生活に根強く生きており、孔子廟で見た彼らの孔子に対する崇敬の念の強さには驚きました。彼らにいわせると、きっと孔子の方が大きな影響を与えているとなるでしょう。そうなると、彼らが「イエスが最も影響を与えた」という記述を読むと、「そうかな?」と思うかもしれません。それはローカルな現象ですが、私の述べた「環境によって評価が変わる」という点の意味するところです。
しかし真実は、ローカルな現象のあれこれでなく全世界的にどうなっているか、ということです。ここが読む人との摩擦を生じるところなんです。読む人は、全世界の情勢と比較してどうかと考えるのではなく、自分や周囲の生活感を主軸に考えます。よって、(まずはイエスが最も大きな影響を及ぼした人物を真実と仮定します。)その真実を知らない人々、イエスでない人物が最も大きな影響を及ぼしたのだと信じている人々に対して、「イエスが最も大きな影響を及ぼしているのです」と納得させられるだけの表現が必要なのです。それは読み手に押しつけるのではなく、正しい知識を提供するというものです。似たような例はキノコの食毒判別法や血液型占いです。
一旦ここで区切ります。思うままあれこれ書いてしまいましたが、本文の定義に「イエス・キリストは人類の精神の歴史において、最も大きな影響を与えた人物である。」と書いてはマズいでしょうか・・・--pixan 2006年10月13日 (金) 15:49 (UTC)
今、あまり時間がないので、Pixanさんの最後のコメントにだけ反応します。もともとは「人類精神歴史において、最も大きな影響を与えた人物の一人である」ですよね?もともとは「の一人」としていて、「最も」としながらも比肩しえる人物が他にもいることを示しています。Pixanさんの案では「イエスだけが最大の影響をおよぼした人物である」と読めます。したがって私としては元々の文言の方が比較優位にあると考えてます。--dakusui 2006年10月14日 (土) 01:27 (UTC)
(すみません)ちょっと間が開いてしまいました。
(考慮の結果)やはりリバートが相当であると判断しました。
(理由 1:誤解を避けるために、今回の修正が正当化されるか?)誤解を避けることは重要ですが、誤解をさけるために誤った記述にすることや必要な情報が欠落することは許容されません。今回の、単純に「最も」を削除する修正はこの点でリバートが妥当です。(修正ではなく、リバートなのは今に至るまで既存の文言よりも優れている文言が提示されなかったため)
(理由 2:比較級、最上級の使用方法についてのPixanさんの議論について)Pixanさん個人の「最も」の使い分けについての見解は理解しました。しかし「最も」の正しい用法についてはPixanさん個人の意見によるよりも国語辞典に書いてある意味に依拠せざるを得ません。
(理由 3:「書く人・読む人の環境によって評価が変わる」についてのPixanさんの議論について)「書く人・読む人の環境によって評価が変わる」のはあらゆる事物についてそのとおりです。しかし、それを百科事典に反映するためには、現にそのような評価をする人が存在しなくてはなりません。今回の場合で「最も」の語を使うのが不適切ならば、「イエスを明らかにしのぐ影響を人類の精神の歴史に与えた人物」が具体的に例示でき、かつその人物についてそのような評価に関する合意が形成できるはずです。しかし今に至るまで提示すらありません。この事実自体が当初の修正自体が誤りであったことの証明です。(無論、この人はどう?という提案を拒むものではありません)
(補足 1)私の目からするとPixanさんには、百科事典の書き方と「最も」の語意・語法に関する思い込みがあるように感じます。
(補足 2)もとの文章をよりよくしようという議論は歓迎されるべきものです。現在の「定義文」にある問題点を洗い出し、よりよくするための議論を今後していくことにしませんか?もし「最も」の語にまだ違和感があるようでしたらそのなかで議論していってはいかがでしょうか?
(おわりに)一応、リバートを避けるべき合理的で新たな理由(代替の文言の提案、具体的実例の提示)の提出がないか日本時間で19日23:59までお待ちしてみようと思います。--dakusui 2006年10月16日 (月) 14:05 (UTC)
pixan氏の今回の編集は(以前のも問題なかったのですが)支持できます。ただ、これは氏がこの箇所に携わる前と意味がまったく変わってないので(屈指とは上から5番目まで、多くて10位以内のことでしょう)、この空騒ぎは何だったのだという感はありますけれども。LR 2006年10月19日 (木) 03:02 (UTC)
(同意)修正内容を確認しました。文意は一連の議論の前に戻っており同意できる範囲内と考えます。前回の修正は、(理由 1)により同意できません。
(LRさんへ)空騒ぎ云々というのはLRさんも騒ぎを大きくするのに与っている以上、口にすべきではないでしょう。お控えあれ。--dakusui 2006年10月19日 (木) 23:55 (UTC)