ノート:史的イエス
この「史的イエス」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2004年3月11日 | 秀逸な記事の選考 | 不通過 |
2. | 2010年10月11日 | 良質な記事の選考 | 不通過 |
過去ログ
[編集]新約聖書学の成果を豊かに発信できれば…
[編集]中立を強調することで何も書けないのは、自分で自分の首を絞めることと思っています。 むしろ、新約聖書学の成果がいろいろある場合、併記して、豊かさを伝える方が良いと思っています。 つまり、別の見解の人がありましたら、「見解?」として追加すれば良いと思います。
ただその場合、この史的イエスの場では、最低限、新約聖書学の成果を根拠として行う必要があり、その上で、批判する必要があります。 前に、荒井さんと弟子筋の大貫さんとが目の前で批判するのを聞いたことがあります。 その場合でも、新約聖書学という共通の土台で、真理を求めるという共通の目的をもって批判しあっており、ある意味で安心して、聞き、学ばせて戴きました。 このウィキペディアッデのキリスト教の場では、その様でありたいと願っております。 by イエスチャン --以上の署名のないコメントは、イエスチャン(会話・投稿記録)さんが 2006年4月6日 (木) 10:59 (UTC) に投稿したものです。
ウィキペディアは真理を求める場ではありません
[編集]イエスチャン さん、多数の文章の投稿、ご苦労様です。ただ、疑問があります。ウィキペディアにおける原則は、ここは個人の意見や個人の独自の研究を発表する場ではないというのがあります(参照:Wikipedia:ウィキペディアは何でないか)。「イエスの思想」として、(2)として長い文書を記されていますが、これは一体、誰の学説でしょうか。また、史的イエス研究の専門家たちのあいだで共通に認識され承認されている学問的な成果なのでしょうか? そもそも、この記事のような主題の場合、「参考文献」が必須になります。誰の著書に基づいて、ある記述を行っているのか、出典が明らかでなければなりません。色々な本を読んで、自分はこう考えている、というのは、それは「個人の独自の意見・主張」です。新約聖書学者荒井献の述べるところでは、こうであるとか、専門家の学説・理論であることを(かつその学説が、史的イエスの研究で、多くの専門家の賛同を得ているものであることを)明らかにしなければなりません。イエスチャン氏の記述は、残念ですが、そういう典拠の明記がありません。イエスチャン氏の独自の意見の表明・演説の類としか読めません。従って、記述はすべて削除させて戴きます。再度掲載される場合は、参考文献・出典を明示して戴きたく思います。--Maris stella 2006年5月23日 (火) 04:51 (UTC)
- 私も内容や文体から同じ危惧を抱いております。今後、編集される方には、特に下記の点をご留意いただければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。--Album 2006年12月6日 (水) 01:24 (UTC)
J・ヴァイスおよびユリウス・ヴェルハウゼンの主張の論拠について
[編集]本文中に、
「アルベルト・シュバイツァーは・・・イエスは終末論的世界観の中に生きておりメシアとしての自覚を持っていたと言う見解を表明した・・・その後、J・ヴァイスはこのような教会神学の所産である福音記者の編集部分を取り除くことでイエスの歴史像を解明しようと」したとあり、
J・ヴァイスが、福音書にみられる "1.イエスが終末論的世界観を持っていた" ,"2.メシアとして自分をとらえていた"ことを示す記述を「教会神学の所産である福音記者の編集部分」であるとしたと読み取れるのですが、J・ヴァイスはどのような論拠でこのような結論を導き出したのでしょうか。
また彼がマルコの分析を行なったものの、「伝承の編集は予想以上に複雑な過程を経ている」と結論するに至ったのはなぜですか。
同様に、
ユリウス・ヴェルハウゼンが「マタイとルカにおけるQ資料の編集においてすらも、教会神学が作用している」という説を唱えたとありますが、これも、どのような論拠でこの説が発表されたのですか。
以上のような見解は、厳密な考証を経て主張した上で、明確な論拠が提示されたものなのでしょうか?反論や批判に対して、どのような反証が行われたのですか? --Ointment2 2009年5月2日 (土)