ノート:アイヌ語地名
この「アイヌ語地名」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
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1. | 2023年1月11日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
千島列島とカムチャッカ半島の記述について
[編集]提案 引き続き本記事について、精力的に加筆いただき有難うございます。2023年1月17日 (火) 13:25版までに千島列島とカムチャッカ半島について記述していただいていますが、ちょうどその部分について私も執筆していたところで、編集が重複してしまったので方針について相談させてください。
私は基本的な方針として、千島アイヌの文化圏として千島列島とカムチャツカ半島についての記述を一つの節として纏めてはどうかと思っています。理由は、歴史的な背景を説明するのに、その方が都合がいいと思うからです。
上記の方針に基づいて、タクナワンさんに執筆していただいた内容と、以下の自分の草案を上手く組み合わせたいと思っていますが、いかがでしょうか?
千島列島からカムチャッカ半島のアイヌ語地名
考古学調査により、千島アイヌの出現は15世紀半ばから17世紀半ばの間とされている。その居住地は千島列島(ロシア語:クリル列島)の北部(北千島)からカムチャツカ半島南端部ににかけてだが、ロシアの南進により18世紀初頭には北千島に限定されるようになった[1]。近代の千島列島は、新知島以北の北千島に千島アイヌとアレウト族が混住し、国後島と択捉島の南千島には北海道アイヌが居住していた[2]。1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約により千島列島全島が日本の領土となり、同時に日本政府による千島アイヌの移住が実施されて北千島は無人となった[2]。その後、1945年にソビエト連邦に占領され、現在に至るまでロシアによる実効支配が続いている[3]。以上のアイヌの居住域にもアイヌ語地名が記録されている。
その北限について鳥居竜蔵は『千島アイヌ』(1903年)に「カムチャッカ半島南端部のロバートッカ岬からクリール湖まで千島アイヌ語による地名が多い」と記している[2]。なお、ロバートッカの語源はロシア語で肩甲骨を意味するLopatkaであるが、同地のアイヌ語地名カプルイも肩甲骨であり、村山七郎はロシア人がアイヌ語地名を訳したとしている[4][5]。
--あずきごはん(会話) 2023年1月17日 (火) 14:35 (UTC)
あずきごはん様。僭越ながら千島アイヌ地名に関して加筆させていただきましたが、重複とは恐れ入りました。ぜひご提案通りに、編集しなおしていただけたらと存じます。なお樺太アイヌ語地名に関しましては、あずきごはん様の方針でお願いいたします。--タクナワン(会話) 2023年1月17日 (火) 21:30 (UTC)
- 返信 (タクナワンさん宛) ご返答ありがとうございました。提案させていただいたように編集させていただきました。樺太アイヌも単独の節を設けて記述しようと考えています。今後もよろしくお願いします。--あずきごはん(会話) 2023年1月18日 (水) 10:41 (UTC)
編集理由について
[編集]まず当該節は、ベツとナイの違いについての解説する場所であり、東北地方でのアイヌ語地名の成立時期について記す場所ではありません。その件については、すでに同じ八木氏の別出典を引用して東北地方のアイヌ語地名節で言及していますので当該節での記述は削除します。なお「十腰内期から続縄文後半期の後北C2・Dの分布時期まで、アイヌ語系地名は温存され」の記述ですが、アイヌ語地名が定着する経緯についての論考ではあるものの、アイヌ語地名自体は現在にいたるまで温存されているので、唐突にそのようなことを書かれると意味が解りませんので削除します。論考の結論としては上記の東北地方のアイヌ語地名節の言及になります(その理由というべきか)。
次に後北C2・D式とベツ系地名の重なりについて肯定的な意見を出しているのは八木氏ではなく松本建速氏であり、八木氏は松本説に否定的な見解を記しているにすぎません。削除した文章でも八木氏が否定的な見解であることが明示されているものの、前提としての松本説が記されていないと意味が解りません。この件については松本氏の論考として東北地方のアイヌ語地名節に記述し直しました。
蛇足ながら参照されている八木光則氏の著作を拝見した個人的な感想を記しておきます。まず八木氏の専門は考古学であり、地名や言語の専門家ではありません。八木氏が試みた地名(言語)の分布と文明の重なりに着眼した手法自体は今後も研究が深められていくだろうと思いますし(実際他の研究者も言及しているかたがいます)、考古学者・地名学者・言語学者などの協業によりさらに発展していくだろうとは思いますが、八木氏が提示するアイヌ語系地名(原文ママ)の分布に賛同する地名学者・言語学者は居ないと思いました。 理由は八木氏は2万5千分の1地図を集計した『新日本地名索引』を出典としているからで、現地を踏襲していないばかりではなく、地図上での確認も怠っている可能性が高いからです。アイヌ語地名研究の第一人者である山田秀三氏が高く評価されているのは、現地を踏襲した上でアイヌ語の語義と地形に齟齬がないかを全箇所踏襲したことによるものであり、現在に至るまで山田氏の論考を否定する専門家はいません。しかし八木氏は「アイヌ語系地名の原型を復元する方法論が確立しているとはいいがたい(八木「アイヌ語系地名と蝦夷」)」としたうえで、索引を出典とすることを「客観的な比較に有効(同)」と高く評価して統計データを積み上げています。しかしこうした手法では当該地が本当にアイヌ語地名なのか、あるいは日本語系の地名がたまたまアイヌ語地名っぽくなったのか峻別することはできないというのがアイヌ語地名研究者の共通した認識になっていると考えます。根拠としているデータが不確かならば、論考にも説得力は無いというのは当然のことと思います。ただ個人の感想で議論することは望んでいませんし、ウィキペディアでのルールでは信頼できる出典であれば記載されるべきなので、八木氏の論考についても記載しておきます。--あずきごはん(会話) 2024年10月12日 (土) 20:08 (UTC)