ニュー・ヴァリューズ
『ニュー・ヴァリューズ』 | ||||
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イギー・ポップ の スタジオ・アルバム | ||||
リリース | ||||
録音 |
1978年 パラマウント・スタジオ、カリフォルニア州ロサンゼルス市ハリウッド地区 | |||
ジャンル | ||||
時間 | ||||
レーベル | アリスタ | |||
プロデュース | ジェームズ・ウィリアムソン | |||
イギー・ポップ アルバム 年表 | ||||
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『ニュー・ヴァリューズ』 (New Values) は、アメリカ合衆国のミュージシャン、イギー・ポップの3枚目のスタジオ・アルバム。イギー名義のソロ・アルバムとしては、初めてデヴィッド・ボウイが参加していない[注 1]。1979年4月にアリスタ・レコードから発売された。
プロダクション
[編集]経緯
[編集]『ニュー・ヴァリューズ』は、イギーにとってアリスタで初めて制作した作品であり、イギーとジェームズ・ウィリアムソンのコラボレーションは『キル・シティ』以来となる。元ザ・ストゥージズのメンバーとしては、この2人に加えて『メタリックK.O.』や『キル・シティ』でピアノを担当したマルチ・インストゥルメンタリスト、スコット・サーストンが参加している。
1978年秋、前作『TV Eye:1977 ライヴ』のヨーロッパ・プロモーションツアーを終えたイギーは西ベルリンにあった当時の自宅に戻り、休養をとりつつ次作の準備を始めた。一方で、新しいマネージャー、ピーター・デイヴィス[注 2]は次作をリリースするレコード会社を探していたが、運良く『キル・シティ』のデモテープ製作時に資金援助したベン・エドモンズがアリスタのスカウト部門の責任者に就任していたため、彼の紹介でアリスタと契約を締結することになった。また、『キル・シティ』が高評価を得ていたためと、エドモンズの要望もあり、プロデューサーはジェームズ・ウィリアムソンに決定した[注 3][2]。
本作に対するアリスタの注文は「ザ・ストゥージズ調のパンク・ロック作品」だった[注 4]。
レコード会社とプロデューサーが決まった頃、イギーの作曲活動にスコット・サーストンが合流し、10曲程度の曲を準備して1979年末にレコーディングに臨んだ[2][注 5]。
レコーディング
[編集]レコーディングはハリウッドのパラマウント・スタジオで行われた。 バックバンドのメンバーが揃っていなかったが、ベースのジャッキー・クラークをサーストンが[注 6]、ドラムスで元タンジェリン・ドリームのクラウス・クリューガーをイギーが[注 7]、その他のメンバーをウィリアムソンがパラマウント・スタジオの伝手を使って揃えることで解決した[注 8]。
西ベルリンでは落ち着いていたイギーの生活がまた荒れ始めるといったトラブルはあった[注 9]、が、ウィリアムソンが作業進捗を[注 12]、サーストンがバンドをそれぞれ仕切っていたため、進行に問題は起きなかった[2]。
リリース
[編集]アメリカを除く各国で、1979年4月に発売された。アメリカではアリスタ社長クライヴ・デイヴィスの意向[注 15]で、他の力を入れているミュージシャンたちのプロモーションキャンペーンが終わるまでリリースが保留され、最終的に同年秋頃のリリースとなった[2]。
「アイム・ボアード」[7]と「ファイブ・フット・ワン」[8]がシングルカットされ、それぞれビデオが制作された[9][10]。
2000年7月にリマスター盤が発売されて、ボーナストラックが2曲収録されている。
日本でのリリース
[編集]アメリカを除く各国と同時期に発売された。1992年に他のアリスタ作品(『ソルジャー』『パーティ (イギー・ポップのアルバム)』)とともにCDでリイシューされた。リマスター盤は各国より遅れて2007年7月25日、これもまた他のアリスタ作品と同時に紙ジャケット仕様で発売されている[11][12]。
評価
[編集]専門評論家によるレビュー | |
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レビュー・スコア | |
出典 | 評価 |
AllMusic | [1] |
ブレンダー | [13] |
シカゴ・トリビューン | [14] |
クリストガウ・レコードガイド | B+[15] |
ローリングストーン・レコードガイド | [16] |
スピン・オルタナティヴ・レコード・ガイド | 7/10[17] |
トム・ハル | B[18] |
アンカット (雑誌) | [19] |
メディアによる評価
[編集]本作は、批評家から高い評価を得ている。リリース時にNMEに寄稿したポール・モーリーは、この作品について「思想家としてのオスターバーグがパフォーマーとしてのイギーを完璧に支えており、その関係はポジティブで誇らしいものだ。」[20]と書いている。
ポップマターズのシャーロット・ロビンソンは、「タフさと優しさ、反抗心と満足感、真摯さとユーモア、無骨な泣き声とニュアンスのあるバラードなど、繊細なバランス感覚がこのアルバムを勝者にしている」と書いている[21]。
イギーの伝記作家ポール・トリンカは、本作について「最高の曲である「ファイブ・フット・ワン」と「アイム・ボアード」では、サウンドは張りつめていて削ぎ落とされており、明らかにローリング・ストーンズの『女たち』に影響を受けているが、よりタフで悪意に満ちたものだった。イギーの歌には新たな抑揚があり、それが彼の持つパワーをより強調していた。また、「エンドレス・シー」のように、興味をそそるようなミニマルな実験も行われた。しかし、他の有望な曲は、無味乾燥なミックスで失われ、オーバーダビングされたホーンやバッキング・ボーカルに押し流されていた。」と評している[2]。
本作にザ・ストゥージズ末期(イギー・アンド・ザ・ストゥージズ)の5人のメンバーのうち、3人のメンバーを集めることに貢献したベン・エドモンズ[注 16]は本作について、「ジェームズ(・ウィリアムソン)は良いプロデューサーだったが、自分のミックスの腕前を見せつけることに拘って、そちらを頑張りすぎた。」という主旨の発言をしている[2]。
イギー自身は後のインタビューで本作の出来について「誇りを持っている」と語っている[22]。
チャートアクション
[編集]チャートアクションは全英アルバムチャートで最高位60位[23]、ビルボード200で最高位180位[24]。全英チャートにおける最高位がスタジオ・アルバムの前2作(『イディオット』『ラスト・フォー・ライフ』)を下回ったことから、アリスタはイギーに次作の制作を急がせることになる[2][注 17]
後世への影響
[編集]ミュージシャンの反応
[編集]デヴィッド・ボウイはアルバム『トゥナイト』で「ドント・ルック・ダウン」をカバーし、短編映画「ジャジン・フォー・ブルージーン」のオープニングとエンディング・タイトルに使用した[26]。
ピクシーズのブラック・フランシスは、本作をお気に入りのアルバムのひとつに挙げている[27]。
オーストラリアのサイケデリック・ロックバンド、ザ・チャーチは1999年に発表したカバーアルバム『ア・ボックス・オブ・バーズ』に「エンドレス・シー」を収録した。
メディアでの扱い
[編集]1986年に公開された映画「ドッグ・イン・スペース」のサウンドトラックに「エンドレス・シー」が収録されている。
日本との関係
[編集]イギーは本作のプロモーションで2度目の来日を果たしている。ライブは行わなかったが、写真家の佐藤ジンとフォトセッションを行なっている[28]。
ライブ・パフォーマンス
[編集]ヨーロッパツアー
[編集]本作リリースに伴ってヨーロッパツアーが予定されていたが、ウィリアムソンがツアーへの同行を断ったため、ジャッキー・クラークをギタリストに戻して、新たにベーシストとしてグレン・マトロックを加入させた[注 18]。その他のツアーメンバーはレコーディング時と同一。
アメリカツアー
[編集]次作『ソルジャー (イギー・ポップのアルバム)』レコーディング後に本作のアメリカリリースが正式決定し、このプロモーションのために急遽実行された。そのため、メンバーは『ソルジャー』のレコーディングメンバーに、元ダムドのギタリスト、ブライアン・ジェームズを加えた顔ぶれとなった[注 19]。その結果、バックバンドにはニューヨーク・パンクとロンドン・パンクの中心的なバンドにいた人物が顔を揃えることになった[注 20]
収録曲
[編集]「エンジェル」と「キュリオシティ」は『キル・シティ』時代に作曲して、レコーディングされなかった曲[2]。
# | タイトル | 作曲者 | 時間 |
---|---|---|---|
1. | 「テル・ミー・ア・ストーリー」 | イギー・ポップ | |
2. | 「ニュー・ヴァリューズ」 | イギー・ポップ、スコット・サーストン | |
3. | 「ガールズ」 | イギー・ポップ | |
4. | 「アイム・ボアード」 | イギー・ポップ | |
5. | 「ドント・ルック・ダウン」 | イギー・ポップ、ジェームズ・ウィリアムソン | |
6. | 「エンドレス・シー(邦題「果てしなき海」)」 | イギー・ポップ |
# | タイトル | 作曲者 | 時間 |
---|---|---|---|
1. | 「ファイブ・フット・ワン」 | イギー・ポップ | |
2. | 「ハウ・ドゥ・ヤ・フィックス・ア・ブロークン・パート(邦題「どうするつもり」)」 | イギー・ポップ | |
3. | 「エンジェル」 | イギー・ポップ、スコット・サーストン | |
4. | 「キュリオシティ(邦題「好奇心」)」 | イギー・ポップ、スコット・サーストン | |
5. | 「アフリカン・マン」 | イギー・ポップ | |
6. | 「ビリー・イズ・ア・ランナウェイ(邦題「ビリーは逃亡者」)」 | イギー・ポップ、スコット・サーストン |
# | タイトル | 作曲者 | 時間 |
---|---|---|---|
13. | 「チェーンズ」(未発表曲) | イギー・ポップ、ジェームズ・ウィリアムソン、スコット・サーストン | |
14. | 「プリティ・フラミンゴ」(「ファイブ・フット・ワン」のシングルB面曲[8]) | イギー・ポップ |
参加メンバー
[編集]イギー、サーストン、ウィリアムソン以外に、ジョン・ハーディン、ピーター・ヘイデンが『キル・シティ』から引き続き参加している。
- イギー・ポップ – ヴォーカル
- スコット・サーストン – ギター、ハープ、キーボード、シンセサイザー、バッキングヴォーカル、ホーンアレンジ
- クラウス・クリューガー[30] – ドラムス
- ジャッキー・クラーク[31] – ベース
- ジョン・ハーディン[32] – サックス
- デヴィッド・ブロック[33] – ストリングス、ストリングスアレンジ
- アール・シャックルフォード[34] – バッキングヴォーカル
- アルフォノ姉妹(アンナとマリー)[35] – バッキングヴォーカル(「ドント・ルック・ダウン」)
- ジェームズ・ウィリアムソン – ギター(「ドント・ルック・ダウン」、「エンドレス・シー」)、ホーン及びストリングスアレンジ、プロデューサー、ミキシングエンジニア
- ロイド・マラン – アシスタントプロデューサー
- ピーター・ヘイデン[36] – エンジニア
- ポール・ヘンリー – ジャケットデザイン、アートディレクション
- トレヴァー・ロジャース – ジャケット写真
- グラフィク(Graphyk) – ジャケットアート
注釈
[編集]- ^ この作品までにボウイが参加したイギー及びザ・ストゥージズのスタジオ・アルバムは『ロー・パワー』、『イディオット』、『ラスト・フォー・ライフ』の3作品。
- ^ RCAロンドン支社国際部門に在籍していたが、イギーの2作品(『イディオット』『ラスト・フォー・ライフ』)に傾倒し、イギーがRCAを離れる際に一緒に退社してイギーのマネージャーになった。イギーに付き合って薬物依存になるまでは優秀なマネージャーだったという[2]。
- ^ ウィリアムソンは当時、音楽業界から距離を置いた状態で、夜勤の仕事をしながらポモナ・カレッジで電子工学を履修していたが、学費の足しになると考えてプロデュースを引き受けた。『キル・シティ』も同様の理由でリリースに関わっている[3]。
- ^ ベン・エドモンズは「そういう作品になると期待していた。」と語っている[2]。一方、ウィリアムソンは「そういう注文は受けたが、彼らの言う「パンク」の定義が曖昧だったので、あまり気にしなかった」と語っている[3][4]。
- ^ 10曲では不足だったため、レコーディング中もイギー、サーストン、ウィリアムソンによる作曲活動は続いていた。このため、イギーは午前3時に大音量でギターを鳴らすといった作曲活動を繰り返し、様々なホテルを追い出された[2]。
- ^ ジャッキー・クラークはアイク&ティナ・ターナーのバックバンド、アイク&ティナ・ターナー・レヴューのギタリスト。サーストンがこのバンドにゲスト参加した際に知り合った。本作ではベースを担当しているが、本作リリース後のツアーではギターに戻っている[2]。
- ^ イギーとクラウス・クリューガーは当時ともに西ベルリンに住んでおり、プライベートで知り合いだった[2]。
- ^ ウィリアムソンは一時期パラマウント・スタジオにレコーディング・エンジニアとして在籍していたことがあり、その関係でスタッフやスタジオ・ミュージシャンたちと付き合いがあった[2]。
- ^ 当時のイギーの恋人、エスター・フリードマンによれば、マネージャーのピーター・デイヴィスはイギーの荒れた生活に付き合っているうちに薬物依存になってしまい、それ以降、ビジネスの相手としては当てにならなくなったという[2]。
- ^ 「ドント・ルック・ダウン」と「エンドレス・シー」ではウィリアムソンがギターを弾いているが、それ以外の曲ではスコット・サーストンがギターを担当した。[4]
- ^ この2曲のウィリアムソンのギター演奏に立ち会ったメンバーはほとんどいなかったようで、ドラムスのクラウス・クリューガーは次作『ソルジャー』の準備段階でウィリアムソンのギター演奏を初めて生で聞いたと語っている[2]。
- ^ イギーはウィリアムソンが全面的に作曲にも演奏にも関わることを期待していたが、音楽活動を再開する気のなかったウィリアムソンは演奏も作曲活動もやむを得ない状況にならない限り断っている[注 10][注 11]また、プライベートでもイギーと距離を置き、イギーが再開していたドラッグにもアルコールにも付き合わなかった[2]。
- ^ ビルボード総合チャート最高位186位[5]。
- ^ 当時のザ・ストゥージズは『ロー・パワー』が商業的に失敗し[注 13]、指示を無視した行動に手を焼いた所属事務所メインマン[6]から解雇されるという境遇に置かれていたが、デイヴィスは副社長スティーヴ・ハリスの提案を受け入れて『ロー・パワー』を改めてプロモーションするためのツアーの実行に同意した[2]。
- ^ クライヴ・デイヴィスはコロムビア社長時代にザ・ストゥージズを擁護した[注 14]にもかかわらず、バンドが商業上失敗に終わったためにイギー作品のアメリカでの商業的価値に疑問を抱いており、本作のアメリカ発売を確約しなかった。この決断がアリスタにおけるイギーのキャリアを不安定にさせるきっかけとなった[2]。
- ^ ただし、皮肉にもエドモンズは本作リリース前にアリスタを離れ、EMIに移籍していた[2]。
- ^ イギーの英語版Wikipediaでは、オーストラリア、ニュージーランドといったオセアニア方面における本作のチャートアクションは良かったとの記載がある。実際にニュージーランドでは16週にわたって50位以内にチャートインしていたことが確認できる[25]。
- ^ イギーとグレン・マトロックが在籍していたバンドリッチ・キッズのエージェントが同一人物(ジョン・ギディングス)で、イギーはその人物からマトロックを推薦された[29]
- ^ ブライアン・ジェームズ以外のメンバーはグレン・マトロック、クラウス・クリューガー、アイヴァン・クラール[2]。
- ^ アイヴァン・クラールはパティ・スミス・グループ、グレン・マトロックはセックス・ピストルズに在籍していた。
脚注
[編集]- ^ a b Deming, Mark. “New Values - Iggy Pop | Songs, Reviews, Credits”. AllMusic. 2021年5月5日閲覧。
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- ^ a b “The Stooges: James Williamson Interview | Features | Clash Magazine”. Clashmusic.com (2010年3月30日). 2021年5月5日閲覧。
- ^ a b “JAMES WILLIAMSON: THE PKM INTERVIEW!”. PLEASE KILL ME. 2019年12月22日閲覧。
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外部リンク
[編集]- New Values - Discogs (発売一覧)