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トゥルゲン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トゥルゲン(モンゴル語: Tölögen/Төлөгэн、? - ?)とは、15世紀前半に活躍したモンゴルジン=トゥメト部の首長。明朝の史書には脱羅罕/脱羅干、或いは阿剌忽知院Aqalaqu ǰiün[1]と記される。モンゴル年代記の1つ、『アルタン・トプチ』では「サイン・トゥルゲン(Sayin Tölögen)」とも称される。

概要

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生い立ち

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モンゴルジン=トゥメト部の前身はチンギス・カンの弟カチウンの末裔が統治する遊牧集団で、これを明朝では卜剌罕衛、モンゴル側ではチャガン・トゥメンと呼称していた。『アルタン・トプチ』によるとトゥルゲンの父は「トゥブシン(Tübšin)」であるが、この人物は永楽2年(1404年)に明朝の史書に登場する[2]「土不申」に相当すると見られている。この頃チャガン・トゥメンは隣接するウリヤンハイ三衛に服属しており、トゥブシンも三衛の1つ福余衛の都指揮僉事に任ぜられている。

チャガン・トゥメンやウリヤンハイ三衛は東方でトゥングース系民族のウジェと接しており、これを配下に置いて「オジェート」と称していた。トゥブシンの家系はこのオジェートを率いる長であり、そのためトゥブシンの子孫が率いる集団は「モンゴルジン(モンゴルに似た者達)」と呼称された[3]

来歴

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卜剌罕衛は代々ノーン河を遊牧地としていたが、エセン・ハーンのモンゴル統一・短期間の即位と死という混乱の中でウリヤンハイ三衛とともに南方に移住してきた。この時の卜剌罕衛の長はカチウンの末裔ドーラン・タイジで、率いる遊牧集団はモンゴル語で「ドローン・トゥメン(7万人隊)」と呼称され、転じて「ドローン・トゥメト(トゥメトはトゥメンの複数形)」、略して「トゥメト」として知られるようになった。トゥブシンの子(或いは孫)トゥルゲンはドーラン・タイジの腹心の部下であり、「モンゴルジン」集団を率いる長でもあった[4]

ドーラン・タイジはエセン・ハーン死後の混乱の中で一挙に勢力を拡大し、1465年にはハラチン部のボライと組んでマルコルギス・ハーンを弑逆し、その後はオイラトオシュ・テムルと組んでモーリハイと対立した。この間トゥルゲンもドーラン・タイジと行動を共にしており、成化6年(1470年)にはドーラン・タイジと連名で明朝に朝貢している[5]

モンゴルジン=トゥメト部の領主として

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1470年代に入ると西方出身のベグ・アルスランオルドス地方に移住し、ボルフ・ジノン及びマンドゥールンと同盟を組んだ。ベグ・アルスランに擁立されてハーンに即位したマンドゥールンは、長らく分裂状態にあったモンゴルの再統一に着手した。その手始めとしてマンドゥールン・ハーンは「マルコルギス・ハーンの仇を討つ」と称してドーラン・タイジを攻め、これを殺害した。

この時マンドゥールン・ハーンはトゥルゲンを味方に取り込んでおり、モンゴル年代記はマンドゥールン・ハーンがトゥルゲンの息子ホサイに自分の娘に嫁がせたことを記し、明朝は卜剌罕衛がマンドゥールンと「和親」したため明朝への通交を控えたと記している[6]

これ以後、トゥルゲンはマンドゥールン・ハーン腹心の部下として知られるようになり、これを明朝は「満都魯部下大頭目脱羅干(マンドゥールンの部下の大頭目トゥルゲン)」と表現している。マンドゥールン・ハーンとベグ・アルスランが対立した時には、トゥルゲンがベグ・アルスランの「族弟」イスマイルと協力してベグ・アルスランを殺害した[7]。また、『アルタン・トプチ』は「トゥルゲンがある時ベグ・アルスランに肉を煮たスープを所望したところ、ベグ・アルスランは煮立ったスープを差し出した。知らずに口をつけたトゥルゲンはスープの熱さに驚いたものの、はき出しては恥だと思って飲み干してしまい、口内の皮が破れてしまった。これを恨みに思ったトゥルゲンはいつかこの復讐を果たさんと誓い、後に自らベグ・アルスランを殺害した」という逸話を伝えている[8]

成化16年(1480年)前後に、トゥルゲンはイスマイルとともに亡くなったマンドゥールン・ハーンに代わってバト・モンケを擁立し、これを「ダヤン・ハーン」と称した。ダヤン・ハーンが幼い頃はイスマイルとともにダヤン・ハーンを傀儡とし、ウリヤンハイ三衛を征服するなど勢力を拡大した[9][10]

弘治元年(1488年)、ダヤン・ハーンが明朝に使者を派遣した時、トゥルゲン(知院脱羅干)はダヤン・ハーンの部下の中で第四位に位置づけられている[11]。トゥルゲンはダヤン・ハーンの治世の半ばに亡くなり、モンゴルジン=トゥメト部首長の地位は息子のホサイが継いだ。しかしホサイはダヤン・ハーンに逆らって討伐を受け、それ以後モンゴルジン=トゥメト部はバルス・ボラト及びその息子アルタン・ハーンの家系が統治するようになった。

モンゴルジン首領の家系

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  • トゥブシン(都指揮僉事掌福餘衛事土不申/Tübšin)
    • アカラク知院トゥルゲン(脱羅罕阿剌忽知院Tölögen Aqalaqu ǰiün/Sayin Tölögen)

脚注

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  1. ^ Aqalaqu ǰiünとは、「第一知院」或いは「首知院」のモンゴル語訳。元代-北元時代の知院(知枢密院事)は四階級に分類されており、それぞれAqalaqu(第一)、ded(第二)、dötöger(第三)、dorben(第四)と呼ばれていた。
  2. ^ 『明太宗実録』永楽二年四月己丑「指揮蕭上都等自兀良哈還……安出及土不申倶為都指揮僉事掌福餘衛事……」
  3. ^ Buyandelger1997,184頁
  4. ^ Buyandelger1997,146-147頁
  5. ^ 『明憲宗実録』成化六年二月壬戌「大同総兵官彰武伯楊信奏、虜酋脱脱罕・阿剌忽知院遣使打蘭帖木児等二百五十人、貢馬騾七百餘匹。諭令止許二十餘人来朝、餘留彼処。祗待上等馬選進次等給軍騎操餘聽軍民互市」
  6. ^ Buyandelger1997,182-184頁
  7. ^ 『明憲宗実録』成化十五年五月庚午「福餘衛都指揮扭歹等奏報、迤北癿加思蘭為其族弟亦思馬因所殺。……満都魯部下大頭目脱羅干等不分与亦思馬因謀殺之、遂立亦思馬因為太師。亦思馬因者其父毛那孩曾為太師、故衆心帰之也」
  8. ^ 但し、『アルタン・トプチ』は誤ってベグ・アルスランの殺害をダヤン・ハーンの治世のこととしている。実際にベグ・アルスランがトゥルゲンに殺されたのは、『明実録』が伝えるようにマンドゥールン・ハーンの治世の末期、1479年のことである
  9. ^ 『明憲宗実録』成化十六年四月「斬虜寇卯斤於市。卯斤乃脱羅罕阿剌忽知院部下也。犯大同辺為官軍所獲法司論當凌遲処死命斬之」
  10. ^ 『明憲宗実録』成化十六年十月壬申「朶顔衛入貢夷人歹都報、北虜亦思馬因領衆東略泰寧・福餘二衛。又云、虜酋脱羅干行営去大同猫児荘約遠五程。……」
  11. ^ 『明孝宗実録』弘治元年九月乙丑「迤北伯顔猛可王遣使臣桶哈等来貢其使、自一等至四等者凡十九人。阿児堕脱歹王及脱脱孛邏進王及知院脱羅干、阿里麻……」

参考文献

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  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
  • Buyandelger「満官嗔-土黙特部的変遷」『蒙古史研究』第5辑、1997年