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デヴィッド・O・セルズニック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デヴィッド・O・セルズニック
David O. Selznick
David O. Selznick
本名 David Selznick
生年月日 (1902-05-10) 1902年5月10日
没年月日 (1965-06-22) 1965年6月22日(63歳没)
出生地 ペンシルベニア州ピッツバーグ
死没地 カリフォルニア州ロサンゼルス
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
配偶者 Irene Mayer Selznick(1930–1948)
ジェニファー・ジョーンズ(1949–1965)
受賞
アカデミー賞
アービング・G・タルバーグ賞
1939年 映画界への貢献に対して
ヴェネツィア国際映画祭
チネチッタ杯(1948年)
1946年白昼の決闘』の製作に対して[1]
その他の賞
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デヴィッド・O・セルズニックDavid O. Selznick1902年5月10日 - 1965年6月22日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ出身の映画プロデューサー脚本家

略歴

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父親のルイス・J・セルズニック(1870〜1933)は、キエフに生まれ、イギリスを経て、アメリカへ移民。ピッツバーグで宝石商となり、1912年にユニヴァーサル映画に勝手に机を持ち込み、映画ビジネスを始めたとの逸話がある。デヴィッドの兄に大物エージェントのマイロンがいる。叔父が同名だったので区別の為にミドルネーム風に「O」を追加したが、この文字には何の意味もないという。

コロンビア大学で学び、1923年に父親の会社が破産するまで映画の製作、配給、宣伝を学ぶ。1926年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに入る。父親のルイスと仲が悪かったルイス・B・メイヤーは反対したが、興行面で差配を振るうマーカス・ロウ(ロウズ)の右腕だったニコラス・シェンク(Nicholas Schenck)が後押しした。ちなみにセルズニックはメイヤーの娘のアイリーンと交際し後に結婚した。

撮影所でアーヴィング・タルバーグと衝突し、2年後にパラマウント映画に移る。ここでも総支配人のB・P・シュールバーグ(バッド・シュールバーグの父)と衝突。その3年後、今度はRKOに移り、『キング・コング』などを制作。タルバーグが病気療養中に義父のいるMGMに。この復帰劇はsun in row(son in law)と揶揄された。野心家で人の下につく事を好まず、1935年に独立。セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズを設立した。アイリーンとは1948年に離婚したのち、1949年に女優のジェニファー・ジョーンズと再婚。

『スタア誕生』('37)、『ゼンダ城の虜』('37)の後、超大作の『風と共に去りぬ』('39)とイギリスからヒッチコックを呼び撮らせた『レベッカ』('40)で2年連続アカデミー作品賞を獲得した。

完璧主義者としても知られ、作品に関しては監督に委任する方針を取らず、『風と共に去りぬ』では、ジョージ・キューカーからヴィクター・フレミングへ交代させた上、サム・ウッドにも分担させた。ヒッチコックは『レベッカ』について「あのオスカー(アカデミー賞作品賞)はプロデューサーのセルズニックに与えられた賞だ」[2]と述べたほどである。

うるさく口出しする方針が嫌われて、監督からも俳優からも疎んじられるようになり、契約を拒まれ、ろくに制作もできなくなるハメになった。最後には多額の負債を抱えて破産寸前にまでなり、精神科医にかかった事もあった[要出典]

妻であるジェニファー・ジョーンズとの関係は良好だった。ジョーンズは彼と結婚している間の1955年、『慕情』で主役を務めたが、共演者であるウィリアム・ホールデンのことを嫌い「夫が見たらどう思うか」と言っていたという[要出典]

セルズニックの能力は、映画の絵画的な美しさにおいて強く発揮されたという評価・逸話もある[要出典]

彼のプロデュース作品の短いテーマ曲は映画音楽の作曲家アルフレッド・ニューマンが担当した。オープニングではそのテーマ曲に乗せて社屋が映し出される。

1939年度のアービング・G・タルバーグ賞を受賞した。

主なプロデュース作品

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 白昼の決闘(1946年)受賞 IMDb 2017年7月3日閲覧。
  2. ^ 定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー (改訂版). 晶文社. (1990-12-10). p. 121 

外部リンク

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