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ディノ・デ・ラウレンティス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ディノ・デ・ラウレンティス
Dino De Laurentiis
Dino De Laurentiis
本名 Agostino De Laurentiis
生年月日 (1919-08-08) 1919年8月8日
没年月日 (2010-11-11) 2010年11月11日(91歳没)
出生地 イタリア王国の旗 イタリア王国 トッレ・アンヌンツィアータ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
国籍 イタリアの旗 イタリア
配偶者 シルヴァーナ・マンガーノ(1949年 - 1988年)
マーサ・シューマッカー(1990年 - 2010年)
著名な家族 ルイジ・デ・ラウレンティス(弟)
ヴェロニカ・デ・ラウレンティス(娘)
ラファエラ・デ・ラウレンティス(娘)
アウレリオ・デ・ラウレンティス(甥)
ジャーダ・デ・ラウレンティス(孫)
受賞
アカデミー賞
外国語映画賞
1956年
アービング・G・タルバーグ賞
2000年 映画界への貢献に対して
ヴェネツィア国際映画祭
栄誉金獅子賞
2003年 映画界への貢献に対して
その他の賞
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ディノ・デ・ラウレンティス(Dino De Laurentiis, 1919年8月8日 - 2010年11月11日[1])は、イタリア出身の映画プロデューサーディーノ・デ・ラウレンティスの表記もある。本名はアゴスティーノ・デ・ラウレンティス(Agostino De Laurentiis)。

略歴

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ローマで映画製作を学んだが、第二次世界大戦勃発により中断。1940年の『L'ultimo Combattimento』より150本以上の映画のプロデュースを手掛けている。インディペンデントのプロデューサーとしてはカルロ・ポンティとともに業界最高峰の人物で、生きる神話の一人とも呼ばれた。

1957年、『』でアカデミー外国語映画賞第29回)を受賞[2]

1962年(昭和37年)3月に来日している。

2001年、第73回アカデミー賞アービング・G・タルバーグ賞を受賞[3]

2010年11月11日、ロサンゼルスで死去。91歳没[1]

私生活

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1949年にイタリアの女優シルヴァーナ・マンガーノと結婚。4人の子供をもうける(次女は映画プロデューサーのラファエラ・デ・ラウレンティス)が、1989年に死別。最後の妻は映画プロデューサーで40歳近く年下のマーサ・シューマッカーで、2人の子供がいる。

主なプロデュース作品

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脚注

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  1. ^ a b “ディノ・デラウレンティス氏死去 映画プロデューサー”. 47NEWS. 共同通信. (2010年11月11日). オリジナルの2011年12月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111222143159/https://www.47news.jp/CN/201011/CN2010111101001050.html 2020年7月16日閲覧。 
  2. ^ THE 29TH ACADEMY AWARDS / 1957” (英語). Oscars.org. AMPAS. 2024年3月21日閲覧。
  3. ^ THE 73RD ACADEMY AWARDS / 2001” (英語). Oscars.org. AMPAS. 2024年3月21日閲覧。

外部リンク

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